しもた屋之噺(104)

杉山洋一

7月28日。ボローニャから送られてきた昨年の演奏会録音(http://www.magazzini-sonori.it/esplora/exitime/omaggio_franco_donatoni.aspx)に耳を傾けつつ、260年前の今日、65歳で亡くなったバッハを想います。未完の「フーガの技法」のオーケストラ編作を、やはり未完のまま残してドナトーニが斃れたのは2000年8月17日。この夏を彷彿とさせる炎暑がミラノを襲った10年前のことです。

最初は手をこまねくばかりだったドナトーニの奇妙な編作は、時を経て聴き返すと、思いがけない感銘を与えてくれました。ヴェネチアのガブリエリを想起させるうず高く積まれた金管の歪な集積、拍節感を砕く弦楽器のクラスターのくさび。丹念に紡ぎこまれた木管の綾に静かに沈むバッハの面影。ドナトーニが愛した楽器群、チェンバロにピアノ、ハープに鍵盤打楽器から浮上がるフーガは、青々と繁る木々の葉のまにまに、明るい木洩れ日が渉ってゆくようです。

ずっと書き続けていれば、頭で書いていたこともいつしか手癖となって、何も考えずに書けるようになると話していたから、何十年もバッハの対位法を教えていたドナトーニが、一つずつバッハのフーガをなぞるとき、そこには自動書記的に無数の音の揺らぎが生じたのかも知れないし、あるいは確信犯的なアプローチも存在したかもしれませんが、殆ど無感情、無条件に客体として音と向き合う強靭で透徹な感性は、ドナトーニの音楽そのものでした。

和声や対位法の課題を解くように無意識に音を並べながら、作曲家の身体は次第に降霊術師のように、刳りぬかれた樹木さながらの「もぬけの殻」となり、ついには透明に耀く刃金となって、目に見える何も信じぬ絶対的不信と、鳴らされた音のみを享受するロッシーニ的快楽観との矛盾が、せめぎ合いつつ音楽のバランスを器用に裡側から支えているのかもしれません。

彼のように、感情を込めずして感情を表出させることの難しさに何時も不甲斐ない心地に苛まれます。つい感情にほだされて表現が脆弱になり、結果的に表面的で無意味な刹那が剥き出しになります。それすら甘受し自らを虚へと駆り立ててゆく勇気があれば見えてくるものもあるのかもしれませんが、今は感情が感情に打ち消されてゆくのを恨めしく眺めるばかりです。

演奏に関わるようになって暫く経つと、「こうしたらどうなるか」未知数を掛けながら作曲する場合と、かかる疑問を呈さず直接定着してゆく場合と、作曲の傾向が大きく二つに分けられることに気が付きます。同じ作曲家で作品や時期によって傾向は変化するでしょうし、前衛的、保守的とも割り切れません。無論、作品の価値とは無関係だと思います。ドナトーニは、不確定性や否定的自動書記による作曲から所謂ドナトーニ語法へたどり着くまで、常に未知数を追いかけ作曲していた印象があります。ヨーロッパの前衛音楽やベリオへの憧憬の念もあったでしょうし、時代背景に強迫的に背中を押されていたのかもしれません。

そうして無言で書き続けた末、長いトンネルを抜けたドナトーニに残ったものは耳や頭脳でもなく、チュシャ猫のような一本の鉛筆が握られた手癖に過ぎなかったのかも知れません。作曲中何を考えているのか尋ねると、「できるだけ間違えないよう音符を書くこと」と答えてくれたことが忘れられません。和声や対位法の課題と同じで、奇をてらうでもなく、自らを排して丁寧に音を並べてゆく。音は一切観念的な意味は持たないアルファベットで、そこでは恣意的な感情を消すほどに、却って明確になる輪郭があるのは、愛していた禅の思想にも通じるところがあります。

ドナトーニ/バッハ「フーガの技法」の前半をミラノで世界初演した折、傍らに居たルチアーナは「当時フランコは耳が遠くてよく聴こえないようだった」と話してくれましたが、ドナトーニ自身は亡くなる直前までバッハへの畏敬の言葉を度々口にしては、最後まで書き上げられなかったことを悔やんでいました。

ベネチア・ビエンナーレのドナトーニ追悼演奏会のため、ヴェニスとドナトーニに所縁の深い民謡「La Biondina in gondoleta」を使い作曲しながら、同じく新作を寄せるゴルリやマニャネンシ、アラッラのことを考えます。それぞれ違う場所で異なる人生を歩みながら、こうした機会に思い出したように再会する。遠心分離機にかけられたように散り散りになっても、絡め取られる同じ糸が身体からのっぺりした影法師のように伸びているのかも知れません。共有する原体験に端を発する感情を胸に、彼らの作品を演奏する歓びを嚙みしめつつ。

(7月28日三軒茶屋にて)