しもた屋之噺(124)

杉山洋一

今朝、息子が目を覚ますと、開口一番父さんがイエスの処へ行った夢を見たと言うので、愕いてしまいました。イエスが天から降りて来て、父さんを連れ一緒に天に昇って行き、天国でイエスやマリアと暫く話をした後、父さんが一人で降りてきてほっとしたそうで、天国に行けない人もいるから、その分恵まれているそうです。親の死ぬ夢は縁起が良いよいとかで何度か見たこともありますが、自分が神さまから呼ばれて天に昇り降りてきた夢を見たと7歳の息子から聞かされるのは、何とも言えない気分です。

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3月某日14:30 プーリア定食屋「まあいい屋」にて
何とかMちゃんの録音を終えたところ。息子やY君が録音中に来訪。自宅から運河を隔てた向いのスタジオでの録音。10年前家人のCDをこのスタジオで録音したが、そのすぐ前に住むことになるとは想像もしなかった。現代音楽の録音風景なんぞ子供には詰まらないと思いきや、ホースを吹いたり、プラスティックボードを撓ませたる光景に目を輝かせている。お蔭でギロだと言って凹凸を手当たり次第に擦り親を困らせている。
チューナー片手に、壜の蓋で水を減らしたりしてワイングラスを調律すると、ワイングラスにも鳴り易かったり、鳴り難かったりと様々あって、擦る人によって音が変わったりする。足りない音を探して、楽譜とチューナー片手に近所の喫茶店を周って、グラスを貸してもらう。スタジオの数件隣の惣菜屋の小さなショットグラスは素晴らしかった。

Mちゃんは運河沿いのこの定食屋の特製パスタ「ミンキアータ」を厭きずに毎日食べた。これは手打ちのオレッキエッテをトマトとセロリとペコリーノチーズ、それに唐辛子の油を手早くボールで和えたもの。菜食主義者のディレクターのC氏も、食べられるものが見つかって喜ぶ。駱駝の風貌のパリジャンT氏は、「まあいい屋」の馬肉ステーキを駱駝のような口でムシャムシャ2人前平らげた。この辺りは、古き良きミラノの運河風情が残る貴重な界隈だが、最近水は抜かれて、運河の底をブルドーザーが闊歩して清掃している。水が無くなって川藻が腐ったのか臭いが鼻をつく。

4月某日
一週間近く朝から晩までスタジオに篭っていたので、コモ湖へ出かける。普段ならコモから汽船に乗るのだが、今日はバスでアルジェーニョまで出かけ「エミリオ亭」で昼食にする。コモでよい食事にありつけた例がなくて、アルジェーニョ育ちのCの忠告を有難く受け入れる。確かに食事も風景もずっと質が高く、湖上から眺める風景と違って、湖面よりずっと高いところを走るバスの車窓には、雄大な眺望が広がった。
息子はトマトソースのニョッキと家人は牛肉煮込みとポレンタ。当方は田舎風のチーズとキャベツのリガトーニ。主菜はコモ湖で獲れたペッシェ・ペルシコとラヴァレッロという湖水魚のグリル盛合わせをタルタルソースで頂く。ラヴァレッロはサケ科で、学名コレゴヌス・ラヴァレヌス。サケ科だから美味な筈だと素人らしい合点がゆく。ペッシェ・ペルシコは、スズキ目に属する魚で、スズキ目の学名ペルチフォルメスそのものが「ペッシェ・ペルシコのような魚」を意味する。スズキの仲間なら美味いに違いないとこちらも素人らしい納得をする。日本の鱸も川を遡上するそうだから、何時しかコモ湖に住みついたとて不思議ではない。

ところで、イタリアでは鱸を北部ではブランズィーノ、南部ではスピーゴラと呼ぶ。いつも食べていて勝手に似て非なるものかと思っていたが、全く同じ魚だった。北部で食べると鱸はリグリア辺りのオリーブ油で食べる落ち着いた味わいで、南部で食べれば、軽くさっぱりしたオリーブ油に熟れた甘いトマトやオリーブと一緒にソテーされて開放的で味わいが楽しめる。地方によっては鱸をペッシェ・ルーポと呼ぶのだそうで、直訳すれば「狼魚」になる。日本でもオオカミウオと呼ばれる魚がいるけれど、あれと同じで、イタリアでも一般的にはペッシェ・ルーポはオオカミウオを指す。確かにオオカミウオもスズキ目に属しているので、少し話がややこしい。

息子は学校の地理の授業で、「青ずきんちゃん」を読んできたと大得意だ。青ずきんは、燈台に両親と住んでいて、ある日海の向こうのおばあさんに贈り物を届けるため一人ボートで大海原へ漕ぎ出す。すると海から「オオカミウオ」が姿を現し、何とか言い包めて青ずきんを食べようとするが、うまくゆかない。じゃあ向こう岸まで競争しようというオオカミウオの提案を、最後には青ずきんも受容れるが、どうしても青ずきんよりオオカミウオが早く先に岸に着いてしまうので青ずきんを食べられない。この下りが子供たちには一番面白いらしい。最後にはオオカミウオはおばあさんにおびき寄せられ、岩の隙間にはめられて出られなくなってしまう。同じ地理の授業で、先日は「黄ずきんちゃん」を読んできた。

アルジェーニョには小さな船着場の前に修復されたばかりの教会もあって、オルガンが見事だった。水中翼船でコリコまでいきレッコ経由の電車に乗りミラノに戻る。息子は発着時に水中翼船の翼が思い切り飛沫を吹き上げるたび大喜びしている。リストが滞在していたベッラッジョやヴァレンナを過ぎると、乗客は対岸に渡る地元住民のみ。

4月某日
拙作の演奏会と息子の社会見学を兼ね、朝8時の特急でローマへ出掛けた。特急の喫茶室で朝食をとる。朝の特急は使われていない食堂車を開放していて、広々として心地よい。ローマでは20年以上前に、何週間か一人で滞在したアウレリア街道沿いの宗教施設に泊まる。当時は多くの尼僧がせっせと切り盛りしていたが、今はエマヌエル会の経営に変わって昔と全く同じ受付に座っているのが若い男性だったのが少し不思議に映った。
ヴェネチア広場から歩いていった日本文化会館で、平山美智子先生と東北の写真展を眺めながら立ち話。東京大空襲で永福町のご実家に焼夷弾が5発落ち、火の付いた爆弾を手袋をはめた手で直接掴み、コンチクショウと叫んで庭に放り出した話や、空襲が終わると周りは全て焼け落ちていたという話。戦後進駐軍の演奏会で、シューベルトのアヴェマリアをドイツ語で歌って気風を買われた話や、ブーレーズのプリ・スロン・プリの途中で図形楽譜になることを作曲者に批判した話。シュトックハウゼン父子の音楽観の違いについてなど話は尽きない。

リハーサルが終わり路面電車で息子をヴァチカンに連れてゆく。この街に法王が住んでいるというと息子は興奮していた。一方家人は、ヴァッリ教会の正面の聖アンドレアのX字の十字架図と、イエズス教会の天井画に心を打たれている。ザビエルの手の剥製を見てから、ここに保存されている長崎のイエズス会修道士殉教図を見たいと門番に言うと、ずっと日本にあって、何時戻ってくるかさえ分からないねと大笑いされる。聖マリア・デル・マッジョーレ教会で、息子は横臥するキリスト像に寄り添い熱心に祈る一団の礼拝堂につかつか入り、黙って祈っているので家人と流石に顔を見合す。こちらに戻ってくると真面目な顔で「イエスと話してきた」などと言う。先日拙宅に滞在していた家人の生徒さんが「小学校低学年の頃まで、死んだ人が目の前に座っているのが見えていたんです、今から考えると不思議なんですが」と言っていたのを思い出した。礼拝堂の前で、通りがかりの女性に話しかけられる。「ああ、何と美しいお子さんなのでしょう。神のご加護がありますように」。

ミラノに戻る直前、テルミニから105番でアレッシまで行き、雑然とした下町の一角にある「牧歌亭」で、チョコレートと一緒に練り上げたイノシシのパテ、玉ねぎのスープ、生ハムと見まがうカルパッチョなど、丹精なご馳走にありつく。玉ねぎのスープを口に運ぶと、余りの美味しさに涙がこぼれた。冬しか採れない平たい玉葱を使うのだそう。ラツィアーレのナロー電車でテルミニに戻ると、車内は外人ばかりでイタリア人は一人もいない。

息子は思いがけずローマ小旅行を満喫したようで、ミラノに戻った翌日、早速自分でコロッセオの模型を作った。窓の形も正確で8階建ての作りも、円形が少し欠けC型になっているところまで丁寧に再現してあって、その観察力に愕く。キリストを殺した人の名前は誰かとか、ロンギヌスが刺した脇腹の傷はどうだとか嬉々として話す息子は、何だか自分から偉く遠い不思議なものに見えてくる。小旅行中、家人は、どうしてローマは古ぼけたものばかり残しているのか、これではこの先発展のしようがないと不平を繰り返していた。

4月某日朝 雨 キャヴェンナよりコリコへ向かう列車内にて。
朝ホテルから切立った山々を見上げると、美しい朝靄に幻想的に包み込まれている。モーツァルトの「レクイエム」の和声分析を終えた。途中のピカルディ終止で、和声学的な分析と実践的な音楽解釈との間で、どう方向付けをしようか戸惑う。「レクイエム」は初めてだが、「大ミサ」の経験が役立っているのかもしれない。

昨日バスでスイス国境を越えると、マローヤ峠の手前までドイツ語とロマンシュ語でアナウンスしていたのが、突然ドイツ語とイタリア語のアナウンスに変わる瞬間が新鮮だった。ロマンシュ語は、モンツァやブルゲーリオに住んでいた頃よく聞いたロンバルディア方言に似た、「プロシム・フェマーダ(proxim fermada)」と暗く濁った響きが、峠を越えて「プロッシマ・フェルマータ(prossima fermata)」と明るい響きにかわる。バスの運転手は、きついロンバルディア訛りで、隣に座ったおばちゃんとずっと話込んでいた。通ってきた道を振り返ると、つい先程まで居た街が、山の遥か彼方に見えていて、気がつけば周りを降りしきるばかりだった雪は、何時しか強かに芝生を打つ驟雨に変わっていた。

(4月28日ミラノにて)