しもた屋之噺(59)

杉山洋一

今月も文字通り気がつくとあっという間に過ぎてしまい、やり残しの仕事ばかりがこちらをうらめしそうに眺めています。この所朝の4時過ぎに起きて、子供が起きるまでの僅かばかりの貴重な時間を、自分のために使っているのですが、朝の霧がとても濃くなり、秋の深まりを感じます。一面が乳白色に包まれて、庭の木のシルエットが黒く浮き上がるのも美しく、朝9時過ぎ、庭からへろへろの柵ひとつ隔てた小学校の校庭で、子供たちが歓声をあげて体操を始めるころ、霧もすっと消えてゆき、空にぽっかりうそのような青空が顔をのぞかせるのも、どことなく愉快で、思わず顔がほころびます。

先週の今頃は、名古屋の中部国際空港で朝一番の成田ゆきに乗るため、見事な朝焼けのなか、何十年かぶりに名鉄電車に乗っていました。前日、名古屋で多治見少年少女合唱団の皆さんが歌ってくださった、「たまねぎの子守唄」を聴きに、ほんの4日間だけ日本へ戻ったからです。春に東混で初演した「ひかりの子」と同じ、スペインの近代詩人エルナンデスのもっとも有名な詩の一つ、「たまねぎの子守唄」をテクストに使い、フランコ政権下、政治犯として獄死する監獄で、見たことすらない7ヶ月の次男の写真を眺め暮らし、貧しさゆえに、たまねぎとパンしか口に出来ないと嘆く妻の手紙に応えて書かれた「たまねぎの子守唄」は、誰しもの心を穿ちます。

たまねぎはじっと閉じた
貧しい霜。
お前の昼と
僕の夜が生んだ霜。
空腹とたまねぎ
黒い氷と霜
大きいものと円いもの。

空腹の揺りかごに
僕の子供は佇んでいた。
たまねぎの通った血で
乳汁(ちしる)を吸っていた。
でもお前の血には
甘い霜が降りている。
たまねぎと空腹。

褐色の女が月明かりに熔(と)け
揺りかごの上に
一本また一本
細い糸を放っている。
笑え息子よ。
お前が望むなら
月を持ってきてやろう。

我が家のひばりよ
沢山笑え。
お前の笑みは
瞳に耀く世界の光。
この魂がお前の声を捉え
宙を叩くほどに。

お前の笑みは僕を解き放ち
翼をもたらす。
孤独を追い払い
牢獄を消し去る。
口は空を駈け
心はお前の唇に、
明滅している。

お前の笑みは
勝利の剣。
花々とひばりたちの
勝鬨(かちどき)の声。
太陽の好敵手。
僕の骨と愛の
来るべき未来。

羽ばたく翼を纏う身体
睫毛は早く
彩り溢れる人生。
どれだけの五色鶸(ひわ)が
お前の身体から
飛び立ってゆくのだろう!

目覚めると自分は赤子だった。
お前目を醒ましてはならぬ。
僕の口は悲しさに歪んでいるけれど
一枚ずつ翼の羽を
笑みを護(まも)りながら
揺りかごのなか
お前は笑みを絶やしてはならぬ。

広漠と空を駈け
天を亙(わた)るものであれ。
何故ならお前の身体は
誕(う)まれたばかりの空。
もし許されるものなら
お前が辿った道程を
起源にまで立ち戻るものを!

八ヶ月になったお前は
五つのオレンジの花と共に
五つの微(わず)かな
野生を剥き出しにしながら
青春が薫る
五本のジャスミンの花と共に
僕に笑いかける。

それらは明日
並んだ歯の裏側に
お前が武器の芽生えを覚え
歯の底で
身体の芯めがけて
駈け降りる火を認めるとき
口づけの境界線となる。

乳房の重なりあう月のなか
お前は飛んでゆけ。
乳房は悲しみのたまねぎ
お前は満ち足りている。
決して崩れてはならぬ。
何が生じて何が起こるのか、
お前は知らなくてよい。

スペイン文学において、もっとも悲しい名作と讃えられるこの詩は、内容の美しさ、強さだけでなく、エルナンデス独特の、実に豊饒な響きのレトリックの魅力もあります。しかも、この詩は大衆を意図して書かれたものではなく、純粋に狭く暗い監獄のなかから、自分の子供がほほえむ写真のみを胸に、想いがどうか届いてほしいという願いだけを頼りに書かれていて、何度も読み返すと、「父性」と「男性」が痛切に浮かび上がります。

今の自分よりずっと若いエルナンデスに、父のもつ強さと尊厳、男、人間としての生が、深く刻印されることにも、さまざまな思いが巡り、国と民族の存亡のために、命をかけて戦っていた一人の人間の強靭な精神力を思います。この驚くべき強さは、ファシスト裁判で「この頭脳を止めおかなければならぬ」と言わせしめたグラムシを想起させずにはいられません。ちょうど同じ頃、等しい状況下で彼も獄中にあって、自らの子供を見ずして世を去ったのではなかったでしょうか。もちろん、エルナンデスは詩人・活動家であり、グラムシは共産党の頭脳だったわけで、全く違う志向もあって、スペインとイタリアという、人種そのものも似て全く非なる国に生きたのですから、混同は許されませんけれども。

曲はともかく、多治見のみなさんの演奏は、とても素晴らしいもので、子供たちがこんなに真摯に、想いをひとつにしてこの詩に対峙している姿を詩人が見たら、どんなにか喜ぶだろう、そう思いつつドレス・リハーサルを聞いていたら、不覚にも頬を熱いものが伝いました。生まれて初めての経験で、恥ずかしかったですが、周りに誰もいませんでしたから良しとしましょう。曲の質より、詩と演奏に圧倒されたのですが、多治見のみなさんは、原語で歌うと決めてから、単語一つ一つの意味を噛み砕いて理解していって、最後には、スペイン語のもつ強烈なエネルギーを十二分に発散してくれました。人間の声がもつ途轍もないポテンシャルに、あらためて驚かされました。

日本を旅行する機会になかなか恵まれないので、リハーサルのために多治見に一日お邪魔できたのも楽しい思い出です。特に電車が高蔵寺を過ぎたあたりで、途端に深くなる山や川の深い色が日本らしくて、車窓を走る風景にときめきを覚えた子供のころを懐かしく思い出しました。多治見の街の静かで上品な佇まいと、人々の温かさが、自分にとって「たまねぎ」にまた違った意味を与えてくれたように思います。「たまねぎ」を歌っているときの、ひたむきな子供たちの顔が鮮明に頭に焼きついたまま、ミラノへ戻りながら、こういう音楽との付き合い方もあったのだなと、うらやましい気持ちさえ頭をもたげました。掛け値なしに純粋に音楽と向い合えるのが、何の見返りも展望もなく言葉を綴った、エルナンデスにどこか通じるものを感じたからかも知れません。

さて、明後日から始まるノーヴァの譜読みすらまともに出来ていない上に、一昨日は客間のタンスを一人で作ろうと箱を持ち上げたところ滑り落ち、左足の親指をしたたか打って酷い思いをしました。予定では今日、ついに念願の電子調理台が一ヶ月遅れで届くはずで、わびしい簡易調理台と電子レンジに頼る日々から漸く脱すことが出来るか、というところ。エキサイティングな気持ちで朝届くはずの調理台を待っていますが、すでに午後一時。イタリア時間は我慢という言葉を教えてくれます。数日前まで物置と化していた客間も、何とかこの原稿を書ける環境にもなって、夕方ミラノに着く義父たちのベッドメイキングをしてみたら、最低限の人間らしい生活は保証できそうな気もしてきました。今週は家人が留守で、久しぶりに子供と頭をつき合わせて朝から晩まで暮らしていると、意外に理解力が進んでいるなとか、色々発見もあって面白いのですが、やはり夜、寝かしつけていて、気がつけば不覚にもこちらが眠り込んでしまっているのが一番の問題だったりするのです。

(10月28日 ミラノにて)