しもた屋之噺(64)

杉山洋一

2週間と少し過ごしたサンチャゴの街も、朝晩は随分涼しくなってきて、カーディガンを羽織ってちょうど良いくらいです。着いた当初、夜更けまでカフェのバルコニーで話しこむ姿が普通でしたが、秋らしくなった今はめっきり減りました。荷物を纏めてチェックアウトに降りる前に、マッケンナ坂の小さなホテルの一室で原稿を書き始めたところです。

毎日リハーサルやら本番やらに追われ、劇場とゆるい坂を下って50メートルあるかないかのこのホテルと、毎日、昼と夜通い詰めた、渋い顔をしつつ愛想のいい親父がいる階下の食堂しか知らないまま2週間以上暮らして、仕事が終わった昨日初めてアンデスの方へ少し昇った友人宅へ出かけて、サンチャゴの街の広さに驚いたくらいです。

食堂の親父は、浅黒い顔をした60手前のチリ人で、いつも眉間にしわを寄せ渋い顔をしているので、何と愛想のないウェイターかと思っていると、実際とても親切で明るく、皆から愛されていました。冗談を言うときも笑うときも渋柿のような顰め面をしているのですが、典型的チリ人のとんでもない早口で、当初は全く理解できませんでした。一言喋ったかと思うと、実はそこに全センテンスが入っているという感じ。チリ人が早口だと聞いていましたが、親父は特別でした。

或る日、本番に出かけようと衣装カバンをもって坂を上がっていると、お前もう発つのかとすごくびっくりして、これから本番だと答えると、ひどく安心した顔をしたのが印象的でした。そんな優しさからか、何も言う前から大体頼むものが分かっていて、ガス抜きの水を用意しながら、さり気なく勧めてくれるメニューがいつも美味しくて、通い詰めてしまったのです。食べきれないから減らしてくれと頼み込んでも、結局いつもとんでもない量の食事になるのですが、肉も魚もさっぱりしていて、附合せは決まって白米だったので、のんびり食べていれば食べ切れるのです。きれいに片付いた皿を片付けながら、してやったりという顰め面で、親父が笑いかけるのも愉快でした。

チリの人たちは、誰にもこんな独特の人懐こさと暖かさがありました。底抜けに陽気なラテンの印象は皆無に近くて、誰もが真面目で控えめで、人を立てる感じがします。彼らに比べれば、イタリア人のなんとあけっぴろげで楽天的なことか。オーケストラはもちろん、合唱や独唱のひとたち、裏方さんたちや街やホールで声を掛けてくれる観客のみなさんからホテルの従業員まで、誰にも共通する印象でした。

ところで、ヨーロッパで英語という共通語を暗黙に受容れて暮らしていて、それが英語ではなくスペイン語になる世界の存在を実際目の当たりにすると、ちょっとしたショックを受けます。この辺りで喩えるなら、訛ったフランス語などを人懐こそうに話すアフリカ系の人や、フレンドリーに英語を話すアメリカ人やイギリス人がいて、実直そうにドイツ語を話す人がいたり、北欧系のゆるやかなアクセントが心地良い品のいい金髪の人々がいて、そこにバランスよくスペイン語やフランス語、もちろんイタリア語などが混じり、東欧やスラブ系の顔つきの人々も静かに話しこんでいたりして、それが一つの空間のバランスを保っているのですが、分かりやすく言えば、彼らがそのまま揃ってスペイン語を話していると思えばいいわけです。

ああこの人は英語を話すひとだろう、この人はドイツ語を話すひとだろう、と無意識に頭が判断する回路が断たれ、全員そろってスペイン語を話すというのは、彼らが日本人として日本語で暮らしているのを見るくらいのショックでした。ニューヨークのように世界中の人が集まり、それぞれ訛った英語を話して暮らすコスモポリタンな雰囲気とも違って、何代も経たチリの移民文化は今やチリ文化そのものとなって、次元の違う世界に足を踏み入れたかのように、誰もが同じスペイン語を話しているのです。

チリにクラシック音楽がもたらされたのは、19世紀終りのこと。すぐ隣のブエノス・アイレスまでヨーロッパ文化はほぼリアルタイムで届いていたのが、ずっと立ちはだかるアンデスの山々に遮られて、国立オケが生まれたのも1930年代に入ってからのことだそうです。世界大戦前後多くの音楽家が戦火を逃れてアメリカに渡り、チリの音楽文化も急激に発展しましたが、チェリビダッケを初め、特にドイツ系のヨーロッパの音楽家や、バーンスタインやコープランドのような北米の音楽家がサンチャゴに招かれたのも、戦後すぐの頃だったといいます。

特に現代音楽の作曲家たちが話していたのは、自分たちはヨーロッパ移民の子で、ヨーロッパ文化のなかで生まれ育ってきた。ヨーロッパ人たちは揃って、なぜ南米の民族文化を使って作曲しないのかというけれど、それならウィーンの作曲家は今もワルツを書き続けていなければいけないはず。適当にそこらにある素材を安易に使いまわしたジナステラのようなずる賢い作曲家だけが海外で認められるのさ。もちろん、日本の立場とも違うだろう。昔から日本人が培ってきた日本文化というものがある。ここにはそんなものはないのだから。北部にはボリビアと同じインディオ文化があり、南部にはまた別の民族文化もあるけれど、それは別にチリ文化と一般化して呼ぶべきものでもない。

ピノチェの抑圧で発展しかかっていた音楽文化が大きく後退し、ずっと後になって、政権交代した時には、今や果てしない砂漠となった文化に改めて井戸を掘り、根気よく水をくみ上げては丹念に緑を取り戻し、道を作り家を建て、こうして自らの文化を自らの手で培おう償おうとする信念には、開拓者精神に通じる、極めて力強い真実が脈打っていて心を打たれました。長年仕事をしたバーゼルで出世街道を歩むより、故郷の南米で自分がしなければいけない仕事を選んだのさ。時にヨーロッパの豊かさが恨めしくなるが、後悔はしていない。フルートのグィエルモは、そう噛みしめるように話してくれました。

自分の生まれ育った地を離れ、見ず知らずの土地を必死に耕し、そこに自らの文化を営み、育んできた人々は、誰もがこんな途轍もない強さを秘めているのでしょう。この教訓こそ、自分にとって何より大きな収穫だったことは言うまでもありません。バーベキューの用意をしながら両手いっぱいの肉塊を手に、作曲のアレハンドロがグィエルモに話しかけました。あのクリスマスの夜のことを覚えているかい。夏の暑い盛りに皆で夕涼みに庭にでると、どこからともなく訥々とピアノが聴こえてきただろう。何かと思って耳を澄ませば、あの「不屈の民」だった。覚えているかい。

3月26日(チリ・サンチャゴにて)