しもた屋之噺(65)

杉山洋一

ミラノに引っ越して良かったのは、子供が遊べる庭があり、虫や鳥や草木に毎日触れることが出来ることです。大きな木がどんと一本立っていて、特に春になり色々な鳥が毎日遊びにきては、庭の芝をちょんちょん跳ね回って何やら啄ばんでいます。すっかり馴れっこで、水まきしても逃げませんから、二歳になったばかりの息子はチッチ、チッチと大喜びです。

ここはポルタ・ジェノヴァ駅からのびる国鉄の線路脇にあって、庭は低い垣根を隔てて小学校の校庭になっています。朝は子供たちの体育の授業を見ながら朝食のコーヒーをすすったり、垣根のところで、息子が小学校の女の子相手に得意のダンスを披露したり、水まきをしていれば、サッカー少年たちが「ペットボトルに水入れてよ」と集まってきたりするわけです。

カーテンすらない全面ガラス張りで外から丸見えですから、裸で家を闊歩などできませんが、採光は問題ありませんし、お陰で冬も殆ど暖房を使いませんでした。その昔工場だったところを住居に改造してあるので、半円形の大きな分度器のような天井は、当時のままだそうです。ちょうど日本の体育館の天井のような造りを想像して貰えば良いでしょう。一箇所、大きな天窓が開けてあり、ここから朝日が具合よく差し込みます。今は夜明け前で、外の鳥たちのさえずりが最高潮に達しようかと言うところ。ミラノにも、これだけ変化に富んだ鳥がいるものだと感心させられます。実に心地良い住宅には違いないのですが、ひとつ問題があります。
どなたも気軽に拙宅にお上がりになれるのです。

庭の左側には鉄道の線路、目の前は校庭、右側には金網越しに人通りの少ない道路という按配で、パヴィリオンのガラスのブースよろしき開放感溢れる造りです。住むには少々勇気がいるかも知れません。それどころか、家が完成するまで庭壁の向こう、線路ぎわにはジプシーのバラックが建っていたし、夜半や朝方、麻薬中毒と思しき怪しげな通行人が、線路上をふらついているのも見かけます。昨年9月の完成後、既に3軒程並びの家が泥棒にやられていますが、拙宅が物色に値しないのを常日頃から誇示しているからか、幸い被害にはあっていません。泥棒が、熱心に観察しているのは確かですけれども。

5日前の午前1時過ぎ、子供を寝かしつけてから家人と居間で話していると、天井が妙な音をたてました。天窓脇あたりで、むぎゅっというような、重みがかった軋みがしたのです。ふと予感がしてすぐ外に飛び出し、線路脇に顔を出すと、線路脇の壁面に、随分大きな梯子が天井まで架かっているではありませんか。やれやれ天井を這っているのが人間だと分かったので、早速天井のつながっている隣の家に走り、奥さんを呼んでくると、流石に彼女も仰天しています。
「おいお前、何やっているんだ」と叫んだ矢先、慌てふためきながら大柄の男が、どたどたと梯子を降りてきて、生い茂る雑草によろめきつつ、線路に向こうへ逃げてゆきました。

庭から線路まで2メートル半ほど高さがあり、真夜中には飛び降りられず、仕方ないので、近所を巡回していた市の夜間警備員を呼んで状況を話し、並立する8階建てマンションの非常階段からうちの天井を俯瞰しましたが、空の果物籠が放置されているばかりで、人影はありませんでした。どうやら単独犯だったようです。こうして見ると、天井伝いに簡単にマンションに侵入できることがわかり、少なくとも拙宅には興味なかった模様です。警備員曰く、「俺はもう18年も辺りの警備をしているが、事件一つ起きたこともないし落着いたものだ」。こちらは泥棒が入ったから呼んでいるのに、何とも呑気なものです。今までは、警備員がいるからと少しは安心していたのですが、迂闊にあてにも出来ないことが分かりました。
「今晩泥棒が戻ることもないだろうから、安心して寝てください」と相変わらずのんびりした警備員に引き取ってもらい、次の朝早く梯子を取りにゆくと、これがとんでもなく重たい代物で驚きました。間違って通報でもされると厄介だと心配しつつ、梯子を庭壁に架け泥棒気分で家に戻ってから、引き上げて庭の端に片付けました。それから暫く、あの梯子が線路脇から壁に架けてあったのよ、泥棒から盗んだ梯子よ、などと話題になっていました。

それからと言うもの、夜半になると天井が気になって仕方なかったのですが、先ほどのこと、仕事を片付けて漸く布団に入ってまどろみ始めたところ、庭に下りる階段で足音がして、話し声が聞えるではありませんか。先日の今日ですから飛び起きて窓を開けて、「何やってる」と声を上げると、思いがけなく「警察だ」と言うのです。何事かと庭に出ると、果たして制服姿の警官二人が庭の階段のところで、線路の向こうを覗いています。

何でも、追い駆けている犯人が線路に逃げたらしく、ここから線路にどうやって下りられるのか尋ねるので、物盗りの置き土産の梯子がありますと答えると、おおそれは具合良いねと言いながら、泥棒梯子を庭からたらして、するすると降りてゆき、「後でまた上がってくるから、片付けちゃ駄目だよ」と言い放って、懐中電灯片手に線路の向こうへ走ってゆきました。折角の機会なので「先日もこの梯子を使って物盗りが天井にいたのですけどね」、と一応声をかけてみましたが、全く関心を払って貰えませんでした。近くにパトカーも居ませんでしたが、警官二人もどこから入って来たのやら。そろそろ夜も明けようかと言う頃ですが、未だ泥棒梯子から警官が登ってくる様子はありません。

(4月30日ミラノにて)