しもた屋之噺(77)

杉山洋一

このところ、夜半に雨が少し降り午前中には気持ちよく晴れわたることがあって、夜明け前の今も、鳥のさえずりのなか、しとしとと庭の芝をぬらしています。

今月は半ばにサンマリノで仕事をしてきました。ヴァチカンと同じくイタリアの中にある小さな共和国です。駅まで迎えに来てくれるオーケストラのディレクター、マルコに時間を知らせるため、インターネットでチケットを購入しました。ミラノ発、サンマリノ着何時何分。乗り換えはヴェニスの手前のパドヴァ。初めてでかけたので、なるほどパドヴァ辺りから南に走る線に乗り換えてゆくわけかと勝手に納得していましたが、これが大間違い。旅程をメールでしらせると、マルコから折り返しあわてて電話がかかってきて、「サンマリノには駅なんてありませんよ。戦前にはリミニまで鉄道が走っていましたが、何十年も前に廃止されたままです。リミニまで迎えにいきますからね、よろしく」。
無知というのは恐ろしいものですが、イタリアのサンマリノが南の果てだったらまだしも、北イタリアの隣り合わせの州ヴェネトとエミリア・ロマーニャにあったりすると、譜読みでぼんやりした頭にはわけがわかりません。

海水浴で知られるのリミニの駅舎は、心地よい塩梅で古くさく、意外なくらいこじんまりとしていました。マルコの車は素敵なサンマリノのナンバープレートが付いていました。味気ないEUの統一規格のデザインとはずいぶん違う、サンマリノの水色と白の国旗が描きこまれた風格あるナンバープレートで、13年もイタリアに住みながら、今まで一度もお目にかかったことがないことに、少し驚きました。

マルコの車から外の田園風景を眺めつつ、小学校のころ、世界地図を見ながら、リヒテンシュタイン、ヴァチカンやルクセンブルグと一緒に世界のサンマリノの名前を覚えて、国の中に国があるなんて面白いものだ、すごいな、と子供心に心を躍らせた感覚がふと甦ってきました。尤も、こうして話しているのも早口で少し耳慣れない訛りながら普通のイタリア語だし、田園風景もイタリアと変わらないし、国境と言ってもスイスに入るのとは比較にならないほどスムーズで、子供心のときめきは、知ってしまえば少しがっかりしてしまう気もして、そっと取っておきたい気もします。

カーレースのゴールのような国境を越えて、なだら坂をひたすら昇ってゆくと、街の風景が少し違うのに気が付きます。古く朽ちかけた建物はどこにも見当たらず、近代的で少し素っ気ない作りの家が並んでいます。銀行や店並みも、街を走るバスもイタリアとは違うので、外国に来た実感が少しずつ湧いてきます。そうこうするうち坂の勾配も途端にきつくなり、思わず耳がつんと詰まって、熱心に国の生い立ちを話してくれているマルコの声が遠くなりました。しばらく切り立った山を這うように走り、衛兵が警備しているサンマリノの旧市街入口を越し、劇場横に車を横付けしてくれました。

旧市街は一面、白い石で組まれた昔の要塞そのままで、ごみ一つない町には土産物屋と観光客ばかりが目に付いて、理路整然としていました。雑然としたイタリアの喧騒を忘れるほど静かで、高台から眺めると、あたり一面に新緑の丘が波状にうねる向こうに、リミニの海が夕日にきらきらと輝くさまは美しい絵画のようでした。劇場もこじんまりとしていましたが、磨き上げられ掃除もゆきとどいていました。イタリアというよりスイスのイタリア語地域を彷彿とさせます。

オーケストラのリハーサルは午後5時から11時半という珍しい時間配分で、7時半から1時間の食事休憩がありました。食事休憩のあいだも、歌手やソリストたちと練習を続けていたので、マルコが気を利かせて、この辺で一番旨いものファスト・フード!とハムとチーズの出来立てのピアディーナを買ってきてくれました。熱々でシンプルなこのピアディーナの美味しかったこと。思わず、旨いねえというと、周りのサンマリノ人たちが一斉に頷いて満足そうに顔をほころばせました。

旧市街下に広がる城下街ボルゴ・マッジョーレ界隈に着くのは結局0時前で、宿のレストランは終わっていましたが、何でもいいのだけれど、何某か食べられないかな、と言うと、荷物でも部屋に片付けておいで、何か用意してあげるから、ととても気さくで親切に接してくれました。部屋から降りてくると、ほうら美味しいよ!と言って、オーナーのアレッサンドロが大皿いっぱいにチーズやサラミ、パンや食後のケーキまで出してきてくれました。流石にすべては平らげられないだろうと思っていると、アレッサンドロと話し込みながら気がつくと皿は空になっていて、こちらが驚きました。

「サンマリノは工業が盛んで、イタリアなどから工場が進出しているけれど、サンマリノ人にブルーカラーは皆無なので、イタリア人や東欧からの出稼ぎの働き手が毎朝リミニから大量にサンマリノにやってきて、夜にはリミニに戻ってゆくのさ」。
思いがけない言葉にびっくりしました。「ブルーカラーはイタリア人か外国人しかいない」という言葉の上に、サンマリノ人の高い誇りが燦然とかがやいていたからです。聞けば、サンマリノに住む外国人はきわめて少ないとのこと。「そうしなければ、こんなちっぽけな小国はすぐに潰されてしまう。最近はキューバ人妻とか、東欧の女性を奥さんにもらうのがサンマリノ人の間では流行っていてね、確かにキューバ人の奥さんは多いな」。
聞けば、サンマリノに住む滞在許可を得るのは途轍もなく難しいそうで、たとえ男性の外国人がサンマリノの女性と結婚しても、永住権は貰えないそうです。逆に、外国人の女性がサンマリノ人の男性と結婚すれば永住権が手に入るのだそうです。小国として生き抜いてきたしたたかさを垣間見た気がします。

翌日、朝食に降りてくると、見てごらんよ、とアレッサンドロがサンマリノの新聞を見せてくれました。よく指差されたところを見ると、カラー写真を存分に使って昨日のリハーサル風景が2面一杯使って載っているではありませんか。どうも写真を撮っている人がいると思っていましたが、翌日の朝刊に載せるためとは想像もしませんでした。それだけでも驚いたのに、輪を掛けて驚いたのは、翌日の朝刊にも、同じように2面ぶち抜き写真つきでリハーサルの様子が事細かに載っていたことです。何も記事にすることがないからなのかどうか不思議ですが、6月にまたサンマリノに戻る折にでも訊ねてみるつもりです。余りに恥ずかしいので1部すら貰ってきませんでしたが、今となっては珍しい記念になったかなと少し残念に思ったりもします。

夜も鍵を掛けずいられるくらい平和で豊かな暮らしぶりで、道で行き逢う人は、いつも何某か知り合いや友人だったりします。サンマリノ人社会自体がそれだけ小さく狭いということかも知れませんし、それだけ狭いと否が応にも犯罪率も極端に低くなるに違いありません。サンマリノはイタリアよりずっと豊かで、イタリアのように混乱していない。有言実行、誰もが集合体として互いに社会を築く誇りを高く掲げている、そういう印象を持ちました。「最近はブルーカラーの外人が増えてねえ、僕らはそういう仕事はしないから仕方がないのだけれど、色々困ることもあって」、とか「あそこにずっと停めてあるイタリア・ナンバーの車は誰のかね」、などという会話を聞いていると、実際に住んでみたら難しいこともあるのだろうと薄く感じたのも否めません。

リハーサルは夕方からですから、朝から夕方まで、宿のレストランの机を一つぶんどり次の本番の譜読みに専念できました。何度も本番の準備は出来たかいと訊ねられましたから、宿のひとたちには、本番前に譜読みばかりして、よほど勉強して来なかったと思われたのでしょう。仕事をするには落ち着いた気持ちの良い環境で、結局サンマリノの観光は全くできずじまいでした。

イタリア人ソリストと昼食をとりながら話していて、「ここはスイスにそっくりさ。仕事するには最高だけれど住みたいとは思わないな。とにかくサンマリノ人にはお金がたまるようになっているんだよ。何より小国で税金がイタリアとは比較にならない程低いからね。特にサンマリノ人を保護する、という点においては、本当によく機能しているから」というふと口をついて出てきた彼の言葉は、イタリア人のサンマリノ観を言い尽くしているのではなでしょうか。普通のイタリア人なら、もう少し灰汁があってアソビのある暮らしぶりでなければ息が詰まってしまうに違いありません。逆もしかり。サンマリノ人も、遊びにときどきイタリアへ降りてゆくのはいいけれど、長く住んで仕事したいとは思わないのではないでしょう。ただ、仕事ぶりはとてもしっかりしているので、イタリアで出世をするサンマリノ人は多いそうです。逆に、サンマリノで出世するイタリア人は皆無だと聞きました。

ディレクターのマルコも、支払いは何月何日、どういう形で送るが、サンマリノでの税のシステムは云々、お前のイタリアの税理士には然々伝えればよいと、具体的に説明してくれましたし、演奏会のあと、サンマリノピアノ国際コンクールを企画しているプレジデントは、とピザを食べてながら、毎回審査員の公平な審査にどれだけ苦労させられるか、裏話をいろいろ話してくれました。「どうしたって、自分の情がかかった演奏者に票を多くいれたくなるのは分かるけれど、毎回、各審査ごとに審査員は参加者とは無関係だという誓約書を書くんだけどね。それでもシラを切っている審査員が必ずいるんだ。でも、そういう贔屓は、ずっと観察していれば絶対にわかる。臭いなと思って、インターネットで検索すれば、隠し通せるものではないんだよ。そうして追求すると、大概、そう言えば数年前にマスターコースに来ていたかも知れない、みたいに始まるわけさ。もちろん、その時点で、審査からは外れてもらうことになるがね。かなりデリケートな問題だけれども、いい加減なコンクールだと思われたくないし、他の参加者にとっても失礼だと思うからね。どんな厄介が付き纏おうとも、そのあたりはしっかりやることにしているんだ」。

彼の熱のこもった話ぶりを聞いていて、世界で最初に生まれた、全体でミラノ市よりも小さいという共和国が、こうして今まで生き抜いて来られた信念の強さを見た気がしました。そこから学べる大切なことも、たくさんあるのではないでしょうか。

気がつけば、外はすっかり晴れ上がり、目の前の校庭では子供たちが元気よくサッカーに興じています。雨上がりは気持ちも良いし、小鳥のさえずりを愉しみながら、フラッティーニ広場脇のお菓子屋のババー(リキュール漬の揚ケーキ)目指して、坊主連れで散歩にでも出ようかと思います。

(4月29日ミラノにて)