しもた屋之噺 (111)

杉山洋一

先週までの小春日和が嘘のように厳寒の冬が戻ってきて、慌てて弱めていた暖房を元に戻しました。先ほどまで滞在していた中部イタリアの地方都市では、昨夜など粉雪が舞ったほどです。寒さは相変わらずですが、今日は青空も戻り、ミラノに戻る急行列車にゆられて、原稿を書き始めました。南国らしい明るい午後の日差しは目に眩しいほどで、アドリア海の海岸を這うように、列車が疾走してゆきます。風が強く、うねるような高い波が岩を積み重ねた防波堤を呑み込み海岸まで白い飛沫を上げていて、傍らに乗合わせた日に焼けた無口な男たちも、思わず身を乗り出して波頭を眺めていました。

列車に飛び乗る直前まで、実はこの街の私立音楽院の経営陣と、学校を罷めると言い張る85歳の学長を慰留していました。彼は家人のピアノの恩師でもあります。不況で国の文化予算は大幅に削減され、期待していたアブルッツォ州の文化予算も、ラクイラ地震の復興にあてがわれ、学長を初め多くの教師の給与は2年間分も滞っていました。学校は毎月7000ユーロもの賃借料も長く滞納している状態で、学校経営に係わるパトロン一家が手弁当で働けど、経営は一向に回復しませんでした。より安価な場所へ移転出来ないのかと尋ねると、現在国立音楽院卒業資格の申請中で、学校の設計図も提出してあり、移転もままならないとのことでした。

学長がアッカルドやナタリア・グッドマンを招いても生徒数が増えないのは宣伝不足だと声を荒げると、学校には満足な広告をするお金さえ残っていないと、長年共に学校を支えてきた経営陣は寂しそうに応えてくれました。先日も別件でローマからイタリアの文化予算削減への抗議書を送ってくれと直々に連絡があって、手紙を認めたところでしたが、不況に追い討ちをかけるように不安定な中東、北アフリカからの難民問題を抱え、文化予算は言わずもがな、イタリアの経済状況は予断を許しません。20年来経営に携わってきた老婦人は、少し涙ぐみながら厳しい顔を学長に向け「あなたを、皆心から愛しているわ。どうか考え直して、としかわたしには言えないけれど」。小さく華奢な老婦人の姿と凛とした立ち振る舞いは誇りの高さを表していて、耳慣れない南部訛りは新鮮にすら響きました。白いカーテンからは昼過ぎの明るい光が差し込んでいて、やり場のない怒りと感激の入雑じった、すっかり紅潮した学長の顔を浮び上がらせていました。

イタリアでは卒業試験に学外の試験官を含める規則があって、この学校から何度か審査を頼まれたことがあります。今回も今朝まで数日間に亘ってディプロマ試験の審査をしていましたが、親ほども年齢の違う他の試験官と同席していると、興味深い逸話が沢山聞けて全く飽きることはありません。試験の最中の試験官と言えば、生徒と一緒に机の上で音を立てて指を動かしているか、無為なルバートがある毎に舌打ちをして机を叩いて拍を取り出すか小声で会話をしているかで、平均律のフーガで学生が暗譜に詰まると、不機嫌そうに大声で続きを歌って助け舟を出したりします。計2時間のリサイタルプログラム、30分以上のフーガとエチュード、協奏曲全曲を課された受験者は厳しい条件の中、皆よく集中力を切らずに頑張るものだと感嘆するばかりです。

そうしてホールの一番後ろの席で受験者の演奏を聞きながら、カルロ・ゼッキの指揮でシューマンの協奏曲を弾いた時に、ゼッキから3楽章の例の箇所でオーケストラの一拍前に入る左手を弱く弾きオーケストラと合わせ易くして欲しいと頼まれた話や、彼らが学生の時分にはピアノだけ勉強する生徒など皆無で、誰しも作曲や他の楽器を習得していた話、自分はチェロを6年間弾いていてオーケストラに参加していた話や、15、6歳の頃にオーケストレーションは誰にどう習ったかなど、往年の教育がいかに厳格で教師がどれ程優れていたかを話してくれました。

「当時は平均律の楽譜の何調のどこと言うだけで、どの頁の何段目の何小節目で音がどうかと全て諳んじていた、その位でなければ平均律は頭に入らない。教育者とはそういうものだった。だからこそ尊敬を一身に集められたのさ」。自らの不勉強に恥ずかしさで消入りそうになりながら、ふと同時に長く音楽院で作曲を教えバッハの対位法に通暁していたドナトーニが頭を過ぎりました。80年代にはここでドナトーニも教鞭を取っていました。

「今のピアニストは頭を使わない。耳と指だけで暗譜していて一音間違えると破綻してしまう。楽譜から学ばないのさ。昔は構造や和声の把握など全てを駆使して音楽を理解していたのが、何時しかピアニストは楽器にしがみ付くようになった。だからわざわざ近現代作品を暗譜で演奏させるのさ。声部が入り組んでいて音色を弾分けられるようになるのと、読譜と暗譜の訓練に最良なのさ」。今回もカーターのソナタとアイブスの1番のソナタを暗譜で見事に弾ききったアメリカ人の学生がいました。

鍵盤を上から叩かずに鍵盤の中で押しこむ発音の仕方や、ヴィブラートの独特のペダルなど、ピアノを弾かない人間には説明されても理解がむつかしいのですが、何より楽譜に忠実に弾くこと、早いパッセージを指で引き倒さず全ての音が聴こえる速度で弾き、音に陰影をつけて均等に鳴らさないこと、書かれていないルバートは一切受け付けないこと、構造を堅固に作って音色を多層的に響かせるところなど、エミリオの指揮のクラスで教わった内容と全く同じでした。イタリア音楽史には後期古典派からロマン派が欠落しているので、以前のバロック的音楽観が現在まで残ったのかも知れないし、自ら持って生まれた享楽的で開放的な音楽性と調和を図るべく、無意識に禁欲的な音楽教育の礎が築かれたのかも知れません。国立音楽院での和声や対位法はバッハスタイルのみ用いられ、フランスの和声課題は全く範疇になかったのが、留学してきた当時は不思議で仕方なかったことを思い出しますが、確かにレッスンで観念的な指示を受けた記憶も殆どありません。具体的なテンポや音色など、音楽の基礎のみに関して厳しく習ったことは、後に自らの力で音楽を深めてゆく上で大きな助けになっています。どこを見ても遺跡だらけのイタリアの教育は因襲的でどこか古臭い程だけれど、時代に流されない強さを持っていたのかも知れない。世界中が物凄い勢いで変化する現在、その価値を測る指針は目の前には見当たりません。

書かれたリズム通りに左手が消えてゆくスクリャービンの「幻想ソナタ」や、独特の少し乾いたペダルで和音の変化が浮立って見える「水の戯れ」、一音ずつアーティキュレーションをつぶさに眺めてゆくような感覚に陥る「映像」など、日本では接する機会のない演奏を前に、不覚にもマニエリスムの触感を思い出したのは、些か的外だったかも知れませんが、伝統の重さは心に食い込むようでした。

最後まで確約の言葉を発さなかった学長は、紅く染まった顔を少し綻ばせ、「連絡するから心配するな」と言い残し、覚束ない足取りで運転手の待つ自家用車に乗り込みました。寒風に思わず襟を立て駅に向かって歩いていると、ちょうど2本目の辻の手前で、彼の車が静かに追い越してゆきました。

(2月28日ミラノにて)