オトメンと指を差されて(18)

大久保ゆう

つい最近のことですが、ケータイ小説を書きました。この原稿がみなさんの目に触れるころには、もうすでに連載も開始され、クリスマスに配信される最終回に向かって物語が進んでいるかと思われますが、その件については私のブログでも見てもらうこととして、今回は創作についての話でも。

ケータイ小説というと、とかく批判されがちです。稚拙と笑われたり、内容がくだらないと言われたり、あるいは子どもにとって不道徳であるとか成長に悪影響を与えるとか云々。

けれども自分たちが子どもだったころを振り返って、何が好きだったか思い出してみると、それもまた大人たちから「くだらない」と言われたものだったりして、そんな発言に傷ついたり腹を立てたりしたものです。私の世代だとTVゲームがそうでしょうか。

しかし結果として私たちが悪い人になったかというとそうではなく、ゲームをしていた大部分の子どもたちは普通の大人になっています。結局のところ何ともなく、むしろ遊ぶことで人生のあれこれを学ぶことも少なくありませんでした。

ところが大人になった子どもはそのことを忘れ、新しい子どもたちが楽しむものをけなして取り上げようとします。自分がやられてむかついたことを、かつての子どもたちが同じようにしているというわけで。

こういう構図がずっと続いてきたのだと思います。たとえばマンガやテレビといった新しい娯楽メディアが現れたときには。

それでも、今の私がひとつ思いを馳せることができるとすれば、そういう状況にあっても、子どもだった私たちに「おもちゃ」を作ってくれた大人たちがいたということです。

だから私はいつも、罵倒するより禁止するより、「おもちゃ」をつくる方に回りたい――そう思います。少なくとも自分にできるのは、ひとりの創作者として「ケータイ小説」というジャンルを考え、これを洗練させて整え、子どもたちが面白いと思うものをつくろうとすること。

ケータイ小説とはいったい何なのか、という問いには、おそらくまだはっきりとした答えはないのだと思います。メディアとして若すぎるがゆえに、あるいは成長の途上にあるがために。

そこでいろいろと試してみました。ケータイ小説そのものを読んだり、様々な作品をケータイ小説のフォーマットに流し込んだり、実際の作品として書いてみたり。

その過程で気づいたのは、「どうしても客観的描写が浮いてしまう」ということです。どんな文豪の書いた文の綾でも、自分のつづった言葉でも、携帯電話の小さな画面に映し出されたとたん、意味の声が消え去ってしまうというか、届かなくなってしまうというか、はがれてしまうというか……画面と自分のあいだで、意味がばらばらになって四散してしまうというか。

もちろん携帯電話には電子メール機能があって、私たちは日々それを用いて言葉を交換しているわけですが、ふと考えてみたとき、あまり客観的な文章を送ってはいないことに思い当たります。手紙というよりもほとんど会話に近いものですし、描写よりも気持ちを載せてつづっています。

しかも時に言葉はかなり断片化され、大胆に記号化もされます。それは今まで私たちが使ってきた日本語なるものの実態とも規範とも違っています。

そうすると、この携帯電話なるものは、私たちが普段使っている様式から考えるかぎり、「心と会話しか載らない新しい記号体系の運搬デバイス」ということができるでしょう。

そしてまた、この島国で少女マンガの文法が心と会話を軸として、かなり特殊な発展をしたことを考え合わせると、ケータイ小説が少女のなかで生まれたというのは、どこかうなずけるものでもあります。

であるとしたら、今ここでできるのは、この携帯電話の記号体系というものを物語りに最適化させて、その上で本質的なケータイ小説なるものを展開させること。たくさんのケータイ小説のなかで、萌芽として生まれている核のようなものをかき集め、整理し、まとめあげ、そこから新しい文学の可能性を拓いてみせること。

そうしてみてはじめて、ケータイ小説独自の文体や表現が手に入るのだと、「よりおもしろいもの」ができるのだと、そう私は考えています。もちろん、ケータイ小説以外にも同じことが当てはまるわけで、私はそうしてきた先人たちに深く敬意を抱くものでもあります。

けして直接的ではありませんし、表にも出てきませんが、誰か・何かに対するその種の敬意が創作という行為を駆動させることもあるのだと、強く感じています。