オトメンと指を差されて(21)

大久保ゆう

姐御肌だ、なんて言われると内心複雑なところがあります。言いたいことはよくわかりまして、確かに相談事にもよく乗りますし、聞き役になることが多くて、最終的には相手の尻をはたいたり発破を掛けたり、そういうことになりがちなわけですが。

兄貴肌は有無を言わせず引っ張っていくような感じで、姐御肌は一回受け止めてから前に蹴り出して進ませる、という区別をすると、オトメンだからこそ後者の役割になるのかもしれません。そういう立場を引き受ける人が少なくなってきている、というのもありそうですね。

それはともかく、人の話を聞く生活のなかで、ふと気づいたことがありまして。

――「愚痴って大人しか言わないんだな」と。

新解さんに意味を尋ねてみると、「ぐち【愚痴】言ってもどうしようもないことをくどくど言うこと。」と書かれているわけですが、おのれの無力さとか、現実の厳しさとか、理解し合えない人間関係とか、そういうことを漏らすのは、大人であることのひとつの証左なのかな、と思わないでもありません。

たとえば〈周囲の大人がかつて子どもであったことを忘れている有様を嘆く〉と言った愚痴は、まるで自分がまだ子どもであるかのように、子どもであることを忘れていないかのように擬装していますが、それが愚痴である時点で、その当人も〈大人〉ですよね、と考えてみたり。

じゃあ子どもはどういうことをしゃべるのか、という話にもなりますが、ちょっとだけ(精神)年齢が下がって思春期あたりになると、〈文句を言う〉という形になるような気がします。

不平・不満・いらいら・反抗・非難――それは〈どうしようもない〉という含みを持つ愚痴とはどこか違って、〈わからない〉という焦燥の方が強いのかもしれません。敵対的とでも言いましょうか。愚痴はエネルギーが内側へ蓄積してますが、この場合はむしろ外側へとんがって直線的に出ていて、鋭い。もちろんジグザクしているときもありますが。

ふたりで話しているときに人の口から出る言葉……というのは、精神年齢がものすごくありありと出るものかもしれません。ちなみに思春期も反抗期も来ていない幼児、と言ったらいいんでしょうか、幼児的感覚に基づいたとき、でもいいんですが、そういった方々(場合)は、〈自分が楽しかったこと〉をしゃべります。

今日あった面白い出来事、週末の感想、嬉しかったこと、今感じている幸せを、それはもう、ものすごい勢いで話し続けて、最終的には当人の息が切れてしまうくらいで。聞いたあとこちらがかけるのは、もちろん祝福の言葉。

成長してしまったあとは惚気話なんていうのもこのカテゴリに入ると思うのですが、小さな頃は学校での話とか、幼稚園でのエピソードとかになるでしょうか。見た目が大人になってからでも、たとえば職場や仕事のことでこの類の話ができる人は、純粋に感動してしまいます。そういう人こそ、子どもの心を持った人なんだろうな、と。

私個人はどうかと言うと、基本的には聞くだけで。肯きと笑顔と、時には聞き流しと、相手が言われたいと思っている言葉……あるいは相手の考えている(けど言えない)ことを鏡のように返してみたり。または客観的な論理の代わりをしてみてもいいかもしれません。

だいたい小学校高学年の頃からこんなだった、という自覚と記憶があります。言葉にしてもそのまま受けとるのではなくして、言った人の立場や考え方を考慮した上で、その外見と中身に分解して分析して、あらゆる方面からの検証とコメントを心のなかで繰り返しつつ、微笑みながら相づちを打って。

わかるから、あえて質問はと言われても困りますし、調子のいいときは相手が何かを言う前から何を言うかがわかることもありますから、反応が悪いなどと言われて(あるいは自分の感情や思考を盗まれたかのように感じられて)、自尊心や自我の強すぎる人からは嫌われがちではあるんですけどね。

ああ、でもだから、姐御肌なのかもしれません。「どうでもいいから俺についてこい」が兄貴肌で、「わかってるから前に進みなよ」が姐御肌、だとするのなら、ですけれど。相手の不安を吹き飛ばすものと、相手を安心させるもの、ってことでしょうか。

しかしまあ、兄貴・姐御と性別でカテゴリ分けするのは、ジェンダー論としては安易すぎるものですよね。後者を〈母性〉を呼んでしまうとさらに語弊が出てくるわけで。(そういうものは、男だって持っているわけですから、ね。冒頭の内心複雑の原因は、こういう点にあります。)

オトメンとしては、こういう固定化されたある種のジェンダーを攪乱し続ける存在でありたいものです。