オトメンと指を差されて(28)

大久保ゆう

私にとっては、スイーツとメルヘンは近しいものです。

甘いモノみたいに、突然食べたくなったりします。〈足りない足りない今私のなかで××分が足りてない〉という強烈な意識というか欲求に襲われて、我慢できなくなってしまうわけで。といっても、読むだけではどっちかというと食べるよりながめるだけ。どれを食べよっかな、と物色しているだけ(あるいは味見しているだけ)なのです。訳すことでメルヘンを深く味わうという感じかな?

といっても、わざわざ童話でも民話でも説話でもフェアリーテイルでもなく〈メルヘン〉と呼んでいるのは、先に挙げたどれとも自分の想定しているものと一致しないから、でもあるのです。子どもだけのものでなく、昔からだけのものでもなく、妖精に限らず。何かこう、まず短くて、それでいて別の世界の何かを伝えてくれるもの、でしょうか。

Maere=伝えてくれるもの、chen=ささやかな、という言葉の組み合わせが、いちばん自分のなかでしっくり来ています。だからというか、この言葉があるから当たり前でもあるのですが、ドイツのメルヘンは絶品ですよね。代表的なもので行くと、グリムやエンデなんかがありますが。

それに、私のなかではカフカだってメルヘンだし、アメリカのラヴクラフトの作品だってメルヘンです。あとはSFのアジモフにもメルヘンがあると思いますし、そうそう、この定義で行くと半七捕物帳もメルヘンですね。もちろん絵本は最高のメルヘンですよ!

それに美味しそうな作家があれば、書かれた言語が何であろうと、どうでもいいのです。前にも書きましたが、どんな言葉でも訳そうと思えば頑張って訳せるのです、私は魔法学者ですから。実際大した障害ではありません。(ただ食べるのにはかなりの時間がかかるので、それまでに色々と慎重なプロセスがあったりします。)

また、作品や作家だけじゃなくて、言語を単位として〈食べたい〉って思うこともあります。それは個別のお菓子やパティシエじゃなくて、ぼんやりとチョコが食べたいシュークリームが食べたい、なんていうのがあるような感じと似ているでしょうか。

ふと、「スウェーデン語が訳したい!」とか「インドネシア語が、インドネシア語が!」とか「ギヴ・ミー・アルメニア!」とか、そういう気持ちになることがあるんですよね。何というかさほどの脈絡もなく、突如として。そうすると辞書とテキストを探して、とりあえず味見してみて、考えてみます。

しかし辞書はたいてい手にはいるのですが、テキストの方がなかなか難しいんです。マイナーな言語であればあるほど、今の世のなかでも作品の原典を手に入れるのは面倒になります。少なくとも国内ではほとんど無理ですし、インターネットで海外発送を取り扱ってくれる現地の書店を探さないといけません。ときには国内の代理店を通して発注したり、個人輸入のスキルがどんどん上がっていく一方ですが、場合によってはあまりのハードルの高さに、別の言語でまとめられた本で我慢することもしばしば。それでも今はかなりいい叢書もあるので、楽しむ分にはいいんですが。

でも、こういうとき役に立つのが古書取引の国際的ポータルサイト。どの国の書店とも同じシステムや形式でやりとりできるし、支払もだいたい共通していて、場合によっては新品で買うよりも安くて。洋古書の探索に特化した業者もありますし、そこを経由して手に入れることもあります。いずれにしても労力を使うことは間違いないけれど、かなり手間が省けます。

こういうときに感じるのは、世界は依然として流通・通信において障害があるっていうことです。言葉とか文化とかの差よりも、物理的なアクセスに問題ありで。だからアクセスが解放されるとか、自由になるとか、どんなものであれそのひとつひとつが、ものすごく大きな意味をもっていて。アクセスさえどうにかなれば、あとは本人たちの努力次第ですから。でも「努力次第」のところに持っていくまでは、かなり大変で。

とはいえ、女性がスイーツに対してかけるエネルギーが途方もないように、私も美味しいメルヘンを食べるためには、何だってしますよ? それが秋ともなれば、食欲と読書欲が重なり合って――それはもう、ね。