変化のとき

高橋悠治

変化のとき

12月に杉山洋一の企画で『高橋悠治作品演奏会I』があり 忘れていた1960~70年代の曲を聞いた 杉山洋一が子どもだった頃名前しか知らなかった曲の楽譜 二度と演奏されないだろうし 引っ越すたびに持ち歩くのはいやだと思って捨てたりひとにあげてしまった楽譜をアメリカや日本からさがしだして演奏してくれたのには感謝しなければならないが 自分の音楽とも思えないほど遠くにあって かえって知らない響きがあった といっても そこにはもうもどれない 新しく作曲した短い曲をひとつ入れてもらったが それには今の問題が見える

その前9月には青柳いづみこが『高橋悠治という怪物』という本を出版した タイトルがいやだと思ったが やはり1960年代からの演奏記録を集めていて 忘れていたことを思い出すのには便利かもしれないし まだ記憶にあるかぎり 訊かれたことには答えたので 協力した部分もあるし フランスのピアノ・テクニークを習ったり いくつか連弾をしてみてまなんだこともあるにしても もともとの演奏の場もちがうから 距離をおいた眼から書かれた部分はおもしろいと思う でも 最近よくあるサイン会などで その本にサインするのには やはりためらいがある

おなじ9月にOUTSIDE SOCIETY というAYUO(高橋鮎生)の本が出た 1970年代までは息子として知っていたつもりだったが ちがう世界のひとだったと 本を読むにつれてわかってくる

いままでは作曲しながらピアニストとしてはたらいていた 最初はオペラの練習ピアノ それから20世紀後半の音楽を初演する専門家 1972年に日本に帰ってからはバッハやサティを弾くことが多くなり 作曲と演奏の場がだんだん離れていった というよりは ピアニストになっていき 作曲の場は限られてきた

今年は 遠ざかってきたヨーロッパの現代音楽を演奏する機会がある 3月にチャポーの『優しきマリア変奏曲』 6月にはクセナキスの『Morsima Amorsima』 11月にはクセナキスの『Akea』 忘れている技術をとりもどせるだろうか それより いままでとちがう技術 ちがう弾きかたを見つけられるだろうか

1月13日には小泉英政の企画した谷川俊太郎と李政美とのコンサート『暮らしの中に平和のたねを蓄える』で戸島美喜夫の『鳥のうた』と『冬のロンド』を弾き 『カラワン』と『いぇーがらさー』を作った もとうたの記憶の断片とそれについての注釈の組み換え 書かれた即興と言えるかもしれない試み

過去をくりかえさないで そこから自由になるのはむつかしいようだが 流れが土地の傾きに沿って 自然にすこしずつ向きを変え それとは知らずに 思ってもみなかった景色のなかで目覚めるのは 偶然のわずかな偏り(clinamen)にかかっている 目標をもった直線ではなく 始まりも終わりもなく いつも途中でしかない曲線をたどっていくしかない 糸を操るようにゆっくり 力をつかわず うごきを止めずに それも一本ではなく いくつかの曲線の絡まり あやとり 返し縫い また撓みと襞と隙間