立ち止まって

高橋悠治

2015年に石田秀実の「Frozen City II」をパイプオルガンの3段譜のまま弾いてみたがうまく行かなかったので 2段譜に書き直してみた ずっと鳴りつづけ 拍を刻む一つの音に対して 他の音が点滅し 空間をしばらく照らし また消えていく 風景がすこしずつ移り変わる 低音が持続する上で和音の柱が移動する伝統的なスタイルとちがって 高音の持続するリズムに誘われて出没する音の群れは 前面に出てメロディーを作らず 一つの音に影を落とし こだまの深さを変えていくように感じる 二つの手とペダルの余韻の変化で どこまでできるだろう

12月には芦屋美術博物館の「小杉武久 音楽のピクニック」個展を見に行って 思いついたことをすこし話した 『点在 interspersion』という作品群がある 異なる周期のパルスの群れ 空白の多い時間は リズムパターンを作らない ひとつひとつの周期から 全体として不規則なずれが生まれる 耳を近づけると 小さな音の点が見えない空間をかたどる

『Anima 7』では 日常の一つの動作を極端にゆっくりおこなう指示 たとえば 上着を脱ぐのは数秒でできるが それに10分かけてやってみるとき 何を感じるだろう ゆるみ崩れていく内部の感触 それを見ている身体には 何が起こるだろう 近くにいるというだけで ちがう内部感覚が起こるのに身をまかせている と言えばいいのだろうか

1969年から1972年まで続いた「タージ・マハル旅行団」の時期の記録を見ると 数人の即興演奏が一つの音楽になるのではなく その場その時にいて それぞれがちがうことをしたり しなかったりする そういう身体の配列があるだけだったように見える それは音楽がいままで知らなかった空白の領域だったのか それとも はかりしれない世界のひろがりと 予測できないできごとの起こるなかで 声の糸を織り合わせて共感のなかにやすらごうとするそれは ほとんど忘れられた古いやりかたなのかもしれない 

これから2018年のためにいくつか作曲をして ピアノも練習しなければならない いつでも 何かを始める前には ためらう時間がある おなじことをくりかえすのはいやだから 本を読んだり 他の音楽を聞いて ぼんやりしている やがてそれも居心地が悪くなると しごとにもどってくることになる いままでともちがう 見聞きしたものでも充たされなかった なにかが兆してくればいい どこにでもあるようで どこにもまだないもの 全体の計画もなく 理論も設計もなく 方向も軸もない 測ったり数えたりする尺度もない ひとりでに生まれてきて どのように作ったかも説明できない音楽 説明のいらない楽譜 そんなことをいつも思っているが どうしてもそこには届かない