道なき道?

高橋悠治

1月には3つのコンサート 栃尾克樹のバリトン・サックスで『冬の旅』 波多野睦美のシューベルトとシェイクスピアによるコンサート 杉山洋一の探してきた楽譜による『高橋悠治作品演奏会 III フォノジェーヌ』

声の音楽は 1曲が長くない その前後に楽器の音楽が入るのが 自然に聞いていられる音楽のありかたなのかもしれない それぞれの部分に ちがう動きと響きの手触り それらのゆるい組合せが 物語や風景をひかえめに彩り 短すぎず長すぎない時のあいだ続く 19世紀までの音楽はそうだったと思う 世界を映す手鏡を差し出す手や 操る手の陰の暗さに眼を向けることはなく 余韻とともに消えれば それ以上の巧みはいらない

これからしばらくは コンサートもなく 作曲の予定もない 忘れる時間 忘れていたきっかけを思い起こす暇 注意深く過ごす期間 それは決まっているしごとをしていればよい日々よりは かたちもなく きまりもなく かえってむつかしくて ただ流れ去ってしまうだけになるのではないか

音楽を創る(造る)作業は ペーネロペイアのように 昼は織り 夜は解いて待ち続ける 何を? 織り上げた結果が作品となれば 作者は身を退き 身を隠すことになる どこへ?

シモーヌ・ヴェイユのように拒食症にならず イサーク・ルリアのカバラーのように 収縮=ツィムツムとしての創造に耐えて生き延びる 「創る」と「耐える」 「器を破る」と「痕跡を集める」が同時にはたらく場を仮定して かけらにのこる光を集めてのを修復=ティックンにたとえれば バロックの non-mesuré と stile brisé にヒントを得た「あそび」という作曲を 多重プロットに組み上げる 多くの場面が同時に あるいは切り返しで進行する だが 中心になるテーマがまだ見えない

コロナ禍で失われたのは 人は集まる動物だというあたりまえのことで それがなりたたないならば 集まり方を変える実験があってもよいだろう 音楽の実験はそういうものではなかったか 1990年ソ連崩壊以来 多様性の時代と言われているのに アメリカの単独覇権が続いた コロナの後に この矛盾が社会の収容所化とファシズムに向かうのか 単独覇権の「国際社会」の崩壊と近代の終焉と まだ展望の見えない次の社会を探る過渡期の実験期に入るのかは まだ決着のつかない 複雑な葛藤のなかにある そこで何をしていようと いままでのやりかたは続けられないし 回復や回帰はしないだろう 国や社会のなかにいても それらにしばられない一点 アルキメデスの足場をどうやってみつけるのだろう それとも固定した足場はもうありえなくて 距離をとって しかも離れずに 動き続ける そのために あらゆる資源と技術を応用するのか 考えることは多い 考えるより 風を感じて判断する と言ったらいいのか