同じか違いか

高橋悠治

自分の過去の作品を聞くことはあまりない 自分の演奏の録音を聞き返すことも どうしても必要な時以外はない それでも作曲や演奏のしかたには ある連続性が聞きとれる こうして毎月書いているコラムは またおなじことを書いていると言われ 書きながら 自分でもまたかと思うこともある 作曲は毎月1曲書くほどではないし そのたびに楽器や演奏者 会場やプログラムの他の曲も考えて決めるので ちがう音楽を書いているような気がしていた

先日『クロマモルフ1』の練習を聞いた 1964年にクセナキスの推薦で「ワルシャワの秋」音楽祭に行くフランスのアンサンブルのために書いたが 演奏できなかった曲 その後日本で一度演奏されたが アメリカにいたので聞いていなかった 書いてから50年以上経っている そのあいだ作曲を続けていても 演奏されなかった曲もあり 一度だけの演奏で忘れられた曲がほとんどで 残った楽譜もひっこすたびに捨てていた

練習を聞いて 半世紀前にほとんど不可能だったことが たいしてむつかしそうでもなく演奏できるのに感心するとともに あの時代に求めていた演奏技術は もう今の時代のものではないと あらためて感じた 

力や速度ではなく 小さく弱い変化に引き込まれていくような音楽は 1960年のミニマリズムがきっかけだったかもしれないが あの頃のミニマリズムでは まだ反復を力として使っていたのかもしれないとも思う 反復のなかに変化をもちこんで崩すのは モートン・フェルドマンにはじまった書きかたかもしれない フェルドマンがペルシャの手織りのカーペットに見た abrash(色斑)のたとえをひろげて考えれば 音程を距離ではなく色差とみなして 音の小さなグループが即興で無限に変化し 音楽の方向が絶えず屈折していく 点描や音列の音楽ではなく 曲線の絡まりと結び目で重力から逃れ はためき揺れる音のモビールができるように

朝 気分がよければ すこしずつ音のスケッチや楽譜を書いてみる 時間をかけると 同じ方向に行き過ぎる 途中でやめたものを あとから糸の端を拾って 別な方向につなぎなおす 一つのことを完成させることより やめてはやりなおすプロセスが作品や演奏になるように 

音を鳴らす前のわずかなためらい 音をあからさまにさしだすのではなく 翳りのなかに隠す作法 行間を多くして 読みを遅くする 動かないものを揺り動かし楽器という物体の抵抗を破って音になる瞬間よりは そうして発した音がまわりの空気に共鳴し 空気を染めてはまた静まっていく時間 手と耳がたすけあう技術

垂直の和音でもなく 水平に感情を載せてうねるメロディーでもなく 斜めの音の網 重心も中心もなく ヒエラルキーを作らない宙吊りの変化