演奏の変化

高橋悠治

1961年クセナキスの『ヘルマ』の楽譜を受け取ったときは ピアノの鍵盤の上に 軽く触れる指がそのたびに変化する音色を創るような演奏をイメージしていた たくさんの音が強い響きを積み重ねる不透明で暴力的な塊になるのではなく どんな音の群も過ぎ去って長い沈黙が残るような経験 ピアノがピアノではなく タブラに触れるチャトゥル・ラルの軽やかなリズムや トンバクのジャムシド・シメラニの語る音を思い描いていた もっと複雑な『エオンタ』でも 速度が一瞬の呼吸の華を見せて消えていく幻で 手の技が見えない 音だけがどこかから聞こえてくるような演奏ができればよかった じっさいはなかなかそこまでいかない クセナキスの場合は もっと直接な暴力と抵抗の表現を要求されていたのかもしれない その頃ヨーロッパで他に演奏していたのは ケージのプリペアド・ピアノの作品のきらめくリズムやブーレーズの『第2ソナタ』の不規則なパターンの組み換え メシアンの厚みのある鳥のけたたましさ それとは対称的な武満徹のかぼそい糸のような余韻 そんな取り合わせだった 

アメリカへ行ってからの6年間 夏のタングルウッドや冬のバッファローでは 構成や数理の勝ったアメリカの東海岸の現代音楽 大音量のオーケストラのなかのピアノの和音 太いクレヨンの線のようなメロディーなど バッファローでは大学の音楽部だったから クラシックも弾いたほうがいいと言われて バッハを弾くようになった

もともと学校を中退したから学位をもたないし コンクールや賞には縁がないから 教える資格もなく興味もないから 演奏で生活する以外にすることがなかった ピアノは初歩しか習っていないので 19世紀のレパートリーはなく 現代と バロック以前でピアノで弾けそうなものしか選べない ピアノの弾きかたも時々忘れるから 奏法の本を読みなおして なんとか続けている 林光や三宅榛名のようにピアノを弾くのがいかにもたのしそうなひとたちを見ても そういう気分にはなれなかった やっと最近になって サティを弾くのはたのしいかもしれないと思えるようにはなったが その響きに溺れるのは危ない やりにくいことも続けないと 技術は衰えていくだろう 2019年はクセナキスを弾く機会もある まだ指が覚えているだろうか ヒロイズムやマチズモではなく といってリリシズムやパッションでもない 風が吹きすぎるのを見まもるように静かに待っていると 音がかってに爆発したり しずくがしたたるような音楽が現れるだろうか それとも ヨーロッパ的な技術や音楽観から離れていた間に 記憶力も能力もなくなっているだろうか