疫病資本主義初年度の終わり

高橋悠治

コロナの年も終わるが コロナは終わりそうもない 今年2020年は それでも録音やコンサートを続けていられたのは幸運だった

コロナについてはわからないことばかり 陰謀説もあれこれあるが そうでなくても 何一つ信じられるものはない 政治だけでなく 報道もそう 日本やアメリカのニュースと ロシア・中國・イランの英語ニュースはまったくちがう アメリカやカナダには それでも国家が隠していることを伝えるメディアがあるが 日本ではそれらの翻訳しか見当たらない ネットでなにかを調べたり検索すれば どこからか追跡されている 追跡数は一週間に百数十以上あり 検索エンジン自体が個人情報のスパイを兼ねているアメリカのものであるのが普通で ツウィートやフェイスブックも 犯罪心理学でいうプロファリングという手法で 個人情報収集機関になっているばかりか 検閲も兼ねていて 反米とみなされる書き込みをすれば アカウントを取り消されてしまい 名前・住所などは記録されている

秋には デヴィッド・グレイバーとアンドレ・ヴルチェックが ドイツとイタリアへの旅の途中で急死した 偶然だろうか

こんな世界で ささやかに音楽を続けていることに 意味があるのだろうか
と思いながら 続けられることは それしかない

音楽は人の集まるところにあるもの ともに生きるためにあり そこに美しさと 心の揺らぎを添える 踊りと響き 爽やかな風と苦しみのない おだやかな心
むかしサキャ・パンディタ(1181-1251)の『音楽のおしえ』を引きながら作曲したことがあった

閉鎖された都市のなかで 貝の火のゆらめきが色を変えてゆく

2018年に Roger Turner と即興のセッションをしたときは 指のうごくままにいつまででも弾いていた 即興の後で 時差で疲れていたかもしれないと言いながら自分のプレイを批判したばかりでなく ピアノについても 片手でじゅうぶんだと言われ 即興をその場かぎりで終わらせない追求の姿勢 それがことばでなく感じられ その時から 音を出す瞬間より その響きを聴きながら変化し続ける音楽の空間を感じる と言っていいのか 先の見えない闇のなかを手探りで進むことを受け入れる と言えばいいのか できれば いくら曲がっていても それが一本の道ではなく 全体の見えない風景の一部であるような 未完成なかたちのない塊が崩れていくプロセス

最近 Christian Wolff: Keyboard Miscellany というシリーズで それぞれ数行の楽譜を演奏する動画を続けて見た システムや方法ではなく パターンでもなく 響きに触れる手から 思いがけない方向へ踏み出していく それらを演奏するのではなく それに似た感触を手に馴染ませるような即興からはじまり 知っている曲を知らない音楽に変える演奏を試してみる というふうにして すこしずつ いままでやってきた音楽の習慣から離れてゆけるだろうか