真夏日の労働

高橋悠治

毎年夏は秋のシーズンのために作曲していた 今年はそれに加えて コロナ感染予防のマスクやシールドで 肺も脳も酸素がじゅうぶんとは言いきれない

コンサートも観客なしのネット配信や 関係者ばかりの閉じた空間 客席を一つおきに空けた赤字公演を続けながら なんとか支えあって いつまで行くのだろう これからは オーケストラやオペラのように集団による集団のための見世物ではなく 空間にちらばった場所がそれぞれに変化していく生活があり 変化が顕れ 風が起こると 通り過ぎた場所が見えてくる 方向だけがあり 消えないうちに ちがう方向からまた近づかないと 場所は褪せていく

サントリー・ホールで8月の終わりにフェスティバルがあり 昔の曲が2曲再演された 「オルフィカ」は80人のオーケストラを ちがう楽器の組み合わせで8つのグループにわけ 6つをステージの奥・中・前の左右に置き 残りを2階の左右に分ける 1969年に作曲してから50年以上経って コロナ後のオーケストラの空間にも聞こえる

1960年代は 反体制運動があった 近代とともにはじまった革命運動は 結局新しい権力を作ったが 普通教育の反面 平等は徴兵制度を作り 産業革命は工場労働を必要とする 福祉国家の実現は生活全体の監視をともなう 反体制運動の挫折の後に新自由主義が生まれ いまはそれが世界のあちこちで アメリカに従わない国家が制裁され 傭兵から戦争をしかけられる 理想をもとめれば原理主義になる 

三味線弾き語りと合奏のための『鳥も使いか』は1993年に作った 弾き語りの所々で 物語に必要な道具や情景が 合奏の曲になって聞こえる 指揮者はそのタイトルを告げ 合図の楽器を打って曲を停める 合奏する楽器は 左右に振り分け 太鼓は舞台裏から聞こえる この思いつきのもとになった九州の琵琶と合奏の「妙音十二楽」は 奏楽する僧侶の数が集まらず 昨年で800年の伝統が絶えた と後で読んだ

西洋近代のオーケストラは オスマン帝国の軍楽隊にまなんで 宮廷の娯楽やオペラの合間に演奏するようになり 100人以上の集団になったが 国歌と行進曲から離れるのはむつかしいようだ ディジタルの時代には 人数は必要ないだろう 歌ったり楽器を奏でたり踊る身体のたのしみは かんたんにはなくならないだろうし 電子音と映像で済ますのでは なめらかすぎて 手応えがない

練習を見ているうちに思いついた 強い音は 強い力では生まれない 力は音を押しつぶしてしまう 逆に 身体の力を抜いて 楽器がよく響く状態を作ってあげるのがよいようだ 弱い音は 注意を集めて 消えていく音が耐える前に介入して 火を掻き立てる そこに楽器を弾く人の個性が映る それは 楽器のあいだに距離をあけた空間で聞こえてくる 楽器を弾く人は 周りの音を聞きながら 自分の楽器の音を添えて 響く空間の色を変える そのわずかな変化が聞こえれば 次の音の出しかたが決まる それを 合奏するたのしみと言ってもよいだろうか

指揮者が音楽を作るのではなく そこにいて見ているだけで すべてがひとりでに立上り 動いていく 動かす中心ではなく 動きがそこに集まってくる それでも 傘の軸のような中心ではある

一つの中心の周りにさまざまなものを配置するかわりに 中心がなく すべてが周辺であるような状態(メキシコの社会運動家グスターボ・エステーバの『世界を周辺化する」)と何が起こるだろう

2人から20人ほどのグループなら それができるかもしれない 『鳥も使いか』の合奏は そのなかで似たやりかたをいくつか試している ただし 全体は一枚の紙の上に書かれている 小さな合奏 邦楽の三曲のかたちを借りた『瞬庵』(2001)は それに近かった

全体のない部分の集まり 多様な組み合わせ 質のちがいが浮き出ないように混ぜ合わせて おだやかに弱く持続する作用をする 漢方薬にも似ている