掠れ書き (7)

高橋悠治

太陽の光があたって反射する表面には、輝きしか見えない。雲が通り過ぎ、翳ると、細かい凹凸が浮き出す。曇った日には、物の輪郭はくっきり見える。日が傾くと、影が長くなり、重なり合って、色は複雑になる。求心力・重力がありながら弱まった状態で、観察する眼の運動は、自由になり、深くなる。

このように、中心の光や物がすでにあることを前提とした立場とは逆に、物のあいだ、隙間から考えることもできる。物の輪郭を見定めるとき、物の表面の終わるところではなく、何もない空間が物で区切られる、空間の側から見ると、そこに輪郭線が、物の占める場所からすこし離れて、切り取り線のようにはっきりしてくる。物はそのとき、影のように正体不明の障害物、空間にせり出して、眼を遮る不透明なスクリーンとなる。輪郭線が物の側ではなく、空間の側にある、しかも物とは接触しない、わずかな距離をおいて、輝きを持たない、そこだけ脱色されたような薄い線となって、物の侵入から空間の自由な交通を防衛している、そのこちら側でだけ、眼だけでなく、身体となった意識がうごいていることを、どう考えればいいだろう。

物に接触している身体は安定しているが、停まっている。いつまでもそうしてはいられない。外側だけでなく、身体の内側もうごいている。うごいているかぎり、はじまりも終わりもない。起源も目標もないと言っておこうか。誕生や死を見ているのは、その身体ではなく、その外側からの観察でしかないから。

アルチュセールがヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の最初のセンテンス Die Welt ist alles was der Fall ist について Fall を事柄とかケースとかではなく、文字通り「落下」と訳すことによって、エピクロスと結びつけている対話を読んだ(ルイ・アルチュセール「哲学について」)。まっすぐに落ちていく原子の雨の、粒子の軌道のわずかな偏り(クリナメン)のつくりだす結合や反発の関係のすべてが世界である、それも一つの世界 Universe ではなく、無数の世界 Multiverse であるという考えかたを、起源も目標もない、つまり無神論で非権力の庭に女も奴隷も迎え入れたエピクロスの哲学、というより、生活共同体を説明することばだと思えば、うごいていく身体である意識の活動が、この社会で、この制度のもとで、すこしでも自由になっていく方向で、どんな音楽になって響くか、についてのひとつのヒントがそこにあるだろう。アルチュセールは、材料としての物質や化学物質とはちがう、実験装置としての物質、身振りの痕跡としての物質について語っている。音楽のなかで、音は身振りの痕跡であり、記憶を刻む装置ではないだろうか。音楽は、かつてあった音楽によって条件づけられ、ちがう時、ちがう空間に何回も呼び出され、あらためて問われる。

音楽的記憶を刻み、ふたたび刻む演奏のなかで、その瞬間に突然何の理由もなく起こるクリナメン、それは自由意志のたとえでもあるだろう。偶然のなかにおかれて、決められた意志からは予想できない決断をしつづける、という意味では、自由意志は意志ではなく、意志をもたないことでもない。抵抗する意志の持続とでも言えばいいだろうか。知らない海域で暗礁を避けながら舵を切る航海は、速いように見えても、舟はゆっくりうごいていく。直線に見えても、稲妻形に折れ曲がっている試行の連続。

創造は計画とはちがう方向に傾いていく。そうでなければ、何も起こるはずがない。それが一回限りではなく、何回でも起こる、可能なかぎり創造しつづけることは、時間を瞬間にまで圧縮することによって、うごきまわれる空間を無限大に近づけること。水のように浸透し、蔓草のようにひろがっていく。

たとえをつみかさね、慎重に書きすすめていると、いつかたとえが定着して、それとしての意味をもちはじめるのではないか。本を読みながら、手がかりになることばを拾いながら考えることもできるが、書かれたことばや思想の引用は、それらへの同化ではなく、そこから離れるための足場とも言えるだろう。一般化していく傾向、抽象化する観察。どこかで見切りをつけて、個別のケースにもどる時期が来る。たとえは必要以上のものを呼び込む傾向があり、そのあいまいさが逆に必要な場面もあるにしても、たとえは別なたとえと矛盾することでみがかれる。付け加えることも、削ることも、プロセスのなかで起こることで、そこにたちどまらないで、つづけていくこと、そしてここでは、ことばは音ではないことを、しかし音を考えるにはことばしかないことを、時々思い出しながら。