掠れ書き(3)

高橋悠治

ディドロは完成された絵画よりスケッチのなかに、反省に足を取られない、自由な思いと熱を感じた。スタイルや形式をととのえる以前に、うごきだす心と、そのうごきを拡大して外に投影する身体の尖端の軌跡。というよりは、ものに感じてうごく身体が、心というはたらきだとするならば、心は実体のないうごきの影にすぎない。身体のうごきは、心という記録印画紙上の霧箱写真から推定する放射曲線。その曲りは、三次元空間のなかである角度から見た方程式では解けない。ひとつの空間のなかでいくつかの線が交錯するというよりは、それぞれの空間、それぞれの場が自律してうごきながらも、決して交わることがない、これがコミュニケーションといわれるものだろう。すれちがうバスのなかで、知っている顔を一瞬見たように思う、それとおなじで、一瞬の理解の錯覚のなかで、つきあいの広場がある。それもまた、もっと大きな都市の一部にすぎないから、出会いは方向や展望をえらぶ自由のなかに浮かんでいる。

エピクロス派のクリナメン。ミシェル・ビュトールははじめてナイアガラの滝を見たとき、このことばは思い出したと言った。落ちてくる水が水にぶつかり、はじきはじかれ飛び散りながら、激しい音を立てる。落ちていく粒子がわずかに曲り、ぶつかりはじきあって飛び散り、さまざまなかたちをもった世界を創る。生きている世界には純粋なものはない。人間もひとりひとり不純な混ざり物の一時的で偶然の結びつきとして生きてうごいている。そこにはわかりにくさ、予測できない行動がついてまわる。古代ギリシャ人にとって、死とはこの偶然の結合体が解体して、個々の原子に還る場面だった。それで終わりではない。原子の運動は停まることなくつづいていく。

エピクロス派にとって世界は一つではない。原子の結びつきは同時にたくさんの宇宙(multiverse)を創る。普遍主義(universalism)の思い上がり、自然支配の欲望はここにはない。それは戦乱の時代だった。時代は変わっても、平和が来ることはないが、閉ざされた庭で世界をやり過ごすのとはちがう知恵もいくらかは生まれたようだ、希望の断片を痕跡のなかにみつけながら。

人間は風であり、影にすぎない(ソフォクレス 断片13)。 影は無にひとしく、風はさまようもの、だが影も風もとらえがたい。さまようもの、無にひとしいものだからこそ、自由なのかもしれない。世界は実験室。自由は、ためらわず行動に踏み出していく。未知の発見はまさに、知らないところから、判断の誤りから、失敗からひらかれる。

わからないというわかりかた。道得也未(道元)。転換(あるいはメタフォア)の可能性。知る限界を超えて彼方へ飛び翔るのではない。メタフォアはこちら側にひきおろす。歴史のよみなおし、喜劇としての、パロディーとしての、本歌取り、コラージュ、神秘や権威を批判する歩み。

すでに起こったことを状況や文脈から切り離して固定し、一般化し、抽象化し、一つの原理で閉じられた構成を作る。それは内部から外部に向う表現であり、experssの文字通り、外へ向って圧力を加え、意味を伝え、支配しようとする。これが制度のゲームだとすると、それを受け取る側にはimpressed内側へ押し込まれる理解と感動の美学しか残らない。それが音楽の権力。それと一体となった社会制度、本質論の哲学のなかで、音楽は非日常のもの、無用の用となって現状維持に奉仕する。

現状維持は押しつけられた眼に見える部分だけでなく、内面化されて作用している影の力でもある。全体を一度に変えようとする革命理論ではなく、疑いや細部の逸脱からはじまる複雑な身体ゲームが、偶発的に心理的な拘束を崩していく。それは圧力ではなく、力がぬけていくような不安定なプロセスとなってあらわれる。例外のない規則はない、というよりは、規則は例外を排除することでなりたつのだから、例外を作りながら、別な規則にすりかえるのではなく、境界のあいまいな領域のかさなりを、力のはたらかない空白を不均等に生み出す速度、ここで意識はまた飛白にもどってくる。