製本かい摘みましては(142)

四釜裕子

新聞紙の一面に毎日自画像を描いてきた吉村芳生(1950-2013)さんの〈新聞と自画像 2009年〉を東京ステーションギャラリーで見た。近くのコンビニに毎日出かけて新聞を買って、毎日1枚、鉛筆で1年間、描き続けたという。新聞紙いっぱいの顔が縦4つ、40メートルにわたって壁に並んでいた。鉛筆で何回も重ねたところは照明の具合で光って見えなかったり、おでこのあたりに重なるカラー写真の黒々がぐっと突き出て見えたり。紙面に反応するような表情がおもしろい。英字新聞もあった。遠目に見ると、日本の新聞は英字新聞に比べて全体に淡く感じられる。

その後パリで暮らしたときに、現地の新聞に5か月で1000枚の自画像を仕上げて〈パリの新聞と自画像〉としている。会場には数枚展示されていて、残りはきれいに積み上げられていた。タブロイド判で写真の割合が多く、色合いは優しい。ところが表情は厳しく単調で、顔が画面に埋もれているように感じる。緊張みたいなものでぎゅっと詰まって見える。これを描くためにパリに行ったとは感じにくい。改めて2009年版を見ると、一枚一枚が風船みたいにふくらんで見える。むっとした顔すら穏やかだ。百面相やりすぎじゃないかしらと最初は思ったけれども、このとき描いていたのは自画像ではなくて、顔の筋肉がどれだけ動くのか、ほうぼうに寄る皺を観察していたのかもしれない。こうなると、日本の新聞が海外の新聞に比べて淡く感じたのは気のせいだったのだろう。

昔の新聞に比べたら昨今の新聞は淡い。字は大きくなったし組みもゆったりになった。どれくらい変わったのか、朝日新聞デジタルの記事で朝日新聞の変遷を読んでみると、1951年〜15段(一段15文字)、1991年〜15段(一段12文字)、2001年〜15段(一段11文字)、2008年〜12段(一段13文字)、2011年4月以降は13字×12段のまま一文字をより正方形に近づけたそうだ。明朝とゴシックの見分けを強化したりルビを読みやすくするなど、文字そのものの見直しもされている。詰め込みから読みやすさへ。ありがたいと思える年代になってきたいっぽうで、単純計算ながら、30年前の新聞に比べて減った文字数3割は毎日どこにいっているのだろうとも思う。海外の新聞は、どう変わっているのだろう。

吉村芳生さんの個展は大きく分けて3部構成になっている。自画像、モノクロの版画やドローイング、そして、色鮮やかな花々。その多くが、最終的に、画面に大小のマス目を引いて、順番に埋める、という手法だ。小さいマス目は2.5ミリ四方。色鉛筆で描いた花々は巨大なものが多いのだが、それにも、マス目。絶筆となった〈コスモス〉にそれがはっきり残された。思えば自画像の制作も、新聞紙、つまり一日をマス目として埋め尽くすことだったのだろう。〈コスモス〉にあらわれたマス目の大きさを自分の目にセットして、作家の書き順に習い、画面左下から、一枚ずつ写真に撮るように見てまぶたを閉じ、次のマス目に視線を移してみる。このひとの絵は、一枚ではなくページであった。