製本かい摘みましては(159)

四釜裕子

蠟を塗った紐をといて褐色の包装紙を破ると、本のあいだから8ページの紙切れが滑り落ちた。開くとこう書いてある。〈イギリス、アメリカおよびイギリス植民地における文献閲覧者の協力を求めます。20年前にたいへんな熱意をもって開始された篤志協力者の仕事を完成するために、まだ調べられていない書籍を読んで引用する仕事をしていただきたいのです〉(サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』 鈴木主税訳 早川書房 以下同)。

19世紀、イギリスでの話。引用したのは、オックスフォード英語大辞典(OED)の2代目編纂主幹フレデリック・ファーニヴァルを継いだジェームズ・マレーが、1879年に新聞や雑誌、書店などに送った「訴え」の一節だ。言葉の用例を探すのに篤志家を募っていたが、遅々として進まず、20年ぶりにカツを入れたということらしい。
巷に放たれた2000部のうちの1部が、ある日、バークシャー、クローソンにあるブロードムア刑事犯精神病院の独房に届いた。受け取ったのは、被害妄想でまったく関係のない人を殺めて収容された米国陸軍退役軍人のウィリアム・マイナー。褐色の包装紙で包まれ、蠟を塗ったより紐で縛られて持ち込まれた本のあいだに、その訴えを見つけた。読むとすぐに協力を申し出るのみならず、独自の方法で早速作業を開始したそうだ。

〈マイナーは引出しから一つづりの白い紙と黒インクの瓶を取りだし、ペン先が非常に細いペンを選んだ。紙を折って8ページの小冊子の形にした。(略)興味をそそられる言葉を見つけるたびに、マイナーは自分でつくった8ページの用紙の正しい位置に、拡大鏡が必要なほど細かい文字で書きとめていった〉。

米国陸軍退役軍人として給料と年金を受けとっていたこともあって独房は2室続き、絵を描いたりフルートを吹いたり、多くの書物や酒を持ち込むことも許されていたようだ。訴えの主が望むような稀覯本をすでにいくつか持っていたために、まず手持ちの本から言葉のリストを作り始めたということになろうか。言葉と、書名と、ページと。数年かけてこの作業を終えると、どんな言葉の用例を今必要としているのかを先方に尋ね、それで初めて例文を記述して郵送することを繰り返したようだ。
マレーとマイナーは長く面識を持たなかった。小包にある「バークシャー、クローソン、ブロードムア」という住所からマイナーの素性を知ることはできず、時間と金に余裕のある博識な医師だろうとマレーは思っていたそうだ。

ウィリアム・マイナーは1834年、アメリカに渡って7代目で印刷会社を経営していた父が、宣教師として赴いた地・セイロンで生まれている。イェール大学に進み、軍医として従軍した南北戦争で精神を病んでしまう。1866年、コレラの治療に尽くした貢献が認められて大尉に昇進するが、妄想による症状が進み退役となる。その後、滞在していたロンドンで事件を起こしてしまい、1872年、精神異常を証明された刑事犯として、〈女王陛下の思し召しのあるまで保護処分とする〉との判決で終身監禁となる。1910年、マイナーの弟は米国陸軍から「英国内務大臣の同意があるなら」との条件をとりつけ、ときの内務大臣ウィンストン・チャーチルの了承を得て、マイナーを米国に戻すことになる。

ジェームズ・マレーは1837年、スコティッシュ・ボーダーズのホーウィックにあった仕立て屋と織物商を営む家に生まれている。十代ですでに博学ぶりを示し、学校のノートの余白にはラテン語で「刻苦勉励の人生に勝るものなし」と書いていた。貧しい家の子がたいていそうであったように14歳で学校を卒業。〈知識を得ること自体が目的で、しかもしばしば変わった学び方〉をしたそうで、シリウスが地平線上にあらわれる時間を計算して弟たちにその瞬間を見せて喜ばせたり、遺跡をがむしゃらに発掘したり、牛にラテン語を教えたり。〈製本のしかたも習った。自分で書いた文章を自己流に飾り書きにして品のよい小さな絵をつけたりもし、中世の修道院写本彩色師のようだった〉そうである。独学で言語学を極めるとやがてOED作りをおしすすめる責任者となり、冒頭の8ページの紙切れで同じ時代に生き合わせたマイナーと出会うことになる。

11月になって『博士と狂人』の映画版を観た。マイナーが〈引出しから一つづりの白い紙と黒インクの瓶を取りだし〉、〈ペン先が非常に細いペンを選〉び、〈紙を折って8ページの小冊子の形に〉するシーンを期待したのだけれど、見逃したのか、なかったのか。原作には〈8ページずつに綴じたそれらの用紙〉ともあったので、一枚の紙が折ってあるだけなのか、ナイフで切って開いてあるのか、あるいは紐で軽く綴じてあるのかも見てみたかった。
マイナーは〈注文した初版本の裁断していないページを切るため〉にナイフの所持を許されていたが、それほど使っていないようだとも書いてあった。実際はどうだったのか。「8ページの小冊子」は〈現在もOEDの記録保管所に保存されており、それらを見る人びとは思わず息を止めて驚嘆している〉そうだ。ネットで見られるのだろうか。ナイフはのちに、痛々しい事故の道具となってしまう。

原作の後ろにある「著者の覚書」には、そもそも著者のサイモン・ウィンチェスターが辞典に関心をもったきっかけが記されている。オックスフォード大学出版局で働く友人に倉庫を案内してもらった記念に、放置されていたOEDの凸版印刷版を3枚もらったそうだ。その後引越しのたびに、humoralからhumourまでが載る1枚をお守りのようにして持ち運び続け、あるとき、興味を示した人に貸したのだそうだ。するとしばらくして、手漉きの紙に青と赤で1部ずつ刷り、プレートを中央にして3つ並べて額装してくれて、今それは著者の自宅の壁にあり、その下に、第5巻の同じページを開いて置いて、いわくそこは〈辞書編纂と印刷の喜びや言葉の楽しみをおさめた小さな聖堂〉だという。
続いて、それを見た著者の母親が、humoristという言葉が最も大きいスペースを占めていることに気づいて偶然思い出した話が続く。さらに著者は「参考文献」の記述の文末に、〈辞典のなかで偶然、何かを見つけるのがとてもすばらしいということに、異論を唱える者はまずいないだろう〉と書いている。

本書は、マイナーが妄想の末に命を奪ったジョージ・メリットに捧げられている。マイナーがマレーからの訴えを見つけた包みをたまたま運んだのは、なんとジョージの妻・イライザだった。あの人がいなかったら、そこで出会わなかったら、といちいち言ってみたくなるけれど、そうではない世界というのはないことにまともに向き合うと、我が身に寄せてぞぞっとする。思い出す限りをたぐってつなげて、会うべくして会ったとか偶然にもとか言ってみるのは、考えるのに飽きたりむなしくなるのを納得なるもので避けるためなのだろう。誰の生も死も、納得することは不要だろう。