製本かい摘みましては(130)

四釜裕子

どこかわずか違和感をおぼえる日本語で話す5人の若い男が写真を撮ろうとしている。赤茶色の紙にガリ版で「LE MOULIN」と大きな「3」の文字。これで本文紙をくるんだ薄っぺらな冊子『LE MOULIN』の3号が、机に積み上げられる。仕上げはホチキスだろうか。送り先の名前を一人ずつ書いた短冊状の紙を中にはさみ込む両手が映る。先の5人のうちの誰かだろう。顔は映らず、まさか誰かがひとりで作業しているわけでもあるまいに、そのにぎわいも映らない。黄亞歴(ホアン・ヤーリー)監督の『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』の冒頭だ。

日本統治下にあった1930年代の台湾に、日本語で詩を書くグループがあった。「風車詩社」といい、中心となった楊熾昌(よう・ししょう)は東京の文化学院に学び、『椎の木』や『詩学』、『神戸詩人』に投稿していた。1933年、李張瑞(り・ちょうずい)、林永修(りん・えんしゅう)、張良典(ちょう・りょうてん)らと作ったのが同人誌『LE MOULIN 風車』である。西脇順三郎、ジャン・コクトーなど当時の多くの文化人の影響を受けて、台南で日本語による新しい台湾文学を築こうと活動していた。会は一年半で解散、『LE MOULIN 風車』も4号までだったが、同じ時期、1910年に台湾に家族で渡り早稲田大学を卒業して1933年に台湾に戻っていた西川満が台湾日日新報社で学芸欄を担当しており、彼がなにか大きな役割を担っていたように見える。

映画は、実際の日記や写真、記事を骨組みとして、おびただしい数の同時代の詩集、詩誌、絵画、写真、映画、ニュース映像、音声、音楽、そして日本語と中国語を併記した詩の引用を重ねて見せてくれる。その姿が確認できた詩集、詩誌だけでも、『MAVO』『薔薇・魔術・学説』『詩と詩論』『衣装の太陽』『椎の木』『三田文学』、西脇順三郎『Ambarbalia』、北園克衛『火の菫』、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』……、実際はもっとたくさんあったが、今思い出せるのはこれで精いっぱいだ。しかもその多くは誰かが持って来て「ほら、ごらん!」と机の上に置く瞬間を切り取ったようなアングルで、説明解説のたぐいもない。

冊子のみならず。ダリもキリコも古賀春江も三岸好太郎も山本悍右も、重厚な民族衣装をまとう女性の姿やサトウキビの収穫風景も、とにかくみな次々と。村野四郎の「飛込」に重なる繰り返しの飛び込みシーンはニュース映像か。大きく揺れる机で当時の台南での地震を知る。戦後蒋介石政権による白色テロで銃殺されてしまう李さんには、何十分か前に見た「白い少女」という複数の文字が画面いっぱいに拡大してきた映像が思い出されてしまう。実際に演じている人の台詞はごく少なく、ぎこちないのは日本語だからか。演技もあえてぎこちないように感じる。このめくるめく感じ。技法というようり、実感に近い印象を持つ。

昭和11(1936)年、コクトーが来日していたときに日本にいたのは、慶応義塾大学に留学していた林さんだろうか。フランス語ができないので作品を読んでもわからないけれども、新聞で動向をつかみスクラップするだけで楽しかったと話すのには大いに共感した。そこに、歌舞伎座で六代目菊五郎の『鏡獅子』を観るコクトーのニュース映像が重なる。隣には藤田嗣治。やはり新聞でコクトーの帰国を知った林さんが横浜港にかけつけると、江間章子の『春への招待』(1936)を手土産に抱えていた。日々の記録を、ときに写真を添えてのこしたようだ。大学では西脇順三郎に師事し、いっしょに多摩川を散策して深大寺でそばを食べた日の写真もある。先生はパイプを吸う、その隣りにいられることがうれしい、と書いた。

最後になって、西川満の小さな詩集がいくつか映された。『媽祖祭』(媽祖書房1935)と『採蓮花歌』(日孝山房 1936)か。『媽祖祭』は中を開いて、はさみこまれた複数のページもよく見せてくれた。コギトさんのホームページで見ていたものだ。こんなに小さくて愛らしいものだったとは……。『採蓮花歌』は画面では四つ目綴じに見えたが、改めてウェブに探すと高貴綴じのようだ。さらにウェブに西川満さんを捜しに行く。

中島利郎(なかじま・としお)さんの『日本人作家の系譜 日本統治期台湾文学研究』(研文出版 2013)の、「台湾文芸協会」の成立と『文芸台湾』——西川満「南方の烽火」から」に、装幀にも深い関心を持つ西川の姿があった。自宅で媽祖書房をおこし、300部限定の文芸誌『媽祖』、さらに詩集『媽祖祭』を330部限定で刊行したが、〈西川は戦前、自身の媽祖書房から限定本を出していたが、それらは七十五部限定のものが多かった〉、それは〈「真の読者は七五人居れば充分だ」という独自の考えがあったから〉とある。映画の監督がインタビューの中で、『LE MOULIN』の刷り部数は毎号75部だったと答えていたのが気になっていた。なにか縁起のいい数字なのかと思っていたが、西川の助言だったのだろうか。

・四季・コギト・詩集ホームページ/にしかわみつる【西川満】『媽祖祭』1935