製本かい摘みましては(134)

四釜裕子

田川律さんの『田川律〈台所〉術・なにが男の料理だ!』(晶文社)を古本屋で見かけたら必ずする儀式がある。中を開いて八巻美恵さんと林のり子さんが田川さんちでお料理を囲んでいる写真を指差し確認するのだ。抜けるはずはないのですけれど、確認、確認。今回手にしたのは「平野甲賀と晶文社展」(ギンザ・グラフィック・ギャラリー 2018.1.22〜3.17)でのこと。地階に平野さん装丁の晶文社本がおよそ600冊並んでいて、元に戻しさえすれば手袋なしで読んでかまわない。付箋や赤字が入ったものもある。あちらこちらで立ち読みが繰り広げられている。壁に張られた平野さんのコメントも楽しい。鶴見俊輔さんの座談シリーズの一角には、中川六平さんが鶴見さんとの席を設けてくれたのだけれども、平野さんの本に付箋をたくさん貼って持っていた鶴見さんを見て思わず辞退した、とある。実現していればこのシリーズに「デザインとは何だろうか」が加わっていたかもしれない、と。

上階には、平野さんが手掛けたポスターやチラシや本のカバーを再構築した作品や新たな描き文字が、和紙にプリントされて並んでいた。こちらもまたコメントが面白くて、しかもそれが作品に入りこんでいる。説明調でなく、吹き出しのかたちはないまでも画面の奥から平野さんの声で聞こえてくるよう。小沢信男さんの『捨身なひと』(晶文社)は、もともとは「捨身のひと」だったのに平野さんが間違えて「捨身なひと」にしてしまったんだけれどもこれでもいいかということで『捨身なひと』になった、とか。表紙カバーを再構築した一連の作品はもはや本のポスター、あるいは本の風呂敷とでも呼んでみたい。実際の本をこの風呂敷に包んで持ち歩き、杖代わりの棒に風呂敷をしばりつけて左右に振ればたちまち即売会場なんて、いい眺めではないですか。そうか、平野さんの装丁は、本のポスターを作ってそれを畳みこんだようなものなのではないかしら。

展の初日の平野さんと津野海太郎さんのトークはライブ中継で聞いた。この日、東京は予報通りの雪となり、早々に帰宅したので聞くことができたのだった。繰り返し出てきたのは「産地直送のデザイン」という言葉。これは、京都のdddギャラリーでの展示(2017.9.4〜10.24)中のギャラリートークで作家の黒川創さんが平野さんを評した言葉だそうだ。褒めているのかけなしているか考えたのだけれども、産地にいる人たちと僕もいっしょに働いているというかたちを言ってくれたようにも思うし、あるいは安くて単純なデザインということなのかわからないけれども、悪い気はしなかったと平野さんは言った。僕のデザインは出たとこ勝負、練り上げたものはないからね、ともおっしゃったけれども、現場というかいつも近いところでデザインしているから、デザインの完成が本や舞台そのものの完成と時差がなくて、練り上げる時間も、それをする必要もないのだと思う。「産直のデザイン」とは、平野さんには実に格好良く似合う。

この対談は展の期間中、ユーチューブで公開されている。津野さんは「新日本文学」で杉浦康平さんとの仕事を通して、〈デザイナーがかかわると雑誌というのはこんなにも変わるのかというブリリアントな経験をした〉。それで晶文社に平野さんを誘い、以降多方面で行動を共にして、〈この人がいないと僕の場合はだめ〉だったと言う。そうして平野さんが始めた装丁はありとあらゆる分野の本に広がった。〈本が好きというのではなくて、本が扱っている世界に色気を感じてたというか、おれもこれくらいの教養のある世界にいたいという思いはあった。でもそこで何か勉強してかっこつけようというのはなかったね。あこがれの世界だよ〉。東京の蕎麦屋の味が変わったことに腹をたてていた。もううどんしか食べないとも言った。展示を観たあと、私は平野さんと小豆島を思いながら小豆島大儀銀座店でごぼう天うどんを食べた。三つのごぼう天のうち、一つは汁にたっぷり浸してあるのがいいと思った。