製本かい摘みましては(136)

四釜裕子

大西巨人は『広辞苑』第六版を発売日の2008年1月11日に大宮そごうの三省堂で買っていた。妻の美智子さんには、「わからないことがあったら辞書を引きなさい、自分で引くくせをつけなさい」と言っていたそうである。美智子さんの『大西巨人と六十五年』(光文社)の最後にこうある。〈この記録を書き進めた二年間、巨人の遺品の『広辞苑』第六版(裏扉に巨人の字で、「2008・1・11 大宮そごう 三省堂」とある)に助けられて終了した。辞書はいたんでしまった〉。装幀は川上成夫さん。表紙には紫色の花を好んだ巨人に向けた桔梗がある。丸背で軽く柔らかく、読みやすい。着ている服が服としてのスタイルではなくいちばん外側の肌のようになじんで見える人(杉村春子や沢村貞子の着物姿のような)がいるが、それに似ている。

2018年1月12日、10年ぶりに改訂された『広辞苑』第七版は前版から項目数がおよそ一万、ページ数も140増えたけれども厚みはそのままと聞いた。この10年で製本機械はより厚い本を作るために改造されることなくマックス8センチ厚をキープして、それにセットできるようにより薄い紙の開発がなされたようだ。言葉の意味や用例が間違いも含めてこれほどネットで見られるようになると、調べるより読む本としての紙の辞書の面白さが際立ってくる。実はここ数年、うちに紙の広辞苑はない。久し振りに広辞苑という本を買おうかなと本屋で下見した。新品辞書ってこんなにツルッツルしていたのか――。初めて自分専用の英和辞書を持ったとき、上級生からの申し送りで、まず揉んでしわくちゃにするのがいいんだってと最初のページに五本の指先をヒタッとつけた感じがよみがえる。

『大西巨人と六十五年』は、美智子さんが家計簿の余白などに書いていた文章を整理したものだそうである。1944年に女学校を卒業、46年、通りに貼ってある雑誌「文化展望」創刊号のポスターに遭遇、兄に言われて買いに行き、そこで12歳上の巨人と会い、編集部に務めるようになり、やがて結婚する。2010年、第二腰椎を圧迫骨折したのをきっかけに巨人の暮らしは大きく変わる。遠出は2012年10月24日が最後となり、以降、記述は日付を追い、2014年2月26日の退院から亡くなる3月12日までは、自宅で介護した美智子さんとの会話が中心になる。痛みや朦朧ではばまれる巨人の言葉を、美智子さんがこれまでのお二人のいつもの会話で反射的に引き出すシーンがいくつもある。「ことばを忘れたきょじんさん、うしろのやぶにすてましょか♪」「いえいえそれはかわいそう」。言葉にならない声も美智子さんは記す。〈アブラ、アブラ、ブラ、アイブラー、アイザー、アラー、ア、アユーザ、アユラ、アー、ハー、ブラーアイブラー、ブラー、ブラー、アイー、ユラー、書とめられない早さと種類を発する。言葉を発する度に握っている手に力を入れる〉。

巨人は、執筆が進まなくなるとボロボロの蔵書を装幀し直したそうである。美智子さんは、〈装幀に熱中している時さまざまな話を聞いた〉。ちょっと長くなるのだけれど、そのまま引用させていただく。

〈ご飯を丹念に粘り合わせて糊をつくる事から始める。裁縫用の篦を自分用として所用していた。見ていると、面倒なことを苦にすることはない。文庫本、単行本、大型本、『広辞苑』、どんな本でも手掛けた。
 最初に本をばらばらにする。改めて、たこ糸より細くて強い糸で綴じる。扉も表紙も作り変える。表紙は私が保存している余り布から選ぶ。
 将来赤人のためにと雑誌に掲載された翻訳小説の中から選んで、二冊の本にしている。表紙は私の夏物のワンピース、水玉模様の布を利用している。半世紀以上の年月を経て、手垢で薄汚れているが、「赤人文庫」と墨書きされて頑丈に出来た手製の本は蔵書の中に存在している(『日本人論争』の口絵写真の中に、「葉山海岸にて」がある。武井さん達と遊びに行った時、私が着ていた服の余り布とわかる)。古くて痛んだ本はニスを塗って補強してある。〉

背文字が薄くなった全集は、和紙に墨でタイトルを書いて上から貼り、印刷と見紛うようだったそうである。森鴎外と芥川龍之介の全集はそれぞれ、布表紙の上からオレンジとミドリ色のマジックペンで塗りつぶしていた、ともある。布の柄が気に入らなかったのだろうか。それぞれの色に意味があったのだろうけれどもマジックペンでは時間もかかるし臭いもきつかっただろう。〈作業する日は、部屋中シンナーの匂いが満ちていた〉。欧米戯曲全集は装幀をし直すと早くから言っていたそうだ。しかし、〈革表紙はボロボロはがれる。冊数は多い。適切な余り布がない。材料を揃えて完成させるつもりだっただろうが、果たせぬまま玄関の板の間に積み上げたままになった〉。