製本かい摘みましては(146)

四釜裕子

「ル・コルビュジエ」がペンネームだとは知らなかった。本名、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1887年スイスに生まれ、通っていた美術学校の先生のすすめで建築方面へ進み、1912年には事務所を構える。5年後、パリに移って画家のアメデ・オザンファン(1986年生)と出会い、〈機械文明の進歩に対応した「構築と統合」の芸術を唱えるピュリスムの運動〉を始める。1918年、ドイツ軍によるパリ砲撃が始まるとオザンファンはボルドーへ避難、ジャンヌレが訪ね、以降、油絵を始めたそうだ。第一次世界大戦集結1ヶ月後の12月、ギャラリー・トマでオザンファン&ジャンヌレ展、共著『キュビズム以降』を刊行して「ピュリスム」を宣言。1920年からはおもに2人で雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を刊行するようになり、ここで初めてル・コルビュジエを名乗ったそうだ。概要を把握せずに出掛けた国立西洋美術館60周年記念『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ピュリスムの時代』展で、スロープを上がったら淡白なデッサンが並んでいて、若きコルビュジエが影響を受けた作品群かと思い近づくと長い作者名のあとに(ル・コルビュジエ)とあり、初めて知った。

図録にあるピエール・ゲネガンさんの「ビュリスム 新精神の人、アメデ・オザンファン」に、ペンネームを決めたいきさつが詳しくある。オザンファンがジャンヌレと連名で「エスプリ・ヌーヴォー」に建築論を連載するにあたってすすめたのがきっかけだったようだ。従兄弟の名前のルコルベジエを言うとオザンファンは、「2語に分けるともっと立派に見えるだろう!」。さらに、中世の教会には「君の国のヴィルヘルム・テルみたいに、鐘楼の上にとまって糞をするカラスに弓を射る役目の人間」がいてコルビュジエと呼ばれたこと、「君の役目はまさに建築を……(原文伏字)するのだから丁度いいではないか。それに君の顔はカラスに似ている。この名前は君にぴったり合っているよ」(オザンファン『回想』より)と。〈私は自分と彼の本名を絵画と美学の論文に残しておきたかった。それで私は(建築に関する論文に)母方のソーニエという名前を使った。だから彼にも母親の名字を使うように言うと、ジャンヌレは、それはできないというのだ。「母の姓はペレだから。オーギュスト・ペレと一緒にされてしまう」〉。

ジャンヌレはオザンファンの隣人でもあったオーギュスト・ペレを介して初めてオザンファンと会っている。パリに移る前からオザンファンが出していた『エラン』(1915-16)という雑誌を見ていて、〈フランスとドイツの近代芸術を比較した自著の出版に協力を仰ぐことが第一の目的だった〉のではないかと、図録の他のところにあった。2人はやがてたもとをわかち、ル・コルビュジエは建築家としての評価を高めていくが、その間も絵を描き続け、1928年からは油彩画にもこの名をサインするようになる。

オザンファンの助言を得て始めた身近な静物の素描には、瓶やグラス、パイプ、ポットなどのほか本も多く描かれている。《カップ、本、パイプ》(1917 鉛筆、紙)の本は無地で開いてあり、特によく開くページがあったのか、小口の一部がはっきり乱れている。《本、コーヒーポット、パイプ、グラスのある静物》(1918 鉛筆、紙)には閉じた3冊の本が積まれている。右に伸びる影のかたちを好みに作るためであるかのように、重ね方に乱雑風の装いがある。〈最初のタブローである〉と本人が言う《暖炉》(1918 油彩、カンヴァス)には、画面中央に豆腐のような白の立方体、その左に2冊、画面左下に2冊、それぞれ重ねた背を手前にして描かれている。下の2冊は隆々たる背バンド付き、上の2冊はあっさり製本、いずれも柄は排除されて淡い濃淡でシルエットが見える。《開いた本、パイプ、グラス、マッチ棒のある静物》(1918頃 鉛筆・グアッシュ、紙)は本がメインだ。ぺったりと開ききったページにうっすらと図や文字が見える。オーギュスト・ショワジーの『建築史』(1899)の古代ギリシャ建築イオニア式柱頭に関するページだそうで、実物の該当ページが開かれてそばに展示してあった。

油彩になると、《青い背景に白い水差しのある生物》(1919 油彩、カンヴァス)、《赤いヴァイオリンのある静物》(1920 油彩、カンヴァス)、《垂直のギター》第一作(1920 油彩、カンヴァス)、《積み重ねた皿のある静物》(1920 油彩、カンヴァス)など、開いた本が口髭のようにみえるシルエットとしてたびたび現れる。本文が180度ぺったり開かない硬い背の本を、こんもりと両ページが等しく曲線を描くように真ん中から開いた状態で、それをコンクリートで固めて縦に置いたり横に置いたりという具合。口髭というか、古典建築の柱の上部辺りも連想されて、それは、白い皿をやたら積み上げたものがバウムクーヘンというかやはり古典建築の柱を連想させることや、パイプが排水管を連想させるのに似ている。

《アンデパンダン展の大きな静物》(1922 油彩、カンヴァス)になると、本は画面右奥に立てられて瓶の背景を白くする役割になる。デッサン《ヴァイオリン、グラス、瓶のある静物》(1922 鉛筆、パステル、紙)を見なければ、それとは分かりにくい。《多数のオブジェのある静物》(1923 油彩、カンヴァス)や《エスプリ・ヌーヴォー館の静物》(1924 油彩、カンヴァス)は見た中でもっとも描かれたものの数が多いが、はっきりと分かる本を見つけることができない。改めてル・コルビュジエの建築写真を見ると、曲線部分がことごとく紙に見えてくる。1932年、エスプリ・ヌーヴォー社の株主総会で解散を正式に決定。ル・コルビュジエは1965年8月27日、オザンファンは1966年5月4日に亡くなった。