製本かい摘みましては(155)

四釜裕子

窓辺の本が、けぶるような雨をぬって射し込む光を表紙カバーの銀に集めてきれいだ。小さく並ぶ銀のポツポツはこの本に登場する350冊の〈美しい本〉のタイトルで、漢字は濃く、かなと○は薄く、雨だれのように光って流れ込んでくる。タイトルは、表紙カバーの裏に続いてカバーを外した表紙にも続く。色合いもすごくいい。臼田捷治さんの『〈美しい本〉の文化誌 装幀百十年の系譜』(Book&Design)だ。
箔押しを担当したコスモテック社の方の「note」によると、繊細な文字の表現と、印刷と箔押しの位置合わせが難しかったそうだ。紙は「アングルカラー」のきぬ白、四六判130キロ。ストライプ模様のテクスチャーがあって、その凹凸に左右されることなく箔を押しとどめるための接着剤選びにも苦心されたようだ。そういうことを何ひとつ知ることなく銀の雨だれに見とれたのは、閉じこもりが始まってまもなくの春の雨が続いたころだ。今夜の雨は梅雨前線によるもので、時折吹きつける強風のために窓を開けておくことができず蒸している。

大きくみて、装画家や版画家が表紙絵だけを担った時代から、グラフィックデザイナーが本文の組にいたるまで尽くした時代、そして現在と、日本における洋装本の装幀文化史はたった110年ということにも改めて驚く。さまざまな立場の人が残した装幀にまつわる言葉をたっぷり引用しながら、臼田さんは350の〈美しい本〉について細かく言及する。膨大な数の人名書名社名に羅列感はなく、読んでまずなめらかだ。カラー写真が添えてあるのはごく一部。全て見られたらもちろんサイコーだけど、読み物としての物足りなさを少しも感じない。字数ミニマムを極めた〈美しい本〉への賛辞には妖艶さすら漂う。三島由紀夫が『聖セバスチァンの殉教』(編集・装幀 雲野良平)について語った話のあとはこうだ。《生き物を菰の上から育て上げるのと類するような手間暇と愛情を惜しみなく注いだ本書が理想の美本の代表格であったろうと推測する由縁である》(p216)。

冒頭の口絵16ページにはこんな言葉が添えられている。「時代を隔てたふたりによる〈共作〉」「象徴詩と近代詩へのしつらい」「『装幀は要するに女房役であって、内容をうまくおさめて行くと云う仕事……』」「独自の世界を究めた昭和の名匠ふたり」「詩人装幀の系譜の清新な流れ」「世界的な創造者による稀有な結実」「画家による仕事の新次元」「本文組を起点とする新しい歴史と東西の造本言語の融合と」「プレモダンの劇を鮮烈にかたちにする」「著者自装と九〇年代〈美本〉の白眉」「〈美の使徒〉への至上のオマージュ」「〈版〉の重みと版画家が紡ぐ物語」「確かな感触を取り戻すチャレンジ」。それぞれどんな本が並んでいるかはページをめくってのお楽しみ。

第4章「装幀は紙に始まり紙に終わる 書籍のもとをなす〈用紙〉へのまなざし」から第5章「〈装幀家なしの装幀〉の脈流 著者自身、詩人、文化人、画家、編集者による実践の行方」への流れが特にいい。時代時代で装幀のメインストリームに立つ職種やムードがあるわけだけど、そういうのに任せっきり、あるいは任せられっきりなのにがっかりする臼田さんの姿がときどき現れる。こういうとき、人の側ではなく本の側からしゃべっているように感じる。《装幀が〈素人〉にも開かれ、門外漢がもっと口出しできるような状況が再び来てもよいのではないだろうか》(p157)と言っているのも、〈素人〉擁護でも〈玄人〉批判でもなく、本たちの窮屈の声に聞こえる。

自装は〈素人〉装幀の代表と言っていいのだろう。1920~30年代ころの自装本は《とくに専門のブックデザイン界からの評価はきわめて低》(p164 )く、古臭いと思われているそうだ。どう言われようが私は好きなのでかまわないが、あの時代の自装本が華やかだったのは《出版界にもそれを受け入れる度量があった》からともあるので、一般読者には分からぬ装幀界の窮屈があるのかもしれない。
大庭みな子の『寂兮寥兮(かたちもなく)』や永井荷風の『来訪者』に触れたあとには、《……その自装本の巧拙をうんぬんしても始まらない。いかに等身大の自分自身を出すか、に尽きるだろう。余計な気取りも背伸びも無用。自然体で臨めばよいことをふたりの実践は示している》(p170)と書く。高度成長期以降を代表する編集者装幀の名人としてあげた、萬玉邦夫、雲野良平、藤田三男について述べたあとはこうだ。

《……渡辺一夫の装幀について串田孫一がそれを余儀だとか専門家級だとか枠づけすることが無益であることを的確に指摘したように、三人の装幀術を玄人はだしだとか、あるいはセミプロ級の仕事だとかといったレッテルを貼ることには慎重でありたい。安易にすぎる〈地勢図〉への落し込みになるからだ。三者の仕事は現在の支配的なブックデザイン作法に照らすと、突き刺さるように鋭角的な洗練度には物足りなさがあるかもしれない。が、そうした比較に意味はないだろう。(略)ブックデザイナーにとっては装幀の仕事ひとつひとつはワン・オブ・ゼン。それに対して編集者のそれは、言ってみればワン・オブ・ワンである。この違いは小さくないはずだ》(p218)。

ここに垣間見えるのも本の側でしゃべる臼田さんだ。本書のタイトルすらそう見えてきて、これは〈美しい本〉の自叙伝なのかなとも思う。いちおう言っておくが、ワン・オブ・ワンの装幀をしている装幀家にももちろん言及しておられる。

北原白秋は、自装した第2歌集『思ひ出』の前書きに「こうしてこの小さな抒情小曲集を今はただ家を失ったわが肉親にたった一つの贈物としたい為めに」「而して心ゆくまで自分の思を懐かしみたいと思って、拙いながら自分の意匠通りに装幀」したと書いたそうだ(p157)。志茂太郎の「ツキつめて行けば、紙と印刷だけで本は成り立つ」(p140)にならい勝手に言ってみるならば、ツキつめて行けば装幀は、それを運ぶため、届けるため、手渡すための包みと思う。
本の表紙が、装幀する人や手がけた人、売る人のギャラリーとなり本屋やネットに鼻息荒く並ぶことへの居心地の悪さがある。装幀には本という商品のパッケージの役割があると言うならば、手に取らせる陳列のためばかりでなく、手渡しする包みとしての思いは浮かばないものなのだろうか。臼田さんの「ワン・オブ・ワン」に、本屋の平台の前でときおりひとりごちるセリフが重なる。