人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1982年7月号 通巻37号
        
入力 棚町幸則


中上健次は軽蔑に値する 久保覚
詩 カラワン スラチャイ・ジャンティマトン
女二人、カラワンとともに
  福山伊都子 八巻美恵 スマナー・ナナコン 荘司和子
カラワン回想録(追加) ウィラサ ク・スントンシー
コ ピー文化時代の著作権 高橋悠治
「花嫁」たちのアメリカと日本 星 野敏子
編集後記



中上健次は軽蔑に値する  久保覚



ことしのはじめ、そのころ来日していた韓国の民俗舞踊家金淑子さんから話をうかがう機会があった。去年の秋日本で公演したパンソリの金素姫さんもそうだと いうことだけれども、韓国の民俗芸能の専門家は、シャーマンであるムーダン(巫堂)の家系の出身者である場合が多い。金淑子さんも、単なる舞踊家ではな く、京幾道安城の代々続いたムーダンの娘であり、京幾道巫俗舞踊の第一人者として知られている人である。

民族舞踊、民族音楽をはじめとして、パンソリにしても、また仮面劇にしても、朝鮮の民俗芸能はほとんどが巫俗を母胎として生まれてくる。そして、金淑子さ んのような巫人家系に生まれたためにムーダンになる世襲巫は、いわゆる「巫病」にかかってからムーダンになる降神巫、突発巫とはちがって、幼児のころから 歌、踊り、楽器演奏の一切の技術を習得してきた総合的な民俗芸能の伝承者でもある。朝鮮のシャーマニズムはその呪術性の一面と同時に、歌舞を中心とした 「遊興」の一面も本質的な要素としてもっている。つまり世襲巫という存在は、一定地域の専属ムーダンとして寶神や祈願の巫俗行事をつかさどりつつ、また民 衆の娯楽の提供者でもあった。韓国のすぐれた民俗芸能の専門家が、ムーダン出身者が多いというのはそういう理由からである。

ぼくが金淑子さんをたずねていったのは、それまでただ書かれたことをとおしてだけ知っている巫俗と民俗芸能のかかわりのじっさいを、ムーダン出身者である 金淑子さんから直接教えてもらうためだった。日本にいて、そんなことができる機会はめったなことではあるものではない。ぼくはいくつもの質問を用意してで かけていった。

だが、話の途中で、日本の植民地時代に日本が朝鮮の民衆と民衆文化にたいしておこなった苛酷な仕打ちのために、金淑子さん自身が体験しなければならなかっ たことを聞き、ぼくはあとの質問を続ける言葉をうしなってしまった。

「わたしは七歳の時から、タバコをすっているんですよ」――いくらか羞らいをこめながら、そう、金淑子さんが語りはじめたのが話のはじまりだった。

金淑子さんは一九二七年生まれだから、七歳というと一九三四年(昭和九年)のことだ。この年、金淑子さんは父親の金徳順さんと一緒に警察に逮捕されて、留 置された。べつに犯罪をおかしたためではない。金徳順さんが娘に音楽や舞踊を教えたという、ただそのためだけのことである。



韓国の民俗学者崔吉城氏は、その『朝鮮の祭りと巫俗』(第一書房)のなかで、「日本植民地政府は迷信打破の名目下に村人の団結力を強める村祭り、特に別神 クッのような祝祭を禁止する政策を施行した」と書いているが、その「政策」の「施行」のために、朝鮮総督府はムーダンたちのことも弾圧した。つぎの、警察 などの行政力を動員して現地調査をおこない、それを朝鮮総督府嘱託である「民俗学者」村山智順がまとめた、朝鮮総督府調査資料第四十四輯『朝鮮の郷土神祀 第一部・部落祭』からの引用をよんでみてほしい。

「部落祭に際して舞楽を奏することは、現在にては余りその多きを見ず、またその規模も至って小なるものであるが、今から二、三十年前までは相当盛大なもの が各地方に行はれて居たやうである。元来この祭神舞楽は、伝統的にクツ(神楽)ノリ(神遊)を専業として巫覡及び舞踊曲芸に堪能なる広大等に依って行はれ て居たものであり、又この祭神舞楽には多額の経費を要し、且つこの祭場が全く一種の娯楽場視さられ、享楽場化される因をなしたものであった。そこで二 三十年前から諸事革新の機運が動くに従ひ、先づ巫覡の迷信行為に対する取締に依って巫覡の活動範囲が縮少せられ、生活改善の提唱に依って多額の経 費を要するものは冗費節約の名に依って削減せられ、各種の行事に風紀衛生其他の見地より検討と取締が加へられるに至るや、最もその影響を受けたものの一つ がこの祭神舞楽、殊に部落祭に伴ふ舞楽であったのである」(テキスト強調引用者)

 ぼくはいろいろな資料を通じて、日帝時代にムーダンたちが弾圧されてきたことは知っていた。だが、みぎの「調査資料」のいう、「巫覡」への「取締」りに よる「巫覡の活動範囲」の「縮少」が、ムーダンの自分の娘への技芸の伝授・教育までもがその対象になっていたことは金淑子さんの話ではじめて知った。

しかし、警察につかまっても、金淑子さんのお父さんは自分の娘に歌と踊りを教えることをやめなかった。ムーダンというより以上に、むしろ芸術家気質がつよ く名人芸のもち主であった金徳順さんは、娘をムーダンに育てるための家業の伝授としてだけの意味よりも、むしろ自分が誇りとする芸のすべてを、天分をみこ んだ自分の娘に教えることによって後世にのこしておきたいという強烈な意志をもっていたのだ。自宅では稽古をつけることができなくなったお父さんは、人目 につかず、音ももれない山のなかの洞窟に金淑子さんを連れていき、そこで教育した。だがそれも発覚して、金徳順親子はまた警察に連行された。そんなことが 何回もくり返された。

警察でついに拷問がくわえられた。大人の父親だけでなく、七歳の少女である金淑子さんまでもが拷問された。拷問は足に集中した。踊れないようにするため だった。

そして、金淑子さん親子は、刑罰として道路工事にかりだされた。河原で石をくだき、それを道に敷きつめる重労働だった。素手でやらされるので、指先きはい つも血まみれていた。だが、なによりもつらかったのは空腹だった。食事といっても、麦めしの小さなオニギリが一日に一個だけだった。耐えがたい重労働と空 腹に苦しんでいる父親のことをみるにしのびなかった金淑子さんは、なんども腹痛だからといつわって、自分のぶんを父親にたべさせ、あとでかくれて雑草を煮 てたべた。腹が痛いという娘に、おなかの虫を殺す薬になるからと父親はきざみのタバコをすわせた。七歳で金淑子さんがタバコをおぼえたのは、薬がわりにタ バコをすったためだったのだ。

金淑子さんは、たんたんと激する瞬間もなくこの思い出を語ってくれた。だが、金淑子さんの宿屋を出てからあと、通訳をしてくれた在日の人が、以前ソウルで 金淑子さんと会っていた時、「日本人」という言葉を聞くだけで刃物を握りしめ、突き刺したい衝動に襲われるのだと金淑子さんがもらしていたことがあると教 えてくれた。

金淑子さんが踊る「トサルプリ」舞は、本当にすばらしいものだった。

漢城女子大学の講師で、金淑子さんと全く同性同名の韓国民俗舞踊研究家がいる。そっちのほうの金淑子さんが、『サルプリ舞の根源と生成過程』という論文 で、「サルプリ」舞には朝鮮の女性の「はらすことのできない恨《ハン》」と同時に、「内なる気迫」がやどっているのであり、「からだ全体の動きからは、あ たかも詩がほとばしり出てくるかのような精神世界を表出しなければならない」と指摘している。まさしく、金淑子さんの白いチマ・チョゴリに長い白い布を首 にかけてはじまる「トサルプリ」舞は、もう一人の金淑子さんの指摘そのままの踊りだった。日本ではじめて「トサルプリ」舞をおどった金淑子さんの胸の奥底 には、日本の支配によって受けなければならなかった屈辱と痛苦への「はらすことのできない恨《ハン》」が、また、その苛酷な抑圧と労苦にも耐えて、父親か らゆずり渡された芸術をまもり抜いた「内なる気迫」がかならずあったにちがいない。そしてそれには、金淑子一人の「恨《ハン》」と「気迫」だけではなく、 時にはげしくひるがえり、時に微動もせず垂れている長い白い布は、神や死者や夢の彼岸の世界とこの世をつなぐ命の橋でもあるのだろうけれども、その命の橋 をとおして、父親の金徳順さんの「恨《ハン》」と「気迫」もまたふくまれていただろう。



ぼくは金淑子さんの踊りにみいりながら、くり返し金淑子さんの七歳の時からの話を反芻した。そしてその時、ぼくはあらためて『韓国文芸』一九八一年秋号に おける中上健次の韓国をめぐる発言が、いかに無知な傲慢さに支えられたものであったかということについて考えないわけにはいかなかった。

ぼくが金淑子さんのことを記したのは、まだ韓国でさえも記録されていないような、韓国の一人のすぐれた女性民俗舞踊家が子ども時代に日本の植民地支配のた めに味わわなければならなかった悲劇を人々に知ってほしいためからだけではない。金淑子さんの体験が、そのまま中上健次の発言のデタラメさを証明している からである。

みぎの『柄谷行人への手紙』というエッセイでの中上健次の韓国の現実に対する、たとえば、セマウル農民運動は農民の共同共生運動であり、朴正熙大統領は織 田信長型の天才的な革命家であり、民主化のためにデモをしている学生は新種両班の候補生であり、そして、「光州事件」は「治めた側も治められる側も血を流 したのであり」、金芝河はその「どちら側にも立ってはいけない」云々といったような、全くのところ松原某教授みたいに全斗煥とダンスでもしてきたんじゃな いのかと思わせる発言にたいしては、すでにいくつもの批判がおこなわれている。

ついこのないだ発売された『同時代批評』五号でも、作家の梁石日が『中上健次における”近代”の倒錯――韓国に行って何を見てきたのか?』で、中上健次の デマゴギーぶりを痛烈に批判している。梁石日は、セマウル運動は共同共生運動であると主張している中上健次の意見にたいして、セマウル運動が農民に多大な 負債を背負わせ、一九七六年から七九年にかけて百万人の離農者を生み出したことなどをあきらかにしながら、中上健次が嘲笑している韓国の民主化闘争、学生 闘争が、膨大な離農者や低賃金労働によって苦しんでいる民衆との絶えざる連帯の意思表示であり、死を賭した闘いであることを強調しつつ、「もし彼に爪の垢 ほどの作家的良心があるのなら、彼の言動がいま囚われの身である抵抗者たちの生命を脅かしかねない危険なものであることを自覚すべきであろう」と記してい る。まさしく日韓の国家権力の犯罪に奉仕する以外のなにものでもない韓国の状況についての中上健次の言説への梁石日の批判は、基本的にはそれ以上つけ加え ていう必要がないほど的確だといっていい。

だが、中上健次のつぎのような言説については、これまでに出されている多くの批判においても、実質的な反論がまだなされてはいない。しかし、中上健次の以 下のような言葉にこそ、パンソリや仮面劇など韓国の民俗芸術の最大の理解者のようにふるまっている中上健次の、韓国にたいする悪質で厚顔無恥な無自覚さ、 本質的な態度がもっともよく示されているのだ。中上健次は、こう書いている。

「パンソリや仮面劇について民俗学からの考察、文化人類学からの考察が皆無に近く、学者に訊ねてもただの思いつきの類いをしゃべっているだけではないかと 焦立ち、韓国には一人の柳田国男も一人の折口信夫も、南方熊楠もいないのだろうか、黄金の宝の山にいて黄金を石のように蹴っとばしていると唖然とす る……」

ぼくが金淑子さんの踊りをみながら、中上健次の文章のなかからまず最初に思い起こしたのが、じつはこの箇所だった。ぼくは中上健次の小説は、まだどれ一つ として読んだことがない。だが、全く無自覚にこうしたえらぶった、どあつかましい発言を平気でできる中上健次の文学的想像力なるものを考えると、とても じゃないが本を手にとってみる気さえおきない。

中上健次よ。きみのいっていることは本当にそうなのか。きみが会った「学者」とは、一体だれだったのだ。きみは、韓国では「パンソリや仮面劇について民俗 学からの考察、文化人類学からの考察が皆無に近く」、「黄金の宝の山にいて黄金を石のように蹴っとばしている」というが、本当にそう断言できるのか。



中上健次は、「韓国には一人の柳田国男も」「いない」と、全くえらそうに韓国にむかって柳田国男の名前をもちだしている。

だが中上健次は、ありがたそうにその名前をちらつかせている柳田国男が、一九一〇年(明治四十三年)に法務局で「日韓併合」に関する法制の作成にあたった こと、そして翌年、「日韓併合」の功で勲五等瑞宝章を授与されている民俗学者であることを知っているのだろうか。えらそうにその名前をちらつかせる前に、 日本人として中上健次は、柳田民俗学がそういう民俗学であったことを考えてみるべきなのではないのか。

ぼくは中上健次がどの程度柳田国男のことを知っているのかは知らない。しかし、中上健次がいうのとは逆に、むしろぼくらは、なぜ「韓国には一人の柳田国男 も」「いない」のか、その原因をこそ考えてみるべきなのだ。――ぼくが冒頭で金淑子さんの日帝時代に受けなければならなかった体験のことを記し、またそれ に関連して、「朝鮮総督府調査資料」から引用したりしたのは、まさにそのことをいいたかったからにほかならない。

さきの『朝鮮の郷土神祀第一部・部落祭』は、一九三七年(昭和十二年)に刊行されている。つまり、あの文章をていねいに読めば気づくことだが、日本は併合 の直後から朝鮮の村祭りを禁止した。また、村祭りにともなう綱引き、石戦、車戦、木牛戦などの民俗戯も、それに仮面劇の上演も禁止した。金淑子さんの体験 を一例にして示したように、朝鮮民俗芸能の中心的保持者であるムーダンたちのことも抑圧し、各地を放浪するとくに一般民衆との交流のつよい下級パンソリ演 唱者たちに阿片をのませ、芸ができないようにした。さらに村祭りと共に民俗芸能の空間でもある市場も弾圧した。一時は、民謡の「アリラン」でさえも、その 歌唱を禁止した。そしてこうした直接的禁圧の一方で、初等学校をはじめとする教育機関、警察、行政機関、ジャーナリズムを総動員して、朝鮮の民俗文化、民 俗芸術を、迷信的であり、劣等な後進的なものだとする植民地史観、文化観を朝鮮人にたいして植えつけていった。すなわち、日本の植民地支配は、外部と内部 の両方から朝鮮の民俗文化、民俗芸術を解体し、歪曲し、断種しようとしたのである。

このような日本の朝鮮民俗文化、民俗芸術の破壊をめぐって、韓国民俗劇研究所の創立者の一人である金潤洙は、一九七五年の当時の朴政権から大学を追われる 最終の講議でこうのべている。

「……政治的な面はいうまでもなく、文化的にも劣等感を持つように威圧する必要があり、そのために朝鮮の民俗や民俗芸術は絶好の標的となった。日本がわれ われの民俗・民俗芸術を攻撃し、毀損したのには具体的な理由があったことのように思われる。それは土俗文化こそ民族的なものの原型であり、価値であるがた めに、否定せねばならなかったのである。……外敵の侵略に抗拒した歴史的力量が、すなわち民衆であったことを確認するようになるや、その基礎である土俗文 化を破壊することで、民衆の共同体意識を根こそぎつぶしてしまおうという心づもりだったのである」(『新しい美学を求めて』)

いまここで、日帝下における朝鮮人自身の民俗学的研究の展開についてふれる余裕はない。しかし、日本人の民俗学者早川孝太郎でさえ、朝鮮旅行のあとで書い た『朝鮮の穀神』で「……何でもあれ従来からの慣行等は、之を悉く迷信として抹殺しようとする傾向が強く、可成り露骨な運動もある。この事は或は為政の衝 に当たる者の本旨ではないかも知れぬが、一方之を受ける農民の側は、結果に於てさう解して居る」といわざるをえなかったような現実のなかで、柳田国男をは じめとする日本の民俗学者が日本でおこないえたような民俗学的採集・調査・研究がどれほど困難であったかは、容易に想像ができるだろう。ぼくにいわせれば むしろ逆に、朝鮮人の調査・研究・学問の自由が奪われ、「とくに愛国心の鼓吹と直結する民俗学の研究活動は極度に萎縮抑制された」(朴桂弘『韓国の村祭 り』)日本の統治下のなかで、ねばりづよく仮面劇など民俗芸術を調査・発掘した民俗学者宋錫夏のような存在がいたことにおどろきを覚える。  

「韓国には一人の柳田国男も」「いない」のは、まずなによりも、日本の苛酷な植民地支配とその文化侵略のためなのだ。中上健次よ、ぼくらは「韓国には一人 の柳田国男も」「いない」ことをなげくよりも、きみが名前をあげている柳田国男をはじめとして折口信夫も、南方熊楠も、そのだれ一人として、日本の朝鮮支 配について抗議の声をあげた者がいなかったという、まさにそのことをこそなげくべきではなかろうか。



中上健次の文章をよむと、どうやら中上は、仮面劇やパンソリなど朝鮮の民俗芸術を「黄金の山」だと思っているらしい。その意見には、ぼくも反対でないこと もない。

しかし、どうしてもフシギでならないのは、こんにち、いったいだれのおかげで仮面劇やパンソリを「黄金の山」だと中上健次が認識することができるように なったのか、そのことにすこしも頭をめぐらそうとはしないことだ。一般の観光客よりも長く韓国に滞在することができ、「学者」に会うことができ、「金芝 河」にも会うことができて、どうしてそれがわからないのだろうか。『柄谷行人への手紙』で中上健次は、ソウルで連日連夜酒をのみ、歌謡曲を「百曲以上歌い つづけ」たと自慢気にいっているが、それでとてもそんな話をするヒマがなかったのだろうか。

中上健次が、いつどこで、どんな仮面劇をみたのか、その「手紙」にはなにも書かれてはいない。だが、まちがいなくいえることは、中上健次が「一人の柳田国 男も」「いない」と評した現在の韓国の民俗学者の努力と営為がもしなかったとすれば、中上健次は仮面劇の存在も知らなかっただろうし、いわんや「黄金の 山」などと気のきいたふうな言葉を吐くことなどさらにありえなかったろうということだ。

韓国において、日本からの解放後、仮面劇やパンソリについての本格的な研究がまとめられて世に出されるようになったのは、それほど古いことでは ない。大雑把にいえば、一九七〇年前後からである。その研究の展開が解放後四分の一世紀という時間を必要としたのは、死者三〇〇万をかぞえる朝鮮戦争とい う惨禍のためばかりではない。それは同時に、日本の支配がのこした内的傷痕のためでもあった。それは、前に引用した『新しい美学を求めて』において、日本 の支配の朝鮮民俗文化・民俗芸術にむけられた暴力の結果について、「暴力がどれほど根深く作用したのかは、解放されて三十数年が過ぎた今日でも、わが文化 のほとんどすべての分野で植民地的残滓が温存されており、とりわけ、大多数の国民の民俗・民俗芸能にたいする冷淡、蔑視、貶毀、破壊によく表れている。い うならば、いまもわれわれの多くが、民俗芸術をあいかわらず未開なもの、劣等なものだとみなして、一日も早く、棄てさるべき遺産だと考えているのである」 と金潤洙が記しているほど、その内的な傷痕は深かったのである。

そうした状況のなかで、たとえば、ほろびかけ、忘れられつつあった仮面劇の調査・採集がおこなわれはじめたのは、一九五〇年代の末からであった。朴桂弘は ことし日本で刊行した『韓国の村祭り』の序説で「韓国の民俗学は民俗の悲運と共に胚胎し、現在ようやくその基礎を定立する段階まで進展した。今日民俗学研 究に携わる四〇代以上の学徒はみな大学まで民俗学に関する講議を受講した経験のない人たちばかりである。彼等は自力で民俗学という新しい学問に挑んだので ある」と書いているが、こうした「自力で」「挑んだ」民俗学者たちによって、韓国の各地の仮面劇がさぐり出され、その存在がすこしずつ姿をあらわしはじめ たのだ。また、この掘り起しのなかで、仮面劇も上演され、復原されるようになったのである。そして、このような仮面劇を可視的な地平にひきあげた作業を媒 介にして、政府当局の管理下にある「民俗芸術祭」などによる「ディスカバー・コリア」的な仮面劇の観光品化と、また単なる民俗学的記述のなかに仮面劇を閉 じこめてしまう研究のアカデミズム化をこえる運動を開始したのが金芝河や金潤洙であった。

「一方では民俗劇にたいする研究が、民俗の遺産の断絶への余りにも素朴すぎるような老婆心や、また、観光用の商品にできるという商売人的な関心による歪ん だ方向で進められ、他方では原形の保存という口実のもとで復古趣味におちこみ、民俗芸術家全体を過去のある時期の剥製に転化しようとする決定的な過誤に よって歪曲されているのが現在の状況である。

民俗劇の真の評価は、それが社会の激動のなかでもいつも人間らしく生きようと葛藤する民衆の切実な念願と意志とを、鋭くいきいきと反映させてさせてきた点 にある。民俗劇の原型というものも、まさしくその変動における芸術的本質の発展を深く理解する動態的把握によって、またさらに、その変化、発展への積極性 によってこそはじめて、その研究が可能であることは自明のことである。

われわれは、民衆の偽らざる意志が豊かに汲みとられ、一つになるような、民衆のなかで生きつづける新しい社会劇の出現を希求して、それに必要な諸作業を準 備するために、本研究所をつくった。

伝統にたいする正しい認識のために、その正確な伝承のために、また、新しく受けつがれていくべき民俗劇・民衆劇の創造的内容をさぐりみちびくために、韓国 民俗劇研究所はそのための専門的研究の円卓の場になろうとするものなのである……」

これは実際は金芝河が起草したといわれている、一九七一年五月の韓国民俗劇研究所の発足宣言である。この研究所は、民俗学の沈雨晟、朝鮮美術史研究の金潤 洙、民俗音楽研究の李輔亨、国文学の趙東一、仮面劇研究の金世中、演劇学の許鉢らによって設立された。そして、この研究所の研究、教育活動が数年後から急 速に展開するマダン劇運動の実質的な牽引力になったのである。

その「伝統仮面劇の原形伝授と創造的継承」のスローガンからはじまったマダン劇運動は、仮面劇ルネッサンスの運動として、人びとに形骸化した復古的、観光 品ではない民俗の創造的伝統の魅力を教えながら、圧制とたたかう民主化運動のエネルギーの高揚と結果に大きな役割をはたす。――マダン劇運動の実際につい ては、晶文社から刊行された『仮面劇とマダン劇――韓国の民衆演劇』(梁民基・久保覚編訳)にその資料が集められているのでそれを見てほしいが、この創造 運動の展開と対応して、仮面劇やパンソリについての研究も飛躍的にすぐれたものになっていくのである。いま思いつくままにあげても、柳東植、金烈圭、徐大 錫、金興圭、趙東一、金世中、徐淵昊、沈雨晟、李輔享、許鉦、姜漢永、李相日、鄭炳浩、等々の民俗学、文化人類学、国文学研究者の仕事をぬきにして、仮面 劇やパンソリが「黄金の宝の山」かどうかを語ることさえできないといってもけっしていいすぎではないのだ。すくなくとも、この人びとの探求の成果をみれ ば、「黄金の宝の山にいて黄金を石のように蹴っとばしている」という中上健次の言葉は、ほとんど無知かでなければ悪意にみちたものとしか解しようがない。

ようするに中上健次は、韓国とその民俗芸術を刺激的な記号としてしか扱っていないのである。中上健次が仮面劇やパンソリについて語るとき、その朝鮮の民族 芸術にたいして加えた日本帝国主義の「暴力」についてけっしてふれていないことに象徴されているように、中上健次は朝鮮の歴史にも、また、分断状況に苦悩 し、呻吟している朝鮮半島全体の現実の人間の存在にもなんら関心がないのだ。

「民俗学からの考察」などといいながら、セマウル運動にたいして、「韓国政府の政策も植民地政策をそのまま踏襲しており、生活改善策の一環として迷信打破 の政策を施行していた。……それが筆者が調査中に体験したことである」(崔吉城、前掲書)という韓国民俗学者の声には、なんの注意もはらわない。目下、日 本の文化産業は来るソウル・オリンピックを前に、韓国の民俗文化、民俗芸術をネタにして銭もうけの算段をしつつあるそうだが、中上健次も韓国を商売の材料 にしている文化商人にすぎないのである。



「――パスポートが出ないんですよ。
 ――密航して行けばいいんです(笑)。」

これは、中上健次が野間宏とおこなっている『作家と〈責任〉』(『文芸』一八九一年十一月号)という対談のなかでの会話である。もちろん、「密航して行け ばいいんです」と笑っているのが中上健次だ。

まったくいい気な冗談をほざいているというほかはない。中上健次はただの一度でも、それこそ密航してでも郷里に行ってみたい、兄弟や親類に会いたいという 熱い想いを胸に抱きながら、韓国に入ることが許されない在日朝鮮人・韓国人たちの存在を考えてみたことがあるのだろうか。
「編集と印刷がすべて韓国でなされて日本に持ちこまれ、大部分は無料で主として日本のジャーナリストたちに配布されている」(鄭敬謨『岐路に立つ韓国』) 日本語雑誌『韓国文芸』の編集発行人金淑子とソウルで飲み歩いていた中上健次が、パスポートの出ない人間にむかって密航して行けばいいとはなんといういい ぐさか。行きたくとも行けない人間たちのことに、すこしは想像力を働かしてみたらどうなのだ。それが人間として最低の発言であることに、中上健次はすこし も気づかないのだろうか。

中上健次のいい気さかげんは、やはりおなじ対談のなかでの、「僕はね、韓国へ行って、北朝鮮万歳、と言うことも出来ます(笑)」という発言にもじつによく 表れている。
 
 

結論。中上健次は、軽蔑に値する。



カラワン  スラチャイ・ジャンティマトン



森に朝日さして
もろもろの植物をやさしく暖める
おいで兄弟、おいで友よ
深い眠りからさめて
カラワンの声で カラワン……地を這うように
機械化の時代 貧民の荷車のキャラバンは
二本の足で この空の屋根の下を進む
神々の眠る時代に
燃えあがる焚火の光の下で生まれ
プラスチック・バンドに血迷った
Made in Japan and U.S.A.
目をあざむく影のような
いつわりの大海を泳いだ
毒ある社会は底なし沼
愚かな人間の足をとらえる
さあ運命に挑戦しよう
わたしたちをとりまく 黒い雲を追いはらおう


貧民の隊列は立ち止まった
父も母も兄弟もみな
すさんだこころで殺し合うのはやめよう
カラワンの歌声を聞いてほしい
つぎはぎだらけの汚れたズボン
すわってギターをかなでる
傾きかけたボロ屋のもとで
運命だけを友とした生活
故郷グラーの乾いた川では
老人ばかりが留守をまもる
雨は燃え、火は消えるとも
荷車の歌は敗北をうたいはしない
(長い旅路 行列をつくり 男も女も 肩を並べて行こう、同じこころの人たち
この車の輪はもう戻れない)
グラーよ、「空に雨滴なく 地さらに乾いた砂あるのみ
涙のすじは血となって 地をひたす……」


森に朝日さして
もろもろの植物をやさしく暖める
おいで兄弟 おいで友よ
深い眠りからさめて
カラワンの声で
カラワン カラワン カラワン カラワン


女二人、カラワンとともに
福山伊都子 八巻美恵 スマナー・ナナコン 荘司和子


イツコ 五月十九日の夕方、バンコクについたんだけど、カラワンの人たちとはなかなか会えなかったのね。
ミエ 私たちは大阪からいったんで、成田からたったモンコン・ウトックさんより早くついたのね。その晩だけ、マレーシア・ホテルってい うのを予約してあったから、タイ語でやらなくっちゃって構えて入っていったの。そしたら「いらっしゃいませ!」なんて、日本語で……
イツコ 「お待ちしておりました」って……
ミエ とにかくシンハー・ビールで乾杯してさ、ご飯もたべて待っていたら……
スマナー まいにち乾杯してたよ。
イツコ 十一時半くらいに、モンコンさんから電話がきたの。あれ、飛行場からかかってきたの?
ミエ うん。あの人はホテルに電話して、はじめ「ミエとイツコという人がいるか」ときいたわけ。ホテルは「そんな人は泊まってない」っ て……だって宿帖は苗字のほうなんだもん。それで、すごくあせったらしい。やっとつうじてね、「あっ、いた! ルーム・ナンバーは?」ってきくから、「え えとね、ヨン・ニー」ってこたえていたら、ガチャンと切れちゃったの。まァいいや、またかかってくるだろうと思って、私たちは寝巻きにきがえちゃった。そ したら一時間半ぐらいして、やってきたのね。ちょっと興奮気味で……
イツコ だれも友だちがこないって。カラワンの人たちは空港に迎えにこなかったの。
ワコ なんだ、約束がちがうじゃない。
ミエ その晩はかれは別のとこに帰って、翌日の朝十時だったか十一時だったか、ホテルに迎えにくるからっていうんで待ってたの。そした らまた興奮気味の顔でやってきて、まだだれも会えないって……ハハハ。
イツコ それから延々とクルマにのって、かれが泊っているアパートにいったの。
ミエ かれが友だちから鍵をもらってね――いつでも泊れるっていうふうになっているらしいのね。団地みたいなとこ。昨日の晩はどうやら すれちがったらしいという話で、今日は動かないでいたほうがいいって……
イツコ 昼寝なんかしちゃってさ、どうなるのか、こっちはぜんぜんわかんない。
ミエ 前の晩はねむれなかったというのよね。それでタクシーをたのんで、友だちをさがしまわって、一万二千円もあげちゃったんだって!
ワコ エエッ! あの人、お金の感覚がないのね!
イツコ 夕方までそうしてて、それからタマサック・ブンチャートさんっていう、ホラ、ワコさんの訳したジット・プミサックの本の表紙の 絵をかいた人のとこにいったの。
ミエ おなじ団地のなかに住まわっているわけよね。それで電話するっていうんだけれど、一棟にひとつしかないの、電話が。しかも半分く らいは壊れてるんで、すごい行列なのよ。モンコンさんは「疲れた」の「眠い」の「行列はイヤだ」のって、もうキーボンなのよね、あの人……
ワコ キーボンっていうのは、つまり「文句たれ」か。
スマナー そう、ハハハ。
ミエ それでもやっと連絡がついて、その家にいったんだ。五階かなんかで……
イツコ でもエレベーターがあった。そこに荷物をはこんで、食事をしてたら、そこに通りかかったの、友だちが二人で……
ワコ たまたま?
ミエ たまたま。
イツコ その晩はタマサックさんのとこに泊って、翌朝さ、目がさめたらだれかが玄関のとこでなにか叫んでいるの。それがウィラサクさ ん。
ワコ ウィラサク・スントシー。「カラワン回想録」をかいた人。
ミエ それまでは、もうだれにも会えないから、きょうのうちに、バスにのってモンコンさんの故郷にいっちゃおうといってたんだけど、た ちまち明日にのばそうということになった。とにかくさ、暑いでしょう。あたしたちはなにがなんだか、今日どこに泊るかもわかんないから、別れるときになっ て、「あ、寝る場所がない!」「じゃ家に泊れよ」――それからウィラサクさんの友だちのインド人がもってるビルにつれていかれた。「どうぞ寝てくださ い」っていわれても、フトンというものがないでしょう。なんとなく、そこらへんにゴロッところがって……

ワコ ところでカラワンの再結成っていうのはどうなったの?
ミエ モンコンさんが日本にいるあいだに再結成がきまって、ウィラサクさんから「帰ってこい」という電報がきたのよね。
ワコ その前までは、ウィラサクとモンコンと二人でやるっていってたわよね。
ミエ 人がいっぱいいるよりも、すくないほうがかんたんだから、二人で地方をまわりたいっていってた。そしたらスラチャイが戻ってき たっていう手紙がきたもんで、その手紙をもって踊りまわってさ、うれしくて。
イツコ スラチャイは一か月前だって、バンコクに帰ってきたのが。
ミエ 森からバラバラに散ってて、それでも文通しあって「みんなでやりたい」ということになったらしいの。スラチャイというのはいい リーダーよね。ながくつづいてきたグループには、結束力というか、やっぱりそれだけのものがあると思った。でも、みんなそれぞれにちがった性格なのよ。役 割がきちっときまっててさ……
イツコ ウィラサクさんがお母さん。
ワコ 回想録をかくぐらいだから。
ミエ モンコンさんが家に泊っているときさ、ユージが朝ゴハンをつくってるじゃない。それを見てて、「あ、あ、ウィラサクとおなじ だ」って……ハハハ。ぜんぜんちがうけど、そこの部分だけはおなじなのね。それからスラチャイがお父さんでしょ。
イツコ 音楽的にもよくしってる。
ミエ 思想的にもね。だからってリーダーをたてるっていうんじゃなくて、みんな対等なわけ。役割分担が自然にうまくいっているっていう 感じ。
ワコ それで六月十九日にタマサート大学で最初のコンサートをやるっていうんでしょ?
ミエ そう。ユニセフ主催だって。
ワコ ウィラサクさんの手紙だと、回想録をかきたして、それが本になるらしいのね。できればコンサートにあわせて出版したいんだって。 タマサートの講堂でやるらしい。
ミエ でも、五年間のブランクがあるから、どういうコンサートになるかわかんないみたいよ、みんな。
スマナー あたしもよく知らない。ただ、カラワンが再結成するといっても資金がまったくないので、「マティチョン(与論)」という日刊 紙が利子なしでお金を貸してくれるっていってるみたい。それからカラワンのTシャツやバッジを売って助けようという話もあるから、なんとかやれるんじゃな いかな。
 これはあたしの個人的な考えだけど、カラワンの歌が以前のまんまだと、いまのタイの情勢とはあわないかもしれない。そのことが心配できいてみたら、やっ ぱり以前のものとはずいぶん変わってきてるらしいのね。もっとスウィートになってる。もちろんカラワンのスタイルはもとのものをきちんとまもっているとお もうけど、十・六で森にはいるまえのかれらの歌は、どうしても緊張した情勢にひっぱられる部分があった。それにくらべると、森でつくったものは自分自身を もっと自由に発見する――そういう調子になってるから、あたしは大丈夫だと思う。経済的にもその他のことでも、カラワンを援助したいと考えている人たちが おおぜいいるし……。
ミエ カラワニストっていうのよね。
ワコ うん。でもカラワニストっていうのは友だちだけど、彼女がいうのはもっと広い範囲の……さっきの新聞もそうだけど、たとえばレ コードをだしたいって、いろんなとこがいってきてるわけでしょ。
スマナー かれらが森にはいってから五年間の空白があるから、かれら自身も状況がのみこめなくて、ちょっと混乱してて心配してるんだけ ど、あたしは大丈夫だろうとしんじている。
ミエ たとえばスラチャイがうたうでしょう。するとみんながきいてて、そのコトバじゃないほうがいいというと、すぐそれを変えていくの ね。だからスラチャイの歌というふうになってても、ちょっとちがうのね。スラチャイ個人じゃなくカラワンの歌……。いまは森でつくった歌をひさしぶりに 会って、みんなでおもいだしているって段階みたい。
スマナー なんといってもカラワンは、はじめてああいう歌をやりだしたグループだし、視野もいちばん広いから……。
ミエ 「カラワン」っていう題の歌があってさ、あれは新しくつくったんじゃないかな、それが回想というか、あの人たちの考え方をうたっ たものみたい。その内容を説明してもらったんだけど、よくわからなかった。ワコさんに訳してもらって、この号にのせよう。ともかく水牛楽団とカラワンとは いっしょで、もう別れられないから、いっそ納豆楽団にしようって……ハハハ。

ワコ でも、モンコンさんが日本にきてくれてよかったわよね。
ミエ そうよ。あの人でよかった。ほかの人じゃこうはいかなかった。
ワコ いっしょにいればいるほど、シミジミとよさがでてくるのね。ウィラサクが「どんな人間にも愛される奴だ」ってかいているでしょ う。それからスラチャイも「お前はすごく純真なやつだ」っていったっていうのね。そのとおりだなと思ったね。
ミエ その意味じゃね、あたしたちは水牛楽団ではいちばん新米のメンバーだけど、男の人たちがいくよりかよかったと思うの、もしかした ら。
ワコ ハッハッハ、よかったね。
ミエ カラワンには女性のメンバーがいないのよ。モンコンさんが「水牛には女の人がいて、いっしょにやってるのがすごくうらやまし い」っていうわけ、生活も仕事もいっしょにやれるのが。で、「じゃ、なぜカラワンもそうしないの?」ってきいたら、ホラ、あそこはひとりが演奏している と、そこに他のメンバーが自由にくわわっていくようなやり方だから、アンサンブルがよすぎて、なかなか新しいメンバーがはいれないんだって。ウィラサクさ んの奥さんが歌ったことがあるけど、ぜんぜんうまくいかなかったんだって。ダメなんだって。
スマナー カラワンにも女性のメンバーがいた方がいいと、かれらも思っているだろうし、あたしもそう思うけど、タイの場合、音楽でも考 え方でもすべて一致できるという女性はなかなか見つからないの。いまはカラワンはカラワンとしてまとまっているから、そこにはいっていくのはなかなかむず かしいと思う。
ミエ みんな奥さんがいるんだけどさ、くに(故郷)にすんでるのよね、別々に。
ワコ ウィラサクの奥さんは学校の先生をしてるわよね。
ミエ スラチャイも奥さんと子どもがいる。
イツコ 四歳になる男の子ね。
ワコ でも、かれは「世界中の女性を愛してる」んだってさ。
スマナー ハッハッハ、そうそうそう。ほんとうにそういう人なのよ。それで森にはいるまえは、いろいろ批判された。
ワコ なにしろ芸術家タイプだから、そのことからかれの芸術がわきでてくるというところがあるわけなんでしょ。
全員 ワッハッハ。
ワコ 十・六のまえというのは、いまでもそうだけど、いまよりももっと、いわゆる「コンルンマイ」(新世代、新しくめざめた人びと)の 運動のなかで、女性関係にきびしかったのね。ジット・プミサック風というか、清廉潔白で禁欲という感じがあったのよ。そういうものが正しいとされてたで しょ、あのころは。それでカラワンが分裂するというようなこともあったのよね、
ミエ スラチャイはギターを二本指でひくの。でも、きいているかぎりじゃ、ぜんぜんわかんないのよ。かれの部屋にいったの。森で七年つ かっていたギターがあってね、フレットや弦がすりへってうまくひけないの。それで、とめとくやつ――あれ、なんていうの?
イツコ ピン。
ミエ いろんな色のピンがついてる。歯ブラシでつくったんだって。これはもう音がきれいにでないけど、いちばん大事なギターだって。そ れから……あ、「人と水牛」っていうのも、もと歌はボブ・ディランなのよ。そのもとのをちょっとうたったりね、『トンパン』の映画の歌をうたったりして、 ちょっと泣くわけよね、あの人。
イツコ そうそう。そのあと、イサーンからかえってきたときのバスのなかでも、かれらが逃げた場所をとおったのよね。そのときも感あ まって、しばし目をうるませ、じーっと外を見つめていた。
ミエ モンコンさんのことを「純真だ」なんていうくせに、じつは本人が純真なのよね。

イツコ それからイサーンにいった。バスで九時間ぐらい。リムジン・バスで北の方にどんどんいって、ロイエットというところでふ つうの市内バスにのりかえるの。
スマナー あなた方がいったときは雨期にはいっていたから、あまりひどくなかったとおもうけど、乾期はもっとひどいのよ。イサーン は……カラカラに乾いてしまって。
イツコ それでも土が真っ白になってた。モンコンさんの村っていうのは……あれ、村よね? 町?
ワコ プノンプライね。村じゃなくて町だっていってたよ、モンコンさん。ロイエット県プノンプライ郡の郡役場があるところ。
イツコ 広場があって、そのまわりにちょっと商店街があって……家も木造なんだけど、バンガロー風の家なの。そのなかでもモンコンさん の家がとくにモダンなのよね。コンクリート造りで。本当は空気が乾くから、コンクリートより木のほうがいいんだっていってたけど。
ワコ お姉さんの旦那さんがサウジ・アラビアに出稼ぎにいって、それでたてたんでしょう。モンコンさんが森にはいっているあいだにでき てて、帰ってきたら家がかわっていたって……。あのあたりはラオスのランサーンっていってたのね。かれの母方の曾父母さんもラオスの人なんでしょ。名主み たいな、そういう「お家柄」らしいのね。
ミエ モンコンさんのお父さんはもうなくなってて、となりのお寺に眠ってた。
イツコ お母さんは市場ではたらいているのね。毎朝早くでかけてって……
ミエ トウガラシなどを売ってるわけよ。
ワコ 三人でいったの?
ミエ そのつもりだったんだけど、スラチャイやウィラサクさんもいくといいだして、それから日本語のできるピクンさんをさそったら、そ こにたまたま奄美の技手久の人たちが二人いて、スマナーさんもきて、結局十人ぐらいになっちゃった。それでまたモンコンさんがブツブツ文句いってさ。十人 で、熱帯を走る温室みたいなバスにのって……でも面白かったよ。
イツコ 一日目は練習。
ミエ つぎの日はチー河というのを見にいった。人数がおおいから、トラックをスマナーさんが運転して、その荷台にのって、それで着くで しょ。そうすると木陰をさがして、そこにゴザをひいて、ただねころんで河を見てるの。ある人はウォークマンきいて、のどが乾いたら近所の家で水をもらって きて、あたりには水牛なんかがいて……。
スマナー アリの卵のスープをのんだね。
ワコ アリの卵と魚とタケノコがはいってる。
イツコ おいしかった、食事は。
ミエ 魚をたべるのね。お米はバンコクより日本のものにちかかった。モチゴメはガスなんかないから、カマドに炭――洗面所みたいなので お湯をわかして、竹のカゴを入れて、それですむの。景色もバンコクのあたりとはぜんぜんちがうしね。さっきもいってたけど白く乾いてて、草もあんまりな い。それで帰りのバスのなかで、だんだん緑がいっぱいになってきたから、「もうここはイサーンじゃないよね」っていったら、「どうしてわかる?」だって。 わかるよねえ。


カラワン回想録(追加) ウィラサク・スントンシー 荘司和子訳

(連載第二回、10頁目上段の終り、テキストに以下の脱落部分がありました)

このころ私ははじめて病気にかかった。赤痢である。私だけでなく二〇人以上がかかっていたので、誰か一番多いかで、たとえば「コミューン一 四」(コミューンが名前で、一四とは一日の〔下痢の〕回数)などと、ひそかに呼び合ったものだ。それで泊るまでにはすっかりやせこけてしまった。一方モン コンは丈夫で全然病気しなかった。彼は純真な子供たちと一緒で、これらの子供たちから少なからぬ感銘を受けていたようである。自分の家が一枚の田も持って いないため、日々の米を買うため山菜を採ったり、魚をとったり、獣を猟ったりしている子や、まだ一二歳で森林の伐採の仕事をしてわずかな日当を得ている 子、レンガ工場や油脂工場で日雇い工をしている子、バンコクの奴隷工場で働いていたことのある子などさまざまだった。モンコンは「プーサーンの少年た ち」(アヌチョン・プーサーン)でこの子供たちのことをうたった。

一二月、年の瀬もおしつまるころ、また新たな学生の一団が到着した。この中にはクルチョン楽団の美声の歌手レックがまじっていた。私たちの楽器が〔コンケ ンの友人のところから〕送り届けられてきたのも、このころのことである。ただし全部ではない。ケーンはなくなっていた。新しいバイオリンは借金を返すため に友人が売ってしまい、そのかわりに古いバイオリンを見つけて届けてきた。トランジスターのアンプとマイクもきたが、これはまず使うことはなさそうであ る。

第二回生の学習が終わると、私たちはふたたび合流した。このころの演奏は主にラム・ウォンの伴奏だったが、新しい歌も徐々にできていた。スラチャイの「燃 えあがれ炎」(タントームホーム・レーンファイ)、モンコンの「プーサーンの少年たち」、コームチャーイ楽団の「革命の呼子」、赤い植物の種子《たね》」 である。第三回生歓迎会で演奏した時は、クルチョンの女性歌手レックも私たちと一緒にうたった。党がカラワンとコームチャーイの合同を指示したのはこの時 のことである。私はこれには大反対だった。私の意見に近かったのはモンコン一人で、あとは、全員賛成だった。コームチャイはメンバーが足りないことを理由 にあげていた。それに対して私は、必要に応じて賛助出演すればいいという意見だった。(つまり彼らの伴奏をするのである)この二つの楽団の質はゲーン・ ジュート〔すまし汁〕とゲーン・ペット〔ホット・カレー〕ほどの違いがあるというのに、混ぜあわせてうまくなるはずがない。とはいえマイノリティーはマ ジョリティーには勝てないものである。

第三回の学習が開始されると、私とモンコンは別々になった。モンコンはひきつづき教師として残り、鳥撃ちや魚釣りの任務で、スラチャイがそれに合流した。 私は民衆工作隊に入れられたが、仕事は米の運搬と魚をとってくることだった。(主な任務は歩哨に立つことだったが)トングラーンとポンテープはもとの部隊 にもどった。トングラーンは魚をとるのが名人で、一回に大量の魚をとってきたので、「漁業局長」の異名をとった。

演奏する時は二つの地区に分けて行われた。私のいた地区は、スラチャイ、レックという二人のリード・ボーカルがそろっていたので、優位にたっていたといえ る。モンコンはこのころ生徒の一人と一緒に「どんと来い」(ボー・ペン・ヤン・ドーク。後に党は「困難を怖れず、死をも怖れじ」と改題した)を作った。一 方スラチャイは「革命の種籾」(マレット・カーウ・バティワット)を作り、一〇・六のクーデターで僧職を辞して森に入ったある僧侶の一人は、カンボジアの 民謡のメロディーをもとに「小鳥」を作った。

第三回生の学習が終了すると私たちはまた合流した。この時は、この地区の党書記がやってきた。彼の話では党中央はわれわれを北部に移動させる意向である が、ここで今しばらく鍛えてからにする、ということだった。彼は私たちの音楽について、内容とスタイルがまだかみ合ってない、と評したが、彼らは社会を後 にしてもう一〇年から二〇年もたっているのである。私の考えでは、この世代の人たちが現代の若者の表現を理解することは困難だということだ。都市の「生き るための歌」を聞いて彼らは、これらが革命の歌か、と疑ったにちがいない。なぜならギターを中心にしたフォークやロックのスタイルだからである。この世代 (五〇〜六〇歳)の人びとの時代には、ギターはまだあまり弾かれることのなかった楽器である。楽団といっても当時は、広報局のスントラポーン楽団のような ものしかなかったはずである。

これ以降、私たちは「芸術家」と呼ばれることになった。(これは公式の名称である。CPTは北部で以前芸術隊を組織したことがあった。主に中国式バレーを 見せた。住民のほとんどが少数民族だったからである。その後一度つぶれて、一九八六年に再びできた)カラワンとコームチャーイという楽団名は以後使われな くなる。それに代わったのが「プーサーン六〇」楽団という呼称だった。次に党は、毛沢東の「延安文芸講話」の学習を指示してきた。これは党全体の思想・芸 術・文化のよって立つべき芸術論の模範とされていたものだ。この学習でもっとも激しく傷ついたのは他ならぬスラチャイである。彼はこの理論には耐えがたい ともらしていた。

このあと私たちは別の山の上に新たにタップ〔宿営地〕を作った。少々高い所だったので二〇〇段以上も階段をつけた。米を運び上げて、ここで講習やテープの 吹き込みをしたのだった。モンコンが新しいピンを作ったのもこの時である。国際婦人デーの催しには、展示とともに私たちの演奏が要請された。ちょうどラオ スに軍事学習に送られていた兵士たちが帰ってきたところだったが、彼らは音楽、芝居、それに一〇・六流血事件を扱った展示に大変興味を示した。

この時は司会者のポンテープ、歌手のレックがめざましい活躍をした。この催しでの各々のだしものの表現形態は、今までのものと大分異なった趣を呈してい た。多分それは、各隊に入りこんだ学生や知識人のなせるわざだろう。旧態依然だったのは農民の演じた芝居の筋書きである。解放軍と出会った貧農や小作農の 話、地方の民兵や雇われたならず者に、脅されたり殺されたりする話で、結末はほとんどが政府軍キャンプ襲撃か火をつけるところで終わる。クライマックスの 部分に至ると、悲しい話であろうとなかろうと、舞台外で、恨みの限りを尽した声をはりあげる者がいる。それから、反動支配階級は減亡せよ、血には血を、と いったスローガンが合唱されるのである。つけたしておくと、舞台とはいっても、竹を伐った薪をつみあげたキャンプ・ファイアを中心にすわった観客の真中で 演じるだけのことである。

催しが終わると私たちはタップにもどって練習を続けた。今度は党が名狩人を一人派遣してくれた。彼は北部で象の飼育の任務を五年務めあげてきたが、私たち が御飯に錬り唐辛子をまぶしただけの食事をしているのを見て、これからはこんな食事はさせないと言い放ち、以後、毎朝早くから獣を撃ちにでかけていった。 彼のとってきた動物はだいたいがテナガザル、ヤセザル、ヒヨケザルなどの猿だった。これらの動物の皮を剥ぐのはモンコンの役だった。彼は重労働のできる身 体ではなかったから。かれは度々この仕事をした結果、夢にまで猿がでてくるようになったほどだ。(皮を剥いだ姿形は人間そっくりだった)

米の運搬をしていたある日、ここから徒歩で三日ばかりの距離にある地区からきた同士たちに会った。彼らのいた地区は包囲されたため、ここで一緒に米を運ん でいたのである。女、子供と三、四人の男を合わせても何人でもなかった。私たちが元気づけにいくと、彼らもでてきて歌をうたってくれたのだが、なかなかの ものだった。とくに私たちがあまり得意でない田舎の歌がよかった。もう一人ピンを弾いてくれた人がいて、その音色に私たちはいたく感銘を受けたのだった。 このピン弾きと歌い手は二人共私たちの隊に加わった。

テープの吹きこみには、五日ほどかかった。吹きこんだのは以前の歌の他、新しく作った歌が一〇曲余りで、テープレコーダーの電池がどんどん消費してしまう ため、曲によってはやっと吹きこんだものもあった。最初の曲は「燃えあがれ炎」だったが、ちょうど「射撃手」ガック同志が猿を撃ちにでかけていて、私たち が「銃をとり高らかに勝利を告げる」という歌詞のところまで来た時、銃弾の音が森を轟かせた。彼は私たちのタップから一五分くらいのところにいたのだっ た。たくまずして音響効果を得た上、ヤセザルの焼き肉にありつくことができたのである。腸の部分はよだれの出るほどうまい(トングラーンの表現)。

乾期だったので私たちの地区も包囲されはじめた。最後の歌「魔物がくにを治める」を一回吹きこんだところで戦闘態勢に入り、音を出すことが禁止された。何 もできなくなったので学習をする。私たちの隊の責任者〔党員〕は魯迅の「左翼作家同盟について」を持ってきて、なんと「左翼革命家について」と訳したばか りか、ところどころ省くのだった。これが終わってから私たちは何人もが音楽をやりたくないと思いはじめていた。前線で敵と戦う兵士の任務のみを望んだ。

一九七七年の乾期のさかり、私たちは再び分かれて別々の任務についた。私は部隊に配属され、モンコンは女性部隊の文化面の担当になった。スラチャイは前い た部隊にもどったが、彼の妻のいる民衆工作隊に移された。ポンテープも同様である。トングラーンは別の部隊に配属された。今回の移動の目的は、戦闘の只中 で自らを労働する者として鍛え、変革することである。

部隊に入って一週間ほどで私は突然病気になり、入院して手術を受けることになった。病院でまたモンコンと一緒になった。彼は友を得てとても嬉しそうだっ た。ともあれ、モンコンはどこへ行っても人に愛され可愛がられる。彼はほとんど誰とでもうまくやってゆけた。病院での生活は孤独だった。モンコンの他には 友だちがほとんどいなかった。都市の知識階級出身の看護婦がいて、とても可愛い人だった。彼女は毎日のようにギターを習いにきた。(最近私は、彼女が包囲 攻撃されて生命を落としたことを知った。この場をかりて哀悼の意を捧げたい)暇な時には二人で、たけのこを掘りにでかけたりして親密になっていった。

すっかり回復すると私は部隊に復帰した。二分隊を残してあとの勢力は分散していた。毎日大砲の炸裂音が聞こえていたが、まだ敵の侵入して来る方角がつかめ ていなかったので、部隊を分散させていたのだ。一部はまだ畑を作っていた。私は兵士たちと絶えず移動していた。起床の呼子は鳴らさなかったので、いつも早 く起きて米と身の回りの品を整えておかねばならない。時折は兵士たちは皆任務に出ていき、一人でタップの見張り番をすることもあったし、「郵便配達」(手 紙を届ける)にでかけることもあった。

このころになるとタバコが不足しはじめた。アティット・ガムランエーク大佐(当時)の率いる一七一八混成部隊が森を封鎖して、農民が中に入って畑作するこ とができなくなっていたからである。政府軍は〔農民を組織して〕自警団(タイ・アーサー・ポンガン・チャート)を作りはじめていたし、弾が当たってもはね 返すという「黒僧」《ネーン・ダム》を自称する人々が、ラジオを通じてさかんに反共宣伝をしていた。このような心理作戦が包囲撃滅作戦と平行して進められ ていった。パトロールには自警団がかり出されていた。私たちがこちらの区域の一番はずれでパトロールに出た際、流れの周りに咲き乱れるバラとガーベラの花 を見て、心なごむひとときを味わったのだったが、それから幾時間もたたないうちに私たちがすわって休んだその場所に戦車が何台か入って来たのだった。帰途 私たちはタバコの葉をつんで持ち帰った。これを生のままで細かく裂いただけで、または火であぶってから、キセルにつめたり、古新聞で巻いて吸ったのであ る。何も紙がない時は「毛語録」を使った。米も底をついてきたのでとうもろこしを混ぜるようになった。まだ実が苦かったので、米に混ぜて蒸してそのまま食 べられるし甘かった。〔ただし腹にガスがたまるので〕集会などで坐っていると、オナラの音がまるでせみの鳴き声みたいに騒々しかった。大便をする時の音が またものすごい。

このころ私の部隊は象を一頭倒した。私も一緒に行ったが、撃つ時は近づかないように言われた。非常に強い上、暴れまわるからだ。大きな竹藪でもたちまち踏 みつぶされてしまった。撃つ時には身をひそめられる大きな木を見つけてから、数人で一緒にねらう。倒れて息絶えてしまってから、私たちは胴体の上を歩きま わった。隠れた巨大な力が倒されたという気がした。これまでにも象の肉を全部切りとって持ち帰ったためしはなかったが、足と鼻だけは必ず持ち帰った。非常 に美味で、腸をとって来て腸詰めを作る。肉は薄切りにして畑の真中で干すのである。干肉にして兵士たちの兵糧になる。

この後、私のいた分隊――分隊長がやり手だった――は部隊を離れて偵察の任務につき、敵にそなえて干とうもろこしを用意した。森のはずれの畑地近くにいた 時は、タバコの葉をつんで山の上の兵士たちに送り届けたりした。ポンテープもこの地区に来ていて、時々顔を合わせた。私はもう一人の分隊長と親しくなっ た。名前をチャートリーといい、ハンサムな男でタバコに病みつきだったが、行進の時は決して私を彼より先に歩かせないのだった。タバコが全然ない時は大麻 を見つけて吸った(ただし危険がないと確信した時だけだが)。彼は一九七八年にその生命を犠牲にしたと伝え聞く。彼についても同様、ここに深く哀悼の辞を 捧げる。

まもなく敵が山に登りはじめたという知らせが入ったが、私たちのいた方向からではなかったので、とうもろこしのつまった背のうを背負って、急いでタップ四 〇〇(四〇〇段の階段をつけてある)へ移動した、とても高い所だったが、私は着いてすぐまた病気になった。今度はマラリアだった。私の他にもう一人、軽機 関銃手が一緒にかかった。この時は医者がすぐにいなかったので、分隊長が薬をもらってきてくれたが、骨までしみるほど寒くて何も喉を通らなかった。まだ治 りきらないうちに戦闘機が飛来して機銃掃射がはじまり、私のいた分隊はトングラーンの所属していた分隊に合流し、われわれマラリアの二人だけが民衆工作隊 (からかい半分に「メタメタ工作隊」と呼んだりしていた)に預けられた。しかし、すっかり回復したといえないうちに私たちも部隊にもどらなければならなく なった。雨期がはじまっていた。朝は空が白みはじめる前に、夕飯はすっかり暗くなってから炊かねばならなかった。おかずは毎日たけのこだ。トングラーンと 同じ中隊だったが、分隊は別々だった。トングラーンの隊は偵察に出て、待伏せていた敵に遭遇したことがあるが、全員無事だった。私は戦闘に参加したことは ない。不慣れな上、健康がすぐれなかったからである。せいぜい同志たちのために野菜運びができた程度だ。トングラーンは健康で、屈強で、農民出身の兵士た ちとかわるところがなかった。次に彼は戦闘機を撃ってきた。この時は味方の損害は少なくて、私の隊は全員無事だった。

政府軍のこの作戦が一応終了すると、私たちはそれぞれの部隊にもどって総括があったが、私は炊事係をしていたので討議には参加しなかった。スラチャイのい た地域では三、四人の同志を失っていた。それから私は以前の隊にもどされた。チャートリーや他の隊員仲間がタップまで私を送ってきてくれた。何日かすると ナウィン(ピン弾き)とモンコンももどってきた。仲間たちのそろうのを待っていたが、皆なかなかこない。スラッチャイがやっとやってきた。私がちょうどリ スをねらって撃とうとしていた時だ。彼は、亡くなった同志の葬儀をしているタップへ私を連れて行った。「革命の英雄」をテキストに政治学習も開かれていた が、私は関係なさそうなので聴講しないで、亡くなった同志たちの両親と少し話をした。それから英雄追悼の儀式に入る。はじめ私は葬儀に出席しないと言って いたので、たちどころに「階級愛に欠ける」という三角帽をかぶせられてしまった。葬儀には亡くなった英雄の両親が招かれ、「毛沢東語録」の朗読ではじまっ た。それから死者の生前の経歴と闘いとが報告されてから、各隊から花輪が捧げられる。花輪といってもほとんどが花より銃を捧げた。(このような葬儀は、党 の活動家、党員、民主青年同盟メンバーの場合に限ってとり行われるもので、一般兵士が一人で死んでもふさわしい扱いは受けないのだった)それから「血には 血を」などのスローガンの三唱をしてから、一斉に泣き声をあげるのである。大男であろうとも。スラチァイは「同士よ眠れ」という歌を作る。

この葬儀の際、私はある幹部から兵役を逃げているという批判をあびた。幹部の医者は私の証人となってくれたが。これ以降、私と彼とは顔を見合わせないよう になった。

(注「カラワン回想録」は『カラワン楽団の冒険』として出版されました。水牛の本棚にあります。)



コピー文化時代の著作権  高橋悠治


歌をつくる。水牛楽団がホールを借りてコンサートをひらき、その歌をうたう。

音楽著作権協会というものがあって、作詞家や作曲家の代理人として歌の使用料をとりたてる。「高橋悠治」は信託者名簿にあるから、かれの作曲したものにつ いては、水牛楽団から使用料をとり、協会が手数料をとったあと、作曲者に支払う。出版された作品であれば、音楽出版社が使用料の半分をとって、のこりを作 詞者と作曲者がわける。

自分の曲を演奏することによって、水牛楽団からカネをとるまわりくどい手続き。これは搾取にほかならない。同じ曲も「水牛楽団」作曲にすれば、この名前は 登録していないから支払わないですむ。そのかわり、だれがどのようにこの歌をつかってカネもうけしようと、文句はいえない。だれかがこの歌に登録済の別な 作者名をつければ、水牛楽団はその人に支払うことになるだろう。

同じことが作詞や編曲についておこる。水牛楽団が演奏する歌はすべて自分たちの訳詞と編曲による。これを「高橋悠治」編曲とかけば、演奏するすべての歌に ついて、かれ一人だけが支払われることになる。しかも水牛楽団の資金から。

水牛楽団が「人と水牛」をうたう。それをつくったカラワン楽団には何も払わない。日本でいくら金芝河の本が売れても、本人に印税がいかないのとおなじこと だ。著作権法についての国際的なとりきめに、韓国は加わっていない。先進国が第三世界からうばいとるおなじみの図式がここにもある。

だが、こういうとりきめを管理するのは、結局は国家か、その意志に反しない限りでの民間機関なのだ。ソ連は数年前に国際条約に加入した。地下文書を国外で 出版することはむずかしくなる。「これはきみの本か」ときかれて、作者がそうだといえば罪になり、そうでないといえば、出版社が訴えられる、というような ことが、たくさんの国でおこることだろう。

ことばをかいたり、音楽をつくって生きていこうとする人たちがいる、できた作品を管理する制度がある。それは作者を保護するためにあるのか、それとも?

音楽著作権協会へいって、そこで働いている知りあいにきいてみることにする。かれは演奏会場と社交場の管理をやっている。ここで社交場というのは、キャバ レー、クラブ、スナックでバンドをいれているところをいう。そのほかカラオケ・バーも管理の対象になるらしい。

演奏会場では、主催者からコンサートのプログラムをもとに「音楽著作物使用許諾申請書」をださせる。会場の大きさ、入場料、演奏時間が判断の基準になる。 二千人はいる渋谷公会堂で入場無料の歌謡ショーをやれば、一曲平均5分以内だとして、一曲あたり五百円をとりたてる。

バーでは、そこにすわっているために必要最低限の飲み食いの代金の30%を入場料とみなす。水わり一杯につまみセットで二千円とすれば六百円、それにバン ドの演奏時間をかけあわせ、一箇月分の使用料をとる。どんな曲をやっているかは、いちいちしらべられないから、最近ヒット曲の使用統計を参考にする。ヒッ ト曲の作者には、自動的に配当がゆく。もうかるものはますますもうかる、という資本主義のしくみがここにもある。

ヒット曲とは売れるレコードのことだ。テレビやコンサートでタレントがおなじ曲をくりかえしうたい、衣装やメイクにこり、汗を流してはねまわるのは、レ コードを売るための宣伝をしているのだ。見ている方は、その歌がだれの作品かなどと気にすることはないし、レコード屋でも歌手の名でさがす。レコード一枚 売れるごとにだれがもうかるのか?

契約のしかたはさまざまだが、一例をあげる。二千八百円のレコードを一万枚つくる。きずがついたり、返品されることも見こしてその80%を対象に計算す る。まず物品税15%それにケース代として10%引く。歌手が印税契約なら、せいぜい5%。じっさいにはプロダクションがとってしまうだろうが、二千八百 円の内、これが八十四円。十曲以上はいっているLPの一曲分の著作権は十円位のものらしい。この内、五円を音楽出版社がとる。のこりの五円を作詞家半分、 作曲家半分にわける。

レコード会社は卸値60%として、ケース代や税金、20%のリスクを払っても、五百六十円のこる。制作費をここから引いて、もうけがでる。国家はリスクを 負うことなく四百二十円をもうける。

レコード一枚について、もうかるのはまず国家、次にレコード会社、それからタレントをかかえるプロダクション、音楽出版社、最後にくるのが作者たち。歌手 はたぶん一文にもならないだろう。ただし、レコード会社はほとんどが多国籍企業の一部門だということを忘れないようにしよう。

著作権法は作者の権利をまもるためにあるという。じっさいは、この制度でまもられているのは国家と巨大文化産業であり、その限りにおいて、作者はこぼれた パンくずにありつく。
 
最近コピー機はどこにでもある。カセットマシンもだれでももっている。

水牛楽団でつかう楽譜は、ひとつ元の譜をかいて人数分だけコピーする。だれかがほしいといえば、コピーしてあげる。出版された楽譜については、これはでき ないことになっている。著作権法によってコピーを許可しない、とかいてある楽譜がある。そのページごとコピーしてつかう。そうしないと、自分の楽譜を買わ なければならないことになって、その方が高くつく。楽譜のように売れないものを出版するのは、作者にとってはいくらかの虚栄心を満足させるだけだ。

演奏を録音してひろめるのも、国家にもうけさせたくなければ、カセットのコピーを直接売ることだ。これは数十本が限度だろう。水牛楽団がつくったカセット はその限度をこえていたから、物品税や著作権を払っている。

フィリピンのレコード屋でテープを買ったら、何を録音したいか、ときかれた。レコード屋というのは、カセットにレコードを録音してやる商売だった。レコー ドプレーヤーをもっている人はほとんどいない。

タイでも音楽のカセットは信じられないほど安かった。中間手数料がいらないせいだろう。

日本では貸しレコード屋が問題になっている。日本レコード協会が自民党に圧力をかけて、法律で「レコード制作者の貸しレコードに関する新たな権利」を認め させようとしている。貸しレコード屋ができる前から、レコード屋にいく人はすくなくなった。定価をあげた上、毎月新譜の回転率をはやめて不況をのりきろう とするレコード会社にだまされなくなったのだろう。FM放送のエアチェックや貸しレコード屋がでてくるのは当然だ。コピー文化時代に、これらを禁止するこ とはできないから、それも管理の対象にしてもうけようというつもりだろう。著作権をまもるため、というが、作者をくいものにしているレコード会社と国家が いっていることだ。

仙台では去年10月、貸しレコード屋にレコードを売った卸売業者に、レコード会社が出荷を停止したり、販売を禁じたことがあって、公正取引委員会が立ち入 り検査をした。

日本レコード協会事務局長のはなし。「われわれが作ったものを営利行為で使っているのは著作権法違反だ。われわれの生活と権利をおびやかすもので出荷を制 限するのは当然ではないでしょうか。」盗人にも三分の理あり。

貸しレコード屋にはコピー機がおいてある。歌詞カードをコピーするため。そのうちにはカセットにコピーするサービスもはじめていい。さらに、ファクシミリ のように、どこかでレコードをまわして、電話線によるオンラインで端末機からコピーするのはどうか。それなら、レコード盤をつくる必要さえなくなるよ。そ れとも、送信できない無線機を受信ラジオとよぶように、録音できないウォークマンだけをひろめようと、かれらはたくらむだろう。


詩人の谷川俊太郎さんの家で、コピー文化についてとりとめのないおしゃべりをした。それをカセットに録音し、ノートをとり、それからのぬきがき。

谷川さんの写真集「ソロ」の半分位は、本のページや広告ビラなどのコピーでできている。最終ページに出展をまとめ、出版社と著者の了解をとる。ところが、 本のページそのままのコピーでは、活字の組みかた、いわゆる版面にも著作権があるから、著者がOKしても、出版社が許可しない、というところがあった。見 たところ、ありきたりの活字を普通に組んだものだった。あきらめて、同じ著者の別な本と原稿用紙に写して、それをコピーした。

「日本語のカタログ」という詩では、いまある日本語のいろいろなスタイルをみじかく引用してならべた。雑誌に発表したら、これが詩作品か、という批判も あった。

だが、自分だけのかんがえというものはない。人間がかいたことばは、人類の共有財産で、無料でうけわたしができるのがあたりまえだとおもう。ことばを私有 することはできないのに、印刷して固定されるから、著作権を主張することになる。会話のなかで、新聞や本でよんだことをそのままいっても、おカネを払った りしない。

詩の雑誌に一篇の詩をかいて、原稿料を八千円もらう。おなじ出版社で座談会にでて、三人位でろくでもないことをしゃべって一万円もらう。苦労してかいた詩 の方が安いのは、ふしぎな気がする。

有名作家の講演料は、いま信じられないほど高くなった。一時間しゃべれば、本一冊の印税くらいにはなる。はなしの内容より、テレビで顔を見る人が目の前に いることにおカネをはらう。活字より音声メディアをえらぶのはやはり現代的なのか。

だんだんハードウェアが進歩して、著作権はなしくずしになくなる方向になっている。ビデオディスクはLP一枚位の両面に十万八千の静止画像がはいる。両面 から四百字よみとれるとすれば、十万枚以上の原稿、たぶん一生かかってもかけない量がLP一枚におさまってしまう。それが二千五百円で売られるとする。一 万枚売れて二千五百万円、印税率10%で十万枚の原稿なら一枚二円五十銭の原稿料。これでは食っていけないな。

本当をいうと、ほかのかたちで食っていければ、自分がかいたものが発言した瞬間にもうだれのものでもなくなるのが、一番ありがたいとおもう。人前で発表し たり、他人に手わたしたとき、現金をもらえば、金額についての基準なんかなくても、ともかくおカネをもらった、という感じはある。印税や著作権使用料は、 年二回か四回、銀行にふりこまれる。これは金利生活者の気分だね。はたらかないでもうかった、という感じ。

全集や学術書が売れなくなった。研究者が必要なページをコピーして済ますようになったから。だが、原本が一冊あって、そういうものをもつ巨大な図書館を家 庭の端末機からよびだして、しりたいことをビデオでよめるとしたら、必要ならボタンをおせば、そのページがハードコピーでプリントされてくるとしたら、そ うなれば本の山になやまされないですむわけだ。

本がコンピューターにファイルされて、オンラインでどこからでもよびだせるとすれば、やりかたさえしっていれば、よびだしたファイルの内容をかきかえた り、消すこともできるだろう。一冊の本にみんなが手をだして、どんどんかきかえてしまう。その本はいつまでも完成することはない、永遠に進行中の作品にな るだろう。それはみんなのものだ。

有名な詩人のわかい頃の作品が、ほとんど盗作だった、と友人が訴えた。詩人の個性的な語法だとおもったものは、じつはぬすまれた部分だった。二羽のウグイ スがそれぞれ自分の歌をうたう。それがおなじホーホケキョとしかきこえなくても、どちらかがオリジナルで、他方がコピーといえるだろうか。

自分がいいとおもったものを作品にどんどんとりいれる、ということはあってもいい。だが、とりいれたものがとりいれた人の私有物になる。ここが問題だ。有 名になった方が勝ちだ。本歌どりは、原文や原作者への敬意からおこなわれる。コラージュやパロディーは原文のなかで目だたない細部をひきだして全体の意味 を変える。物語は「再話」によってよみがえる。著作権の時代に、これらの技術は死んだ。盗作者はぬすんだ上に、原作者をけおとす。

つくる自由が、つくったものへの権利にすりかえられた社会。詩や音楽をつくることが、まともな仕事とはみなされないから、著作権法などで保護されなければ ならない社会。

人間はノートをとり、要点をまとめることができる。コンピューターが要約できるのは死亡記事位だ。それでも、とんでもないまちがいをすることがある。





「花嫁」たちのアメリカと日本  星野敏子


「わたしねえ、姉が結婚した時、まだ中学入ったばかりでしょ。学校でも先生から、あんたの姉さんは、って皆の前でいわれてね。ずい分恨んだものですよ。で も、こうして会えると、あの頃、皆ひどかった、姉は強いなって……」

東京郊外の住宅地、そのこざっぱりした居間で妹が語るのを、姉のミエコさんは黙って聞いている。ミエコさんは五十六歳、妹さんは四十六歳、共に未亡人と なったいま、やっと判りあえた、とでもいうような静かな情景であった。その数日前、突然「ミエコよ。今日着いたの。会いたいけど時間ある?」という電話を うけて、私はびっくりした。一月にアメリカで別れた時、「もう日本へは行かない。ここがわたしの家だもの」といっていたからだ。妹さんの家に居るという彼 女を訪ねた日、運悪く大雨だったが、ミエコさんは駅まで迎えに来てくれた。

「日本、すっかり変わっちゃって何もわからないの」

傘をさして歩きながら、彼女は「変わっちゃった」と何度もくり返す。アメリカで会った時の彼女に見えなかった気弱さが、ふっとその顔によぎる。彼女にとっ て十七年ぶりの帰郷は辛かったのだろうか、と不安になったが、妹さんと二人でソファに並んだ姿を見て、やっと安心した。

ミエコさんと私がはじめて会ったのは、昨年十一月、ニューオルリンズの中華レストランでだった。広い店内を、とりわけ小柄な日本女性が、皿を一杯もってき びきびと動きまわっている。それがミエコさんだった。戦後、日本に駐留していたアメリカ兵と結婚して、大陸にわたった日本女性を探し求めて各州を歩きま わっていた時である。それからそれへと紹介され、カリフォルニア、コロラドを経てニューオルリンズへ着いた私は、百人以上のメンバーがいるという「日本人 会」の方から、それにも参加せず、誰ともつきあっていない人がいると聞いて、ミエコさんの職場を訪ねたのだ。

ミエコさんは、愛知県蒲郡に生まれ、戦争中は動員で軍需工場で弾づくりをやらされていた。戦後、生家の土産物店を手伝っている時、近くのベースから観光に 来たアメリカ兵に見染められる。彼はドイツ系アメリカ人。マッカーサーと同時に進駐してきた部隊の一員だが、その時、まだ二十歳。ミエコさんは十九だっ た。

長女のミエコさんには、親が一方的に決めた許婚者があったが、彼女は、それに従うのがいやでいやで仕方がなかったという。そんな彼女にとって、休日ごとに 訪れ、ラブレターをそっと手渡す彼は、突然現れた救世主のように思えた。しかし、店番をしながら親の目を盗んで片言を交わす程度。外を二人で歩けば商売女 と蔑まれ、狭い町で噂になるばかり。いっそ家出をしようかと考えるうち、両親に知れ、彼女は山奥の寺に軟禁状態にされてしまう。一週間後、やっと抜け出し て友達の家にかくれ、彼の転任を追って横浜へ。そこで一部屋借りて所帯をもった。アルバムを見ると、その頃の彼女はころころと肥って可愛らしい。彼は横浜 からビキニの実験にかり出されるが、その任務は、ずっと後で知らされる。一九五五年、正式に結婚の届出をして、彼はグリーンランドへ転任。ミエコさんは、 遅れて一九五七年、単身永川丸でシアトルに渡った。

「もし彼が迎えに来ていなかったらどうしようって、そればかり思って、船にのるぎりぎりまで迷ってたの。他に知っている人もないしねえ……」

ふたたび転任でニューオルリンズへ。そこで長女、つづいて次女を出産。彼は除隊するが、疲れやすくなり、肝臓も腎臓も悪いといわれる。本人はビキニの被爆 というが、軍の病院はそれを認めない。一九六五年、病院から夫の生命はあと八年と聞かされた彼女は思いあまって娘二人を連れ、一時帰国。万一の時の相談を するためだった、というが、故郷に自分の居場所はないことを知る。そこで彼女が何をいわれたか、何を見たかは語ろうとしない。ただ迷いが断ち切れ、アメリ カで最後まで生きる決心がこの時ついたという。

ニューオルリンズに戻った彼女は、働けなくなった夫に替わって猛然と働きだした。最初は日本レストラン、次に中華レストランのウェイトレスをしながら、 ローンで家も買い、休日には、自分や娘たちの洋服を縫う。身体はやせ細っていったが、それまでのように、ぼんやり感傷にひたることもない強い女になった。 夫は一九八〇年に亡くなったが、軍は遺体を解剖してもその結果を教えてくれず、一銭の補償もない。いま、二人の娘も結婚して孫二人。自分の生活費だけをか せげばよくなった。

はじめて彼女の家を訪ねた時、やや照れながら、「わたし好きなの。あなたは?」と出してくれたのは、皿に色とりどりの餅菓子だった。ねりきり、栗まんじゅ う、大福……一つずつ違う種類のが並んでいる。ニューオルリンズでもなかなか手に入らないものだ。「子供たちはまったく日本のもの食べないの」という彼女 自身も、ゴハンでなければという他の日本女性とはちがって、日常アメリカ式食事ですませている。仕事の合い間に車をとばして買ってきてくれたのだと思う と、胸が熱くなった。

アメリカを終《つい》のすみかとする決心をしていても、ふっと肉親への情や、故郷への懐かしさを口にする人が多い。だがミエコさんは一言も口に出さず、自 分にいい聞かせるように「ここが私の家よね」とさっぱり言い切っていた。

日本の家族とは十七年前の帰郷以来、音信不通だといいながら、別れぎわに蒲郡の家の場所を私に告げ、「お父さんもお母さんも、どうしているかしらね え……」とつぶやいた。同じニューオルリンズで会ったサダコさんから、神戸の母親の消息をたしかめてほしいと頼まれていた私は、帰国後、神戸のついでに蒲 郡へ寄った。店の場所も、彼女から聞いたのとは変わっていたが、弟さんに会うことができた。孫を抱いた彼女の写真を見せると、「へえ、変わっとらんね」と そっけない。

「おやじは今年死んだけど、知らせても仕方ないし、知らせとらん」

なんとなく取りつく島もなく、余計なことをしてしまったという自責の念と共に、ミエコさんの住所を置いて早々にひきかえした。この一月、撮影のスタッフと ふたたび彼女に会った時、私はそのことを言いそびれてしまった。父親の死を、私のような他人から聞くより、いつか家族から知らされる方がいい。私の立ち入 ることではない、と考えたからだ。その後、私のメモで新しい住所を知った妹さんが、六月が亡父の一周忌であることを手紙に書き、ミエコさんの突然の帰国と なったのだった。

彼女はなぜ急に二十時間も飛行機をのりついで帰国したか、おそらくけりをつけたかったのだと思う。夫も見送り、娘たちも独立し、晩年を迎えようとしている いま、二つの国のどちらで生きるかという揺れ動きの中で、アメリカを選んだ自分を再確認したかったのではないか。妹さんの家の帰り、また彼女は雨の中を駅 まで送ってくれた。

「お母さんにもね、生きているうちに会えたから、もういいの。ニューオルリンズで待っているからね、必ずくるのよ。いつくる? 今年中は無理?」

郊外のひなびた駅の改札口で、握手した彼女の手は、小さく、細く、でも、節が固く、精一杯に生きてきた女の手だった。

数年前、私は戦後の日本で誕生した混血児を番組でとりあげたことがある。それまでの厭らしい大和民族意識を捨て去って、敗戦後の日本が生まれ変 われるなら、その子供たちこそ、新しい日本人であり、戦後の実りだと私は思っていた。

しかし、その子たちの誕生は決して温かく迎えられなかった。いまでも、彼らを日本人と認めようとしない人が多い。アフロヘアーは最新流行でも、生まれなが らのアフロヘアーの青年が、自分の娘の婚約者として現れると、大抵の親は反対する。壁にぶつかりながら生きる彼らと附き合ううち、私は、その子たちの母親 の何人かと知り合った。敗戦直後、米軍は日本女性との結婚を認めなかった。子供が生まれても、相手は本国へ転任し、そのままになってしまった例が多い。

朝鮮戦争勃発の直前から結婚が許可になり、多勢の花嫁が米軍の船や航空機でアメリカ大陸へ渡った。一九五五年頃をピークとし、現在までに、およそ十万人と 推定されている。子供たちの問題と引きつづいて、私はその女性たちに会いたい、と思いつづけてきた。当時、「戦争花嫁」と呼ばれていた彼女たち。一人びと りの個人史を無視して、その言葉は、「GIについていった女たち」という意味で使われ、いまも残っている。日本の戦後を考える意味でも、私は、その一人び とりに語らせたい、と思った。テレビの番組にするOKを得て、昨年の秋、アメリカの六つの州をかけまわって七十人の女性に会うことができた。

彼女たちの人生は、戦争と色濃くつながっている。私には、ちょうど一まわり上の姉がいるが、その姉と同世代の彼女たちの話を聞いていて、姉の当時の姿を思 い出すとピンとくる所がある。戦争中、東京でまだ子供の私が、サイレンと共に防空壕に入れられている時、姉は動員で工場に通い、学校ではナギナタを習わさ れ家で練習していた。戦後、私とアメリカとの出会いは、給食のコーンフレークと脱脂粉乳、そして頭一杯にかけられたDDTである。姉たちにとっては、パー マネントであり、ハイヒールであったろう。何一つない焼野原で、進駐軍の所にだけは、ありあまる物資があった。敗戦のショックから抜けきれず、奇妙なプラ イドも捨てきれない男性たちには、アメリカ人と附き合う女性も、ベースの中で働らく女性も、一種の嫉みから蔑視の言葉をあびせかけられる対象になったので はないか。

しかし、彼女たちに会って聞くと、結婚して何も知らぬアメリカに渡ったその背景には憧れでもなく打算でもなく、男と女のごく当り前の、運命的な出逢いが あったのだった。ただ、周囲がそれを認めようとしない当時、海を渡る勇気があった人たちなのである。

ナナさんは満州で敗戦を迎えた。突然ソ連軍が進入してきた時、キビ畑へ逃げ、廿日間の野宿の後やっとソウルに辿りついた。釜山から日本への船に乗りたくて も、日本人である証明書一つない。仕方なくソウルに戻り、日本人であることを隠してダンスホールで働いている時、進駐軍として上陸してきた御主人と知り 合った。彼が金を工面して帰還船にのせてくれ、福岡に帰り、一年後日本に転任になった彼と結婚、いま、その「命の恩人」との間に六人の子供がいる。

調査の旅で会った時、ナナさんは、ソ連軍から逃げた時のことを話しながら、ふっと言葉を途切らせては遠くを見て「怖かったねえ……」とつぶやく。恐怖がよ みがえったように、細い身体を時折ビクッとふるわせる。再会を約束して一月に出直してみると、彼女は昨年会った時よりも一層やせたようにみえた。九年前に 喉頭癌の手術をうけている彼女の体調が心配になったが、そうではなかった。ナナさんは撮影を断りたいという。

「せっかく来てくれてすまないけどね、この前あなたに話したら、忘れていたことを思い出して、何回も逃げた時の夢を見てうなされてしまうの。撮影するな ら、きちんと話してあげたいし、そうするとまた、辛くてねえ……」

御主人と知り合った動機を問うたことが、彼女を苦しめてしまった。深くお詫びをいって撮影は断念しながら、戦争の傷の深さを思い知らされる。明るいカリ フォルニアの街で、陽気な御主人と歩く彼女とすれちがったとしたら、ごく平凡な中年女性にしか見えないだろう。

シカゴのレストランで働らくトシコさんは、三十年前にアメリカへ着いた時、日本人の一世から「戦争花嫁なんて日本人じゃない」といわれた。いまでも、店に くる日本の駐在員に「ああ戦争花嫁か」といわれることがある。

しかし、彼女たちは、そういう駐在員のように企業のバックがあって渡米したわけではない。たった一人で、異質の文化の中にとびこみ、夫と耳で覚えた英語で 語り、子供を生み、育ててきた。その強さは、私にはとても真似できない。三十年の歳月の中で培ってきた強さは、彼女たちをみな「良い顔」にしていた。

敗戦によるアメリカ軍の進駐は、日本の歴史の上で一つの開国であったと思う。占領軍という形ではあっても、それ以前、外国の庶民が大量にこの小 さな島国に入ってきたことはない。(もちろん、朝鮮半島からの強制連行はあったが、朝鮮民族はいわば日本人の祖先であり、顔かたちは同じである)

GIの制服を着ていても、彼らは国へ帰れば農民であり、自動車修理工であり、平凡な庶民であった。彼女たちは、その制服にとらわれずに、彼らと出会ったの である。当時の教育は「鬼畜米英」であり、彼女たちは「お国のために勝つまでは」と働かされた。そこに出会いの時の一種のこだわりはなかったのだろうか、 という疑問が私にはあった。それを問うと、エイコさんは、明快に答えた。

「なかったわねえ。ただ、一人の男に出合ったというだけでねえ、初恋だったのよ」

一人の男と出会い、結婚する。しかし、夫が軍隊に所属する以上、国家の方針と切り離せない。帰国後すぐに除隊しなかった夫たちはヴェトナム戦争にかり出さ れ、基地から基地へ移転する。彼女たちは子供をかかえて夫の無事を祈り、移転命令が出れば引っ越しをする。

モモコさんの夫は、気持ちの優しい人だった。ヴェトナム行きの命令が出た時、帰ってきたら除隊するといって出かけ、一年後無事帰還したものの、ノイローゼ になっていた。毎夜うなされ、一寸した音にも驚ろき、緊張の連続から心臓をわるくして、除隊後も働けなかった。結婚前から英語が達者なモモコさんがコン ピューターの会社で働き、生計を支えていたが、ついに彼は自ら心臓をピストルで撃った。六年前のことである。モモコさんの父親は阿波丸で死亡。彼女の人生 のどこまでいっても戦争がつきまとうが、彼女は常に将来を見て生きようとしている。

ロッキー山脈のふもとにある広大なオフィスで、いま彼女は六、七人のアメリカ人のスタッフをかかえ、コンピューター・システムのパンフレットを作ってい る。夕方勤務が終わると、夜は、カレッジの商業デザインのクラスに車を走らせる。グラフィック・デザイナーになるのが夢だと語る彼女から、五十二歳という 年齢はとてもうかがえない。

モモコさんの家は、暖炉が燃え、掃除がゆきとどき、快適だった。十八歳の末息子とプードルと猫――それが彼女のいまの家族である。父親の最後を見ていた息 子は、「オレは絶対戦争にはいかない」といっていたが、彼の部屋に入って驚いた。壁に日の丸と星条旗のワッペン、そしてゼロ戦の額――モモコさんの息子だ けではない。テキサスのユキコさんの息子の部屋にも、大きな星条旗と日の丸が天井と壁に飾ってあった。息子たちも娘たちも「私はアメリカ人」という。皆の びのびと人懐っこく、母親思いである。その子供たちが自分だけの個室に両国の国旗を飾るのは「二つの国」を生きてきた母親の心情を思いやってか、自分の血 の確認か――。

どんな民族として生れても、自分が生きる場としての国家は選ぶ権利があると思う。しかし、何の権力も持たない庶民が精一杯生きようとすると、「国家」や 「民族意識」が立ちふさがり、それと闘わなくてはならない。もっともやり切れないのは、自分と違う道をえらんだ人間に対する偏見だろう。私が会った七十人 の内、およそ半分の人が市民権をとっていた。あとの人は、永住権をとり、日本に国籍を残している。子供と同じ国籍になるために市民権をとったというマチコ さんはいう。

「私はアメリカ国民だけど、日本人。それなのに、アメリカで“日系人”とよぶ時に、私たちは入れてもらえないの。外国人の夫をもっているというだけで、私 たちは変わらないのに」

六月はじめ、このアメリカ取材をまとめて放送する時、タイトルを「星条旗と日の丸」とした。二つの国を生きてきた女たちの記録として見てもらい たかったからである。放送後、さまざまなデンワをいただいた。驚いたのは、肉親さがしの相談が多かったことだ。

「十八年前カリフォルニアにいた妹に会わなかったか?」
「行方不明の娘をさがしているのだけど、どうやって探せばいいか?」

そんな問い合わせが多いのである。突然昔の写真を送ってこられ、なんとか問い合わせてくれという方もある。

ミエコさんのように便りが途絶えたまま引っ越して、郵便が届かぬ場合がある。アメリカに生きる彼女たちが日本を忘れたわけでもなく、肉親を思わぬわけでも ない。いや思いが深いほど、手紙が書けない場合がある。

サダコさんは、十七年前、夫が突然白血病で先立ってから、日本へ手紙を書かなくなった。子供三人をかかえて朝から晩までウェイトレスをしている頃、夜中に 一人になると母親に手紙を書いた。でも書けば苦しさを訴える手紙になる。とても空々しいことは書けないが、心配をかけたくない、と結局破ってしまう。そう している内、きっと日本では不孝を怒っているだろう、もう、わたしは忘れられているだろうと思ってしまう。そうすると恐くて出せない。そんな風にして、 あっという間に十七年が過ぎてしまったという。

日本の家族にとっても、最初は「恥をかかせた娘」であり、その結婚が理解できなかった。いま、やっと互いに理解し合おうとする時、住所がわからなくなって いるのである。

日米の関係も変わり、交通も便利になって距離が近くなったいま、彼女たちは明るい表情で里帰りすることができる。でも、「これが私のえらんだ人生ですも の」と笑っていえるまでのこの三十年、どんな時にものしかかっていたのは、日本での彼女たちに対する偏見だったのではないだろうか。

テキサス州南部の小さな町で、私はこの新年を迎えた。そこで知り合った日本の奥さんたちは、じつにざっくばらんな、気持ちの優しい人ばかりだっ た。仲の良いグループ十数人から、わたしはニュー・イヤーズ・イヴと、新年会に招待された。大晦日は皆夫同伴で、彼女たちはロングドレスで英語のパー ティー。新年会は、一軒の家に日本女性だけ。すしや刺身、黒豆等手作りのおせち料理を持ち寄っての集まりだった。日本語のおしゃべりがつづく内、余興に日 本舞踊がはじまる。朝からかかって日本髪を結った人もいる。一緒に飲んでいる時、「あなたたちに良いものを見せてあげる」と立ち上がった二人が奥へ消え た。何だろうと思うと流行歌をバックに表れた一人はGI、一人は真紅なワンピースにサングラス、うたに合わせて踊りながら、英語で即興劇をやりはじめたの である。他の奥さんたちは大喜びで笑いころげている。

「これね、進駐軍ごっこっていうの」

笑いながら説明してくれるが、私は笑えなくなってしまった。ワンピース姿で「ヘーイ」とやって見せている彼女は、まったくのお嬢さん育ち。品のいい奥さん である。それでも、彼と知り合った頃、日本の街を歩けば変な目で見られた。もしそうでも、精一杯自分の責任で生きてきて、どこが悪い? さまざまなくやし さを、自ら笑いに転じて見せている彼女たち――私は、告発を受けている気持ちになった。



編集後記

水牛楽団の都市シリーズは予定外のポーランド支援コンサートと光州五月二周年コンサートをふくめて、全部おわって、いま夏休み。

次の一年は日本、それも昭和史にこだわろうとおもう。とりあえず第一回は九月一日、中野文化センター。「関東大震災――大杉栄と朝鮮人虐殺」。

七月十五日におわった水牛音楽教室も、秋には第二期にはいる。いままでは世界のあちこちの歌をきくこと、楽器をながめること、音楽と音楽運動のはなしだっ たが、こんごはじっさいにつくることをやりたい。水牛楽団がやっているように、訳詞をし、うたい、楽器ができればそれをひく。さらに作詞をし、作曲をす る。というとたいへんにきこえるが、かえ歌や本歌どりをおもいうかべればよい。九月二十九日から水曜日夜六時半〜八時半のクラス、三十日から木曜日朝十時 半〜十二時半のクラスをはじめる。十一月三日と四日をとばして、十二月八日と九日まで毎週で十回。場所は四谷イメージフォーラム、参加費一万七千円。水曜 日クラスは十一月二十四日だけは、楽団の都合で週のほかの日にうつす。




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