水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1986年4月号 通巻81号
        
入力 桝井孝則


へんな旅  ロバート・リケット 小泉英政 八巻美恵
キリコのコリクツ  玖保キリコ
名僧旦過帳 セタガヤが僕の寺をダメにする  高橋卓志
料理がすべて  田川律
走る・その四  デイヴィッド・グッドマン
病気・カフカ・音楽(そのニ)  高橋悠治
音楽時評  坂本龍一
水牛かたより情報
編集後記



へんな旅
ロバート・リケット 小泉英政 八巻美恵


三里塚の小泉英政さんがカラワン楽団のスラチャイとモンコンをよんで、日本を縦断する農村漁村キャラバンをしたのは、84年10月から12月のことでし た。その報告集のために翻訳の仕事や指紋押捺拒否の運動で大忙しのロバート・リケットさんをやっとつかまえて、話を聞きました。通訳としてこのキャラバン に参加したリケットさんは、英語で書いた日記を開き、お酒をちょっと飲んで、さて、おしゃべりは日本語です。

小泉 どうしてリケットさんがあんなに仕事をなげうって一か月間もついて歩いたの か不思議でたまらないという声があるのですが。
リケット いや、今でも後悔しています(笑)。いや仕事のことでだよ。仕事がたまってし まった。でも、なんででしょうね。
八巻 リケットさんとカラワンの出会いは?
リケット 82年の秋、三里塚の集会で歌った時。そして、次の年の11月かな、小泉さん といっしょにタイに行って、小泉さんに紹介されて、非常に楽しい一週間をすごしたんだよね。
八巻 じゃ、直接会ってしゃべったりしたのはタイで。
リケット うん、タイで、一週間ぐらいおじゃましながら。で、楽しい人たちだとわかっ て。帰ってきたら、小泉さんが、じゃ日本に呼ぼうかっていう話をしはじめたんですね。まさか、大変なことだと思ったんですね。でも、本当にやったんだよ ね。
八巻 ね。
小泉 キャラバンで印象に残ったところを少し話してみませんか。
リケット 荒井まり子さんの実家に泊まった晩、娘さんの話とか、いろんな話を聞いたんで す。話の途中でお父さんの方が泣きだしたんですね。74年に田中角栄が東南アジアに行った時に、タイの人々が反対デモをおこして、日本の人たちにも影響を 与え、まり子さんのお姉さんも影響をうけて、日本とアジアとの関係を考えだしたということを聞いて、ひとつのサイクルを感じて印象的だった。あと、南陽市 で、いろんな話があって。
小泉 ぼくは寝ちゃったんだよね。
リケット カラワンはとにかく12時すぎないと元気がでないんだよね(笑)。こっちがく ずれそうになると、むこうは、パッと目があいて、とにかく通訳しろと。黒沢さんという15代目の百姓をやっている人が、歌詞カードを読んでいたんですね。 で、「黄色い鳥」の詩にびっくりして、歌ったか、と。いや、その歌は一回くらいしか歌わない。なぜかっていうと、殺された学生たちを偲びながら歌う歌だか らだ、と。黒沢さんは詩を書く人で、「黄色い鳥」に感動して、スラチャイに歌ってくれと。その時、楽器がないかったんですよね。で、スラチャイがメロ ディーをハミングし、黒沢さんが詩を読んだわけ、とても美しいことだった。
 壬生町で、詩人のナワラットが来て、彼が笛を吹いて、いっしょに「黄色い鳥」を歌った時も、非常にいい感じでした。あと、奄美の無我利で、公民館でコン サートをやったときに、暑くはないけど、むし暑いという感じがあって、ちょうどカラワンが「雨をまつイネ」をやりだしたら、雨がふりだした。言葉でうまく 説明できないけど、印象的だった。
八巻 タイではね、雨をもってくるお客っていうのは、すごくいいんだって。涼しくなるで しょう、暑いところだから、雨がふると。それから、お米をつくることにも関係あるんでしょうね。
小泉 日本では、雨男とか雨女とか、あまりいいことにとられないけどね。
リケット もうひとつ、移動しながら彼らの歌をはじめて聞くでしょう。とにかくタイ語で うたうでしょう。最初は、どういう内容の歌か、聞いてもよく分からないんですよね。で、車のなかで小泉さんが歌ったり。奈良ぐらいまで行くと、歌の半分ぐ らい、彼、覚えているんですよ。で、この言葉はどういう意味なのかと聞くわけね。いろんな話がでて、歌の意味もわかっていって。曲はボブ・ディランみたい だけど、詩自体は重い言葉だし、日本とは現実がちがうってことを改めて感じたりして。カラワンにとっては自分の目で見て、感動して書いたものだから、それ が現実で。そういう、日本とタイの現実のギャップに、聞いている人たちも驚いていた。四人で一か月以上もよくけんかもしないで……、それであっという間に 何語でしゃべっているか忘れてしまうんですね。
八巻 そう、そうでしょう。
リケット 小泉さんに英語で話したり、カラワンに日本語で話したりして。しかも、あると ころに着いたときなんか、皆、ワッとやってきて、小泉さんに、タイからようこそって言って、モンコンのことを小泉さんだと思っているんだよ。そういうこと もあって、帰ってきても、しばらく頭がおかしくて、最高に楽しかったです。そして、よその土地に行って、とてもあついおもてなしをうけて、楽だったんです よ。むしろ、気がすまないくらい。こっちがその分を返せなかったっていうか、うしろめたさがあるんだけども。でもよくもね、タイの人たちと、ぼくみたいな 外人と、そして、日本人ばなれの小泉さんがいて、最終的に歌のあと、みんなのんびりして、ゆっくり話したりして、お互いに、なんていうかな、人間を感じは じめたなっていう、わりとその点で楽しかったなと思うんだよね。やっぱり、同じ世代っていうかな、だいたい同じ時代。皆若かったし、国はちがうけれども、 なにか望みをもって、何かをやって、それで日本で出会って、非常におもしろいと思うんだよね。だって、彼らが「森」に入ったのは、管制塔の少し前じゃない のかな。クーデターがおきたのが76年だから。鉄塔の撤去とか、三里塚は大変だったし、ぼくの方も少し前だけど、ヴェトナム戦争でいろいろあって、亡命し てしまって。
八巻 通訳することで困ったことってありませんでした? あったでしょう、技術的なこと じゃなくて。
リケット そうですね。地方によってあつまった人たちのなかに、政治運動をやっている人 たち、政治党派の人たちもいたりして、当然革命の話とか、ゲリラの話とか、これからどうするのかとか、いろいろ言うわけね。スラチャイとモンコンは、非常 にまよっているところなんですよね。社会自体かわってきたし、76年からやってきた革命闘争というのが、運動のなかに矛盾があったりして、ある意味ではそ のような政治をあきらめて、ちがう政治をさがさなければいけないっていう。で、タイで、彼らは今、それほど貧しい生活しているわけじゃないし、カセットも 売れているし。スラチャイはどれぐらいお金を使っているか教えてくれたんだね。
八巻 すごい額だったでしょう(笑)。
リケット 彼らの日常生活にもいろいろ問題になるようなところがあって、そのへんで、言 葉が足りないっていうか、どう伝えていいか、むずかしかったんですね。
八巻 ふたりはへらへらへらと自分の思うことを言うんだけれど、それをただ直訳しても、 誤解されちゃう感じなのよね。
リケット とにかく聞くほうは目をキラキラさせて、期待していて……。
八巻 わたしね、スラチャイが「森」から帰ってきて、1か月ぐらいの時に会ったのね。そ の時はすごい感じだったよ。非常に傷ついているっていうか、ね。それで「森」のなかであったことをいろいろと言うたびに、泣くの。芸術活動をしていたわけ でしょう、森のなかでは。コンサートをすることになると、ずーっと何列も丸太をわたして兵士がそこに腰かけて聴くんだって。一人でギターをひきながら歌う んだけど、もっと、もっとと言われて、結局八時間ぐらいぶっ続けでやらなければいけない、それも、断るっていうことができないっていうのね。休みなし、休 みなしで八時間だよ、そういうことを当然のこととして、要求されるのがすごくいやだっていうふうに言っていた。それに、共産主義者じゃないんだって。ア ナーキストだって言ってたよ自分のこと。
リケット スラチャイ?
八巻 うん。
リケット モンコンはちょっとちがうね。
八巻 あの人のほうがまだ純情よね。共産主義を捨てきれないっていうのかな。共産主義者 なの?って聞いたことあるんだけど、だって、そういうふうにサインしたから、そうだと思うヨって言ってた。
リケット 日本のいろいろきつい運動の話をしても、ピンとこないみたいで、日本はこんな に豊かなのに、何で問題があるのかってね。ま、水俣に行ったら、いろいろタイでも知られているから、非常にはっきりわかったようだけれども。むつかしい ね。
八巻 でも、あの人たちの思っている日本て、なんて言ったらいいのかな、こんどのキャラ バンで、普通の情報からえがく日本じゃなくて、自分たちの回った日本のイメージがあるでしょう。でも、それもほんとうの日本とずいぶんちがうと思うのね、 おそらく。それがどのくらいのものなのかなっていうことに興味がある。
リケット 日本とタイとの状況が全然ちがうからうまくつたえられなかったけど、ま、見る 目があるから、そんなにまちがって伝わってないと思うけども。
八巻 81年にモンコンをはじめて三里塚に連れて行ったんだけど、その前に三里塚の話を してたから、それなりに分かっていたと思うのね。でも、実際に見てみたら、信じられないよってモンコンが言う。貧しいとか、反対運動をしてるとか言ったっ て、みんな車を持ってるんだからって。
リケット そ、その感じ。
八巻 それからね、うちで、ごはんのおかずにちりめんじゃこを食べたのね。おいしいって 言ってから、でもこんな小さいうちに食べちゃってもったいない、もう少し大きくなるのを待てば、もっと大勢の人が食べられるのに、っていうの。三里塚の農 民が、みんな車をもっているっていうのはかなりショックだったらしくて、タイに帰ってから会う人ごとに言ってたよ。
リケット おかしな話もあったんだね。和歌山の本宮町で山ザルの話をしたわけ。そうする と、スラチャイは、サルはおいしいと言いだしてね。
八巻 そう。動物の話をすると、かならずあの人たちは、あれはおいしい、あれはおいしく ないと味のことを言うのね。
小泉 コウモリもおいしいって言ってたね。
八巻 ゾウはおいしくない。足首のところだけはおいしい。
リケット 小泉さんは、大変だったんだよね。
八巻 でも小泉さんて、大変だっていうことを自覚できないのよね。自覚してないっていう より、できないの。
リケット 84年に入って、呼びますよって言ってね。小泉さんが言っているからたぶんや るだろうと思ったんだけど、でも、どういう形になるのかと思ってね。とにかく40か所にいろいろ段どりして、大変だったと思うんだ。カラワンから、行きま す、と返事がきたところでかなりあわてたんだよね、みんな。
八巻 え! ほんとうに来るの?って感じ。
リケット 小泉さんとこの美代さんはね。ぼくも、ああ、小泉さんはえらいことをやってし まったなあと。お金はどうなるんだと。でも小泉さんはあまり心配するような顔しなかったんだけれども。
八巻 心配してなかったんでしょ、だって。
小泉 なんとかなると。
八巻 そらね。
リケット スラチャイたちが何度も、おまえはファランじゃないか、と言うんだよね。ファ ランというのはタイ語で外人という意味、しかも侵略してくる外人だからね。いわゆるアメリカ人とか。
八巻 白人ね。でもこのごろは日本人もファランの一種だって。
リケット そういう関係なわけね。だから、夢にもファランといっしょにまわるとは思って なかったみたい。お互いに、いつも、びっくりして……。おまえはファランだって、何度も(笑)。
八巻 だからリケットさんがいっしょだったのが、すごくよかったと思うんだ。
小泉 そうだね。
リケット それが一方で、小泉さんに対しては、「コイズミ――」って。なんか、いろんな ニュアンスをふくんでいてね、ぼくもつかめなかったんだけど「コイズミ――」って。笑っちゃうんだよね。
八巻 でもリケットさんのことは、ファランじゃない、日本人的だ、コイズミよりも日本人 だと、わたしにはそう言ってたけど。
リケット スラチャイはしっとしているんじゃない。
八巻 だれに?
リケット 小泉さんに。
八巻 「コイズミ――」ね。スラチャイはコイズミは自分と同じタイプだて。リケットはち がうって。
リケット あ、それは安心した(笑)。
小泉 他に、美恵さんに何かぐちをこぼすなんてこと、なかったですか?
八巻 ぐちねえ。普通のコンサートと違うんで、やっぱりちょっと……ということは言って たけど。それぐらい。農村をまわるということはわかっていても、きちんとしたコンサートをするという、そういう感じで来たんじゃないかな。
小泉 でも、途中で、ああ、やっと小泉が何をやろうとしているか分かったといってくれ た。
八巻 それから、観客のなかに、ひとりでも音楽のこと、わかっている人がいると、すごく いい、と言ってた。それは何度も聞かされた。石垣のひばりさんみたいにね。あのときはすごくよかったみたいね。
リケット 小泉さんはキャラバンを終わってから、自分の考えが変わったと言っていたけ ど、どう変わったんですか。
小泉 あんまり変わらないですよ。
八巻 変わったっていうのをわたしも聞きましたよ。
小泉 今まで、闘争が一番上にあったんだよね。そのためにのみ生きているなんて、そんな がちがちじゃないんだけれど、どうもそのことにとらわれすぎているところがあって、もう少し、闘争をひきずりおろして、闘争とか生活とかいろんなことを並 列して考えられるようになったっていうか、せっかく生まれてきたんだから、鳥が羽ばたくように、エサをついばんでおいしいと思うように、生きればいいんだ なあと。それを基本にして、闘争のことを考えたり、社会的なことを考えればいいと。
八巻 あの人たちを見ると、わりと快楽的なのね。快楽的というとただしくないかもしれな いけど、楽しむというか、楽しみを見出すというか……。
小泉 彼らとずっと行動をともにしていた影響もあるんだろうけども、奄美とか、沖縄あた りとか、ずっと下がってきて、スラチャイも言っていたんだけど、日本はどこに行っても同じだと。建物も、何も変わらない。奄美に行くとちがうなと言いだし て、ぼくもそう思ったんだけれど。あの奄美の島で、ある一人の女性が産まれて、育って、海でとれたものと、畑でとれたものを食べて、結婚して、子供をつ くって、子供を育てながら老いていって、タイにも行かないだろうし、東京にも行かない、名瀬には出るだろうけど、奄美の島のなかで一生、終っていくばあ ちゃんたちがいるわけでしょう。コンサートを聞きにきてくれたばあちゃんたち。それでいいんだなあと、小さな部落の上から、三十軒ほどの村と海を見て思っ たんだよね。
八巻 それで、今度みたいに東京とかタイとかから人が来ても、ちゃんと受けいれられるっ ていうのがね。
リケット 奄美の新元博文さんからおもしろい話を聞いたんだけども。彼が言うには、昔の 人間というのはね、一人一人に自分を守る動物がいると信じたんですね。人によって、熊がその人の守り神だったり。今の社会のなかで人間はそういうふうに思 わなくなった。街の人間には街の人間の論理があって今の三里塚を見ると、街からでてきた活動家とかいっぱいいるんだけども、その人たちは、ちがう論理で動 いているわけですよね。百姓は百姓のペースで、百姓の神様がいるわけですよね。三里塚が勝利するためには、街の論理にひっぱられないで、自分の百姓の論理 にしたがって、自分の生活をつくりながら闘争をつくっていく、生活を守るために闘争があるし、百姓の神様は必ず勝利すると、言い方はもう少しこった言い方 をしていたけれど、そういうことを言っていた。
小泉 すっと、キャラバン中、どこでも、日本の農民は、アジアの農民たちを踏み台にし て、今の繁栄がある、アジアのことを自覚しよう、なんてぼくは言って歩いたんだけど、奄美に行ったらね、何かこう、そんなことを言ってもあまり意味がない んじゃないかと思うようになったんだね。奄美こそ、アジアであり、沖縄も、石垣もアジアであるし、そんななかで、言葉をだんだん無くしていった代わりに、 ちがうことが入ってきた。
リケット 音楽もかわってきたんですね。北から南へ向かって行くと、陽気になったんです ね。昔の古い、モンコンの「手をつなごう」なんて歌はすごく陽気な歌なんですね。タイダンスの歌とか、雰囲気が変わってきたんですね。うーん、沖縄は残念 でした。行きたかった。でもなんか、すごい経験……。
小泉 また同じことをやれと言われると、いやそれはもうと言いたいけれど(笑)、なかな か一生にあんなことってないだろうし、一度はね、いいっていうか、なかなか得がたい経験だったね。
リケット 日本の文化かもしれないけれども、最初は静かに聴くわけね。あんまり自分ださ ないで。それで、そこで溶けちゃって、交流会に入って、お互いに人間の豊かさっていうか、感じあったり、発見しあったり、そういうのがあって、ごく短い時 間だけれども残るんだよね。
小泉 日本をザーッと通りすぎただけだけれど、自分がろ過されたって感じたけれど、ろ過 されたとは、自分で言いえて妙だな、と。
八巻 自画自賛ね。
リケット ろ過って、なに?
八巻 ろ過って、たとえばコーヒー入れる時につかうフィルター・ペーパーがあるでしょ う、フィルターよ。
小泉 コーヒーはあまりいいたとえじゃない、フィルターがあって、泥水でいいんだよ。
八巻 濁っているのが澄むっていう。
リケット わかりました。
小泉 カラワンたちに何が残ったのか気がかりだけど。
八巻 でも、そんなことまで責任もてないじゃない。来るかって聞いたら、来たいって言っ て来たんだから。ね。そんなのあの人たちの問題でしょう。また来たいって言ってるらしいから、よかったんじゃないの。
小泉 どっかで呼ばないとね。続きをね。各地で言っていたじゃない。呼ぼう、呼びたい と。
八巻 いやいや、だからさ、みんなそんなふうに言うんだけど、呼びたいって言って、ほん とに呼ぶ人って、そうはいないじゃない。
リケット でも、日本のかくれているところを、ずいぶん見たというか、まわったんですよ ね。
八巻 ふつう思っているのとはちがう地図が、彼らのなかにある。
小泉 『もう一つの日本地図』
八巻 そういう本あるね。
小泉 あれは、キャラバンのあとから出たんだけども、わりと、あの本に載っているような 所を歩いたね。
八巻 水牛楽団で最初にモンコンひとりを呼んだときに、うちにあった喜納昌吉とチャンプ ルーズのレコードを聞いて、気に入った曲があったのと、そのジャケットに喜納さんの写真があってね、それがモンコンの弟そっくりだというので、そのときか ら沖縄はちょっと特別な感じがあったみたい。モンコンの実家でその弟さんに会ったことあるんだけど、ほんとにそっくりだった。でも、その話をして沖縄に 行ってみたいなんて言ってたときは、スラチャイはまだ「森」のなかにいたし、ほんとうに夢のような話だと思っていたのにね、こんなふうに実現することもあ るのよね。もうすぐテープが終るから、リケットさん、言いたいことを言ってください。
リケット いいよ、美恵さん言ってよ。
八巻 おととしのことだから、もうほとんどわすれちゃったような気がするけど、今度の キャラバンだけじゃなくてカラワンと出会ったってことは、わたしの人生のあるひとつのエポックなの。
リケット うーん、なんかね。いろんなバラバラになっていたものが、いっしょになったと いう、すごくそういう感じだよね。カラワンはそのきっかけになったんですよね。日本をまわって自分と同じような人間にいっぱい会ってね、不思議というか、 嬉しいというか、行ってよかったと思っているんですよ。美恵さんはどういうエポックですか?
八巻 水牛楽団っていうのはね、カラワンに代表される、ああいう歌のグループがクーデ ターでもう歌うことができなくなったっていうんで、はじまったでしょう。だから、いろいろ思い入れがあったのね。そういうのを、わりあいと、彼らが裏切っ てくれたからね(笑)、ね。
リケット なるほど。
八巻 それがすごくよかったんだろうって思う。だから、こうしてつきあうことができてる んじゃないかしら。



キリコのコリクツ  玖保キリコ


私の部屋はとてもきたない。
衛生学的にはそう汚くないと思うが、とにかくめちゃくちゃ散らかっている。
不意に友だちがくることになって、「散らかってるけど……」と言って、部屋に通したりすると、本当に散らかっているので、友だちはびっくりする。「あら、 そんなに散らかってないじゃない」なんて言ってくれる人は誰一人いない。
皆、無言で部屋の片づけを手伝ってくれる。
きたなさに見るに見かねて、というよりも、そうしなければ座るスペースができないからだ。
兄は女の部屋じゃないと悪態をつく。
母はもう何も言わない。
時どき、無性に、「部屋を片づけなければいけない」という思いにとらわれて、部屋を片づけ始めたりするのだが、気がつくと、夕方になっているのに、雑誌の 山の位置が移動しただけ、なんて状態になっていたりする。
全て一度に片づけようとするから、なかなか片づけられないのだろうかと思って、ある時、部分的に区切って片づけてみようとしたことがあった。
机の上。
本棚。
もう一つの本棚。
プレーヤーのまわり。
片づけているときに、おかしな事に気がついた。
普通、何かを片づけ始めた場合、その片づけている箇所がすっきりするものなのだ。しかし、私の場合、ある程度、ごちゃごちゃに置かれていたものが少し整え られはするが、それらは一向に棚の中なり、引き出しの中なりに納まってはくれない。
依然として、机の上に、本棚の前に出たままなのだ。
本や雑誌や画材の山が姿を消さずにただただ、部屋の中を移動するのをみて、私は悟った。
私の部屋は決して片づかない。


そして、それは、私が掃除がそんなに好きでないとか整理整頓がヘタとかそういう問題ではないのだ。
私の部屋が片づかない理由。
それは、私の部屋が狭いからなのだ。
どこをどういう風に考えても、私の所有する物(私が考えるに、私が所有しておかなければならない物)に比べて、私の部屋は狭すぎる。
本棚は3つあるわ、
机は両ソデ机だわ、
送られてきたり、買ったりする雑誌の山々はあちこちに積まれているわ、明らかに、これは私のせいではない。
私の兄の部屋は広い。
天井も高い。
兄は、昼間働いているから、夜しか部屋を使わない。
なのに、おまけに日あたりもいい。
私は非常に合理的な考え方に基づいて、兄に部屋の取り変えっこを提案した。
だめだった。
がっかりと、広い兄の部屋から帰ってきた私の目に映った私の部屋は、犬小屋のように小さかった。
私はとうとう決心した。
家を出よう。
家を出て自分だけの部屋を借りよう。
思い出すのだ。昔はあんなに親からの自立を望んでいたではないか。
今の私には自立の意識は全く無いが(めんどうだから)それでもこの部屋は狭すぎる。
これではアシスタントが仕事にきても、布団も敷けないではないか。(アシスタントは使っていないが。)
私が母に家を出たい由を告げると、母はあきれたように、
「出る、出るって昔から何度も聞かされたけど、全然出てかなかったじゃないの」
とあまり相手にしようとはしなかった。
それでも、自立のためではなく、単に部屋が狭いからなのだ、という私の説明に納得し、自分も不動産屋へいっしょについていくといい出した。
余程頼りない娘だと思われているらしい。
とにかく、私と母は翌々日、三軒茶屋のとある不動産屋へと向かった。
私が不動産屋さんに条件を述べると彼はすぐさま
「ぴったりのがあるます。お勧めですよ」
と一つの物件を出してきた。
いくつか調べてみた中でも、その物件は確かに私の条件に近かった。
早速、車でその場所に行ってみた。
古いが、しっかりした作りで、廊下や階段も広い。
三階建のアパートの三階の端の部屋で、南と東に窓があり、風通しが良さそうである。
ベランダもついている。
私も母もそのアパートがかなり気に入り、90%ぐらいは借りたいと思う気持があることを不動産屋さんに言った。
そして、次の日曜日に昼間その部屋を見せてもらって、実際、駅から歩いてみた感じをつかんでから、ちゃんと契約したいと思う、と告げた。
ただ少し気になるのは、そのアパートが駅から歩いて15分かかる、ということだった。
ちょっと遠いと思った。


その夜、私は友だちに電話しまくって、引越しすることを言いふらした。言いふらすついでに引越しの手伝いを頼み、占いの先生には方角と時期を占ってもらっ た。
方角は問題ない、時期はどちらかといえば、四月より三月の方が良い。四月の二日までを三月と考えるから、それまでに全部引越すのが無理でも、何かの身のま わりの物を運び込んで、それで形だけでも引越したことにしなさい。
私は四月の二日までに本か何かをその部屋に置きに行くことを決め、四月の六日に引越しの日を決めた。
何となく遠足の前日のようなウキウキした気分になって、その日は床についた。
が、眠れない。
気になっているらしいのだ。
駅から歩いて15分が。


私が引越しを言いふらしてまわった友人たちのほとんどは、私が説明した引越し先に対して、よさそうな所が見つかって良かったね、ぐらいの反応だったのだ が、反対はしなかったものの、難色を示した者が2名いた。
出無精のMと歩くのが嫌いなSだ。彼らは口を合わせたかのように
「駅から遠い」
と言っていた。
私は決して歩くのが嫌いではないが確かに駅から15分は遠いと思った。
たまに出歩くならいいだろうが、きっと私は毎日出歩くだろう。
そう考えた途端、何だかとてもめんどうくさい気分になってきて、そのまま朝まで眠れなくなってしまった。

 朝、コーヒーを飲みに下に降りていった私は、しばらく考えた末、母に打ち明けた。
「せっかく、時間をさいてくれて悪かったけど、あのアパートやめようと思う。駅から遠すぎるから」
すると、母もこう言った。
「私もそう思った」

私は早速、再び友だちに電話をして引越しのとりやめを告げた。
みんなはあきれ、そして私は今でもきたない部屋に住んでいる。


名僧旦過帳 セタガヤが僕の寺をダメにする  高橋卓志

旦過帳とは投宿帳、現代風に言えば、宿泊者カードのことである。僕が住いする田舎町松本の山寺を訪れる奇人、変人、知人、愛人の類いの行状や特 徴を住職さんが書き留めたものと思えばよい。

この寺は世間で言う寺とはかなり趣を異にしている。ただし、住職が変り者だということでは決してなく、旦過帳に記入される側、つまり僕の寺を訪れる側の人 々に、相当な変り者がいるということなのである。それは、この旦過帳を見ていただけば明々白々となる。

最近、寺の坊さん達は大忙しで、法事だ、葬式だ、ロータリークラブだ、何だカンダと、黒染めの衣にヘルメットをかぶり、スクーターにまたがって あっちへ走り、こっちへ飛び出し、寺に居ることはごくまれになっている。それならいっそのこと、住職なんかやめて、走職とか飛び職と名を変えればいいのに と思う。そこへいくと僕なんかは、ズボラも手伝っての出無精だから、できるだけ法事をキャンセルして寺に居ることを心がけているから、わりあい「正しい住 職」と言える。

かつて、寺は地域の中心としての村役場であり、相談所であり、公民館であり、文化の発信地でもあったというのに、この頃は、セレモニー業者や葬式屋の下請 け、駐車場やマンションの管理人、はたまたコンピューターを駆使しての宗教法人税金対策用経理事務所なんてのを経営してるところまである。おかげさまで僕 の寺は、土地もお金もない貧乏寺なので、そんな寺がうらやましいと思いながらも「ああいうのは本当ではないのだ! 僕の方が正しい坊主なのだ!」と無理や り納得しているだけのことなのである。

さて、この正しい住職が住む寺には実にいろんな人達が出入りする。ここへ来た人達は、この寺のことをまるで公民館みたいと言い、また酒場ではな いかとも言う。もっとひどい人は、タダ酒付き簡易宿泊所だと思っている。

だがしかし、実はこの寺、禅宗の有名(?)な寺であるのだ。僕がそう言うと「おまえんとこは禅宗じゃなくて皆の宗(衆)じゃないか」と言うやつがいる。な る程、その通りかもしれないが、本当は泣く子は驚きもっと泣き、年寄りは入れ歯を吹き出し昇天するといわれる程に厳しい禅の道場なのである。その証拠に、 なんたって厳しい規則がいっぱいある。

例えば「禁入山門葷酒」、つまり酒とか魚、ニンニクのようなクサイものを山門内に持ち込んだり、飲食してはいけないとか、朝は五時起床、掃除、おつとめ、 坐禅を必ずやらねばならないとか、不必要な大声や大きな音をだしてはいけないとか……。

何しろ朝から晩まで、風呂場から便所の中まで規則づくめで息が詰まって死にそうになるのだが、書いてる本人が死にたくないもんだから、全くこの規則を守っ ていないのが現状なのである。つまり、規則はあるが、それを「守りなさい!」と言うべき人が守れていないから極めて自由で開放的で、住職にとっても訪れる 人達にとっても都合のよい寺となっている。

従って投宿する人々は、僕の行状を眺めながら、「坊さんが率先して酒呑んでんだから……」とか、「坊さんが一番遅くまで寝てるんだから……」とか、「坊さ んでも屁をこくんだから……」とか言って安心して楽しく飲み明かすというのが最近のパターンとなっている。

この「皆の宗・開放寺」で旦過(一夜を過ごす)する人々の中で、圧倒的に多いのが、東京の、しかも世田谷からの来訪者である。個人様では、深沢の牟田悌三 さん、成城の横尾忠則さん親子、池尻に住む「おしっこ博士」の宮松宏至さん、世田谷のキリストと呼ばれ、羽根木の雑居まつり仕掛人の沢畑勉さん、そしてご 存知桜新町の高橋悠治さん……。

団体様では、野沢の龍雲寺という僕の寺とは比べようもないデッカイ寺が抱えている少年野球チーム御一行。世田谷ボランティア協会御一行。世田谷教育委員会 御一行。それから水牛楽団御一行といったあんばいで、まるで僕の寺は世田谷区民のためにあるようだ。世田谷ボラ協や教育委員会なんかはこの神聖な道場を合 宿所と間違えているし、「ナントカ楽団」は宴会場だと思い込んでいる。また牟田さんに至っては、最後まで旅館だと思っていたという。

ここらあたりで、原点に戻らなければ、この寺は世田谷に乗っ取られ、ますますダメになってしまう。何とかしなければ……とかなり真剣に考え始めた矢先、強 烈なKOパンチを見舞われてしまった。しかもクサーイパンチを……である。

僕と仲間達が毎年やっている全市的なおまつり「きましょ長屋」で、オールナイトで騒ごうという企画を考えた。公共施設は例によって頭のカタイ役 人さんから全部断られ、仕方なく「おまえんとこでやれ!」というわけで僕の寺が会場となってしまった。

酒呑み討論会、ミッドナイト落語会、深夜辻説法を中心に恐怖の一夜を過ごしたのであるが、午前二時頃から高座にのぼったのが、僕の寺をダメにした張本人、 セタガヤが生んだ「おしっこ教」宮松宏至教祖様であった。二百人近い若者の目の前で、自分の身体から取り出したばかりの、湯気が立ちのぼるおいしそうな 「おしっこ」を、「カンパーイ」の一声で飲み干し、延々と「おしっこ健康法」「おしっこ文化論」を説いたのである。

ビールや酒やラーメンの臭いが充満する中に、突然、異様なというか、ヒワイなというか、何だかわけのわからない、まあそういった、えも言われぬニオイが 漂ってきたのを記憶している。その心地よいニオイと、教祖様の人を引き込む魔性を帯びた語りは、まさにLSDそのもので、少数の意志薄弱者は、ボーゼンジ シツ、チミモーリョーの世界に落ち込み、グラスを手にフラフラと夢遊病者のようにトイレへ行き、自分の「ナニ」をたっぷり入れて「ぼくもおしっこ教の信者 になるゥー!」と一声発すると、コーコツとした表情で、一気に飲み干してしまったのであった。

正しいはずの、そして何とか禅の原点へ引き戻さねばならない、この清く美しいはずの禅道場は、突如として暗ーく、きたならしく、秘密めいた「阿片窟」(古 い話でキョーシュクです)に変わり、それまでワイワイ、ガヤガヤやっていた連中が声をひそめ、「おしっこ教」の教祖様をあがめたてまつり、「おしっこ教」 に帰依を誓うという、世にも不思議な世界が展開したのである。「これは本当にお寺なのだろうか? もしかしたら(これも古い話で誠にキョーシュクです が……)かくれキリシタンか、SMクラブのカモフラージュではないのか?」という倒錯した世界に引き込まれいく恐怖を感じながらも、興奮を隠しえない僕な のだった。

宮松教祖の後遺症で、今でも僕のまわりには「健康のため」とか、「人類の平等は下半身の差別を撤廃することから始まる!」などともっともらしい理由をつけ ながら、あの日の快感が忘れられず「おしっこ」を飲みつづけている変な男がいる。僕は彼が「おしっこ」に熱中するあまり、身を持ち崩したり、家庭崩壊の危 機にさらされなければよいがと、本当に真剣に楽しみにしている。

「おしっこ」の狂気が去った後、今度は「これでもかーッ」といった具合に、セタガヤから四十二名もの大軍団が押し寄せて来た。世田谷の教育委員会が主催す る「ボランティアリーダー研修会」であるという。ところがオットット、セタガヤは日本一のボランティア活動の先進地ではないか。なのに何を間違って松本ク ンダリまで出かけて来るのか? しかも二月下旬、松本は連日氷点下十度以下の厳冬期なのだ。それには大きな理由がある。

松本に障害者が地域で生きることを目ざしている有名な無認可の共同作業所がある。筑摩工芸研究所というこの作業所は、無公害の石けん作りや、古着のリサイ クル、自動車解体、印刷などを通し、地域との直接的な交渉を持っているのである。僕は寺の仕事がヒマな時(ほとんどヒマなのだが)、そこで出している雑誌 「月刊ちくま」の編集を手伝っている。

そのちっぽけな無認可の作業所に先進地セタガヤはターゲットを絞ってきた。これからは大金を投じた行政主体の大型施設では、あらゆる面で必ず無理が生じて くる。障害者みずからが、地域の生活者として地域と連帯するため、街の中へ飛び込んでいかねばならない。施設は街の遊撃手として大きな役割を持つことにな るはずだ……とセタガヤは考えたようだ。それなら松本へ来る意味もわかるとういうものである。

三日間の研修中、もちろん僕の寺が指定宿坊となった。四十名もの人間が右往左往した割には、わりと冷静に宿坊業務が遂行できた理由は、ほとんど若い女の子 がいなかったからではないかと思う。もうこのまま、この寺にいてもらった方がいいような人も中にはいたりして……。

そしたら、そのおじいさんが、「和尚さんは禅宗のボンサンでしょ? 禅宗は奥さんもらうことができないんですよ!」と言う。「ドキッ」とした。

かつて、お年寄りから同じようなことを言われたことがある。「禅坊主はシェックスしちゃイカン!」そんなこと言われたってもう手遅れだもんね。なんでセタ ガヤの人ってのは、そんな時代遅れの無意味な質問をするんですかねー。それより誰がシェックスしたっていいじゃないですか。

そんなことをしているうちに寺の門前に「セタガヤ御宿坊」と大書きした看板を出しそうになった。これだから東京のシトは困る。すぐシトをその気にさせるん だから……。


料理がすべて  田川律


味噌汁みたいなカキ鍋
そろそろカキも終り。といっても今からもう一カ月以上も前。編集会議と称する飲み会がいつものように悠治さんところで開かれた。
カキ鍋でもしようか、と考えて、それらしく作った。コブでだしをとり、ダシの素も入れ、味噌をとき、カキ、豆腐、シイタケ、ネギ、などを入れたのだが、食 べはじめたら、どう考えてもカキの味噌汁みたいでコクがない。みんな空腹だったせいもあって、おいしい、とは言ってくれたが、失敗したという気が強かっ た。終る頃に鎌田さんがきて、その頃は汁が煮つまって、カキ鍋らしくなっていた。津野さんと美恵さんは、ここへタイのスープの素を入れてはどうか、とト ム・ヤム・ナントカの素を入れ(なんとこれはあのクノールのマークが入っている)そこへ東急本店で売っている乾燥レモン・グラスをパラパラと加えた。かく てカキと味噌汁のタイ風フープができあがり、なかなかの美味だった。ただし、煮つまる前から、味噌汁っぽくないカキ鍋を作ることを考えねば――。

男が男に料理を教えたりして
あのKDDのコマーシャルで知名度があがった晴さんこと斉藤晴彦さんが料理番組に出る、というので、なるべくカンタンなヤツを教えてほしい、といわれ、ほ ならエビの中華風とアサリと青菜イタメでいこか、ということで、三月九日の日曜日、晴さんとこでいっしょに作った。
夕方、下北沢で材料を買って行ったのだが、どういうわけどアサリがどこにも売ってない。ま、吉祥寺まで行ったらあるか、と期待したが、何軒かの店のどこで も売り切れ。誰か邪魔しとるな、という感じがしたが、ま、今日はシジミで間に合わせよ、とシジミとターサイを買った。どうせ、明日の本番の時はテレビ局の 人がちゃんと材料買うといてくれるし。シジミもアサリも貝には違いないし。
晴さんのうち、いつの間にか、レーザー・ディスク、それもコンパクト・ディスクも兼用のヤツが入ってるし、テレビは28インチ。
さて、まず、ニンニクを切って、というところからはじまった。これは晴さんがやるのだから、とぼくはもっぱら、ニンニクの皮むきとか、ターサイを洗うのと か、下ごしらえにまわる。「ニンニクの大きさはこのぐらい?」「ええね、どんなんでも。そこが男の料理らしいやん」「そうだね。そしたら、いっそほうちょ う使わずにやろか、大胆に」と晴さんもすぐのる。「それをいためて、そこへエビを放り込んで、白くなるまでいためる」「白くなるって、どのぐらい?」「べ つに、きまってへん。テキトウに、ま、白濁したら、ええんちゃう」
それから、少々、塩、コショウして紹興酒をかけて、最後にトウバンジャンからませて、オワリ。試食する人がいないと淋しかろうと、ぼくが行ってるガッコの 生徒の有沢さんと、その友達の梅田さんに来てもらい、食べてもらったが、「おいしい、おいしい」と味をほめてんのか、男ふたりの料理作りを楽しんでんの か、ようわからんようなほめ方。
アサリと青菜イタメはもっとカンタン。やっぱりニンニクをいためて、そこへ、アサリならぬシジミをバアーッとほり込んで、ちょっとフタして(このフタ、と いうのが晴さんとこにはない。しゃあないので、フライパンを逆さにしてフタ代わりにした。そういえば晴さんの所属する68/71黒テントの作業場で煮込み うどんを作った時、鍋が大きすぎて、フタが小さい。しゃあないので、ネギを二本、鍋にワタしてその上にフタをのせたことがあった。うまいこといきよった、 と思っていたら、だんだん湯気でネギが柔らかくなってしなってくる。フタもその分少しずつ落ちそうになって焦ったことがある)今度は日本酒をたっぷり加 え、塩、コショーして、そこへターサイを千切っては加え、千切っては加えして、それがしなっとしたらでき上がり。「いやあ、カンタンなもんだね」と晴さん も上機嫌。「よし、明日は(それが録画どりの日)もう、ほうちょうなんかは使わずにやるぞ。ニンニクなんかも、ほうちょうの柄でつぶしてさ。どうだっ、と かいったりして」「でもまあ、わからんとこあったら電話して。明日はうちにいるからさ」
その明日、電話がなかったから、うまくいったんじゃない。編物を教えたことはあるけど、料理ははじめて。
もっとも、ゲストのふたりは、この二品では夕ごはんには足りなさそうだったので、近くの「ル・ボン・ビボン」へ出かけて、鰯のナンチャラ、とかオードブル を何品が食べた。いやまあさすがにおいしい。この店では、出されるものが、どう作られるか考えないことにしている。「あんなもん、うちで作れるワケあれへ ん」

三千八百羽のニワトリの顔
晶文社が「子供」につづいて「家族」というインタビュー集を作るので、また手伝おうとして、そのうちのひとつに、大塚まさじの親たちをインタビューするこ とにした。かれの生家は養鶏場、それも大阪府下茨木でやっている。いつもかれのことを「トリヤの息子」なんてからかってはいるものの、あの大都会の近くで 地飼いで養鶏をしてるなんて、オモロソウヤン、と出かけた。
まさじは、「えらい田舎者やで」というけれど、大阪から京都までに、もう田舎なんか残ってないと思ってたし、待ち合わせに降りた国鉄茨木駅は「万博」のせ いで、すっかり開けてしまっている。それでも車で十五分ぐらい行って、高速道路のワキをすっと入ると、その一角だけ、たしかに田舎の風情が残っていた。
地飼い、とはいっても、そんなところだから、さすがに放し飼いにはされていない。それでも、オートメーション化された現在の巨大養鶏所にくらべれば、はる かに家内制手工業。
背丈が175センチはある大塚まさじのお父さんは、もう七年近くまえにチラリと大阪厚生年金会館でのまさじのライブで見たきりだが、その時の第一印象と違 い、とても気さくなおじさん。ニワトリ大好き少年がそのまま七十歳になったというところがある。
なにより感心したのは、今は千羽しかいないニワトリが三千八百羽いた時そのニワトリの一羽一羽の顔を覚えていた、という話。「そら、誰かて、そんな話しウ ソや思いまっしゃろ。その時も、みんなそういいまんね。ほなら、どっからでもええから一羽抜いてきなはれ、どっから抜いたか、あてまっさかい、いうて。抜 いてきよりましたから、これは、あの棚のやっちゃいうて、あてたらみんなびっくりしてましたな」
アフリカでは、飼っている動物の数はかぞえられないが、顔を覚えてるから一匹でもいなくなったらわかる、という話をどこかで読んだことがあるが日本にも、 そんな人がいたんや!
お土産にもらった卵を、本誌でおなじみのデイヴィッド・グッドマンとこで、トリ(このトリは大塚さんとこのとちごた)の水炊きに入れたら、なるほどおいし かった。

トリの水炊き
この十年来、グッドマン一家のうちは、ほとんどのところを訪ねているので、今回も京都のうちをぜひ訪ねねばと、百万遍のちかくにあるうちを訪ねた。
いろんな木が植えられた庭を持つ、たたみのうち。かれらがこんなとこに住んでいるのは、ぼくが訪れた中でははじめてなので、はじめは物珍しかったが、べつ になんの違和感もなかった。
グッドマンの一家をまめに訪ねる理由のひとつは、和子さんの料理がおいしいということがある。和子さんや平野さんとこの公子さんの料理を食べさせてもらう と、いつも、ぼくはまだまだ駆け出しや、という気になる。
この日のトリの水炊き、でも、まず鍋にコブと水を入れて、トロ火でゆっくり吹き出すまでまつ。イラチ(あわてんぼ、すぐにイライラする人を意味する大阪 弁)のぼくなんか、はじめから強火でガアーンと煮るが「そうすると、コブの苦味がでてしまうでしょ」と和子さん。
トリ、エビ、シイタケ、トウフ、などを入れるのだが、ぼくが例の卵をお土産に持って行ったら「これは少しゆでて入れるとおいしいから」と、半熟にして、殻 をむいて入れる。なるほどとてもおいしい。水炊きに卵をこうしていれるなんて知らなかった。味はお酒をたっぷり入れ、おしょう油と砂糖少々の薄味。

アチャコとカロリーメイト
父を訪ねてから一週間後に、今度は息子がスキー・ロッジでうたうのについていった。四月のなか頃から大阪で「大阪サンケイ」の夕刊に毎日(!)しばらく地 元のミュージシャンのことなど書かねばならなくなったので、取材もかねてのこと。(ホンマは、久し振りでスキーしてみたかってん)
長野の栂池の山麓園というところが宿泊所でもあり、会場でもあった。そこで、背の高い、やせてハンサムなアチャコと呼ばれてるまさじたちの友だちに会っ た。奈良の大麻寺の近くで、花火を作っている二十七歳の男。アチャコてもっと太ってる人やと思ってるから、なんでかいな、と思ったら、花火師だから、ハナ ビシ・アチャコやて。
一家四人で工場を持って作っているが、冬場だけは比較的ヒマなので、スキーをして楽しむという。夏場になるとメチャ忙しくて、ろくろく昼飯の時間もとれな く、車の中でカロリーメイトを食べて餓えをしのいだりするそうな。「ハラはふくれへんけど、いちおう栄養はとれるし、おなかおさえられるし」。しかしロッ ジでの洒落たフランス料理はおいしかったけど量が足りないらしく(ぼくでも足らんかった)、「こんな時は、丼飯で鍋やで」ということで意見が一致した。

ビーフン入り酸辛スープ
今月は旅と外食が多かった。またまたタラ豆腐をつくってあまったので、今度は春雨を入れてスープにしようと思ったが、春雨がなく、ビーフンがあったので、 どっちも原料は同じや、とばかり、僅かにタラと、ネギと、豆腐が残ってるスープに、ビーフンをひと束入れて、酢、レモン、ショウ油、ゴマ油を加えて、ホッ ト・アンド・サワー・スープにした。



走る・その四  デイヴィッド・グッドマン

六五歳になるのを極度に恐れて、ノイローゼ気味になってるわよ、と弟の妻はアメリカ訪問からインドネシアに帰って、母の精神状態を弟に告げた。 本来なら停年になるはずの今年の誕生日を記念して、なにか贈り物をみつけなくてはと、そのころ河原町通りを茫然とぶらつくこともあったぼくに、弟はジャカ ルタから電話をかけてきた。母をよび、ハワイで落ち合って、誕生日を祝おうじゃないかと提案した。よく気がきくな、とぼくは感心した。贅沢ではあるが、一 人しかいない母を元気なうちに云々と、いろいろ考えたあげく、よっし、いこう! と返事した。

そのことを電話で母と相談することにした。毎年一月の中旬、父の誕生日のころ、ぼくたち兄弟は母を中心に電話で集まる。これは四ヵ国を同時につなぐコン フェレンス・コールと呼ばれる国際通話だ。京都のぼく、ジャカルタの次男、エルサレムの三男、アメリカの母が電話で一堂に会するのだ。そして、亡くなった 父の思い出や、たがいの近況を語り合う。父をよみがえらせる、ぼくたちの年中行事だ。

失業中で二人目の子供が産まれたばかりのエルサレムの弟は来れなくて残念がっていたが、母はハワイ行きの計画をたいへん喜んでくれた。

     *

ホノルルに向かう機中、休暇でもまじめに生きるのだと決めていたぼくは、機内映画も観ないで、本を読むことにした。それで第九四回芥川賞作品、米谷ふみ子 の『過越しの祭』を機内に持ち込んだ。映画を見ればよかった。

『過越しの祭』の話を日本に置き換えて語ろう。アメリカ人の女性画家が「神秘」という、いわば日本を代表する一つの神話を求めて日本にやってくる。日本人 の男性とめぐりあって結婚する。日本語があまりできなくて、日本の生活になかなか馴染めない。日本人の姑やこじゅうとの関係もうまくいかないし、求めてい た「神秘」はどこにも見当たらない。そこへ子供も生まれ。脳に障害をもつその子供の世話に明け暮れて、十数年が過ぎ去ってしまう。数少ない施設に子供を やっとあずけることができた暁に、彼女は悟る――日本の「神秘」は幻だった! 恨めしい! 人生を返せ! 彼女はタイプライターの前に腰をおろして書きは じめる。日本の仮面をひっちゃぶいてやるのだ。日本はこの世を惑わす悪の文明。彼女は日本文化についての生半可な知識を羅列して「小説」を書く。

「主婦体験の作文を出ていない」、「異国で暮らす中年女の怨念と愚痴」という、一部の芥川賞選考委員の正確な判断にもかかわらず、『過越しの祭』は芥川賞 も新潮新人賞も受賞した。

『過越しの祭』は徹底的に閉ざされた作文である。しかも日本人の間でしか通用しない、偏見を中核とした、恥ずべき作文である。選考委員に評価された、大阪 弁を導入した文体にしても、主人公の内面の言葉であり、まわりのガイジンどもにわからない言語として用いられている。外界に対する根深い不信感をそそり、 そうした不信感をもつ読者におもねるこのような駄作に、文学賞をおくるなど、最低だとぼくは思う。日本語でものを書き、日本語および日本文学の国際的な可 能性についてあるヴィジョン(幻想?)を懐いてきた者としてそう思うのだ。

だが問題はそれ異常に深刻である。米谷氏が罵っている過越しの祭はエジプトで囚われていたユダヤ人の解放という具体例を考えながら、人間の解放 と自由とはなにかを吟味するための祭典である。マルクスをはじめ、多くの思想家にとって、過越しの祭は自由・解放革命の思想への出発点であった。そしてプ リンストン大学の哲学者マイケル・ワルツァーが近著『出エジプト記と革命』で指摘しているように、過越しの祭の解放のイメージは六〇年代後半以来南米を中 心に展開してきた「解放の神学」の基本的イメージでもある。この「解放の神学」は最近のフィリピンの政治的変動にきわめて大きな役割を果たしたし、これか らの韓国の政治情勢においても重大な役割を果たすにちがいない。

今は過越しの祭を歪曲したり、それを慎重に考える人々を罵倒したりするだけの「怨恨と愚痴」で綴られた「作文」を奨励する時代ではない。さまざまな文化が せめぎあう、激変している世の中で生きる真の辛さを描く文学を書く時代なのだ。

     *

ジャカルタから飛んできた弟は、ぼくよりおよそ九〇分遅れて、朝の八時半ごろワイキキのホテルに着いた。すこぶる元気だった。

「おい、兄さん、起きろ。お母さんはまだみたいだから、ランニングにでかけようぜ。すばらしい天気だしさ」とかれはいった。

だがすでに睡眠薬をのんで、悪夢から逃れようと努めていたぼくは、ただ唸って、ふたたび毛布を破るのだった。





病気・カフカ・音楽(その二)  高橋悠治


病気になるすぐ前にしていたのは、カフカの創作ノートをテクストにした作曲だった。病院にもカフカの本をもちこんで、ながめているうちに、訳文に満足でき なくなる。ドイツ語の辞書をたよりに、原文と訳文をくらべてみると、訳者は文章の意味を解釈しながら日本語に写そうとしているらしいことがわかる。

カフカは自分が書くことをkritzelnと称していた。ひっかくこと。文字通り紙をペンでひっかくこと。このことば自体、もう文字通りにうけとる以外に ない。これを「書きなぐる」と訳せば、日本語に写しながら、もとはなかった意味をつけたすことになる。

ひっかくことは単語と、それを紙にきざみこむプロセス(このことばもカフカの長編のタイトルになった。「審判」ではなく「訴訟」であり、おもいがけないも のでありうる一定の結果をもたらす一連の行為の継続をさす。)、さらに単語に対応する世界内の事柄のあいだのバランスを身体でとりながらすすむ。

streckenという単語を書きつけながら、小動物がのびをするのをおもいうかべ、同時に書き手の筋肉のすみずみにいきわたる緊張を意識する。

文章を解釈する訳文は、書く行為を、手を通さない論理と経験の操作に変えている。そこには発見はない。光の消えた後のかたちだけの再現しかない。

センテンスではなく、単語の内部にはいりこむこと。たとえや慣用語としての単語の表面をすべりぬけてフレーズから状況をよみとろうとするのではなく、単語 を抽象としてうけとるのでもなく、むしろ単語の起源にさかのぼり、その構成要素それぞれを、音色とリズムをもった具体的な運動としてとらえ、それらの組み 合わせを文字通りにうけとること。

カフカの文章で目につくこと。――再帰代名詞sichが動詞をたえず主語の内部に押しもどす。主語は同時にそれを書きつつある身体でもある。長 くまがりくねったように見える複合センテンスも、接続詞や限定的なはたらきをする副詞が視点の位置や角度を切り替えていくカットの連続に分解される。

ことばは切りはなす(scheiden)。ナイフ(Messer)は量る( messen)。過去を量ることばは死者のもの。一方ことばは決める(entscheiden)。未来を決める、まだ生まれていないもののことば。ことば は向うからやってくるだけ。それを待ちのぞむことができるだけ。

「所有はない。存在だけだ。最期の息に、息たえることにあこがれる存在だけだ。」
「何もない。ことばを横切ってくる光のなごり。」
「われわれの芸術は真実によって目のくらんだありかただ。後ずさりするしかめ面への光以外にはなにも、真実ではない。」

光、真実、存在。それ以上説明できないことば。ことばが語れないことがあると、ことばがまずしいものだと、ことさらに見せつけるためにあるようなことば。

「たとえについて」という短編のなかで。――たとえのなかで、「向うへいけ」といわれても、現実にこえていかれる向う側のことをいっているので はない、どこともしれず、それ以上ちかづく道もないような「向う側」をさしているとすれば、毎日を生きていく上に、それが何になるのだろう。

では、たとえを文字通りにとって生きてみては。きみ自身がたとえになるとともに、たとえはうしなわれ、現実がのこる。

「望むのは、しないこと。だが、欲するのは、することだ。(わたしの望みは、たとえば肘かけ椅子に、わたしの意志は筋肉感覚にかかわ る。)」(ヴィトゲンシュタイン)

カフカ――「目標はある。道がない。道と名づけられるのは、ためらいだ。」

人間はこの事実の世界だけでは満足していられない。だが、それ以外に何があるだろう。「これだ」といったときには、それは経験と論理にくみこまれている。 語ることができないものについては、「これでもなく、あれでもない」というよりしかたがない。

地上に生きる二次元の生物がいたとして、星の光がそれを照らしている。だが、かれらには、星をみることができない。星を指すこともできなけれ ば、たとえそれができたとしても、こんどは星を指しているその指が見えないものになるのだ。かれらにできるのは光にひたされてあることだけ。
こう考えると、「祈りのかたちとしての文学」というカフカがわかるような気がする。光にひたされてあることは、二次元の生物にとって神秘的な体験ではな く、そもそも体験とよばれるたぐいの時間内のできごとではなく、瞬間ごとにたえずくりかえされる身体感覚にすぎない。それを創造とよぶならば、かれは神を もたない世紀の人なのだ。

ところでこの「ためらい」だが、これが方法であるとすれば、(たしかに方法ということばの起源meta+hodosにもどれば、道についてくね くねまがる線を方法と定義することはできるだろう)あらかじめたてられた目標にたどりつくための再短距離どころか、どこかにたどりつくこと自体がありえな いことなので、たえず創造しつづける、(それも意志にしたがって)ということだけが方法である保証であり、くねくねまがる道の上にあるかぎり、光をめざさ なくとも、光の方がついてくるだろう。

一息つく、そこに展望がひらける。それは可能だ。ただしそれが最期の息であり、目のまえにひらけた風景から道は急角度に遠ざかっていくのを承知 の上なら。展望は「これではない」というため以外には役にたたないものだった。

カフカのノートブック、カフカのペン。自分のために考え、自分のために書く。書きはじめ、中断し、(インクは意志のしたたりだから、余白をとら ない文字の列は訂正をゆるさない。中断したものは、そのまま見捨てられるか、はじめからやりなおしになる。)区切の線をひいて、別のものをはじめる。

カフカの建物。ドアをあけると、長い廊下。それは進むほどにはてしなくのびていき、結局どこにもいきつかない回廊なのだ。階段をのぼり、(もちろんこの階 段も廊下とおなじようにのびていく)次の階に幸運にもいきつけたらのはなしだが、また廊下がはじまる。おおきなものは、つかれはてて途中で死んでしまう が、こどもや小動物はそれをたのしむ。残酷なよろこびではある。

断片が充分長くなり、まとまった見かけをとるにいたると、次の段階は、妹や友人たちにそれをよんできかせること。いっしょに笑うことができる。 友人が原稿をもちだして本にするのはどうでもよいことではないし、いくらか虚栄心を満足することだって必要悪ではあるが、カフカの本はサミズダートのよう に、朗読・手渡し・筆写のような直接のメディアがふさわしい。

顔の見えている範囲で、双方向のコミュニケーションが成立する相手を第一に考えながらメディアを選ぶとすれば、こうした手段はかれの時代には時代おくれの ものだったが、いまはエレクトロニクスによってもまだ実現されていないメディア・アート、たとえば双方向の電子回路を通じて作者から直接発信される音声を ともなうコピー文書の、とりあえずの手づくりモデルと考えてもいい。死者のものであるとともに、まだ生まれてこないものにも属するという「ことば」にふさ わしい、その伝達手段。それは、権力をしらない、所有をしらない、存在だけに縮小した人間にひらかれる。

「生のはじまりの二つの課題――きみの輪をたえず縮小し、きみ自身が輪の外のどこかにかくれていないか、たえず再検査すること。」

こどもと小動物の生きる知恵。そこには自意識はない。方法はあとからついてくるなら、まず書きはじめることだ。

「魂を観察するものは、魂のなかに侵入することはできない。たぶんどこか端の方で触れあうところはあるだろう。この接触でわかるのは、魂も自分 自身をしらないことだ。それは、そうして未知のままであるよりしかたがない。魂の外に別なものがあったとすれば、かなしいことだったかもしれないが、そん なものは何もないのだ。」

こうなると、カフカの創作ノートをテクストに作曲するということも、そんなに気楽なことではなくなった。入院前に一応完成した楽譜をすくいだそ うと、あれこれ考えてみたのも、むだなこと。ノートブックそのものとおなじように中断し、「たとえについて」でいわれているように、カフカのことばを文字 通りにうけとって、音のうごきのノートをつくるところから再出発する。

紙とペンにかわって、音を「ひっかく」のは、コンピュータに連結したシンセサイザーのキーボードであるだろう。(ことばを事象のモデルとしてつかったヴィ トゲンシュタイン流の逆転にならって、最新テクノロジーをプリミティヴ・テクノロジーのためにつかう。)この場合は「打つ」と言った方がいい。くりかえし 打つこと。内部感覚をたえずはりつめたままで、キーの上のわずかなうごきを意識のなかで拡大し、あるいはいいかげんに通りすぎる。急に中断しては、ちがう ところからやりなおす。この即興のリズムとキーを打つ指の速度がメモリーによみこまれる。そのあとで、方法がはじまる。
(つづく)


音楽時評  坂本龍一


●今月も相変わらずレコードはあまり聴いていない。時間がなかったから。レコード会社から送られてきたレコードが数枚、それも聴かずじまい。一体とても音 楽が聴きたいのに時間がなくて聴けないのが悔しいのか、そもそも音楽を聴きたくないのか自分でもよく分からない。少なくとも心から(ちょっと純粋すぎる が)音楽が欲しくなるには、何も音楽的環境のない場所に七週間以上は閉じ込められなければならない。(もちろん僕の場合)というのも『戦メリ』の撮影で クック諸島とニュージーランドに七週間居たんだけど、何も音楽と言えるものがない状態で一度も飢えを感じたことはなかった。案外平気なんだ、という感想を もったが、多分あそこには波の音と風の音と太陽があったからかも知れないとも思った。音楽はないが波の音と風と太陽のある場所、音楽はあるが忙しさと街の ノイズと疲労のここ、これは簡単に較べることは難しい組み合わせだ。音楽家だからといって、音楽だけやってるなんておかしいといっておきながら、何にもで きないでいる。そもそもそういう言い方自体、何にもやってない奴の言い草な訳で、色々やってる奴は元々そんな言い訳をする必要などない。やりたい事は沢山 ある。やりたい事ができない状態は何とか改めた方がいい。でも一体、皆さんは皆さんの内で、やりたい事とそれが成就される割合はどうなってるんでしょう。 まあ、そんな事、答えは無いよね。愚問でした。僕が今やりたい事はね、旅です。ああ、なんて平凡な人間だろう、ぼくは。でも、しょうがない。旅といっても ね、ロンドンやパリなんかどうでもいい。そうじゃなくてね、全然言葉の通じない色んな人に会って、するとシンプルな表現を強制される。好意のある時は好意 を示し、困っている時は困った顔をする。腹が減っている時は腹が減っている仕草をし、全ては相手に誤解なく伝わる様にオーバーに表現しなくてはならない。 これは僕の一番不得手な事。それが不得手でもすんでしまう環境で生きてきた。この習慣をちょっと変えたいな、と最近思う。それで手っとり早く旅に出てしま えばいいのだが、引きづっているものは沢山ある。なかなか砂漠への一歩が踏み出せない。

●パルコ劇場で、ヤン・ファーブルの「劇的狂気の力」を見た。動作のミニマル。別に目新しくはない。暗い舞台のホリゾントに時々写し出されるスライドが、 ウィム・メルテンやワーグナーの音とからむ時「劇的」なものを感じる。しかし何と古色蒼然としたステージだろう。これがヨーロッパなのか、それとも「はづ し」なのか。最もモダンなものが最も古びて色あせて見える時代に突入している。音楽もそうだ。YMOまではそれ以前のポップスの機械によるシミュレーショ ン、或いはパロディだった。過去のあるスタイルを機械でマネてみせるのが面白かったしマニュアルとの差異が快感だった。しかし今は違う。過去の何かに似て いるだけではもう白けてしまうのだ。最早過去の焼き直しでは満足できなくなてっしまっている。パラダイムのどこかのタガがはづれてしまった。ルールもない のでタブーもない。タブーがないのでそれを犯す快感もない。ひたすら白けているだけだ。強引な革命がやってくる前に内部自体が空洞になってしまった、そん な感じだ。倒すべきルールがないので革命もない。

●NHKのDJを辞めたことは前号に書いたが、番組で年に二、三回特集していた「デモ・テープ特集」なるものがレコード化されることになった。リスナーが 作って送ってくるデモテープの数が異常に多かったので、何となく番組で発表するようになったのだが、面白ければ発表されるとわかり、元々デモテープが発表 される機会などなかったのが、全国放送だからあっちこっちのリスナーのデモテープやその評が紹介されるので、作る方もやる気になってしまい発表目当ての や、笑わせるのがメインのや、やたら録音技術がいいのやら、ド下手やら、モノマネやら、プロになっちゃったのやら、とにかく色々な奴が色々なテープを作っ ちゃった。毎回三百本ぐらいのテープを二十本ぐらいにしぼって十五回ぐらい発表したので、オンエアーされたものだけで三百本ぐらいある。その中で面白いも のを(というのは一つの基準で選ぶ訳にはいかないので、ましてや「音楽的」という基準など通用しない世界の面白さ)選りすぐりLPにしたのが、『デモ・ テープ』として4/21に出る。ジャケット・デザインもリスナーの中の美大生を起用して、音楽もデザインも全て素人に徹してみたし、値段も二〇〇〇円にお さえた。弟子にしてくれと上京して来ちゃった奴とか、解散したバンド、受験でテープを送ってこなくなった天才や、異常に受けたのがプレッシャーになってダ メになった奴etc.これからも続けたいし、自宅録音派のネットワークも作ってあげたい。とにかく楽しいLPです。


水牛かたより情報


●ゲオルグ・ヴァシャヘーリ バルトーク・リサイタル(東芝レコードLRS 九〇六 定価二千五百円)
ヴァシャヘーリ氏は私のピアノの恩師である。ハンガリー人で、十二才からずっとブダペスト音楽院でバルトークからピアノを学んだ。その後ベルリンでエドウ イン・フィッシャーにも師事している。今時珍しいスケールの大きい、自在な表現をする人である。バルトークの演奏によくみられる機械的な冷たさや、たたみ かけるような堅いテンポなどが一切ない。バルトーク直伝の語り口と、彼独自の生き生きとしたリズム、想像力で実に魅力的な演奏だ。(高橋アキ)

●ラミン・コンテと高田みどり
5月18日2時、19、20日7時。渋谷西武SPEED。前売3300円。当日3500円。問い合わせ、SPEED Tel362・3795
ラミン・コンテさんはセネガルの語りべ。コラという弦楽器をつかって弾き語りをする。高田みどりさんはバラフォンとかタイコとかの打楽器を演奏する。な お、最近高田さんは「つるかめアートコーポレーション」という奇妙な会社の取締役社長になりました。専務はベースの井野信義とピアノの高瀬アキです。(田 川)

●家庭内店鋪のお知らせ
ふだんは、布団や洗濯物を干したりしているベランダで、4月から毎週土曜日、お店を開きます。
手染め糸、手編みニット、織物、焼酎など売っています。是非、お出かけ下さい。11時頃から5時頃まで。(7月、8月は夏休み)
世田谷区成城4・12・25 tel482・4539(ひらのみきこ)

●先月号の情報でのブレヒト「子供の十字軍」がはじめ50人、あとで55人になっていることについて、木島始さんから葉書をいただきました。
「原子があるのでひらいてみると、前の方は、Fur ein halbes Hundert,となっていて、後の方は、二度とも、funfundfunfzigとなっています。前の方が大まかな言いかたなのかなあ、と一応考えられ ますが、――まあそこまではつきとめたので、一筆。」
ということでした。前の方は日本語でいえば「百の半分」とでもいうのでしょう。後の方はまさに55で、音のおもしろさで選んだ数でしょうか。(高橋)

●新玉川線桜新町から歩いて5分、れんが色あざやかな長谷川美術館。あの「サザエさん」や「いじわるばあさん」の原画をはじめ、長谷川町子作の陶器(これ がよく見るとおかしい)がならんでいる。とても休館日がおおいのも特徴。毎週月曜日はもちろん、6月〜7月中旬、9月、12月中旬〜2月さらに展示替期間 も長い。あけたい時だけあけていたい、といっているような案内。Tel 701・8766。本、絵ハガキ、いじわるばあさんのタオルも買えるよ。(高橋)

●永井浩著「見えないアジアを報道する」(晶文社 千五百円)
永井さんは毎日新聞外信部の記者。80年5月から84年10月まで特派員としてバンコクに暮らした。80年の春、アジア・アフリカ語学院のタイ語のクラス で永井さんとわたしとは「同級生」だった。この本を読んでいてもう6年も前のことなのに、あの教室で授業を受けている永井さんの真剣な姿勢を思い出した。 メイン・テーマはタイに対する日本の経済侵略だが、ここには永井さんがバンコク支局長として会ったさまざまな階層のタイの人たちの言葉がたくさんある。日 本人の言葉もある。永井さんの姿勢ははっきりしている。それはスラク氏につづく知識人の姿勢のように、わたしには思える。(八巻)

●3月21日の夜、スラチャイから電話があって、トーキョーに着いた、という。東京の仕事での相談で来た、という。カラワンの新しいテープといっしょに、 悲報ももってきた。カラワンの仲間であり、水牛でカラワンをよんだときも、いっしょに来て日本でのコンサートのヴィデオをつくるんだ、とはりきって、たく さんの人がまきこまれたこともある、あのセーニーが急死したというのだ。3月11日の夜、心臓マヒだったらしい。33才だった。いつも時間がないと言って たね、とスラチャイとセーニーの思い出話をする。そう、死ぬのを自分で知っていたのかもしれない。セーニーが煙になって空にのぼっていったとき、取材で フィリピンに行くため予約してあった飛行機がちょうど煙の上を飛んで行くのが見えたので、まるで予定通りフィリピンにいってしまったみたいだった。とても 残念だけど、でも、マイ・ペン・ライ(気にすることはない)。ちょっと先に逝っただけさ。ぼくらだってそのうち逝くんだから、とスラチャイは自分に言いき かせた。(八巻)



編集後記

病気がなおってはじめての夜の外出。藤本和子とデイヴィッド・グッドマンの引越祝いをかねた編集会議をバンタイでひらく。だれも雑誌のことに触れないの で、引っ越してきた二人は不満らしかったが、いわないですむことはいわないでいられるのが会議の効用というものだ。だれも何もいわないから雑誌はなんとな くできていく。
病気はなおったらしいが、まともなくらしにもどる気にはまだなれない。はたらけないのはいやだが、はたらかないのはいい。あたまはこわれたままのようだ。 家にいると、必要もないのに横になっているのに気がつく。あたまが低い位置にある方が、かんがえが自由にうごきまわれるような気がする。重力にさからっ て、必要もないのに立っているようでないと、まともなくらしとはとてもいえないだろうが、あたまを高くあげれば、世間の網にかかるのだ。
今年は桜がおそいので、御近所の長谷川美術館に田河水泡先生の講演をききにいく。のらくろ(といっても知らないかな)は焼鳥屋の娘お吟ちゃんと結婚し、喫 茶店のマスターになって健在だそうで、作者の方は復刻版の印税で楽にくらせるので、もう御活躍はしません、と立ち上がり、みずからパチパチと拍手をして講 演はおわった。サインをもらう長い列。千ページもありそうな「のらくろ」復刻版をかかえたおじさんもいる。賛美歌集にサインをもらおうとした女の人は、落 書きをしちゃいけません、とことわられれた。そういえば、田河先生はクリスチャンでしたね。(高橋)




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