水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1986年8月号 通巻85号
        
入力 桝井孝則


貧しいってことは  オルバーン・オットー 木島始訳
三里塚で出会った花たち  前田深雪
風あそび  島寛征
中国外券旅行(下)  中井由紀子
斉藤晴彦インタビュー
キリコのコリクツ  玖保キリコ
料理がすべて  田川律
「カフカ」ノート  高橋悠治
走る・その七  デイヴィッド・グッドマン
水牛かたより情報
編集後記



貧しいってことは  オルバーン・オットー 木島始訳

貧しいってことは
ちょっと人より貧しいってだけでも
クリスマス・ツリーの安ぴか玩具で
演説を飾りたてるのは恥しいと
戦争の兵士たちに向って
ハリエニシダのぴゅうぴゅう鳴る翼の事を
わめいたりするのは恥しいと
わきまえることを意味するのだ
貧しいってことは
訊ねられたイエスかノーかを
どうしても答えたいという
押さえられない願望をもつことだ
貧しいってことは
カラスの飛び散った
テクノロジーの海を裸足でわたり
現代の便利さをことごとく備えた
ライオンに手ずから餌をやることだ
でんぐりがえった倫理を学ぶことだ
空をめがけて地を引っかくものの
隠された地下牢について
何もかも発見することだ
歴史という洞窟の
狭まる廊下を
後ずさりして
匍っていくことだ
そのゆきつく先は
原始の仕事場
そこでは
血と惨めさが
こっぱみじんになって
人間らしさを備えた
空気の精となる
貧しいってことは
ロメオが自転車であり
ジュリエットが化粧品である世界では
厄介せんばんな美点かもしれぬ
だがまた幸福な美点だろう
なぜなら貧しい人というのは
どんな護衛にたよることもせず
包囲された思考のとりでのなかで
生きていくのだし
そのうえ地上を裸の背に
たてがみなびかせながら
疾走していき
さらに貧しいものの
忍耐づよい憤りをつかって
拍車をばかけていくのだから



三里塚で出会った花たち  前田深雪


三里塚に落下したタンポポの綿毛の一種が芽を出し根をはりながら、センロ花と彼岸花に出会ったはなし。

農家育ちで大工を仕事にしている前田が南三里塚長原部落にいささか広めの土地を求め、私達夫婦が足かけ七年住んだ借家をひき払ったのは一九七八年夏のこと だった。それ以前に私は菱田の前田の実家に身一つで入りこみ、試験的な農家の嫁の生活を送ったが、前田の親達、前田、私と三者の思惑のくい違いにとまどい 果て、半年でそれを断念し、借家で二人ぼっちの生活を始めた。そうした私達が再び一つの部落に入りこみ、村の生活をとみこうみしながら自分たちをそぐわせ ていこうというのには、たちうちのできないものに飲みこまれていくような、暗たんとした不安と焦燥につきまとわれた。

無論土地を求め、家を建てるのに私も同意している。大工の仕事には借家はあまりに不向きであったし、親子五人となった私達にその手狭さはいかんともしがた いものとなってきていたから。しかし、実際に住みはじめてみると、町場育ちの私にとって、そこは地の果て、山の中という言葉の他は浮かんで来ないような所 であった。

大人の身の丈をこすセイタカアワダチ草の大群をトラックでなぎ倒し、踏みつぶしてやっと敷地にした庭で、幼い子供達を泥だらけ、裸同然に遊び呆けさせなが ら、私はくる日もくる日も庭づくりのスコップを放さなかった。まず、目に触れてくる草花、植木を手あたりしだいに植えていった。それから次第に私は、自分 の子供の頃実家の庭に次々に咲き実をつけていた草木を思い出しては、その一つ一つをあさましいほどの執念であつめるようになっていた。

私の家は町うちであったし、父は教員であったが、庭には植木やその季々の花や野菜は無論、仮にイチヂクと言っても三種類はなったし、大きな桃は子供の両手 に余った。母はよくパラフィン紙をミシンで袋に縫ってはかぶせてまわった。夏みかんもザクロも柿もくるみやなしや、かたかな名前のおかしなものまで、一年 中とりどりの色合いだった。小学校の頃の私は父に言われるままに、庭の草をとり、草木に水をかけ、落葉をかき集めて育った。男兄弟のなかでひとり女の子で あった私は父母にとって使い勝手のよい存在だった。

山ン中の新居の庭に、子供の頃になれ親しんだ植物のあれこれを根づかせ、思春期以前に経験したなつかしい家庭のあり様を再現させようとやっきになっていた 当時の自分の心のうちを思い返すと、すさまじくも痛々しい。

大学入試で家を離れて上京し、学生運動にひきこまれ、全共闘運動のさなかに逮捕、一年の未決拘留生活を送り外に出てみると自分の所属した党派は無くなって いた。行き場を失って私は自分を立て直すべく、三里塚の援農で知り、拘留中に再会していた前田の家に入っていった。しかし三里塚はそのころ今よりももっと 闘いの場であって、前田は青行で忙しかったし、彼の実家を出て職人の家庭を築いていくにあたっては、私という人間の資質や状況になどかまってはいられな かった。三里塚で暮すのに肉体的精神的におぼつかない私が子供を持って、その重みに圧しひしがれ、東山薫が死んで空港反対闘争にたちあがれなくなり、前田 達東峰被告団に供述調書があるのを知って自分の内の「三里塚」さえこなごなになって砕けていった。

二人とも親達の意にそむいた生活に踏み出していて無援であるのは承知していたし、前田はよく私に気を使ってくれてはいたが、互いの育ち方があまりにかけは なれていて、二人の間には思いやりや理解の外といったことが多く、ささいな事がたびたび腕力を伴う事件になった。意地を張って異郷に暮すむなしさがつくづ く身にこたえていた。

主婦にとって新居を得、庭を演出していくことは嬉しく楽しいはずであるのに、せめて心の寄りどころとなる草や木を植えながら、私の心はまっ暗だった。「こ の家は私にとってまるで棺おけだ、まわりにきれいな花をあふれさせていきながら、しかばねのように身じろぎ一つ私はしない、できない」そしてまわりの農家 の畑の整然とした様にひきくらべ、自分の庭の狂気じみたごちゃまぜぶりが腹だたしく、みじめであった。ただ私の実家と三里塚とが千キロの距離がありなが ら、あまり気候が変らず、欲しいと思うものはたいてい手に入り、よく根づいていくのはなぐさめだった。

その頃だった、センロ草の黄色や赤い彼岸花が私の心と庭に混れ込んできたのは。

薫が死んでむなしく悲しくうろつきながら、ある日私は薫の墓に行ってみようと思いたっていた。彼が死んで一年二年と経つうちに、現実の彼の姿を見てもいい かなと思えるようになっていたのだろう。空港のフェンス沿いを坂志岡の方向に車を走らせていて、ふと気がつくと、そこは一面黄色く風に揺れるセンロ草の世 界であった。無数の花がさやさやとゆれて私を包むその美しさに心を吸われるように車を止め「ああ、この花を薫に持ってってやろう」と思いたっていた。花の 群にわけ入って、そのかなり長い茎を両手で引っぱった。だが相手は雑草のこととてそう簡単には手折れてこない。力まかせにひきちぎろうとすると、幾株かが 根ごと抜け上ってきた。歯でかみちぎったりして、それらを大まかな一束にまとめたが、根の方も捨てるにしのびない気がして車の足もとにほうりこんだ。

センロ草はいかにも屈託のなさそうな雑草に見えながら、持ち帰った根を庭にはさけてみると、意外にたよりな気で夏の日ざしに負けてしまうのではないかと気 使われ、幾度か水をやったりした。翌年の春、草だらけの我家の庭にいささか毛色の違う草が芽を出し、ああ、と思いあたった時にはホッとして嬉しかった。そ してこれらの幾株かが私にとって唯一の薫の形見となった。夏が来るごとに私の屈託などあずかり知らぬげに黄色く鮮やかに咲く。

その後間もなく、また一人三里塚に関わった人が亡くなった。つれ合いと三里塚の近くに暮らすようになってほどなく、その人は乳飲み子を残して病気で逝っ た。当時背中に子供をくくりつけていた私は、赤ちゃんを残して死ななければならなかった母親の心を測りかねて、亡くなった報せを聞いた朝、そのまま形見を 求めてさまよい出た。岩山のうっそうとした樹々の中で、飛び立ったばかりの飛行機のゴウ音につんざかれながら彼岸花を掘っていた。赤い赤い彼岸花の季節で あった。この花もやがて庭に根づいて増え、毎年毎秋、その人や残された家族やあの日の朝のことを私に思い出させる。

センロ草や彼岸花の他にもいくつか私が三里塚で出会った花がある。やさしかった人達の思い出の花だ。

これまで十五年間三里塚に生きてきて、この地に闘いのために数々の人々が来、また多くの人が去っていくのを私は見てきた。「私の好きな人は、みんな三里塚 から居なくなる」というのが重苦しいため息とともにもれる私の迷信となっている。しかし死者はいかなる形であれその生を完結していて、この地を去ることは ない。その安らかさと形見の花達の美しさは、折々私の屈託をあやし、溶かし、心を軽くする。精いっぱい生きて限りがあるのが生きものの世界であるのなら、 そうした生きものの一個に私もすぎない。恋愛にかけ自分で男と子供と暮らす生活を選びとってきたと自負しつづけてきたが、自分の来し方を振り返ってみる と、一吹きの風に飛ばされて三里塚にたまさか落ちたタンポポの綿毛であったと思いなおした方が自然な気がしてくる。

子供が思春期を迎え、三里塚が彼らの故郷となり、いよいよ身じろぎのかなわぬ年齢を私は迎えていて「ここが棺オケでもまあいいかな」とあいまいに笑ってみ たりする。

タンポポだって大したものじゃないか、どうやらこうやら根づいていかれるものならば。ネェ、そう思いませんか?

注・センロ草とはアラゲハンゴン草のこと。


風あそび  島寛征

野良の祭は風まつり。からっ風も鳴き納め。
野ぐさなな草みだれ生き、こぶしの花は曇り空。
むらの里道なな曲り。よめな、もち草、土の音。卯月はつばきの花人形。
ほどよく陽気も良くなって、畑のはこべも花ざかり。
これは大変、うっかりしてた。
泣く子も目を明け、野草とり。
いつから仲良くなったのか。いつまで仲良しつづくやら。
すずなくわえてペンペンペン。しゃみせんごっこもやってみな。
いぬのふぐりは空の青。うしはこべは雲の色。ほんとの空はどこへやら。
茶の木、桃の木、山椒の木。遠い霞の薄化粧。はやく芽を出せ里の芋。
ちょっとつまんだねぎぼうし。すべってころぶな、かたつむり。
腹がすいたら背なの子にしゃぶってみせて花あそび。
毛虫が一ぴきはい出して食いたわむれて母子草。
どこへ行くのか野草とり。
いつまでつづく花あそび。
野良の仕事は風あそび。
蝶は二つでつむじ風。土も舞うのはさやか風。いつまでいるの、さやか風。


中国外券旅行(下)  中井由紀子


洛陽の駅にむかう。リュックをしょってバス停にいたら30才位のお兄ちゃんが、駅行きのバスはそこには止まらないよ、と教えてくれて、別のバス停まで一緒 に歩いてくれた。途中、自転車がいっぱい並んで、若者たちがたむろしている所があった。中国の街中では、ちょっとめずらしい雰囲気で、一見して日本の暴走 族のたまり場のような感じ。聞けば、ダンスホールだという。ディスコかと聞くと社交ダンスで、今たいそう流行っているそうな。このお兄ちゃん、どこかの修 理工場に勤めているとかで、親切にも我々のバス代を払ってくれたうえ、駅に着くと一等待合室に案内して、駅員に指定席がとれなかったのだがどうしても次の 列車に乗りたいのだと交渉してくれた。やはり、乗り込んでから、車掌と交渉するしかない、ということでとりあえず待合室に腰を落ち着けた。で、彼はおケイ さんを呼び出して何やらヒソヒソ、案の定、外券と交換してほしいという。断ったのだけれど、なんとなくあと味が悪かった。

さて列車、プラットホームに出ると列車は到着しており、人びとが入口に向かって殺到していいる。車掌のいる車両がわからず右往左往したがとりあえず乗り込 んだ。すぐ近くで大声がする。見れば早速席の取り合いでケンカが始まっている。中国人のケンカは面白い。彼らは決して手を出さない、ほとんどが論争に終始 するから結論が出るまで延々と続くことになる。周りの人びとを味方につけ、相手を言い負かすまで徹底的に罵り合う。すさまじくエネルギッシュに論争するの だ。いけない、他人のケンカを面白がっている暇などなかった。ものすごい混雑の中、ようやく車掌室にたどりついたが、そこは席を求める人で一杯。赤いパス ポートの御利益もなく「メイヨー」、どうしようかと迷ったが結局発車寸前の列車からとび降りた。1時間半ほど後にもう一本路線の違う列車があって、そちら の方が、2時間ほど乗っている時間が短くなるという。ただし、こちらは長距離で寝台券のとれる可能性はほとんどないということだ。

案の定、次の列車にも空席はなくあきらめて食堂車との連結部、人と荷物で足の踏み場もないところにわずかの隙間をさがして座り込んだ。汗ビッショリ。残っ ていた缶ビールでとりあえず中国の人民列車に乾杯! 周りをみまわすと、当然のことながらみんな中国人でおもいおもいに眠ったり、本をよんだり、たまに私 たちに注目する人もいるけどほとんど無関心だ。何故か奇妙な安心感と満足感。私たちとて満員列車の通路に座り込んで旅をした経験をもっている。中国でそう することにさほど抵抗があるわけでなく、むしろ旅を楽しむにはその方がいいと思うのだが、たった一つ、軟座に乗っていきたい理由がある。それは、中国人の 習慣でどうしても馴染めない行為があるからだ。それは痰を吐く行為。中国で今一番多く見られるスローガンは「禁止随所吐痰」ほとんど5メートルおきにこの スローガンが見られる。ところかまわず痰を吐くな、ということだが、彼らはまったく意にかいせず街中到るところでペッペ、ペッペとやっている。遠くまで飛 ばす技はほとんど芸術で、男も女も老いも若きも競って歩きながらペッペッとやっているのだ。列車の中とて例外ではない。座っている足元にパッと飛んでくる のだから恐怖である。これがなければ、と中国旅行中何度思ったかわからない。ともかくこの恐怖に耐えながら2時間ほどウツラウツラした。夜中いきなり食堂 車のドアが開いた。見れば列車長の腕章をつけた男がおケイさんに向かって何やら聞いている。と、今まで眠っていた車両中の人たちがびっくりした顔で一斉に 我々に注目した。「席を探している日本人は君たちか」と聞いたのだそうだ。そして「席が空いたから移れ」と言う。その瞬間、身勝手な思いこみの連帯感は一 挙にくずれて人びとの目は外国人をみる好奇心に変わってしまった。私たちは日本語で話し合っていたから当然外国人とみなされていたと思っていたのだけれ ど、実はそうではなかったのだ。中国はほんとに広い国なので州によっては言葉がまったく通じないくらいに違う。だから我々のことも、どこか遠くの田舎から やって来たか、せいぜい華僑の香港人だと思ってくれていたのだ。今でもあの時、我々に注目した彼らのまなざしを忘れることはできない。人びとの視線を背に 恥ずかしさにいたたまれない気持で軟座寝台車に移った。冷房がきいており静かできれいで、まさしくあの食堂車の扉は天国と地獄を隔てていた。

翌朝10時頃武漢についた。まっすぐ武漢大学の招待所へ向かう。中国でもっとも広く環境のよい大学だということで、たしかに一山ぜんぶ大学になっている感 じ。緑が多く、公園のようなところがいくつもある。留学生がここに来ると街に出たくなくなるというのが納得できる。宿舎は山の中腹にあって私の相客は出張 授業にきているという化学の先生でとても上品なおばあさん。部屋ではいつもお孫さんのセーターを編んでいた。我々の共通用語はたどたどしい英語、彼女はほ んの少し日本語が読める、もちろん日本の占領下で覚えさせられた名残である。顔を合わせると食事がすんだかと聞いてくれる。彼女はホーローのお弁当箱持参 で食堂にいってそれに御飯とおかずをいれて部屋にもどって食べている。きちんとしたつつましさがとても美しい。

夜、この大学では一番おいしいと留学生の間で評判の店に行く。朝鮮系の人がやっている屋台に毛のはえたような店。留学生が集まるのでインターナショナルな 雰囲気、我々が行った時もアメリカ、フランス、日本、中国という組み合わせだった。多分今度の旅行で一番おいしかったのはここの料理だと思う。豚肉とじゃ がいもの炒め物、レバー、にんにく茎、セロリの炒め物、麻婆豆腐、辛口の家庭料理。これに御飯とスープ、ビール5本で10・7元。この夜はちょうど映画を 上映していて日比谷公園の野外音楽堂のような会場に人びとがいっぱい集まっていた。映画は香港のカンフーものらしく時々ドォーッと歓声がわきあがる。10 時頃終わって三々五々帰ってくるのを見るとみな日本のお風呂屋にあるような木の椅子を持っている。恋人たちはしっかり手をつなぎあっていい雰囲気。日本の 両国の花火の後のような風景だった。

翌朝早く構内の屋台で朝食、インドのナンのようなパンとワンタン。その後バスで揚子江の船着き場に向かう。そのバスのすごかったこと! なんともはや一見 の価値がある中国のバス乗り風景についてふれておきたい。ちょうど朝のラッシュだったこともあるが(とはいえ、ここはほとんど3交替制なので1日中ラッ シュのようなものなのだが)相当の人がいた。彼らは決して並ぶということをしない。そういう習慣がないのだ。で、バスが来るとワーッと入口に殺到する。中 国のバスはほとんどが2両連結で入口が4つある。バスが着くとまだ止まらないうちに、その4つの入口にいっせいに我勝ちにとびつくのである。すさまじい勢 いで人をつきとばし蹴飛ばし、である。当然女や年寄りは取り残されることになる。並ぶ習慣がないから何台待っても乗れないわけだ。ここ武漢大学前のバス乗 り戦争はことのほか厳しく、我々は4台目のバスも呆然と見送るハメとなった。しかし乗れないからといってタクシーがあるわけではなく、何としても乗らなけ ればならないのだ。まわりはほとんど女性ばかり、5台目運転手が少し気をきかせてまだ人びとがあまり溜らないうちにバスをまわしてくれたのでやっと乗るこ とができた。しかしこの国の女たちは大胆に人をかきわけて進むか、ゆうゆうと待つか、まちがってもめめしく女性専用車やレディファーストを要求したりはし ない。聞けば中国の家庭では女の方が圧倒的に強く、バス戦争は男たちのストレス解消の手段ではないかということである。

さて船着き場について船に乗る。2泊3日のこの長江くだりはぜいたくにいくことにして2等船室を確保した。前日例によって切符が無いというのを外券200 元の威力で手に入れたのだ。日本では決してできないぜいたくな船旅。専用のデッキに椅子を出して、流れる風景を眺めながらビールを飲む、こたえられない一 杯。心身ともに最高級の休日である。明け方の川の風は冷たく肌寒い。てすりから身を乗り出して田園風景にみとれていると頭上に何やらふりかかるものあり。 見上げると上は船員用のデッキでそこから生ゴミを川に投げ捨てているのである。中国でも川の汚染はかなり進んでいるということだ。川の浄化作用にすべての ゴミをゆだねる習慣のままにプラスチックや工業廃棄物を同じ感覚で流しているようにみえる。とまれ、このとうとうと流れる川や、ゆったりとした船旅が中国 なら、頭上に降って来る生ゴミもまた、中国なのだ。3日目の昼頃上海に着いた。

上海の宿舎は上海音楽院の招待所。ここに4泊して日本に帰ることになっている。上海はさすがに国際都市、痰を吐く人も少なく、バスの乗り方も比較的スマー トで我々もかなり普通の旅に戻ってしまった。

前号で外券が人民元の3倍、5倍で交換されると印刷されていたが、これはもちろん誤植である。いくらなんでも外券にそれほどの価値はない、1・3倍から 1・5倍というのが相場である。しかし、私たちの帰国後、中国政府は外券の廃止をうち出し年内には実施することを決定したという。これから中国を個人で旅 する者には、少々つらいことになりそうである。でも仮に大層困難になったとしても、この国の底深い魅力は私をもう一度かの地に呼び寄せるように思える。



斉藤晴彦インタビュー

ツノ「おかえり。ながい旅だったな」
サイトー「ええ。東北・北海道をまる一か月。どこもよく入りましたね。平均で三五〇人。客が入ったから、食費だけじゃなく、ギャラが出た」
「食費って、いまいくらなの?」
「外食のばあい、一回七〇〇円。ギャラは……一律二万かな」
「ひと月で二万!」
「だって、ここんとこ一銭もでなかったんだから」
「なんで入ったのかね? 一つには、やっぱりサイトーさんがテレビに出はじめたということがあるな」
「いやア……」
「昔っからの観客で、ここしばらく休んでた人たちが、あっ、おれ、サイトーさんは昔から見てたんだぞって、みんなきてくれたんじゃないの? それにプラス して、なにも知らない若い子たちが、とんねるずなんかとおんなじような感じできたという……」
「そう、それはある」
「おれはいことだと思うね。たんに客がふえたからいいというんじゃなくてさ、古い客から新しい客まで、客席が多層的になるじゃない?」
「とくに北海道がそうでしたね。ナッコ(桐谷夏子)たちのオルグが、網走なんかの漁業関係の人たちに食い込んでったわけよ。セリの人とか漁協の人たちとか が、団体で見にきた。『タイタニック沈没』なんて縁起でもねえ、といいながら」
「酒も飲まずに?」
「うん。酒も飲まないし、茶々も入れない。そういうキップのいいおじさんたちが、シーンとして見てた。この芝居は、いろんなヴァリエーションが短いところ につまっているから、濃密というか、こういう芝居のスタイルは、たしかに旅には最高ですよ。休憩なしでつっぱしる。短くて中身が濃い」
「それは赤いキャバレーでつくったスタイルの、黒テントへの適用という面もあるな」
「わかりやすかったんじゃない? 東京の観客の反応は、やっててまったくわかんなかったけどね。それが旅ではモロにわかった。もちろん東京では、こっちの 芝居も未成熟だったし」
「ふしぎだね。黒テントは旅で芝居がはじめて成熟する」
「やっぱりテントはそれだと思いましたよ。だからテントを一カ所に張りつづけるというのは、あんまりいいことじゃないんですよ。十日間、東京のおなじ場所 にテントを張って、きまった時間にそこに行くというんじゃ、劇場とおんなじになっちゃう。だから雨が降ったり風が吹くと、いらだつわけ。いい天気で、しず かにやりたいって。
 でも旅だとそうはいかないでしょう。函館なんて、ザンザン降りで、すごかったもん。とくに風ね。そのせいで芝居がものすごく緊迫した。天気がくずれたか ら、お客も二五〇人ぐらい。そういうときの芝居は、やっぱりテントならではって感じになるのね」
「いわゆるテントの醍醐味な」
「そう、イワユル、あれ。東京じゃ絶対に味わえないやつ」
「やっぱり旅のものなんだねえ」
「あらためて、そのことが実感的にわかった。東京じゃ手をぬいてるっていうんじゃないですよ。ただ、やっぱり毎日テントに通勤するっていうんじゃさ、こっ ちのからだがうまく反応しないのね」
「たとえば築地の本願寺にテントを張ったとして、だいたい何時に出勤するの?」
「四時ごろ。劇場なら楽屋入りだけど、そのかわりに喫茶店に行ってるわけ。とくに若い連中は旅の実感がつよいから、東京だと、つまんなそうな顔をしてます よ」
「舞台で?」
「いや、日常的に」
「テントの日常ってのは、旅のばあい、どういうふうになってるの? たとえば、ある土地に何時ぐらいに着くんだい?」
「公演の前の日、夕方の五時ごろ。その晩は、その土地で準備してくれてた人たちと交流会というのをやるわけ。まア、飲み会になるわけだけど、こっちの新人 を紹介したり、こんどの観客数の予想をきいたり……。でも、このごろは明け方までというのは、まったくなくなりましたね。非常にむずかしいんだけど、はっ きりいうようにしてるの。役者も疲れてるし、明日は朝早くから建て込みをやらなくてはなりません、申し訳ありませんが、そろそろお開きにって」
「宿舎は?」
「公民館とか、役場関係の宿舎とか、お寺とか、十六年間、まったく変わらず。いま貸し布団って、やたら高いんですって。だから布団も借りるけど、若い元気 なやつは寝袋。
 朝は八時ごろに起きて、喫茶店のモーニング・サービスを食いに行って、十時半から建て込み。途中でキャンデー・タイムという休憩があって、ひととおり 終ったところで、ツナギという軽食を食って、場当たり稽古をやって、またちょっと休憩がある。
 本番が終ったあとは、土地のオルグの人たちといっしょに、こっちで用意した晩メシをみんなで食う。食事班は女の子が常時二人。プラス当番制で、みんなが やる」
「こんどの旅は……ええっと、老若とりまぜて二十六人か。その人数で、建て込みにはどのくらいかかるの?」
「テントを建てること自体は、小一時間で終っちゃう。あと舞台装置とか明りとか音とか客席づくりとかの班に分かれて。おれは相変わらず、明り係をやってる んですよね」
「そういう旅を十六年か。いぜんとして、ときめきますか?」
「ときめきます。血が騒ぐというとキザだけど、あんな日常は東京にはないもの。非常に不便だし、寝苦しいし、きたないし……ぼくは三年間、テントをやって なかったんです」
「なるほど」
「だから新鮮というか、こんどは本当にドキドキしたね。旅に出ると、気分がアナーキーになるっていうか、このごろ、そんなことってめったにないですから ね。
 佐藤信が札幌にきて、客の前で、これから役者たちは髪の毛がなくなったり白くなったり、じいさんばあさんになっていくでしょうが、でも、黒テントは不滅 です、なんてしゃべってやがんの。一瞬、おれはギョッとした。あいつにはどうも〔老人テント〕のイメージがあるらしいね。おれもテントは若いあいだのもの だと思いつづけてきたけど、結果的に、こんな年になっちゃった。だから、若いからやるというものじゃないんだ」
「で、年齢相応の肉体にふさわしいテントになってきた?」
「黒テントの若いやつらはやさしいからね、おれなんかには、あまりはたらかなくていいといってくれるんです。でも、それは人手があまっているときだけで、 いそがしくなると、けっきょく、はたらかされるんですけどね。テントをやってるかぎり、肉体労働からは逃げられないですね」
「サイトーさんは、いま……」
「四十六だもん」
「きみが最年長か?」
「こんどの旅のメンバーではね。いちばん若いのが十九歳……。
 若い子って面白いね。そういう連中がおれに教えたりするからね。あ、あの場所、なつかしいな、とかさ、おれなんかよりずっとキャリアーがあるみたいない い方をするからね。去年か一昨年、はじめて行ったばかりで、なつかしいなんていうな、こっちはもう十三年も行ってるんだと、どっかで思うんだけど……」
「サイトーさん、ホントはうれしいんでしょ?」
「うれしいです」
「で、土地土地のオルグの人たちはどうなの? だいぶメンツが変ったんじゃないの?」
「変りました。でも、十年以上、いっかんして同じ人たちも、ずいぶんいる。むかしは学生だったけど、いまは結婚して、子どももできて。大人になって、昔ほ どは運動的な言辞もはかなくなって……そういう連中が、みんな上機嫌だったんだよね」
「おれも七、八年まえまでは、ずいぶんいろいろな土地を準備でまわってたんだけど、昔は学生だったやつが三十を越してさ、このさき、この土地でどう生きて いけばいいのか分かんない、そろそろ生き方を変えなきゃいけないんじゃないかとか、そういう悩みにつきあうわけじゃない?
 そのあとで、こんどはテントが行く。そういうふうにして、お互いの生き方を照らしあわせる、お互いを元気づけあう――その全体がテントの旅なんだという 気持が、おれなんかには根づよくあるね。こんどは、そこんとこがうまくいったんじゃないかな?」
「そうね。すごく明るい旅だった」
「サイトーさんがCMなんかにではじめて、あっ、向うに行っちゃったのかな、と思ってたら、やっぱり、いままでとおなじようにテントで旅してる。ああ、そ ういう生き方もあるのか、と元気づけられるようなとこがあったんじゃないの?」
「自分の生活とダブらしてね」
「そう。年齢的にいえば、各地でずっと準備してくれてる人たちにとって、サイトーさんなんかはちょっと先輩だよな。そのサイトーがまだこういうことをやっ てる。あっちをやって、こっちを捨てちゃうんじゃなくて、あるいは、こっちをやって、あっちを捨てちゃうんじゃなくて、なんとか両方やる道をさがして る……」
「しばらくでした、っていうと、いやおれたちはいつもテレビで会ってるよ、っていわれるのね。そういうふうにして、あいつら、テレビ・ドラマを見ながら、 おれならおれを測定してるようなとこあるね」
「どの程度の男かと……」
「そう。で、完全に向う側に行っちゃったとは思ってないとこが、うれしかったね。あいつもただのお笑いタレントだったってさ、ああいう世界にはいったら、 そう思われてもしようがないところがあるから。連中だって、そのことを利用して切符を売ったりもするんですよ。ただし、テントの芝居はずっとハードでいっ てくれと。そういう状況に対する知恵の出し方というのは、昔にくらべれば格段の進歩ですよ」
「そりゃそうだ」
「どこだったかな、いつテントをやめても、だれも批判しませんよ、っていわれた。よく十六年間やりましたねと、そういうだけですって」
「いい話じゃないですか」
「はい」
「考えてみりゃ、向うにしたって、テントと十六年間、つきあってきたわけだもんな。二十歳のやつが三十六歳になるまで、一年に一回ずつさ。それは並みの関 係じゃないよ。音楽とか文学もそうだろうけど、とくに演劇というのは、おなじ時代をいっしょに生きてる人間のものなんだね。べつの時代、別の場所じゃあ成 立しようがない。だから、おなじ十六年間を……」
「共有してきた……」
「そう。親とか、あるいは、もしおれたちが結婚して子どもができたとしても、そいつらときちんとコミュニケーションできるなんて気は、まったくないもん。 それよりもやっぱり、友だちとか、観客とか、各地でオルグしてくれてる人たちとか、そういう人たちといっしょに生きるほかない」
「いちばん親しいのは肉親とはかぎらないもんね」





キリコのコリクツ  玖保キリコ


私は今ロンドンにいる。
何故、ロンドンにいるのかというとそれには長い説明が必要だ。
色々なきっかけと様々な人脈が入り乱れ、一口で説明することは、不可能だ。だから、少々かったるいが、順を追って経過を述べていくことにする。

そもそもの発端は二年前、一人のイギリス人が日本にやってきたことから始まる。そのイギリス人Cは、イギリスの自主レーベル、リコメンディッド・レコーズ のディストリビューターであり、来日した折、六本木のピット・インに坂田明のライヴを観に行った。リコメンディッド・レコーズが坂田明の 「WHA−HA−HA」をディストリビュートした関係で、Cはそのライヴに招待されたのである。
それで、Cは当時できたばっかりのWAVEの袋を持った青年と出会った。
CはWAVEの場所を知りたいと思っていたので、その青年、Mに声をかけた。
話がどんどんはずみ、ふと、CがMに
「仕事は何だ?」
と尋ねると、Mは、
「漫画の編集をしている」
と答えた。
すると、いきなり、Cは
「それは『ララ』か?」
と言ったので、Mは非常に驚いた。
「どうして、初めて日本に来たイギリス人が『ララ』なんて知ってるんだ?!」
MがCに事情を尋ねると次のようなことが判明した。

CにはSという日本人の友人がいる。SがイギリスでCの家に滞在しいたとき、Sは毎月、日本から『ララ』を取り寄せていた。
それで、Cは『ララ』というのは日本の代表的なコミック雑誌であると信じていたらしい。
それで、「漫画」と言ったときに『ララ』という言葉が出たのであった。

実はMは、『花とゆめ』という雑誌の編集者であった。
『花とゆめ』も『ララ』も同じ白泉社という出版社である。
MがCに
「編集部は違うけれども、同じ会社である」
と説明すると、話はさらに盛り上がり二人は後日、再会を約束した。

さて、Mは玖保の担当をしているNと仲が良かった。
そして、「おれよー、今度イギリス人と会うんだけど、おまえも来ないー?」とNを誘った。
Nはそれに同意し、そのことを何かのついでに玖保に話した。
玖保は、何気なく、その話を聞いていたかのように見えた。
しかし、ハワイから帰ってきたばかりで、かぶれて英語を話したくてしかたがなかった玖保は、内心、とってもうらやましかった。
ところが、なまじ、プライドがじゃまをして、玖保はNに
「私も行きたいなー」
と言うことはできなかったのであった。それでも、玖保のプライドは誰にも何も言わずに済ませるほど高くなかったので、Nの代わりにKに言いつけた。Kは、 もともとNの友人であったが、一緒にハワイにいったきっかけで玖保がなついて、N抜きでのこのことKの家に泊まりに行っていたのであった。
Kは、そんな玖保をかわいそうに思ったらしく、Nに
「キリコちゃんも行きたがってるみたいよ」
と告げてくれてた。
それを聞いたNは、もともとやさしい人だったので、玖保にも声をかけてくれた。
「来たいんだったら、来れば?」
誘われれば、ほとんど断らないのが玖保の腰の軽いところである。
こうして玖保は、その会合に参加することになった。

当日、東京は雪であった。
Cは東京の道案内と通訳のために、前述の日本人の友人、Sを連れてきた。Sは玖保と同い年で、音楽の体験世代も重なる所があったので、すぐに気が合った。
Sはやたらと音楽に詳しかった。その日の会合は、焼鳥屋さんで焼鳥を食べて、なごやかに終わった。

玖保はそのとき、『ララ』に描いている『シニカル・ヒステリー・アワー』に、ツン太という少年が隠れパンクである、という話を描こうとしていて、パンクの 歴史とパンクという言葉は集合名詞として、使われているのかどうか、ということを調べる必要があった。
そこで思い出したのが、音楽に詳しいSのことであった。
玖保はSに電話をし、何度目かの電話で、二人の間に
「シニカルのレコードを作るとおもしろいんじゃないか」
という話が出た。
話は出たものの、結局、何もしないまま、一年以上が過ぎていった。

ある日、Sが玖保に、
「ピッキー・ピクニックという男の子たちの作る音は、シニカルと似ているから、彼らと組んで、やるのもいいんじゃないか」
とピッキー・ピクニックに会うことを勧めた。
会ってみると、話はどんどんまとまり、五ヶ月後には、レコーディングが終了していた。
しかも、玖保はピッキー・ピクニックのメンバーの一人になっていた。

今、私はそのピッキー・ピクニックのメンバーとしてロンドンに来ている。夏休みを使って、西ドイツの自主レーベル、アタ・タックに遊びに行くにあたって、 まず、英語圏のイギリスから入って、ヨーロッパに慣れようという計画だ。
このために私は、8月分の仕事をすべて、旅行前にあげなければならなかった。
アシスタントを使い、夜遊びを減らし、コンサートにも行かず、こんなに一生懸命、働いたのは、後にも先にも一生のうちで、その時だけになるような気がす る。
どんなにお金を積まれても、もう二度とこのペースで仕事をするのはいやだと思うくらい、はっきり言って、私は働き者だった。
仕事の調整に協力してくださった、編集者の方々には、本当に感謝してもし足りない。
出発当日の7時まで、仕事をしていて、7時半に家を出て空港に向かい、ぼけぼけの頭で飛行機に約16時間乗り、身も心も疲れきって、それでもこうして念願 のロンドンに自分がいるのをかんがえると、非常に不思議な気がしてしようがない。
偶然が重なりあった結果、現在の自分がいるのだ。
Cが日本に来なかったら、CがMと会わなかったら、MがNを誘わなかったら、Nが玖保を連れていってくれなかったら、道は大きく変っていただろう。

当のきっかけとなってくれたMは、自分がその大いなるきっかけであると全く自覚しない様子で
「シニカルのレコードよー、素人っぽくておもしろかったぜー」
と言ってくれた。


料理がすべて  田川律


肉の変幻
ずっと以前、大岡信という人が「折り折りの歌」をやってない頃「手の変幻」とかいう本を出したという記憶がある。高い本で書店でちらちら見ただけで買わな かった。「肉の変幻」はこれとは何の関係もない。
たまたま東急渋谷店の地下で、ステーキの肉の安売りをしていて、二枚で千なにがし円で、これを買ってきたらおいしかったので、二日後また買ってきて、結局 四日間もこればかりを食べたら、さすがに胃がもたれて、もう「ヤーメタ」と思った途端、NHKの夕方のテレビで「形成ステーキ」とかいうものの特集をやっ てて、それを見て、「ギョッ!」とした。
これはつまり、以前書いた「棒卵」に匹敵するオソロシサだった。牛の横隔膜を、針の山みたいなもので、というか生花のケンザンの親玉みたいなヤツで、ぐ しゃぐしゃにして、そこへ何ともいえぬ何種類もの液体をぶっかけて、柔らかい肉に変え、これに脂肪分を縁取りするように、太目の樋みたいなアルミ(ちゃう かな)の筒、それも蝶番で開くものに埋め込み、零下三十五度に冷凍すると、ステーキが出来あがる(?)というのだ。なるほど断面はステーキ状である。これ をスライスすると、ちょっと見には、ステーキだ。
そのほか、やっぱり筋肉と脂肪を霜降り状態になるように、この筒に詰め合わせ「冷凍する」――これがミソなのだ――と、これまたステーキに化ける。コワイ のは、どの場合にも、脂身と肉をくっつけるのに「接着剤」を使っていることだ。説明では、タマゴの白身の粉末といっていたが、なにが混じっているのやら。 これを見た時に、ぼくの胃の中で、とっくに排泄されてしまっているはずのステーキが、動き出すような感じになった。
その時、もうひとつ、肉を柔かくするために、なにやら粉をふりかける、というのがあった。グルタミン酸の一種だ、というのだが、レストランで使用するス テーキなどひんぱんに使うという。
ステーキがそうだから、挽肉なんてものは、なにがどう混じっているのかわかったもんやない。マクドナルドのハンバーガーはオーストラリアの鼠がまじってた いうけど、ホンマコワイ。
大阪で、これほど、肉についてのというより、食品の加工について問題になってへん大昔の、心斎橋という繁華街のド真中に「蓬莱」という大はやりの中華料理 店があった。というより、そこは「豚マン」で有名な店だったが、ある日突然、「あそこの豚マンの肉は猫の肉や」という噂が流れ、それはエスカレートして 「店の裏に猫の死骸がいっぱい捨てたった」とか「猫の頭がゴロゴロ転ってた」とかいうことになって、一時この店の客は急激に減ったことがある。三十年も前 のことやし、今なお、この店はあるけど、もうまるで今ならさしずめ「ハーゲンダッツのアイスクリームを求める行列」といった観の賑いはない。
肉は変幻しよる。
それに比べたら魚は、尾頭がついてるだけでも安心。と思たら、ホンマは大間違いかもしれん。

おごるのやめよかな
サントリーの出している「サントリー・シスターズ・クォータリー」の第2号にロザリンド・カワードの「ごいっしょに食事でもいかが?」というエッセイが 載っていた。この人はイギリスの女性運動をしている人だということで、本人も書き出しで「この地球上には、今日食べるものも満足に得られない人が八億人も いるという。そんなときに、食事の問題を女性運動の視点から捉え直そうなどと言えば、不謹慎だと顰蹙を買うかもしれない」と断っている。
が、その後の内容は結構面白くて、なるほどわざわざ書いたのももっともだ、と思われた。なによりも「いっしょに食事をして男が女におごるのは、ほとんど下 心があって、金銭でサービスの見返りを期待する」のくだりにはとかく「おごりたがり」のぼくにはぐさっと突き刺さるところがあった。
「おごりたがり」という気持の底にはそういう「従属関係」を暗に期待しているところがあるのだろうか。ずっと昔に遡れば人におごったり、おごられたりする ことと自分がかかわれるようになったのは大学に入ってからだ。それは自分でお金を稼ぐようになってはじめて生じたことだ。
当時は稼いでいるといっても、たいしたものではなかったから、上級生にはよくおごってもらった。それから、いつか「金は天下のまわりもの」的な考えで、金 を持ってる人が持ってない人におごる、そのかわり、自分がもってなかったらおごってもらう、というように考えてきた節がある。べつに男と女にかぎらず、そ れは今では、いっしょに食事して、大勢の時も、ふたりの時もワリカンの時とおごり、おごられる時の両方がある。しかし、水牛楽団や水牛通信や、この周辺の 仲間たちでは、いつもワリカンだから、そう考えると、それ以外の時は、どっかに不純な動機がかくされているのだろうかと、にわかに真剣に不安になった。
もうこれからは、他人におごるのやめようなか。
たしかに、世の中は食事をめぐってこのロザリンドさんの指摘するさまざまな従属関係があるのは事実だ。そこへもってきて、日本は「会社の金」というのが複 雑に入り組んでくる。
「これは経費で落とせるから」といわれると、たいてい「ごちそうさまでした」ということになる。
これから、金を払う時には、ひと呼吸おいてから答えを出そう。それともうかつに「おごらない」ようにするか。
そういえばこの一カ月、ほとんど他人と会うことがなく、他人と食事することも少なく、その点では、この心配は少なかった。これからもこんな生活をすればい いのか。

にんにくの茎
にんにくの茎が出まわっている。ふつうはこれをショウユで炊ためるものだがいつもこれを買った時に冷たいご飯があるので、ニンニクの茎いためライスを作 る。それも一把百円の茎全部を使って、ご飯を少し入れる。まるでニンニクの茎にご飯がまじっている、という感じのご飯。今月はどうもそのテの野菜たっぷり のものが多かった。ニラタマというのも、ニラを一把いためて卵でとじたりしたものだから、先に書いた肉の接着剤ではないが卵が「つなぎ」程度に入っている ニラ炊め、という感じになった。

トマトとキュウリと百合の花
まさか、百合の花を料理に使ったのではない。新聞の読者のページを読んでいたら、最近の百合の花には匂いがない。花屋さんに聞いたら「ご安心下さい。この 百合は匂いをなくしてあります」といわれて驚いた、という話。野菜だけかと思ってたら、生花にまでこのテの「品種改良」が行われていたのだ。花はぼくなん か、めったに買わないから、そういう事が進んでいるとは思わなかった。季節の変り目にニュースの終り近くに、どこそこで美しい花がというのは目にはするも のの、それが「改良」されているとはいわれないものだから、ついいつまでもいっしょだと思う。そうすると、あの蓮の花も「改良」されて、独特の匂い――そ れを嗅ぐたびに、黒白の幕と、お膳付きの食事の「法事」を思い出す――がなくなってしまったのだろうか。
トマトとキュウリは、久し振りに川崎の生活クラブ生協のデポで買ったのだが、やっぱりスーパーのものよりおいしかった。それはなにも売っている店が、では なく、はっきりと造り方のところで違うからだろう。太いとこと細いところがはっきりした曲ったキュウリ。種子の部分がたっぷりとあるトマト。そして「匂 い」。
そんなこというてたらきりがない。肉もあかん。野菜もあかん。花もあかん。魚かてあてにならん。なんも食わんようにせなしゃあないか。
いつもそう書いてたら、自分がだんだん「小言幸兵衛」になる気がする。音楽なんかやったら、オモロノウなったら聞かんですむ。もちろん食べ物でも選択の自 由はあるけど、音楽や映画みたいな趣味の領域とちゃうしな。

鶴橋のコチジャンと焼ソバ
藤本和子さんが帰米する時、「これは大阪の猪飼野のコチジャンだからオイシイヨ」とくれたのが、まるでレディ・ボーデンのアイスクリームみたいな容器に 入っているコチジャン。コチジャンとは韓国の辛い味噌。トウバンジャンほど日本ではまだポピュラーでないが、あれよりももっとペースト状になっていて、キ メ細かいもの。主成分は唐辛子なのだろうが、不思議なことにこれを使うと、キムチに通じる匂いと味がする。そこが韓国の韓国たるゆえんか。
それを使って、焼ソバを作る。生中華ソバをそれだけさっと炊めるネギ――今回はニンニクの茎を使った――を刻んで、ニンニクを刻んで、油でいため、使いた ないけど、挽肉をそこへ加えて、それにコチジャンと味噌と砂糖を加えミリン、酒などで少しのばしてそれをくだんのソバにかけてかけて食べる。この「甘辛」 味がいい。これは夏向けのソバとしてなかなかのものである。

えびスパゲティ
同じめん類でもスパゲティの時は、冷凍えび――あんな「形成」ステーキのあとでは、このえびを「組立てて」あるのかと一瞬疑いたくなる――の皮をむいて、 ニンニクとコチジャンとゴマ油と塩で味付けして、スパゲティにオリーブ油をからめたものを加えてまぜる。シソの葉のミジン切りをパラパラと散らせばいうこ とがない。
そういえば、冷凍えびを水に漬けて戻すと、なんと身がふにゃふにゃになってしまうことか。思うに、冷凍というのは、カチカチに凍っていることで買う側が、 その品物の鮮度や質について、だまされるのだ。不思議なことに干物については、品種が限られるせいか、そういうのが少ない気がする。もっとも、これも知ら ないだけで、厚岸の均ちゃんの話では、この頃は昆布ものりも天日でなく、乾燥機とやらを使うというからな。


「カフカ」ノート  高橋悠治


(シンセサイザーと声のための作品「カフカ」は、もうできてしまった。あれこれかんがえたわりには、かんたんに。だが、ノートの方はまだおわらない。とい うより、作品と呼ばれるものは、進行中のノートの仮の姿にすぎないのかもしれない。)

クセナキスの「シナフェ」というピアノとオーケストラのための曲をもらって、練習したことがあった。練習をきいて、クセナキスがだした問題。2つの音をつ づけてひいて、それがメロディーにきこえないようにする。どうしたらいいか。
そのこたえ。2つ目の音の強さをわずかに変え、はじまる時間をわずかにずらし、前の音との間を気づかないほど区切る。それだけのことで、2つの音は一本の 線ではなく、別々の線が偶然出会ったようにしかきこえない。これを徹底させれば、ピアノの88のキーは独立した楽器になって、それぞれのリズムでそれぞれ の音がくりかえし打たれるものをきくことになるだろう。自動ピアノのロールのパンチ穴をたどれば、どんな音楽もそういうかたちをしている。
ホセ・マセダがすべての音楽はドローンだ、と言ったときもそうだった。2つの音をつかうメロディーは、順序のおきかえと思えばメロディーだが、2つの音の 交替するリズムと見ればドローンにすぎなかった。
 AAABABAABBABAAB。これは変化する線。
 AAA・A・AA・・A・AA・、
 ・・・B・B・・BB・B・・B。これらは交差する2つのリズム。
数人がそれぞれ一つの音しかでない楽器をもって交差するリズムで演奏すれば、楽器の間にメロディーがうまれる。これをマセダはただようメロディーと呼び、 ヨーロッパ中世はホケットと呼んだ。
反対に、たった一人でいくつかの音のでる楽器をつかってメロディーをひきながら、それを交差するリズムのあつまりに分解してしまう方法を、どんな音楽にも 応用できる。そのとき、単調なくりかえしと思われたものも、わずかなずれの不規則なくみあわせによって、見えない世界からの光を乱反射する。


  音という空間

音はどこからくるのだろう。ものにふれて音をだす。そのとき、ものと人とをむすぶ空間がうまれる。そのなかで人とものが出会い、見つめあう。その空間を音 と呼んでみる。
音をだすやりかた。たたく、こする、息をふきこむ、ゆらす、など。音が返ってくるやりかたを選んでためす。もののなかにかすかなゆらぎがおこる。それはお おきくなり、外側へさそいだされて音になる。
音が音になる前、ものの内側のゆらぎは、もうくりかえされている。くりかえすからおおきくなり、外にでる。変化はくりかえし、くりかえしは変化。
音が音になるためにつかうのは、からっぽな空間。ものの外だけではなく、内側にも。穴のあいたものは、よくひびく。竹や芦。ものの組織もあらく、すきまを ふくむ方が、ひびきをそだてる。
人間の内部で。意識さえされないかすかなうごきがどこかにおこる。意志のゆらぎは、くりかえされておおきくなり、ものに向かう身振りとなってあらわれる。 身振りのこたえが音になって耳から帰ってくる。これがフィードバック回路として完結するのは、それがくりかえしで維持されている間だけのこと。一度たたけ ば、もう一度たたく。一息つけば、また一息。音がとまれば、みちも消える。
音のうまれるときは、人間の内部にもからっぽな空間がある。心にじゃまされずに音に気づき、音のはこびをほとんど意志の力で消えるまでたどる。音をつくる 身振りは訓練をかさねて、意識からはなれていく。フィードバックの環がまわりだすと、はじまりの点はもうない。
音がめざめる瞬間は、もののなかにあるのか。人間のなかにあるのか。そのどちらでもない。音はどこかある場所にあるものではなく、音がめざめると、そのな かにものがあり、そのなかに人間もいる。
文明は、ものを手の延長として、人間から人間につたえる音楽をつくる。世界と人間をふくんだ音という空間は文明より前にあった。
音いうしずくに内側からうつる世界のなかのものと人間。だが、音がうつしているのは、それだけではなかった。
音がめざめる前の音は何だろう。音というこの空間はどこからでてくるのだろう。見えない世界、音の裏側にある何もふくんでいない空間、要素をもたない空の 集合。そこから音がひらくとき、それは窓になって、世界と世界でない場所の間にひらく。


走る・その七  デイヴィッド・グッドマン


表参道を青山通りから明治通りまで駆けおりて、いつものコースを反対に走る。早朝だから、人は少ないし、まだ涼しい。代々木公園をとおり、明治神宮の外を 廻って、千駄ヶ谷から信濃町を抜け、外苑の銀杏並木をくぐって、青山通りを帰る。いつもの道と変わらないが、道順を逆にすると、なぜか疲れない。
左足が痛みだしたのは神宮球場辺りだった。膝から上下に次第に痛くなって、外苑前の地下鉄の駅をとおった時には足首から腰まで痛んで、膝をなるべく曲げな いで走っていた。
赤信号で止まった。汗が足を伝わり、靴下を濡らしている。家まであと二キロ、七時までに帰らなければいけない。和子たちを起こして、一緒に朝御飯を用意し て、子供達を自転車に乗せて学校と保育園につれていかなければならない。七時に開くアンデルセンによって、できたてのフランスパンを買って帰ろう。
さ、信号がかわった、いこう。だが足は動かない。びっこをひいて、やっと道を渡る。ピーコックのスーパーの前まで頑張って、休む。この調子じゃ走って帰る ことはとうてい無理だ。歩いて帰ることだって容易ではない。いたい、ちくしょっ! 引き返して、地下鉄に乗ったほうがいいかもしれない。あと十日間でアメ リカに発つというのに、どうしてこういう時に限って?

     *

アメリカに帰っても痛みは続いた。原因は普段使わない筋肉を無理して使ったことらしい。子供達を自転車に乗せて、表参道を下りたところにある神宮前小学校 と渋谷保育園に通わせていた。ヤエルは後ろの補助席に座り、カイはハンドルカバーに付けられた補助席に座った。カイがぼくの脚の間にいるから、脚を広げて 漕がなければならなかった。行きは下り坂だから大丈夫だった。ふつうは帰りは子供を歩かせた。だが、アメリカに帰る間際になると忙しくて、帰りも子供を乗 せたまま青山通りまで自転車を漕いでのぼった。股を広げて、四〇キロの“荷物”を乗せて、自転車を坂道を漕いでのぼるのは膝に悪いにきまっている。
ランニングは心臓などにはとてもいい運動だが、いつも同じ筋肉を使っているから、筋肉の不均衡が生じることもある。たとえば、毎日のように走っている人で も、久し振りに泳いだりすると、大胸筋が痛くなる。ランナーは上半身の筋肉をあまり使わないからだ。ぼくの場合、前にも一度、膝を痛めたことがある。医者 に診てもらったら、大腿四頭筋が弱くなっていて、膝蓋骨を充分におさえていないからだよ、といわれた。走りながら膝のさらが動いていた、というわけだ。大 腿四頭筋を強める体操をやると、膝も治った。
今度の故障も結局、股を広げて自転車を漕いだから、普段は使わない、左膝の外側の腱に無理な負担をかけたから起こったらしい。

     *

東京を発ってきて、服喪に似ているだろう、この気持ち。別れて会えない友達、使えない言語、食べれない食事、生活の中心だったなにもかもが突然えぐりとら れてしまった感じだ。痛い。計算してみれば、十八年間の結婚生活の間に、ぼくたちはじつに十七回も移転している。まるで難民だ。季節労働者だ。それでも、 慣れない。
アメリカと日本との間を引っ越したりしていると、心理の、普段使わない箇所に無理な負担をかける。すると、しばらく動きがとれなくなる。重い荷物を担いで あるいているような感じだ。わけもなく辛くなって、癇癪を起こしたり、涙ぐんだり、ぼうっと空を仰いだりする。別離の収穫だ。

     *

アメリカに帰って三週間たってから、ふたたび走りはじめた。故郷のラシーヌに帰っていた。六年ぶりに三人兄弟が一堂に会するからだ。全員母の家に泊まり、 大騒ぎになった。ヘブライ後を喋る弟の長男と、日本語を喋るカイがすっかり仲良しになっておもしろかった。子守を勤めてくれた近所の娘まで「ドウゾ」「オ シッコハ?」「シャロム」などいろいろな単語を覚えた。
家からミシガン湖の湖岸に沿って、絵葉書のような、小さな岬に立つまっ白い灯台まで行って帰ってくるという、約十キロのいつものコースを走った。普通なら 五〇分ぐらいで走るコースだが、三〇分走っても、距離の半分も行けないし、へとへとになる。幸い、膝は痛くないが、調子が出ない。汗ポタポタ、胸ドキド キ、頭ガンガン。ゴルフ場の真っ青な芝生、海そっくりの湖の水面にきらきら光るまぶしい日差し、突堤から竿をつきだしている釣り人の黒いシルエット。ぼく は引っ返して、歩いて帰る。明日また走る。少しづつ調子が出るだろう。それしかない。


水牛かたより情報


●「カラワン農村漁村キャラバン報告集」がついに出た。2年前のキャラバンを企画し、カラワンの2人を日本によんでキャラバンにも同行した小泉さんの日記 と、旅先でかれらをむかえた人たちの感想文集。新宿書房から出版されたばかりのカラワン楽団の日本旅行記「メイド・イン・ジャパン」と対になる。まとめる のに2年もかかったということから、もうアジアの時間だが、きれいなパンフレットにしあがってよかった。いろんな意味で人びとの出会いと発見のきっかけと なったキャラバンだった。
申し込みは、千葉県成田市東峰71、Tel 0476・32・0452 小泉英政まで。六百円と送料二百円。(高橋)

●高橋悠治ソロ・コンサート「夜の時間」9月19日(金)7時。草月ホール。前売二千五百円、当日三千円。これはあたらしいコンサート・シリーズの第一回 のつもり。今度はソロだが、次からはゲストもいれて、やりたい音楽だけやる夜にしたい、と思っている。
今度のプログラムは「カフカ」(カフカの断片によるイメージ・アルバムみたいなもの)と三宅榛名の「夢の一日」(さまざまなスタイルをもつ数曲のセット) 初演がメインで、あとはシューマンとブゾーニの夜の音楽をすこし。電話予約はアート・フロント・プロデュース Tel 03・461・3372。(高橋)

●さる7月18日の夜、津野海太郎さんの『歩く書物』の出版を記念する集まりをもちました。津野さんを女の人だけで囲んでしまおうとたくらんだのは、津野 さんの前の本『物語・日本人の占領』の編集者渾大防三恵、日教組の志沢小夜子、古い友だちの藤本和子、そして八巻美恵。われわれの誘いにのって津野さんを 囲んだひとは、江崎泰子、小島希里、高橋茅香子、林のり子、平野公子、三宅榛名、柳生まち子。
当日津野さんはかなり緊張気味で、ひたすらズブロフカをあおって平静を保っているように見えました。しかし半月もすぎると、当日の緊張はとおいものとな り、誇らかな気持もうまれてきたらしい。そこで、すでに日本を発ってしまっていた藤本和子さんからとどいたメッセージを、津野さんの許可を得てここに掲載 して、記念の記録にしたいとおもいます。(八巻)

親愛なる海ちゃん、
きょうのパーティに出席できないことは、なんともくやしく残念です。でも海ちゃんを慕う大勢の女のひとたちに囲まれているあなたを想像して、わたしもウキ ウキしてしまう。嫉妬に狂った多くの男たちは、なぜそのような機会が与えられないのか考えて、日夜苦しんでいることでしょう。
『歩く書物』読みました。そして今度つよく感じたことは、海ちゃんは人間の持つ可能性と結婚しているということなのでした。実際の結婚と違うのは海ちゃん のおよそ例外的なバランス感覚なのですが。とりわけすぐれたバランス感覚をもって、あなたは見苦しく思いこみをつのらせることも、またかんたんに見切りを つけることもしない。その持続はどこからくるのでしょうか。人間の可能性についての根源的な信頼は? いつもあなたの書いたものを読むときの例にもれず、 『歩く書物』もドキドキして読みました。軽快にしてかつ重いものです。年のこととかいろいろ言ってるけれど、そしてたいていあたっているとおもうのです が、だからこそ海ちゃんにはこれからますます期待できるという予想です。もうすこし体を大切にしなさい。
わたしはとうもろこし畑の真中で呆然としています。気分はまだ東京を発っていないところがあります。
それでは本日のパーティがおおいに愉快なものとして終始することを祈って、ごきげんよう。藤本和子


編集後記

「五月に日本へ来たハンガリーの詩人の一篇を送ります。この訳をそのとき読んだのです」と木島始さんから届いたのが、オルバーン・オットーの「貧しいって ことは」です。この詩を読むと、『黒い祝日』『貧乏であること』『巻き戻された炎』という詩集、『大地への窓』という旅行記、『詩人はどこからやってくる のか?』というエッセイ集など、タイトルから想像して読んでみたいなあという気持におそわれます。
「三里塚で出会った花たち」「風あそび」は『薫風』から転載しました。
『カラワン農村漁村キャラバン』報告集ができあがって、二年前のキャラバンはやっと一区切りついたことになります。そこで小泉さん、リケットさんと、タイ 料理を食べながらの打ち上げをしました。ここまでくるのに足かけ三年だもの、ながい旅だったよねえ、などと言いつつ。メコン・ウィスキーをのんでしゃべっ ていると、まだキャラバンの途中みたいな気がして、となりにスラチャイとモンコンがいないのが不思議に感じられてきます。こんなふうにキャラバンはなかな か過去にはなりきらず、いろんなところで現在進行形のままつづいていくのでしょう。小泉さんは「人と水牛」の替え歌「人とミミズ」をかんがえているそうで す。野菜をはぐくむ土。それはやわらかな土に見えるけど、手ですくってよく見てみるとミミズのフンなのだそうです。ミミズは生きることで土をたがやす。 「人は酒のむ、ミミズはたがやす……」と元歌のメロディで歌えるよう完成を待ちたいとおもいます。(八巻)




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