水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1986年10月号 通巻87号
        
入力 桝井孝則


なまえがかわるとき
  如月小春 楠原理枝子 志沢小夜子 
  津野海太郎 平野公子 八巻美恵
キリコのコリクツ  玖保キリコ
山がない(1)  巻上公一
料理がすべて  田川律
東北の神武たち・その後  鎌田慧
松崎町訪問記一一伊豆の長八美術館など  津野海太郎
「カフカ」ノート  高橋悠治
走る・その九  デイヴィッド・グッドマン
編集後記



なまえがかわるとき
如月小春 楠原理枝子 志沢小夜子 津野海太郎 平野公子 八巻美恵

八巻 何号か前に「本橋先生の整理学」っていうのがあったの覚えてるでしょ。あの とき「本橋夫人」として登場してたのが、楠原さんなんですけども、彼女は、なんだっけ、運動の正式な名前なんていうの?
楠原 今は全然やってないんだけど、「結婚改姓に反対する会」っていうのね。友だちとモ ヤモヤと署名運動なんかやってて、土井たか子さんのとこへ上程したけど、なかなかね、むくわれないんだよね。やってたのは十一年前。当時そういうことに意 識あるひとってすくなかったでしょ。今でこそすごく多いけど。それとは別に、友だちが離婚しても苗字を変えないですむ法改正ってのをやって、すぐみのっ ちゃったわけね。それはすごい必然性があるでしょ。結婚して、社会に出て名が売れて、そのあと離婚をして、苗字が変るとすごい損するっていう、その話は はっきりしてる。だからそっちの運動はすぐみのっちゃったんだけど、こっちはみのらないしね、内部分裂なんておそまつもあって、すぐやめちゃったわけ。
八巻 という人をつかまえて「本橋夫人」というふうに、津野さんが書いてしまった。
津野 はい。経過をいっておくと、本橋くんの家で、本橋くんはカメラマンだけども、話し たのをそのまんまテープおこして、水牛にのっけちゃおうって言って、お酒のみながら話してたのね。 雪の日の朝。そしたら結局その整理学の話になってき て、本橋くんは魚河岸に写真をとりにいったまま帰ってこないんで、彼女がいろいろ話をしてくれたのね。で、翌日までにやらなくちゃいけないんで、その晩、 すぐおこしてさ。ぼく楠原さんは前から知ってるんだけど、その前から楠田枝理子も知っててさ、ふたりの名前がまざってきて「りえ」か「えり」かわかんなく なってきたの。どっちだっけなあ、と思って、えい、しょうがないっていうんで「本橋婦人」という、ある種のなかば架空の人物をつくったの。
楠原 あれは架空だったのか。
津野 それで、まあ、いろいろおしかりを受けまして。
八巻 ですから、そういうテーマでいちどしゃべればいいんじゃないかということになって ね。
楠原 あいうふうに書いちゃったのは、津野さんにとってわたしの存在がひじょうに希薄 だったんだろうなって思ったりして。
津野 そんなことはないよ。
楠原 だって、もっと人格的にかかわっていれば、「本橋婦人」とは書かなかったんじゃな いかな。
津野 というふうな次第なわけな。
八巻 今は入籍してるんですか。
楠原 子どもができて、日和ってしちゃったのね。あんまりしなくていいなと思ったんだけ ど、むこうのほうがすごい熱心でね。必死のおもいで彼は前のひとと離婚届もらったあとですぐ入れたがったっていうこともあったし、もう破裂しそうなおなか してたんでね、子どもが生きにくいのもたいへんかなあと思って。とりあえず入れっちゃって、あとで子どもに選択させるのもいい方法かなとも思って入れっ ちゃった。そのままいまはあまんじてる。美恵さんも入ってるの?
八巻 入ってます。
楠原 あたし、本名は楠原で、戸籍名は公文書に使う、それこそペンネームという感じで やってはいるんだけど。
志沢 あたしなんか結婚したときジャンケンしたのよ。結婚するんで籍をどうしようかって いうんで、ジャンケンで決めようっていうふうに決めてたの。で、朝、届けに行く日にジャンケンしたの。ほんとに見事にあたしが負けたの。しょうがなく岡に 入ったんだけど、そうじゃなければ志沢でもよかったわけ。まあ新しくつくるっていうのもいいねとは言ったんだけど。
津野 「岡」なんて明るくていい名前じゃないか、じつに。
八巻 あたらしい名前ってつくれるの?
志沢 つくれるの。
平野 名前も?
志沢 苗字。
楠原 名前を変えるのはけっこう大変なのよ、理由づけがね。
八巻 ジャンケンしたのは何年前?
志沢 十二年前ぐらい。
八巻 じゃあ楠原さんが運動してたのとおんなじぐらいのときね。
志沢 まわりにはあんまりいなかったわね。
楠原 めずらしいって言われてね。どうしてそんなにだんなさまを大切にする意識がない の、とかね、ずいぶん罵倒されたわよ、ほうぼうで。
八巻 そのときそういうことがあったんですか? だんなさまが?
楠原 あったの。今は二回目だから。
志沢 二度目同士なんだよね。
楠原 そうなの。十一年前。結婚てのはあんまりしたくなかったんだけど、まわりがそうい う雰囲気になって、彼も一応結婚したいって言ってたわけね。ジャンケンで決めようって言ったら、それを聞いていたむこうの親が、顔真っ赤にして怒ってね、 うちの息子がまけたらどうするんだって。万が一うちの息子が負けたらきみの苗字になる。そしたらうちの息子は後指さされるようになる、なにか事情があるん じゃないかって言われるって。それでずいぶん相手の親ともめたんだけど。で偽装的にそのとき一時籍入れてすぐ抜いちゃったわけ。
志沢 偽装か。たいへんね。
楠原 入れるときって大体99パーセントぐらいの女性が相手の苗字になっちゃうでしょ。 法律にはどっちになってもいいって書いてあるのにそうなっちゃうってことが、つまんない話だなあと思って。それでハタと気がついたらまわりにそういう意識 もってるひとがいたんで、じゃいっしょに少しのろしを上げようか、とぼちぼち。
如月 でもわたしのまわりなんか入籍はしてるんだろうけど、かならず別な名前できます よ。まあ、ちゃんとだんなさんの名前になりましたっていうのも多いけども、ここ何回か来たハガキはみんなむかしどおりの名前で呼んでくださいって。すごく 多くなってきたみたい。
津野 名前ってのは、親の方で、バランスを考えてつけてんだろ、当然。それが突如、上が ガラッと変るもんな。
平野 ねえ、名前のことなの? 籍を入れる入れないのことのな? 名前は自分でこう呼ん でくださいって言えば周りの人はそれになれれば呼ぶわけだから。
楠原 でも、勤めてると、やっぱりいろいろな問題が起こってきてね。お給料の明細とかが 入籍した名前になってくると、周りも自然にそれで呼びだしてきちゃう。まあその当時勤めてたっていうのもあるんだけど。
志沢 あたしは職場には結婚しましたって一応届けはしたの。届けをしないと税金の問題と かあるからね。でもふつうは志沢でいきたいんですというふうにも届けたの。で、いいです、ということになった。うちは全国の組織だからそこでえらい人が、 一応結婚はしてて本名は岡というんですが、本人は仕事は志沢でやりたいと言ってるのでこれでいきます、と紹介してくれたの。それがわりとよくてね。うちは あたしともうひとりそういう人がいるんだけどね。ときどき「岡さん」て呼ばれるんだけど、そう呼ばれたときは返事しないようにしてます。
楠原 わたしも知らん顔しちゃおうかしら。
平野 あたしはいろんな名前があったほうがいいと思うわ。いろんなときに付き合ったひと がその名前で呼んでくれれば。「平野婦人」でもいい。前から付き合ったひとは前の名前で呼んだりね。子どものともだちは「なんとかちゃんのおかあさん」で しょ。だから女の人のほうがいっぱい名前があってすごくいいと思う。
楠原 いろんな面の付き合いがあるってことよね。
平野 あたしはこうなんですっていうふうに、自分で決めないで、通り名っていうのはいっ ぱいあったほうがいいと思うのね。
如月 あたしいっぱいある。
志沢 いっぱいあるのいいね。
平野 いっぱいあると、その名前のように自分もあるわけよね。
津野 そうかい。じゃ、ぼくがきみを森田さんていうときは、やっぱり違う感じでぼくとの 関係ができるということか。
平野 そう、そうなの。近くにいるひとは、平野さんちのお母さんとかおかみさんとか思っ てるわけじゃない。それはそれ用に付き合うわけよ。
楠原 そのタイプの顔になるのね。
平野 うちなんか子どもが三人いるから、三人とも別々の学校に行ったらそれ用のおかあさ んてのがあるわけよ。
津野 昆虫みたいにいろいろ変態できるわけね。
平野 だからたくさん名前もってるひとが一番おもしろいんじゃないかと思ったの。籍の話 じゃなくて、いまのは名前のことだけどね。
如月 名前変えて人格かわったもん。
全員 あっはははは。
津野 ほんとかねえ。
如月 うん。あ、いまは如月さんやってるっんだって思うときってあるんです。そういうと きは全然違っちゃうの。もうだいぶ慣れたけど、最初はね。
平野 だから芸名つければいいのよ。
八巻 芸名じゃなくても、「高橋さん」って呼ばれただけで、違っちゃうじゃない。
平野 そうでしょ? それはあたしたちが知らないだけよ。あたしたちは美恵っていうふう に付き合ってるんだから。
津野 ぼくの如月さんの名前についての推測っているのは、正しいか正しくないかわかんな いけど、如月っていうのは二月でしょ。小春っていうのは小春日和の小春だから十月でしょ。二月と十月足すと一年でしょ。で、わたしは一年全部だ、わたしは 全世界だっていう名前なんじゃないかっていう、予測なんだけど。
如月 そ、そんな派手なもんじゃないんです。自分で付けたんじゃなくてお友だちがつけてくれて、冗談だったんです。ある友だちは八月生まれだから「葉月な んとか」とか付けて遊んでてそれが名前になっちゃって。だから自分では冗談で付けた名前だっていう意識がずうっと残ってて、非常に公式なマジな場でね、こ ちら如月小春さんです、なんて言われると、ほかの人はきちんとした名前あるのに、あたしだけこういうとこで冗談やってていいんだろうかって、すごくそうい う気がするわけ。でも逆にいうとあたし本名がほんとに名前っぽい名前で。
志沢 なんていうの?
如月 伊藤正子っていうの。
全員 まあーっ。
如月 ねっ。落差がすごくあるわけ。だから名前で冗談やっちゃったから、もうなにやって もいいって気がして、本名のときは道がふみはずせなくて、如月小春だとなにやってもいいっていう感じになっちゃって、すごく便利。人格がバーッとひらい ちゃって。
全員 いいねえ。いい。うらやましい。
如月 名前をおもちゃのように扱ってる。たいしたもんじゃないって感じがあるから。
津野 だってきみの本名知ってるひとって昔の友だちとか家族しかいないわけでしょ。
如月 そう。
津野 いま付き合ってるひとのほとんどは本名なんて全然しらないわけでしょ? それは、 すごいね。たとえば、ぼくがいくら今から名前を変えましたって言ってもさ、そんなにショッキングな変化にひとが見てくれないから、結局自分も変われない な。
平野 状況が変われば変るのよね。
志沢 結婚してみたら?
如月 でも名前が状況変えてくれましたもん、あたしの場合。
八巻 それが先よね、名前が先よ。だから逆にいえば、名前を変えたくないっていうのは、 そいういうこともあると思うのね。結婚して名前が変っちゃうと別の人格になるっていう感じがあるからさ。
平野 高校生の娘がいるとね、楠原さんがおっしゃるようなことは当たり前みたいね、感覚 として。結婚したって自分の名前変えようなんて全然思ってないみたい。今はまだ実際そういう話があるわけじゃないけど、なるんじゃない? だんだん。
楠原 なるわね、だんだんね、きっとね。
平野 逆さに、そういうのがあんまりいっぱいになると、籍を入れてほしいっていう運動も 出てくるかもしれないわね。
楠原 そうね。あたしが運動やってるときにも、武田清子さんてICUの先生やってるひと で、彼女もダンナとは別の苗字名乗ってたんだけどもね、地方なんかだとよけい女性の立場が低いっていうの、あるでしょ。そういう人のことも考えると、別 性っていうのは全国的に考えて死んでるんじゃないかって。だから片っぽの苗字になるのも両方の苗字になるのも、どっちでも本人たちが選択できるように法改 正をしようとしたのね。
平野 そうなるんじゃないかしら。
津野 ただ、女性が自分の苗字にこだわるって言っても、その名前は父親の苗字だろ。だか ら、それをさかのぼればさ。
楠原 さかのぼればおかしい話なんだけれども、その名前で自分の人格形成してきちゃっ たっていう歴史があるわけだから、そこからまたあらたにくつがえすのはしんどいことであってね。
津野 ほんとはだからそのときにその二つのなかから選ばないで「如月小春」になっちゃう とかさ。
全員 そうね、そういうのがいいね。
津野 それで一生に三度くらい名前が変えられるとかな。
平野 結婚でじゃなくてね。
楠原 その名前で通った仕事してる人は、仕事の関係者や人間関係で、名前をチェンジする のがめんどくさいでしょ。だから名前はかえなくてもいいような方向でって運動やってたんですよね。ほんとは変えたって、自分で選択できればいいんだけど ね。
平野 税務署やなんかは本名?
如月 うん。この前ね、NHKの集金の人が来て、すいません、如月さんていますかってい うから、はい、わたしですけどって言ったら、払ってくださいって言う。あのう、あたし銀行引き落としにしてますけど。いやあ、伊藤さんからはいただいてい ますけど、如月さんからはいただいてませんて言うから、同じ人ですって言ったら、すごい不可解な顔して、こっちも不愉快だったからバタンとドアを閉めた。 そういうのうるさいんですよ。住友VISAっていうカードがあるでしょ。あれがほしいと思って申し込んだら、本名の口座じゃないといけないって言われた の。で、あたしは本名はほとんど収入がないの。如月宛にカードに入れ入れっていっぱい送ってくるから、こっちも入ってやろうと思ったのに、本名じゃないと だめって言う。実は如月小春なんですけどって言ったら、今度はぜひ入ってくださいって言うんで、いいえ、入りませんって怒ったの。
津野 なんかこだわりがあるな。
如月 逆にそういうふうに見られるのがね、おもしろくないから。
平野 平野さんも「平野甲賀」はペンネームで、戸籍名はあの字のままでタカヨシって読む のね。だから、税務署から還付金とか振り込まれるのはタカヨシじゃなきゃならないわけ。漢字は同じですからって言うのに、やっぱり別に作んなきゃいけない の口座を。
如月 そう。それだけ別なんですよね。あれすごくめんどくさいの。
平野 ね。漢字は同じですからって言ったら、コンピューターは漢字はわかりません、なん て。
如月 うん。すごくうるさいの。だから本名の税務署のための口座と如月の口座と別々にあ るの。
津野 如月小春ってかいて、これはイトウマサコって読みますってわけには……。
如月 そう言ってみようかしら。
津野 きみは「平野さん」って言うじゃないタカヨシくんのことを。それはぼくたちの中だ から平野さんていってるの? いつも平野さんなの?
平野 そうね。あれは「平野さん」としか思えない。はじめから「平野さん」だったから。
八巻 そりゃそうでしょう。あたしだって、あのひとは「平野さん」としか思えないよ。
平野 あたしが「平野さん」て言うのは全部通用するわよ、親にも兄弟にも先生にも。
志沢 だから長い間そうやって呼んでるのよね。
津野 きみなんかどうするの? そういうとき。
楠原 「本橋さん」。
津野 ぜんぶ「本橋さん」?
楠原 彼の母親がいるときは、「成一さん」て言って気を使ってる。
津野 美恵は「悠治」って言うよな。
八巻 うん。でも、子どもの学校いったときなんか困るの。みんな「主人」ていうのよね。 学校で「悠治」って言うのはおかしいだろうとおもうんだけどね、でもあたしはどうしても言えないの、シュジンとは。
平野 そうね。
楠原 あたしもちょっとぞっとしちゃう。
志沢 あたし、「夫は」って言ってる。
八巻 「夫」は言って言えないことはないけど、やっぱり言いづらいし、書き言葉のような 気がするから。
楠原 むかしからいうのは苗字を呼びすてにして、「うちの本橋」っていうふうに、それは 使うわね。そういやじゃない。
八巻 「うちの高橋」ねえ。いやじゃないの? あたし、やだわ、なんか。
楠原 「うちの」っていうのはちょっとやだなと思うけど、「夫」とか「主人」よりいいと 思う。
平野 あたし、父兄会でバーッと話してるうちに、「平野さんが、平野さんが」なんて言っ ちゃって、平野さんてだれですかって言われたことある。
津野 あなたも平野さんなのに。
平野 「だれだれの父親が」って言うのよね。「葉弥の父親は」って言うでしょ。
八巻 うん、そうね、学校では「父親」って言うね、だいたい。
津野 男の側だってどうやって呼んでいいかわかんないぜ。
八巻 そうだろうと思うのよ。
津野 女房と言うのか、うちの奥さん、家内? 妻? かみさんて言うのもおおいけど、そ れもずるいみたいだろ。
楠原 本橋さんは「かみさん」って言ってたけどね。最近はあたしもしつこく言うから、 「この人は楠原さん」ていいます。彼は、わたしが本橋に変ってうれしいわってなるのを期待してたんだけど、そうならなかったのね。そういう背景があるか ら、わたしが「楠原です」って言うのも、なんとなくそういうのひきずりながら言ってる部分があってね。彼がそういうとこ、すっきり受け止めてくれたら、わ たしももうすこし自然に言える部分もあるんだろうけど。
平野 平野さんなんか籍入れないほうがいいっていう話は、男はすごくうれしいなって言っ てた。
全員 ははは。自由にできるからね。
津野 今となったら、仮にぼくが結婚するとして、相手が「津野」になるっていうのは、 ちょっとだめだね。
楠原 気持わるいでしょ?
津野 もう受け入れられないね。気持わるいよ、やめてくれよっていうふうになっちゃうよ ね。だけど、もっと前だったらわからないよ、うん。
楠原 要するに相手の苗字になっちゃうと、だれそれの奥さんていう補助的な存在にみられ ちゃうからすごくいやだ。
津野 苗字じゃなくて名前だけは自分しかないものでしょ。そうすると名前の付き合いのほ うがらくだというふうになるよな。
楠原 そのほうが自分でも自然よね。
津野 如月さんみたいに作った名前だと「如月」っていったほうがいいな。「小春ちゃん」 なんていったら気持わるいもんな。わざとらしいもんな。
如月 テレビのディレクターとかね、ああいう人って一度会っただけで、小春がよー、って 言う。あたし、あれが嫌いで。
津野 困るよな。
如月 でも結婚しようがなにしようが、如月小春って名前が一番強くなっちゃうような気が するから、もうひとつ全然別なのつくりたいぐらい。うん。強くなりすぎちゃって。たとえば結婚して、結婚式の案内状に本名で相手の人と二人ならべたってだ れかわかんないもん、みんな。
八巻 あら、ちがう人と結婚したのね、とかね。
津野 たとえばさ、こんなこといっちゃよくないけど、如月小春って人がだんだん衰えてっ たとするじゃない、その世界の中でさ、ふるーくなってったって感じ。まあ、かならず来るわけじゃない。そのとき如月小春って名前に節を通し続けるっての は、かなりつらくなるだろうな。
如月 いや、だからあたし、この芝居の仕事とともに如月小春って名前は滅ぼして、違うと ころで違う名前で別なことやる!
津野 そうじゃなき如月小春って名前を人に譲るとかさ。そうするとまたその真苗が新しく なったりして。
楠原 歌舞伎の世界みたいに。
全員 襲名!
津野 おかしなもんだと思うよ。ふるい団十郎なんて何百年も続いてる名前がさ、その瞬間 新しくなったりするんだから。如月さん、戸籍上の名前は変わってないの?
如月 結婚したら変わるでしょうね。
津野 入籍するって形になるわけか。
如月 だってそうじゃないとまた同棲してるって書かれるから。
平野 そうすると、もう三つになるんじゃない、名前がね。
全員 いいねえ。
如月 でも結婚してもみんな絶対あたしのことは「如月さん」て呼ぶだろうし、全然変らな いですね。
八巻 NOISEでは「如月」って、みんな呼びすてなのね。
如月 全部呼びすて。
津野 このごろ女性が、たとえば如月さんは「如月が」っていうふうに、キリコは「玖保 が」っていうふうに言うでしょ、自分のこと。
如月 「如月は」って言いますね、人前で話なんかしてると。使いわけてるかもしれないけ ど言います。
津野 公式な場所でね、それは。
如月 そうですね。
平野 ここで「如月は」とは言わないもんね。
如月 でも「小春はね」とは言えないですよね。
津野 今までの例で言うと、男でそういうのは矢沢永吉ぐらいだな。矢野顕子さんにしろ如 月さんにしろ玖保キリコさんにしろ、そのあたりからなのかな、自分のことを自分の苗字で言っちゃうとかっていうのは。
平野 高校生の女の子は、そうね。
津野 そうだろ、だからそれは何か意味があるんだよ。
八巻 その前は自分のこと「ぼく」っていう女の人いっぱいいたじゃない。
平野 友だち同士も全部呼びすてでしょ。
八巻 そうね、相手のことをね。
如月 仇名みたいな感じで苗字をね。あたしだって、演出するときは、苗字で呼ぶ。男も女 も区別つけなくてすむでしょう。それで自分のことは「如月」って言う。
津野 そうか、女性がそういうふうに言うってことは、自分の名前で言ってたことを苗字に 置き換えてるんだ。
平野 男女で「さん」「くん」て区別してないわね。
如月 ぜんぶ呼びすて。どちかさ「さん」つけたらぜんぶ「さん」、「くん」つけたらぜん ぶ「くん」、まあ日によってちがうけども、区別はつけない。
志沢 それは年上の人もそう?
如月 年上の人は、最初やっぱり「さん」て言ってるけども、だんだんいっしょになっちゃ う。
津野 鶴見俊輔さんがね、自分の文章書くときは、一切、全部さんづけという決めてしまっ て、もうどういう人であれみんな「さん」をつけて、公式な場所では「さん」だけで統一するってのをやってたよね。そうだよ、統一しちゃえばいいんだよな。 たしかに使いわけると気持わるいし、やるのが苦しいもんな、ときどき。
平野 女の子同士で男の子の話をするのも呼びすてだから、それが男の子の話か女の子の話 かわかんないの。区別はもうあんまりないみたいね。
津野 そうやってくと、どんどんどんどん中性的な、男女の性とか上下関係とかの価値感の 入らない話みたいなものが定着してくるのかしら、日本語の世界に。どうですか、如月さん、そこらへんの日本語の問題については。今は荒々しいよな、そうい うの聞いてると。日本語の習慣と全然違うからさ。うまく定着してくると、すごく気持いいものなるのかしら。
如月 なんかね、すごく使い分けるみたい。これが女の子しゃべりだなっていうのやってる かと思うと、すごく乱暴になるし、丁寧語は一応使ったりね。あ、男の子は使い分けられないんです。女の子はすごい使い分けるって感じがするな。
津野 じゃあその子たちが大きくなっても、全然変わんないじゃない、適応してっちゃえ ば。変態少女文字ってのはそうなんだって? みんな、だいたい二通り書けるだって?
八巻 そう、ふつうの字とね。研究してるねえ、津野さん。
津野 そうすると、しゃべり言葉もおんなじようなもんで、大体二通りできると。
八巻 女の子はさめてる。
平野 あれにかねあう男の子たちってどうやって育てばいいのかしら。
如月 ほんと、若い男の子、適応力ないような気がするな、いろんなことに。
津野 でもむかしから20代の男ってのは適応力全然ないよ。大学でたとこで男と女と較べ たら、むかしから女の子の方が力あったもん。
志沢 だから押さえつけたのかしら。
津野 30すぎると少しは違ってくるんだよね。成熟が遅いよ、男のほうが。性的なことを 除けばね。や、性的にもそうかもしれないけど。
楠原 20代の男の子ってつまらなかった。
津野 大学出たときの男と女の力の差ってすごいんじゃない? 劇団の試験やったって、歴 然としてるでしょ?
如月 うーん、そうね、同じ年令で切ればそうですけどね。だけども、ある程度年令がいっ たら男の方がおもしろいことがありますね。30過ぎてまでやってれば、男の方がおもしろい。20代前半だったら女優の方が絶対おもしろいけども。
津野 それはなんなんだろうね。
八巻 ねえ、話がはずれてきたと思わない?
全員 そうね、ほんと。この続きはテープ止めたからやろうよ。そうしよう、そうしよう。



キリコのコリクツ  玖保キリコ


ふふふと不敵な笑いの私。
玖保はとうとう仕事場を見つけました。
長い間「仕事場を捜す。仕事場を捜す」とわめき続きけてきたものの、なかなかそれを実行に移すことができなかった私を、「狼少年」と呼ぶ人もあった。しか し、しかし、もう私はウソツキではない。契約だって済ませちゃったもんね。
らん、らん。

まあ、私がウソツキ呼ばわりされるのも無理はない。何せ、「仕事場を持とうと思うのよね」と人にふれ回るわりには、不動産屋さん巡りをするわけでもなし、 アパマン情報を買うわけでもなし、ほんとうに、言ってるだけで何もやっていなかったのである。実を言えば、「天から降ってくるように、いい話がふってくれ ばいいのにな」とぼーっと待っていた節もある。もちろん、天から仕事部屋が降ってくるわけはない。やはり、世の中、そう甘くはない。

さすがに脳天気な私も、日々増えていく資料の山(と書くとたいそうなもののように聞こえるが、雑誌やマンガの類にすぎない)に侵食されていく自分の部屋の 有様にいたたまれなくなりついに『仕事場捜し』を余儀なく実行するに至ったのであった。

母は私の部屋捜しにあたって、こう言った。「じっくり捜さなくてはいけない」私は母の言葉通り、じっくり、丹念に捜すつもりであった。大きなお金が動くわ けだし、簡単に変えられるものではないので、事を急いてはいけない。そう自分に言い聞かせた。ところが、思いもかけず、すぐに話が決まってしまった。

西荻窪に部屋を捜しにいった第一日目に部屋を決めてしまったのである。その日は土曜日であった。その週のウィークデーに、「捜さなきゃいけないと思うんだ けどまだ全然不動産屋にも行っていない」と言った私が、翌週の月曜日にはもう「部屋が決まりました」と明るい声で報告していたのである。友人、知人は、私 の決定のあまりの早さに、ほとんどあきれていたようだった。もちろん、あきれる前に、誰もがびっくりしていた。
一番びっくりしたのは松苗さんだと思う。

松苗あけみさんはマンガ家で、私の大好きな作家の一人である。彼女のマンガは、少女マンガ特有の美しい繊細な絵柄を保ちつつ、話がキツくてめちゃめちゃ面 白いので、同業者にもファンが多い。そして、彼女は西荻窪に住んでいらっしゃる。私が西荻窪に仕事場を持とうと思ったのは、そのせいだと言うわけではない が、彼女からその地の便利さを聞いて、さらに決意を固めたムキはある。何しろ、実家からそれほど遠くもなく、出版社には電車一本で行け、おいしい食べ物屋 さんがうじゃうじゃあるという所なのである。そして、近所には、コピー機の置いてある24時間営業のスーパーがあるというのだ。私にとってはまさに理想の 地である。

そういうわけで、私は母と連れ立って、西荻窪へ部屋捜しに出かけたのであった。いい年をして、親についてきてもらうというのは、少々抵抗があったが、実は これは正解であった。私は3LDKの部屋を捜していたのだったが、その部屋を何人で使うのかと聞かれて、自分の顔を指さし、「私一人」と答えると、誰もが 怪訝な顔をするのだ。三軒の不動産屋に行ったが、三軒とも同じ反応だった。もし、親無しで一人で不動産屋に出かけていったら、もっと不審がられていたかも しれない。

ところで、3LDKというのは、あまり多くないらしく、西荻窪の不動産屋には、2〜3件ずつしかなかった。やっと見つけて見せてもらった3LDKの部屋も 私の気に入るものではなかった。私と母は喫茶店で休みながら、もう一軒だけ不動産屋をまわったら、今日はもう終りにしよう、すぐに見つかるわけがないのだ から、と話し合った。

その時私は『松苗さんのお部屋を見せていただく』ことを思いついた。松苗さんはマンションに仕事場を借りているのだ。そうすれば、部屋捜しの参考にもなる し、それは、何よりも松苗さんの部屋に押しかけるいい口実になるのだ。私は早速その喫茶店から松苗さんの所に電話をして、後一時間くらいしたらお部屋に伺 わせてくださいと頼んだ。私はまだ松苗さんのマンションには行ったことがなかったので、道順もその時、聞いておいた。

さて、私と母はその日最後になる不動産屋へと向かった。やはり、3部屋という物件は少なく、条件もあまり良くなかった。私はほとんどあきらめかけていた。 しかし、不動産屋の人が、2LDKだがとてもいい物件がある、と勧める部屋があったので、一応それを見るだけ見せてもらうことにした。不動産屋の人の後に くっついて、とことこ歩いていくうちに、何だか奇妙な感じがしてきた。この道は何だかどこかで教えてもらったような気がする。……松苗さんに教えてもらっ た松苗さんのマンションに行く道のりと非常に似ているのだ。すると、松苗さんはこの近くに住んでいらっしゃるのだ!

私は何だかウキウキした気分になって、不動産屋の人が指さすマンションへと入っていった。もし、ここに決めたら、いつでも松苗さんの所へいけそうだ。絶 対、すごく近いに違いない。私がボーッとしていると不動産屋さんと母が先にエレベーターに乗り込んでしまい、私はあわててそこに駆け込もうとした、

その時、小走りに走る私の目のスミがナニカを捕まえた。『松苗』
私は立ち止まって郵便受けにとりつけられたその名をまじまじと見つめた。どう読んでもこれは『松苗』だ。数時間後、予定より大分送れて私は松苗さんの家の チャイムを鳴らした。
「部屋決めちゃいました」
「あら、ほんと? どこ?」
私がにーっと笑って、上を指さすと松苗さんの目がまんまるになった。

部屋が決まったことを早速、八巻さんに電話すると、「あら、良かったじゃない。その話、水牛に書けば?」と言われた。

私は、こうして、仕事場と、原稿のネタと、そしてスープの冷めない距離になった友人を一度に得たのであった。


山がない(1)  巻上公一

朝起きると山がない。ちょっとオーバーかもしれないが、いつもの見慣れた光景が一夜にして変化している時、その驚きはポカリとあいた心の穴のよ うなのだ。母に訊くと、割合と落ちつきながら「そうなのよ、恐いわね」と言う。一種、諦めの心境らしい。なくなった山を元に戻せといっても不可能な話だ。

近くにテニスコート付きのリゾートが出来る事は、建築事務所をやっている友人から聞いてはいたが、まさか山がなくなるとは思いもよらなかった。だいたい、 そう簡単に木を伐採できないはずなのだ。これは以前木こりをしていた父親が、当然ながら詳しい。木を切るには法律があって、それなりの認可を受けなくては ならない。何故なら、やはり木は大地を支えているからなのだと、ぼくは思う。特に土砂がくずれやすい地質であったり、大水が出る可能性が考えられるから だ。そのために、木を切る前に堰堤を作らなければならないし、水が流れるべきそれなりのほりが必要である事は、法律上決まっている事なのだそうだ。

ぼくは、以前悪徳不動産業に従事していた男に電話をして、ずいぶんと間の抜けた質問をしたものだ。
「ねえ、山が急になくなって怖いんだけど、どうしたらいいんだろうか」
 男は答える。
「どういう認可を受けているか調べてみたらどうかな? 多分、標式があってそれに書いてあると思うから。で、おかしいようだったら、市役所に言うと か……」
「うん。ところがさ、市役所の支所の所長のところに、どうやらだいぶ前に親父が言いにいったらしいんだ。そしたら、笑われたって言うんだよ。そればかり か、次の日に、親父が勤めている会社に地元の世話役みたいな人が来てさ。あれは大丈夫だからって言うんだ。何が大丈夫なものかって言い返したらしいけど。 そしたら、工事関係者のような人が家にやってきて、母親に、まあ、コレをってな感じで、なにやら包み物を持ってきた。そんなものは受けとれないと追い返し たそうだけど、それが果してカルピスだけだったのかどうかって、ちょっと疑問なわけよ。それに、なんで所長に言って、次の日にこんなヘンな反応があるの か、とても不思議な感じなんだよね」
「もしかしたら、それは怪しいですね。ただ、大きな工事をする場合、どうしても法律にふれる部分が出てくるんで、普通、そういう場合住民のなにがしによっ て、知事がある部分だけといたりとかあるんですけどね」
「いやあ、回覧板もきやしないよ」

だいたいテニスコートが出来る事自体、暗黙の了解事項で済まされているのだ。まるで、中曽根の三選が当たり前になっていたり、国鉄の民営化が議会を通って いるかのような、先に情報を操って、そうですね、やっぱりそのようになりましたねっていうのにそっくりだ。ぼくはひどく憤りながらも、果して何をどうした らいいのかさっぱりわからなくて、困っているだけなのだ。きっと、明日は道路がなくなって、その次家が壊されて、いきなり戦争が始まっても、このままだ と、まったく手の出ない有様かもしれない。

〈それが現代ってものよ〉などとバカな観念野郎のひと言で片付けられてもかなわない。このあたりには、〈市民運動〉とか〈住民自治〉とか叫んでいる人が、 どこにひそんでいるのやら、見あたらない。

季節の頃は、そろそろ台風シーズンである。父や母によれば、なくなった山の上の部分にホテルが出来て、木を切った時、大水が出て、わが家が床上浸水し、土 砂が流れ込んだ事があると言う。
「本当に怖いよ」と父は言う。
「明日、一緒に現場を見に行こうか」
「うん」
うるわしき親子の交流。

さて、実際に見る山がなくなった現場は、山がなくなっただけではなかった。普通、山がなくなるためには、切った木や土砂を運ぶトラックがひんぱんにわが家 の前を通らなくてはならないのだが、土や木を乗せたトラックなど見た事ないのだから、あら不思議。まるで大仕掛けの手品のようだと思っていたが、ネタはば れた。実は、沢を埋めてしまったのである。なにやら、ますます怖くなった。工事現場には立入禁止がいたるところに貼られている。
「最初に俺が見にきた時は、立入禁止はなかったな。俺があの時いちゃもん付けたんで、あわててこんなもん貼りやがった」
「小さな堰堤が作りかけだね」
「作りかけじゃいけないんだがな。それに、いくら素人が見たって、あれでは小さすぎるだろう?」
「うん、確かに小さい」
現場には誰もいない。今日は工事はお休みなのだろうか。

(つづく)


料理がすべて  田川律


タイの料理は
9月は、例年になく忙しく、8月の末にタイを訪れたことなど、もうずい分昔のことと思われるほど。六年前にインドを訪れた時、たまたま乗り次ぎの関係でタ イで一夜を過して以来のことで、ほとんど初めて。それでもこのところ中目黒の「チャンタナ」や新宿の「バンタイ」に時折り行くし、タイへ行った友人からト ム・ヤム・クンのスープの素を貰ったりして、とてもはじめての国、という気がしなかった。おまけに、着いた次の日、ホテルへスラチャイとモンコンから電話 がかかってきて、以後帰る時まで、ほとんどモンコンといっしょだったから、見知らぬ国の印象はいよいよ少なかった。
それにしても、十日間ほど滞在して日本食を食べたいとはついぞ思わなかった稀な国がタイ。屋台から、高級レストランまで、どこで何を食べてもほとんど“外 れ”なかった。観察の結果、その理由のひとつは、タイ料理が意外にもあっさりしていることがあげられる。油を使い、ココナツ・ミルクも使うのに、不思議な ことだ。どうやらそのワケは、素材に油をあまり含ませないようにするところにもある。つまり、蒸すことが主になっている。たとえばヤリイカに挽肉を詰めて 蒸す。これを輪切りにしてそれにあのタイお得意の調味料をつけて食べる。タイお得意の調味料とは青くて小さい唐辛子、早い話がグリーン・チリを刻み、それ にタイ風醤油ナンプラーと、青くて小さいレモン、これまた早い話がスダチ、を加えたもの。日本風にいえば二杯酢に辛みをつけたものということになる。これ は、食事の際の必需品で、屋台から中華料理店にまで用意してある。それこそラーメンからご飯にまで好みに応じてかけたりするのだ。
ヤリイカだけでなく、魚も油で揚げるよりは蒸す場合が多い。それでさっぱりした味になるのだ。
もうひとつ、タイ料理のうまさを支えているのが、多種多様な生野菜である。パクチー(中国ではインサイというらしい)という、セリとクレソンと三つ葉のか け合わせたような野菜を中心に、じつに多くの野菜がある。いずれも、独特の香りを持っていて、それが生きている。日本でも春菊からほうれん草にいたる青菜 はけっこうあるのだが、都会ではとりわけこの頃こうした野菜から匂いが消えつつあって、タイでのような野趣がないみたい。
青菜のオムレツ。最近日本の新聞に出た「外国人ヌーディスト、大量に逮捕」で有名になったサムイ島、というのが、たぶんぼくがモンコンたちと訪れた島でな いかと思うのだが、というもの、ぼくらのいる頃から、ひとりふたり白人の女や男が、スッ裸で泳いでいたから。その島はタイの東南部のラヨンから大型ボート で四十分ぐらいのところにあり、島のあたり一面にバンガローが点在している。そのうちの二カ所に泊まったが、そのひとつで、この青菜のオムレツが出た。青 菜といっても、すぐにしんなりしてしまうタイプではなく、むしろ、固い小さい葉の青菜で、それを卵でつないだ、いわばお好み焼きのようなオムレツ。これに も、“万能調味料”をつけて食べる。
魚の寄せ鍋。旅の最後の日、モンコンは血膜炎にかかったかかったように、目を赤くしているのにもかかわらず、お別れパーティを開いてくれた。タマサート大 学の傍の川沿いにある内塗りの立派なレストラン。それで不思議な寄せ鍋がでた。日本のタイ焼きの型の親玉のような鉄の鍋、にほぼすっぽりおさまるように、 丸ごと揚げた(これは揚げてあった)魚を置き、そこにこれまたクレソンのオジサンのような青菜をのせ、キャベツの乱切りを加え、味噌汁のだしをたっぷりか けて、七輪のようなものにのせて、ぐつぐつわいてきたら、魚の身をむしって、汁につけ、キャベツやクレソンのオジサンを食べるのだ。
バンコックのオールド・ウェスト。モンコンの友だちがやっている店の名前がオールド・ウェスト。さしずめ下北沢のロフトといった感じの店で、日曜の夜はカ ントリー・ウェスタンのライブをやっている。リーダー格のオニイさんは、糸山英太郎そっくり。この人が英語で「ジャンバラヤ」や「コットン・フィールド」 や「カントリー・ホーム」をうたうのだから、ま、びっくりした。なんでタイまで来てカントリーを、と思わないでもなかったが、そんなこというたら、日本か て、ということになる。しかし、ヒルビリーっぽいものは、メロディとか声の出し方はタイの東北地方の民謡に似ているとこもあるような気がした。
旅の最終日は、ここで、タイ生れのインド人、スワンさんにすっかり気に入られて、“迫られて”しまって大いに焦ってしまった。男の人に迫られるなんて、は じめてのことで、それがタイで起こったのがおかしい。

トム・ヤム・クン・ニューメン
神戸・六甲山のふもとで、早速タイ料理応用篇をやった。買って帰ったスープの素を使って、エビとマッシュルームとパクチーと、レモン・グラスと柑橘類の根 を乾燥したものと、コブとを加えて、それに瀬戸内海の小豆島のおいしいソーメンを入れて「トム・ヤム・クン・ニューメン」を作った。9月のはじめでまだま だ暑かったが、太目のカメラマン北畠謙三さんをはじめみんなに大喜びされた。その後のニュースでは、この時のふもとの住人は、在日タイ人とどっかで知り 合って、グリーン・チリやスープの素まで入手するほどになったとか。なおこの時使った柑橘類の根は、東京・渋谷の東急地下食品店で、レモン・グラスなど香 辛料を売ってるオニイさんから、物々交換で入手したものである。

オビヒロでの応用
勢いに乗って、今度は帯広でもタイ料理を作った。「ランチョ・エルパソ」の4周年記念のイベントの前日。店が定休日なので、打合せのあと、「トム・ヤム・ クン」のスープと、イカ、エビをゆでて、万能調味料につけて食べるというのをやった。店で働いている人の子供で7歳ぐらいの子供も、グワンバッテ食べてく れた。あとでウチへ帰ってオトウチャンに「すっごく辛かったけどオイシカッタよ」とコーフンして報告していたという。久し振りに大人数用調理器材の揃って いる場でやったので、こちらもコーフンしてしまった。火力の強い大型コンロ、大きな鍋、広い調理場。水牛倶楽部もこんな風にしよう、などと勝手に考えなが ら大きなエビの皮をむいていた。なにしろ客が百人近く入れるレストランの調理場なんだから――。

トビ職のトーキング・ブルース
その帯広でひときわ異彩を放っていたのがトビ職の竹内さん。イベントの二日目、大塚まさじのコンサートのあとで店でいつものようにワイワイ盛上っている時 に、突然、清水一登くんのピアノ伴奏で、トーキング・ブルースをはじめた。なかなか達者なものでみんなに大受け。特に「クライだろ、クライだろ。だが、ク ライのがどこが悪い」というあたり、ご本人の性格ぴったりで。トビ職といったってあんた、大工のトビではなく、飛行機の飛び、つまりパイロット。TDAの 現職。だけど、「オモロイ人やけど、あの人の運転の飛行機には乗りたないな」というのがたいていの人の意見。しかし案外こういう人、いったん操縦掉握る と、すっごくマジメだったりして。だけど話を聞いていると、吹雪の帯広空港へ降りて、スチュアーデスから「今、機は飛んでいるのですか、もう着地したんで すか」と尋ねられたこともある、というから、ヤッパリ、コワイ?

野球のアンパイアと冷凍春巻
9月23日、千葉の浦安で、友だちのチームが、魚屋さんと野球するのにメンバーが足りないので出てくれないかと頼まれた。長いことやってないけど高校時代 は三年間毎朝ソフトボールをやってたし、ま、員数合わせになるやろおもて参加したら、結構メンバーがいて、余ったのでアンパイアにまわることにした。そん なものしたことなかったけど、見よう見真似でやれると思って引受けた。ファウル・ボールだけこわいから、キャッチャーからかなり離れ、いつでも身をかわせ るようにへっぴり腰でやっていた。やってみると、「なんや、アンパイアて舞台監督やんけ」と思った。試合を仕切って進行させる役だ。ぼくのできる仕事のひ とつと共通しているので、すっかり気が入ってしまった。もっともこの時のぼくの服装は、ピンクのタンク・トップの上に派手なアロハ。下は迷彩服のような模 様だが色はラスターカラーの半ズボン、というのだから、ピッチャーはさぞかし目がくらくらしたことだろう。
いざ、アンパイアをやってると、バッターが打ってくれるのが一番楽なのだが、ファウルが続くとボール・カウントを忘れがちになる。入った得点まで気がまわ らなく、アウトの数とボール・カウントで精一杯。なかなかむつかしいもんじゃ。それと、舞台監督となにより違うのは、ヤジられること。こんな草野球でも何 人かの応援の女性が双方にいる。ボールくさい球を「ストライク」といったとたんに「ウッソー!」の大合唱をされてしまった。その分、やり甲斐もあるか、と 思ったりして。
終わって、双方がちょっと一杯、をやってる時、「アンパイア賞」というのを貰ってしまった。中トロ2本を冷凍したものと、これまたこの魚屋さん、というよ り魚卸屋さんところで作っている冷凍春巻二十本。チームに入って選手として出てたら、こんな賞品貰えなかったと思うと、これからアンパイア専門で行こか、 と思ったりして。
それにしても、この会社の冷凍庫はすごかった。時々テレビなんかで、冷凍庫に閉じ込められるシーンもあるが、じっさいそこに入ると、こんなところへ閉じ込 められたらホンマにコワイ、と思わせる迫力のある冷たさだった。食用蛙の腿がカチンカチンになって箱詰めされていた。レストラン用、といわれたが、そんな に食用蛙食べさせるレストランてあったかいな、と思うほど大量の食用蛙だった。



東北の神武たち・その後  鎌田慧

青森に出かけていってSクンに会うと、「おれは別にカネが欲しくて自衛隊のクルマにぶつかったんじゃないよ」と抗議された。抗議の内容よりも、 青森の僻地(?)で『水牛』が読まれていることを知って、「へえ、どうして」と声をあげてしまったのである。

『水牛』のバックナンバーは十部ずつ保存しているのだが、整理が悪くて探しようがない。それで何月号に書いたのか、そしてどう表現したのかいま引用できな いのだが、「東北の神武たち」と題して、青森県六ヶ所村の核再処理工場の建設反対運動を担っている独身者たちについて書いた。彼らはいまなお、いっこうに 結婚する気配もみせず、それまでとおなじように村に通いつづけている、というよりは泊りこんでいる、といったほうが正確である。

だから、あえてその続編を書く必要もないのだが、Sクンの抗議には応えなければならない。彼が自衛隊員の運転するクルマにハネられたことを、わたしは反自 衛隊闘争のひとつのチャンスのように書いたのだが、筆者のわたしとて、彼が意識的に相手のクルマにぶつかったなどと主張しているわけではない。Sクンは けっしてそのような極左冒険主義者ではない。むしろ静かな自然愛好家で、わたしは彼の情熱にまけ、原宿の奥深くはいり、あるいは崖によじのぼり、ザゼンソ ウやニッコウキスゲなど、きいたこともない高山植物をみせられて蒙をひらいたほどである。

まして、いまなお、自衛隊との交渉が永びいているのは、クルマでハネた加害者である自衛隊員が、後遺症でその後も苦しむことになる被害者のSクンに、「事 故がわかると出世の妨げになるから、なんとか穏便に」との必死の表情に闘志をにぶらせ、対外的に騒ぐに至らなかったことも災いしている。ソ連とでも戦争を しようという、北の護りの自衛隊員の考えているのが、隊内での出世だけという現実は、日本の平和を想えば好ましいとはいえ、なんとくだらないことであろう か。

クダンの自衛隊員は、妻の実家のある六ヶ所村から三沢の基地へと帰隊する途中で事故を起したのだった。このマイホーム主義者も、こずるいとこがあって、言 を左右して補償交渉から逃げまわっているらしい。なにしろ軍隊とは、四一年前の沖縄での例のように「民間人」を守るためにあるのではなく、民間人を楯にし て逃げまわるために高価な武器・弾薬を携行している存在であるのは明らかとはいえ、平常時でさえこうなのだから始末に負えない。この集団の論理が天皇主義 的無責任性をもっぱらにしているものなので、個人もまたひき逃げの無責任をきめこもうとしているようなのだ。

さて、六ヶ所村の戦局だが、再処理工場反対の漁協組合長は、東京電力など九電力連合軍のクーデタによって突然解任され、カイライ政権がうちたてられた。そ れでも、県知事、村長が政治的に介入した漁協組合でも、おっかあたちと「神武たち」はよく動いて、カイライ組合長を引きずり降すことに成功した。

九電力は、海上保安庁の大型巡視艇など三〇数隻を動員し、陸上では警察庁から派遣された公安専門家が率いる機動隊で固めて海域調査が強行され、これまで十 人の逮捕者をだしている。十人の逮捕者のうち九人が地元漁民、ひとりが基地の街・三沢でローカル紙を発行しているIクンで、村に通っている支援者のうち彼 だけが妻帯者である。ところが、自分の新聞に掲載した「獄中記」に、「下取りに出してもいいような女房」とフザけて書いたため目下、深刻な家庭争議を抱 え、へたすると友人たちとおなじ独身の境遇に陥りそうである。

神武たちのその後に触れれば、教師志願のNクンは、GI用の宿舎の一軒を借りてはじめた学習塾にようやく十人ほどの生徒が集まって母親のスネも食いつぶさ ずにすみそうである。八戸のKクンは心臓手術を受け、胸の奥深くセンサー? を内蔵して決死の活動をつづけている。Sクンは相変わらずの反軍闘争を継続し つつあり、むつ市の原子力船「むつ」反対の団結小屋の住民であるHクンは、芝居の書割りで鍛えた技術で、核燃反対の看板づくりに精をだしている。

むつ市の独身者の長老は、歯科技工師として「むつ」反対運動に火をつけた中村亮嗣さんで、悠々と絵を書き文章を書いて五〇代のひとり暮しを満喫している。 むつ市のもうひとりの独身者は、今大量解雇にさらされている国鉄職員のHクンで、信号所勤務を終えるとそのまま乗用車で六ヶ所村にはいり、ここに泊ってま た出勤。自宅にはほとんど帰っていない。警官に検問されて免許証提示をもとめられても、二時間も拒否しつづけ、あわや逮捕、というまでがんばった強情者で ある。電力会社が撤退するまで、彼らの無償の愛が成就することはないかもしれない。





松崎町訪問記――伊豆の長八美術館など  津野海太郎


  

伊豆の長八美術館は、ひとりで見にいこうと思っていた。ひとりで、というのは、設計者の石山修武といっしょにではなく、という意味である。

たくさんの写真や文章で、すでに私は、長八美術館がそうとうに派手な建造物であること、そして、その派手な建造物に(イッコの建物に託されるものとして は)でかすぎる(としか思えないような)夢が背負わされていることを知っていた。その派手さや夢の大きさにつりあうものを見つけることができればいいよ。 でもその可能性は、たぶん五〇パーセントあるかないかだろう。もしなにも見つけられなかったとしたら、そのとき、おれは石山のまえで、いったいどういう顔 をしたらいいのさ。そう考えて、私は「ここだけは絶対にひとりでいくぞ」と、かたくこころに決めていたのである。

伊豆の長八といっても、知らない人のほうがおおいだろう。いばるわけではないが、私は知っていた。長八というのは江戸時代のすえから明治にかけて、伊豆松 崎町を中心に活動した、大工でいえば左甚五郎みたいな伝説的な左官の名人である。コテをつかって描く漆喰レリーフ(コテ絵)によって名だかい。ただ、知っ ているとはいっても、私の知識はその程度の雑学にとどまり、そして、そんなことは知ってても知らなくても、じつはどうでもいいのである。石山修武の知り方 はそれとはちがう。おそるべきことに、かれにとっての「知」は、依然として「力」なのだ。私の知り方に代表されるような「知は無力なり」の風潮にさからっ て、かれは自分の知識を一気に行動化してしまった。

いま左官や大工といった職人たちは、そのほとんどが建設会社や大工務店のもとに下請工として組織されている。石山はこれをよくない傾向と考え、自分の建築 を生きのこりの職人たちや地方の小工務店の手によって成立させようとしてきた。でも、なかなかうまくいかない。そこでかれは、ふるい職人たちの技術や生き 方の象徴として、伊豆の長八の記憶をよみがえらせようと考えついた。記憶しつづけるためには記憶術がいる。術を象徴化した空間がいる。その空間を、日本の 各地にちらばった独立自営の左官たちが自分の手でつくる。さらに淡路島で瓦を焼いている山田修二とか、ガウディがのこしたサグラダ・ファミリア教会の建築 現場で石彫りをしている外尾悦郎とかの、あたらしい職人たちがここにくわわる。あてもないままに、石山はそういうプランを発表し、まったく思いがけないこ とに、依田町長以下の松崎町の人々がそれにのってきた。

松崎町は人口一万。むかしは半農半漁の土地だったが、いまはおとろえて、おもな収入を観光にたよらなくてはならない。といって、日本のどこにでもあるよう な小さな町に、これといった観光用の目玉があるわけがない。そのとき、「いや、われわれには伊豆の長八さんがいる」と考えつき、それを石山修武というふし ぎな建築家にむすびつけてしまったあたりに、この町の人たちがかくしもつ力量の大きさがしめされている。

つづいて日本左官業組合連合会の人たちが、この計画に加担した。こうして石山のもくろみどおり、日本全国から十数人の左官の達人たちがあつまり、かれらと 地元の左官たちとの共同作業によって、一九八四年の夏に美術館の本館ができあがった。これは昨年の吉田五十八賞を受賞している。

こうして伊豆の長八美術館は、ひとりの建築家と全国の左官たちと小さな港町の住人たち――それぞれのおもわくが複雑にくみあわさって、その微妙なバランス の上に出現してきた。さっき私が「一つの建造物に背負わせるには大きすぎる夢」と書いたのは、そういう意味である。写真で見るかぎり、美術館の建物はとて もうつくしい。それだけに私は不安である。あのはかなげな風情をもつまっ白な建造物によって、おおぜいの人々がそこに託した夢やおもわくを、十分にささえ きることができているのだろうか。その不安は、かれがこの夏に晶文社からだした『職人共和国だより・伊豆松崎町の冒険』という本を読んで、いっそう大きな ものになった。この本は傑作である。だからこそ私は不安なのだ。こんな勢いのいい本に対応するような魅力的な現実が本当に存在するなどとは、とうてい信じ られない。松崎町にいって、そのぜんぶが夢みる建築家の大言壮語にすぎないと判明したら、かれの友人であるところの編集者として、おれはどうしたらいいん だよ。

  

夏休み返上の八月がおわり、九月にはいって暇ができた。さて、石山さんには内緒で、こっそり長八美術館をたずねてみるか、と思いたったとたん、その石山さ んから電話がかかった。
「こんどの日曜か月曜、いっしょに松崎にいきませんか?」
「はア?」
「あのですね、こんど美術館のまえに鉄塔をたてるんですよ。もしよければ、いっしょにどうですか?」
で、結局、いっしょにいくことになった。なんであれ、そして、だれであれ、かたい決意などというやつは、実際には、その程度のかたさしかもちえないのだ。

九月十五日。月曜。朝十時半に東京駅でまちあわせ、新幹線の三島からタクシーで沼津港、そこから雨にけぶる伊豆半島の西海岸ぞいに高速船で約八十分、半島 の突端にちかい松崎町につく。港には町役場の青年が傘をもってむかえにきてくれていた。そのまま車で美術館にむかう。中央にすでに完成した本館、その右が 野外劇場、左手に十一月に完成予定の別館(レストランと売店)――石山さんがいっていた鉄塔(ななめになったエッフェル塔が二本)というのは、その別館の まえにたつことになっているのだ。

長八美術館は、予想していたより無邪気な、たのしい建物だった。

いま私たちは漆喰の壁のえげつないほどの白さを忘れて生きているから、ふいにそれにぶつかると、そのことだけであわてふためく。あまりにも徹底的に白すぎ て、それがスキャンダラスなものに感じられてしまうのだ――というような点はいろいろある。そうしたえげつなさや俗っぽさを抱えこんだまま、この美術館は たのしく洗練された「芸能建築」になっていると私は感じた。その芸能性をこのむ人もいれば、頭から拒絶してしまう人もいるだろう。それは当然のことだ。つ まり、どうでもいいことだ。

それよりも、もっと肝心なことがある。それは、この美術館が町の生活から孤立した観光名所として発想されたのではない、ということである。石山さんの本 は、ただの大言壮語ではなかった。いや、それどころではない。
休日だというのに美術館で待ちかまえていた依田町長は、私たちにむかって、かれの田舎町観光論をとうとうとぶちまくった。温泉と酒と芸者の観光はもう古 い。松崎町は観光客のために存在するのではない。まずこの町にしかない文化のかたちをつくり、それによって町の人々が元気に暮らすことができるようになれ ば、おのずから、おおぜいの観光客がこの町にあつまってくるだろう。われわれが考えている二十一世紀の観光とはそういうものなのであり、そのための第一の 布石が伊豆の長八美術館なのだ……。

この夢みる老町長の長口説を、夢みる建築家のほうは「いい加減ききあきましたぜ」という顔をしてきいていたが、私にとっては新鮮だった。第一というからに は、第二、第三がある。月四回の「のれんの日」に、美術館にちかい商店街の店々が、屋号と家紋を染めぬいたのれんを、いっせいに店先にかざる。それが第二 ――のれんをデザインしたのが平野甲賀だというのだから、おそれいる。

第三、岩地という海ぞいの小集落のカラー・コントロール計画。ここには海水浴客めあての民宿がおおい。その一軒一軒を、屋根はウコン色、庇や戸袋はクチナ シ色、樋や手すりはリキュウ白茶――と、とくべつに発注した三とおりの黄色いペンキで塗りわける。それによってトタンと新建材の安手な家々が、あざやかに よみがえった。いきおいにのって、民宿の看板まで、平野ふうの書き文字になっているのがおかしい。

この集落の老人たちは、かつて生糸の貿易船にのりくんで、しばしばアメリカにわたっていた。そのころ海上から見た異国の港町の眺めが記憶にのこっていて、 ああいう眺めがここで再現できるのならと、まずかられがこの計画に積極的になったらしい。発案者は町長、色彩をきめたのは石山だが、屋根や壁に実際に色を 塗ったのは、この老人たちだった。往年の船乗りだから、塗装はお手のものなのである。

さらに第四、第五、第六……と、依田・石山コンビが打った布石は他にもいろいろあるのだが、いまはふれる余裕がない。

長八美術館はこれら諸計画の中心にあって、その全体を元気づける役目をはたしている。石山修武といっしょにいってよかった。おかげで私も元気になった。十 一月開場のレストランでは、土地の魚介類やシイタケをつかった変則の地中海料理を食わせてくれる。食プランナーとして、林のり子さんがひきこまれつつある のだとか。じつになんともワッハッハ! である。そのうち、いっしょにどうですか?


「カフカ」ノート  高橋悠治


9月19日、コンサート「夜の時間」の反省。

まずプログラムについて。シューマンとブゾーニの音楽は、夜と幻想にちなむものを選んだが、プログラムをそれらではじめたのはよくなかった。コンサートを やると、クラシックのあたらしい解釈を期待してくる人たちがかならずいる。つい、それに負けてサービスする気になってしまう。

たしかに、シューマンもブゾーニもおもしろいとはおもうが、それらをあたらしくやってみようとか、まして紹介しようなどと一瞬でもおもってしまったのは、 よけいなことだった。

かれらの音楽からプログラムのほかの部分へいくつかの線が走っている。シューマンからカフカにいたる線――のびあがり、まるくなってねむりこむねこのうご き、階段をかけあがり、ころげおちるちいさな機械、とんとんとたたくリズム。浅田彰の「ヘルメスの音楽」が紹介するロラン・バルトのシューマン論にすべて 書かれていることだ。ただし、そこから読みとれる音楽はもうシューマンのものではない。それはバルトのことばからもはみだしてしまう。

ブゾーニから三宅榛名にいたる線はどうか。たえずかたちを変え、すこしずつずらされ、断層と乱反射によって知らないうちにまがっていく意識の流れ、さまざ まな音階のなかをくぐりぬけ、単純な線でありつづけながら、線としては見えないほどに全体のぼかしのなかにとけている。これは、じっさいにそうあるという よりは、そこにある音楽に投影されている音楽の夢かもしれない。

シューマンやブゾーニの音楽から何かを読みとることもできるし、それをほかの音楽につなげることもできる。だが、そこで見えてくることは、シューマンやブ ゾーニを演奏することで、また見えなくなってしまうのではないか、と疑ってみる。

ヨーロッパ音楽文化やピアノ演奏法が立ちふさがっている。バルトの言う「第三の意味」だって演奏の意味づけにすぎない。その限りでは、見たいものをかって にそこに投影しているだけだ。バルトがシューマンに見ているようなものを、バルトのつかうことばから出発して音楽としてつくってみれば、それはシューマン どころか、ヨーロッパの音楽でさえない。おなじことがブゾーニとかれの音楽の間にも言えるだろう。

ピアノという楽器。どうしても音の粒がそろって速くなっていく。三宅榛名の弾いた「トロイメライ」のテープをききながら、このように自分の楽器としてピア ノをあつかうことができるといい、とおもったが、じっさいに弾いてみると、ピアノの演奏法から自由になるためには、きびしい抑制が必要だった。あぶなっか しい指のうごきが全身を空中でささえている、という感じ。速度をおとしつづけて、たおれる寸前までおそくした自転車にのっている感じ。そこではじめて、ほ とんど重さのない音のほのかなかげりにたどりつく。だが、そこでとまったのでは、それもひとつの技術にすぎない。

ソロのばあいは、とくに危険だ。技術だけを見て、そのむこうにすけて見えるはずのものが見えなくなる。

1人で音楽をやっているのは、経済のしくみにしばられているからだ。何人かでいっしょにやれば、とくに技術もいらないことを、1人が機械のたすけをかりて やってしまう。この方向でいけば、技術がせんれんされ、きわだってくるうちに、音楽は個人的スタイルとして、時代の文化の一部になっていく。もちはこぶこ ともできるし、費用から言えば効率がいい、ということはどのくらい利点なのだろうか。

いま、機械を協同作業でおきかえることも、もともとのありかたにちかづくことにはならない。水牛楽団がそうだったように、生活のためにほかのことをしなが ら、できる時だけやる音楽では、セラピーにすぎないし、それで生活しようとおもえば、スタイルを売ることになって、技術的競争にまきこまれるのだ。それに 協同作業といっても、原則をもつことで、すでに作曲家と演奏家の関係がそこにうまれ、グループとして自立すれば、ますますそれがつよめられる。

どこまでいっても解決はない。どこかでバランスをとらなければやっていけないが、第一、矛盾を解決して単純化しようとすること自体、かなり破壊的ではない だろうか。

「カフカ」でたしかめたこと。ピアノ全体をつかってできることにくらべて、たった4つの音をつかってできることの方が、どんなに自由であることか。ふくざ つな16ビートのノリより、1ビートの不正確さの方が、どれほどからだにとって衝撃的か。

一九六四年ベルリンから、自分のやってきたことをふりかえってみると、こんなにかんたんなことがわかるだけに、ほとんど一生の半分以上かかるのだ。カフカ の断食芸人のかなしみが、ほとんど手にとれるようだ。


走る・その九  デイヴィッド・グッドマン


ヤエルは二日だけウェストヴュー小学校に通った。三日目から教師たちはストライキに突入した。ストライキは三週間つづいた。その間ヤエルは毎日YMCAに 通って、泳いだり、映画を観たり、ゲームをしたり、夏休みと変らない日々を過ごした。学校がストライキでも、日本語のレッスンは怠らなかった。毎週月曜日 と木曜日の午後四時から五時まで木下先生が日本語を教えてくれる。だからその宿題をやっておかなければならない。

たとえば、日記を書くという宿題。ヤエルはある日、日記の代わりに、神宮前小学校の友達宛てに手紙を綴った。
「りえちゃんげんきですか。りえちゃんのおかあさんもおげんきですか。いまがつこうはやすみです。やえるはまいにちぷーるにはいつてたのしんでいます。さ ようなら」

YMCAに出かける前に勉強させておかなければ、ヤエルはその日は勉強しない。彼女が「サムリッチ」と呼ぶサンドイッチ弁当をもって八時半に家を出るの で、朝は忙しい。お母さんが「サムリッチ」の用意をし、カイの世話をしている間、ぼくはヤエルに日本語を勉強させる。

ヤエルの八時半の出発に間に合うためには、走る予定の朝は、ぼくは五時半に起床する。タイマーをしかけておいたコーヒーメーカーのポットに、芳ばしい救命 液が、目をこすりながら階段を下りてくるぼくを待っている。二杯の水(一リットル弱)をごくごく飲んで、それからコーヒーをすすりながら早朝のテレビ ニュースを観る。便意をもよおすと、脱糞。それから準備体操をして、運動靴を履いて、出かける。

六時半ごろ和子も起きる。時計付きのラジオからロックンロールの音ががんがん響いてくるからである。ぼくがミニ・ホットプレートに載せておいた一杯のコー ヒーを飲んで、和子も次第によみがえる。ぼくが帰ってくるころには、彼女は、祖父の形見であるペルシャ絨毯に座って、ヨーガをしている。ヤエルはクマとい う名のぬいぐるみにスカートをはかせ、カイはびしょぬれの紙おむつを一生懸命に一人で脱ごうと頑張っている。テレビはコカインで死んだバスケットの選手の ニュース、その日のテロ事件のニュースなど、今日のアメリカの想像力を雄弁に物語る出来事を報道している。だが、だれも観ていないので、すでにニュースを 観たぼくはテレビを消してしまう。

シャワーして、髭を剃って、洋服を着る。姉にいじめられて泣いているカイを慰めて、「嘘! だって、あたし……」と抗議するヤエルを宥める。そして二人を つれて一階に下りる。お母さんがシャワーを浴びている間に、ぼくは朝食を出す。といっても、ぼくは炭水化物の係である。蛋白質や果物(バナナ以外は)の食 べたい者は、お母さんが下りてくるまで待つ。ホットケーキ、ドライシリアル、オートミール、トースト、豊富なメニューだが、ぼくの担当は炭水化物のみであ る。

食事が終わると勉強の時間。居間にいって、ラヴシートと呼ばれる長椅子にヤエルを座らせて自分も腰を下ろす。はばがせまくて、身体をよせなければならない のでラヴシートというのだが、長期的に考えれば、教える具体的な内容よりも、父親の身体の温もりを感じながら勉強するという毎朝のスキンシップのほうがは るかに重要なのかもしれない、と思うことがある。

ヤエルは素直に指導を受ける、というわけではけっしてない。活動過多児かとさえ思わせるほど、ばたばたと落ち着きがない。
「さあ、勉強しようね」
「いやだ」
「毎日少しずつ勉強しなければだめだよ」
「でもきょうは疲れてる」
「ゆうべ寝ないで遅くまで遊んでたからだよ。ちゃんと寝てくれれば、朝は眠くない」
「わかった」
「じゃ、いいね?」
「待って、クマがいない」
「しょうがないね、早くつれといで」
「どこにいるかわからないもん」
「早く探してこいよ。ゆうべ一緒に寝たんだろう?」
「そうだ!」ヤエルは飛び上がると、側転を二回して、自分の寝室からクマをつれてくる。
「じゃ、『にんじんやま』の話のつづきだね。どこまで読んだっけ?」
「きらい、その話」
「このへんだね。よくばりのおじいさんが出てくるところから」
「きらい、きらい」
「そんなこといったって。ほら、あと少しだから、いまがんばって読めば、明日からもっとおもしろい本が読めるじゃない。さあ、読んで」

ぽろぽろ涙をこぼしつつ、ヤエルは大声をあげてわめく。ぼくも怒鳴る。きょうはお手上げだ。五時半に起きる甲斐は結局なかったのかな。


編集後記

ナムジュン・パイクの「バイバイ・キプリング」のためにTV局にきてみると、たくさんの人がいそがしくはたらいていた。だれも分担以上のことをしらず、連 絡もうまくとれないために、予定はどんどんおくれていった。それがあたりまえなのだった。そこに呼びだされた芸術家たちは、一分間出演するために何時間も 待っていた。その一分間は無意味な行為のこまぎれにしか見えなかった。アメリカから衛生中継でルー・リードがうたっていた、60年代とおなじ革ジャンを着 て、自分のうたをうたいつづけていた。それだけが意味ありげに見えた唯一の行為だった。そのほかは、切り刻まれたがらくたの堆積の間をはねまわるいなかく さい漫才コンビのわるふざけで、こういうものがいまの日本文化なのだった。これが平均水準であることに誇りさえもっているナショナリズムが、日本をおおい はじめている。それを当然と感じはじめている自分をふりかえっても、あらためて、それは寒気のする光景だった。この廃墟の上をパイクのビデオ・ボールがか ろやかに舞いすぎていく。風景が回転し、ゆがんでボールに吸いこまれていく。このエレガンスも、虚像であるだけ一層うつくしい。それが終わると、アークヒ ルズに立っているパイク、「あーあ」と嘆息して幕となった。
こう書いてみると、未来の悪夢はもう現在のものだった。沈みかけている文化は救いようがなく、毒がまわらないうちに逃げだすほかはない、と思われた。だ が、どこへ? ちがう空間、ちがう時間、ちがう文化?(高橋)




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