水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1987年9・10月合併号 通巻98・99号
              
入力 桝井孝則


走る・その十八  デイヴィッド・グッドマン
結婚披露宴・最後の火星人  エリザベス・クライン
汽車  ヘレン・ディーゲン・コーエン
十三のとき、帽子だけもって家を出たMの話  藤本和子
ヘンゼルとグレーテル  ヤエル・E・グッドマン
アメリカ  高橋悠治・八巻美恵
詩三篇  木島始
にゅーす商売  渾大防三恵
K・Fへの手紙  矢川澄子
マイ・ホビー・その(4)  高橋茅香子
律とまち子のふぁっしょん読本6
「可不可」制作メモ  平野公子
編集後記



走る・その十八  デイヴィッド・グッドマン


【口走り】譚・その二
ぼくはこれまでに本を三冊日本語で書いた。現在、この「走る」のほかに、毎月『月刊・子ども』にも連載を書いている。最近『翻訳の世界』と『世界』にも原 稿をよせた。

日本語でものを書くのは時間がかかる。はやい時は、一日に四〇〇字詰め原稿用紙で六、七枚分書くことがあるが、普段は、三枚書ければいいと思っている。も のを書かない人には、たくさん書いているように聞こえるかもしれないが、そんなことはない。中ぐらいというところだろう。

ぼくよりはるかに多く、しかもうまく書いているひとはいくらでもいる。ある小説家は、毎日最低六、七枚は書くといった。元旦にも、かならず書く。ぼくには 無理だ。しかも、ぼくにとって日本語は母語ではないから、日本語で書いていると文法を間違えたりすることもしばしばだ。

日本語でものを書きはじめたのは、七三年ごろのことだ。その時には、日本語でものを書くなんて、夢のような話だった。サンフランシスコに住んでいて、編集 の仕事をしている日本の友人が、ある雑誌にぼくの手紙を載せてしまったのが、モノカキとしてのぼくの出発点だった。

以前からすべすべした紀国屋書店の原稿用紙に憧れていたぼくは、すっかりその気になって、紀国屋のサンフランシスコ支店へ駆けつけて原稿用紙を買ってき た。妻は初めての翻訳の仕事だったリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』で苦吟していた。ぼくたち二人は午後の二時頃まで字を書きつらね、そ れからフィルモア・ストリートにあった喫茶店まで散歩した。アメリカには珍しいヨーロッパふうの店だった。エスプレッソを飲み、ゴルワズを吸いながら、四 六時中、寝もしないでマルクシズムについて語り合っているように見えた客がいつも集まっていた。文学といわずとも、文章を書こうとしていたぼくたちはそこ にいくと、なんとなく、ぼくらの仕事にもなんらかの意義がある、という気持になれた。

ぼくはできあがった原稿を、日本語を母語とする妻に見てもらった。すると完璧な日本語で書いてあったはずの原稿が真っ赤になって返ってくるのだった。たま に赤でなおされていない原稿用紙が二、三枚戻ってくると、ぼくは飛び上がるほど嬉しかった。

ぼくは日本語との付き合いはほどほどにしたいと思ってきた。書きつづけたいと思ってきたからだ。書きすぎて飽きたり、あるいは人に理解してもらえないと感 じて傷ついたり、あるいは文法にこだわりすぎて挫折したりしたくないと、いまでも思っている。ファナティックになれば、必ず挫折するから。

それでも、時にはノイローゼ気味になったり、被害妄想の症状を呈したりしないわけではない。あんな文章、外人に書けるはずがない、あれは女房に書かせてい るに決まってると、方々で囁かれているような妄想に駆られて、ぼくはこれまでに書いた原稿は大事に取っておいてきた。グジャグジャに直されても、ズタズタ にきられても、容赦なく無慈悲に批判されても、打ちひしがれても、ぼくは執拗かつ英雄的に自分で書きつづけてきたのだと、必要な時に証明できるように。

とにかく日本語で書きつづけたいと思ってきた。書きつづけることできれば、意義がある、とぼくは確信しているからだろう。

他人のことばでものを書くという営為は、その他人と競争することではない。「お前は日本人になりたいから日本語でものを書いている」といってぼくを責めた のはぼく自身の母親だったが、それはちがう。反対だ。日本人に化けないで、書きつづける方法と理由づけをぼくは求めてきた。単純にいえば、異質な他人同士 の間にコミュニケーションは成り立ちうると、具体的な行動をもって立証したいと思っているのである。

毎年、スピーチ・コンテストが増えているような感じがする。昔から英語のスピーチ・コンテストはあったが、今度は日本語によるスピーチ・コンテストもでき た。世界中から若者が集まってきて日本語で競争し、審査委員に審査される。結構な話である。しかし、人が決めた時間に、人に審査されて日本語を使うのは、 ぼくが日本語でものを書いてきた目的からすれば、およそ無意味に近い。

他人の言語で文章を書くことは、試験を受けることではない。人を人から隔てている、深い傷口を癒すことである。自分と相手の間の距離を確認しつつ、それで もなお、あえて関係を作り、維持していく作業である。



詩三篇

結婚披露宴  エリザベス・クライン 藤本和子訳


わたしが最初に出席した婚礼は実物大の模型だった。
花嫁はちいさな部屋にいれられて
招待客たちにことこまかに吟味されていた。
歯の本数をかぞえられ
髪にウェーヴをつけるために使うローラーの
寸法も厳密にきめられた。
伯父のひとりがつねってみて、彼女は本物とたしかめた。
彼女が泣きだしたとき
その涙はガラス
そこへ花婿が到着。
ずいぶん背が高かったから、シルクハット
は天井をかすったが、気のちがった彼の弟、
かなり気のちがった弟はつの笛吹いて、客の
注意をひき、兄が花嫁をすくいだせるように
たくらんだ。
シャンデリアのようにちんちん鳴る花嫁を、肩
にかついだ彼はホールへ、前の晩には
楽団が沖仲士たちのためにマズルカを奏でていたホールへ。
床はまだふるえていた。
赤いふかふかの通路、紅海さながら
さっと開いて道をあけた新類縁者たちは、
たがいにひそひそ耳うちしていたが
そこへ花嫁がきどった様子でもどってきた
妻になって、わずかばかり股をひろげて。
とても幼かったわたしは
パンについていたピメントを
チェリーでかざったケーキと思いこんだ。わたしの口は期待したが
またたく間に失望した。
それでもわたしは赤いふかふかの通路に出て、
従兄たちと踊り、
片目をつぶって見せては、下品な冗談をいう客たちをながめ、
花嫁が年をとってゆくのと
料理という料理が大広間へ消えてゆくのを眺めていた。

最後の火星人  エリザベス・クライン 藤本和子訳
こどもたちの会話の中にひろった詩


彼女、人生はまぼろしと想像するようになったばかり
まだ地上にいて現実を学んでいる
     弟にいった。
「あたしたち宇宙をただよいつつ
     いまのこうしているさまを空想しているだけで
実際にはここにはいないとしたら?」
「ぼくはここにいる、とわかっているんだ」
「どうして、わかるのよ」
「自分でつねってみたら、痛かったもんな」
「痛いと空想したってこともありうるわよ」
「そんなことない。つねってやろうか。
痛いぞ」
「わかっていないのね。あたしたちのこの会話だって
あんたの空想かもしれないのよ。あたしはここにいないのかも」
「ぼくと話しているじゃないか。つねってやるよ。そしたら、わかるから」
「あんたはね本当は火星にいるのかもしれない――最後の火星人でさ――
              たったいまのことも全部空想でさ」
「最後の火星人?」
「もうほかの者たちは死にたえたの」
「最後の火星人!」 あたりいちめん
赤い空、
赤い大気もうすい。たったひとりで
最後の火星人は地球のことをじっと考えこんでいる。


エリザベス・クラインは作家、詩人。ニューヨーク出身だが、イリノイ州シャンペン市に住むようになってから二十年。イリノイ作家協会の会長をつとめたこと もある。

The Wedding Party
The Last Martian
Copyright (c) 1980 by Elizabeth Kline
Japanese Translation by kazuko Fujimoto
through arrangement with the author.


汽車  ヘレン・ディーゲン・コーエン 
藤本和子訳



とても小さなこどもだったころ、わたしはたのしい詩をつくった。

      汽車がくるよう! 汽車がくるよう!

がルフランで。

        こどもたちが走ってるよう! 汽車がくるよう!

ポーランド語で、そのことについて書いた長い詩だった。つまり汽車について。なにをそんなに興奮していたのか思いだせない。汽車のことだっ たが。だから、どうだっていうのか。わたしがこどものころ、それらはパーティやレモネードのようにひゅーひゅーと通りすぎていったのだろう。

       汽車がくるよう! 汽車がくるよう!

それにわたしはそういう類のこどもだったのだ。そうでなかったら、汽車のことで詩なんか書くものか。わたしはほんとに一生懸命で、ありとあ らゆる美しい光線の中へはいりたがっていた。一日がもつちから、日のひかりを思ってみればいい! そしてその中で、わたし自身がまわる、まわる。
さらにまわる。

     汽車がくるよう! 汽車がくるよう!

するとわたしが八つのとき、汽車がやってきてわたしたちを積みこむと、ブーヘンヴァルトへ運んでいった。四つの黒い腹をして、それは待って いたが。だがこどもたちはどこにいた? こどもたちはどうしたのだ? わたしの母はわたしにコップをひとつくれて、いっておしまいよ、もどってきちゃいけ ないよ、といった。井戸に水を呑みにいきなさい、とでもいうように。父と母をあとにして立ち去ったことを、そのほかにもまだまだいろんなものをあとにして 立ち去ったことを思いだす。

     汽車がくるよう! 汽車がくるよう!


ポーランド生れのヘレン・ディーガン・コーエンは八歳のとき、ブーヘンヴァルトの強制収容所に向う汽車からとびおりて、生きのびた。

The Trains
Copyright (c) By Helen Degen Cohen
Japanese translation rights by
Kazuko Fujimoto through arrangement
with the author.


十三のとき、帽子だけ持って家を出たMの話  藤本和子


私の祖母たちは記憶に
あふれ
石けんとたまねぎと
濡れた粘土のにおいがする
すばやく動く手には
でこぼこに血管が走っているが
彼女らは多くの高潔な言葉を口にすることができる
   (「血すじ」 マーガレット・ウォーカー)


その朝はミセスGの家を掃除することになっていた。毎週金曜日ときまっているのだから。このひとの家を掃除するようになってから十五年になるだろうか。そ の間に、このひとは夫をなくした。ある美しい七月の夕方、ミスターGはテニスをやっていて、コートの反対側から飛んでくるボールを打とうと前へ走ったが、 そのときガクッと躓くように見えた。彼はそのままそこに倒れ、人が駆けよってみると気を失っていた。救急車を呼んだが、病院に担ぎこまれたときには、もう 息がなかったという。

ミセスGは最近母親も亡くした。九十三歳だったが、このひとは九十二歳になるまでは自分の食事を作っていた。わたしは彼女が住んでいた家でも、掃除や洗濯 をした。洗濯といえば、数年前のことだが、シーツというシーツがびりびりに破けてしまうほど古くなって傷んでいるのに、ミセスGの母親は一向に新しいもの を買わないので、娘にそのことをいってやった。娘は母親はもう自分は先長くないと考えているから、新しい物を買わないことにしているらしいと答えて、デ パートから新しいのを買ってきて、母親にあたえた。思えば、あのひとは、ずいぶん長いこと、もう自分は先が長くはないのだから、と覚悟しながら生きていた わけだ。

ミセスGには三人の息子がいる。長男Dは日本人のKと結婚した。もうかれこれ二十年になるが、その日本人の妻というのがまあ賑やかなひとで、何を仕事にし ているのか、何度きいてみてもよくわからないが、何をやっているのだろうか。よくここへもやってくるが、もし勤め人ならそんなに始終休めはしないだろうか ら、あまり何もしていないのと違うだろうか。でもときどき「本を書いているところだ」なんていう。そうそう、その本を書く準備とかで、もう八年ほど前のこ とになるが、わたしの話を聞きたい、聞かせてもらえないだろうか、となんだかいやに改まってたずねられたことがあった。
「なぜよ?」とわたしは訊ねた。
「アメリカの黒人女性の実際の生活のことを知りたいの。いろいろな女性に話をきかせたもらって、それを書きとめて、できたら日本語の本にしてまとめようか と思って」
「全然かまわない。話してあげるわよ」

するとその場にいあわせたミセスGまで、もしKの頼みをきいてもらえるなら、時間もそんなにないことだろうから、その翌週の掃除は中止にして、その時間ふ たりで坐って話したらいい、といった。

で、わたしとしては、それでも一向に構わないと答えたのだ。前から、わたしもこのふたりには、わたしの住んでる界隈でおこる事件なんかについて、いろいろ 話してやってきたから、もっと詳しく話を聞きたいというのも納得できないわけではなかったし。本は日本語で書くというのだから、できあがってもわたしには 読めないが、そう、わたしは話が日本人に参考になるなら喜んで話すといったのだ。わたしの住んでいる界隈でおこる事件には、強盗事件や傷害事件や殺人事件 などが多いのだが、きっとそのことをもっと詳しく聞かせてくれというんだろうと想像していた。わたしが知っている犯罪事件のことを話してやることで、日本 の若者たちが犯罪者にならないですむのに役だつなら、と思ったから。

ところがよくきいてみると、彼女が聞きたいのはわたしのこれまでの人生についてだ、というのだ。わたしは、「ああそう、それでも構わない」と答えたのだっ た。ところが、会って話をしてやることになっていたその日の前日、わたしが住んでいる近所でひとりの若い娘がピストルで撃たれて死ぬ、という事件があった もので、わたしはその葬式に参列することになるから、話をするにしても、午前十一時頃までしかできないけど、といわなければならなかった。

それで翌日は朝いちばんにミセスGの家へ行き、色々話したのだが、結局わたしの人生について半分くらいしか話さないうちに、もう十一時十五分前になってし まった。Kはすると、なんかひどく気を使ういいかたで、その死んだ娘Yの葬儀に外部者が参加することは、ずいぶんと失敬なことになるだろうか、見ず知らず の者が参列することは許されるものだろうかと、おずおず訊ねるから、全然構わない、誰が行ったっていい、行きたければ一緒に連れて行こうというと、ほんと に礼を失することにはならないのだね、と念をおす。全然問題ない、一緒に行こうといってやると、でも今回ここへは葬式にでる予定なんかなく来たのだから、 きちんとした服装で行けるかどうか心配だとまだグズグズいっていた。今朝洗った白いブラウスはそれでいいとしても、紺とか黒のスカートがない、困った、白 いスカートでも構わないだろうかとしきりに悩むのだ。そんなに心配することはない、このごろじゃ昔と違って、黒人の葬式もずいぶん磊落になっている、昔は いろいろきまりもあったけど、今じゃそういうことを気にしない人たちがすっかり多くなった、ジーンズでくる若者だっているくらいだ、それでも誰も非難はし ないほどだ、ともかく裸でなければ構わない、といってやると、ようやく安心したようで、それでは、つれて行ってください、とふたたび改まったようにいうの だった。

あれはなんとも悲しいおとむらいだった。殺されたYという娘はまだ二十歳になったばかりだったが、恋人の男に拳銃で胸を撃たれて死んだ。恋人の男には妻も 子もいた。Yはこの男のことでひどく思いつめて、「あんたが妻と早速別れないのなら、あたしはあんたの奥さんのところへ行って、あんたとあたしの関係をば らしてやる」といったという話だ。男はなんともまあ厄介なことになったとうんざりして、Yを始末してしまう決心をした。あるバーの前で待ちぶせしていて、 Yが出てきたときに撃ったという話だ。

わたしとしては遺族の当惑が気の毒だった。若い娘が自分の父親ほどの年齢の男と関係を結んでいたという事実に、遺族は当惑しているだろうと想像がついた。 遺族はわたしの夫の親戚だから、顔をあわせるのを避けたかった。いうべき言葉もみつからないのだから。

葬儀の当日はひどく蒸し暑かった。教会ではいくつもいくつも悲しい歌がうたわれた。Yの伯母をはじめとして、ずいぶん何人もの女たちが気を失ってたおれ たっけ。救急車が何台もきて。一緒につれていったKはすっかり参ってしまったようで、あんなに暑い日だったのに震えたりして、顔も青ざめていた。そしてそ のおとむらいのあったときから三年もすぎた頃、あのお葬式のことを書いたのといって、一冊の本を見せてくれた。何しろそれは日本語の本だったので、どうい うことが書いてあるか見当もつかなかったが、その本の表紙の写真の女性は、以前この町に住んでいたEで、EはミセスGと同じ職場で働いていたことがあっ た。おそらくその職場では、彼女が唯一の黒人だったのだろう。その当時、Eは髪をアフロにしていたっけ。そのひとも夫に一方的に離婚したいと言いたてられ たという噂を聞いたが、いまはどこにいるのだろうか。子供が二人いたけれど、子供たちはどうしているだろうか。

さてその日は金曜日で、午前中はミセスGの家の掃除をすることになっていた、といって話はじめたのだから、そのことに戻ろう。

いつものように行くことは行ったが、その日はわたしは孫娘をシカゴまで車で送っていくことになっていたので、午前中の仕事はどうしようかと迷っていたの だ。まあ、なるべき早くきりあげて行くことにしようか、それとも……。とにかく行ってはみた。行ってみるとミセスGがいうのだった。

「DとKの友達が四人、日本から来て泊まっているのよ。毎晩おそくまで起きていて愉快そうではあるけれど、まだ起きていなくてね。皆まだ時差ぼけからも すっかり回復していないらしいように見えるから、わたしとしては寝かしておいてやりたいのだけれど、どうしますかね」
いうまでもないことだが、わたしはわたしの方もきょうは掃除は中止ということになると、かえってつごうがよいと伝えて、早速立ちさろうとしたところへ、ミ セスGはこういった。
「それはそうと、ずっと以前からKがあなたに連れて行ってもらった葬式のことを書いたことがあるでしょう? アメリカの黒人女性のことをいろいろ書いてい た本に? それでね、その日本人の友達というのは皆その話を読んだり聞いたりしたことのある人たちなのよ。もっともその中のひとりは十五歳だから、きっと 読んではいないと思うけれど。とにかく三人は読んでるわけ。Kはお葬式の話の中にあなたのことをすこし書いてるから、あなたのこと、三人は少しは知ってる のね。で、わたしが思うのは、その三人はきっとあなたに会いたいだろうということなの。本で読んだ人物に直接会えたら、きっと嬉しいでしょう。わたしがK の部屋へ入って起こしてもらって、皆でちょっとだけでも会ってみたらと思ってね」

そのくらいの時間ならあると判断して、わたしはミセスGのあとから皆が寝ている二階へ行った。ミセスGがKを起こしている間、わたしはその寝室の外でまっ ていたが、ほんの一分後にミセスGは出てきて、「Kは起こしたらか」というのだった。で言われたように、その寝室へ入っていくと、ぼんやりした顔のKが ベッドに背を丸めて腰かけていて、「ああ、Mさん、おはよう」というのだった。それから彼女も姑の言うとおり、日本からきている三人はわたしのことを知っ ているから、会わせたいという希望をのべた。まだ半分は眠っているようで、口もよくまわらない。このひととその家族がここへくることは割にしょっちゅある のだが、それとわたしがここで働く日とかち合うと、だいたいこのひとは寝坊していたり、起きぬけのような、だらっとした感じでふらふらしていることが多い のだ。小さな子供が二人いて、子供たちは早くから起きていて、ワーワー駈けまわっては騒いだり、あんぐりと口をあけてテレビを観ていたりする。夫のDは ジョギングが好きとかで、だいたい朝のその時間にはいない。八時ごろのこと。なぜまた彼はわざわざハーハーと息をはずませて、トマトのような赤い顔になっ てまで走りたいのだろうか。もっと他にすることはないのだろうか。好きこのんで自分を苦しめているように見えるが、いったいどういう訳だろうか。もっとも ここ数年来、心身ともに健康に暮らすには、規則的に運動するのがよい、と医者たちも新聞や雑誌なんかで盛んに説いているのだから、きっとそういう流行に のっているのだろう。それにしても、あんなにハーハーして、トマトのような赤い顔になるまでやる必要があるのだろうか。わたしにはとても無理しているよう に見えるし、そのようなきつい無理がはたして彼を心身ともに健康にしうるものだろうか。わたしなんかは朝早くに家族の面倒をみて、それから白人家族の家の 掃除を二軒ぐらいやって、午後おそく帰ってくれば、また夕食の支度で、それが終っても、何やらかやらあって、寝るのは二時ぐらいになることだってある。つ いこの間も、夜の一時に懐中電灯の明かりで、庭に作っているインゲンを摘んだ。そういうわたしもやはりあんなに真っ赤な顔をして、台所あたりまで走ったほ うが、心身の健康のためによろしい、ということはありうるのだろうか。ところで、何の話だっけ。そうそう、わたしのことを読み知っているという三人の日本 人に会うことになった発端を説明しようとしていたのだった。

Kはよろよろとベッドから立ちあがって、昔のこの家の次男の寝室だった部屋へいった。そして扉の外から何かいってもどってきた。二分もすると、シャワーを 浴びたのだろうか、髪がびっしょりと濡れていて、木綿の縞柄の長い部屋着とも寝間着とも見えるものを着た日本人の女性がKの部屋へやってきた。そのひとも Kのベッドに浅く腰かけた。Kが彼女をわたしに紹介して親しい友達だといった。それからわたしを彼女に紹介して、これがあのMさんといった。そのときには 既にわたしもKの腰かけているベッドの向かい側のもう一つのベッドに腰かけていた。

Kがたずねる。「Mさん、この夏もやっぱりミシシッピーの家族の集まりにいった?」
「行ったのよ」
わたしはミシシッピー州のニュー・オルバニーで生まれた。そこにはまだ両親の住んでいた家がそのままある。その家でわたしは十三歳まで育った。毎年、七月 ごろ、その両親の家へわたしの兄弟と妹たちが家族をつれて集まる。各地から皆車でやってくる。わたしの場合もそうだが、去年は一台の車に合計十一人乗って いったのだとKに話してやったことがある。そのとき十一人もどうやって一緒に乗れたのか、彼女も想像つかないようだったが、ともかく十一人でいったのだ。 具体的にどうやって乗っていったか、そんなこといちいち憶えてはいない。前に何人、後ろに何人とか、こまかいことは憶えていない。乗せようと思えば乗せら れる、としか説明のしようがない。ここウィスコンシン州のラシーヌの町からミシシッピー州のニュー・オルバニーまではおよそ千三百キロだが、交替で運転す るから、どこにも泊まらずに行く。
「今年は何人集まったの? Eの出身地での家族・親戚の集まりには五百人も集まったって」とKがいう。
「わたしの所では、今年は九十人」
「それでその人たち全員、ご両親の家に泊まったの?」

まさかそんなことできるはずはない。両親の家は三間しかない小さなものだもの。だから親戚の家、知りあいの家、モテルなどに分宿したが、それでも全員が一 堂に会するのは両親の家で、そこでそろって食事をした。女たちは我も我もと小さな台所に入って、押しあいへしあい、料理を作った。

そう話すとKも、その女友達もすっかり感心したような顔でじっと聴いている。女友達は素直そうに、わたしがいうことに、いちいち頷いている。目をまるくし て。そんなにこの話がおもしろいなら、ミシシッピーの黒人の村の昔の話をしてやろう。

「あんたたちね、今ではその村も大分変わってしまったけれど、わたしがそこで育ったころは、ほんとに誰もが助けあって暮らしていてね。年寄りたちもとても 尊敬され、大事にされていたのよ。ミスター・ジャクソンという人は百歳になるまで生きたけれど、家族は皆彼を残して早く死んでしまって、彼はひとりになっ た。それでも八十ぐらいまでは、自分のことはできたのだけど、八十すぎると体の自由もきかなくなってしまった。そうするといろんな人が世話をするように なった。食べる物が十分にあるわけではなかったけれど、それを分けてね。わたしの家からミスター・ジャクソンの家までは六キロあったけど、毎日誰かが食事 をとどけてね。そんな話は特別じゃなかったのよ。誰でもがすすんでやってたことなのに、近頃ではもう若いひとたちは老人を大切にしなくなっている。暮らし は当時にくらべればずっと楽になっているのに、人は自分のことしか考えなくなってきてるのよね」

そうわたしがいうと、またKの女友達はさかんに頷くのだった。わたしが一息ついたところで、彼女はKに○○○○と日本語でいって、部屋を出ていった。一分 もすると今度は男をひとり連れてもどってきた。そのひとは寝間着姿ではなく、Tシャツに半ズボン姿だが、髪の毛が全部逆立って、黄色になっているところも ある。わざわざ黄色に染めているのだろうか。まあ、それはどうでもいいのだが、Kがいうには、そのひとは音楽をやる人物で、三週間ほど前には、東京でコン サートをやって、そのとき実はKが乳房に銃弾を撃ちこまれて死んだあの娘Yの葬式のことを書いた話を朗読させてもらったというのだった。そして音楽家だと いうこの男が音楽をつくって、演奏したらしい。さらにこの音楽をやる人物は、Kのその女友達の夫だという。名前はきいたが、どうも思いだせない。
「この人は天才なんて言われているのよ」とKはその音楽家のことをいったが、すると音楽家の妻が笑った。音楽家は安楽椅子に腰をおろした。

「あのYがああいう死にかたをしてからこっち、Yのような死にかたをした娘たちが五人もいるのよ」
いやに真剣なおももちの三人に、わたしはそう話してやった。この人たちはわたしの話にずいぶんと興味を示すなと思い、Kがわたしのことをどんなふうに書い たのだろうか、と想像をめぐらしてみるのだが、Kは黒人の女たちから話をきいて書いた最初の本には、わたしのことはあの葬式のことに関連して少し書いただ けなので、わたしが話してやったわたし自身の生い立ちについては全然まだ書いてないといっていた。まだ書いてないということは、いつかは書くという意味だ ろうか。ちゃんと記録はとってあるのだろうか。

いずれにせよ、わたしが八年前にKに話したことというのは、おおよそ次のようなことなのだ。Yの葬式にでかける前の数週間に話したことは。


わたしは一九三一年、ミシシッピーのニュー・オルバニーで生まれた。家は農家だった。父は小作人だった。農園主から土地と種子と肥料を借りうけ、収穫物で その代償を払う小作人だった。

わたしたち一家は朝は四時に起きた。そして騾馬に餌をやり、牛に餌をやってから、風呂を浴びて寝た。寝るころには十時になっていた。

そこまで話すと、Kは「そして翌朝はまた四時に起きたのね」とたずねた。わたしはクスクス笑いながら、そうだと答えた。

そう。起きて、騾馬に餌をやり、牛にも餌をやって、牛乳を集めにくるトラックに牛乳を積んで。

わたしの両親もミシシッピーで生まれた。祖父母もそうだったが、わたしが生れたときには、もう死んでいなかったから、わたしは彼らを知らない。

わたしは兄弟姉妹、あわせて十七人。死んでもうこの世にいないのはたった一人。男の兄弟が九人、妹が八人。最初に生まれた娘はわたしだったわけ。わたしの 上には兄が二人。

母は十五歳で結婚した。去年まで生きていたが、去年の夏とうとう死んでしまった。心臓が悪くて。ずっと病気だったし。

Kはあのとき、農業をしていた当時の暮らしはつらかったのだろうかと訊ねた。
わたしは「あのね、どんな暮らしをしていたにしろ、よい暮らしだと自分にいいきかせて暮らすことになっていたのよ」と答えた。

日曜日にも朝は早くおきて教会へ行ったものだ。今みたいに自動車なんかなかった。騾馬がいただけ。騾馬を二頭引いてきて、それを荷車につないで。朝早くか ら教会へでかけていって、一日中いたものだ。父はいつも言っていたっけ。
「神はわれわれに六日くれた。週の六日は何をしてもよろしい、と。だが最後の七日目は神につかえる日としてとっておくようにと言ったのだ。その最後の一日 だけは、神から盗みとってはならない、とな」
だからわたしたちは日曜日には教会ですごして、祈り、親しい友人と会う。そして良い会話をする。人生のすばらしい側面について、じっくり考えてみるのだ。 そう、わたしたちはバプティスト。

あそこでは、どんな暮らしをしていようと良い暮らしをしている、と人々は考えていた。今日では、人々は「まさか。よくもそんなことがいえるね、ずいぶん酷 い暮らしをしていたんじゃないか。騾馬なんか使って何もかもやってたんだろうが?」などというが、当時は良い暮らしだと考えられていたのだった。だって、 手に入る物を使いこなして暮らすしかないのだから、良い暮らしだと考えられていたわけだ。今のように、あれを盗み、これを盗みしていたような生活とは違 う。働いて物を手にいれたのだ。誰も彼も奴隷のように働いて、日曜日になれば、神に感謝して。

Kは食べ物は十分あっただろうか、ともたずねた。
「そうねえ、必ずしもいつも十分あるというわけじゃなかったけどね、ある物だけで足らすようにしたのよ」わたしはそう答えたと思う。

食べ物が足りないとき、台所の母は挽き割りトウモロコシの入った鍋をじいっと見つめていたものだ。家庭菜園にはエンドウ豆や玉葱やトウモロコシがあっ て……。肉がまったくないこともあったが、野菜だって食料品なのだから。母はいっていた。
「神さまがくださった物を食べるんだよ。生きていられることを感謝しなくちゃいけない。神さまがくださった物で満足しなければ」

八年前、その母のことをKに話した当時は、まだ母は小学校の給食室で働いていた。給食をつくっていた。その当時彼女は六十八か七だった。父も生きていた が、血圧がたかくて、かなり具合がわるかった。

その二年前、母は医者が見放すほど酷い病気になた。
ある日のこと、母は医者のところへいったが、容体はとても悪くて、医者の前に出ても、顔を上げることさえできないほどだった。でも母は医者にいった。
「お医者さん、あんたはわたしが死ぬと思ってますね。でもあんたは神さまとわたしが一緒に決めたことについては知らないでしょうが? わたしたちの家 じゃ、野菜を植えなくちゃならないんですよ。わたしは家へ帰って野菜を植えますからね」
そういって彼女は家に帰って寝たが、ほぼ一月もすぎたころ、椅子を一脚、家の外の運びだして、それに腰かけてキャベツを植えた。そう、キャベツを植えたの だった。そして彼女はそれから十年も生きのびた。毎晩その日一日を与えられたことを神に感謝して、またもう一日くださいと祈りつつ。次の日もまた、その一 日のことを感謝して、ふたたび、どうかもう一日くださいと祈って。

そのようにして暮らすようにという教えを、自分の母親から受けたと、わたしの母はいっていた。祖母は母が十三歳くらいのときにこの世を去ってしまったが、 生きている間にはいつも母に、「五セントの金さえなくったって、イエスがおられれば、暮らしはすばらしい」といっていたというのだ。

そんなふうにして、わたしの先祖たちはずっとミシシッピーで暮らしてきたのだが、わたしの世代になると、誰もがミシシッピーを去った。わたしの兄弟と妹た ち、すべてが。でも妹のうち一人はミシシッピーに戻っていった。Kにわたしの生いたちを話してやったときから一月ほど前のことだったが、彼女は両親の家か らずっと離れたところに立っていた古い、古い教会の建物を買って、それを父の地所まで引っぱってきたのだ。そして夫と一緒にいろいろ修繕して、いまではと ても良い家になった。まるで新しく建てたような家に。

一軒の家をどうやって引っぱってきたかって? まずばらしておいて、少しずつ運んだのかって?
ちがう、ちがう。おんぼろのトラックで行って、家をずるずると滑らすような感じで荷台に載せて、引っぱってきたのだ、ほんとに。

さて、どのようにして、わたしはミシシッピーの家を出たか?

まあ、いろいろ言いはしても……やっぱり畑仕事はつらくて……太陽がカンカン照りつけるほどの日などは……空を見上げれば、陽はまるで真っ赤なボールとか 輪のように見えてね。ある日のこと、わたしは騾馬を使って作物を植えていた。「わたしは、神さま、あなたを愛しています、雲の中におられる神さま」と歌い ながらね。

神はきっとわたしを助けてくれる、とわたしには分かっていたの。「神さま、わたしはこんなにガラガラ蛇の多い畑で作物を植えるのは、ほんとにつらいです」 と繰り返し繰り返し祈ってね。ある日のこと、わたしはうっかりガラガラ蛇の巣を叩いてしまった。

ガラガラ蛇が人間を襲うありさまと言ったら! そいつはわたしに跳びかかろうとしたが、あわや、十センチの差で、わたしは難をのがれたのだ。
「ああ、神さま、あなたがわたしの命を助けて下さったのですね! わたしはもうこの土地を出ていかなければなりません!」わたしはそういった。

父に家族の全員を養うことはできないことは、わたしにもよく分かっていた。子供たちは皆父に言われて働いてはいたけれど。そう、ここの畑、あそこの畑と、 いくつも耕して。父はそれを全部耕したかった。でもそれらの畑の中には、そこへ歩いていくだけで一時間半もかかるのもあったのだ。父はとびとびの畑から畑 へと歩きまわっては、子供たちがちゃんとやってるかどうか、調べていた。

ガラガラ蛇のことがあったその夜、わたしは鍬で畑をたがやすように言われていた。父は気分が悪いといって、すでに寝床にはいっていた。わたしは思った。
「そう、今晩がチャンスだ! 今晩こそは!」

わたしはそっと家を出て、ある町まで歩き、そこからニューオーリンズヘ行った。ヒッチハイクでニューオーリンズまで。ニューオーリーンズにたどり着いたの は朝の六時ごろ。家を出たのは夕方の五時だった。

もちろん誰にも告げずに。親たちに言ったら、首ねっこを捕まえられて、怒られていただろう。アハハハハハ。十三歳のときのこと。で、そんなふにしてヒッチ ハイクして、ニューオーリンズには朝早く着いて。ニューオーリンズといえば、フリー・メイソンの大きな支部がある町だったから、わたしはそこへ向った。助 けてくれるかもしれないと考えて。でもまだ早すぎて、建物はあいてなかったから、その前で歌っていたの。「神さま、どうかお慈悲を」って。するとそこへ一 人の白人の婦人が近づいてきてね、わたしにこう訊ねたの。
「わたしの幼い息子の世話をしてくれるような若い娘を探しているのだけれど、そういう場合には、どこへ行って訊ねたら紹介してもらえるか、知らない?」
「知りません」とわたしが答えるのもまたず、彼女は説明した。
「わたしは夫と離婚することになったの。わたしは医者で、わたしの所にきて住みこんで、息子の世話をしてくれる娘を探したいの。安心して世話を頼めるよう なひとを。週に十八ドル払って、食事つきで、衣類もわたしが買うつもりなんだけどね」

わたしの事情なんかまるで知らないのに、そんなよい条件の話を口にしたわけ。わりとお金持ちだったのね。で、わたしは「いいですとも。わたしが働いてあげ ますよ」といったの。アハハハハハ。ね、神の力がどう示されてるか、わかるでしょうが?
「ここでこんなに朝早く、あんたは何をしてるわけ?」とその女医はわたしに訊ねた。わたしは一セントも持ってなかった。
「ああ、わたしですか。わたしはただぶらぶらしてるだけですよ。いますぐにあなたの家へ来てくれというのなら、このまま行ったっていいんですよ」といって ね。

荷物は、って?
手ぶらだった。
着替えも持ってなかったのかって?
家にいたときだって、着るものといえば、穀物をいれる袋の生地で作った木綿のワンピースが一枚きりしかなかった。それを来て学校へ行き、畑にも出た。 ニューオーリンズの町の朝、そのときわたしが着ていたのも、その一張羅のワンピース。あとは帽子をひとつ持って家を出てきた。

だからといって、それはそんなに突拍子もない話ではなかった。今とは違っていたのだから。当時は着替えの衣類を持っている者なんかいなかったのだ。わたし はその一着のワンピースを着て畑で働いて、夜家に帰ってから洗った。そして椅子の背にかけて乾かす。洗濯物を干すための網さえなかったから。そういう暮ら しをしていても、神の恵みをうけている、と考えていた。
「おまえがこの世にうまれてきたのは誰のせいでもないんだよ。おまえはおまえの行動に責任をもたなくてはならない」わたしの母はいつもそう言っていた。

ともかく。このようにフリー・メイソンの建物の前で、あの朝早くこの白人の女医に会って、その場で雇われることになったのだ。彼女はもともとはニューヨー クの育ちの人で、息子がひとりいた。でもその当時はつらい思いをしていた。離婚することになって、彼女は家をもらい息子の養育権ももらったけれど、それで も女の身ではつらかった。だって、女は危機に見舞われるとつらい思いをするものだから。それに彼女は毎日仕事にでなければならなかった。歯医者だった。

そういういきさつで、わたしは彼女の家で働くことにはなった。でも、ニューオーリンズの町の様子については全然知らなかった。ある朝のこと、早く家をでな ければならなかった彼女が、「息子を公園に連れていってちょうだいね。そこでポップコーンを買って、ふたりで一緒に食べなさいね」といった。
楽しいだろう、とわたしは喜んでね。ポップコーンは大好きだったし。

バスでいくことになっていた。ところが、待っていたバスがきたので、前から乗っていくと、運転手がこういったのよ。
「おい、おまえ、赤ん坊は前のほうに坐らせろ、おまえは後ろの席に坐れ!」

わたしは勿論、「とんでもないわ。赤ん坊だけを前に坐らせろなんて、無茶はいわないでよ。あたしがちゃんと傍についていなければ、この子は窓から落ち る!」といってやったわ。
「グズグズいうな。赤ん坊だけ置いて、後ろへいけ」
「いやよ!」
そう言いのこして、わたしは赤ん坊を抱いてバスを降りてしまった。家へもどって女主人に電話して、ひどい目にあった、と報告した。
「運転手はね、坊やだけ前に坐らせて、お前は後ろに坐れといったんですよ!」
「まあ! ちょっとそこで待ってなさい。すぐ家に帰るから」

彼女は家に帰ってきて、そんなことを言ったのはどの運転手かと訊ねた。問題の運転手に会いにいくと、彼は黒人は前に坐れない、後ろの席ときまっている、と いうのだった。
すると、女主人はツカツカと運転手に近づくと言った。
「あたしの息子には前に坐れ、そしてこの娘には後ろへ行けなんてことは言ってもらいたくないわね、子供が窓から落ちたらどうする気よ、一体全体気でも狂っ てるの!」

でもそのことがあってから後は、その子を連れて公園へ行くときには、わたしは歩いて行った。遠かったか、って?
そうでもなかった。
暑くはなかったか、って?
暑いことは暑かったけど、道には並木があって日蔭になっていたから。

女主人には、歩いて行ってるんですよ、とは打ち明けなかったけど、やがてばれてね。でもずっと歩いて行った。ニューオーリンズでもまだ当時は市民権のこと は進んでなくて。変えよう、という動きは少しはあったけど、変化はあまりにも遅々としていた。

八年前、Kにここまで話すと、彼女はちょっと時間がもどるけど、といって、わたしが子供だったころの教育についてたずねた。

ミシシッピーでは子供のころ八年間学校へいった。でも教育はずいぶんのんびりしたもので、おおかた教師たちは人間関係のことばかり教えていた。たとえば、 机の上にコカコーラの瓶を置いておいて、生徒の一人に、そこへ行って瓶を取りなさい、という。そこでもしわたしが瓶を全部取ったりすれば、先生はそんなに 全部とってしまったら他のひとたちの分は何も残らないじゃないかと非難してね。自分のことしか考えられないようじゃ駄目だと。

でも読み書きなども習ったことは習った。わたしが二年生のときの担任はわたしの父の姉で、わたしにはいつも必ずいちばん難しい言葉の綴りを言ってごらんと 要求してね。「エンサイクロピーディア。e-n-c-y-c-l-o-p-e-d-i-a」と、わたしは答えたものよ。でも、一字でも間違えると、鞭で 打ったの。わたしの体にはまだそのときの傷跡が残っている。傷はいつかは墓に入るわたしについて来ることになるわ。ハハハハハ。彼女は「お前は人間だ、愚 かではない、だから責任を果たせ」といってね、森へいって細いしなやかな小枝を探してきては、それで打った。痛かった。でも、そういうことも必要。

その話をじっと聴いていたKは「Mさんも、自分の子供を鞭で打つの?」と小さな声でたずねた。
「いいえ、わたし自身のことでいえばね、子供に体罰を与えることはいいとは思わない。何かよくないことをしたら、部屋の掃除をしなさい、というようなこと で罰するのよ。子供が嫌がることを選んで、やりなさいというの」とわたしは答えた。

当時、学校の生徒は皆黒人で、教師たちもそうだった。小さい頃は近くの学校へいったが、すこし大きくなると、十二キロの道を歩いて通うことになった。そ う、片道十二キロ。朝は八時に学校の授業がはじまった。

学校から帰ったら、もちろん畑で働いた。さつまいもを掘ったり、インゲン豆やバター豆を摘んだり。遊んでいると父がやってきて、これこれをやりおえたら、 遊んでもいいから、といったけれど、いつもきまって、言われた仕事をやりおえたときには既に日が暮れていたの。

畑の仕事をさせられるようになるのは四歳か五歳のとき。だって責任があったのだから。遊んではいられなかった。綿の実を摘むことのできる者は鍬で穴をほっ て綿の種だって蒔けるはずだ、というような考えでね。そりゃ疲れてはいたけれど、そんなこと言ってはいられなかった。そうよ。自分が疲れてるからといっ て、それで世界が止まってくれるわけじゃない。そう。

すでに説明したように、わたしはひとりでニューオーリンズへ行ってしまった。そしてオルバニーの家族は誰もわたしの居場所を知らなかった。家を 出てから二年して、わたしは親たちに手紙を書いた。親たちからは「一体どうしたんだい? ずっとほんとに心配したんだよ!」という返事がきた。

家を出た理由をもう少し説明すれば、じつはいちばん上の兄が軍隊にとられてしまったあと、わたしはその分の仕事もずいぶんしなければならなくなって、それ があんまり苦しかった、ということもあったのだ。ああ、兄が軍隊に入った日のことは、いまここで思い返しても悲しい。涙がとまらない。あのときはつらかっ た。兄だって、それまでは、たったの一晩だって余所に泊まったことはなかったのに、皆と別れていくわけだから、あの日はほんとに悲しい日だった。そしてそ の兄がいなくなってしまうと、弟は「こんどは姉さんが鋤を動かせ」といってね。でもわたしには動かせない。使いかたもわからない。ほんとにずいぶんつら かった、とてもつらかった。兄は畑仕事のことも良く知っていた。その彼がいなくなったから、わたしが彼のやっていたことをやるより仕方がなくなってね。鋤 まで使わなくてはならなくなったのよ。鋤を騾馬に引かせて、その後から行く。肩から紐をかけて、後ろから騾馬を操って。でもわたしには鋤を騾馬につなぐ方 法も、自分の体につなぐ方法もわからなかった。ああ、あれはつらかった、ほんとにつらかった。

そこまで話すと、Kは「そのときMさんはまだ十三歳だったのね」といった。
そう、十三歳だった。ようやくのことで、父がやってきて、鋤をつないでくれた。ああ、あれは悲しかった。思い返すだけで、悲しい。

その兄はね、召集されたその兄はね、いろんなズルするのが上手でね。畑で雨にあって服がずぶぬれになると、家へ帰っても、もう洗濯したと嘘をついてそのま ま乾したり。あるときなど、綿の種を蒔けといわれて、わたしと一緒にいったのだけれど、兄は「いい考えがあるぞ、種はいい加減に、そこらに適当にばら蒔い ておきゃいいんだ」といった。二エーカーの畑に。そうすれば家に帰って野球ができる、というのだった。でも彼はいい加減にばら蒔いておいた種もやがては芽 が出る、ということを忘れていた。案の定、綿がそこここに、点々とかたまって生えてきてしまった。あのときは、ほんとにこっぴどく鞭で打たれたっけ。

ニューオーリンズで暮らしていることを家族に知らせたのは、家出してから二年もたってからだったと、さっきも話したけれど、居所を知らせた後に は、生計の足しにでもしてもらおうと、ずっと仕送りをして。ずいぶん長い間、週に一度送金することを続けたの。弟や妹たちに少しは楽をしてもらおうと思っ て。

しばらくして、家に帰れることになった。といっても、一晩泊まりだったけど。帰ると皆とても喜んで。伯母たちもやってきて、「ほんとにずいぶん元気そうだ ね」とすっかり感心していたっけ。体重もすこし増えていたし。そのときはバスで帰った。もうずいぶん貯金もあったから。

その歯医者の家で働いていたときには、息子の世話の責任を持たされていたから、料理はしなくてもよかった。料理は別のメイドが通ってきて作ったから、わた しは食器を洗っただけ。

あるときわたしとその子供は公園で子供の父親に会ってね。靴屋を経営しているひとだった。わたしは自分がどういう者で何をしているか、彼に話した。それか らとても夜学にいきたいのだが、学校に入るには難しすぎて駄目のようだ、とも話した。彼は学校に電話してみようと、いった。わたしは「昨夜わたしも電話し たのですが、駄目といわれました」と答えたが、その夜彼はやっぱり電話して、「学校は入れてくれるといってるから」とわたしに知らせくれた。「明日の六時 に行けばいい」
 そして授業料も払ってくれてね。わたしはタイプを習い、スペリングを習い、算数を習った。合計六ヵ月くらい通った。六時から九時まで。その後は病院でボ ランティアの仕事をするようになった。週に二、三度。そこは慈善病棟と呼ばれていてね。政府がいくらかお金を出してはいたんだけれど、あとはすべてボラン ティアの奉仕にたよって運営されていた。わたしはちょっとした手術なんかで、しょっちゅうそこの世話になっていてね。行きさえしたら、治療してくれた。だ からできるときには、ボランティアとして手伝いにいって、自分が世話になったお返しをしてたわけ。

わたしは十五歳になっていた。
わたしは結婚することになった。
夫とはどこで知り合ったか、って?
ルイジアナの、その町ニューオーリンズでよ。ある日わたしは一軒の店を探していたのだけれど、どうしても道がわからない。そこで一人の男の姿を見かけたの で訊ねると教えてくれた。そして彼は、「ところできみは誰だい?」とたずねて。わたしが話すと、「僕といつかデートしないか?」って。それがきっかけで、 彼とデートするようになって結婚した。

歯医者の家は出ることになった。彼女は「いつでも帰りたくなったら戻ってきなさいよ」といってね。「一緒に暮らしていて、あたしも楽しかった。何か必要な 物があったり、困ったことがあったら、すぐに電話しなさいよ」と。

わたしはフロリダへ移った。夫の家族のいたモンティセロへ。そこで五年ほど暮らして、その後は故郷のミシシッピーに戻った。夫の家族だって必死で生計をた てようとしているのに苦労が多く、思うにまかせない生活をしていたのだから、気の毒になってしまって。舅は一生タバコ栽培をしてきた人だったけど、健康を ずいぶん害していた。

ミシシッピーには一月ほど住んだ。どこかへ行こうかと考えながら。独立して生きたかったから。誰の負担にもならずに。それでこのラシーヌへきたわけ。兄が すでにここに住んでいて、「お前もここへ来さえしたら、病院で仕事が見つかるさ」といってね。「行ってみて仕事が見つからなかったら、どうしてくれる?」 というと、「とにかく来なさい」そこでラシーヌへやってきて、すぐ病院へ行ってみると、そこの人たちはわたしのことを怪訝そうにジロジロみていたけど、応 募用紙に記入すると、係の女性がいった。
「じゃあ、明日から働いてもらいます。白い靴だけ買ってきなさい。制服はこっちから支給しますからね。朝は八時にきなさい」

病院では調理場で働いた。八時から三時半まで。わたしは十七歳だった。
Kは病院で働いていてつらいことはあったかとたずねた。「そうでもなかった」とわたしは答えた。こっちがきちんとしていれば、相手も悪いことはしない。で も嫌なことは一度あった。

あるとき、冷蔵庫に入れておいた鶏の脚がなくなっている、と騒いだ女がいた。黒人だから、わたしが盗んだのだろうといって。結局掃除をしたひとが鶏の脚を 冷蔵庫の反対側に移動した、ということが分かった。でもその女はすごく腹をたてて、真っ青になっていたっけ。

わたしは小さな古家を買った。それだけしか買えなかったから。
そうこうするうちに夫が除隊になって、ラシーヌへきた。
子供が生まれはじめたのは、それからのこと。それまで妊娠しなかったのは運がよかったのよ、きっと。そのころは十八歳になっていた。貯金もたまっていた。

子供が生まれるまでの話はそんなところ。病院をやめてからは普通の家庭の掃除や洗濯などをするのを仕事にしてきた。二十一歳ごろからこっちは。

わたしはいろいろな家へでかけて行って働くのは好きだ。畑で草取りすることなどに比べたら、比較にならないほど楽だし、仕事をしに行く先は立派な家。 ちょっと汚れていたって、掃除すれば綺麗になるし、誰にもヤイヤイいわれず、ひとりでできる仕事。自分の生活に苦しいこと、困難なことがあると、わたしは 働きながらゴスペル・ソングを大きな声で歌う。誰もいない留守の家を掃除しているときには、どんな大声で歌ったって文句はいわれない。留守でない場合で も、歌ってもいっこうに文句をいわない家もあるし。自分のペースで働いて、一日が終るころ辺りを見まわせば、すっかり綺麗になって、ああ、これは自分が働 いた結果だ、と誇りに思うことができる。

クリーニング屋が洗ったカーテンをそれぞれの家庭にいって取りつける仕事もやったっけ。
家事の仕事が好きなのは、ニューオーリンズの雇い主だったあの女医に、家事のやりかたをよく教わったからだと思う。彼女は「あんなも結婚したら、知ってな いと困るからね、毎日毎日やらなくてはならないことだから」といって、洗濯、アイロンかけ、裁縫、掃除、料理など教えてくれてね。それが役にたった。その 家で働くようになるまでは、洗濯機や皿洗い機や電気アイロンなど見たこともなかったもの。故郷では皿は流しで洗っていたし、だいいちアイロンは電気ではな く、薪で火をおこして、その中にアイロンをいれて熱くして使ったのだから。

いまは家事といったって、ほんとに楽になった。わたしは余った時間をいろいろなことに使う。最近は陶芸やガラス細工を習っている。好きなことは何でもでき る。わたしは自分の仕事が好きなのだ。

たしかに、これまでには様々なことがあった。わたしは糖尿病だといわれているし、神経痛もある。夫はずっと勤めていた鉄工所をやめた。会社が潰れたから首 になったのだ。ところが社長は雇っていた者たちの失業保険も、退職金も積み立てていなかった事実が明るみにでて、結局そこで働いていた者たちは首になって も一セントも貰えないでいる始末。

長女が妊娠してしまったときはつらかった。十五歳で、結婚していないまま妊娠して。生まれた女の子はわたしが育ててきた。彼女にはその力はなかったから。 独りだちできるまでは、と。

長男は志願して軍隊に入ってしまった。兄が軍隊に入った日の悲しみが忘れられなかったから、息子にも、どうかやめてくれと頼んだのに、彼は自分の人生だ、 自分のしたいようにしなければならない、もう赤ん坊じゃない、大人になったんだよ、母さん、といってね。

つらいことは、いろいろ。
先月のことだが、弟が頭を拳銃で撃たれた。弟は酒場というか、レストランのようなものをやっているのだが、ある日店を閉めて、外に駐めてあった自分のト ラックに乗ろうとしているところへ、物陰に隠れていた男が出てきて、「金を出せ」といった。弟はすでにその日の売り上げは向かいの銀行の夜間集金箱に入れ てあったので、お金はなかった。家にいる子供たちのために牛乳とクッキーを持って帰ろうとしていたので、あったのはそれだけだった。
「金はない」と答えると、男は「嘘だ、有り金全部だせ」といった。
「ほんとに金はない。銀行に持っていってしまったから」
「嘘をつけ」
そして男は弟の頭を狙って撃った。

弟は助かるかもしれない。でも、もう右の耳は聞えなくなった。永久に聞えなくなってしまった。
弟は、金を出せといわれたとき、ズボンのポケットから財布をだして、あった小銭を全部渡したのだという。それを振ってみせたのに、強盗は撃った。午前一時 ごろのことだった。弟はまだ入院している。

そしてつい三週間前のこと、インディアナに住んでいる妹の息子が自殺してしまった。警官だったが、仕事の緊張から神経をやられた、という話だった。そのお 葬式にも行ったし。

絶え間なく、人が傷つけられたり、殺されたりする。
わたしもいつかは死ぬ。

ここのミセスGの孫娘が今朝わたしがやってきたときに訊ねた。
「ねえ、Mさん、Mさんはずっとわたしのお祖母さんの家に来てくれるの? あたしが大きくなったときも、ずっと来てくれる?」
「あんた、わたしかあんたのおばあさんか、どっちかが死ぬまではきっと来ることになるだろうと思うよ」
「ふうん」孫娘はそういったかと思うと駈けていってしまった。いつものように風のように廊下を走り去った。龍巻のように階段を駈けあがっていった。

さあ、そろそろ話もおしまい。

ともかくわたしが八年前にKに話したのは、だいたいこんなことだったが、ここで話をそもそもの発端にもどせば、その金曜日はミセスGのところの 掃除は中止になって、泊まっていた日本人の客ふたりをまじえて、Kとまたすこし話した、ということなのだ。

ところで、遠来の客は大人三人、子供一人と聞かされていたので、もう一人はどうしてしまったのか、とKになずねると、もう一人というのは詩や小説を書く女 性ということで、やはりYの葬式の話は知っているということだったが、その朝は起きてこられなかった。その前日湖の浜で蜂にさされて、そのあとすっかり赤 くなってはれあがり、聖ルカ病院の救急室へいったそうだ。そしてそこで呑めと言われた薬のせいで、その朝はひどく眠気がして、起きることもままならないと いう話だった。

ミセスGとその人たちと別れて、わたしは孫を車に乗せて、娘のところまで送りとどけた。あれから二週間たつ。Kのお客たちは無事に帰ったのだろうか。蜂に 刺されたひとは大丈夫だったろうか。


アメリカ  高橋悠治・八巻美恵



入国審査。
「日本でのお仕事は?」
「会社員です」(と言わなければ、観光ビザをくれなかったんだ)
「何の会社?」
「広告とか、あの――」
「滞在予定日数」
「10日」
「そこにいくらもってる?」
「さあ、50ドルほど」
「どうぞ、こちらへ」と別室で待つうちに、全員の審査が済む。
「さて、お仕事は?」
「ピアニスト」
「それで何でイリノイ州シャンペンなんかに行くのかね? ナイトクラブに出演するとか? ともだちの家にとまる? 日本人 ?じゃ、その人はここで何して る? 電話は? もしもし」(と、シャンペンにかけ)「グッドマン夫人? もしかしたらお客を待ってるんじゃない? その人の名は? 職業は? ふむふ む。ではその人に替ります」(とパスポートにスタンプを押して)「シャンペンについたら、よろしくね」
「え?」
「ぼくの故郷だ」

シカゴのオヘア空港のビルの中をはしってから(パスポートにスタンプを押してもらったときには次の飛行機の時間がもはやせまっていたのだ)、ジャンボ機か らみるとまるでカトンボみたいな双発プロペラ機にのりこんで、約一時間。やっとやっとシャンペン空港についた。うちを出てほとんど一日たっている。ちいさ な空港にはグッドマンさんちの全員の顔があった。なつかしい四人の顔を見て、おもわず、ああ遠かったあ、と叫んでしまう。駐車場にはピカピカの自動車があ る。彼ら四人とわれわれ四人、計八人が乗れる車。
「すごいじゃない?」
「そうよ。あなたたちが来るというから昨日買ったのよ」
これまで手紙の宛名としてしか実態をもたなかった住所に、ついに来てしまった。

家は昨日買った風ではなかった。裏庭にブランコがあり、玄関のポーチにはゆり椅子がなかった。こどもたちは、「ゲゲゲの鬼太郎」のビデオなど見ていた。日 が沈んだ。それは金曜の夕方で、男たちにはちいさな帽子が配られ、頭を覆って、グッドマン一家のうたうシャバスの祈りで、夕食がはじまった。次の朝、ハヤ は早起きして、デイヴィッドを待っていた。いっしょに10キロ走って帰ってくる。それは、この朝だけだった。「人とは走らない」というのが、デイヴィッド の原則で、実行まで盛り上がり、その後は急速になしくずし、というのがハヤのリズムで、その二つは幸福な一致をしたのだった。

土曜日の朝市をのぞいたあと、集会に参加する。そのヒロシマ・ナガサキ記念集会でデイヴィッドは峠三吉の詩を朗読した。「八月六日」は英語できくとまた新 鮮な感じ。ちいさな集会だが、音楽があり、市長や化学者や運動をしている人などの短い話があり、詩の朗読があり、死者への献花や参加者の署名まであって、 それらすべてが一時間で終るのだ。集会の密度と時間の関係はこのようであるべきだな。

午後は和子さんの買物にくっついて行く。韓国人がやっているアジア食品の店はとても豊富な品ぞろえだった、韓国、中国、タイ、日本などのものが常備されて いる。生鮮食品もかなりな部分をしめている。豆腐、大根、ニラ、キムチなどを買って、夜は韓国料理。焼肉、チゲ、ナムルなど。「カイ、きょうは焼肉だよ、 どこの料理かな?」という母親の問に、韓国から来た彼は胸をはって「チャイニーズ!」と答えるのだった。

十二年ぶりのアメリカで、期待していたことのひとつに本屋があった。日本にはない本、二週間で棚から姿を消す本が、アメリカの大学生協の本屋や、ニュー ヨークの何軒かの本屋にはいつもならべてある、と思っていた。そこで、ここでも本屋を二軒、時間をかけてしらべて、たくさんの本を買ったのだが、たしかに 時代が変わり、知らない著者と、知らない題名に当惑し、ついでにこちらの本への興味も変わったことを確認する。
結局、買った本のうちで、ざっと読んだのがユダヤ音楽史とショーナ族のンビラ音楽についての本、読みかけているのがパーヴェルの「カフカ伝」、アクショー ノフの長編はたぶん読まないだろう、という具合。

外で食事すると、一人前の量のすごさになによりもおどろかされる。朝食べたシャンペンのパンケーキハウスのパンケーキは、デイヴィッドに聞かされていたと おり、まさに「洗面器」のよう。カスタード・クリームのうえに、たっぷりのレモン・ジュースとクリームをかけて食べる。甘ったるくなく、おいしんだけど ね、大きさを見たとたん、降参! という気分におちいる。とか言いつつ四分の三は食べたかな。ラシーヌのステーキハウスのステーキも期待どおり、お皿から はみださんばかりの巨大さ。用心(?)してスープは飲まずに、牛肉にいどむ。やわらかくておいしいので、すごいねえとかいいつつ、これも四分の三、いや五 分の四くらいは食べて、デイヴィッドにほめられた。つけあわせの大きなベイクド・ポテトもおいしかったけど、さすがに味をみる程度しかたべられなかったな あ。

シャンペンからラシーヌに行く途中、シカゴのギリシャ料理屋で昼食をとる。うすぐらい室内、海の青のテーブルクロス、ギリシャなまり(なのだろう)の英語 がとびかうなかで、昼から松やにの味のするワインをのんでしまう。さまざまな前菜がおいしくて、それとパンがあればこころから満足のギリシャ気分。

ラシーヌに着いた日にはデイヴィッドの母上がミシガン湖産鱒のくんせいをごしそうしてくださった。全長五〇センチぐらいあったかな、それを丸ごと浅いくん せいにしてある。身はほろりとやわらかい。どうしても「アメリカの鱒釣り」というのを思い出してしまう。

デイヴィッドは、ウィスコンシン州ラシーヌという小さな町を熱烈に愛している。ほら、これがぼくの高校、これがおばあさんの住んでいた家、これがだれかが 引っ越す前の家、ここに住んでいたクラスメイトは自殺しちゃったけど、あ、これが動物園、と町中が思い出でできている。そして、ウィスコンシン州が如何に 寛容で知的であり、気候もよく、ステイトフェアに出品されるブタでさえ、イリノイのぶたより品格においてすぐれているなどと、さんざんきかされて、さて、 この有名なステイトフェアに一同くりだすことになった、いや、なっていたのだった。

一家族がステーキにして一年間食べ続けられるほどのウシや、大理石のテーブルほどもあるブタが、それぞれ付け人とともに寝泊まりしている広大な宮殿をす ぎ、三輪車ほどもある七面鳥や、色彩ゆたかなニワトリ、羽根布団のような無愛想なウサギ、それらを見にきている野球帽をかぶった巨人たちは、たしかに圧倒 的だった。こどもたちは遊園地で、自転しつつ公転する乗物に振り回されて、ごきげんだった。バーベキューの店では、ポーランドの辻音楽師さながらのポル カ・バンドにあわせて、何組もが踊っていた。バンドも踊っているカップルも、すべて老人だった。造花よりも猛々しく、箱庭療法を思い出させる生花展の入口 に、野球帽をかぶった上院議員が立っていて、観客の一人ひとりに握手しながら、適当なあいさつをつぶやくのだった。

ラシーヌの市役所の傍には、デイヴィッドの「おとうさんの木」がある。枝が横にひろがらずに上へ上へのびるすらりとした、まだ幼い楓の木。ラシーヌの町興 しにちからをそそぎ、志なかばにして亡くなったアーノルド・グッドマン氏の記念樹なのだ。木の根元のおとうさんの名前が彫られた石は夏の日差しのなか、の びた芝生になかば覆われてしまっていた。

こんなにミシガン湖の水があたたかいなんてめずらしいよ、という日に幸運にも遭遇し、湖の水につかる。白い砂浜。打ち寄せる波。はるばるとした水平線。海 との違いは水が塩辛くないことだけ。湖岸で矢川澄子さんは左手の薬指をちいさなハチに刺された。翌日になっても腫れがひかないので、これも記念にと救急病 院に行って「心配なし」の診断をもらう。矢川さんは手首にまいた患者用の名前を記入したテープを、まるで大切なブレスレットでもあるかのように、しばらく はめたままにしていた。

デイヴィッドの家の書斎。地下室で、洗濯機や暖房装置と同居して。日本の反ユダヤ主義文書のコレクションが、棚の中央を占める。そのほか、ホロコーストに ついての文献、日本の原爆文学など。いくら専門とは言え、このようなものを地下室で読みふけるのは、何とも暗い光景だ。
大学の研究室もせまい。そこのちいさい本棚に必要最小限と思われる本が、いくらか乱雑につまっているのを見て、このように研究分野を明確にできるのはなか なかないことだ、と思った。研究者の在りかたが、アメリカではちがうのかもしれない。だが、本の選択にもはっきりあらわれているような関心のもちかたは、 理解されることのすくないものにちがいない。

この旅行は、もともとひとりで行くはずだった。アメリカに行こうよという誘いにのるとはおもってなかったから。ポイントは「アメリカ」にあったというわけ ではないんだね、きっと。

しごとでない旅行は最近はほとんどしてなかった。もともと、知らないものを見たいとか、行ったことのないところに行きたい、とは思わないほうだから。人と 会うことや、人の話をきく興味はある。シャンペンやラシーヌは、わざわざ見にいく「アメリカ」ではないだろうけど、それがアメリカで、そのなかで、しずか にすごせればよかったんじゃないかな。それは、しずかな時間をもつためには、地球を半周することだけのことはあった、ということか。それから一月でもう、 何をしたか忘れかけているけど、したことより、しなかったことが、よかったんだろう。

帰ってきたら、ジョン・ゾーンがニューヨークからやってきた。夏はシャンペンにあそびに行ったよ、と言うと、「だめだめ、シャンペンであそびはできない よ、ムリだよ」と、ものすごいいきおいで言われちゃったものね。友だちに会いに行ったんだ、と行っても彼は納得しないのね、全然。

矢川さんは、どこへでも行くし、どんな場所でも居心地わるそうでなく居られるし、何でも食べてみるし、アメリカの蜂にも刺されたし、そういうことがだれも 気がつかないほど自然に起こっているのを見ていて、もとからの旅の人という感じだった。

一度だけ撮った全員の記念写真をあらためて見ると、やはり不思議な感じがしない? どんな偶然とどんな必然がかさなってこういう「全員集合」の次第になっ たのかと。

ラシーヌで、子どもたちは置いて、ステーキハウスに行ったでしょう。車は黒人の住居区を通ったり、跳ね橋の上を通ったり、「おとうさんの木」も見たりし て、かなり回り道をして目的のステーキハウスに到着した。中に入ると人々があふれんばかりだったので、ちょっと驚いた。街を車で走っても、あんまり人は歩 いていたりしないから、こんなふうに人がたくさん集まっている風景が想像しにくかったのでしょう。

Dのように「走る人」はいても、歩く人はすくない。まして、道に人が立っていたりしようものなら、何となくみがまえてしまう。道の存在感がうすくて、人が たまってふくれあがったこぶみたいな点と点を糸でつないだようなものが街のイメージになっていく。高速なんかは、どこまでもまっすぐで、窓から見える畑や 木立や遠い街のビルがビデオのセットのように見える。昔クルマで走りぬけたロサンゼルスの街並が書割りみたいにうすっぺらで、通ったあとは撮影済みになっ てかたずけられるんじゃないか、という気がしていたのを思い出すね。道路を一本通すだけで、風景もつくりものになってしまうんだ。

こういうところでくらすのは、日本みたいに「何となく」ではできないような気がする。DとKのは、生活するというよりは、生活を日々つくりあげていく感じ だものね。わざわざ日本文学みたいな、日本人だってなしで済ましているようなものの研究者になった上に、その仕事だって、家族の一人ひとりが選ばれて乗船 しているノアの方舟みたいな生活のほんの一部にすぎないんだから、その家の窓から見る現代の世界はまったく砂漠でしかないだろうな。「水牛通信」がなく なったら、どうしたらいいか、とうことが、だんだん他人ごとではなくなってくるよ。






詩三篇  木島始



 みょうなつきあいうた

とぶノミおいかける
ねぼすけじっちゃん
あんごうだらけな
てがみにむちゅう


よむことできない
わからんしるしめ
えなのかもんじか
すましこんでら


ぐちぐいのみこんで
こまらせばっちゃん
ぼつりとひとこと
へんじがうまいさ


あおぞらちぎって
ほうりなげあい
わらわれっぱなしで
ながいきづきあい

 めちきおっことしうた


ふいにわたしは、をぬきとられてから
こういきようとき たので
ことばなにひとつだ にしないよう
おもいをこ てひととむかいあい
あきら ることをや たのだった


がうんわるく、をぬすまれっ まい
なにをやってもか がわからず
それでなんともかともら があかず
いえにかえるみ さえわすれ
ひとにきくにもこのく があけられぬ
でそのままささや、ごえに をうばわれ
さ ゆ のわからんよう さで
くりかえしす だす だといいたく
だれにもあいてにされんと でさえ
すて なて にはあいたがってるのさ

 つまりそのう……


てがみだしたいなら
きってはるのがきまり


しゃわーあびたいなら
はだかになるのがきまり


くるまのりたいなら
だれにもぶっつけないきまり


こまりたくないんなら
きまりまもるのがきまり


こわしちまいたいのは
どうもきまりわるいきまり


きまりはまりみたいに
とんでかないきまり


きまりかえるのには
がんがんがんばるのがきまり


にゅーす商売  渾大防三恵


ジョージ・ケナンのベトナム問題をめぐる上院の聴聞会での証言より、アイ・ラブ・ルーシーの再放送のほうが価値がある、と判断することには、 まだなにがしかの政治的な考慮があったのだろう。フレッド・フレンドリーが怒りと恥ずかしさで〔やむをえぬ事情により……〕とウソをついてでも放送をス トップさせたいと身をよじっていたとしても。

エド・マローが失意のうちにCBSを去ったときには、対立が存在することがだれの目にもあきらかだったにちがいない。

しかし、いま問題は政治でなく、商売だ。テレビ・ジャーナリズムでは内容より装いを争う事態になった。よりそれらしく、ひとをひきつけるにはどうするのが いちばんいいか、と。

ニュースがてっとり早くお金になるとは、なんてわるい時代なんだろう、あのテレビで。テレビはせめて、よほどすることのないときのひまつぶし、おばかさん のおもちゃ箱でいてくれたらよかったのにと、いま、しきりにそう思っている。

新聞が時代遅れの事大主義でもたもたしているうちに、いまや、テレビがニュースの時代のにない手になりつつあるそうだ。このばあい時代とは、げんみつに、 たったいま、ということだから、昨日とかあしたは関係ない。

ニュースとは、つくりものでない、ということを意味しているらしく、ようするにドラマでもクイズでもうたでもないということか。いずれにせよ、周到に準備 して、つくる側の意図のとおりにひとに見てもらう、といった類の番組はテレビにふさわしくない、ということになったのだろう。もちろん、ほんとは、準備し た、みせたいものしか見せていないのだけれど。

アメリカのテレビ・ジャーナリズムの内幕を描いた『ニュース・キャスターズ』という本がある。著者はロン・パワーズ。シカゴ・トリビューンだかの記者、と いう以外のことは知らない数年前に出たこの本がどんな評価をうけたのかも、知らない。

正統派を自認する新聞記者が、テレビのにない手たち、つまりキャスターという名の記者とタレントの中間的存在のひとびとの仕事と、かれらをうごかしている 力についていろいろしらべて、テレビ・ジャーナリズムの性格をさぐってみた。そして、ニュース・コンサルタントという得体のしれぬ一群の役割に注目した。 ハルバースタムの有名な大著より、この地味めな本のほうが、いろんな意味でおもしろかった。

この秋、テレビ界はニュース戦争とかで大騒ぎだが、アメリカでも十年か十五年くらい前からそんな事態になっていたらしい。クイズやどたばたや芸能ショーが 中心で、ニュースはしかたなしに、というわけではないが、ま、どっちかといえば羽振りがいいとはいえない存在。日本の民放のように、報道は見栄でやってる んだ、だって全然やらんわけにはいかないからね、というほど露骨ではなかったのだろうが。

いろんなことがあって(!)、にわかにニュースに陽があたる。そしてテレビはあたりまえだけれど、とにかく目にみえるものをあつかう。できればそれも、ひ と目みてわかるものがいいし、こみいった説明がいるものはなるべくなら避けたい。きまぐれな視聴者の興味をつなげる時間は、おそろしく短くて、ひとつの項 目にはせいぜい四十五秒。九十秒もつかえばミニ・ドキュメンタリーと呼べる。(日本語のばあい、一分でもせいぜい四百字分しか喋れないそう)

そしてなによりも、それらしく見える、ということ。
キャスターという役割がひどくたいせつになるわけだ。
記者経験、取材力、知識と判断力はいらない、とはだれもいいはしないけれど、どんなに見識があってもしゃべり方がまずければ、それでおしまい。見ためが感 じわるければ、ひとたまりもない。

このだれでも知っている理屈を、テレビをつくるひとたちがはっきり意識的、組織的に追究して、視聴率競争にのりだしたとき、登場したのが、ニュース・コン サルタントだった。かれらは、ニュースの内容にたちいらないし、思想やら政治的対立のことにも直接ふれるわけでもない。ひたすら、どう見せるか、どうした らより長い時間、ひとびとの関心をひきつけていられるか、を考えるだけだ。
専門的技術者として。

テレビは忘れやすい。記憶をもたぬことが、秘訣。けれどかれらがけっしてわすれてはならないことがある――たいていの視聴者は学歴は低いしつまらない単純 労働についている、飛行機に乗ったこともない、ニューヨーク・タイムスも読まない、そもそもどんなものでも読みはしないのだ。

というわけだ。視聴者像はこういうこと。だから、たとえばいま市政でなにが問題になっているかより、凶悪犯がたてこもった現場からの中継のほうが、圧倒的 に「ひとびとに訴える」、あとでそれが誤報だったとわかったとしても。ものものしく取り囲んだ警官隊、大騒ぎの野次馬、興奮してしゃべりまくるリポーター という道具立てで臨場感たっぷりだ。これこそまさに、テレビならでは。

アメリカと日本でずいぶん状況がちがうのだろうけれど、本質的にはかわりはないのではないか。ニュース・コンサルタントという独立した仕事こそないが、た とえば広告代理店が、売れる売れないを判断することで、自動的にニュースを、あるいはニュースのとらえ方をきめていってしまう。

新聞、というか活字の世界でなら大問題になる編集権という考えは、どうやらみあたらないようだ。みんなでやってるうちに、だれのものでもなくなるというこ とだろうか。

あるいは、映像の時代にとりのこされるのではないか、という恐怖感からか、活字メディアがばかに自信をうしなっている結果だろうか。

センセーショナリズムをあおっている、となじられたニュース・コンサルタントは、こうこたえる。ばかばかしい、われわれがいましていることと、ワシント ン・ポストが部数拡大のためにとってきた策と、どこが違う? 新聞だけが正義のにない手で、ほかのやつらはただ金儲けのためにやってるんだ、というのはか れらの勝手な幻想だぞ。かれらのやってきたことこそ〔ショービジネス〕と言えんかね。

もののはずみで、一時的に首をつっこんでいるテレビ界周辺で、かぎりなく憂鬱になった。パワーズがアメリカのテレビ界にみたものはそっくりそのまま、いま 目のまえにある。

〔リアル・タイム〕(ほんとにこんな言葉があるんだろうか)でなまの〔情報〕を追う、他局と〔差別化〕(!)するためには〔ターゲット〕をしぼりこまなけ ればならない、などと白昼公然といわれるのを聞いているうちに気持は沈んでいくばかり。
いまごろそんなことを言ってるほうが、おかしいか。

マクルーハンはのぞいたこともないのだけれど、このさいだから、すこし読んでみようかな。なにか参考になることが書いてないかしらん。それよりもだれか が、ジャーナリズムとしての日本のテレビの歴史について書いてくれないかなあ。よくある有名ディレクターとかの自慢話とかでなく。

ともあれ興味ある方はぜひパワーズをのぞいてみてください。サブタイトルは〔ショービジネスとしてのニュービジネス〕といいます。



K・Fへの手紙  矢川澄子
(妊娠中絶は文化たりうるか・仮稿)



ここ半年ほど、一冊のぶあつい翻訳本が座右にずっと置きっぱなしになっていて、なにしろ五〇〇ページもあるいささか思わせぶりなその厚みを、こちらはたえ ず視界の一端に意識しながらそのままにしてきました。

座右というより、正確にいえば仕事机の右奥あたり。そこはこのデスクのうえでもいわば辺境です。明窓浄机にあこがれつつも、この机の上はいつも理想にはほ ど遠く、蔵われたらさいご二度と顧みられなくなることを惧れるかのようなこまごましたメモやノートや幾冊かの本、文具、時としてはアクセサリの類までが、 はた目には雑然と、しかし持主にだけは明解な秩序にもとづいてひしめきあっています。

中央のスペースだけはそれでもさすがに確保してあって、そこでは翻訳だの雑文だの、そのときどきの目のまえの締切仕事がいっときわが世の春を謳歌しては、 やがて文字通りにかたづけられて影をひそめてゆきます。

明け渡された領分に、代って何がのさばり出すかは、もっぱら次の締切の如何にかかっているわけで、周辺でまちかまえていた雑多なモノたちのどれかが気まぐ れにひょっこり採りあげられることもあれば、まるでお門違いの新参の紙たちが麗々しくくりひろげられることもあり、その意味ではこの一冊など、いったいい つになったらお呼びがかかるものやら、本自身なかばあきらめかけていたのかもしれません。

じっさい、こんなに長逗留していた本もめずらしいのです。

いったい買手自身は読みたいのか読みたくないのか。ともかく発行後二年も店頭に居眠りしていたその本を、突然恋人にでもめぐりあったようにいそいそと大枚 六千円を投じてわが手に拉致してきて、書庫にも追いやらずにそのまま後宮にひきとめている以上、いつかはお声がかりの光栄に浴することも夢ではない――?

などと、他人事のような口ききはもういいかげんにして、買手自身の立場をそろそろはっきりさせておかなくてはなりません。

正直いって、この本が存在していてくれたという、そのことだけでわたしにはよかったのかもしれません。『文化としての妊娠中絶』という、この書名にめぐり あっただけで、わたしには、もう十分だったのです。そしてこの、おそらくは人類史上初の画期的な「語られざる世界史」が、一九七〇年後半になってようやく イギリスで日の目をみたことを、訳者のあとがきがその他によって知っただけでも。

それにしてもやはり、遅かりしの感をいちおうは否みきれません。

こうした問題を取扱った書物がどこかにあってよいはずだとは、長年思いつづけてきたことでした。でもなかった。全くといってよいほど、なかったのです。少 なくとも二昔まえ、一九六〇年代末頃、いまよりはよほどこの問題に囚われ、したがっていまよりはよほど書店に足をはこぶことも多かったわたしの目にたやす く触れられるようなかたちでは。

訳者のひとりである根岸悦子氏自身、この本に出会ったときの「心臓の搏動」をいまでもわすれられない、とあとがきに記しています。はじめて大人たちの「お ろす」という会話を耳にしてこのかた、「女性にとって、人間にとって、中絶とは」という大命題にとらわれつづけてきたという根岸さんのような産婦人科の専 門医にとっても、八〇年代はじめにアメリカでこの一冊に出会うまでは、納得のゆく研究論文のひとつ日本ではついに見出されなかった、とのことなのですか ら。

なぜそれほどまでにもこの方面の研究が手つかずのままなのか。どうやらそれは、この話題自体がいまだにタブーである、とうことらしいのです。

「五十年前、西洋ではマスタベーションがタブーでした。三十年前、避妊を公然と語るのはタブーでした。現在、マスタベーションは、しぜんで健全な行為です し、避妊・家族計画は多くの国々の国家的政策でさえあります。しかし“中絶”については、現実にはたしている役割を直視するより前に、人々は口を閉ざしま す。」(もうひとりの訳者・池上千寿子氏のあとがきから)

タブー――
とうとうこのことばが出てきてしまいました。

自分の年来こだわりつづけてきたことがひとつの社会的タブーに関わるであろうことぐらい、わたし自身、もちろん自覚していなかったわけではありません。そ れにしても、おかしなものです。タブーって、いったい何なのでしょう。

池上氏によれば、タブーとは自己検閲であり、思考停止を意味します。そして――
「若者たちがこの大研究に注いだエネルギーは、タブーへの挑戦というエネルギーだと思います。」

序論によれば、原著者たちの専門は「発生学、婦人科学、社会学、家族計画」とのことです。事実、彼らが全巻にわたって蒐集、呈示してくれている世界各国の 史実や統計や数字や、分析や予見の周到さにはただただ感謝するばかりですけれど、それらすべてを以てしてもなお、こぼれおちるものがあるのを、わたしたち はどうすればよいのでしょう。

「わたしたちは直接間接に、中絶を求める女性たちの話をききました。彼女たちの苦痛、不安、驚き、怒りなどは、統計や社会的調査ではみすごされがちで す。」(序論より)

その見落されがちな女たちの声をすこしでも抄いあげるために、著者たちはここでは七つの具体的な実例をあげていますけれど、このあたり、一筋縄ではいかな いこの問題のむずかしさを物語ってじつに示唆的だとは思いませんか。

皮肉なことに、日本語版の訳者たちが二人とも女性であるのにひきかえ、イギリスの原著者たちはマルコム・ポップ、ピーター・ディゴリイ、ジョン・ピールと いう、名前から推しはかっていずれも男性であり、つまり、まちがっても自身その彼女らの一員であったことはないのですね。みすごされがちなのは、いつも、 きまって「彼女たちの声」であるという、この矛盾をいったいどう解決するか。古来、人為的中絶は社会経済的進歩の本質的要素であることがこの本でも果然立 証されたわけですし、とすれば「文化としての」(!)妊娠中絶は社会全体、両性共通の課題にほかならないはずなのに、なぜかここで驚き怒り、苦痛と不安に 苛まれなければならないのはつねにその半数の成員にのみ限られ、共同体自体は泣きも呻きもしなかった……

序論のなかの次のようなコメントも、わたしにとってはおなじような意味でやはり見のがすことのできないものでした。

「人為的中絶は、(中略)心身ともに正常な女性が、手術という社会的行為をうける“患者”になるという点でもユニークです。」

健康な人間がその健康さゆえに、“患者”になりすますというこの滑稽かつ悲惨な事態。文化生活の維持もしくは向上のために家族計画を云々する男たちが、も し一度でもこのユニークな事態を身みずから味わう破目に追込まれていたとすれば――

とはいえこうした感慨だって、つまるところ「真空吸引」も「月経誘発」も未知の単語であったわたしたちの世代までの、ささいな感慨にすぎないのかもしれま せんけれどね。

積読のままみたいなことをいって、けっこう勉強してるじゃないかといわれそうですけれど、じつは真空吸引も月経誘発も、わたしとしては覚えたてのほやほ や。打明けていえばここ二日二晩がかりでようやくこの本を読了したばかりなのです。

そう、とうとうその時がやってきたのです。いまようやく、持主にとってこの本を安んじて書庫に納めてもよい時が。

あなたのおかげで、といったらおどろかれるかもしれないけれど、そのきっかけを作ってくださったのは、ほかでもない、あなたなのですよ。なぜかってこの 夏、わたしはたまたまあなたのもう十年もまえにお書きになったある文章を読ませていただいたから。「ヨゼフの娘たち」というその美しい文章のなかで、書き 手であるあなたは、ご自分にもその体験があることをみずから明らかにしていてくださったから。

わたしの直接知るひとの中ではただひとり。そう、ただひとりなのですよ。いまのところ、活字にまでしてその体験を語ってくださった方は。あなたが『砂漠の 教室』というイスラエル通信のなかに、何気なくまぎれこませるようにして忍ばせておいてくださったあの一文がなければ、おそらくわたしはいまでもあなたが 現在のあなたにいたるまでの前史をまったく知らず、ききたくてもきかずに、それこそ思考停止のままとどめていたかもしれません。

わたしたちは、いえ、わたし自身は、あまりにも古風で遠慮深すぎるのでしょうか。知り合ってまだ日が浅いことに由来するのかもしれませんけれど、それにし ても過去に共通の体験をもちながら、あえてその領域にはふれずにきたなんて――事程左様にこのタブーの根は深いのでしょうか。

いまわたしの目前には、あなたのご本と、『文化としての妊娠中絶』と、二冊がほとんどおなじ明るさで行手をてらしだしてくれています。いつかこの「ヨゼフ の娘たち」の発表当時の反響をぜひうかがわせていただきたいものです。

わたしもいずれはこのようにクールで平明なかたちで自分の個人史を語れたらと思うのですけれど、さて生来のマニエリスト根性がわざわいしてうまく成就でき るかどうか。でも折角いいものを読ませていただいたお返しに、せめてその自分史のテーマだけはここではっきりさせておきましょう。これはたぶん、いままで のタブーをさらに上回るタブーへの挑戦で、「妊娠中絶は文かたりうるか」という、永遠の?つきの命題なのです。

それではお元気で。再開をたのしみに。



マイ・ホビー・その(4)  高橋茅香子


出さない手紙を書く。
出せない手紙を書く。


J・N様へ
きっと驚かれることと思います。わたし、勤続二十五年になるのです。本当におかしいでしょう? びっくりなさったでしょう? 「ふーん、あのチカちゃんが ねえ」とうなって、大きな身体をご自分でかかえるように腕組みをして、黒いサングラスをかけた顔を天井に向けるのが目に浮かびます。左手の薬指には四角の 大きな指輪がはまっていて、夏も冬も頭にはかならず帽子。冬はたいてい黒いソフトでしたね。そんな恰好だから、立っていらっしゃるだけでも恐そうで、知ら ない人はそーっと避けたりするのです。でも展覧会場の入口で、「おう、そこの坊や、ちょっとこっちきな」と子供を呼んで渡すのはキャラメルだったりするの ですよね。
わたしが入社して初めての宴会で居眠りしていた、といつもからかい、あんたみたいな女の子がいつまでいるのかねえ、とよくおっしゃいましたね。ご一緒に出 張するのは楽しかった。今のように銀行が便利になっていなくてどんな支払いも現金でしなくてはならない時代でした。数十人の外国人を連れて移動していて手 違いで急にお金が必要なのに、日曜日で会計係が真っ青になったとき、お礼がぎっちり詰まった財布をとりだされて、皆、敬服しました。とりわけ港や空港の関 税については生き字引で、ひたすら頼りになる大先輩でした。
わたし一人がお供で西宮のカトリック大司教区に何か頼みごとに行ったこともありました。最初取りつくしまもなく横向きで私たちを応対していた司教が、やが て正面から身をのりだすようにして、何でもやりましょうと言うところまでこぎつけた帰り、「人は成長するもんだね」と褒めて下さいました。あの言葉は二十 五年間にもらった数少ない勲章のひとつです。
そうなのです。わたし二十五年になるのです。「長くいりゃあ良いってもんでもないさ」とおっしゃるのではありません? それでいて大きな白いハンカチを出 して鼻をかむのでしょう?
後悔で胸が痛くなります。会えるときにもっとお会いしなかったことを。新しい社屋を見たいとおっしゃっていられたというのに、ご案内しなかったことが辛い のです。
「顔を見てやって下さいな」奥様はそうおっしゃって、白い布をはずされました。帽子をかぶっていない、怒鳴らない、静かで明るいお顔でした。「この人は寂 しがりやだから、賑やかなほうがいいんですよ」と奥様は笑顔をたやさず、思い出話にも声をあげて笑っていらっしゃいました。「かかあに叱られるから」とよ く引き合いに出されていましたね。素敵なご夫婦で、お子様がいないだけにとくべつ仲良くみえました。一年ほど後のある朝、雨戸が閉まったままなのに気づい た近所の方が、ベッドの傍で眠るようにして亡くなっている奥様を見つけたとか。
真撃なクリスチャンだったお二人は今頃どんな会話を楽しんでいらっしゃるのでしょうか。怒鳴って励ましてくださる声が聞けないのが悲しい。
今お幾つですか? 二十五年前にもう定年後嘱託でいらしたのだから、八十代ですね。涙が出るほどお会いしたいと思っています。これ以上知り合いは増やした くない。大切な人に会う時間さえないのですから。大事なことをちゃんと大事にしようと思います。ようやくそれが分かったのです。これも成長といえますか?
  さようなら


B・Hへ
先日は娘のために図書券を送って下さってありがとう。ずっと昔、娘が「パパはいらないけれど、その人が一年に一度だけわたしを思い出してくれるといいな」 と言っていると話して以来のことですね。娘の好みとしては、差出人の名前のないバースデイ・カードなどという方が合っているのですけれど、本の虫でもある ので喜んでいます。「でも図書券だとお金みたい。本を一冊選んでくれるといいのに」とも言っていながら、次の日、撤回してきました。「本一冊より、やっぱ り一万円の方がいい」
同封されていたお手紙、というよりメモは相変わらずどうとでもとれる名文。『“めぐり来り、去る”という言葉を実感します。実感することが多いというのも 不愉快なことです』年のことを言っているようでもあり、ほかのことも含んでいるのかも知れない。なんの脈絡もなく書かれたこの文を、どう読んでもらいたい のか、あるいは読んでもらいたくないのか分からないので、私は考えないことにします。
ところで春にこんなこととがありました。知り合いにどうしても私を結婚させたがっている人がいます。その人が私にお見合いの話をもってきました。「絶対に 気が合うと思うのよ。ぜひ会ってみてちょうだい。あなたが将来ずっと一人でいるなんて心配で。その方はね、奥様をなくされて――」
結婚はもうしたくない、一緒に住みたいと思う人は現れるかも知れないけれど、娘公認のいつもの主張を繰り返しつつ、ふっと好奇心から名前を聞きました。あ なたの名前でした。
あっ、と息をのみ、すぐに笑いがこみあげてきました。こんなことがあるなんて、人生はやっぱり面白い。そのおかしさに、ひと晩、うわずった気持で過ごしま した。見合いをするともしないとも返事をしないまま、ひと晩あれこれ思いました。あなたの方にはまだ話していないことらしいので、私の名前を伏せたままお 見合いしたらどうかしら。それとも互いに分かっていて会うのも芝居がかっていて面白い。
数日後、その知人からまた連絡がありました。「本当にごめんなさい。なんとお詫びしたらいいのか。この間のお話した方ね、つい先日、再婚なさったんですっ て」
そういうことで、まったく思いがけず、あなたの近況を知ってしまったわけです。知人は私を慰めるつもりか、「とても若い方と再婚なさったの」などと言わず もがなの説明をいろいろ附け加えてくれたし。
でもよかった。娘は「心配でわたしがお嫁にいけないから」という理由で私に誰かをみつけなさいと言いつつ、記憶にないあなただけは選んでほしくない、と仄 めかしています。その気持はわかりますよね。あなたのメモにあった言葉をそのままお返しします。どうか生活と人生を楽しまれんことを。
  さようなら


N・Sちゃんへ
念願かなって、一年イタリアに留学ですって? おめでとう。あなたの母上から電話で聞いたの。わたしに伝えておいてほしいと言い残していったからとのこ と。あなたから手紙でも受け取ったら、私も返事を出すわ。あなたに会うたびに、私に連絡したかったらお母さんに頼まないで、自分で直接しなさいと言ってい たのに分かってくれないひとなんだから。ただ私も、自分のことは自分でしなさい、という意味で言っただけじゃなくて、あなたの母上とはあまり口をききたく ない、という下心があったからなので、偉そうなことは言えないの。あなたにとっては大好きな母上であり、私はその母上が何かといえば頼りにする仲の良い友 達なのだから、話すチャンスをつくってあげようと考えてのことだと分かっているわ。でも私ははっきり言ってもううんざりしているの。
最初は保険だった。家庭の主婦が働きたいと思ったとき、簡単なのが保険の外交をすることだったから。簡単じゃないのは顧客をみつけることで、もちろん私は すぐに勧誘されたわ。私は会社でかけているのがあったけれど、ずっと働くという彼女の心意気を励ますつもりで無理してはいって。生涯保険とかいうのだか ら、それは今でも続いているのよ。でも一年後にはもうやめたという彼女の連絡。どうしてと聞くと、だって子供には母親が家にいることが必要だって分かった から、と私の状況は眼中にない、無邪気な返事だったわ。その子供があなた。
大学生になったあなたに初めて会ったとき、明るくて元気がよくて、いっぺんで好きになってしまい、それが自分でも意外で、複雑な思いだったの。
母上はそれからも次々と新しいおもちゃを探しているのね。七宝でアクセサリーづくりを習い始めると、練習で作ったものを売れないかしらと持ってまわり、ネ パールの人に道を聞かれて感銘をうけたから民芸品の店を開きたいと奔走したりして。そのたびの電話にかわいいと思いながらも、言い返す気力もなくなるいろ いろな言葉に私は疲れてしまうの。たとえば、やっぱり東大出の男の人は違うわ、とかね。
私がはっきりと不愉快な態度をとったのは、あのマンション騒ぎのとき。共通の友達が古いマンションを売って越したいと言っているから、私にそこに移っては どうかしらという話だったの。大学の助教授をしているその友達は狭くてきたなくなったからと言っているの、あなた、公団なんでしょ。そう言ってそれが私へ の思いやりだと信じている母上とは喧嘩するのも面倒だったけれど。
あなたが留学でまたひとまわり大きくなって帰ることを楽しみにしているわ。母上の子供としてではなく、私の若い友人になってくれることを願っているの。
父上とは銀座で信号待ちしているときに通りをはさんで出会いました。お互いに連れがあったので、すれ違うときに会釈しただけだったけれど、昔と変わらない 雰囲気をもっていたわ。私ではなく母上を選んだ人生はきっと正解だったのね。あなたに会ってそれが分かりました。
私の娘は美術の修復を勉強したいといっているから、いつかイタリアへ行くかも知れない。物に手で触れて歴史を探る、という点では楽器を作ろうとしているあ なたと同じね。心から応援します。
  さようなら



律とまち子のふぁっしょん読本6
文・田川律 え・柳生まち子


自分がはいているパンツの形から数まで「告白」してしまったら、もうまるでみんなの前で丸裸でいるみたいな気になってしまう。

というわけで、この「ふぁっしょん読本」もそろそろおしまい。今回限りということになった。

どう考えても「あんまり道で会いたくない人」といわれるスタイルになんでなってしまったか、の源流はアメリカにある。初めてのアメリカで西海岸のバーク リーを訪れた時に、そこの銀行で働くオネエチャンたちが、ブラウスの裾を縛って、お腹丸だしの恰好でいるのを見て、ひどくびっくりすると同時に「なんでも ありや」と思ったのが、今思えば「転落」の第一歩だったのだろう。

それから十一年たった今年の夏、所も近いサン・フランシスコを訪れて、やっぱり日本と比べて、女の人だけでなく、男の人も違っていると感じた。海辺の フィッシャーズ・ワーフの露店商の友人の隣に座って、そこを覗きに来る人たちを観察していても、そのことはよくわかる。

女・男を問わず共通しているのは、「他人の眼」なんかどうでもいいというおおらかさだ。ひとりひとりが、その場で一番「ぴったり」すると思う服装をする。 体形がでぶでも、痩せていても、足が長くても短くても、そんなことは関係ない。体毛があっても、なくても、毛脛をあらわにするし、暑いと思ったら裸で歩 く。

そんなことは、あたり前のことなのだが、日本やとそうはいかない。ぼくがよく行く新聞社に「天敵」と呼ぶ友人がいて、かれはいつもぼくの服装を見て、実に 巧みにそれを表現してくれるのだ。赤いアロハを着ていると「吉原の女郎の長襦袢を着てまんのか」といい、ジャマイカで買ったブルー系統の絵模様のアロハの 時は「安物の建売り住宅の襖絵みたいでんな」という。

そこまでいわれると、こっちも「この恰好はなんというねやろ」となかば楽しみにして行き、かれがいないと物足りない気になる。こらもう「病気」の世界とい う気もあるが……。

ともあれ、ぼくの服装の「師匠」というべきアメリカで今なお感心する点の幾つか。そのひとつはストッキングをはいている人が少ないこと。日本だと真夏に ジーンズをはいていて、それでもストッキングをはいている人がけっこういる。まるで「我慢大会」に出ているみたい。何人かの友人に聞くと、靴を履くのに素 足だと気持悪いからだ、というのがひとつの理由らしいのだが、電車のなかでそんな人を見ると尊敬しそうになる。

さらに、ここへ来る日本人を見ているとハンドバックを始めとする持ち物に「ブランド商品」が多いことだ。日本には古くから「安物買いの銭失い」という諺が あり、高い物を買ったほうが結局は長もちして得やという計算が働いているのかも知れないが、それにしても、「氾濫」するブランド物には解せないという気が する。

男については、もちろんあのユニフォーム姿だ。あんまりいつもユニフォームに慣れているものだから、たまに普段着になっても、どっか画一的になってしま う。

とまあ、これは「けったいなオッサン」から見た「偏見」である。



「可不可」制作メモ  平野公子



●たしか、一年くらい前のことだったと思う。「水牛のさあ、一〇〇号記念のおいわいをやろうよ、はでにさあ」と誰かが言い出したのが、そもそ ものはじまり。お酒のせいか、誰も本気にしてないみたいだったけど、なかにはあわてて本気にしちゃう人もいるのね、ほとんど私ですけど。

●じゃ、どんなことをやろうか?「水牛通信」の終刊に適しいイベント、うーん。いろいろアイデアも出ました。「水牛大パーティ」「二千人の大ホールでのコ ンサート」話は広がるだけ広がるのでした。逆にね、小さくていいから、今までやったことのないのがいいな、まだ一年もあることだし。

●まず場所を決めてしまおう。去年の12月、築地本願寺のスペースをみにいく。なかなかいいじゃないか、ここで高橋悠治の「新作オペラ」はどうかな? ど うだろう。誰かが言い出し、そうなった。

●こんな夜になるといいな。広ーい部屋に、そうあんまり美しくない部屋ね、居づらいから。たくさんの人が「お祝い」に集まってくる。たくさんといっても、 三百人くらい。華やかに、パーティは始まっている。何のお祝かって「水牛通信」終刊のお祝の日なのです。お客さんは、もう部屋のあちこちに、坐ったり、横 になったり、お酒を片手に立っている人もいる。昨夜聞いたばかりの物語(そう語ったのは高橋悠治だけど、聞いていたのは主役達、演奏家、それに、たまたま と言おうか幸運にも、演出家、デザイナーも居合わせた)、このできたての物語を、おあつまりの皆さんの前で再現、スケッチして観せるということになってし まった。せっかくの夜だしね。楽団は? あれ、今日はやけに明るく華やかだ。役者達も、一晩練習したおかげで、実に生き生きしている。準備は万端。

●4月8日 スタッフ全員で花まつりの本願寺に集合。前にみたスペースから、講堂に公演場所をその場で変更。こちらの方がずっといい。まだ眠り姫が眠りつ づけているような部屋だ。

●7月 水牛に連載中の「可不可」完結。思いがけず、これで台本ができあがってしまった。

●9月14日 急いでチラシ、チケットを印刷する。バラバラにされてしまったカフカの目・耳・口。前売もついでに開始。ちょっと早いけど、何かで形にしな いとどうにも始まらない。

●9月16日 スタッフと役者の顔合わせ。とても楽しみにしていた日。役者をみると、どうしてこんなにワクワクするのだろう。公演場所の講堂をみて、津野 さんが作ってきた台本を手にして、食事。そのあと、一回だけ本読みなんかもしちゃったもんね。

●9月29日 本願寺にスタッフと高橋貞一さんと集まる。具体的にスペースの使い方の相談。津野さんから舞台のイメージの話が出された。今後は舞台監督田 川さん、美術の平野さんの作業が開始することでしょう。やっと、「現場」らしくなってきました。

●10月1日 チラシの送付を開始する。なにぶんにしても、2ステージで七百席というわずかなお席しかありませんので、お早めに御予約ください。予約は、 アート・フロント・プロデュース tel 03・461・3172、またはチケットピア tel 03・237・9999、または平野公子 tel 03・482・4539(いないときもあります。ごめんなさい)まで。

出演者だけの「かたより情報」
●三宅榛名 コンサート・シリーズ飛行船日誌No.1『夢の一日』 10月26日(月)7時。新宿シアター・モリエール。予約・問合せ tel 03・293・1951。
●朝比奈尚行 作・演出・出演「時々自動」公演『ニヤヒヤ』 10月30〜11月1日。7時(31日、1日は2時もあり)。中野テレプシコール。予約・問 合せ tel 03・982・4413。
●巻上公一 構成・演出・出演「チュチュランド・アカデミー」公演『あたま割り人形』 10月28日〜11月3日。渋谷パルコスペースパート3。予約・問 合せ tel 03・477・5858。
●吉原すみれ 『耳なし芳一』(西森守演出)の音楽を即興で。11月5日〜7日。7時(6日、7日は2時半もあり)。日比谷高校星陵会館ホール。妹尾河童 の会にゲスト出演。11月10日。6時半。新宿シアター・アップル。問合せ両方とも tel 03・461・3172。
●柳沢三千代 劇団「ノイズ」四国公演『砂漠のようにやさしく』 11月14日、高松市セントラルホールウイング、2時半、6時半。11月15日、ワーク ショップ、高松市オリーブホール、4時。11月17日、高知市RKCホール、6時半。11月18日、高松市民会館中ホール、6時半。問合せ tel 03・584・5659。
●高橋悠治 企画・構成・出演『自由時間』進行中の室内オペラ「可不可」について。11月25日、築地本願寺ブディストホール、7時。ゲスト津野海太郎。 問合せ tel 03・461・3172。



編集後記

ギリギリ製本可能な厚さに挑戦!
前半はイリノイのシャンペンにある編集委員会の編集によります。前半の最後をかざるヤエル・E・グッドマンさんは七歳。二年前の一年京都と東京で日本語を 話すことを学んで、そのあとシャンペンですこしずつ勉強を続けている。これは日本語の勉強の成果のひとつ、『ヘンゼルとグレーテル』の映画を見て、その物 語の筋を書いてみたものだそうです。
矢川澄子さんの「K・Fへの手紙」で言及されている書物は、1、マルコム・ポッツ、ピーター・ディゴリイ、ジョン・ピール著『文化としての妊娠中絶』池上 千寿子・根岸悦子訳、勁草書房、一九八五年。2、藤本和子著『砂漠の教室』河出書房新社、一九七八年。
先月号の木島始さんの「ぬきがきうた」のなかに誤植がありました。「ちょいとほりちょう」とあるのは「ちょいとほうちょう」の誤りです。ごめんなさい。塩 釜から東京の小学校に転校してすぐ、作文のなかに「ほうちょう」を「ほいちょう」と書いて注意されたことをおもいだしました。ちょうどヤエルくらいのころ のことです。
次号は一〇〇号にあたります。「可不可」もその記念に、とかんがえだしたことですが、もうひとつ、この水牛通信の一〇〇号分のアンソロジーを一冊にまとめ て出版することになりました。「可不可」のときに発売できるようにすでに編集作業は始まっています。一同この二つのプロジェクト(!)のために毎日のよう に顔をあわせなければならず、開業以来の忙しさを満喫して幕をとじることになりそう。(八巻)




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