2015年4月号 目次

「イスラム国」に翻弄される人々さとうまき
125アカバナー(10)火の起源藤井貞和
『マルタの鷹』の夢のかたまり野口英司
著作権のことなど大野晋
しもた屋之噺(159)杉山洋一
アジアのごはん(68)シッキムの漬物グンドラック森下ヒバリ
ジャワ舞踊を彩る花冨岡三智
製本かい摘みましては (109)四釜裕子
善のネーション!応答せよ若松恵子
グロッソラリー ―ない ので ある―(7)明智尚希
夜のバスに乗る。(6)犬井さんは「バスの方がいい」と言った。植松眞人
風が吹く理由(12)春のあくび長谷部千彩
青空の大人たち(9)大久保ゆう
雑草高橋悠治

「イスラム国」に翻弄される人々

イラクのファルージャ。米軍が劣化ウラン弾や白リン弾を使ったという。そのせいかガンの子どもたちがふえているという。今までもファルージャのがんの子どもたちを支援してきたが、2013年の暮れには、ファルージャが「イスラム国」に制圧されてしまったのだ。

昨年の暮れ。
ファルージャ出身のアイド(15)君は、バグダッドに避難していた。親族から連絡があった。インドで手術を受けさせたいという。診断書を井下医師に診てもらう。
「助かる可能性はなく、放射線治療や、麻薬を使った痛みの緩和くらいしかないでしょう」という。残念ながら、そのことを親戚に伝えた。「つらい手術をするよりは、痛みどめなどで延命するのがいいのでは」
「わかりました。でも我々の文化には、あきらめるということはなく、神の奇跡を信じるしかないのです」という。その後アイドは、親戚や、隣人、モスクの支援を受けてインドで手術を行った。

アイドは、35日間インドで手術と治療をうけ、無事にバグダッドに戻ってきた。しかし、バグダッドには薬がない。そこで、私たちが支援しているクルド自治 区のアルビルの病院まで来ることになった。薬は私たちが支援することになった。約一年分くらいの薬だが50万円くらいかかる。交通費や宿泊費は彼らが自分 たちで払うという。

2月28日、病院のロビーには、アイドと母が、私たちを待っていた。アイドには、2012年の夏に、ファルージャで会ったことがあるが、そのときとは違 い、アイドはすっかり痩せこけていた。親子は、ホテルに一泊し、お金が尽きてしまい、ファルージャから避難している知り合いの家に泊まったが、毛布もな かったという。あと、どれくらい生きられるかわからないのに、QOL(クォリティオブ・ライフ)もあったものじゃない。ホテル代を払ってほしいと泣きつい てきた。

バスラのイブラヒム、バグダッドのアブ・サイードが、「JIM-NETの事務所に泊めてあげたらどうだ。あのかあちゃんは、今までもよく知っているから、 信頼していい。父親もいなくて本当にかわいそうなんだ。地下の物置になっている部屋があるじゃないか。お母さんに料理を作てもらえばいいし、掃除してもら えばいい。」
「いい考えだとおもうよ。でも、クルド人の大家は、嫌がるだろう。ファルージャのスンナ派アラブ人は、ここクルドでは、まるでISの支持者だと思われてるし」

昨年6月に、ISの攻撃から避難してきたキリスト教徒を事務所に泊めたことがあったが、この時は、大家が血相を変えて、「アラブ人を泊めるならお前たちも 出て行ってもらう」と怒鳴られた。クルドの兵隊は、ISと闘っており、犠牲者もたくさん出ている。TVでは、毎日、クルドの兵士をたたえるニュースやコ マーシャルが流れている。もともとクルドとアラブの民族間の歴史的な対立があり、微妙な差別感情が出始めていた。

だめ元で、イブラヒムが、早速大家に電話をする。大家は、クルド人だが、かつてイラク軍の兵役につき、イラン・イラク戦争時にはバスラで従軍していたの で、イブラヒムとは仲がいい。イブラヒムの妻がクルド人ということもあるのだろうか。意外に大家は、「困っている人を助けるのは、私にとっても喜びだ」と 言ってくれた。
事務所の地下の倉庫が空いていたので、アイドと母を泊めることになった。早速、掃除をはじめ、事務所は見違えるようにきれいになった。買い物に行き、アイ ドの母親が、ブリヤーニという(チキンチャーハン)家庭料理を作ってくれる。いままで、あまり口を利かなかったアイドも嬉しそうで、母親の料理をみんなで 一緒に食べた。5日間の闘病生活と私達の共同生活が始まった。
 
アイドは、2011年、ガンになった。ユーイング肉腫である。少し前に父が病気で亡くなった。自転車で転んでから腰の痛みが取れず、ガンだといわれた。インドで手術をした後、バグダッドのセントラル病院で化学療法が始まった。しばらくはよくなったと思えたが、2013年ごろから、アイドの様態は悪くなり、歩けないほどだったという。
「市場で、爆発があり、体がバラバラになって死んでいる人を見たんだ。」
それ以来アイドは、すっかり元気がなくなったという。

2013年12月。「イスラム国」がファルージャにやってきた。
アイドの母親は、「最初彼らは、ファルージャを開放するといいました。」その当時、ファルージャでは、政権によるスンナ派の迫害が続いていた。
「多くの人がその言葉を信じました。しかし、たばこもだめ、すっているのが見つかると、たばこを取り上げられ唇に押し付けられた人もいた。女性は髪も隠さなければ許されない。小さな子どもがサダム・フセインをたたえる歌を歌ったというので、その子の叔父がつかまり100回のむち打ちになったということもありました。」
それでも、アイドが、ファルージャとバグダッドの病院を行き来するときは、ISのチェックポイントは、「ガンで治療が必要だ」というと通してもらえた。チェックポイントがたくさんできていて、通常は一時間くらいなのに9時間もかかった。

その頃、マリキ政権は、3月の国政選挙に備え、スンニ派の議員をテロに加担したとして逮捕し始めた。ファルージャでは、平和的なデモが続いていたが、1月になると、デモの中に、「イスラム国」の戦闘員がいるとして、総攻撃をかけたのだ。

アイドの家族もバグダッドに避難し、アパートを借りた。アッダミーアという貧困地区で、家賃100ドルのアパートを見つけた。3部屋に3家族12人が暮すことになった。ほかの家族も夫がマリキ政権化で、武器を売買したとの疑いをかけられ逮捕されて収監されていたり、生活はぎりぎりだ。

ある日、アイドが病院に行こうとしたところ、今度はイラク政府のチェックポイントで呼び止められた。アイドは、足が虫に刺されたのか、腫れてきたので、包帯を巻いていた。
「お前は、ISの戦闘員だろう。だから、怪我をしているんだな」と逮捕されそうになった。
アイドと母親は恐怖に震え、泣いて事情を話し、ようやく解放された。「イスラム国」に捕まることは恐怖だが、「イスラム国」の戦闘員としてイラク警察に捕まると生きて帰ってこられるかわからないのだ。

イラク軍の攻撃も落ち着き、久しぶりにファルージャに戻ると、アイドの家は、無残にも空爆で、破壊されてしまっていた。イスラム国の兵士が、地雷を埋めているのが見えたという。闘病中のアイドが楽しみにしていたプレーステーションも壊されてしまった。
USとIS、どっちが怖い? とアイド君に聞いてみた。「ISの方がこわい」
ある時、市場を歩いていると、ISの戦闘員に呼び止められた。アイドの靴にイギリスの国旗がついているというのだ。「それを外さないと殺すぞ」と脅された。「取ります」と言えば、許してもらえたが、怖かった。

3月2日
イラク軍はティクリートの解放をめざし、総攻撃をかけた。約3万人の軍隊がティクリートを包囲したために間もなく5日間の治療を終えてバグダッドに戻る予定だったアイド親子は、幹線道路を絶たれ帰れなくなってしまった。

「無理して帰ることはない」と言ったが、「4か月の赤ちゃんがいるから」というのだ。嫁いだ娘の赤ちゃんだという。まだ、赤ちゃんが生まれる前に、父親は、チェックポイントでつかまり行方不明になっていた。寄進省のカメラマンとして働いていた夫は、カメラを持っていたので、ISから尋問を受けた。モスク関係の写真を撮っていたので許してもらえると思ったが、身分証明書には、公務員と記されていたので、拉致されたのだ。すでに、殺されているかもしれないという。

アイドの母が帰らないと、ミルクや、おむつ代も払えないというのだ。一家の収入は、母親があちこちからかき集めるお金である。何とか、支援してくれる人が見つかり、アイド親子は、アルビルーーバグダッド間のチケットを手に入れることができ、バグダッドに帰って行った。

別れ際に、母親が乞うた。
「半年後に、アイドは、またインドで治療を受けなければならないのです。全額ではなく、少しでいいから支援してもらえないでしょうか」私はうなずいた。その後、親戚のおじさんから連絡があり、飛行機で無事にバグダッドに着いたという。「今までは、治療に行くと、元気がなく気が滅入って帰ってくるのに、今回は、精神的にも元気そうでした。面倒を見てくれてありがとう」

生きてほしい。半年後、アイド君が、元気に微笑んでくれることを願う。


125アカバナー(10)火の起源

まだそのころ、火はなかったって。 世界の最初、
藁が火になろうとしたって。 ぼくは火になろう。
ついで、樹皮が、希望して火になろうとしたって。
軍歌が敷地を埋めていたって、もう いっぱいに。
学校のうしろは崖になっていて、抵抗できなくて、
藁がまっさきに落ちていったって。 「さよなら」、
ぼくたち。 樹皮はあとを追いかけるかのように、
「さよなら」、ずるずる落ちていったって。 崖下。
土偶と土偶とは手と手とをとりあって落ちたって。
ころころ転がる土製の丸い面は遮光の目を閉じて。
そのあとはもうだれが落ちたのか判らなくなって、
全校で死亡33名、負傷85名、逮捕者はかずを、
知らず。 夕方までに、女性徒は釈放されたって。
先生方は血をながしてのたうちまわっていたって。
土偶よ 語れ、崖下の藁の死体から、火が生まれ、
樹皮の死体からきみの火が生まれたということを。
丸い土製の遮光の目よ 眠れ。 原始の炉のなか
で。 坊やもお寝み、悪い夢を見るんじゃないよ。


(あれっ、四大元素ってなんだっけ。土、火、水、空気だったか。木がはいるのじゃなかったか。方位はまん中が土、だったかな。秋が金。今日は火曜日、というわけで、空気曜日を作りたい。噴煙は空気を押し広げるためにできるかたちです。)


『マルタの鷹』の夢のかたまり

映画の中で小道具が効果的に使われていると、もうそれだけでその映画が好きになってしまう。そして、その小道具が欲しくなってしまう。でも、それは見果てぬ「夢のかたまり」だった。

ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』(1941年)に、中世のマルタ騎士団に由来を持つ黒いエナメルの鷹の像が出てくる。250万ドル以上もするそのお宝の像をめぐっていくつもの殺人事件が起き、ラストにはそれがまったくの偽物だと判明する。

そして、刑事役のワード・ボンドが問う。

"It's heavy. What is it? 
「重いな。これは何だ?」

私立探偵サム・スペードのハンフリ・ボガートは答える。

"The stuff that dreams are made of."
「夢のかたまりさ」
(訳は和田誠「お楽しみはこれからだ PART2」より)

この黒いエナメルの鷹の像は、まさに「夢のかたまり」を象徴するようなデザインだった。手に入れようとする人間を寄せ付けない孤高な唯一無二の存在感があった。

『マルタの鷹』はジョン・ヒューストンの初監督作品ではあるが、とても初めての映画には見えない完成度があった。新人でありながらこの完璧な創作の秘密は
どこにあるんだろうとジョン・ヒューストンの自伝「王になろうとした男」(宮本高晴訳・清流出版)を読んでみると、なるほど、映画監督としての「The Right Stuff(正しい資質)」とはいったい何なのかが良くわかってくる。5度の結婚、エロール・フリンとの殴り合い、ヘミングウェイやサルトルとの交流、狐
狩りや象狩り、美術品で彩られたジョージ王朝風邸宅。どれもまさに映画の要素となりえるエピソードばかりだ。

川本三郎がジョン・ヒューストンを評して、

ヒューストンは人生のエピキュリアンだった。美しいもの、エキサイティングなもの、ロマンチックなものを愛した。ボクシング、狩猟、絵画、ギャンブル、女性、動物、そして映画。 (「ダスティン・ホフマンはタンタンを読んでいた」キネマ旬報社より)

と言っているように、人が何に快楽を見出すのかを自分の人生で持って検証しているような生涯だった。その経験をハードボイルド映画と結びつけることによっ
て、初監督作品からすべてのシーン、すべてのショットをダイナミックに息づかせる演出が可能になったのかもしれない。小道具の黒いエナメルの鷹の像でさえ
もジョン・ヒューストンの人生が凝縮しているように見えてしまう。

そして、もちろん、その黒いエナメルの鷹の像が欲しくなった。でも、ハリウッドの土産物としてもあまり見たことがない。ネットを検索しても、イミテーショ
ンでさえなかなか引っ掛からない。と、長年思っていたところ、一昨年、実際に映画で使われた「マルタの鷹」がオークションに出品された。

http://articles.latimes.com/2013/nov/25/entertainment/la-et-mn-maltese-falcon-sells-for-4-million-at-auction-20131125

値段は、$4,085,000(約4億円)だ!
映画の小道具でありながら、設定上の「マルタの鷹」の像の値段よりも高くなってしまった。
とても欲しいけど、この価格ではとても手に入れることはできない。
本当に「夢のかたまり」だった。

しかたがない。今年のアカデミー賞で、長編アニメ賞にノミネートされなかった『LEGO(R)ムービー』のフィル・ロード監督がレゴでオスカー像を作ってしまったことが話題になったけど、それに習ってレゴで「マルタの鷹」の像を作ろう。


著作権のことなど

ときどき、楽しみに見ているものがある。
それは青空文庫のアクセスランキングである。そんな話を以前も書いたような気がするが、今年の冬もアクセスランキングをのぞくと新見南吉の「手袋を買いに」が上位にランクしている。有名な童話のせいもあるが、親の世代が子供に読み聞かせるのに最適な童話だと思うので、そうしたことがアクセスが増える原因だろう。まあ、物語としては「ごん狐」の方がよくできているのだろうけれど。

相変わらず、夏目漱石がランク上位にあるなど、多少の変動があっても変わらないランキングだが、ときどき、何の因果か大きく変動することがある。それが見えるのが青空文庫のブログにある変動ランキングである。新聞に出たり、雑誌に出たり、テレビで取り上げられたりするとこのランキング上で変動が見えることになる。

それでも、大抵の収録作品のランキングは大きく変わらない。もう春だというのに、桜が満開だというのに、チェーホフの「桜の園」がトップ10に入ることはない。著作物の人気にそれほどの大きな変化は現れないというのが、長年、青空文庫のランキングを見てきた感想だ。きのうまで売れなかった本は急に明日売れるということは'まず'ない!

さて、ほとんどの著作物は現在の価値以上の価値を生み出すことはない。
そして、近代の著作権法が考えだされた200年前よりも我々は多くのコンテンツを持っているが、それら全てが有効に利用されているとは言えないという現状がある。TPPを機会に著作権の保護期間や非親告罪化について取り上げられる機会も増えたが、著作権自体について考える機会が増えたかと言えばそうでもない気がしている。

そもそも、著作権は著作物に対して付与された財産権である。そして、ほとんどの著作物にとって、その価値は生み出された時から徐々に減じていく傾向がある。無償で生まれたものは無償以上の価値を生み出すことは難しい。また、有償で生まれた著作物であったとしても、急激に価値が下がり、無償に近い状態になることがほとんどだ。
「書籍は割に合わない」と称した著述家がいたが、初版の冊数や書店の店頭に置かれる期間を考えるととても著述だけで生計を立てるなど、現代の日本では考えにくい状況になってきているのだろう。本当に、絶版や版切れになった著作物に価値があるのだろうか?

一方で、コンテンツの流通に関するコストはインターネットの普及で急速に下がった。インターネットができる以前であれば、青空文庫のような著作権保護期間の切れたコンテンツを無償で公開するなどという行為はまずできなかった。まあ、だから、出版が業として、コンテンツ(文化)の流通を支配できたのだけれども。

もうひとつ考えるべきなのは、著作物自体が残りやすいということだ。文章でも、音楽でも、一度、公開されたものは低コストで残り続ける。最近のデジタル技術ではコンテンツの類似性などもすぐに比較できてしまうために、類似著作物は作りにくくなってしまっている。

ただし、コンテンツひとつひとつの由来を考えると、全くのオリジナルということはまず、あり得ない。文書自体も、誰かの文体を下敷きにした上で新たな表現に変化させている。これが音楽になるととんでもないことになり、リズムも、メロディも完全なオリジナルというのは考えにくいし、そもそも、誰かのオリジナルを真似して勉強しない限り、絵や音楽などの腕が上がるとも思えない。要は、文化そのものが誰か先人の著作物の上に構築されているのだ。ところが、コンテンツの類似性を著作権の中で論じ始めると、類似物の排除ということが始まるらしい。しかし、模倣を排除した社会には、それ以上の発展は期待できない。

そういう意味で、これからの著作権は、現状の価値で利用を考える必要があり、また、文化との兼ね合いで排他的な権利を制限する必要があるということを考えていく必要があるように感じている。

1887年、ビクトル・ユゴーらの議論から近代的な国際的な著作権条約のベルヌ条約が生まれた。
ここ数年で大きな環境変化が起き、著作権をめぐる状況も変化した。
そろそろ、根本的な議論を始めてもいいような気がしている。


しもた屋之噺(159)

息子が10歳の誕生日を迎え今朝は立ち込める曇空の下、学校に誕生日祝いのチョコレートケーキ5枚、コーラとアイス・ティーのペットボトルを持参して、嬉々として小学校へ出かけました。誕生日にお菓子やプレゼントを本人が持参してクラスの友達や先生に配る習慣があるのです。
ところで、誕生日祝に息子から頼まれていた20冊余りの江戸川乱歩「少年探偵団シリーズ」と6冊の「アルセーヌ・ルパンシリーズ」は、隠しておいたにも関わらず、酷い流感でここ十日ほど臥せている間に悉く読破されてしまい、今年の誕生日プレゼントはもう終わってしまいました。明智先生を読んでいれば、隠し場所くらい先刻お見通しだそうです。

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 3月某日 仙台ホテルにて
朝7時に朝食を取り新聞を読んでいると、隣に聡明さんがやってきて暫く話す。藤田嗣治の半生を追う小栗康平さんの映画の音楽の録音。聡明さんのお祖父さん、お祖母さんがヨーロッパで研鑽を積んでいらした頃の話が面白い。パリをお祖母さんが和服姿で歩いていると、背後からパリのご婦人方が物珍しさについて来て、信号待ちをしていると、ちょいちょいと袂を引張ったりしたとか。楽譜は読んできたが、聡明さんと話して、彼の裡にある藤田嗣治像が見えてくると、音の印象はぐっと鮮明になる。

 3月某日 仙台ホテルにて
海の幸山盛りの心づくしの晩飯を皆さんとご一緒してからホテル前で別れる。仙台はご飯が美味しいとは聞いていたけれど、違わず本当に美味。習慣でどうしても食後のコーヒーが呑みたくなり、道路を隔てたところにある目新しいピザ屋に足を向けるとエスプレッソがメニューに載っている。「すみません、量が半分で濃いのを一杯たててくれませんか」と頼むと、少量でどうにも申し訳ないという顔で妙齢が持ってきてくれる。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
小栗監督の映像と聡明さんの音楽は、実に好く絡みあう。小栗さんの映像も聡明さんの音楽も、枠に嵌め込まれていない。ルーズであることは、実は想像もしない複雑さや面白さを導き、静謐は時に妖艶であったり、無言の激しさや強さが自在に混じり合う。録音を選ぶ段になって、こちらが演奏の内実したテイクを薦めると、小栗監督は寧ろ音に少し粗さの残る録音がお気に入りだった。確かに彼の好きなテイクには瑞々しい音ごとの発見があった。監督と二人で画にどう音を嵌めようかと喧々諤々やっている隣で、聡明さんは満足げに微笑んでらしたのが印象に残った。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
杜甫二首の練習。演奏を通して各人が言葉を話し、互いに反応する。各々の創造力と理解が、音を豊かにしてゆく。音符が饒舌になれば、音楽が充実するとは限らない。譜面が饒舌なので音になって落胆することもあれば、音符が貧しくて演奏家が音楽を豊かにしてくれることもある。作曲家の責を放棄している気もするが、演奏家への信頼が先ず大前提としてある。とすれば、やはり責任放棄か。息子の誕生日祝に江戸川乱歩の少年向け小説を、店仕舞が間近の東急プラザで購う。

 3月某日 渋谷トップ駅前店にて
杜甫の練習が終わって道玄坂を駅に向かって下っていると、得体の知れないインターネットサイトの宣伝カーが姦しく通り過ぎる。シューベルトの「菩提樹」が頭のなかで反芻していたので、やれやれと独りごちていると、今度は求人サイトの宣伝カーが近づいてきたので油断ならない。
渋谷スクランブル交差点の折り重なる宣伝。情報のインプットは、一定量を越せばエントロピーになり認識不能に陥る。理解しようと耳を澄まされることのない、氾濫するだけの音響は、理解への興味より寧ろ、次第に惰性で見るだけになるインターネットに似ている。惰性で享受する情報は、インターネットのように未整理のまま頭を通り過ぎて、後には何も残らない。と考えて俄然気分が悪くなるのは、自分がその張本人だから。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
大石君が洗足でやっている、現代音楽を実践するゼミにお邪魔した。
ルネッサンス・フルートとサグバッドのために書いた二重奏の「かなしみにくれる女のように」を、オカリナ、リコーダー、ピアニカ、ギター、グロッケンシュピール、マリンバ、各種サックス、併せて10人ほどで演奏してみる。オカリナとギターが聴きとれるダイナミックスまで、皆に弱く弾いてもらう。音量の弱い楽器に耳を傾け、豊かな表情を見出すようになるのは、弱者をやさしく受け容れる態度に似ている。声を張り上げて主張するのではなく、互いに言葉を聴き取ろうと耳を澄ませば、普段は聴こえない微かな声も聴こえてくる。

並んだ音は同じ強さを繰り返さぬよう心を配る。一つ一つの音に慈しみをおぼえれば、それぞれの音に表情が見えてくる。音のそれぞれ微妙な濃淡がつくと、流れに自然に揺らぎが生まれるのは、物質にそれぞれ重さが重力と相俟って、地球上で空気が循環し、風が生まれ雲が流れ、葉がそよぐのに近い。似かよった性質の音符を均一化して操作するのは一見賢明なようだが、実は音楽を豊かにするにあたって遠回りをしているのかもしれない。それを人間の生活に置き換えてもいい。

若い学生の皆さんにとって、パレスチナもイスラエルも遠い世界の出来事に違いない。
元来同じものを共有していた仲間がそれぞれの道を進むうちに、隔たりや乖離は思いもかけぬものになる。現実をじっと見守り続け、そしてある所から改めて少しずつ寄り添おうとする態度を通し、何かを見出してくれるかもしれない。ひたむきに互いの音を見つめあう若者たちの姿に感銘を受ける。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
「杜甫」の練習は、思いの外沢山のことを気がつかせてくれる。あまりに単純な楽譜だから、作曲者が何かを仕掛けるわけではなく、鑿と金槌だけを手渡して憚りもなく丸太を演奏者の前に置き去りにするに等しい。初めは恐る恐るであったものが、少しずつ大胆に、演奏者は造形を彫り出してゆく。我ながらこのやり方は狡いと思いつつ、思う通りの音が聴こえてきて、演奏家自身の音楽が明瞭になるのを見ると、やはりこれで良かったとも思う。音符を沢山並べて演奏者を雁字搦めにするだけが、作曲責任の完遂を意味するかも怪しい。

複雑な事象を単純な仕掛けから導く。複雑な事象を複雑に書けば酸素不足のエントロピーとなり、内部の相互関連性は消失する。それは確かに複雑かもしれないが、クセナキスのように総括的巨視的な存在意義を与えなければ、単なる音群でしかない。音を現象で論じることに興味が持てないのは、そこに生身の演奏者や聴衆を介在させる意義を見出せないから。
路地裏のパチンコの音も混じり合う渋谷のスクランブル交差点の音の氾濫を想う。ただ無意味に重なり合い、誰にも耳も傾けられぬ、現象としてぶつかり合うばかりの音。
夜半家人が帰ってきたので、自転車を飛ばして上海料理屋へ走り、紹興酒熱燗と野菜炒め。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
朝、本当に久しぶりに西荻窪へ。何年ぶりに訪れたのか忘れたけれど、桃井4丁目裏の交差点は、昔と同じコンビニエンスストアが残っている。そこから道一本入ると、先生のお宅へ通っていた頃とは随分風景が変わっていた。「まるで昔と違うから分からなかったでしょう」。玄関先で由紀子さんは開口一番そう仰った。
桃井の辺りは311で随分被害を被って、近所の家々は軒並み建て直したのだという。幸い先生の仕事部屋は昔のままで、311で造り付けの棚から飛び出した楽譜の残りは、未だほんの少量そのままにになっていた。
先生がご自分で付けられた戒名の傍らに、分骨された小さな骨壺があって、その隣に伊豆の鯛めし弁当の空き箱を組み細工にして作った飛行機がそっと佇む。
1月10日先生の誕生日に併せた水仙の写真の前に、軽井沢の家で先生が毎年一つずつ造っていた楽焼の珈琲カップは、明るくも暗くも見える複雑な色調を放つ。

主の居ない作曲家の仕事部屋は、少し不思議な空間で妙に何か存在感がある。ピアノの横の壁には昔と同じオーケストラ楽器の巨大な音域表が貼ってあり、空虚という形容詞がおよそ反対に感じられる空間で、先生の偏食談義に大いに花が咲く。

「嫌いなものは牛肉、ラーメン、うどん。子供達は小学校に上がるまですき焼きを食べたことすらなくて。豚肉もあんまり。だからトンカツも駄目。ウナギも。オイシイのにね」。
「魚は大好き。貴方のお父さまがよく活きの良い車エビを届けて下さったわね。あれを生のまま食べるのを大層喜んでいたの」。
「貴方に謝らなければならないことがあるの。アンパサンの初演の時、私が花束を持っているのを見て、邪魔になって悪いと思ったのでしょう。わざわざ持って来てくれた花束を、さっと後ろに隠して下すったの。あの時受け取っておけば良かったと、あれからずっと思っていたのだけれど。何しろセッカチで、車は時間が読めないと言っていつも電車に乗っていたから、花束をあまり持ち歩けなくて」。
「セッカチと云えば、何時何分にご飯と言われていても、大抵5分か10分約束より前にはそそくさと食卓にやってきて、待っているのよ」。

先生が行きつけの蕎麦屋でお気に入りの鴨せいろを頂き、通われた喫茶店の決まった席で、好きだったスペイン風コーヒーを啜る。
「彼がイタリアに行った時、電車で呑みすぎて気が付いたら列車のトイレで寝込んでいたとかで、何でも目の前に沢山硬貨が散らばっていたと云うの。物乞いだと思われたのでしょうね。兎も角フランスから国境を越えた途端に青空がぱっと開けて、駅弁も信じられないくらいイタリアの方が美味しかったと繰り返していたわ」。

パリから国境を越えイタリアに入って青空が開けたと云うのなら、ジュネーブ経由でアルプスを抜けたのではなかろうか。ドモドッソラ駅を若かりし先生が酒を呷りながら上機嫌でイタリアに入ったと思うと妙に親近感が増すような気がするが、それとも一直線にリヨンからバルドネッキア経由でイタリアに入られたのかもしれない。ドモドッソラから入ったのなら当然ミラノあたりで宿を取ったに違いないが、イタリアでは好物の鴨肉やら猪肉にはありつけたのだろうか。

 3月某日 三軒茶屋自宅にて
上野の文化会館で「杜甫二首」を聴く。
MFJの三浦さんがNHKの吉田さんに「杜甫」の総譜について尋ねられ、この曲は総譜がないのが良いところ、と説明して下さったそうだ。正しい演奏を測る指針もないけれど、間違った演奏も存在しないのは、悪いことではない気がする。正しい演奏を目指すほど、演奏者の本来の姿から離れてゆく場合もある。総譜がない替わりに、録り直しも繋ぎ直しもないのでお許し頂く。
兎も角、本番は各々の演奏者の世界が有機的に重なり合い紡ぎ合う、素晴らしい演奏。
丁々発止と云うと二次元的だけれども、それが三次元で有機的に相関関係を築けば、ちょうどあんな塩梅か。各人が表現したい音を、表現したいように出してくれるのなら、それに条件づけするのは極力避けたいが、どこまで音符を豊かなまま単純化できるか。

「春望」のリハーサルが終盤に差し掛かった頃、板倉さんから「この曲は中華音楽を欧州風に演奏する感じなの? それとも中華風に演奏するの」と尋ねて下さって、音像が急に具体的に纏まった気がする。幾つか試した結果「中華で行こう」が合言葉になった。

「対雪」は突き放したマドリガリズム。聴き手が言葉と音楽に反応し、自由に風景を思い描く。音楽が詩をおもねるのではなく、それぞれ聴き手が、各人の景色のなかで魑魅魍魎を思い、無常の境地に耳をそば立てる。波多野さんの指圧の先生が中国出身で「泪蛋蛋」の民謡をよくご存知で、身体を締め上げながら朗々と歌って下さったそうだ。
ユージさんに「あのピアノパートはいいね」と言われて愕く。畏れ多いと狼狽えると「まあピアニストじゃないから」と笑われる。

 3月某日 ミラノ自宅
「饒舌な口上が時にとても虚しく響くように、音符を書けば書くほど、自分から遠くへゆくような気がすることもあります」と書いた。
東京現音計画のための曲あたりから、作曲の作法がドナトーニに似てきた。尤も、表面的には全く似通っていないのだけれども。
安江さんのために、前にマリンバに編曲した「朧月夜」を歌つきで演奏できるように書き直す。原曲が作曲されたのは、今からほぼ100年前の1914年。当時は未だ「朧月夜」と聴けば、どんな月明かりなのか想像がついたに違いない。「朧月」は春の季語だそうだが、あまり明確な朧月夜の映像が頭に浮かばない。
輪廓が茫とした仄かな月か、一枚ガラスを通して眺めているような、くぐもった春の月か。

 3月某日 ミラノ・古代競技場通り
大石くんからサックス独奏曲の題名はと尋ねられ、スカラの学校裏の戦車競技場通り突当たりの喫茶店で暫し考えこむ。古代ローマ時代ここに巨大なトラックがあって、戦車競技をしていたとは信じられない、鰻の寝床のような古いミラノの街並みが続く。
題名のセンスは余り良くはないし普段から頓着もしないので、作品が出来上がる前に決めても影響はない。黒人霊歌の「Lay my body down」とアメリカ国歌、それからエリック・ガーナーの死にまつわる数字の羅列を素材としているので、敢えて場末の安っぽさから「禁じられた煙 Smoke prohibited」と題をつけ、彼がヤミ煙草売りの嫌疑で逮捕された場所に因んで「湾岸通りバラード」と副題を添える。この処少し寒が戻ってきたので、暖を取るべく店を出る前にサンブーカ酒を垂らしたコーヒーをぐいと呷る。

 3月某日 ミラノ・トリノ通り
「最高の誕生日祝になったじゃない」。劇場に向かいながら息子に声を掛けると、「本当にそう」と弾んだ声を上げた。今日は彼が児童合唱で参加するカルメンの初日で、6時45分に集合、親は終演後の11時35分に迎えにゆくので、夕飯にトマトソースのパスタとハムとお八つを持たせるが、流石に今日は興奮して殆ど何も食べていなかった。帰り途、「今日は舞台から1列目のお客さんが良く見えた」と嬉しそう。「お年寄りばかりだった」とのこと。そりゃそうだろう、と言い掛けて、止した。

 3月某日 ミラノ自宅にて
沢井さんの七絃琴のためのスケッチ。中国の七絃の古琴のヴィデオと、丘公「碣石調幽蘭」の楽譜を繰り返し眺めている。先月今月、ニューヨーク東京と続けて吴蛮の琵琶を真近で見て、特に右手の動きで学ぶところがあった。何度眺めても、幽蘭が5世紀前後の作とは俄かに信じられない。西洋音楽史の視点のみを通して世界を観ると、根本的な部分で抜け落ちるものの大きさについて思う。世界最古の楽譜の一つが遣隋使か遣唐使によって日本にもたらされ、今も残存している。朝鮮、中国はもとより、ベトナムやインド、世界各地の文化が混淆していた、当時の賑々しい日本の姿に想いを馳せる。この所の沖縄の人々とのやり取り一つを見ていても思うが、世界と情報の共有が進んだ現在、我々は何か大切なものをどこかに置き忘れてきた気もする。昔はもっと各々の個性が花開いていた世界
だったに違いない。こうしてグロバリぜーションが進み、最後に残る存在理由はどんなものか。

3月25日 ミラノにて  

アジアのごはん(68)シッキムの漬物グンドラック

インド北東部シッキム州の小さな町ペリン。ここにあるペマヤンツェ寺院で僧たちによるチベット仮面舞踊を満喫したあと、ふわふわとした気分でホテルに戻る。寺からは下り坂でホテルまで20分ぐらい。お昼を食べそこねたので、泊まっているホテル・ガルーダの食堂で何か軽く食べよう。夕食はおそめにすればいいか。

「何を食べようかな‥」寒いので、あったかい汁ものが食べたい。メニューを見ているとシッキム・スープ、というのが目に留まった。おお、シッキム料理。何種類かあるので、ホテルのオーナーのチベット人お父さんに訊くと、「これがおすすめ」と言われたのがグンドラック・スープだった。インドではスープはたいがい一人前の日本のお椀位の大きさの器で出てくるので、一緒に行った友人たちもそれぞれ好きなスープを頼む。タイや中国ではスープ類を頼むと2〜4人で食べるに十分な量が出てくるのがふつうだから、はじめは戸惑う。英国式の影響か。

「あれ、この味‥」出てきたシッキム・スープは茶色く地味なルックスである。スプーンで掬うとくすんだみどりの葉っぱのような、アオサのような得体のしれないものがモロモロッと入っている。う〜む、だいじょうぶかな。しかし、一口食べると思わず声が出た。まるで、みそ汁か納豆汁かのような気配の味がする。ちょっと酸味もある。コクがあり、おいしいじゃないか。しばらく夢中でスプーンを使う。

「シッキムの味噌汁〜」「なんだろうね、この味の元は」シッキム地方には納豆もあるし、こういう味はあっても不思議ではないが、もしやこのあたりの納豆キネマ入り? ちょっと違うような。シッキムやダージリン、ネパールつまりヒマラヤ地方にある納豆キネマは、見た目は日本の納豆とそっくりだが、あまり粘らない。日本の納豆菌とは違う菌かもしれない。そして、けっこう臭い。

このスープもほのかに臭いので、納豆入りかもと思ったのだ。シッキム滞在の後、少し南のダージリンに行き、ヘイスティ・テイスティという店に行った。ここはセルフサービスの店で、カウンターで料理を注文する。やっぱり寒いので、何かスープをと思いホット&サワースープというのを頼んでみた。出てきたのはまるでシッキム・スープ。一口食べるとやっぱりシッキム・スープじゃないの。これはネパール料理だという。こちらは酢とトウガラシを入れてあってかなり酸っぱくて辛い。これもウマイです。

ダージリンの本屋でシッキムの本を買い、インドの旅からタイのバンコクに戻って暑さにうだりながら読んでいると、わずかな食べ物解説ページに「GUNDRUK」という漬物がのっていた。あれ、たしかシッキム・スープで頼んだのはグンドラックという名前だった。解説によると、大根やかぶの葉っぱや根っこ、からし菜、カリフラワーの葉っぱなどを刻んで無塩で乳酸発酵させたものだという。え、漬物ですか。何々‥発酵させた後、日干しにして保存し、スープに入れたり、ひき肉と炒めたりする、と。

あの、シッキム・スープの何とも言えないコクと懐かしい味はグンドラックという漬物から作られていたのだ。そして、まるでアオサみたいなモロモロの正体もグンドラックなのだった。このグンドラックはシッキム地方だけの食べ物ではなく、広くネパールでも食べられていて、やはり納豆キネマと同じくヒマラヤ地方の発酵食品なのである。しかも、日本の木曾地方に伝わる漬物すんき、と製法がそっくりだという。木曾地方では塩が貴重品だったことから、無塩の漬物が生まれたというが、寒さを利用して、塩分がなくても腐敗しないように工夫したものか。

グンドラックの製法は、こうだ。緑の葉野菜を刻んでカメにぎゅうぎゅうに詰め、上からお湯(30度位)をかけて密閉し暖かい場所(多くは土中に埋める)に置き、7日間発酵させる。酸っぱくなったら、カメから取りだして日に干す。出来上がったものは酸っぱくて香味がある。ミネラル、ビタミン豊富。発酵菌種はペディオコッカスおよびラクトバチルス種。製法はドイツのザウワークラウトに似る。ザウワークラウトも無塩乳酸発酵の漬物なのだ。

現在のシッキムはインドの一部だが、住民はネパール系、チベット系、そして先住民族のレプチャなどモンゴロイド系で構成される。アーリア系の血の濃いヒンドゥー世界のインドからやって来ると別世界だ。かれらは、民族の文化の違いを保持しつつも、かなり影響を受け合っている。チベット寺院でごちそうになった料理も純粋なチベット料理ではなく、ネパール料理の影響を受けたカレー風な味付けのものが多かった。ネパール族はイギリスの植民地時代に紅茶園で働く労働者としてこの地方に流入してきた。今ではシッキムの住民の7〜8割を占める。

シッキムのチベット族は17世紀にチベット仏教のゲルク派が政権を取ったチベットから移住してきたニンマ派の人々で、シッキム王国をこの地に作った。この数世紀の間にチベットのチベット族とは少し違ってきたようである。もっともチベット地方も広くて、地方によってさまざまなチベット文化があるので、シッキムのチベット人たちが特別なわけでもないだろう。

もともとこの東ヒマラヤ地方に広く住んでいたレプチャ族は、チベット人が押し寄せてきてシッキム王国を作ってしまい、山間部に追いやられ、生活様式もだんだんチベット化してしまった。ネパール族も広く食べている漬物のグンドラックや納豆、こんにゃくなどはもともとレプチャ族の文化だ。レプチャ族については日本人のルーツのひとつという説もあるほど、文化に似ているところがあるようだ。顔つきもけっこう似ている。

ちなみにうちの同居人は日本人だが、チベット人顔である。色が黒くて、鼻がわりと高くて、たれ目で目が細い。こういう顔がチベット人には多いのだ。遠い昔にチベットから祖先がやって来たのかもしれない。チベット人の主食のツァンパだって、日本の麦こがし、はったい粉を練って食べるのと同じだし。

そして、レプチャやネパーリの納豆、こんにゃく、漬物などは日本の伝統食品そのものではないか。ルーツなのか、同じような気候風土が生む類似なのかは分からないが、遠く離れたこの地で日本と同じような保存食を作って食べているというのはとても面白くて、興味深い。市場や小さなお店をのぞくたびにワクワクしてしまう。

日本に帰って来たので、グンドラックと同じ製法という木曾地方のすんき漬けを入手しようとしてみたが、1月にテレビで取り上げられて注文が殺到したとかで、どこも売り切れ。次の冬までお預けとなった。すんきに多い植物性乳酸菌が身体にいいからということらしいが、植物性乳酸菌はどこにでもいるんだけどね。


ジャワ舞踊を彩る花

インドネシアでは(というかアジア周辺諸国でも同じだが)各種儀礼の室礼飾りや供物で香りの良い生花が大量に使われ、その芳香が会場中を包み込む。しかもその出席者や踊り手も生花で身を飾る。こういう香り豊かな花の使い方は日本では難しく、インドネシアがうらやましくなる。というわけで、今回は踊り手を彩る花を紹介しよう。使われる花は、ジャスミン、カンティル、バラである。

まず、ジャスミンとカンティルについて。カンティルはモクレン科の植物で、和名でギンコウボク(銀厚朴・銀香木)と言うらしい。花びらの丈が5㎝位で、日本のモクレンよりもずっと小さくて細身。どちらの花も白色で、つぼみだけを摘んで使い、すでに開花したものは使わない。ジャスミンのつぼみを糸で通して花房やネットを編み、その端にカンティルのつぼみを留めて処理する。ジャワの花嫁は、結いあげた髪の髷(まげ)をこの花のネットで包み、さらにティボ・ドド(胸に達するという意味)という花房を1本、髷の根元に挿して、おさげ髪のように長く垂らす。踊り手が花嫁の姿をする「ブドヨ・クタワン」というスラカルタ王家の最も神聖な舞踊では、胸どころか太ももにまで達するくらいの長いティボ・ドドを飾る。宮廷舞踊には、レイエ(倒れるという意味)という上半身を大きく傾けるような振付が多く、そのたびにティボ・ドドが揺れて、流れる水のようになめらかな舞踊の動きの優雅さをいっそう引き立てる。

冠を被る舞踊(ゴレックやスリンピなど)の場合、ジャスミンの花を10粒ほどつないだものを耳元にイヤリングのように垂らすことがある。普通はビーズの房をつけるのだが、花に替えると踊り手の顔色が映えるだけでなく、その芳香に踊り手も陶然となる。花はビーズよりもゆらゆら華奢に揺れて、舞踊に表情を添える。

また、花輪をネックレス代わりにすることもある。豪華なアクセサリがない庶民にとっては、花で飾り立てることが何よりのお洒落だったに違いない。民間起源の舞踊ガンビョンでは、今でもあまり豪華なアクセサリをつけない一方、長いジャスミンの花輪を首から腰にたすき掛けするように掛けて踊る。昔の写真を見ると、花輪は胸元までのネックレス程度の長さのものが多かったようだ。かつてはその花輪に病気を治す力が宿っていると考えられ、観客は踊り子にその花を所望したという(1950年代始めに出た文化雑誌の記事にそう書かれている)。

男性舞踊家の場合、腰背に挿した剣の取っ手に花房を飾る。踊り手が背中を向けない限り見えないこの飾りが、戦いのシーンにって踊り手が剣を抜くと一転、注目の的になる。剣を振り回すたび花房が揺れ、刃が合わさるたびにジャスミンの花が1つ1つ飛び散って宙を舞い、そして床にこぼれる。ちょうど桜吹雪の中で立ち廻りをするような華やかさがある。

次にバラの花だが、赤、白、ピンク色のものをほぐして、花びらだけを使う。スラカルタ宮廷の女性舞踊のスリンピやブドヨでは、通常より長い腰布を引きずるように着付け、その裾の中に、バラの花びらを巻き込む。踊り手は、この裾を右に左に蹴りながら踊るので、踊っていく内に中に巻き込んだ花びらが次第に飛び散っていく。スリンピは4人、ブドヨは9人でさまざまなフォーメーションを描きながら踊るから、床に散ったバラもそれにつれてさまざまな軌跡を描く。それは、まるで踊り手が床に曼荼羅を描いているようでもあり、仏への散華にも見える。私がジャワ舞踊の中でもスラカルタ舞踊を一番好むのは、この裾からこぼれる花びらに魅せられたからなのだった。

これらの花はパッサール・クンバン(花市場)で買え、店主のおばさんが客の注文に応じてティボ・ドドや花輪などをせっせと作っている。作るのに時間がかかるので、普通は何日か前に予約しておく。また、バラの花は墓参りにも使う(墓石の上に撒く)ので、多くの人が帰省して墓参りをする断食明けの頃には値段が倍に高騰する。一度、断食明けの1か月後にスリンピ舞踊の公演をしたことがあるのだが、そのときに着付担当の人からそう言われてちょっとビビッてしまった。まあ、断食明け直後ではなかったのでそれほどでもなかったが、スリンピだと4人分として手つきの花籠1杯分を用意しないといけないから、ちょっとした出費になるのだ。

以上の他に、目立たないけれどパンダン(英語でパンダナス)の葉も使われる。この葉を繊切にしてヘアネットに詰めて丸めたものを髷の土台とし、簪などをここに挿していく。いわば天然の毛たぼなのだが、お菓子の香料にも使われるパンダンの葉は良い香りがする。現在ではすでに成形された髷を頭につけるだけなので、伝統的な髪型をするのも楽なのだが、私はこのパンダンの香りが好きなので、インドネシアで自分が公演をしたときには、パンダンの葉を土台にして地毛で髷を結ってもらっていた。1980年代の始め頃にはまだ付け髷がなく、いちいち地毛で結っていたようだが、今ではすっかり廃れ、宮廷か芸大での伝統髪型実習の授業くらいでしか目にすることはない。というわけで、パッサールにパンダンの葉っぱを買いに行くと、「あら、芸大の実技なの?」と言われてしまう。

ふと気づいたのだが、蘭の花や、バリ舞踊レゴンの冠の飾りにするプルメリアの花も使われない。せいぜい、ティボ・ドドの先にカンティル以外に小さな赤色の菊の花をつけることがあるくらい。もっとも、プルメリアは墓地に植える花だからかも知れない...。また、赤、白、ピンク以外の色、たとえば黄色や紫色系統の色の花も使わない。各種儀礼のお供えに使う花にも同じことが言える。実は、西ジャワのチレボン王宮のスカテン(イスラム儀礼)を見に行って大変驚いたのが、お供え用の花に黄色い色の花なども交じってカラフルだったこと。この配色は中部ジャワの王宮の供物にはあり得なくて、「イロモノ」という感じがしてしまう。


製本かい摘みましては (109)

読者から電話が日に何本もかかってくる。久しぶりの紙面刷新で、長く続けてきた"付録"のスタイルを変えたことへの苦言がやっぱり目立つ。本文のほぼ倍の大きさの厚い紙に片面カラー印刷したものを2つ折りして毎号綴じ込んできたのだ。ノドにはミシン目。楽しみにしている人がいるいっぽうで切り取りもせず見もしない人も確かにいて、全体の制作費に占める割合が大きいので懸案だった。その方法をやめて別の見せかたにしたのだが、「いつものあれがない」とのご不満ごもっとも。でも逆の、あるいは思いもよらぬ感想を聞けるのがたまらない。たとえばこんな話。

紙も変えましたね。白くなって文字が読みやすくなりました。雑誌全体の厚みは増しましたが1グラムくらい軽くなったでしょう。持ちやすくなったのは"付録"をやめたからですね。私はもともと使わなかったのでいいと思いますが、反対意見が多いのではないですか。年をとると指が乾いて紙をめくりにくくなるものですが、前より表面がざらついているのかなんなのか、めくりやすくなりましたね。それでいて写真もよく出ていて、黒い部分を斜めから見てもテカらない。実は私、製紙会社を数年前にリタイアしまして、今も紙に関心があるので、さしつかえなければ新しい紙の銘柄とメーカーを教えていただけませんか。

尋常ではない指摘に高揚した。長話になるに違いなのでかけ直すことにした。電話を切って編集部の皆に話すと「オ〜〜」と歓声。ほめられることに飢え過ぎのひとびと。編集長がすぐ印刷会社の担当A氏に電話して、これこれこんなことを言われたと伝え礼を言った。わたしたちが誌面刷新を機会に印刷会社に望んだのは「これまでよりも読みやすくて軽くてめくりやすくて印刷がきれいに出て値段もそんなに変わらない紙」。A氏は呆れることなく、これよりはそれ、それよりはあれとわずかな違いを見比べて判断する機会を、束見本や刷り見本を何度も作って示してくれた。おかげで望む紙にはいきついた。でも身内満足に終わりはしないか――とおびえていたところにこの電話。うれしかった。たったおひとかたの声だとしても。

A氏が候補にあげた紙はどれもほんのわずかずつ違う。色合い、手触り、重さ、厚さ、雰囲気、そうだ名前も。なのにそのひとつずつがひとつずつの商品として在るというのはすごいことだ。これでなくちゃと選ばれる特徴を持ち、いつでも注文に応えうる態勢を整えているということだもの。より良い紙を印刷会社に探してもらってそれを見て文句を言うだけだったり、紙見本帳をめくって選ぶことだけを繰り返していると、やっぱり時々、そういうことのすごさが頭から遠ざかるもんだと改めて思った。電話の人がそのあと、佐々涼子さんの『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている――再生・日本製紙石巻工場』をひいて話を続けたからだ。東日本大震災のときはこの雑誌も本文紙を変えざるを得なかったことをその人に伝えた。当時そのことに対する苦情苦言はもちろんこなかった。質問も、なかったけれど。


善のネーション!応答せよ

同世代の文化人として、いとうせいこうの仕事には共感を持って注目している。先日、不慮の自転車事故で未だ意識不明状態のミュージシャン、朝本浩文さんを励ます「朝本エイド」が開かれたのだけれど、そこでも彼は、印象的なパフォーマンスを行った。朝本氏もメンバーだったミュートビートをバックに、詩を朗読したのだ。レゲエの"ダブポエトリー"と呼ばれるものだ。

昔のレゲエのシングル盤のB面は、ボーカルトラックを抜いてリズムトラックだけにした"バージョン"と呼ばれるカラオケがほとんどだった。この"バージョン"にエフェクト処理をして、ベースやドラムをやたらと強調したり、リバーブをかけ位相をずらし、リズムギターにエコーをかけてカットインカットアウトさせたりして加工したものが"ダブ"だ。この"ダブ"をバックに詩を朗読するのが"ダブポエトリー"だが、この分野で有名なLKJ(リントン・クエジ・ジョンソン)は、詩にあわせてダブを作った。詩の言葉の抑揚がベースラインとなり、アクセントがビート、リズムと化す。
「言葉が具体的な思考、メッセージを表すとしたら、ダブは、その裏に潜む感情、鼓動、情景を表すもの」(『訳詩でみるレゲエの世界』菅野和彦・酒井裕子編著より引用)だ。LKJの放つ抵抗の言葉にダブの「冷静沈着ながらはじけ飛ぶリズムとパワフルに底を揺さぶるベース」が呼応してひとつの強靭なメッセージを編み上げていく。音に裏付けされたメッセージは、人の心に強く響いていく。いとうせいこうの"ダブポエトリー"は、LKJを受け継ぐスタイルのようだ。

充分議論をつくしたわけでもないのに、もう決まったかのように、あいつらは押し進めようとしている。

...冷静沈着ながら、はじけ飛ぶリズムとパワフルに底を揺さぶるベース。

あいつらには絶対に理解できないクールなリズムで、私たちの決心を刻まなければならない。あいつらの文脈を軽々と飛び越えるクールな表現を手に入れなければならない。

ひとりひとりが自由で、そのうえで横につながれるメッセージを、注意深く、鋭く、いとうせいこうは発信する。ダブと共に届けることはできないけれど、朝本エイドで朗読された詩を、相棒が書き取ったバージョンで引用したいと思う。

「African DUB / いとうせいこう」 DUB POET全文

人間は未来を変えられる。 人間は未来を変えられる、動物である。

人間は未来を変えられる。
人間は未来を変えられる、動物である。

変えた未来の中にしか人間は、いられない。

これまで多くの破壊と殺戮を繰り返している。
これまで多くの破壊と殺戮を繰り返している。

自然や生命がある程度取り戻せる範囲内に
それはとどまっている。

にもかかわらず
にもかかわらず

まったくちがう!

ビースティ・ボーイズは言っている。
「人間は絶滅に向かっている。
金銭的利益のために兵器を作っているからだ。」

諸君!
自分でかけた暗示のトリックに、自分ではまっちまったらおしまいだ。
そいつは暗示のレールの上を一直線に走っていくだけさ。
だから、だから、暗示の外へ出ろ。
俺たちには未来がある。
暗示の外へ出ろ。
俺たちには未来がある。

諸君、私は問いたいのだ。
悪の衝動があるのなら、善の衝動もあるのではないかと。
悪がこの世を覆うならば、善もこの世に充ち満ちるべきではないか、諸君!

すべての悪を撃破して、我々は進む。
すべての悪を撃破して、我々は進む。
百万の軍隊も善を止めることなど出来ない。
花を植えよ、道を清めよ、貧しさに与えよ、正しさを求めよ。

同志よ、「善のネーション」よ!
「善のネーション」、応答せよ。
「善のネーション」、応答せよ。
それはもはや宇宙の「法」である、諸君!

自分でかけた暗示のトリックに、自分ではまっちまったらおしまいだ。
だから、暗示の外へ出ろ。
俺たちには未来がある。
それはもはや宇宙の「法」である、諸君!

東に病気の子があれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って「怖がらなくてもいい」と言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
(宮沢賢治「雨二モマケズ」より)

暗示の外へ出ろ
PEACE & LOVE

PEACE!


グロッソラリー ―ない ので ある―(7)

 1月1日:「怒りっぽい人っているだろ。ああいうのはほんとに苦手だな。特に急に怒り出す人。いわゆる瞬間湯沸かし器っていう人。しかもいつ怒りだすか
わからないんだよな。こっちは普通の話をしているのに、いきなりどなりつけるようにして返事してくるんだよ。参っちゃうよな。会社にも一人いるんだけど、
まさに腫れ物だよ――」。



( ╬ ◣ д ◢ ) ムキー!!





 仕事で眠れず三日三晩耳鳴りがしていた、と自慢げに言う人がいた。わしは数十年この方、耳鳴りがやんだことがない。だから静寂というものを知らない。
ピーピー、シャーシャー、キーン、ザーと実に多彩じゃ。子供の頃は耳鳴りのせいで気が振れそうにもなったが、今では現代音楽がわしだけのために奏されてい
るのだと思っている。



(´з`)ナノダヨ





 窮地に立てば立つほど、救いの手が遠ざかる。孤独を知ってはじめて、街の音や人の声が意味を帯びる。異端児がまぎれ込んでくると、全員が初めて見せる熱
心さで排除にかかる。恋愛状態は賞味期限があるが、結婚生活の幸福は元より期限切れである。人の輪から離れて難しい顔で黙然としている人は、思慮深いか阿
呆のどちらかである。



(o0-0o)ゝであ〜る!!





 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人......。



クゥーッ!!"(*>∀<)o(酒)"





 1月1日:「学校行ってる間はいいぞ。いろんな厄介事はあるんだろうけど、何か責任を取らなきゃならないわけじゃないし、それに自由度が高いからな。俺
も戻りたいよ。小学校でも中学校でもいい。会社のつまらなさったらないぞ。会社というよりは仕事だな。朝っぱらから大して興味ない内容にほぼ半日かかずら
わなきゃならないしな――」。



(・ _ ・) ツマラナイ





 黒土の大きなハゲ山がある。頂上から谷に向かって舗装路が伸びている。道を進むと崖っぷちで破壊されている。それらを遠く眺めるようにブティックがあ
り、常に青いジャケットを探している。探している間に駅に着く。超急行列車はAへ行くのに必ずDで下車して遠回りしないといけない。料金は決まって足りな
い。わしが毎晩見る夢。



(ー3ー).。oO





_■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■ ̄■

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ァァァァァァァァァァァァァΣ☜ー( ゜Σ ゜)ノ





 また会いたいと強く思う人々は、みんなあの世に行ってしまった。いつからじゃろうなあ、もうこの世で会いたい人など一人もいなくなったのは。じゃが生き
ているというだけで魅力が半減する不思議も感じる。わしの間主観性も二度と広がることはない。意識がどうのといっても青天井じゃない。形而上学も半可通の
世界。わしの準備は万端。



。:゚(。ノω\。)゚・。





 いや、そうです。ほんとにおっしゃる通りでございます。誰がなんと言おうと、その通りです。なんの間違いもございません。ええ、ほんとにそうです。こん
な世の中ですから、余計なくちばしを挟む方もおりましょうが、今おっしゃった内容こそがほんとに正しいんです。言うなれば真実というものです。大金の前で
は誰もがこうなりカネない。



(●´・△・`)はぁ〜





 1月1日:「結局、学生時代に何をやったかとか何に強い興味を持っていたかとか、そんなことがあとを引くからな。俺もいい歳だけど、やっぱり学生時代に
やったこととどこかで結びついてるんだよな。飲みに行くのも会社の連中じゃなくて、高校や大学の頃のやつらだしな。当時の飲み方はすごかったぞ。ろくにカ
ネ持ってなかったけど――」。



うぃー~~~~~(/ ̄□)/~(酒)





 誰にだっていつかその時が来るわけだから。仕損じた絶叫マシンからすれば、これくらいの大きさ、五十センチくらいか、おおよそそのくらいの異臭がする
上っ張りなんざ極悪とまではいかないまでも、まあ四十代になるまでにへいこらして実験してみてもいいんじゃないか。これぞお手盛りの一発芸っつうもんだ
よ。



(*≧▽≦)bb めっさ楽しみやん!!





 四月が近づくと、細くて紫色の強迫観念の複数の触手が、額に向かって伸びてきて脳に充満し、神経過敏になって落ち着かない。六月が近づくと、嫌悪してい
る真夏の到来を満身に感じて、動く気力がなくなる。十月が近づくと、夏の置き土産としてどこかに落とし穴があるのではと疑心暗鬼になる。十二月が近づく
と、脱力して役立たずになる。



(♋ฺ♋)なんだよ...





 なんと言おうが知らんものは知らん。一家総出で夜逃げジョッキングだったろうけど、むべなるかな、ジュラ紀あたりのかまぼこが言うことにゃ、瀕死で横っ
飛び、まじめな惰性もなきにしもあらずが通用するかしないかの七五三に左右されるそうじゃないか。やっぱり夢中ですね毛を抜いてるようじゃダメか。



ε=(♉ฺ。♉ฺ)ハァ...。





 勝ち組と負け組、第一次産業と弟三次産業、上部構造と下部構造、人はグループ分けを好む。いや、グループ分けを好むのではなく、分けられる側が不安とわ
が身への執着から、おのれの立ち位置を心底知りたがる。結果、どこに所属することになろうとも、ほっとしておとなしくなる。この国の人は世界でも例をみな
いくらい静からしい。



(。・ε・`。) ほ。



 

 1月1日:「酒の飲み方なんか知らないし、知っててもその通りにはしないようなやつらだったから、もう何でもあり。日本酒のチェイサーにビールとか、ジ
ンをウオッカで割ったりとか、酒であれば何でも良かったんだろうな。そんなはちゃめちゃな飲み方していながら、これうめえよなんて言ってるんだよ。その彼
は今アルコール中毒――」。



マイッタネ ┐(-。ー;)┌ ヤレヤレ





 そりゃ鳥もクォークと鳴くわけじゃ。断わっておくが、わしは民事不介入じゃからな。はしなくも感情家でもあり医学屋でもある。だからベンゾチアミン系な
ら、欲しがるだけ出してもまあ問題なかろう、なあみんな。ウサギ好きに吝嗇家はいねえっていう通り、垂れ流したってひょうきんなのほほん顔だ。嬉しくて悲
しいね。しし座だしな。



o(*⌒―⌒*)oにこっ





 運命、宿命、決定論、予定調和、こうした便利な言葉たちは、実は大いなる被害者だ。人間が何かをし損ねたり頓挫したりする度に、便利な言葉たちに責任や
負債を丸投げして、自らはすっきりして救われたような気でいる。その言葉たちに否を突きつける人間もいるが、背負い切れるものでもない廃物を抱えている以
上は無理なからんことだ。



+.(´・∀・)ノ゚+.ダー☆





 いや言われたね。子供みたいな女性裁判官に。「もう二度とこのようなことは致しません」「しかし裁判所は勾留申請をします」「くしゃみの際の尿モレはあ
りませんでした」「しかし裁判所は勾留申請をします」「たった今、山が動き海が拓けました」「しかし裁判所は――」「世界中の金銀財宝を用意しました」
「しかし裁判所は――」。



o(><;)○"バカバカバカ!!





ドクマチールにハルシオン。



はじめまして・・・ペコリ(o_ _)o))





 芥川龍之介は「(世間への)ぼんやりとした不安」から自殺したと言われておるが正しくない。この表現の前には「僕の将来に対する」というものが存在す
る。簡単に言えば、自分の将来が不安ということじゃ。不安神経症のわしも同感。将来どころか、一瞬一瞬に払いのけようのない大風呂敷が粘着しておる。周辺
のいちいちに悪意を感じる。



タスケテェ〜ノノノ_(≧。≦_)





 1月1日:「アル中って周りが想像以上に極端みたいだな。一日何も食べずにアルコールばっかり口にしてるんだって。そいつの場合はウオッカ。朝起きてウ
オッカ、家を出しなにウオッカ、会社に入る前にウオッカ、机の上にミネラルウォーターのボトルに入れたウオッカ、仕事中もウオッカ、昼休みにもウオッカ、
戻ったらウオッカ――」。



(((\(@v@)/))) 酔ってないぞぉー





 気がつけばひとりぼっちになっている時、過去に同じ状況におかれた複数の自分との交流が始まる。目標に対してまるで不出来で後悔に暮れた自分、あまり親
しくはなかったが死なれてからの喪失感に責められた自分、最も望ましからぬ姿になり取り返しのつかなくなった情けない自分、そしてこれからの展望も冒険も
なく一切を消去したい自分。



(。´-д-)疲れた。。





 ザッと流れる水洗便所のごと。ここでは和式じゃ。今後、案外にも未公開なわしが、オットセイみたくもんどりうって飛び出しちまうぞ。酢を飲んでも体は柔
らかくならない代わりに、頭のほうはどうかなっちまったりな。うひひ。笑え笑え。笑いのあとには十中八九怒りがくるから、せいぜい今のうちだ。♪後ろから
前から、う、ひひ〜ん。



(。◐∀◐。)〜〜♡頑張るのヨ!





 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人......。



クゥーッ!!"(*>∀<)o(酒)"





 1月1日:「家に帰っても当然ウオッカ。最後のほうはもうウオッカの味なんてしなかったらしいぞ。むしろ水道水が甘く感じたって言ってたな。あれだけ度
数が高い酒なのに、いくら飲んでもほろ酔い程度にしかならなかったらしい。それである日、自分の知らない間に大量の薬をウオッカで流し込んでて、自殺をし
ようとしたんだって――」。



ε ミ ( ο _  _ )ο ドテッ...





 自分が健康かどうか自問してはならない。お伺いを立てたその時から不健康になる。人によっては健康のためには死をも辞さない。無茶な動きをし、断食まが
いのことをし、本から余分な知識を得る。自分がどれほど不健康かを毎日毎日わざわざ点検している。健康は幸福と同一平面上にある。その二つが言う。ノイメ
タンゲレ。我に近寄るな。



(ΦwΦ)〆注射打ちますよー





杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

   杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

  杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー杏マナー

  ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏

   ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏

   ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏



(* ̄∇ ̄)ノシツモン!!





 夢に向かって走り続けるのはいいことじゃ。明るく楽しく生きられるし、生が美しく飾られる。特に青春時代なんかはいいね。思い描いてみても実にお似合い
じゃ。くじけそうになっても、改めて夢に向かえばカタルシスに浸れる。じゃがそうは問屋が......なんじゃっけ。まとにかく、無視された現実からの復讐に耐え
られるかがカギじゃな。



ガード (。・д・)ノ||゛;`;:゛;`;:゛





 浦ほんだりつ あにをせで

 じゅうこふなある がんしからん

 ぶたり心情 なぞかわもし

 行ったきわだに だそめそな

 いっとじんるめ 真砂れく



┌(㊧o㊧)┘♪└(㊥o㊥)┐♪┌(㊨o㊨)┘





 グールドが弾くS・バッハの『ゴルトベルク・ヴァリエーションズ』は、モーツァルトの『ジュピター』よりも絵にしやすい。降り始めの小雨、蒸気機関車の
ホイールとその周辺の動き、音を立てる巨大なハンマー、上から垂直に落ちてきて地面に食い込む白いマーブルの門柱、三匹のネズミのダンス、強風にあおられ
る小雪、迷い小道などなど。



♪wヘ√レvv〜(゚∀゚)─wwヘ√レv♪〜





 困難や苦痛が大きくなると、倒れそうなほどの眠気を催す。使用限度を超えればブレーカーが落ちるように、脳も未曾有の苦しみの毒性を処理できず、眠りと
いう形で意識を中断するのだろう。一時的に消されたところで目覚めてしまえばそれまで。人待ち顔の酒や薬物。深い懐を示す病。そんな中、一番魅力を感じる
のはやはり死である。



( ̄□ヾ)ネムー





 告白すると、やり遂げられなかったことや言ってみたかったことが山ほどある。馬齢を重ねることは因果律を知るということだ。急にセンチを娶ることになっ
てなんなんだ。と言ってみたかった。なんてことも言ってみたかった。とか言ってみたかった。言葉と母国語は永遠に続く。ベロ藍と同じぐらいに。いや、スフ
マートと同じくらいじゃな。



(。・・)ノ◇ 座布団どうぞ


夜のバスに乗る。(6)犬井さんは「バスの方がいい」と言った。

 犬井さんに言われたとおり、僕と小湊さんはバスが終点を過ぎるのを待っていた。バスに揺られながら、小湊さんは僕に、
「ねえ、できると思う?」
 と、とても楽しそうに聞く。
「どうだろう」
 僕が正直に答えると、小湊さんは不満そうな顔になる。
「斉藤くんがそんなふうだと、うまく行くものも、うまく行かないよ」
 そう言われて、僕は笑ってしまう。
「勝手だなあ」
「そんなの、承知の上よ」
 小湊さんの言葉に、それはそうだ、と僕は思う。だいたい、バスジャックしてまで修学旅行のやり直しをしたいなんて考える時点でとてもおかしい。だけど、それほどおかしなことを言っているような気がしないのは、小湊さんがなんとなくだけれど、失敗したら失敗したでかまわない、という気持ちでいるからじゃないのか、と僕には思えた。小湊さんはそんなことは一言も言っていないのだけれど、そんなふうに思っているのかもしれない、と僕には感じられた。
「ねえ、できると思う?」
 小湊さんがまた、聞いた。さっきよりも力のない声で、でも、はっきりと僕に問いかける。
「できると思うよ」
「ほんと?」
 今度は僕が驚くほど、明るい声で小湊さんが言う。まるで、普通の女子高生のような声だ。普段はとても落ち着いた、意味ありげな感じのする声を出すくせに、いま「ほんと?」って僕に聞く声はとても可愛い。これがわざとだったら、とてもじゃないけど付いていけない。そう僕は思ったのだけれど、今の僕には、それがわざと出した声なのか、知らず知らず出している声なのかはまったくわからない。僕はそこまで大人じゃない。そう思うと、自分で笑ってしまった。
「余裕が出てきたじゃない」
 小湊さんは僕の笑顔を勝手に解釈してそう言った。
 バスが終点のバス停で止まった。犬井さんが車内放送のマイクで「降りないよね、当然」と楽しそうな声で言った。
 終点のバス停を通り過ぎると、犬井さんは駅前の大きなロータリーをぐるりと回った。
「終点から後で、お客さんが乗ってるとまずいから、ちょっと隠れてくれる?」
 犬井さんに言われて僕たちは頭を低くして、外から見えないようにする。この不自然な態勢になった途端に、小湊さんが笑い出す。「笑っちゃ駄目だよ」と僕が言うと、「だって、おかしいんだもん」と小湊さんは遠慮なく笑い続けた。僕はそっと犬井さんを盗み見たのだが、犬井さんも笑っている。みんなが笑っているんだから、この計画はもしかしたらうまく行くんじゃないかと、僕は思い始めた。

 ロータリーを出て、バスは車庫のある町へと向かった。少し離れた車庫まで、バス停で言うと四つほどだと犬井さんは言った。
 市街地から大きな川を渡るバイパスに乗り、それを降りたところで、犬井さんはバスを大きく迂回させて、バイパスの高架下にバスを停めた。エンジン音が響くのを避けるためだろう、素早くエンジンを切ってから、犬井さんはゆっくりとサイドブレーキを引き、ギアをもう一度ローに入れた。
 車体に残っていたエンジンの振動がすっかり消えると、犬井さんは席を立って、僕たちがいるところにまでやってきた。そして、改めて僕たちをしばらく眺めてから、またため息をついた。でも、そのため息は心の底からのため息ではなく、わざと僕たちに「本気なのか?」と確かめるためのため息、というように僕には思えた。小湊さんは犬井さんのため息に答えるかのように、
「よろしくお願いします」
 と頭をさげた。
「参ったなあ。でも、実は始まっちゃってるんだよね」
「なにがですか」
 僕が聞いた。
「本当はあのまま真っ直ぐ車庫に行かなきゃいけないでしょ。でも、いま私たちはこうしてバスを停めて話し始めてる。これもう、バスジャックが始まってるのと同じなんです。私にとっては」
 犬井さんはそう言って笑った。
「だってね。高校を出て、バスの運転手になってもう三十五年ですよ。今年で五十二歳。ずっと真面目一方でやってきたから、これまでコースを外れたこともないし、勤務時間内にバスを停めたこともない。だけど、もう、なんとなく乗っちゃったんですよね。へんな計画に」
「楽しそうだから?」
 小湊さんが犬井さんをからかうように言う。
「面白いな。うちの娘がお嬢さんと同じくらいなんですよ。いま大学一年生。うちの娘と話してても、なんか切なくなるんですよ。私と似て、真面目一方で。真面目なのが悪いとは思わないんだけど。いいとも思えないんですよ。うん、決してよくはないな。なにか、こう、父親とか母親とかもっと心配させて、彼氏でも作って、遊んだりすればいいのにって思うんです。私がそんなこと全然できなかったから。でもね、せつないね。まったく同じように真面目で」
「もしかしたら、知らないところで遊んでるかもしれませんよ」
 小湊さんはそう言ってから「すみません」と謝った。
「いやいや、本当にそうかもしれない。そうかもしれないけど、だったら今度はそんなにうまいこと隠さなくてもいいじゃないか、なんて思ってね。まあ、どっちにしてもいいじゃない。バスジャック。危ないことは考えてないんでしょ」
「はい」
 小湊さんがいらないことを言う前に、僕が元気に返事をした。そんな僕を小湊さんはちょっと醒めた感じで見ていた。
「ちょっといいかな」
 僕は小湊さんに言う。
「犬井さんはいいって言うけど、僕はタクシーとか、もっと小回りの効く乗り物のほうがいいんじゃないかって思うんだけどどうだろう」
「だめだよ、バスでなきゃ」
「修学旅行がバスだったから?」
「そう、バスだったから」
「でも、僕たちすごく人数が少ないじゃない。だったら、バスじゃなくても。それに、その理屈だと修学旅行が電車だったら、電車ジャックをしなきゃいけなくなるし、飛行機だったらハイジャックになってしまう」
「そうね」
 小湊さんは楽しそうに笑う。
「いや、やっぱりバスの方がいいよ」
 犬井さんが割って入った。
「だって、先生にも付き合ってもらうんでしょ? だったら、バスの方がいいと思うな。タクシーだと、本気度が伝わらないから」
 犬井さんの言葉に、僕と小湊さんは吹き出してしまう。
「いまどきの修学旅行はとても贅沢になって、飛行機で海外なんていうのもざらにあります。そんななかでバスですよ。バスで東京から関西方面に行くなんて学校、あんまり聞きませんからね。バスを運転する者としてはとても嬉しいんです」
 犬井さんは少し高揚しているかのように頬を赤くして話す。
「それにバスじゃないと、私が参加できないじゃないですか」
 犬井さんがそう言うと小湊さんは弾けたように答える。
「じゃ、バスで決まり。犬井さんに運転してもらって、まず、先生を迎えにいく。そして、江ノ島方面へ向かう。それでいい?」
 小湊さんが僕に聞く。
 ここまで話がまとまっているのに、僕は反対する理由なんてひとつもなかった。それに、僕もこの時点でこの計画がとても楽しみになっていたのだ。
 犬井さんは、運転席に戻ると、手帳と分厚い紙の束を持ってきた。どうやらバスの運行に関するメモや規定や時間表が載っているものらしかった。それらをペラペラとめくりながら、いくつかの事柄を犬井さんはメモした。
「このバスは本当は車庫に入れなきゃならないバスなんです。だから、いったんバス会社の車庫に向かいます。そこで、私がタイムカードを押して、バスの引き継ぎ表とかを事務所に返す。本当なら、その時にバスのキーを返すんだけど、それはなんとかごまかします」
「そんなことできるんですか?」
「できるよ。マスターキーだけを抜いて、他の鍵の束を一応キーケースに返しておく。こうすれば、明日の朝、このバスを運転する人が来るまで時間が稼げる。明日の朝、このバスは六時七分にここを出る予定です。となると、約三十分前に運転手がやってくる。念のため一時間前の五時までにこのバスをここに返せば大丈夫。目立つような車庫の真ん中じゃなくて、車庫の裏手にある第二車庫に停めておくこともあるから、そっちに停めれば気付かれにくいし、返すときも返しやすいです」
 僕と小湊さんは犬井さんの計画を聞いている。車庫の状況がわからないので、正直、犬井さんの言うとおりにするしかないのだが、ここはもっともらしくいちいち頷いてみる。頷いているうちに、いよいよ計画を実行するんだという気持ちになってくる。


風が吹く理由(12)春のあくび

 三月半ば、ある日の午後。停留所にてバスを降り、ふと目をやると、横断歩道の向こう、一本の木が白い花に覆われていた。信号が青に変わるのを待って、私は近寄り、枝を見上げる。昨日までは無骨な枝を伸ばしていただけだったのに。今年も最初にこの木が花をつけた。この木は、この辺りで一番初めに咲く桜。東京の開花宣言よりもひと足早く咲く桜。

 この町に住み始めて、もうすぐ10年が経とうとしている。住居は賃貸物件だから、そうもいかないだろうが、もしも願いが叶うなら、子供の頃に育った町と雰囲気の似通うこの町に、私は一生住み続けたいと思っている。
 春には桜、秋にはイチョウ、初夏にはツツジをも迎え、こぼれ種から育つのか、道端には、タンポポ、ひなげし、タチアオイまでが彩りを添える。加えて、この辺りには園芸家が多いのか、駅から家への通のりは四季を通して実に賑やか。朝顔や金魚草、百合に椿にアジサイと、花を咲かせた花壇やプランターが途切れることなく続いている。
 私の部屋は坂の上に建つマンションの一角にあるのだが、ベランダからの眺めがさらにいい。越してきた当初、私も驚いたものだ。点在する屋上庭園、その多さに。路上からは窺い知れぬ、とっておきの風景。庭園から庭園へ鳥は忙しく飛び回り、私のベランダにもラズベリーをついばみにやって来る。風に吹き上げられた花びらや葉が部屋の中にまで流れてくるのも、決してめずらしいことではない。
 東京を、自然の少ない、殺伐とした街だと言いたがる人は多いけれど、場所によるとは言え、なかなかどうして緑は多いほうだと思う。野山や田畑はないにせよ、春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の、都会に暮らす人間には都会に暮らす人間の自然との戯れ方が存在するのだ。

 夕方五時になると、「夕焼け小焼け」のチャイムが響く。数日前まで、この歌が聞こえる時刻には、一日は夜へと向かい、気温がどんどん下がっていった。なのに、今日は開け放った窓から柔らかな夕日を見ている。西の空に高層ビルとクレーンのシルエット。また新しいビルが建つのだろうか。東京は今日も何かを壊し、何かを作る。今年も桜がこの町を覆う。白い花びらでアスファルトの舗道は埋め尽くされる。だけど、私は、春が嬉しいのに―桜の木のある家で育った私は春が嬉しいはずなのに、心のどこかで少しうんざりもしているのだ。何十回も見てきたわかりきった春に、みなで喜び合うのを茶番に感じることがある。高層ビルを壊して建ててもまたそこには高層ビル。メリーゴーラウンドみたいに季節は今年も同じところへ戻ってきた。木馬は回る。ぐるぐる回る。私がこの世から退場する日まで。
「いま以上の幸せもいま以上の不幸も、私の人生には起こらないような気がするの。根拠なんてないけどね」
 私は大きなあくびをひとつつく。猫みたいな大きなあくび。大きな大きな春のあくび。


青空の大人たち(9)

 青空文庫は悪の秘密結社である――というのはもちろん暗喩であってモノの例えというやつなのだが比喩であるからにはあながち間違っているというわけでも ない。日本のインターネット普及の黎明期、開設当初の青空文庫をそのまま素直に受け入れる人もあれば拒否感を抱く者があってもやはりおかしくはない。

 その保護期間が満了して著作物が公共財産になるというのは確かに法の理念としてはあっても世界じゅうを相互ネットワークでつないでデータをやりとりでき るインフラがなければ実感しづらいものであった。本の読者からすれば図書館で何頁でも本を複写できるであるとかその程度のことであって自らが本そのものを まるまるコピーしたり共有したりというのは現実の事象としてはイメージしにくいものであったのだ。

 先人たちが積み上げてきたたくさんの作品のうち、著作権の保護期間を過ぎたものは、自由に複製を作れます。私たち自身が本にして、断りなく配れます。  一定の年限を過ぎた作品は、心の糧として分かち合えるのです。  私たちはすでに、自分のコンピューターを持っています。電子本作りのソフトウエアも用意されました。自分の手を動かせば、目の前のマシンで電子本が作れます。できた本はどんどんコピーできる。ネットワークにのせれば、一瞬にどこにでも届きます。  願いを現実に変える用意は、すでに整いました。

 その意味では「青空文庫の提案」なる文書は「できるんだ」「していいんだ」ということを気づかせるためにはかなりの効果があった次第だが「気づかれてし まった」方としてはたまったものではないということでもあろう。著作物を複数印刷して実物を頒布流通させることで経済活動の成り立っている世界からすれば インターネットの登場で著作物が無形で自由に回りうるのは脅威であって既存の経済の枠組みを壊すものでもあってその破壊活動を推奨推進する輩は合法だろう と何であろうと敵に他ならない。むろんそれまで大して知られていなかったインターネットという存在に対する未知への恐怖もあるだろうが経済とは自身の生活 もかかった話であるから穏やかなことではない。合法であるからには今販売中のものであれ配慮はせず問答無用で電子化するという強硬な態度を取られたならそ れもまた明確な敵意であるとも感じられるだろう。

 そもそもボランティアとは志がある時点で過激たらざるを得ず、なぜ自発的な無償の活動を行うかと言えば既存の経済や社会の巡りでは何かしらの不備があっ てそれを補わんと個々の人々が考えて動くからである。よく言えば改善であるが何かを変える行為には破壊がつきまとい、そこには齟齬や軋轢が常としてある。 海外の同様の運動では「知の解放」を唱えたというがそこで闘争的側面が強調されたのもむべなることであって共有の主義主張は冷戦期に恐怖された共産主義さ え思い起こさせるものだ。

 青空文庫もまたしばらくのあいだ(いや今もか)陰に陽に敵視されたことはインターネット平常の光景でもあって新しいものにつきものの情景でもあるのだが 少年にとっては不良への憧れにも似てかえって魅力的でもあるのだろう。思春期には心底というよりも格好から悪ぶってみたりすることがあるわけで前節では何 かしら感動したから入ったという物言いになっているが実のところインターネット=アンダーグラウンドという当時の印象からすればこれで自分もいっぱしの悪 党であると誇らしげに思ったものである。

 ボランティアを「工作員」と呼ぶのはなぜなのか、もはや誰に聞いてもわからず資料としても残っておらず調べても唐突にあるときから現れる呼称であるが少 なくともこうした状況への自虐的な反応ではあったはずで、名称を決める際にいわゆる「破壊工作」のような語感に気づかなかったわけはなく「工作員」といえ ば何らかの企みのため秘密裏に活動する人員を指すわけだが、ただし少年は東郷隆の『定吉七番』などに親しんでいたため「ああ、あれか!」とスパイアクショ ン風に面白おかしく捉えていたことは付記しておいてもよかろう。

 秘密結社といえばかつてはTVの特撮娯楽番組の敵役すなわち危険な連中として知られていたが、めぐりめぐって今やもっぱらコメディの文脈で取り上げられ るに至っては崇高すぎる目的のもとに個性的な面々が集まるが毎度とにかく失敗するというグループに見事成り果てている。そして現実の世界では善意から出た 活動が団体の継続的発展や過激化によって敵視されるという顛倒が引きも切らずもはや募金や環境保護という運動はイメージの凋落が激しい。意識の高いボラン ティア活動において善と悪の価値基準とはとかく引っ繰り返りやすいものであって、あらかじめ有している破壊性をどう捉えるかによってどちらへも転びうる。

 これは実際に関わるボランティアひとりひとりにも同じことが言え、ボランティア一般の話においても上げた志を下ろす者はその破壊性に気づいて活動をやめ る場合が少なくなく、ぬけたあと振り返ってみればやはり元の運動は「悪の秘密結社」然として見える。こうしたことは活動をしていくなかで醸成されていく感 覚でもあるが、理念は共通でも実現する手法の違いが浮き彫りとなるなど、ものの捉え方や考え方の差違から自省されるものであるらしく、志や意識が強ければ 強いほど運動内での内紛も苛烈であり、相手側を悪党視する圧力も高まるのだ。

 しかしながらそうした争いというのは内外問わず子どもじみたものであって殊更に青空文庫を怖がる人もそうだが内側の過激なやりとりにしても秘密結社的娯 楽要素に慣れた少年からすればコメディの一シーケンスか書割りにも見えて滑稽に映る。なるほど大人の事情というものは大人が子どもっぽく振る舞ったときに 発生するものなのだと悟るに至って「悪」への憧憬はどこへやら、早々にその場から降りて自らは秘密結社の片隅にあって勝手に遊びつつ無法に実験をしまくる 吉田君か博士のようになればよいということで一匹の不真面目な工作員が出来上がった次第。


雑草

畑に 植えたはずのない草がはいりこんで かってに育っているとしたら
まわりになじめず ちがう感じかたや考えが浮かんで
ふるさとや国に おちついていられない
どこかよそに 自分の場所があるとも思えないなら
ここで めだたないように ぬきとられないように
見えない根をはって ほかの草のあいだに かくれているよりないだろう

ともだちは遠くにいて 離れたところで似たうごきをする
近くにあるもの同士はちがうかたちをとって 補いあうのかもしれない
こうして時はしずかに過ぎる


ファティマ・メルニーシーを読んで 11世紀アンダルシアのイブン・バーッジャの名を知った バーッジャの本『孤独者の経綸』は近くの図書館にあった ここに書きとめたことばは その本とおなじではない