2015年10月号 目次

百年と七十年仲宗根浩
仙台ネイテブのつぶやき(6)深夜の避難勧告西大立目祥子
海を渡るパレスチナ人さとうまき
ガジュマル生き返る璃葉
しもた屋之噺(165)杉山洋一
グロッソラリー ―ない ので ある―(12)明智尚希
佐野洋子のまなざし若松恵子
「パンジ・トゥンガル」冨岡三智
フェリー乗り場のラジカセ植松眞人
アジアのごはん(70)食べない選択森下ヒバリ
製本かい摘みましては(113)四釜裕子
131 遺さない言葉(2)ことし藤井貞和
作曲家・ピアニストの割り切れなさ高橋悠治

百年と七十年

やっと夏が終わる、と思ったらなんだ、この暑さは。旧盆が終わり八月の末ごろから暑さもやわらぎ、吹く風も温風から本当に涼しく気持よくなったのだが、台風が接近すると湿度がこれでもか、と高くなり蒸し暑さぶりかえし、日差しも真夏に近い強さにもどる。やっとクーラーも使わず、扇風機だけで十分なところから、クーラー再稼動。本格的な夏に入る前に十九年使っていたクーラーを新しく取り替え、電気屋さんに引き取られたクーラー本体の底は錆びだらけでぼろぼろ崩れている。海の近くでなくても台風か近づけば風は潮の香り。クーラーの室外機もたまに水洗いしてあげないと。

郵便受けに国勢調査のお知らせの紙が一枚。九月半ば過ぎている。今年からインターネット回答ができる旨が書いてあるがそんな用紙は無く、調査員の訪問もなし。暫くしたらインターネットの利用案内の封筒がぶっこまれていた。封をされていない中身を見ると調査対象者ID、初期パスワードが記載された用紙が入っている。こういうIDやパスワードの記載がある書面を封をせず届けて大丈夫?それもぶっこまれたのはネット回答期限の二日前。こっちはカレンダー通りに動いていない。ましてや封も開いている。こんないいかげんなやりかたなのに、マイナンバー制度といってゆくゆくは情報管理の一元化までいって大丈夫なのか、心配になる。一番に情報セキュリティを見直さなくてはいけないのはお役所だろうし。情報セキュリティに関するISO認証をどこの役所がやっても通らないだろうなあ。

九月七日、南西諸島守備軍の降伏調印式が行われたのが七十年前。六月二十三日の慰霊の日は組織的抵抗が終わった日。小さい頃父親から北部に逃げるいきさつは聴かされた。その話の中に血なまぐさい、悲惨なものはなかった。それはあえて語らなかったのかもしれない。もう亡くなったおばさんが恩名岳を逃げて歩いている列で一人置きに機銃掃射でバタバタ倒れたこと、アメリカ軍の艦隊が海上を埋め尽くしているのを様子を伺いに見に行った知り合いのおじさんが機銃でおなかをやられて、飛び出した内臓を手に抱えながら戻ってきて、内臓を中に戻してくれ、と言いながら最後は水を欲しがり息絶えた話をしてくれた。今になってその時の詳細な事を健在な母親に聴こうとは思わない。思い出したくない話もあるだろうから、それをいまさらほじくりだして、記憶の底の底に置いてるものを詳らかにするのは気が引ける。その後収容所に入った父親は数字程度は英語が言えたので将校クラブか何かのボーイをやらせてもらうことになりその時始めてコーラを飲んだので日本で一番早くコーラを飲んだのは自分だ、と自慢していた。父親は大阪で生まれた。祖父が大工で出稼ぎのため大阪に行った。祖母は下宿屋を切り盛りしながら生活をしていたそうだ。祖父は甲子園球場建設現場も行った、と父親が言っていたが父親が生まれる前の話なので真偽はわからない。その後小学生の頃に沖縄に戻っている。父親のすぐ下のおばさんはまだまだ元気で沖縄に戻って学校に行くとランドセルを背負っていたのは自分だけだったので恥ずかしかった、と以前話してくれた。曽祖父の放蕩のおかげで田畑や家はほとんど借金で失い、父親の役目は家に借金取りが来ると畑仕事に出ている祖父母にそれを知らせることだったそうだ。今思い出せる戦後七十年、夏の高校野球百年に関わるわずかなうちの話。


仙台ネイテブのつぶやき(6)深夜の避難勧告

台風18号がもたらした9月10日の雨はすごかった。午前中から降り出していた雨は夜になるとさらに強くなり、8時過ぎから、よくいわれる「バケツをひっくり返したような」状態になって、一向に弱まる気配はない。すでに常総市の被害がテレビで報道され、「線状降水帯」なんて初めてきく言葉といっしょに雨雲が東北沿岸を縦に上ってくることはわかっていたので、これは夜更かしした方がいいな、と思っていた矢先、仙台市からエリアメールが入った。

9時50分。避難準備情報だった。私のいる区も入っている。でもその先の細かい地区まではわからない。市のHPにアクセスしようとすると、集中しているのかつながらない。10時のニュースをみようとテレビをつけると、話題は日中と同じ常総市の被害状況だ。

東日本大震災の直後もこうだった。電気はとまり、携帯はつながらず、災害が起きると渦中にいる人たちが情報から取り残されるんだな、と痛感したものだ。大変なことが起きている。それなのに、何が起きているのかわからない怖さが、押し寄せる。

1時間ほどするとまたエリアメール、さらにまたメールと、着信のチャイムは鳴り続け、避難準備は、避難勧告へと変わった。これはどうしたことか。ごーっとたたきつけるような雨音の中、近くを流れる広瀬川の上流にある大倉ダムの放流を知らせるサイレンがかすかに聞こえてきた。上流ではダムの貯水量を超えるような雨が振り続いているに違いない。

ツイッターで、避難勧告の対象地区が、山間地から下流へ広瀬川沿いに移ってきているのがようやくわかった。土砂崩れを引き起こすような激しい雨が、たちまち川に流れ込み、水かさを増やしながら下流域へと押し寄せているのだ。

家から広瀬川までは直線距離にして700~800メートルくらい。いったい川はどうなっているのだろう。そうだ、と思い出したのが、県内の一級河川に取り付けられているライブカメラが、リアルタイムで川のようすを伝える国土交通省の仙台河川国道事務所のHP。映しだされた画像は、にわかには信じがたかった。最も近い広瀬橋の下を流れる水が、橋桁の高さに迫っている。いつもはおだやかな川が、コンクリートの護岸いっぱいに、草をなぎ倒し木を揺らしてごうごう流れているのだ。想像しただけで恐ろしかった。避難勧告は、すぐ近くの慣れ親しんだ町々に及び、11日の午前3時20分にはついに大雨特別警報のエリアメールが届いた。もしや、川はオーバーフローするのじゃないか、と不安がよぎる。

こんなことが起きるんだ...。不意をつかれたような気持ちで思い出したのは、戦後、毎年のように宮城を襲った台風のことだった。

昭和22年9月のカスリン台風、23年9月のアイオン台風、25年8月の熱帯低気圧...。宮城は、戦後の数年間、度重なる台風に苦しんでいて、特に25年は仙台が40年ぶりという大水害に見舞われた。同年8月5日の地元紙、河北新報は被害を「昨日まで夕涼みの人々がそぞろ歩いていた場所が四日朝には一面のどろ海となってしまった。仙台市内だけで死者三名、行方不明七名、負傷者九〇名、流失家屋五七、全耕地の七〇%冠水」と伝えている。実際、年配の人からは、「目の前を助けてくれ〜と叫びながら屋根に乗ったまま流さていったのを見たよ」とか「あーっと叫ぶ間に、目の前で橋が落ちた」とか、「坂を下ったら目の前は海のようだった」とか、いまもいろいろな話を聞かされることが多い。戦時中、山の木は燃料不足から盛んに伐採されてハゲ山となり、大雨を受けとめることができなかった、というのがその理由のようだ。

私は、この10数年、年寄りの話を聞くことを仕事の中心にしてきた。歴史を時間軸にそって系統立てて頭に入れるというのとは違った、暮らしのリアルな細部を断片的に胸に刻むみたいなことをやっているわけなのだけれど、聞いているそのときは想像が及ばずどこかもどかしい思いでいるのに、じぶんがそれに近い切迫した状況に置かれたとき、突然話がリアルさを持ってよみがえってくる。これはなぜなんだろう。いま、目の前で起きていることが時間という射程を与えられて、その意味をおのずと明らかにしてくれるような感じだ。震災後、アーカイブということが盛んにいわれるようなってきたけれど、記憶をつなぐことの大切さはこんなところにあるのかもしれない。目の前の事態を、時間の幅をもって的確に深く理解するために。

つぎつぎと避難勧告されていく地区が、戦後すぐの台風で甚大な被害を受けた地区とぴったりと重なっているのを見ながら、私は頭の中で、万が一広瀬川がオーバーフローしたときの浸水状況をシュミレーションしていた。年寄りの話は聞いておくもんだなあ。そういえば、この夏、国会前に集まった若者たちは、出征したかつての兵士たちの話に耳を傾け気持ちを揺り動かされていたっけ。

話を広瀬川に戻す。その戦後の大水害を経て、中心部の堤防建設が昭和32年に完成した。水害の恐ろしさを身をもって知った人たちは、ほっと胸をなでおろしたろう。それからほぼ60年近く、その後も何度か危険は及んだけれど、中心部はそこまで大きな大雨の被害はまぬがれてきた。およそ2世代、水害は知らずにきたのだ。まさか清流広瀬川が牙をむくなんて、ありえない。私もどこかでそう思っていた。でも今回はあやうかった。

でももはや、何でも起こりえるな、といまは思う。大津波があったのだ。また大地震も大洪水も大噴火も、きっとくる。

10日ほど経って、川沿いをまち歩きする機会があった。川沿いの木の高いところまで、流れてきたゴミが引っかかっていた。いっしょに歩いた市の職員の方に聞いたら、水は堤防の下、わずか1メートルちょっとのところまで増水したという。


海を渡るパレスチナ人

難民が、海を越えてヨーロッパを目指している。
8月の終わりには、オーストリアで、ハンガリーとの国境につながる高速道路に止まっていた保冷車の中から、71名の遺体が発見された。密入国しようとしたシリア難民たちだそうだ。9月になると、3歳の男の子がトルコの海岸で溺死し打ち上げられていた。クルド系シリア難民でトルコからギリシャに渡る途中でボートが沈没した。この危険な脱出で、この一年で3000人近くの難民が命を落としている。

「ハロー、ハロー」9月9日、イラクのアルビルにつくとローカルスタッフのアブサイードがバグダッドからやってきて出迎えてくれた。相変わらず、甲高い声で豪快に笑っている。アブサイードは、60半ばで、顔はしわくちゃだ。生まれたときからパレスチナ難民だった。

イラクのパレスチナ難民は、バグダッドを中心にかつては3万人を超えていたが、サダム政権が崩壊すると迫害の対象となり、危険を逃れて各地へと去った。しかし、取り残された難民は、新たな紛争のたびに一番の犠牲者になっている。

今回は、息子をつれてアルビルにやってきた。娘婿が、先にアルビル入りしてトルコ行きのビザを手にしたという。トルコからヨーロッパに脱出するというのだ。息子のアハマドも同行する予定だったが、アハマッドは、まだ幼く頼りない。あまりにも危険な旅に思いとどまり、バグダッドに戻ることにしたという。

アブサイードによれば、パレスチナ難民への支援は、ほとんどなくなってしまったそうだ。
「パレスチナ難民には、未来がない。アハマッドにどんな未来があるっていうんだい? 出ていくなら今がチャンスだ。でも、こいつは、怖くなったんだ」

昨年、「イスラム国」の迫害から逃れてアルビルの郊外のバハルカにあった工場の敷地が難民キャンプになっており、約4000人が暮らすこのキャンプには22家族のパレスチナ人がいるという。アブサイードの知り合いもいるというので翌日見に行った。
9月だというのに、まだ太陽はぎらぎらと照り付ける。難民キャンプ内にも格差があるようだ。仮設住宅のようなキャラバンにすんでいる難民もいれば、粗野なテントにすむ難民もいる。

タハさん(47歳)は、モスルでくらしていた。昨年の6月3日に、モスルが陥落した。「イスラム国」の兵士たちがやってきて、彼らと一緒に戦うことを求めてきた。お金も払ってくれるという。二つ返事で時間を稼ぎ、脱出の機会をうかがっていたタハさんは、6月12日に、タクシー一台に9人家族が乗り込み、クルド自治区の手前のハーゼル難民キャンプまでたどり着いた。その後、ハーゼルキャンプの間近まで「イスラム国」が迫ってきたために、クルド軍の戦車が配備され、8月12日にバハルカキャンプに送られた。

彼の母と弟がまだモスルにいる。弟は、保健省の役人としてクリニックで働いている。こちらから連絡するのは危険なので、向こうからの連絡を待っている。2週間に一回ほど電話がかかってくるという。クリニックには、薬がなく、そこで働く人たちも給料が払われていない。逃げるのは危険だからとどまるしかない。
「泥棒をした人は、公衆の面前で手首を切られる。市場にいると、ISの兵士が、周辺を封鎖して広場に集まるように命令する。そこで処刑が行われる。それを見なければいけないんだ。2日前に電話で話した時は、イラク軍の空爆で変電所や給水施設が爆撃されたので、停電が続いているといっていた。」

その時少年がパレスチナの国旗のついたマフラーを巻いてやってきた。8歳のアワル君、ビデオの前で訴えたいという。

「僕はパレスチナ人です。ルトバでうまれました。ファルージャにいきました。ラマディにいきました。そしてスレイマニアに行きました。そのせいで僕は学校にいけません。僕は読み書きもできるし、すべてのことが理解できます。でも落第しなければならないのです。一年が無駄になりました。
国連の事務総長にお願いしたい。いつかきっと僕をイラクの外に出してください。僕は、みんなと同じように、自分の家の前にすわり、みんなと同じように、学校にいって、学校には子どもたちがたくさんいて、僕も一緒にその子たちと遊びたい。日本のみなさん。僕たちを助けてほしいのです。」

隣で通訳をしていたアブサイードは、少年のまっすぐな言葉に、泣き崩れてしまった。かつては、フェダィーン兵士としてパレスチナ解放のために銃を手にしたこともあったアブサイードであるが、いまだにパレスチナは、解放されるどころか、国際社会からのつまはじきに会っている。かつて自分たちを迎えてくれたイラクやシリア、ヨルダンには行き場がなく、WFPも食糧支援を削りだした。のたれ死ぬか、最後の賭けでヨーロッパに向かうかだ。あまりにもみじめなパレスチナ難民の運命、子どもたちの未来に責任を感じて涙したのだろうか?

数日後、アブサイードの娘婿は、無事に船でギリシャまでたどり着いたという。さらに数日後、電話すると、今はウクライナにいるという。え? ウクライナ? いや、ちがった、スロバキアだったかな。
本人もよくわからないらしい。まだ旅はつづく。


ガジュマル生き返る

緑がまったく見当たらない場所に住んでいた頃に、
ひとつの救いとして買った観葉植物のガジュマルが、
最近になって死にかけていることに気付いた夏の終わり。

ガジュマルはクワ科の植物で、気根という地中から突き出た根が特徴的だ。
じゃがいもから足が生えたみたいなその奇妙な根っこがわたしは大好きなのだ。
そんなガジュマルが夏前から突然元気がなくなり、葉も落ちて枝も弱々しく細くなった。
唯一伸びてきていた粒みたいな芽は2日ほど家を空けているあいだに枯れてしまった。
あわてて水をたっぷりあげたり、ちょっと謝ってみたり昼間はなるべく外に出すようにしていたら、ほんの少しだけ葉が回復した気がした。
名古屋にある実家に1週間ほど滞在することが決まったのは、そんなときだった。
いま1週間放置したら確実に死ぬガジュマルを放ってはおけなかったので、
すこし悩んだ末、大きなエコバッグに入れて持っていくことにした。

実家の庭に生えているのは、ゆずの木と乙女椿、百日紅、金木犀、その他いろいろ。
その向こうには背の高いクヌギ、桜、ケヤキなどの雑木林が広がっている。
小さい頃から変わらない木深い一面がすぐそばにある窓際に、ガジュマルを置いた。
この環境に慣れるかしら、と少し様子を見ていたら、瞬く間に元気になったのだ。
買ったときからおとなしいやつだと思っていたわたしは勘違いをしていた。
3日後にはどんどん葉が増え、今までにないぐらい生き生きしはじめる。

第二次世界大戦中に執筆されたJ.R.Rトールキンの長編小説「指輪物語」に、
木の牧人と呼ばれる「エント族」や動く森が登場する。エントは歩く巨木だ。
急ぐことを好まず、ゆっくりと森をさまよい、木々に語りかけ、ケアをする。
世界が闇に覆われ戦争が始まるとき、「エントの寄合」がひらかれ、
多種多様の樹木同士が集まって悠々と静かに話し合うシーンを思い出す。

ガジュマルも、会合ではないにしろ、近くの木々となにかをゆっくり話したのだろうか。
東京に戻ってきてからも枝はぐんぐん伸び続けている。不思議だ。
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しもた屋之噺(165)

今滞在しているボルツァーノは、イタリアですがドイツ語が話されている、アルトアディジェ最大の街として知られます。老若男女を問わず、当たり前のようにドイツ語とイタリア語が共存しているのは、例えばスイスなどでもありふれた風景ですが、違うのは、ドイツ系の住民はドイツ文化を、イタリア系の住民はイタリア文化を、互いに受け容れながら、交じり合わずに共存できていて、スイスのように出身文化の影が薄くならないところです。アルプスの麓で朝晩は冷え込みますが、盆地なので陽が差せば日中はミラノより暑くなります。
今月は家族に4日しか会えぬまま、瞬く間に過ぎました。そんな中で、アデスとガスリーニという、ジャズが鍵となる、全く性質の違う現代作品と向き合っていて、生粋の現代作曲家がリズムの面白さからジャズを使うことと、クラシック出身のジャズミュージシャンが、ジャズセッションを敢えて構造化させること、その視点の違いに興味を覚えています。

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9月某日 ミラノ自宅
ミラノに戻る機中、アデスの楽譜を開く。彼とは傾向が違うけれど、ベンジャミンやナッセンの質感を思い出し、これがイギリスの伝統かと漠然と思う。ブリテンはモーツァルトのような手触りを覚えるが、例えばアデスとエルガーには共通するものを感じるのは、音がつまった感じの楽器法のせいだろうか。アデスとリゲティは音楽的に重なる部分がある筈なのに、聴いた印象が大きく異なる理由は、この質感の違いではなかろうか。

9月某日 ミラノ自宅
国営放送ラジオFMで、昨年イタリア放送響とやったデル・コルノやペトラッシ、アミーチの演奏が放送された。スモーキーなウィスキーのようなオーケストラの響きに聴き惚れる。アナウンサーが指揮者紹介でスギヤマときちんと発音しているのに感心する。伊語読みして、スジヤマと呼ばれるのに慣れている。すぐ放送を聴いた音楽学の学生からメールが来て、放送を聴いていたが、楽譜を見せて欲しいとのこと。

9月某日 トリノからミラノへの急行車内
トリノでアデス・フランチェスコー二のダブル・ポートレイト演奏会。つい先日ルカの父親が亡くなって昨日が葬儀だった。疲れ切った顔をしていて、かける言葉もない。
プログラムに選ばれたどの作品も難しい。アデスのコンチェルト・コンチーゾは、アンサンブルの半分の奏者が、指揮者の基本テンポに対して3連符で叩く打楽器奏者のビートを聴きながら演奏する部分があって、打楽器が聴こえなければ演奏できないのだが、予め用意してあった舞台配置では打楽器の音が他の奏者に届かなくて、どう舞台に並ぶかだけで喧々諤々。

9月某日 ミラノ自宅
マリゼルラ宅へドナトーニの楽譜を借りに行きついでに話していて、90年代後半、ドナトーニは新しい作曲の方向を見出していた話になる。当時は、作曲中しばしばマリゼルラに電話をしてきて、ショパンの葬送ソナタのゼクエンツはどうだったかとか、鼻歌を歌ってこの旋律は何かと尋ねては、それらを作品に取り込んだという。「In Cauda IV 焔」には、お気に入りの007冒頭のジングルが使われていて、曲の引用は作品のコンテクストとは無関係だったと言う。とは言え、ショパンの葬送ソナタが「焔」に用いられているのは、「焔」が死を題材にしているからに違いない。

9月某日 ミラノ自宅
アデス、フランチェスコー二のダブル・ポートレイトのミラノ演奏会。アデスはともかく難しくて、ドレスリハーサルでも細かく指示を出す。少しでもよい仕上がりになるよう、祈るような心地で演奏を始める。会場はトリノよりずっと演奏しやすい。アデスがドレスリハーサルでアドヴァイスをくれて、よりメリハリのついた音像を欲しいとわかる。作曲者が聴いていると、演奏者も緊張感をもって演奏できるのが、良いところではある。演奏が終わってアデスはとても喜んでいた。これらの曲は難しすぎて今まで一つの演奏会で一度に演奏できなかった、と言っていたそうだが、プログラミングは彼からの希望だと聞いた。大変だと分かっているならもう少し考えてくれればよいのに、と恨めしい気持ちで自転車を漕いで帰途に着く。

9月某日 ミラノ自宅
国会前の人いきれをニュースで見て、何故今頃皆反対を叫ぶのかと不思議に思う。自民党を選んだのは我々自身で、それがたとえ低い投票率の結果であっても、投票に不正がなければ、民意の結果として受け入れざるを得ない。自民党が圧勝すれば、こうなるのは分かっていた筈ではなかったか。現首相は自らの信念を曲げずに進んできただけで、ぶれてはいない。
たとえ間接的であっても彼を首相に選んだのは、他でもない我々であることは忘れてはいけないだろう。
もし本当に我々が安保法案に反対なら、次の選挙で自民党が下野し、法案を改めて改正させるしかない。果たしてそれまで現在の情熱が保てるだろうか、と事態を静観できるのは、単に自分が海外に住んでいて、息子も無期限ビザを持っているから。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝成田に着く。今日の午後だけ家人と息子と一緒にいて、彼らは入れ違いに明朝ミラノに発つので、家族で駒沢公園のサイクリングコースを走りたいという息子の希望を叶える。その後、同じく彼の希望で世田谷通りの蕎麦屋で蟹の天ぷらとカレーうどんを食べて帰宅し、疲れ果ててそのままベッドで眠りこける。

9月某日 東海道新幹線車内
ユウジさんの演奏会にゆく。演奏会が始まる前、ユウジさんと美恵さんと会場の入口で何となく立ち話をしていて、演奏会に集う人々が、それぞれこれほど個性的な立ち振る舞いと雰囲気とで会場へ到着することに感銘を受ける。「向田邦子のドラマみたい」と美恵さんに云うと、「悠治の演奏会だから」と笑っていらした。
ユウジさんは新作の「虎」を連句のように作曲したそうだが、個人的には池に放った石が水紋を八方に広げてゆく姿を思い浮かべる。一つの波紋がさまざまな地形に打ち返され、複雑に重なり合う。
セイシャスのトッカータ3曲。うねうね果てしなく続く右手は、スカルラッティやソレルに似た癖のある舞曲風で、最後に何時も小さなメヌエットがカップリングされている。原譜で左手が欠損している部分を、ユウジさんが音を足して弾いた。
神戸で催す「イワト」は、多国籍風で洒落た雰囲気。終わって中華に集うところは東京と一緒。ユウジさんは、波多野さんと栃尾さんに素敵な帽子を誕生日祝いに贈られたが、こちらはユウジさんから「虎」とセイシャスのトッカータの譜面を頂いて帰る。
皆美味しそうにお酒を呷っていらしたが、我慢して帰途も楽譜を広げて仕事をしている。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝の8時半からHさんとTさんに、フォーレの1番のソナタを聴かせて貰う。調性感の聴き方と構造の簡略化、身体の脱力で音色をつくること、そんな話ばかりで我乍ら能が無い。もっと霊感溢れる音色のアドヴァイスなどをしたい。普段から自分が楽譜をそんな風に記号論的にしか読んでいない証し。

沢井さんの処で「マソカガミ」を聴かせていただく。こうしてリハーサルをしながら音楽を作ってゆける仕合わせ。練習何回で本番がいつ、という生活に慣れすぎてはいけないと自らを諌める。本来、作曲は自分が書きたいことを書きたいと思ったときに書き、演奏者が納得できるまでその作品に関わるのが正しい姿なのだろうけれど、実際なかなかそうはゆかない。自分が演奏に関わるときだけでも、沢井さんのような音楽への謙虚さの一部でも真似したいと思うけれど、出来ているのだろうか、とも思う。

「東京のカノン」の練習。絵具で色をつくるように、同じ音にさまざまな音色が重なり、綾を紡いでゆく。カノンだからどこまでも続けられる。ここでは作曲とは如何に音を減らしてゆくか、その引き算のプロセスとなる。演奏も如何に音を聴きあってぶつかり合いながらも耳を澄ましてゆけるか、やはり引き算のプロセスである。
中川さんに、決められた公式の音を耳で変えるかと尋ねられて、敢えて恣意的にならぬために変えないと応える。
仙川の練習のあと、自転車でつつじケ丘の雨田先生を訪ねた。先生は同じ寅年の同級生「ユウジ」がトラという新作を自作自演した話を、目を細めて楽しそうに聞いていらした。

9月某日 三軒茶屋自宅
ミラノの小学校に戻った息子からメッセージが届く。親友たちのこと、担任のヴィットリアのこと、歴史の口頭試問で褒められた話など、学校が楽しくて仕方がない様子で、少し複雑な気持ちでそれを読む。

9月某日 三軒茶屋自宅
笹塚で先月の指揮ワークショップの続き。シューマンを初めからやると、到底先に進めないので、一番簡単そうな二楽章冒頭から始めるが、それでも冒頭の主題だけで3時間ほど過ぎてしまい、自分の効率が悪さに流石に嫌気がさす。今回ピアノを弾いてもらった坂東くんは、指揮を見ているだけで、指揮者が楽譜をどれだけ読んでいるか詳らかになることに驚いていた。
自分自身は、最初にこうして教わったとき何も理解できなかったので、皆の理解力の早さには感嘆するばかり。

9月某日 三軒茶屋自宅
朝から水一滴も飲まず、昼過ぎ赤坂で人間ドッグを受ける。昨晩23時に予約したが、キャンセルされたところへ入れてもらい、直近割引。
エコー検査は先輩の看護師が若い看護師に説明しながら。「ほらこれが肝臓で、これが膵臓ここをこう下から見ると何某で、これも写真にとって、ここがよくポリープが隠れている何某で医者が見て診断できるように写真をこう撮って...」と云われると、何かあったのかと気を揉む。バリウム検査は胃カメラよりずっと楽なのだろうが、げっぷなどとても我慢できず、それじゃ検査になりませんと叱られる。何もしていないのにどっと疲れる。

9月某日 羽田空港
アールレスピラン本番が終わったところ。ヴィヴァルディが最初に演奏されたので、バッハが敬愛したヴィヴァルディの快楽性が、本番の演奏に聴こえた気がする。演奏会後、楽屋に松原さんを訪ねてきた中学生くらいの女の子から、「文字を七進法でどう作曲するのですか」と質問を受ける。すごく興味があるとかで、目が輝いていて羨ましい。
毎回同じようだが違う演奏というのは、聞いていて楽しい。局所的にあそこを間違えたここを間違えたと思って聴く心配がなく、どうなってもそれが音楽的に演奏されているのであれば、受け容れられる気楽さもあるのだろう。

出発点と帰結点が大凡決まっているとして、その中の音が5秒前後したとして、その誤差が全体の音楽の構造に与える影響はどれだけか。その誤差を埋めるのが作曲の作業なのか、出発点から帰結点への道程を示すことが作曲なのか。書けば書くほど、演奏者は縛られる。楽譜に忠実であることをモットーに音楽をしていると、寧ろ縛られなければ演奏できないのではないか。

問題は、縛られた演奏は縛られた音がすること。良いも悪いもなく、縛られた演奏は縛られていて、自由な演奏は自由な音がする。そのどちらが良いということもなく、最終的には均整の趣味に関わる。クセナキスなどは、音楽家の態度を強く条件づけしながら、見事に音楽を立ち昇られることに成功した最たる例かもしれない。

9月某日 ボルツァーノ ホテルラウリン
朝の6時前にフランクフルトに着き、そこからヴェローナに飛んで、列車でボルツァーノに着いた。街で見かける人の殆どが独語を話している。
オーケストラ・ハイドンとのリハーサルを終えて、作曲のマヌエラとアルフォンソとアルトアディジェの酒屋で地元の赤ブドウ酒を呷る。折角なので、何かつまめるものを頂戴というと、薫製肉シュペックをパンにのせて出してくれる。ミラノで売っている燻製はスペック、ここで食べる本物は「シュペック」なのだと、ブレッサノーネで暮らすマヌエラが笑う。
ボルツァーノの二ヶ国語政策が余りに徹底しているので、一体どうなっているのか尋ねる。彼女の母国語は独語なので、ドイツ人学校で学校教育を受け、そこでイタリア語をかなり厳しく学んだので、イタリア語は下手なイタリア人より美しい言葉使いをする。
「ここまで来るのは本当に大変だったのよ。祖母の世代まではイタリア人が大嫌いだった。私の母はラディン人だったから、母はラディン語を話していた。でもまだ私が幼いころに亡くなってしまったから、あまりラディン語は上手にならなかった。でも理解はできるわ」。

ボルツァーノは神聖ローマ帝国の後、ナポレオンのイタリア王国の一部となり、その後オーストリア帝国に移り、そして第一次世界大戦後にイタリアに併合された。当時住民の殆どがドイツ系住民だったところに、ムッソリーニは南部のイタリア人を多数移住させて、イタリア化を目指した。
ドイツ系の苗字はイタリア風に改名させられ、イタリア語が強要されたので、ドイツ語は隠れキリシタンのように、家や秘密学校で秘密裏に子供へ受け継がれた。
第二次世界大戦中、ヒットラーとムッソリーニはこれらドイツ系住民に、イタリアに残ってイタリア人となるか、ドイツに移住しドイツ人になるかの選択を迫り、8割のドイツ人系住民がドイツに移住し、残った2割は裏切者と呼ばれた。
戦後、ナチスに移住させられた住民が戻っても、イタリアはこの地方に自治を認めた上でイタリア支配を続けた。現在この地方の住民の3分の2はドイツ系で、残りの殆どがイタリア系にわずかのラディン系が残っている。

「二ヶ国語政策を私は信じているわ。違う文化が二つあるなんて、得るものが沢山あるでしょう。純血主義とか国粋主義は、間違っているわ。でも、それはグローバリズムの波に呑まれることではないの。互いの文化を尊重しあい理解しあうこと。ラディン語もぜひ残って欲しい。あなたから見れば、この街並みはイタリアに見えないかもも知れない。でも、この街並みはドイツでもオーストリアでもスイスでもなくて、やっぱりイタリアなの。山を越えたインスブルックで呑むコーヒーは、全然違ってそれは不味いものよ。ドイツからここに友達が来ると、ああ地中海文化そのものだって大真面目に感激するの。あなたが聞いたら笑ってしまうと思うけれど」。

酒屋の傍らにある劇場の入口にも、伊語、独語、ラディン語で看板がかけてある。
切立ったアルプスの山の上に、煌々と光る満月がぽっかり浮かんでいる。

9月某日 ボルツァーノ ホテルラウリン
朝起きて、カタルニアで独立賛成派が過半数の議席獲得とのニュースを読む。イタリアだって北部同盟がある。経済的に北が南を養っている意識も明確にある。税金ばかりを払わされている印象もある。どうなるのか。

ムラーレス・プロムナードを録音する朝、ホテルでガスリーニの名盤「ムラーレス」を聴く。クラシック演奏家でジャズに憧れる人は相当数いるはずだ。今回のレコーディングは、頓死したガスリーニの未亡人が、随分熱心に実現に向けて働きかけたと聴いた。
朝メールを開くと亡くなった恩師の奥さまからお便りが届いていた。10月にある内輪の演奏会についてのお誘いで、こちらは予め存じ上げていたが、こうして直接お誘いを頂いたことに感激しつつ、自分に身近な作品の多くの書き手が、既に旅立ってしまっている事実に唖然とする。でも作品は確かに残り、それが自分にとって大きな励みとなっている。

(9月30日 ボルツァーノからミラノに戻る車内にて)


グロッソラリー ―ない ので ある―(12)

 1月1日:「やっぱり買い換えたほうがいいかもな。みんなが持ってるってことはそれだけいいものなんだろうし。迷ったら買うなとか言う人もいるけど、今回ばかりは反対させてもらおうかな。迷ったから買う。なんか変だな。迷っても買う。まあどんな言い方でもいいんだけど、今は買うほうが八割、買わないほうが二割ってとこだな――」。

ハヤク o|`┏ω┓´|ノ_彡☆キメナサイ

 言葉は話し尽くされ書き尽くされた。先哲が言及した以上に。今更、記号論も意味論もない。ラングとパロールもない。シニフィアンとシニフィエもない。人類史上、言葉ほど使われたものを探すのは困難だ。変化こそすれ、進化するでもなく発達するわけでもなかった。「はじめに言葉ありき」以来、これほどのご長寿は他に例があろうか。

ナニユユュュュュュュュ(*`ロ´*ノ)ノ 

 文化立国、観光立国、技術立国、まあいいじゃろ。だが何がしたいんじゃ。「立国」のコンセプトのみ先走って、あとに残るものは何かあるのかね。かりそめにも○○立国という看板を掲げたからには最先端をひた走ってなきゃならん。ところがどうだ。どれ一つとっても頭打ちかカオスの極みじゃないか。最先端が袋小路じゃ思いやられるわい。

( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )

 信雄は三郎の息子である。命名の由来はというと、まず男の子だから「英雄の『雄』」が挙がったが、母親の幸恵が「オスみたいで嫌だ」とごねたものの、夜のアレがきっかけで決着した。信雄の「信」は、「信用できる人」という意味でつけられたのだが、今ではいっぱしの詐欺師になりおおせ、信用できない人の意味となった信雄なのであった。

ヽ(oゝω・o)-☆ だよっ

 人間は火、言葉、道具を使えるので生物の中で最も優れていると言われている。だがこれは人間が人間のために設定した基準だ。犬だったらどうだろう。人間の一千万倍から一億倍の嗅覚を持ち、五倍から七倍の聴覚を具えている。基準要素が異なるだけで、王座につくものは変わる。godとdog。少なくとも神に近いのは犬のほうであるらしい。

ふ━━( ´_ゝ`)━( ´_ゝ`)━( ´_ゝ`)━━ん

 「ボランティア」とは「自発的な」という意味である。ボランティア活動は、困難な仕事を自発的にやるなんて素晴らしいと一段上に思われがちだが、勘違いもはなはだしい。活動している人間は、活動自体から満足や充実感といった反対給付をまんまと獲得している。活動されている側は、果たしてどう感じているのか知りたいところではある。

ヾ(゚Д゚ )チョットオクサン

 金太郎の前掛けいっちょで卒業式に乱入した。これだけでもあばれはっちゃく。更にあばれはっちゃくなことに、鼻くそで校長先生を制作した。シミュラークルにしてブリコラージュ。もっとあばれはっちゃくなことに、校歌を作って演奏して歌い、全生徒の役も演じた。前掛けはどこかに消え去っていた。開脚前転の真っ只中で最後っ屁だよ。

(゚□゚*)ナニーッ!!

 1月1日:「そうだ。松子に聞いてみればいいんだ。なんで気づかなかったんだろう。なんか抜けてるんだよなあ俺は。こうやってずっと一人で考えても埒が明かないし、確かあいつはスマホを持っているはず。松子おばさん、知ってるだろ? 俺の妹だよ。会ったことあったっけ。ない。あそう。え。忘れた? まあそのうち会うだろう――」。

(0'∀^0) マツコデス

 世の中は厳しい。学校でそう教わった。厳しいのは確かだった。不条理に満ちた厳しさである。正しい言動が正しい結果を導くのは珍しい。子供あるいは学校の先生にはわかりかねる、権力構造があり利害得失がありコネとカネがある。妙な夢や希望をかき立てさせることなどせずに、早い段階で人間社会の表裏を洗いざらい暴露してはどうか。

( ゚д゚)ンマッ!!

 夏の猛暑日。バケツの底の残り水に大量のボウフラが湧いていた。なぜ自分はボウフラやウジ虫やダニやノミではなく、あろうことか人間様とやらに生まれついたのか。そんなことを反芻しながらバケツの底を覗く。くねって泳いでいるもの、早くも死んでいるがごときもの。この中で小賢しくて虚栄心の強いものが、いずれ転生して人間になる。

∠( ゚д゚)/ 「え」

 ほれ、あれ、なんつうんじゃったっけ。雨が降ったり降らなかったり、雪が降ったり降らなかったりするとこじゃ。雨や雪じゃなくてもいい。みぞれでもひょうでも何でもいい。え? 雲? 違う違う。雲はぷかぷか浮いとるだけじゃ。そうじゃなくて明るくなったり暗くなったり、そこの高いとこをこう飛行機がす〜っと横切って行って――空。

オーマーエーハー ((ミ ̄エ ̄ミ)) アーホーカー

 毎日のそこかしこに死ぬチャンスが転がっている。入線してくる列車、人気のない暗い裏道、数知れぬ交差点、身の回りの鈍器や刃物、枚挙にいとまがない。誰もが死ぬチャンスをぎりぎり回避しながら、生きるチャンスにありついている。もし一秒早く家を出ていたら、もし一旦足を止めていたら、もし携帯電話に目を落としていたら......。

(゜Д゜三⊂(゜Д゜)スカ。


佐野洋子のまなざし

神奈川近代文学館で7月25日から9月27日まで開催されていた「まるごと佐野洋子展」を見に行った。

絵本『100万回生きたねこ』の作者として佐野洋子の名前を知っている人も多いだろう。死ぬたびに生き返って100万回生きた猫が、愛する白猫と出逢って幸せに暮らした後には、とうとう生き返りませんでした。というストーリーだ。この作品だけスゴイスゴイと奉られるのもなんだかなーと感じていたので「まるごと」と言う題名に、時々辛辣な佐野洋子や、兄との思い出を幻想的な物語にした佐野洋子や、谷川俊太郎をメロメロにした佐野洋子がみんな見られるのだろうと期待して出かけた。

意外だったのだけれど、絵本の原画がおもしろかった。逡巡のあともなく、ひとふで書きのようにきっぱりとした線で、たしかな形が描かれている。うまいと思った。

会場には佐野の著作から抜粋したいくつかの言葉がパネルになっていて、そのなかに、絵本は印刷されて完成した絵本そのものが原画であり、何度も版を重ねることで絵がつぶれてしまってもそれはそれで仕方がないのだという内容の文章があって、その姿勢は潔いなとは思うけれど、佐野の手から直接生み出された原画が持つ魅力と言うのは確かにあるなと思った。

絵本「わたしのぼうし」のなかの1ページ、夏の帽子をかぶってしゃがむ幼い兄弟の後ろ姿の絵のそばには、この作品のモチーフとなった幼い頃の写真が並べて展示されていた。構図は同じだけれど、絵を眺めていると、佐野洋子は写真を絵にしたのではなくて、写真を見て思い出された心のなかの情景を絵にしたのだと思えてくる。思い出が、形をあたえられたのだ。「絵がうまいですね」なんて言ったら、「見えた通りに描いただけだ」という答えが返ってきそうだけれど。

とにかく見つめ続けてきた人、佐野洋子にそんな印象を持った。愛を、子育てを、母との確執を、死ぬことを見つめ続け、見えたことを書き留めたのが佐野洋子の絵本やエッセイであった。

時に彼女のまなざしは、キツイ。日常生活のなかで見て見ぬ振りをしているもの、ごまかしているものをあばき出してしまうまなざしだ。自分自身でさえわからなくなってしまった「本当の気持ち」を見抜かれてしまうことさえある。では、佐野洋子はいじわるなのか? 辛辣ではあるけれど、可愛げはないけれど、いじわるではない。

佐野洋子の妥協のないまなざし、それはどこから来ているのか...。その疑問を解くヒントとなる文章を母との物語を綴った『シズコさん』(新潮社/2008年)のなかに見つけた。

絵本「わたしのぼうし」のモチーフとなった写真にいっしょに写っている1歳上の兄、ひさしは、佐野に深い影響を与えているが、その兄は「とび抜けて絵がうまかった。」という。そして、佐野は兄が絵を描くときに、「べったりと兄の前に坐り、髪の下から絵を描くのをかたずをのんで見ているのが好きだった。兄は絵を下からかきぴたりと上におさめた。私はほれぼれと絵を見た。(中略)私は兄の絵を見る人だった。そして仕上がると私は本当に満足してとても幸せなのだった」のだ。兄の目を通して、佐野もまた世界を眺めていたのだろう。兄が11歳でこの世を去ることで、佐野のまなざしもまた11歳のまま凍結された。佐野の辛辣さは、11歳の男の子の、子どもの率直さだということなのだ。

佐野洋子は感の強い子どものまなざしで、母を、自分自身をみつめる。心の底では兄のかわりに自分が死ねばよかったのだと思っている母、「絵は兄ちゃんが描くものだった。(兄が死んで)絵の具は私のものになった。」絵本作家になった後に、自分自身についてもこんな厳しい回想をする。これは見えなかった方が良かった物語なのか。いや、時に佐野の物語に自分を発見して救われることもあるのではないかと思う。


「パンジ・トゥンガル」

いつの間にか月末になってしまい、またもや泥縄で原稿を書いている。というわけで、今回は、来たる10月3日の「観月の夕べ」公演で踊る「パンジ・トゥンガル」という曲のよもやま話を書いてみる。

「パンジ・トゥンガル」はスラカルタ宮廷に伝わる男性宮廷舞踊で―1650年パク・ブウォノ2世(1726-49)の作という―、1970年代の宮廷舞踊の解禁を受けて舞踊家の故ガリマンにより復曲された。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のカリキュラムに入っていて、3年生で履修する。男性優形(アルス)の極みとも言われる曲で、『パンジ物語』の主人公のパンジとは関係なく、キャラクターのない舞踊である。

曲名は1人のパンジという意味で、本来は2人で戦うウィレンという形式の舞踊を1人バージョンにしたもの。1人版に直したのもガリマンで、私が勝手にアレンジしたわけではない。元の2人版の舞踊名は、通称「パンジ・クンバル」(2人のパンジ)、または「パンジ・スプー」(老いたパンジ)という。ただし、本当は「パンジ・アノム」(若いパンジ)だという意見もある。伝説として、スラカルタ宮廷には王位を継ぐ者が宮廷の宝物が納められた部屋で1人誰にも見られずに踊る舞踊があるといい、それが「パンジ・スプー」である。その舞踊を踊りながら、王たらんとする者は「人はどこから来てどこへ行くのか」というジャワ哲学の問いを自問するが、ガリマンの舞踊はその王の境地に至っていないという意味で「若いパンジ」ということらしい。

若い境地とはいえ、この舞踊はなかなか難解である。テーマとしては、他の宮廷舞踊と同様、内面の葛藤や克服に至る過程を描いているのだが、メタファとしての戦いのシーンがない。女性宮廷舞踊のスリンピやブドヨには戦いのシーンがあって、ピストルを発砲したり矢を射たりする。しかし、この舞踊では剣を抜きそうな感じになるが最後まで剣は抜かないのだ。2人版でもそうで、チャンバラやってカタルシス...というわけにはいかず、徐々に緊張感が積み重なっていくのだが、最後に何か感じるところが残る。

この曲は、宮廷女性舞踊のスリンピやブドヨのように、最初から最後まで息の長い節回しの女声斉唱(ブダヤン)がつくのだが、この舞踊のブダヤンが一番大変かもしれない。というのも、一番単調そうに見えるからだ。もっとも、ジャワ宮廷舞踊曲は現在人の感覚からすればどれも単調だが...。それでも、ブドヨの歌は音高がかなり上がり下がりするし、途中で転調するのもある。スリンピは大きい形式の曲から始まって複数の異なる形式のものをつないでいき、曲が変わるごとに雰囲気が変わる。ところが、「パンジ・トゥンガル/クンバル」の場合はラドランという小さい形式の曲がずっと続き、大きな速度変化がほとんどない。たぶん、歌手にすれば念仏を唱えているような境地だろうな...と想像する。それでも、私にとっては、その淡々とした流れの中に、緊張感が高まったり少しゆるんだり、焦ったり落ち着いたり、といった山や谷がいくつもあるのである。

この舞踊の振付について昔はよく理解できなかったが、最近はなんだか踊らされる曲だなあと感じている。自分の意志で動いているというより、舞台の四隅から目に見えない糸が伸びてきて、引っ張られていくような感じだ。そういう引っ張られていくような動きが多いのである。ジャワでは神にすべてをゆだね(パスラー)、神と合一する境地が理想とされる。大いなるものに身を委ねるように踊れたらよいのだろうが、そこまで悟っていない自分を自覚しつつ、10/3に臨んでいる...。


フェリー乗り場のラジカセ

 十一月になると瀬戸内の海に太刀魚が回遊してくる。神戸のフェリー乗り場の端から、停泊しているフェリーの船体ぎりぎりに投げ入れた仕掛けで、時には入れ食い状態になる。
 小回りのきく小さめの投げ竿に、生きたままのドジョウを巻き付けた仕掛けを取り付けて投げ入れるのだが、冷え込む夜でも次々に釣れると汗をかくほどに上気する。なにしろ、太刀魚は体長が一メートルを超えるものもあり、当たりも大きくとてもスポーティで楽しい釣りなのだった。
 洋一は毎年太刀魚の釣れる時期になると父親のスーパーカブの荷台にまたがって自宅から三十分ほどのフェリー乗り場にやってくるのだった。このフェリー乗り場から出るフェリーは淡路島や小豆島へと航行していて、夏には海水浴に出かけたりもしていたので、ここで釣りをしているときも、洋一は夏によく行く淡路島や小豆島がいまどんな様子なのかと思いを巡らすのが好きだった。
 洋一が父に連れられてフェリー乗り場に釣りに出かけていたのは小学校三年生から六年生あたりだったと思うが、確か最後の年かそのひとつ前の年に、不思議なことがあった。
 真っ暗な海に浮かんでいるフェリーの船体ぎりぎりに洋一が仕掛けを投げ込んでいた。父は少し離れた場所にいて、そこで釣っていたのは洋一ひとりだった。何匹か銀色に光る太刀魚を釣り上げ、青いビニール袋にそれをしまい込んだあと、ぴたりと釣れなくなっていた。さっきまで汗をかくほどに上気していた身体は、一端釣れなくなるとあっと言う間に冷えてしまった。
 釣れない釣りほど小学生に辛いものはない。しかし、だからといって「帰ろう」というわけにもいかない。そんな時のために、洋一はラジカセをリュックの中に忍ばせていた。タレントがDJを務めるラジオ番組で聞きながら退屈を紛らせようという魂胆だった。
 これまでに、何度か釣れないこともあったが持ってきたラジカセを実際に聞いたことはなかった。今日はちょうどいい。父も離れた場所にいるし周囲には誰もいない。
 洋一はラジカセを出して、あまり音が響かないように好きな番組をチューニングした。ちょうど、好きな曲が流れ始めたところだった。最近流行っているちょっとコミカルな曲は、退屈していた洋一の気持ちを明るくした。
 さて、もう一度仕掛けを投げ込むか、もう諦めてしまうか、迷っていたのだが、妙なことに気がついた。ただ、停泊しているだけのフェリーに乗り降りをするためのタラップが取り付けられた状態になったいるのである。普通は、この時間こんなものが装着されていることはなかったはずだと思うのだが、確かに付けられている。
 なんとなく妙だ、と洋一がそのタラップを眺めていると、学生服を着た中学生らしき集団が五人ほどフェリーから降りてきたのである。いったい、こんな時間に中学生だけが船を降りてくるなんてことがあるだろうか。洋一はなんとなくあまり目を合わせないように、海を眺めているふりをしながら、彼らの気配に全身の神経を向けていた。
 しかし、気配そのものがあまりしないのだった。ただ、音もなく五人ほどの中学生が黒い塊として、フェリーを降りてきて、洋一が釣りをしている堤防を歩いていく。ふと空気の流れを感じて、自分の背後に視線を向けるといつの間にそこに立っていたのか、坊主頭の中学生がいた。
「ねえ、ねえ」
 中学生は洋一に話しかけてきた。声変わりのしていない、ちょっと高い声がかわいかった。
「はい」
 緊張していた洋一はきちんと目上の人と接するように返事をした。
「これはなんね」
 坊主頭の中学生は、舫いをつなぎ止めるアンカーの上に洋一が置いたラジカセを指さしていた。
「ラジカセです」
「ラジカセってなんね」
「ラジオです。それと、カセットテープも録音したり聞けたりするんです」
 そう答えると、中学生はさらにラジカセに近づいてそこにしゃがむと、ラジオを聞きだした。
「ええ音やねえ」
「あ、はい」
「ええ音や。聞いたことのないような音楽やけど、これは不思議なもんやねえ」
 そう言うと、中学生は立ち上がり、
「ありがとね」
 と礼を言って立ち去った。
 洋一は、しばらくのあいだ中学生が聞いていたラジカセをじっと見つめていた。どのくらいラジカセを見ていたのだろう、あ、と声を上げて中学生が去って行ったほうを振り返った。もう、中学生はいなかった。いなかったけれど、なんとなくその方向に中学生たちの気配の塊のようなものを今度は感じるのだった。
 中学生がいなくなってから、急にあたりが暖かくなった気がした。洋一の額からは汗が噴き出した。なんだか、不思議な気持ちになって釣り竿を持ち、仕掛けを投げ入れると、さっきまでまったく釣れなかったのが嘘のように、一振り毎に太刀魚が釣れた。何匹も何匹も銀色に光る刀のような魚が容量の大きなビニール袋からあふれるほどに釣れた。
 最初は夢中になって釣っていた洋一だが、だんだんと怖くなってきた。洋一は釣りをやめて帰り支度をし始めた。ビニール袋から数匹の太刀魚が頭をのぞかせている。いつもなら、無造作にスニーカーで太刀魚の頭をビニールに押し込んで、ギュッと口を締めるのだが、その日はなぜかそれができなかった。
 どのくらいの時間だったのだろう。おそらく一時間か二時間、洋一はビニール袋からのぞく太刀魚の頭を呆然と眺めていた。太刀魚は歯が鋭く凶暴なので、釣り上げた瞬間に頭を靴で踏みつけて絶命させる。そのため、ビニール袋からはみ出した太刀魚の頭は血を流していた。それぞれに違う血の流れ方を眺めているうちに、隣り合った太刀魚の血と血が混ざり合っていることに気付いたのだった。洋一は、背後から父に「帰るぞ」と声をかけられるまでじっと太刀魚の頭を眺めていた。
 帰り際、父はぐるっとフェリー乗り場を見渡してちょっと不思議そうな顔をした。
 その後、フェリー乗り場から来るときと同じように、スーパーカブの荷台に乗せられて自宅へと帰った。その帰り道の信号待ちで、洋一は父に聞いた。
「なあ、さっき僕、中学生の兄ちゃんと話してん」
「ああ、そうやな。父ちゃんのとこからも見えてたわ。丸坊主の子やろ」
「うん」
 父がそう言ってくれたので、洋一はなんだかとても安心して、父の腰に回した手に力を入れたのだった。(了)


アジアのごはん(70)食べない選択

戦争法案に気を取られているうちに、フクイチは大変なことになっている。フクイチ・ライブカメラという24時間の監視カメラが幾つもあるが、それを監視していて、動きがあった時にまとめて見せてくれる人たちがいるおかげで、蒸気が噴出したり、ぴかぴか閃光が走ったり、地面が揺れたりしているのをダイジェストで見ることができる。これらを見ていると、ちょっと絶望的な気持ちになってくる。なにがアンダーコントロールだ。

今年の4月後半からフクイチからは連日、蒸気がモクモクと出ていて、たいへんな量の核種が日本中にまき散らされているようだ。これを海霧と主張する人たちもいるが、映像を見ればフクイチの地面から噴出しているじゃあないの。

去年、京都のマンションの三階に引っ越してからSOEKSのガイガーカウンターで線量をはかってきたが、それまでだいたい0.08~0.12マイクロシーベルトで0.1を越すことは少なかったのが4月の終わりから0.12~0.16マイクロシーベルト位になって、0.1を下回ることがなくなった。(この器械は他の日本製より高めに数値が出る)ときどき、高い数値がいきなり出たりするので、ドキドキするが、しばらく計りつづけていると、平均値が出て来る。

始めの頃は、カバーのビニール袋にセシウムでも着いているのか、と取り換えてみたり、場所を替えたりしてみたが、どうも全体に線量が上がっているとしか考えられない。ああ~。家だけでなく、近所の友人宅や、大阪に出かけた時にも計ってみたが、だいたい同じぐらい、大阪は京都よりも少し高めだった。ちなみに、先日タイから一時帰国した友人がバンコクで計ってきた値は0.04。

先日、一週間ほど東の方に仕事に行っていた同居人が京都に帰って来たので、ちょうど遊びに来ていたOリングの達人の友人にチェックしてもらったら、身体からわずかだが放射性物質の反応が出た。ヒバリにはなかったし、気管や肺からは反応しなかったので、やはり東の方で食べたものからもらったようだ。実は同居人からは8月にチェックした時も反応が出ている。(それはモリンガで排出されていたのだが)3.11以来、何度となく東日本に仕事に出かけていても、これまで反応が出たことはなかっただけに、今年後半のうちに2回も出たのには、正直驚いた。

たかだか一週間外食が続いたら、どこかの時点でセシウムを取り込んでしまう可能性が高いという、外食状況はかなりまずい。家で食べるものにはかなり気を付けているが、原発事故から4年半が過ぎて、正直気持ちがゆるんでいた。今、核種がどんどん飛んでいるとなると、2011年事故当時ぐらいの慎重さが必要だと思う。で、おさらい。

セシウムなどを集めやすい食べ物は、山菜・きのこ・お茶の葉、果物、イノシシなどの野生動物、大型の魚類、海の底に住むヒラメなどの魚や貝である。個別に安全が確認できれば問題ないが、確認できない場合は避けるしかない。関西に住んでいるので、これら要注意の食べ物は、スーパーなどでは東日本以外のものをわりと簡単に選べるのが楽だ。産地偽装が無ければ、だけど‥。ただ、回転ずしやチェーン店の外食は、きっぱり避けている。これは日本中どこでも安価な汚染地域、または放射能が検出されて流通できないはずの食品が使われている可能性が高いためだ。

もう飲んじゃったという人も多いとは思うが、今年の新茶は2011年に汚染された地域以外の産地でも反応が出ているので、残念ながら今年の新茶はどこの地方のものも飲まないほうがいい。Oリングでのチェックなので、信用できないと思う人は仕方ないが。これまで反応の出なかった愛用していた茶葉から出たのには心底悲しくなった。わずかな反応とはいっても体に悪いレベルの反応なので、飲み続けるのは危険である。もったいないなどとはいってられない。

魚はとくに気を付けたい。福島近海産はもちろんのこと、北太平洋のマグロはもう危険だ。マグロは肉食で生物濃縮のかなり上位にいる。マグロがどうしても食べたいなら、インド洋産か南太平洋産のものを選ぶ。分からない場合は食べない。事故からすぐは、まだ生物濃縮されていなかったのだが、最近はかなり濃縮されている模様‥。もちろんマグロはセシウム以外の鉛やPCBなどの重金属・有害物質の蓄積も多い。

カツオは、南太平洋産のもので九州で陸揚げされたのものだけ食べる。南から上がってきた初鰹はまだしも、日本沿岸の戻りガツオは福島沖を通るので、食べない。江戸前の海産物も避ける。東京湾の汚染は福島と同程度と言われている。

さんまの内臓と骨は食べない。骨はストロンチウムが溜まっている可能性が高いので、さんまに限らず魚の骨は食べない。骨ごと食べる小魚は必ず西のもの。セシウムは筋肉に溜まりやすいが、内臓は鉛などほかの重金属などが溜まりやすいので、注意。

外食するときに海産物を食べるなら、なるべく信用できる店で産地がはっきりしているものを食べるしかない。東日本での海産物の外食はロシアンルーレットになってきたと思った方がいいかもね。

三陸の漁業関係のみなさんには申し訳ないが、うちでは海産物は太平洋岸のものは三重県以西、青森より北のものを食べるようにしている。海産物を食べる量をもっと減らしていくべきなんだろうな。魚好きの人間にとっては辛いが、まあ分かっていたとはいえ、そろそろ腹をくくるべき時期なのだろう。フクイチからの汚染水はだだ漏れで、トリチウムの危険性も分かってきた。海の汚染はじわじわと引き返せないところまで広がっている。

かつて、60歳以上の人間はセシウムなど食べてもあまり影響がないなどと言われていたが、それは影響を受けやすい若い人の細胞に比べれば、と言う程度の話である。セシウムの反応が出た同居人は、一度目の時のチェックでは甲状腺や内臓に反応が見られ、さらにその影響と思われる唾液腺ガン前駆症状(ほっとくとガン化)、声帯ポリープが見つかった。体内のセシウム排出にモリンガの粉末カプセル4錠×2回×21日が必要とされたが、それらの症状もこれでなくなると出た。つまり、わずかなセシウムであっても体内にあると、その近くの器官に影響を及ぼすのである。(ちなみに、これまで体内被曝している反応が出た知人たちに処方されたモリンガの量はこの10倍ぐらいだった)

以前の水牛通信にも書いたが、セシウムもわずかな量ならモリンガ、スピルリナ、ゼオライトで体内から排出が出来る。ゼオライト鉱石は飲みにくいが、汚染の心配のない産地の粉末のものを入手して、コップ一杯の水に小さじ一杯溶かし、しばらく置いといてその上澄みを飲む。野菜を洗う水に少し加えたりするといい。きちんと作られた汚染の心配のない発酵食品も重要。

まじめに、きちんとお茶や果物を作っている人たちのことや、海で生活している人のことを考えると、どうしようもない気持ちになるが、これが現実である。食べて応援などできないし、応援などにはならない。事故を起こした東京電力はもちろんのこと、原子力産業を日本に誘致した中曽根元首相はじめ原子力を推進してきた自民党の政治家・官僚、原子力産業の企業、そして電源全喪失はありえないと言って、事故に備えなかった安倍晋三、直ちに影響がないと繰り返した当時の民主党政権も含め、責任を取るべきは彼らであって、わたしたち個人のいのちや健康ではない。


製本かい摘みましては(113)

東京ステーションギャラリーに『月映(つくはえ)』展を観る。「回覧雑誌めいたものを造ってはどうかな」。下宿に集まる美術学生のひとりが何気なく口にしたこのひとことで、詩などを書いた原稿用紙と、スケッチブックやカンヴァスに描いた絵を台紙に貼付けたものなどをリボンで綴じただけの、3、4人の仲間による雑誌『ホクト』がまもなくできたそうだ。田中恭吉と藤森静雄がそれぞれ編集した2冊(1911)で終わったが、2年後には田中が個人作品集として始めた『密室』がまたまた回覧雑誌となり、9号まで続くことになる。

冊子のいくつかは綴じ紐をとかれて、表紙をひらいて額装されていた。2つか4つ穴の平綴じで、両表紙にある美しい作品やタイトルをなるほどこのようにして見たくなるものだとは思ったが、折りじわをていねいに伸ばしたのだろう、やや白味を帯びた2本のラインに、からだのかたいひとが背中を押されて開脚前屈しているのを見ているような、なにかこう、こちらの脚の付け根がぴくぴくしてくるような、そんな気がしたことも確かだ。よもや100余年後に、こんな姿でたくさんのひとに額を寄せて見られることになろうとは。

『密室』には途中から恩地孝四郎が参加するようになり、田中、藤森、恩地の3人で自刻の木版画集を作ろうと盛り上がる。当時やりとりしたはがきも展示されていて、これがまたいい。田中が恩地にあてたものには、〈ねむれなかった〉、〈月映はどう? わたしは月映といふ字づらのすっきりしたのがこのもしい〉、〈刀がとどいたのできのふは半日とぎやさんを二人で、した、こんな仕事は一緒にやりたくおもふ、おもしろおかしく〉などなど。書名は『月映』と決まり、たとうに挟むかたちで最初は3部、そして1914年には200部の出版が叶う。

はじまりに手作業は良く似合う。高田敏子は最初の二冊の詩集を作るにあたって、子どもたちの助けを借りたそうだ。長女、久冨純江さんが『母の手 詩人・高田敏子との日々』(2000)に書いている。『雪花石膏』(1954 200冊)は表紙カバーを折るだけだったが、『人体聖堂』(1955 300冊)は、〈カバー用の厚紙に黄色いリボンをつけ、詩集を包んで結〉ぶのを妹の喜佐さんと手伝ったそうだ。リボンをどう結んだのだろう。ウェブで見ると、段ボール地のカバーに黄色のリボンをつけたようだ。みんなで蝶結びしたのだろうか。〈茶の間が黄色に染まった〉。母、二人の娘とも器用だったから造作ないことだったろう。にしても、300はうんざりだったのかもしれない。


131 遺さない言葉(2)ことし

 葉裏のキーボードを、
 かぜがさわります。
 なんだか通信したそうにして、
 メールがやってくる。

 葉裏のパソコンが、
 かたかたと打っている、それが、
 ここから見える。 
 葉隠れの術という、ははは。

 せつじつなメールが、
 交わされている。 「基地」
 を「墓地」と打ち間違えている。

 返信したそうに、
 しばらく鳴って、
 動かなくなる、あなたはだれ。


(フリーズ、ことし。誕生日のうたがどこからか流れる、あした。だれかの書き損ないは、わたし。わたしの書き直しは、あいつ。あいつの書けなさったら、おいら。おいらを書き終えるえんぴつ。パソコンが内蔵されていて、書けなくなる日のプログラミング。火を継いで書きましょう、知らないなかま。おやすみのキス。)


作曲家・ピアニストの割り切れなさ

子どもの頃から作曲したかったが なにも書けず 生活もできないので オペラの稽古ピアニストになり 数年後に偶然から前衛音楽のピアニストになった 1960年代ヨーロッパでもアメリカでもほかのピアニストが弾きたがらない曲を弾き それだけでは生活できなくなってしかたなく バッハを弾くことになった 作曲する時は ピアノを使わず ピアノ曲はあまり書かないようにしていた ピアニストの定番、19世紀音楽は弾く技術がなく 弾く気もなかった

 1990年代には 声のサンプリングを使ってコンピュータで即興していた頃があったが 電子音はどんなソフトウェアを使っても 設定した響きを越えられない 偶然もなく発見もないから飽きてしまった

その後は 年金では暮らせないし 作曲では生活できないから またピアノを弾いている 頼まれるコンサートにはできるだけ自分の作品を入れるようにする その結果ピアノ曲やピアノを使う曲ばかり書くことになる しかたのないことだ はたらきすぎれば 税金にとられ 国民保険の自己負担が増え 自由時間もなくなるから 人になじまず 人目につかないうごきがよい 

中心も行先もない 流れて消える音 構造や構成でもなく複雑さでもなく 楽譜に書けない僅かなリズムの崩れや翳りを行間ににじませる ピアノの演奏も ほんのちょっとの響きや間のとりかたで 流れが変わる その場では共感できても説明も分析もできない 可能性は自分のために できるだけ短く書きつけておく 

1990年代に三味線を習って楽器と手の接触を感じた時は 音はからだのうごきの結果のように思われた 音楽はリズムと音色(ねいろ) 音色は響きの空間で楽器だけでなく音律と音程 旋律と音形もすべて入る 岩波書店から『世界音楽の本』の編集の時はそういう論理だった いまはもっと細かくふるえる神経の束 三味線や経絡でいうツボとヒビキのように 論理で要約し分析して要素に還元するのではなく 区切るだけ 毎回の現れをちがうものとしてあつかう 現れの裏にはなにもない  偶然の瞬間がまばらに断続するだけ 毎日の生活のなかで食べて寝るのとおなじように とりたててなにごともなく起こる瞬間は 循環する時間 位置座標や方向のない空間 遠近だけがある 「方法や理論があっても使わない 人の先に立たない 遠くには行かない なにかが近く見えても そのままにしておく」(老子67章と80章を参考に)