2015年11月号 目次

『名井島の雛歌』から〜言語系アンドロイドのための〜時里二郎
海老名に行ったことなど大野晋
鉱石を買う璃葉
132 遺さない言葉(3)経蔵藤井貞和
製本かい摘みましては(114)四釜裕子
しもた屋之噺(166)杉山洋一
ジム子の受難とデモクラシーさとうまき
十月、はしりがき仲宗根浩
アジアのごはん(71)ココナツオイルと朝ごはんの行方森下ヒバリ
消しゴムと羅生門植松眞人
グロッソラリー ―ない ので ある―(13)明智尚希
職業としての...若松恵子
国籍と帰属先冨岡三智
仙台ネイティブのつぶやき(7)古老のことば西大立目祥子
かかしの神管啓次郎
四十八茶百鼠高橋悠治

『名井島の雛歌』から〜言語系アンドロイドのための〜

 《じょのうた》 序の歌

ねえさんも
にいさんも
どこへいった

ないしまの
ひとり わたしの
ひなのうた

 《ねえさんのあかいこのみ》

ねえさんの赤い木の実
小さな神さんの口許に見えた
ねんさんの声のみぎわに
キツネの尻尾 
風のねどこを探して
にいさんの声だ
金のやさしい光のなみ
兄沼(せぬま)からやってきたにいさん
いい匂いのする物語を播いて
島にないものを
おしえてくれた

ちいさな神さんが
聞き耳をたてている


 《いぬたにほうと》

いぬたにほうと あかりがひとつ
さるのあめふり やまふたつ
いかりのきとの あらいきみっつ
ねこのぬけみち よつのつじ
うまがれのいえ かぞえていつつ
むつになるこが うしひきはじめ
ななつざか きつねみたにじ つぎはぎのきぬ
ゆうやけかかし かぞえてやっつ 
ここのかうまし つきのとじ
とおをかぞえて ないしょ ないしま うそをふく


犬田にほうと 灯りがひとつ
猿の雨降り 山ふたつ
猪狩りの帰途の 荒息みっつ
猫の抜け道 四つの辻
馬枯れの家 数えて五つ
六つになる子は 牛曳きはじめ
七つ坂 狐見た虹 継ぎはぎの衣
夕焼け案山子 数えて八つ  
ここの香うまし 月の杜氏
十を数えて 内緒 名井島 鷽を吹く


海老名に行ったことなど

人間ドックのあと、午後に時間ができたので最近話題になっている海老名市立中央図書館まで出かけた。なにかとお騒がせの、ツタヤを展開するCCCが指定管理者になった公立図書館の東日本一号店だ。

着いて驚くのは都会の大型書店のようなド派手なエントランスで、3階までの吹き抜けになっているらしい。その壁に本がディスプレイされており、その真ん中に雑誌や文具類が平積みされている。平積みされている雑誌類はツタヤ書店の売り物らしく、まず、入った途端にどこから図書館が始まるのかがわからない。また、1階の半分はコーヒー店になっており、館内の掲示ではどの階に持っていって飲んでも食べてもいいことになっているらしい。安いブックレットや雑誌ならまだしも、数千円、数万円もするような発行部数が数百部しかない書籍を濡らしたり、汚したりするのはまずいだろうと、まず最初に、おぼつかない足取りでコーヒーを運ぶ初老の女性の姿を見て、違和感を覚えた。

図書館を探しにほぼ全面を店舗に占領された1階から上の階に上がろうとすると、どこから上がればいいのか困ってしまう。階層移動のための手段の位置がわからないのだ。見回しているうちに吹き抜けの横に階段を見つけたのだが、ユニバーサルデザインが求められるパブリックスペースにはあり得ない状況になっているらしい。

2階、3階は図書館らしいのだけど、店舗デザインはなかなか秀逸になっていて、かっこいいと思えるようになっている。ただし、壁に沿って天井まで延びる書棚上部はどう見ても手が届く状況ではなく、そこに棚のテーマとは異なる文学全集や図鑑などの豪華本が並べられているのが、違和感を漂わせる。要は上部の本はお飾りの扱いらしい。どうしても、棚全体を見て、上部の珍しい本に興味を持つ私などにとっては、このわざとらしい演出が白々しく見える。ジャンルの異なる部屋に少年文学全集を見つけて、全部を降ろして目次を見せてくれと言おうかと思ったが今回は自重した。

ネットで有名になった不可思議な配架はずいぶんと修正されたとおぼしい感じだったけれど、図鑑が図鑑として分類されて並んでいないなど、本棚が依然としてカオス状態にあるように見えた。また、貴重書など、通常は禁貸出となるべき書籍にシールなどでマークされておらず、紛失が怖いなあと思ってみていたが、後でネット検索で禁貸出の表示が着いていたことからも、本へのマーキングなども遅れているらしい。地階の文学書のコーナーにも行ってみたけれど、以前は地下書庫として閉架式の書庫だったと思われる広い空間はここも天井までの本棚が据え付けられていた。ただし、最上段付近の棚には実物の本ではなく、背表紙だけのダミー本が置かれており、空間自体の偽物感を漂わせる。

結局のところ、海老名ツタヤ図書館は図書館の本と空間を使った書店と喫茶室であり、本は飾りものか、汚れてもいい使い捨ての消費物扱いを受けている図書館とは呼べないものらしいとの印象を受けた。

ライフスタイル分類と言い訳のように名付けられた分類にしても、おそらくは丸の内の丸善にあった松丸本舗の猿真似をしようとしたものだと感じた。ただし、松丸は松岡正剛氏の系統知に基づく推薦リストなのに対して、決して知識領域を代表するとは思えない書籍をまぜこぜにしてしまったことで、知のリンク感を演出するどころか、カオス感が充満する結果になってしっまったのだろうと推論する。まず、その前に、松丸は正当分類の棚を丸善が持っていることを前提としたインデックスであるのに対して、インデックスを持たずに書棚全体を混ぜてしまったことが間違っているのだと思う

まあ、海老名ツタヤ図書館は、結局、ハリボテなんだろうなという感慨だけが残った。海老名市民の共有資産のはずだけれど、あと5年もすればぼろぼろの書棚になっていそうな予感がする。

ところで話は変わるが、TPP基本合意のニュースは突然だった。直前の会議ではぎりぎりの時点で決裂していたので、ある意味では楽観的にみていた部分もあり、それで驚いたという面もある。

驚いたからと言うこともないのだが、先月の水牛の原稿は落としたという認識もないまま、私の中では忙しさの中に埋没していた。個人的なメール全体が見られることなく放置されていたので、TPPの青空文庫のメッセージとともに私へのメッセージは後にWebで見ることになる。

さて、基本合意を受けて、事前に伝えられていたように、著作権の保護期間は70年に延長されることが参加国の方針になった。これから、国内法制度の整備が行われることだろう。この点について、青空文庫の名前で出されたメッセージは単なる批判になることなく、非常にバランス感覚に優れたコメントだと感じた。

石川欽一の著作引き継ぎの依頼はいつものように快諾した。青空文庫の入力作業に関して、いろいろなタイプがあると思うが、私は入力できそうな作家が見つかると資料の収集と確認といった作業から始めることにしている。このため、入力の登録をする頃には、手元には多くの資料が集まることになる。だがしかし、決してこの作業はタダでも、即席でできる作業でもない。そこで、ある程度の資料が集まって、準備ができた段階で登録をすることにしている。そうは言っても、仕事が忙しいので、すぐに着手できるものではなく、リストに残しながらぽちぽちと作業を進めることにしている。まあ、世の中には私よりも作業が早い人も多いので、この時点で引継に手を挙げてくれる人がいれば喜んで引き継ぐようにしている。それもこれも、私にとって楽しい作業は、作家や著作を見つけて、それの入力を準備する段階だからかもしれない。普段、あまり目に触れることの少ない作家について、調べるのは入力するよりも知的好奇心が刺激される。

このところの報道ではいつの間にやら、TPPの基本合意を受けて青空文庫が潰れるらしい。少なくとも、20年著作権の保護期間が延びると、青空文庫には登録できる新規の著作がなくなると言われている。あまり、最近は熱心な工作員ではないが、少なくとも私にはそんなことがないことくらいは分かる。少なくとも、私の手元には入力しきれないくらいの著作権保護期限の切れた著作リストが存在するし、青空文庫のバックログだけ見ても、校正待ちのリストが長く続いている。これを片づけるだけでもかなりの時間が必要になるのだから、新しい作品が登録されなくなることはまずないだろうことが容易に想像できるだろう。すでに著作権の切れた著作物を対象に作業を進めるだけでも、最低20年は有に必要だと思う。

ここ数年、正月に新しく保護期限切れを迎える著作物の公開を行ってきているが、ある意味、活動のPRの目的が強いので新規の著者の追加がなくなったとしても本質的な問題はないだろう。常に新しい著者は追加されている。

一方、問題となるのはいわゆる孤児著作物と保護期間が20年延びることで忘れ去られる著者が増えることだと思っている。50年の現在でも、一部の有名作家以外の著者のプロフィールを調べるのは苦労することも多い。実を言うと、数年前に出版された著作物の著者でも行方不明になることがある。これが1世代は確実に超えてしまう死後70年ではどこの誰かもわからなくなり、生きているのか、死んでいるのかも不明になるケースがとても多くなることが想像できる。一部の有名著作権者の利益は守れるが、絶対的多数のそれ以外の著作権者の権利を損なうのが長期にわたる著作権保護なのである。しかも、一度連絡先の分からなくなった著者に関してはほとんどの場合、権利者の許諾が容易にとれないことから、その後、その著作権が活用されることがなくなってしまう。実は著作権法は著作権者にとっては両刃の剣となる。青空文庫の入力の調査の中で、たくさんの著者が分からなくなった著作を見るにつけ、死蔵される著作物の多さに驚いている。実は、20年延びる問題の前に、現状でも保護期間の切れる時期すら分からない著作物が多いのだ。

もちろん、映像などに利用する場合には、それ相応の経費をかけて著作権者を探すだろうが、まず、著作物の入手が難しくなっている状態では映像作家の目に留まるかどうかすら怪しいものだ。少なくとも、著作がすでに商業ベースに乗らなくなっている著者については、映像などの権利は留保した上で、著作の配信権などを解除することができないか?と考えている。

いま、多くの著者の著作物は人の目に触れる機会もない状態に置かれている。たとえ文学館で取り上げられたとしても、その文学館で紹介されている著作自体が流通どころか、通常の図書館でも入手できないケースも多く、文学館の目的が著者の本の出版だということもあるそうだ。一方で、インターネットの普及は管理されない多くの無償著作物を生み続けている。TPPの締結による著作権の見直しが新しい時代の著作権のあり方に生かされることを望んでいる。

さて、海老名のツタヤ図書館で、実は私は三島由紀夫もその師匠の川端康成も棚で見つけることができなかった。全国にツタヤ図書館が広がると、意外に早く、三島も川端も忘れ去られる日がやってくるのかもしれないな、と思いながら、その日の帰路についたのだった。


鉱石を買う

鉱石というものに、漠然と興味があった。
河原で拾った石を持ち帰り、冷水で泥を落とすと、小さく細々した、白く濁った結晶が生えていることに気付く。
骨の塊のようなこの石が、石英という日本で一番多く取れる鉱物であることを知ったのはずいぶん前のこと。
石を眺めたりスケッチする日がしばらく続く。
街の書店へ行くときも 必ず地学のコーナーに寄る癖がついた。鉱物の図鑑や歴史の本を立ち読みしては、絵を描くときに印象に残った色を思い出す。それはとても楽しいひと時だ。
先日思い立って、鉱石の店舗兼研究所を見にいくことにした。
ほんのちょっと電車に揺られて、駅から大通りに出る。横断歩道を渡り、昼時の静かな住宅街に続く小道をしばらく歩いていると、予想以上に民家な雰囲気の研究所があらわれる。中の様子はまったく見えない。正直、ものすごく入りづらかった。
でもせっかくここまで来たのだから、入りなさいよ、と自分を納得させ、ドアを開ける。

狭い一室だった。独特なにおいが立ち込めている。宝石研磨機や、ガラス瓶、顕微鏡、ダンボールの山。作業スペース。
壁に沿って設置されているガラスケース。中には色とりどりの鉱石が並べられ、ケースの下には底の浅い木製の引き出しがいくつもあり、その中にも石たちはたくさんいた。
目の前に突然、世界中で採掘された石が並んでいる。世界の岩石の一部分。少し大げさだけれど、そういうことだ。
思考を整理できないまま端から端まで、じっくりと観察する。
その場にいたスタッフは1人だけ。わたしがいることを全く気にかけていないようで、少し挨拶をしたあと、作業に没頭しはじめる。
たまに奥の部屋から声がきこえた。もう1人いるのだろうか。出てくる気配はなかった。

引き出しを開けると、長方形の小箱ひとつひとつに鉱石が入っていて、石の名前・種類・採掘地・硬度・重度・屈折率・値段などが書かれたカードが石の下に敷いてある。
価格の振り幅は相当大きい。古本屋で働いていたことがあるので、その幅の大きさにはなんとなく親近感を覚えた。
反対の壁側には鉱物に関しての書籍や1つ500円の石たち、Freeと箱に書かれたタダの水晶のかけらなど。
500円以下の石はたいへん雑な扱い方をされていて、種類別にシューズボックスのふたのような浅い箱にごろごろと散らばっていた。
砂利も混じっている。きっと、全く珍しくないのだろう。
目を通していくと、蛍石/メキシコ/1P500円と書いてあるものが目に留まる。全体的に緑っぽく角張った石だ。
わたしはこの石が欲しくなった。
「どれでも500円だから、大きいものを選んだ方が良いかも」とスタッフの方は冗談交じりに言う。
知識がないわたしは、単純にかたちが気に入るものを探した。
触ったり、光に当ててみたり、自分の家に置くイメージをして、しっくりきた蛍石を買うことに決めた。
底に岩肌がくっついていて、白い層から少し紫がかっていき、上の方はエメラルドグリーンになっている。
手のひら中央の窪みにすっぽりと収まるぐらいの大きさ。
ミニチュアの氷山みたいだった。

山みたいなかたちの岩、とたとえていた小さな男の子の姿が浮かぶ。
そういえば、チビの頃のわたしはすでに岩石に惹かれていたのではないか。
わたしが住んでいた家の基礎の下、盛土を固めていたのは、岩のような大きさの砕石だった。
そこは絶好の遊び場だった。岩と岩のあいだは隙間だらけで、たまにトカゲやヘビがぬっと出てくる。
その場所で近所の子らと、数えきれないほどの遊びを生み出した。
よじ登って座れる場所がいくつもあり、わたしにとってのお気に入りの岩石があった。
兄姉だけでなく、友達にもそれがあったとおもう。よく場所の取り合いで喧嘩した。
近所の女の子と、この中だったらどの石が好きか、どの色が好きか、とよく話していた気がする。
それは子供の頃交わされた、ごく自然な会話だ。
懐かしい感覚がすぐそばにやってくる。
その頃から石に表情があることを無意識に知っていたのかもしれない。

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132 遺さない言葉(3)経蔵

手の火をかざして、
読もう。 蔵にはいろう、
祈ろう。 どんなに、
ちいさな字で。 どんなに、
誤りで。 「不明、また、
明暗。 わたしの不明」と、
霊窟のおく。 しずくの墨して、
抵抗して。 「てのひを、
かざして。 発生の、
字づら」。 読もう、
終りを。 読もう、
苦悶の。 あとを......
てしまおう。 低音部、
接続助詞。 が燃え、
分詞に。 つらなり、
きみ。 ......てしまおう、
ていこうや。 かこぶんし、
ていおんぶ。 ......ているとき、
きみ乱れ。 きみ乱れて消す精神(こころ)、
筒よ。 出でよ、塚よ。 裂けて、
霜のそこ。 二列、
終り。 霜が割れる亀裂、
霊(たま)朽ち。 経箱のふち、
どうどう。 声のみのこる、
......てしまう。 あなたはだれ。


(「環境委員に寄付・報酬/移設影響監視4人 業者側から」〈朝日10月19日〉。「受注業者、チェック役の運営も受注」〈同、20日〉。ええと、「くされがくしゃ」という語を使っていたのは平賀源内さん。こんどはどんな語で怒る? 言葉を遺すな、源内さん。地震、ない。つなみ、ない。火山、ない。自然にうちがわから腐れ、崩壊することでしょう、きみたちのふるさと。)


製本かい摘みましては(114)

チリ南部、西パタゴニアの海底で真珠貝のボタンが見つかった。錆びた鉄道のレールに、はりついている。1973年から17年間のピノチェト独裁政治のもと、「行方不明」とされた反体制の人たちの衣服に渡り文明化を試された先住民の若者がいた。一年後にチリに戻されると、すぐに衣服のすべてを脱いだという。映画『真珠のボタン』である。劇場から家に戻って、集めるでもなくたくさん集まったボタンを入れた小箱を出してみる。黙って母の裁縫箱から持ち出した小さな貝ボタンが最初の一個だった。綺麗だった。糸を通してブレスレット(腕輪と言ってたと思うけど)にした。あの日あの時なにか事件に巻き込まれてあのまま海に沈んでいたら、今頃ボタン一つきり浮かんだだろうか。

洋服のボタン穴というのは、ボタンの直径程度に布地に切れ目を入れ、ほつれないように糸でクルクルかがって作る。隙間がなくて針目が揃うほどきれいで丈夫。もうずいぶんやっていないけれども、かがり始めは調子が出なくて、慣れてきたなと思うころにはひと穴終わるという繰り返し。中学校の技術家庭で、綿のパジャマを課題に習ったのだと思う。学校でひとつかふたつ、あとは宿題。たいてい誰もが当たり前のように母親に頼んだ。今にして思えば、先生がいちばん助かっていたのではないだろうか。今はどうなんだろう。ボタン付きのパジャマなんて縫うんだろうか。二十歳前後の知人に聞いてみたら「ボタンホール」という言葉自体に「?」だったり、学校で習ったとか自分で作ったことのあるひとはなく、糸でかがってあるのがわかってもそれはミシンがやることで、ひと針ひと針自分で縫うなんて考えもしないようだ。おもしろかったのは、「穴あけポンチを使えばいいじゃないですか。念のため、縁にボンドを塗って」と言うひとがいたこと。なるほど。

ある製本講座で「ボタンホールステッチ製本」をするにあたって事前に聞いてみたのだった。ボタン穴かがりと似た針運びで本文紙と表紙カバーを合体するのだが、"ボタンホールステッチ"と聞くだけでおおよそかがり方の想像がつくというのは小数派かもしれないと思ったからだ。当日集まった参加者のうち、二十代の数人はボタンホールを知らなかった。それよりおとなのひとは「昔やったわね、でも忘れた」と言いつつも、手を動かすうちに思い出してくるようで、爪先を使って糸の並びを整えるひともいた。ほら、見てごらん、この手つき。若いひとに声をかける。「へぇ。すごい。ところでこれのどこがボタンホールなんですか?」。そうだよね、見当がつかないよね。布に小さく切れ目を入れて、この向きでかがっていきます。あなたのシャツのボタン穴と見比べながら、あとで自分でやってみてください。「えーっと......ボタン穴は......いいです」。隣りで年配の人が、「わざわざそんなことやらないわよねぇ」。向かいの人は、「お裁縫をやらなくなったけれども、こんな風に製本に役立つとはねぇ。手ってけっこう覚えているのね」。まったくだ。頭にはなにも残ってないのに体が動くことってある。いったい体の中の何が、誰が、どう覚えているというのだろう。


しもた屋之噺(166)

庭のつる草は一気に紅葉し、日一日ごとに風景が変化してゆきます。今年は秋の訪れも、深い霧が立つのも例年より早く感じられます。息子が午後からリハーサルなので、正午ごろ小学校に迎えにゆき、厳めしい正面玄関を入ってだだ広いホールで息子を待っていると、壁に嵌め込まれた石碑に目が留まりました。

「ナザリオ・サウロ」海軍大尉 潜水艦プルリーノ搭乗
出生地 カポディストリア(現スロヴェニア領コペル)

オーストリア帝国への戦争布告より間も無く、自らの出生地を自らの手で勝取り、かの地のイタリア奪還の渇求に遵い、自身の熱意と勇気、能力を捧げるべく、我々の旗の下へ志願した。
身の危険は明白だったにも関わらず、数多くの困難なる海軍任務に果敢に参加し、実践的地理の知識と、常に弛まぬ剛毅、怯まぬ魂を見せ、危険を顧みず目覚しい活躍を為し遂げた。
後に投獄され、彼を待ち受ける運命が詳らかになっても、最期の瞬間まで驚くほど沈着な態度を崩さず、死刑執行人を前に繰返し力強く「イタリア万歳」の雄叫びを上げた。祖国への最も高邁な愛の無比の規範として、真に高貴なる魂を放った。

アルト・アドリアティコ
1915年5月23日から1916年8月10日

ファシスト時代のレスピーギやカセルラを敬遠するイタリア人は未だにいるのに比べ、彼らより余程ファシズムに浸かっていたダヌンツィオはそこまで煙たがられないのが不思議でした。

ムッソリーニ時代のファシズム建築も、イタリア人に愛され生活に溶け込んでいます。かく云う自分も、ファシズムは嫌悪しますが街頭で独特のファシズム建築を見かけると目を奪われます。ミラノの中央駅などその筆頭ですけれども、ファシズムの意向が反映されていても、別物だと考えています。息子が通う市立ナザリオ・サウロ小学校も、少し厳めしい造りの典型的ファシズム建築で、30年代に建てられました。

ナザリオ・サウロは民族統一運動に於いて、現スロヴァニア領イストリアをオーストリア・ハンガリー帝国軍から奪還すべく闘ったイタリア王国海軍の英雄で、1916年7月31日未明にヴェネチアからフィウーメに向かう途中、載っていたプルリーノ号が座礁し、夜明けに自力で船でイタリアを目指したものの、オーストリア・ハンガリー軍に捕まり、軍法会議で反逆罪により処刑されました。
彼は当時オーストリア領イストリア生まれで、本来オーストリア・ハンガリー帝国軍に加わりイタリアと闘うべき立場にありました。
碑文の最後の日付はそれぞれ、イタリアがロンドン条約後、連合国軍に加わりオーストリア・ハンガリーに宣戦布告した日と、サウロが絞首刑に処された日付けです。

ファシズム時代、イタリアは第二次民族統一運動と称し、エチオピアやアルバニア、クロアチア、ギリシャなどを次々と占領し併合したので、国威発揚として20年ほど前に斃れた第一次民族統一運動の英雄の名が小学校に冠されたのは、想像に難くありません。尤も、碑文に興味を持つ人など皆無で、石碑は磨かれるどころか、無神経に無数に貼紙でもしてあったらしく、日焼けしたテープの剥がした跡が散見されるのが印象的でした。
この100年前の碑文が妙に身近に感じられるような、えも言われぬ当惑をどう表現したものかと考え込んでしまいました。

 ・・・

 10月某日 自宅
悠治さん曰く、先月神戸できいたセイシャスの面白さは、ソレルやスカルラッティのように校訂されていないところだと云う。校訂は様々な矛盾を解決させて補完する作業だから、どんな善意を持って校訂をしても妙に整理されてしまうのは仕方がない。

先日録音したガスリーニの手稿にも、ほぼ間違いないと思われる書き損じも幾つかあったが、ツェルボーニのBは一切、手を加えてはいけないと繰返した。間違いとして認識した上で、楽譜を変更すべきかどうか。シューベルトの矛盾だらけのアーティキュレーションを思い出した。
インターネットで、悠治さんが昔弾いたショパンのバラード4番を聴く。声部が分離していて、こよりが生まれないので、和音が充分に空間を満たす。饒舌だが吶々とした印象。流れがあって流れない。バラードがマズルカのように響く。最後に拍手が入っていて、演奏会の実況録音と知る。

 10月某日 自宅
ドナトーニのCDが昨年度アマデウス誌のベストCDに選ばれたねと、ソルビアティからメールが届く。彼から頼まれた2月のミラノの国立音楽院オーケストラのプログラムは、「火の鳥」とドナトーニの「In Cauda IV "Fire"」になった。「火」というテーマで揃えると云う。「火の鳥」のどの版を使うか少し悩んで、結局19年版とする。11年版の方が好だが、学生も弾くし平板な方が良いだろう。

45年版は特にフィナーレ最後の金管群の音型が有名だが、11年版と19年版を比較すると、19年版の一等最初の冒頭の木管群からして、元来スタッカートだった部分を丁寧に休符に書き換え、自動的に輪郭が浮き上がるよう留意してある。
25年に録音された彼自身の指揮による演奏では、19年版を使用していながら、フィナーレの金管群は45年版のように切らせている。

作曲家の意識していた音楽を実現するのが正しい演奏法だとすれば、音は区切るべきだろうが、子供の頃から刷り込まれてきた印象が強すぎて、どうもしっくりこない。こういう場合、何を基準に演奏するのが誠実な演奏法なのだろう。
楽譜を読み込めば変ってくるに違いないが、作曲者だって長年生きていれば趣味は変る、とか余計な如何わしい思いが頭を擡げるのがいけない。
自分が責任を持てるだけの勉強をして、その責を全うすればよい、と言うは易し。

ドナトーニの「Fire」は、「Esa」の下敷きになった作品だから、楽譜のあちこちに「Esa」の断片が散見されて胸が苦しくなる。今読み返すと「Prom」で殴り書きされた判読不可能の和音の幾つかは、「Fire」の引用に見えなくもなくて、切なさが募る
彼自身が完成させた最後のオーケストラ作品が「Fire」で、ショパンの葬送行進曲の引用で終る。人生の最後を一切高揚させず、インベーダーゲームのGame Overの電子音のように、諧謔的に死を見つめる達観した人生観。

 10月某日 自宅
愚息が今月劇場の児童合唱で忙しいので、小学校の先生たちからきつく勉強のサポートをするように仰せつかる。先昨日、早朝五時から宿題をみる。星はガスが燃えていると説明しても、自分で説明させると、星は岩で出来ていて太陽の力で燃えていると繰返す。ドリル方式ではなく、全て質疑応答なので、自分の言葉で説明しなければならない。
家が電磁調理器なので、ガスで火がつくイメージが湧かないらしい。火を灯したろうそくをたずさえ暗がりの庭に出て、揺らぐ炎を家の中から眺めてもらい「これが星みたいなもの」と言うと、少し納得する。物質を燃やして光と熱を出す。真っ暗な中で光を発する様子は分かり易いし触れば熱い。

別の宿題。古代ギリシャの神殿にはご神体に加えて、街の有力人物の「灰」が金箱に詰められ置かれていた、という記述。イタリア語で「灰」は同時に「遺灰」を表す。
話していて、先ず物質を燃やすと灰になるという感覚が息子にないことに愕く。庭で落ち葉かきをしても焚き火はいけないので、それを燃やしたらどうなると思うか尋ねても、枝が残るくらいの想像しかできない。灰になるという発想自体が皆無なので、日本語でもイタリア語でも「灰」の言葉がわからない。

暖炉の火に薪をくべたらどうなるかと尋ねると、炭になると云う。それではその炭をもっと燃やしたらどうなるかと聞くと、火が弱くなるから新しい薪をくべるので、見えないから分からないと云う。尤もな意見ではある。子供の頃、落ち葉かきの後で、一斗缶で焚き火をした残灰で作る焼芋が楽しみだったので、炭状の木片など早く燃え尽きてと思いながら眺めていた。

人を燃やすと骨が残り、もっと燃やせばそれも粉状になる。それがこの場合の灰。
古代ギリシャは多神教で、永遠の魂も輪廻転生も我々の仏教などと同じように信じていた。遺体を物質的に変化させて灰に出来るのは、お前が生れ変わった時に別の生物か別の人間になるからさ。
一神教のキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、どれも同じ宗教から生まれた兄弟みたいなものだが、死んで暫く経つと元の身体に戻って生き返って最後の審判を受けなければいけない。亡骸を灰にしてしまうと生き返る先がなくなるから持っての外ということになる。
周りはキリスト教かイスラム教の友達ばかりだから、遺灰を金箱に詰める行為が、今の彼らにとって特殊な習慣だと理解しなければいけないよ。

 10月某日 自宅
昼にセレーナに会ったとき、彼女のヴァイオリンの生徒でルーマニアの男の子の話を聞く。父親はトラック運転手、母親は事務所の清掃婦という家庭で育ち、中学一年生。先日も新しく貸したヴァイオリンを、翌週にはすっかり壊してレッスンに持ってきたと云う。何でもソファーの上に置いていて、弟が間違って坐ってしまったらしい。今まで弓も何本折ったか数え切れない程で、一番安いカーボン弓しか買わないことになった。

ただ、音楽の才能は豊かで、夏になると親の帰郷で一緒にブカレストに戻り、向こうの流しの音楽家に長らく伝統音楽も習っている。耳にしたものはさらりと弾けるが、作品を掘下げるのは苦手で譜読みも遅い。
「なんかね、どうしようもないの」と彼女は笑う。
ルーマニア人には独特の音楽の才能があるとセレーナは力説した。彼女もずっとルーマニア人のヴァイオリンニストに習って居たので、良く分かるそうだ。

同じラテン民族だけれど、イタリア人とルーマニア人で文化的DNAの共通項はあるかと尋ねると、全くないと即答した。

 10月某日 自宅
洗面所で水を流すと、しばしば「Papà」と息子の声が聴こえる気がする。今は階下で寝ているのでどうもしないが、独りのときこの空耳が聴くと、どきりとする。

先日会ったとき、CがブルックナーはAutoglorificazione だから嫌いと云っていたのが妙に反芻される。西洋音楽、少なくともクラシック音楽はどれもAutoglorificazione ではないかと無意識に脳裏のどこかが反駁する。云ってしまえば西洋の宗教も、総じてautoglorificazione ではないか。

ミラノに住み始めて20年間、常に薄く感じ続けてきた、少し居心地の悪い感じを表す言葉は、正にこれだった、と日記に書こうとして、日本語の訳語が思いつかない。英語でも仏語でも伊語でも西語でも、居心地の悪さは等しく分かるけれど、日本語で言い換えられない。我々に欠けた皮膚感覚。欠如しているから居心地が悪いのだろう。今や理解は出来るのは、20年の生活で体内に蓄積された経験が理解させる後天的知識ゆえ。
Glorificazioneの訳語は「賛美」とか「至福」だから、直訳すれば「自己賛美」とか「自己賞賛」となる筈だが、居心地の悪さとは何かが違う。「燦燦と輝く自己高揚感」に近いが、もう少し「自己崇拝」に近い、官能的な響き。

昨晩、ネッティ作品を聴きに聖マウリツィオ教会に自転車を走らせる。
祭壇の少し上にアラベスク文様の透し窓があって、その少し上から天井までは壁はすっぽり抜けていて、あちら側の部屋の天井画が犇く姿が垣間見える。果たして祭壇の裏には極めて美しく装飾された空間が広がっていて、合唱席になっている。
その昔、透し窓の向うから聴こえる合唱に信者は何を思い、透し窓のこちらで歌う歌手や神父は何を思ったか。「告解」つまり懺悔と同じく、矛盾や虚を互いに見ない。かかる暗黙の了解がなければ、宗教は成立しようがない。
その一線を自ら踏み越えられるかどうかで、宗教心は測られるのか。

兎も角その天上のような空間で、内省的なネッティを聴く。街頭の騒音が影のように遠く、透かし窓の向こうから幽かに聞こえる。特殊奏法だけで書かれた禁欲的な音楽に、この空間でじっと耳を傾けていると何とも云えない気分になった。何故か立ち昇る怪しげな宗教的匂い。

 10月某日 自宅
アメリカ人留学生たちをキリスト教大で教えた後、机に向かって大石君の為サックス作品の素材を作っていると、どこか後ろめたいような心地がするのは、彼女たちが余りに素直だからか。

夜半の墓地のブルース。黒人霊歌が少しずつ奈落の底に落ち、宙に浮かんでいた無数の物質は少しずつ姿を顕わにする。

(10月30日 ミラノにて)


ジム子の受難とデモクラシー

我々の団体のゆるキャラがジム子ちゃんだ。ロゴマークにもなっている看護師さん。この看護師の絵は、2002年に私がイラクに行ったときに、バグダッドの子どもセンターにはってあったものから使わせてもらった。

ちょうどその時、サダム・フセイン大統領の信任投票があった。子どもたちは、選挙投票のキャンペーンなのか、偉大なる、リーダーにYES! といった絵を描かされていた。左からイラクのおばさんと看護師さん、兵隊さんが、YESと書かれた紙を持って投票しているという絵。

中東のデモクラシーは、独裁者の支持率ではかるそうだ。この時、サダム・フセインは100%の支持率だった。ちなみに、シリアのハーフェズ・アサド(現大統領の父)は、5期にわたり信任投票を経たが、いずれも99%台で、最高が99.98%を記録したものの、サダムには及ばない。息子のバッシャールに至っては、2度の信任投票で97%台。内戦が激化した2014年の選挙では、3人の候補者になったために89%の得票率になった。いかにサダム・フセインの独裁度が高いかである。

さて、2003年4月、アメリカの軍事作戦が開始され、サダム政権が崩壊した直後、バグダッドを再訪した。子どもセンターの壁に会った絵は、はがされ、燃やされていた。あれだけ一生けん命描いたのに。子どもの気持ちは複雑だろう。もう、サダムもいなくなった。看護師さんは、自らの意思で、YESといえるそんな時代が来ることを願って、写真にとっておいた絵をデザインしてロゴマークにしたのだ。

さて、この看護師さんはいつの間にかジム子ちゃんという名がつけられ、サポーターの方がわざわざ人形を作ってくださった。当時は、人形を見たスタッフ全員が、「すごい!」と歓喜の声をあげた。

一時は、守護神ともあがめたてられたジム子ちゃん人形だったが、イラク戦争から12年もたつとすっかり忘れ去られ、狭い事務所でまるで邪魔者扱い。ロゴマークの看護師さんだと気が付かない人も多い。この間は、売り物のネックレスを首に巻かれていたが、なんとなく、鎖で巻かれて拷問を受けているように見えてしまった。そして、こないだは、ジム子ちゃん、足を滑らせ棚から落ちてしまったのだが、運悪いことに、ごみ箱の中に落ちてしまったのだ。ごみ当番のスタッフは、古い人形を誰かが捨てたものだと思ってしまうところだった。

靴も丁寧に作ってもらっていたのだが、よく見ると片方はカビが生えている。ちょうど、家にクルド人が履く伝統的な網靴のミニチュア携帯ストラップがあったのでこれをはかせてみた。見違えるようによくなり、もっと大切にしなければと反省する。ジム子ちゃんは、デモクラシーのシンボルなのだ。今の日本には、最も必要なものなのだ。


十月、はしりがき

休みの日の夕方、訓練帰りのF-15だろうか、やたらうちの近辺の空を飛んでいる。ここ何年か、飛ぶところを分散させている気がする。こどもは平気でその音の下、家に帰ってくる。

うちの娘、先月やっと六回目の運動会が終わったと思ったら今度は修学旅行。見事に水筒を忘れて行った。へこんできっと不細工な顔になっているだろう、と家に帰るともう寝ていた。水筒忘れてどうしたかは起きてから聞くことにしよう。ふたりの子供、重ならずに十二回の運動会終了。

九月の半ば、齋藤徹さんから沖縄にライヴで来る、というメールが届く。齋藤徹さんとは三十三年前に初台の「騒 がや」というころで知り合った。沖縄に来る前メールのやりとりしていたら当時のいろいろなことを思い出す。大学を卒業するとき、それまで箏を習っていた栗林秀明さんから、おれは面倒みないから沢井先生のところへ行け、ということで最初は忠夫先生、しばらくして一恵先生のレッスンを受けるようになり、しばらくすると栗林さんから「齋藤徹」という名前が出て、あの徹ちゃん(年上だけど)となり、一恵先生をはじめお箏関係の方々との交流が始まり、セッションしたり曲を書いたりいろいろなことを徹ちゃんやりはじめる。わたしが徹ちゃんと一緒に演奏したのは一回だけ。コントラバス奏者のバール・フィリップスさんが主宰した神戸の震災のイヴェント、場所は法政大学の学館ホール。その時のメンバーのひとりが出演できないためのエキストラだった。二十年以上前の頃とはお互いいろいろあり、姿、体型は変わっていたが待ち合わせていた場所ではすぐわかった。昔話、近況、あれこれ話をして、うちの車が融通が利くのでコントラバスと人を車に乗せ会場へ。場所は那覇では奇跡的に戦争の被害を受けなかった戦前からある森の中の墓。そんな中、久々にガット弦の音を聴く。演奏が終わり、食事をして空港まで楽器とともに見送った。

徹ちゃんのサイトは「Travessia」という名がついている。ミルトン・ナシミントの最初アルバムのタイトル。最初にミルトン・ナシメントのメロディーを聴いたのは中学生の頃、FMで録音したウェザー・リポートのライヴだった。ウェイン・ショーターのサックスソロで「Ponta De Areia」のメロディーを吹いていた。そのメロディを覚えていて「騒」でかかったウェイン・ショーターの「Native Dancer」でよみがえった。あとあと入手したそのアルバムにはギターでジェイ・グレイドンが参加しているのを知る。スティーリー・ダンの「Aja」で注目される二年前。「Ponta De Areia」は「Native Dancer」と同じ年にミルトンの「Minas」に収録されている。聴き比べたら「Minas」のほうのヴァージョンがだんぜん良かった。CD屋で働いている頃にミルトンのアルバムを集めた。EMI-ODEON、A&Mの時代のを揃えてたらやめた。「Travessia」はODEON時代の最初のアルバムのボーナストラックに入っている。揃えたEMI-ODEON時代のアビー・ロード・リマスタリングも二十年前の盤。

その翌週、映画を見に行く。単館上映なので那覇まで行く。映画は「ラヴ&マーシー」。東京より二ヶ月遅れての上映。客は十人くらい。映画を見て、エンドロールの左下の小さい画面の中でブライアン・ウィルソンがタイトルの曲を歌うところで涙が出てきた。ジェイムス・ブラウンの映画では本編、二つのシーンで泣かされてしまったが、エンドロールでまさかの涙。声が持つ魔法のようなもの。

十月最後の日、職場で見た新聞には横田配備のオスプレイの訓練が伊江島、と一面見出しに出ている。配備先と訓練場所を分けただけの負担軽減が続く。仕事帰り、いつも通るゲート通りは基地関係のひとたちでハロウィン騒ぎ。信号待ちで向こう側の歩道をながめていると、男が酔っ払った仮装姿の女の子をお姫様だっこして歩いてる。おい、パンツ丸見えだぞ、と言いたかったけど距離あるし英語でなんて言えばわからないし。


アジアのごはん(71)ココナツオイルと朝ごはんの行方

ココナツオイルを食べ始めてから、太りだした。とくにお腹まわり。おかしい。ココナツオイルは太らない脂肪じゃなかったのっ。タイにしばらく行っていると、お腹のまわりに着いた脂肪は消える。だが、日本に戻って自分で調理を始め、ココナツオイルを使い始めるとお腹のまわりがあっという間につまめるようになってしまう。

「ヨーグルトを朝食べると太る」というキャッチに惹かれて『最強の食事』(ダイヤモンド社刊、デイブ・アスプリー著)という本を読んでいたら、あっと思い当たることがあった。それはいくら身体によい食べ物であっても食べるタイミング、身体の都合というものがあるということだ。著者によると、まず朝は前日の夕食からの短い断食状態を維持するために、糖分、炭水化物を一切取らないことが重要という。飢えた状態の体は、糖質を吸収するとすぐさま脂肪として蓄えるように指令を出してしまうというのだ。

ココナツオイルをどうやって食べていたのかというと、まずは朝に紅茶を一杯飲み、それからパンを焼いてバージンココナツオイルを塗り、塩を振ってもう一杯の紅茶と頂く。これがまたおいしい~。バターよりも、オリーブオイルよりもおいしい。あとは炒めものや焼き物など調理に使うメインの油として香りのない炭でろ過したタイプのココナツオイルを使う。だいたい1日大匙2杯~ぐらいを食べている。推奨されるココナツオイルの摂取は大匙2~3.5杯だから特に多くはない。

しかし、問題は朝のココナツオイルトーストにあった。じつは、ワタクシはこれまでほとんど朝食を食べない食生活を送ってきた。ときどき朝にパンを食べることもあったが、これほどまでに毎日きっちり、ノルマのように食べたのは、小学生以来ではないか。ココナツオイルをきっちり食べよう、しかもおいしいし。と毎朝お腹がへっていなくても食べていた。その結果がわき腹のお肉か。朝のパンのせいかと考えたこともあった。しかし、わずかのパンとオイルがここまで脂肪になるのか??と信じられなかった。

だが、タイにいる時はアパートにトースターがないし、おいしいパン屋も近くにないので、ほとんど朝は紅茶だけ。ココナツオイルは肌の保護に塗るのがもっぱらだった。タイで痩せるのは大量にトウガラシを食べるせいもあるだろうが。

朝ごはんを食べないというのは、一種の断食でありそれが非常に体に良い結果を生む、と『最強の食事』の著者は言う。夕食後15~18時間の断食がからだの浄化になるのだが、朝起きてすぐに炭水化物や糖分を食べてしまうと、身体は一気に脂肪たくわえモードに入り、ますます空腹を募らせる。たった1枚のトーストがカロリー過多で脂肪に回されたのではなかった。トーストは身体が脂肪たくわえモードに入るスイッチだったのだ。

すると、わたしがこれまでずっと太ったことがなかったのは、朝ごはんを食べない生活習慣のためだったと考えられる。その朝食抜きに関しては、食べると余計に空腹が増す、起きる時間が遅いので朝食を食べると昼ごはんが食べられないからといろいろ理由はあるが、まあ、胃が動かないのでほしくなかったのである。旅行などで朝からしっかり食べさせられると、ものすごく疲れる。うちの連れ合いも同じく朝ごはんを食べないので、うちに朝ごはんはなかった。結果として、15~16時間の短期断食が実行されて、身体は脂肪たくわえモードではなく燃焼モードになっていたのである。

その習慣を、ココナツオイルをちゃんと食べようとして、壊してしまったとは、なんということだ。かつて、さんざん親や友人に朝ごはんを食べろとうるさく言われてきて、わたしの体には合っていないと聞く耳持たなかったのに。

せっかくのココナツオイルも、朝に炭水化物や糖分と合わせて食べると意味がなかった、ということだ。ココナツオイル付きトーストは、昼以降に時々食べるぐらいにしよう‥。というわけで、数日前からふたたび、朝は紅茶だけの生活に戻している。エネルギーが昼まで持たない人は、ココナツオイルをコーヒーに混ぜたり、そのまま大匙2杯ぐらい食べるといいようだ。この脂肪はたくわえに回らず、エネルギーに回されるのでだいじょうぶ、らしい。またはタンパク質とココナツオイルを朝食にするとか。

ちなみにダイエット効果を狙って夜に炭水化物を抜く人が多いようだが、炭水化物は夜に取る方が、身体の負担も軽く、質の良い睡眠がとれる、と『最強の食事』の著者も言っている。まったくの炭水化物ダイエットは糖尿病の人か極度な肥満の人以外には体に害があって一利なしであるので、注意したい。短期的には痩せても、その後に待っているのはさまざまな成人病だ。

かつて、夕食はお酒とつまみだけ、の生活だった頃、朝はいつもひどい気分でふらふらだった。夜にご飯を必ず食べるようにしたら、翌日の状態が一気に改善し、身体の調子がとてもよくなった。お腹がいっぱいになって、お酒やつまみが入らないという人がいるが、ご飯は食べるものとして、のこりのお腹に合わせてお酒とつまみを入れるのがいい。つまり、つまみを減らせばいいのだ。ここで、つまみや酒を減らさずにご飯を追加すれば、それは太るでしょう。

気になるキャッチの「ヨーグルトを朝食べると太る」とはどういうことかというと、腸内細菌はでんぷんや糖質が大好物で、それが与えられると肝臓が作るのと同じ脂肪たくわえ因子を形成し、逆にそれが足りない時には脂肪を燃やすFIAFというたんぱく質を作り出す。朝に腸内細菌の豊富なヨーグルトを食べると、それが火に油を注ぐらしい。著者の身をもっての実験の結果、大変効率よく太ったとのこと。

『最強の食事』はすべて日本人に当てはまるとは思えないが、なかなか面白い本だ。いいとこどりで活用させてもらうとすれば、朝ごはんに炭水化物と糖分、そしてヨーグルトは食べない、というところだ。毒素を排する、という点も重要。著者は牧草で飼育された牛の乳から作るバターとココナツオイルをたくさん食べることを推奨しているが、(それを入れてよく混ぜた「バターコーヒー」が完全無欠な朝食という)牧草で飼育された汚染されていないバターが運よく手に入ったとしても、日本人の多くはこんなに多量のバターは食べられないだろうな。ココナツオイルならまあ、できそう。

いま、TPPへの締結に向けて政府はあたかもすでに「決まった」かのような発言を繰り返し、マスコミも誘導したニュースを流しているが、とんでもない。もしTPPが締結させられると、様々な分野で日本崩壊が起こることになるが、食べ物の分野で言えば、遺伝子組み換え作物のことが大変気になる。これまでJAの子会社が遺伝子組み換え作物の流入を食い止めていた。しかし農協法改正で組合が株式化されてしまうと、外資による買収が可能になるのだ。間違いなく遺伝子組み換え企業のモンサントがJAに入り込んでくる。そうなると、日本の農地は遺伝子組み換え作物に席巻され、それとセットの除草剤ラウンドアップによって汚染され尽くすことになる。

ISD条項によって訴えられる可能性があるために、食品に「遺伝子組み換えでない」という表示ができなくなるだけでなく、じっさいに遺伝子組み換え作物がものすごい勢いで日本の農業を変えていき、輸入作物だけでなく国内産でもほとんどが遺伝子組み換えの野菜や穀物になっていくだろう。

遺伝子組み換え食品の恐さはまだまだ未知数だが、ほぼ遺伝子レベルで害をなすことがわかってきている。さらに、遺伝子組み換え作物と必ずセットで使われるラウンドアップという除草剤は、ダイオキシンを含み、作物に残留する。このダイオキシンが体内に入ると、腸内細菌に大変なダメージを与えてしまうのだ。人の免疫は著しく低下し、さまざまな病気やがんがますます増えることになる。ダブルで始末に悪いのだ。

遺伝子組み換え産業のモンサント社について、日本人はあまりにも無関心すぎる。モンサントをはじめとするアメリカのグローバル資本の利益のために、日本をこれ以上差し出すわけにはいかない。身体によい、毒素を排した最強の食事を望んでも、食卓にあるのは毒ばかり、などという未来は願い下げである。


消しゴムと羅生門

 目の前にあるのは答案用紙だ。先週の抜き打ちテストで、問題を読んで答えを書き込んだ解答用紙だ。それがたったいま返ってきた。先生が一人ずつ名前を呼んで「頑張ったね」とか「もう少し頑張ろうね」と声をかけながら返している。
 先生は産休で休んでいる小木原先生の代わりの本堂先生で、まだ大学を卒業して三年目の女の先生だ。僕は小木原先生が嫌いだったので、本堂先生が代わりにやってきてほっとしている。
 テストの問題を先週配ったのは小木原先生で、採点して返却しているのは本堂先生だ。そう思いながら、返却された答案を眺めているととても不思議な気がした。
 問題は現代国語の教科書に掲載されている『羅生門』の抜粋で、そこから三つの問題が出されていた。
 第一問・本文中の擬音の使い方について、思うところを自由に書きなさい。
 第二問・髪の毛を抜く、という行為はなにを象徴していると思いますか。
 第三問・この作品を通じて、芥川龍之介が伝えたかったことはなにか、書きなさい。

 先週、大きなお腹を抱えながら小木原先生が問題を配ったあと、僕はじっとその問題を眺めていた。中学三年生になって初めて現代国語で勉強した内容だったので、『羅生門』についてはよく覚えていた。
 僕は芥川龍之介のこの小説をとても面白いと思った。でも、授業で小木原先生が少しずつ解説をするに従って、その面白さが失せていくような気がしていた。まるで、意味がわかるごとに、消しゴムで面白さを消していくように、僕の中から『羅生門』が色あせていくのだった。僕は教室の片隅で、小木原先生が時々フーッと大きく息をつきながら『羅生門』について説明するのを聞いていた。先生が大きな息をするたびに、先生のお腹が大きくなるような気がした。
 僕は先生のお腹に意識が集中してしまうのが嫌で教科書の『羅生門』を読みふけった。先生の声が聞こえなくなると、俄然面白くなり結局授業が終わるまで、何度も何度も繰り返し本文を読んでいたのだった。
 おそらく、問題用紙に書かれていた三つの問題は、あの日の授業で先生が僕たちに話したことばかりなのだと思うのだが、なにひとつ覚えていていなかった。
 仕方なく僕は適当に思うままに記述して早々に提出してしまったのだった。
 今週からやってきた本堂先生はとても陰のある先生だった。小木原先生よりも若いのに老成しているように見えた。こういう女は男運が悪いんだ、と祖母が言ったテレビドラマに良く出てくる女優に似ていた。きっと、本堂先生も男運が悪いんだろうと僕は思った。
 それでも僕が本堂先生に好感を持ったのは男運が悪くて、陰があって、少し暗い印象なのに務めて明るく振る舞い、元気に授業を進めようとしている姿勢だった。中学生ながら、そんな本堂先生を見ていると「そんなに無理をしなくて良いのに」と思ってしまうと同時に、その健気さに心打たれてしまうのだった。
「では、先週、小木原先生が出してくださった現国の小テストを返却します。出席番号の順番に取りに来てください。では、赤城君!」
 先生が順番に名前を呼び、僕たちが順番に取りに行く。僕は本堂先生のふくらんでいないくびれたお腹のあたりを見ている。やがて、男運の悪い本堂先生もお腹が大きくなっていくのだろうか、と思いながら、僕は順番を待っている。
 僕の名前が呼ばれる。まだ生徒の名前を覚えていない本堂先生が僕を目で探している。僕が小さく「はい」と答えて立ち上がる。先生と目が合う。その瞬間、先生はテストの点数に目をやると、受け取るために近づいてきた僕に「大人っぽい答えね」と言ったのだった。僕は先生の目の前で「え?」と声を出して立ち止まった。
「大人っぽいですか」
「あ、うん、そうだね。なんだか大人っぽい答えだなって」
 先生は僕の問いかけに、少し驚いた様子で答えてくれた。中学生の小テストの答えを見て、その感想に「大人っぽい」と答える教師は信用に足るのかどうか。そう考えた僕は、自分の席に戻り椅子に座った瞬間に「信用できないな」と小さくつぶやいたのだった。
 手元の解答用紙を見ると、見慣れない本堂先生の字で採点がしてあって点数が書き込んである。いま、手元に問題用紙がないので、答えだけが並んでいて、その答えに○とか×が書かれているという光景はなかなかにシュールだ。
『作者が伝えたかったのは、主人公の気持ちの移り変わりではなく、主人公を取り巻く状況の変化であり、その中での主人公の無力感なのだと思った。』
 僕の字がそう書いていて、本堂先生がそこに大きな△をつけて、『もう少し登場人物の人間関係に注意して読んでみましょう』と先生の赤字で書き添えられていた。
 問題は全部で三つあったので、答えも三つある。そのうちの一つが×で残りの二つが△だった。点数は六十三点で抜き打ちテストとしては悪くはないと思うが良くもない。しかし、それよりも△を付けられた答えにいったいそれぞれ何点が付けられて、全部で六十三点になっているのかがわからないことだった。
 点数があった答えは二つ。両方が△。同じ点数だとしたら、六十三点という奇数にはならない。ということは適当に数字が割り振られて、こうなったのだということだろう。おそらく小木原先生ではなく、本堂先生のさじ加減一つなのだろう、と僕は思いなんだか馬鹿らしくなってきた。
 本堂先生が目の前で解答の説明をしているのだが、声がだんだんと聞こえなくなって、僕は解答用紙に書かれた僕の黒い鉛筆の字と、先生の赤い色鉛筆の字が一緒にそこにあることが気持ち悪くなってきた。せめて、そこにあるべきなのは問題を作った小木原先生の字と僕の字であるべきだ。
 知らない間に手にしていた消しゴムで、僕は答案用紙をこすり始めた。答案用紙を破らないように、丁寧に丁寧に僕は消しゴムを上下させ、左右させ、文字を消す。
 気がつくと、僕の鉛筆の文字だけが消しゴムで消されて、本堂先生の赤い文字だけが答案用紙の上に残っていた。

六十三点


×
もう少し登場人物の人間関係に注意して読んでみましょう

 それだけの赤い文字が答案用紙の上で、妙なすき間を作りながら並んでいた。僕は△の答えを二つ消し、×の答えを一つ消し、都合六十三点の答えを消しゴムで消したのだった。
 答えのない解答用紙をじっと見ながら、さっきまで書いてあった自分の答えを思い出そうとしたが何も思い出せなかった。思い出すのは小木原先生の大きなお腹ばかりだ。
 僕は頑張って、もう一度鉛筆を握りしめて、△の答えを思い出して書こうと努力してみた。小木原先生に出された問題ではなく、いま目の前にいる本堂先生に出された問題のふりをして僕は答えを書こうとしている。○の正解ではなく、本堂先生が△をくれそうな答えを探している。
 探しても探しても答えは見つからない。答えだけではなく、問題さえもわからない。掌から汗が流れ、解答用紙が濡れる。僕は長生きを吐きながら顔をあげて教壇に立つ本堂先生を見る。本堂先生のお腹はいつのまにか大きくなっていて、あの中に答えはあるのか、と僕は考えている。


グロッソラリー ―ない ので ある―(13)

 1月1日:「じゃあ、ちょっと電話するわ。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい――」。

(o(>皿<)o)) キィィィ!! またかよ!!

 人生を見渡してみて、記憶に新しいのは失敗や悲しみである。しかしそれらの時制はずっと古い場合もある。なぜ記憶が前後するのか。喜びや楽しさは感情の瞬発的な発露加減や派手さは一流だが、所詮は消えもの、有象無象に同化する。対するに負の記憶は、半生において確実に里程標として、見たくない色をした道標として存するからである。

ヽ(oゝω・o)-☆であ〜る!!

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(。-_-。 )ノ☆了解☆

 じゃあ、伝説のおとぎ話をするぞ。えーと。むかーしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいましたか? えーと。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは山へ芝刈りに行きました。あ......。えーと。「まねすんな」とおじいさんが言うと、「まねすんな」とおばあさんも言ったのです。手つかずの洗濯物に残暑見舞いを申し上げます。

(`∀')ノお⊃かれちゃ〜ん

 世界中から人間や動植物が消え失せてはじめて、心の底からの深呼吸ができるだろう。人間の分泌する感情とも、動植物が放散する風情とも、まるで関係がなくなる。深呼吸できるのはいいが、これは喜ばしい事態なのだろうか。すべてから断絶し完全に孤立した自分という有機体を人間と呼べるのか。いっぺん世界中で一人きりになる必要がある。

(‐"‐;)

 1月1日:「やれやれ。松子も当てにならないな。ほんとやれやれだ。人の資質は判断力で決まるなんていうけど、俺は完全に駄目人間だな。わはは。駄目でいいよ駄目で。全然構わないよ。駄目の何が悪いんだってんだよ。誰だって欠点の一つや二つはあるだろうに。なんで判断力だけでその人全体を全否定するんだ。わけわからねえよ――」。

(`ヘ´) フンダ!!!

 憤怒、不快、苦痛、心労、困難は人生において高いシェアを占める。人間に執拗なまでに付きまとう辺りからすると、他の生命体には相手にされないと見た。ところが、その程度の事象に人間は四苦八苦させられている。生とは苦であるというショーペンハウアーの言の証左となるわけだが、人間優勢に思えるのは見当違いなのだろうか。

。・:*:・゜☆ ネ兄 月劵 禾り ? ,。・:*・・゜☆

  ちょん掛けでただちにまんぐり返しじゃ陰翳礼讃にもならんが、意外な進展も期待できると誰かが言ってた気がするのう。恥ずかし固めのことじゃなしに。一点突破全面展開ときた日にゃあ、きっかけなんざ待てば海路の地引網にやってくることに誰も気づいちゃいねえ。俯瞰長官のお出ましかーらーのー体育座りかーらーのーローザンヌ学派。

ヾ(@^▽^@)ノわはは

 自殺への強迫観念および誘惑は思いのほか軽いものだが、決して軽んじてはいけない。生を追求・希求する人はきっとそう告げて注意を促すに違いない。だが実際に自殺するのと自殺を軽く見るのとでは、生と死ほどの距離がある。意外なことに自殺者は、その瞬間に死など頭にない。脳裏に去来するのは、全自分を軽んじる一念だけである。

ε=(・д・`*)ハァ...

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人......。

クゥーッ!!"(*>∀<)o(酒)"


職業としての...

村上春樹著『職業としての小説家』(2015年9月/スイッチパブリッシング)をおもしろく読んだ。「職業としての」と但し書きが付いているように、小説を書くことを仕事にして生きていくという事は、どんなことなのか、村上自身が振り返って綴った文章だ。

あとがきによると、「自分が小説を書くことについて、こうして小説家として小説を書き続けている状況について、まとめて何かを語っておきたいという気持ちは前々からあり、仕事の合間に暇を見つけては、そういう文章を少しずつ断片的に、テーマ別に書き溜めていた。」ということで、「最初から自発的に、いわば自分自身のために書き始めた文章」ということだ。翻訳家の柴田元幸氏編集の雑誌『Monkey』に連載として発表され、今回の単行本にまとめられた。

勿論小説家になるための有効な方法が書かれているわけではないけれど、小説家になりたいと考えている人は、きっと励まされるだろうなと思った。ここに綴られているのは、ひとりの人が、自分自身が心から納得できる仕事をしたいと願って、1日1日こつこつと誠実に仕事をする話なのだ。そして、「小説家」という職業を続けるなかから(リングから降りずに続けていくという事自体がたいへんなことなのだが)村上氏が確信した様々なことは、小説家になりたいとは思っていない私にも大変おもしろく参考になる言葉だった。

例えば「オリジナリティ」について。彼は10代の頃に、ビートルズやビーチボーイズに出会った頃のことを振り返って、「その音楽は僕の魂の新しい窓を開き、その窓からこれまでにない新しい空気が吹き込ん」できて、「いろんな現実の制約から解き放たれ、自分の身体が地上から数センチだけ浮き上がっているような」幸福感がもたらされたと語る。そして、その幸福感をもたらした、今まで聴いたことがなかった響きがオリジナリティだと語る。自分も小説によってそんな幸福感を再現したいし、自分の小説によって「人々の心の壁に新しい窓を開け、そこに新鮮な空気を吹き込んでみたい」とも語っていて心に残った。

デビュー当時、村上の小説を「外国文学の焼き直し」と批判する発言もあった。じゃあ「オリジナリティー」とは何なのだ。無責任な批判に対して、村上自身が自分で指標を立てることが必用だったのだろう。

「職業として」やっていくには、世間と接点をもたないわけにはいかない。世間は小説家に勝手なイメージを抱いて、無責任に様々な言葉を投げかけてくる。文学賞について、作家としての日常生活について、外国での出版について...、常に向かい風のなかで、村上自身が納得できるあり方を考えぬいたすえの言葉はわかりやすく、心に響いた。

唐突だが、村上春樹と共通するものを、最近見たドキュメンタリー映画の中のボクサー、辰吉丈一郎に感じた。東京国際映画祭に出品された阪本順治監督のドキュメンタリー「ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年間」(2016年公開予定)は、インタビューに答える辰吉のクローズアップを20年間にわたってつないだ異色のドキュメンタリーだ。網膜剥離によって国内の試合の道が断たれながらも、海外に対戦相手をみつけ、ボクサーを続ける辰吉。ついには年齢的にライセンスも剥奪されたが、今だ「引退」せずボクサーであることを続けている。多少の気分の浮き沈みはあるにしても、語る内容も、語る姿もブレることなく、静かな辰吉の姿に感動した。

ボクサーも小説家と同じように、世間が勝手なイメージを抱き、夢を託し、無責任に投げかけてくる言葉と対峙しなければならない職業だ。辰吉が貧しい父子家庭に育ったことについて、網膜剥離や年齢によっても引退しないことについて、次男がプロボクサーのテストに受かったことについて...、世間は勝手にイメージを抱き、さまざまな意見を押し付けてくる。自分が納得できるあり方を求める、その1点にブレない辰吉。彼の言葉は世間の期待を裏切ってかっこいい。ボクサーになった自分を父はどう思っていたのかという質問に対して、「自分の子どもが殴り合うのを見たいと思う親はいないでしょう」と答える言葉が心に残った。インタビューに答える「言葉」だけで試合の様子は一切出てこないけれど、飽きることが無い82分だった。


国籍と帰属先

10/31の日経新聞に藤田嗣治の肉声テープが見つかったという記事が出ている。日本を捨てた藤田が民謡や浪花節を好きだと語り、「藤田先生は日本嫌いで縁を切ったなどと言われているが、本当は日本が大好き」だとある。いつも思うのだが、日本では、外国籍を取得する=日本を捨てると思われがちだ。青色LEDの発明開発でノーベル賞を取った中村修二が米国籍を取っていることが知れた時も、中村は日本を捨てたということがあちこちで書かれた。

けれど、国籍を選び得る状況に置かれたとき、それ以前の状況とその後の展開(その後に得られる権利)を考えて、より有利な国籍を取得したいと考えることは人間として普通なように思う。それは日本国籍を捨てるというより、別の国籍を選ぶという行為なのだ。もちろん、戦後「戦犯」扱いされた藤田には日本国籍を捨てたと言える部分はあっただろうけれど、それは日本に生まれて体得してきた日本の文化まで否定するということと同じではない。それなのに、藤田は日本人だったアイデンティティまで全部否定したように言われてしまう。

「国籍上の日本人である」ことと、「日本人としてのアイデンティティを持っている」ことは別問題なのだ。世界的に見れば、民族と国籍と在住国と本人のアイデンティティが違うという例も多い。島国日本ではこれらが全部一致するものだという感覚が今でも根強くあるように思う。インドネシア人にどちらの出身?と聞くと、「えーと、父は○○民族で母は××民族だけど、両親は共にジャカルタに生まれ育っていて、私は今は日本で仕事をしている」というような返答を聞くこともある。その人にとっては、結局どれが帰属先が分からないようだ。


仙台ネイティブのつぶやき(7)古老のことば

鬼首の高橋敏幸さんが亡くなられた。鬼首は宮城県の最北西部、秋田県の県境にある山間の地域で、敏幸さん(いつもこうお呼びしてきた)はこの地に生まれ90年の生涯のほとんどをここで過ごされた。もの静かで、誠実で、偉ぶったところがひとつもない方だった。(『水牛』の6月にもその暮らしぶりについて少し書いているので、お読みいただくとうれしい。)

仕事で1年に何人ものお年寄りとお会いするのだけれど、まれに自分とウマが合うというのか、相性がいい人があらわれる。何より、自分のことばを持っている方で、そのことばはその人の暮らしや人生の時間を表現するだけでなく、聞き手である私の足元を照らし返す力もあわせ持つ。そういう人が目の前にあらわれたときは、話の続きを聞きたいと率直に伝えて、時間の許す中で会いに出かけてきた。敏幸さんもそんなお一人だった。

教えられたこと、気づかされたことはいくつもある。

たとえば、この標高の高い山間地での暮らし方。ここでは、人が生涯にひとつの仕事だけをまっとうするということはありえない。ひとつで家族を養いきれるほど大きな生業はないのだ。敏幸さんも基本は米や野菜をつくる農家でありながら、馬や牛を育てて市に出荷し、春には山菜、秋にはキノコを採りにブナの森に入り、犬を連れてウサギやヤマドリを探し歩くマタギになった。雪に埋もれる冬はお膳づくりに精を出すクラフトマンでもあった。

頭の中には周辺の山々の膨大な情報が入った地図と、長年の経験知が埋め込まれた暦が入っていただろう。もちろん、その体は風景と移りゆく季節の先々をセンサーのように感じとる五感を備えていた。

「ガシガコイ」。

このことばが敏幸さんの口から発せられたとき、私はとっさに意味がわからなかった。数秒、頭の中をシャッフルさせて、それが「餓死囲い」であることに気づいたあとはどんなことばを返したらよいのか固まってしまった。

「餓死囲い」とは、囲炉裏の上など家の高いところに稲の種籾やソバの実などを俵に詰め備えることをいう。「囲い」とは封じ込めるという意味だろう。万が一の水害から守り、煙にいぶされて虫やネズミに狙われない場所として、囲炉裏の上が選ばれたのだと思う。農家が翌年撒く種籾にまで手をつけてしまったら、もうそれは餓死を意味することだったが、昭和初期の大冷害でも食べるものに不足し翌年の種籾まで食用にせざるを得ない農家が続出した。

鬼首に限らず東北は江戸時代から冷害に苦しんでいる。城下町仙台だってそうだった。天明年間に作成された絵図は、武士たちの名前が赤文字で記されている。餓死したり逃げ出したりして空き家になった家はそう描かれているのだ。

鬼首でも天明の飢饉のあとはずいぶん空き家が生まれたらしい。「うちは5代目だけど、鬼首は寺や旧家が10数代数えているほかは、5代、6代という家が多い。それは空き家に入り込んだからなんだ」と地元の人に聞かされたこともある。

「食べるものがない」。

敏幸さんは、戦後、国の食糧増産の政策のもと、近くの11軒の農家とともに近くの大森山の山裾に広がる標高500メートルの台地、大森平の開拓に乗り出した。秋田の不在地主が所有していたという台地は杉の巨木が茂る森だったという。その杉を伐採し根を掘り起こし、さらに水田にするために沢水を引く作業は、苦労ということばで簡単に説明できるようなものではなかった。しかも、土壌は強酸性の火山灰土。昭和28年、29年には冷害が打ち続いた。「一日開墾しても、せいぜいこの部屋くらい、6帖分くらいしかいかねえの」と敏幸さんは、静かな口ぶりで話す。

想像を絶する話に、何を質問したらよいのかわからなくなって、私はつい愚かなことを聞いてしまった。「何が一番大変だったですか?」自分でもしまった、と感じながら。少しの間をおいて敏幸さんが答える。「食べるものがないこと」。

目の前のこの人は餓死の恐怖と闘ってきたのだ。その気づきは、同時にすべて食糧を買いもとめて生活を立てる私自身の暮らしぶりをおのずと照らすものにもなっていく。

大森平の開拓は昭和30年代に入って完了するが、その後、国は米あまりの中で減反政策を打ち出した。1軒の離脱もなく進められた開拓だったが、2代目、3代目となるにつれてこの地を離れる家も出ていきている。

それでも、2万5千分の1の地形図を開くと、開拓された大森平は黒い罫線でくっきりと記されている。その広さは...どのぐらいだろう150ヘクタール、いや200ヘクタールにも及ぶだろうか。

「美しいものは美しい」。

自然は、人の息の根を止めかねないほどにきびしいものだったが、同時に恵みをもたらしてくれるものでもあった。敏幸さんは、つらかった日々を美しい風景と恵みでなぐさめてきたのだろうと思う。

春に訪ねれば「となりの桜が満開だ。あの桜が満開になったらそろそろ田植えだな」と話していたし、広葉樹の山々が燃えるような色彩に彩られる秋は、「栗駒の方まで、まあ見事だ」と目を細めていた。この地に住んで80数年。毎年毎年、変わらなく訪れる季節の変化を確かめながら、その中でその訪れは毎年少しずつ違っていることを感受していたろう。

紅葉の季節に訪ねたとき、紅葉のすばらしさを口に出されたので、「でも、毎年見ている風景ですよね」と聞き返したことがあった。そこに、敏幸さんは「毎年眺めて飽きないのですか」というニュアンスを感じとったのだろうか。いつもと同じようにしばしの沈黙のあと、こうことばを返してきた。
「何年眺めても美しいものは美しい」。
私の胸は、なんだか温かいもので満たされていった。

葬儀に参列できなかったので、今月半ばには奥さんと息子さんを訪ねる予定だ。敏幸さんが80年以上愛でた秋の山は、もう落葉してしまっただろうか。


かかしの神

始まりはふかふかしていた
草が絡み合った地面を踏むと
踏んだ足がそのまま沈み
おなじだけの体積の水が浸み出してくる
存在と水
靴がぬれるのは仕方がないから
足をとられるのに気をつけながら
歩いて行こう
小さな蛙たちがおびただしく逃げてゆく
この野は元は潟
蛇行する川が平野を流れ海に出るそのあたりに
一面にひろがっていたのだ
海水と淡水が入り交じって汽水域となる
小動物を求めて渡り鳥が集い
水際では葦が隠れ家を提供する
いつか、二百年ほど前のことだろうか
人々は大変な努力をもって
川をまっすぐな水路に変え
寒冷地の湿原を水田に変えた
それからしばらく米の時代が続いた
ところがあるとき、数年前
大きな波が土地を洗ったとき
この一帯はしばらく海に戻り
水が引いたあと土地の本来の姿に戻ったのだ。
いまここは濡れた野
冬には白鳥たちが飛来する
南に少し下ったところにある川には
秋には鮭がたくさん遡上する
でももう誰も獲らない
鮭は鮭のためだけに生きる
いまは北の土地の夏で
ミズアオイの小さな花が咲いている
帰ってきた花たちだ
この原をこれから歩いてゆくのだが
どこをめざすのかも
何を探すべきかも
わからない
人を訪ねるのではない、人は住むことをやめたので
ただむせるほどの力がこの土地にみなぎって
何かを育てているらしい
その力を見たい
その現れを見たい。
巡歴は始まったばかりだ
山から猪が降りてきて
新鮮な泥で体を洗っている
存在と泥
猿たちの群れはこのあたりに見切りをつけ
どこか内陸部へと移住していったようだ
ずいぶん広い土地を
隈なく見ようとして
「見えない眼鏡」をかけたまま
ぼくは歩くのだろうか
以前ここに来たときには
コカコーラの自販機が
鮮やかな赤色で
澄んだ青空に聳えたっていた
傾いたまま巨大な自販機が
巨大なコカコーラを売りつづけていた
電源もないのに
清涼飲料を買いにくるのは姿のない人々
透明な缶をプシュっと開けるたび
ものすごい量の時間が渦潮のように流れ出す
自販機は心もないのに一所懸命お礼をいう
ありがとうございました
「さすけねえ」
そのやさしい言葉が胸に響いた
コーラを飲み干して
しばらくぐるぐると歩くうちに
方向も時間も見失ってしまった
この野は心を混乱させる
考えの糸口も見つからない
何を失ったのかさえ忘れてしまった者には
失ったという感覚も残らない
冬のモントークの雪が降る砂浜のように
記憶がどんどん書き換えられて
青空のようにはかない気持ちだけが残る
失われた町すら失われて
ここには初めから何もなかったのだと
みんなが考えるようになる。
だがそれをいうなら
何もなかった初めなどなく
いつもこの場所はみたされていたのだ
分割不可能な生命の
大きな心に
数え上げることのできない
あらゆる種が作る社会に。
歩くことがそれ自体としてわからなくなったので
ぼくはいろいろな動きを試してみる
爪先立ちでくるくると旋回したり
抜き足、差し足、猫の歩みをまねたり
少しでも乾いたところを探して寝そべったり
五体投地を試みたりもする、目的の聖地もないのに
するとその先に四、五頭の牛が出現して
壊れたコンクリートの橋桁を使って川を渡ろうとしている
声をかけると耳をぴくぴくさせるが
それ以上にこちらに興味をもつことはない。
ふと見上げると水平よりはかなり上のほうを
一艘の船が進んでいくのが見える
十人くらい乗れそうな船室のついた釣り船だ
周囲の野よりもかなり高い水路を行くので
ありえない角度になる
水着姿でサングラスをかけたオランダ人らしい
一家が船から手を振った
考えてみればいまいるこの野の標高は
たぶん海面よりも数メートル低い
われわれは海の底で生きてきたのだろうか
この土地をみたすすべての植物や動物とともに。
無理をしていたことはわかっているんだ
としゃがれ声が聞こえた
見ると一匹のひきがえるが見上げている
ちょうどいいところで出会った
図書館があったのはどこでしょうか、とぼくは訊ねた
図書館はもうないよ本はすべて流された、とひきがえるは答えた
何も残っていないのですか
残っているのは不動産管理士試験問題集とかそういうのだね
土地の昔のことを知りたいときにはどうすればいいでしょう
かかしに会いに行くんだね、とひきがえるがいった
あの人は動かないけどすべてを知ってるよ
すべてを覚えている人だ
かかしはどこにいるの、とぼくは訊ねた
それくらい自分で探しなよ、とひきがえるがいった
ひきがえるが五本足(小さな腕が余分)なのにいま気づいた
では行ってみますとぼくはいって
すでに草花が埋めつくしている線路を歩いて行くことにした。
野から町に入るが誰もいない
アスファルトの道路に寝転がりわんわん吠えてみる
一頭の牛を引き猿の面をかぶった男が
映像のように映画館の角を曲がるのが見えた
閉まった新聞店のガラス越しに
四年半前の新聞が大量にあるのが見える
犬たちの鳴き声がするが姿は見えず
鳥たちのさえずりも聞こえるが姿は見えず
青空がひろがるがその空が本物かどうかもわからず
潮騒が聞こえることすら壮大なトリックみたいに思えてきた。
また町を離れて野にむかう
「町」と「野」の文字に隠れている「田」を思う
もうここに区画はないのだから
かかしもいないのではありませんか
ぼくはかかしの役割を考えた
カラスやスズメを無言でおどかすのか
Boar や deer やbear にここは人間の耕作地だと語るのか
すべてを風の噂に聞きすべてを覚えているのか
自分自身はどこにも行かず、ただ立ちつくして
一年のめぐりを知り、そのサイクルを重ねて。
だがどんなに歩いてもかかしは見つからない
自分が住んだわけではないこの土地から
ぼくは無知というラッピングによって隔てられている
何でも知っているかかしはどこにいるのだろう
だんだん空が曇ってきた
季節はめまぐるしく回っていまはもう冬
心の中に降り始めた雪が流れ出し
空の端から端まで雪が降りしきっている
地面がうっすらと白く覆われて
そこを元気なバッファローたちの群れが走ってゆく
焦茶色の山のような体を
子犬のように弾ませながら
まるで遊ぶように行ったり来たりする
あふれるようなよろこびだ
太陽がこぼれてきたようなよろこびだ
かかしの神はまだどこにも見つからない


四十八茶百鼠

種類のちがう種子を粘土に包んで蒔いておくと 種子にそなわる力と環境や季節が合うとき 種子が土を破って芽を出す 包む土がすくなく貧しければ たくさんの繊細な関係をあちこちに結ぶ そうなれば 根を張る強い草が育つだろう

足りないものを補って複雑にしなくても すくないもののあいだの関係を複雑にすることができる 「底至り」ということばがある 外から見えないところにくふうがあり 表面は単純に見えても 裏側に見えない網が張りめぐらされ 経路や流れを変えて さまざまな動きが行き交っている 表面が微かに揺れると 全体がおおきくかたちを変える 揺れて揺りもどっても 元にはもどらない 「底至り」と似たことばに 「裏勝り」がある じみな羽織の裏に きらびやかな色やあざやかな模様が一瞬見える また「四十八茶百鼠」(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)という染の色合い 茶や鼠という目立たない限定された色のなかで 江戸鼠 深川鼠 銀鼠 錆鼠 島松鼠 呉竹鼠など 色調を微妙に変え 遠くからはわからないが 触れ合う近さでの微妙なちがいに気づく どれも江戸時代の奢侈禁止令に抵抗する町人の意気

「裏勝り」は貧しさを装うゆたかさ 反抗の姿勢を一瞬見せる 「底至り」は貧しさに隠れたゆたかさ 近くで見る細部を洗練する技術 「四十八茶百鼠」は貧しさのなかのゆたかさ 近さと細かさが表面にも現れ 反省的に控えめに見せている批判の姿勢

音楽は響きあう記憶 時間はめぐりながら逸れる もどる場所も出入口もいつもちがう 響きの単位は音ではなく音程 音だけなら 高い音 低い音 比較し適当な尺度で計れる構成要素だが 音程は二つの音の関係 音から音への距離 というだけでなく それぞれがちがう色合いや佇まいをもっている 色合いは単純な尺度では計れないし 調子や強さの揺らぎ 些細な光と影の移りが 群れの動きの感触を変えていく 音は音程の結び目 音程は曲り角 曲り角の先はまた曲り角 どこにも続いていくうちに 行先が読めなくなり 音楽はさまよい 行きがかりに思いがけない小径に入り込む 九十九折に似て それぞれの曲り角が ちがう方角を指し 無心所着(むしんしょじゃく)の場になって 曲がるたびに 微かな動きがさまざまに現れ 淀むことがない

音という構成要素から 音程という関係を通らず 和音を一段上の構成単位として 音程はその部分的な現れとみなせば ちがいは2音のあいだの音程から3音以上を組み合わせた和音というだけではない 2は比較されても統合はされない 3が統制と中心や方向をもちこむ 和音に時間順序と階層序列をつけて和声構造とし それにしたがいながら 演奏したり聞くときは メロディーのように方向をもった線を手がかりに 全体のイメージを時間のなかですこしずつ新しくしていく そのなかでそれぞれの音は全体から割り当てられた位置におさまる 作曲するときは まず制御し操作する意志があり 全体構造を設計し そのなかに構成要素を配分する

そのような全体指向は 関係の網を束ねて構築しようとするが 構成よりプロセスを先にすれば ひとつひとつの響きや色合いに聞き入り 響きの瞬間がその前後の響きと触れ合う構えを聞きとるなかで いままでとはちがう音楽が生まれるだろう 瞬間は時間を感じられない時間 響きの群れがひとつのまとまりをつくる そのまとまりは 時間を感じないからといって はっきりした輪郭を見せて停まっているわけではない 瞬間と瞬間の境目もあいまいで 規則的な拍で刻まれる時間が直線のように耳の前を通りすぎるかわりに ひとつの瞬間のひろがりから次へと 飛石のように移る

各務支考は「七名八体」で分類できなかった俳諧の付けかたを空撓(そらだめ)と名づけた 芭蕉の「しほり(撓)」は まばらな影に心が萎れ 余韻を曳いている感じだが 空撓はさらに漂白して「ひたすら目をふさぎ吟じ返すに、ふと其姿の浮かびたる無心所着の体」(各務支考『俳諧十論』) 心はうつろ 山の尾根のように撓(たわ)む