2016年6月号 目次

139 はな子、起きろ藤井貞和
仙台ネイティブのつぶやき(14)生きていく猫西大立目祥子
梅雨入りまえとあと仲宗根浩
アジアのごはん(78)米粉クッキング森下ヒバリ
すずみ時里二郎
万華鏡物語(2)そこに置かれる長谷部千彩
ユーロな人たちさとうまき
ひそひそ星若松恵子
製本かい摘みましては(119)四釜裕子
ジャワ人の名前と呼び方冨岡三智
包んで食べる。植松眞人
グロッソラリー ―ない ので ある―(20)明智尚希
面白い情報って大野晋
夜の空 蛙の声璃葉
しもた屋の噺(173)杉山洋一
吹き寄せ控え高橋悠治

139 はな子、起きろ

しん夜(や)、せん光(こう)、
は壊(かい)と かつ字(じ)、
じ間(かん)のしゃ面(めん)をかく、
ぼ、くはそのとき、とうきょうに、
な なぬかかん、いました、
か あ「か」ばねにいる、
よ よぶこえがして、
し しごと、する、
てんりだいがくの、
ぐーてんべるくの ぼ、くは、
こどもたちを、じょせいを、
うえから見る、
だんせいを、ぐんたいから返す、
だんらくの、
げんかい、なかーよし、たち、
くもり、きょうも来る、
やってくる、なんせんや、
を出て、きょうもくもり、
を超え、きゃつじ(=活字)や、
は壊(かい) 滅(めつ)、
のなかから、
さあ、起きろ、はな子

オバマが来る、火打ち石と、
もくへんと、やりをつくるぎじゅつ、
ぼうぼうと、じゅうぎょうと、ぜんぞうと、れきじ、
のなかから、
やってくる、はな子はしぬ、
きのうときょうとのオバマを、
はな子は思う、ぼくはぎせいになろう、
ばがい、ぜつめづ、どぎがだつと、
わすれるひと、ぼくは子象のときから、
かみさまでした、いまを知る、
がみさま、ぼくは、
いまを知る、ほんをかいたり、
やぶいたり、わらう、
あやまって、しいくがかりを、
ふみつぶしたこともある、
巨体になりました、
ちいさなしゃしんになろう、
映るじゃじんに、ははははわらう、
起きろ、はな子

なかよし、
けい古(こ)、
しごと、
てんりだいがくに、
てんりがやってくる、
あしきを、
ようきに、
ぼ、くらはしぬ、
でも、六十九年を、
ボケも、
へいわも、
ようきょくも、
 まじ、ぎょういぐ、
たらり、ゆっとり、
つめたい湯、づめだいぐにゃりとしたごのぐにに、
ぼ、くと、がみさまと、
あいする、かぞくが浸かる、
たらり、とうとう(うたう)
オバマがやってくる、やってくるのはぼくだ、
ぼぐは、ながさきに、
ひ返りで、
でかけた、
ながさきのへいわこうえん、
聴いてる? オバマ、
ぼ、くはしぬ、はな子
はな子、起きろ


(27日、オバマが広島で所感をスピーチする。その前日、はな子が死ぬ。上野動物園で昭和28年の夏、写真を撮った。そのとき、子象でした。八年まえの就任のとき、ふと、来るのではないかと思いました。昭和20年代を思い起こすことの多い、このごろでしたので、めったに見ないテレビを点けました。)


仙台ネイティブのつぶやき(14)生きていく猫

 よたよたと猫がリビングを横切っていく。毛並みは悪く、やせこけている。名前はサスケ、9歳。4年前に口内炎を患ってからずっと闘病生活を続けてきた。
 口内炎というと、ちょっと疲れ気味とか薬を使えばすぐ回復すると考える人が多いのだろうけれど、猫のそれは人と違って患ったら致命傷になる。口の中が腫れ上がり痛がってごはんを食べることができず、衰弱し、やがて死を迎えることになるのだ。

 サスケとの出会いは庭だった。草むしりをしていて塀の近くに手をのばしたら、そこに黒に茶がまじった小さなサビ猫がいたのだ。互いに息を呑んで、と、次の瞬間、子猫は姿を消した。

 それから、2、3週間が過ぎたころ、このサビ猫と赤トラの子猫が庭を縦横に走りまわるようになった。ダッシュしたかと思うと木によじ登ろうとしたり、ぶつかり合ってころげまわったり。見ていると、ひと回り大きな赤トラが、何につけ積極的でリーダーシップをとる。それにくらべるとサビ猫の方は、栄養が足りないようで、いつも後ろにいて影が薄い。母猫から離れた時期の子猫に、野良生活は過酷だ。このままでは、生き延びられないだろうと思った。

 2匹は、庭をすみかと決めたらしく、夜は空の植木鉢の中でくっついて眠り、私の気配を感じるとピーピー鳴き声を上げ、ごはんをせがむ。
 ついに根負けし、カリカリをひと粒、ふた粒、手からやってみた。赤トラは躊躇なくつぎつぎと欲しがるが、サビ猫は嫌がる。人が怖いのだ。それでも皿にのせてやると、迷いに迷って食べ始めた。飼うかどうか私の方も迷っていた。まずは1回だけね。

 そのあと10日ほど旅行で留守をして、帰ってきてびっくりだった。何と2匹が家に棲みついていたのだ。いろいろなことに判断力を失いつつ合った母が、家に上げてしまったらしい。そして、ドアのわきに並んでこちらを見るその姿に、私は二度びっくりした。
 からだはグンと大きくなり、目は輝き、毛並みはつややかで美しい。やせ細って鳴いていた子猫が、たった10日でこんなに見違える姿になるものだろうか。雑巾にも見えたサビ猫は、黒にベージュの毛が混じり鼻筋にはハクビシンのように白い毛が一筋入っている。魔法のようだった。十分な栄養は、生きものを劇的に変えることを教えられた。

 かくして野良猫昇格。赤トラのオスはチビ。サビ猫のメスはサスケ。名づけるということは関係を結ぶということだ。2匹はいつのまにかじぶんの名前を覚え、呼べばこちらを見る。そして、おだやかに仲良く、本当に見ていてこちらがなぐさめられるほどに仲良く暮らし、2階の踊り場から本棚が叩き落ちた東日本大震災も、ケガもせず無事にくぐり抜けた。

 猫といっしょに暮らしている人なら、きっと感じているはずだ。人と猫、哺乳類同士の何と近しいことだろう。対象物を見つめる瞳は黒く濡れ、臭いを感知するときは鼻の穴を上向きにしてくんくんし、モノを押さえるときは4本の指を立てる。おだやかな気持ちのときはゆったりとからだを伸ばし、怒りのときは目をつり上げ、天気のよい日は外に出たくてそわそわとする。名前を呼び、暖かなからだをなで、いっしょにくつろぐうちに、ヒト科とネコ科の境界は低くなっていく。私も動物、おまえも動物。人というじぶんの存在がゆるくほどけていく感覚の中で、科をこえた生きもの同士の信頼が生まれてくる。

 サスケに変調がきたのは2013年の正月のことだった。よだれを垂らしてうずくまり、ごはんを食べない。意を決して病院に連れていくと、診断は口内炎だった。病因に思い当たるところは大いにあった。ひと月前、さらに衰えてきた母が、もう一匹、子猫を家に上げてしまったのだ。私が何度追い出しても子猫は入り込んだ。大らかなチビは平気でも、神経質なサスケには新参者の子猫は受け入れがたいことだったのだろう。概して、オス猫が大らかなのに対しメス猫は気難しい。

 毎日、抗生剤とステロイド剤をひと粒ずつ投与することになったのだけれど、これがなめてみるとすこぶる苦い。缶詰のごはんに刻んで混ぜ込んだり、鶏肉の皮の下に挟みこんだり、苦心惨憺。
 病気を得た猫は上瞼が落ち、目が三角になる。くぐもった表情の顔を毎日注意深く観察し食欲の具合をみながら、今日は元気だ、今日はいまいちだな、とその調子を測ってきた。

 からだをセンサーのようにフル動員して病の進行を感じみるじぶんの中に、20年前、父の闘病を支えたときの記憶がよみがえってくる。あのときもこうだった。病室に入ると、父の表情から調子はすぐに察することができた。あ、落ち込んでいる。お、今日は笑顔がいい、という具合に。そして、新年は迎えられるだろうか、桜は見ることができるだろうか、と先のことを案じては不安にかられていた。

 病を経てやがて死を迎える、静かに衰えていくその進行にも、同じ哺乳類、変わりはない。体全体が硬くなり、食が細り、筋肉が落ちて骨が浮き立ち、ときに腹水がたまり、最後は排泄がおかしくなって動けなくなっていく。

 4月中旬、サスケはステロイド剤を投与してもごはんが食べられなくなった。背骨は触ると痛いほどに浮いてきて、後ろ足の太ももの筋肉がやせてソファに上がるのもやっとやっと。動物病院の先生は、最後の段階だから、もうこれしか方法がないよといって、50ccの輸液を入れてくれた。
 それから週に3日、4日とそんな治療を続けているのだけれど、不思議なことに5月に入るころから、食欲を取り戻し筋肉をつけ、先日は驚いたことに脱走まで図るほどに回復をみせるようになった。

 がんばれ。耐えよう。ついててあげる。繰り返し繰り返し、聞かせてきたことばを受けとめたのだろうか。病に倒れたとき必要なのは、人だって猫だって一人じゃないよというメッセージなのだ。

 新年を迎えるのは無理と思っていたのに、猫は桜の季節を過ごし、風に揺れる緑の葉を見上げている。この先の季節の風景に、私は祖父母の、父の、看取りと最期を重ねみる。そこにはじぶんのこれからも透かし見える。
 もうすぐ夏至がくる。地上の生きものに活力をみなぎらせる高い陽の光が、まだしばらくの間、降り注ぎますように。


梅雨入りまえとあと

五月、最初から清明のための墓掃除を午前中に終え午後から一族揃って墓の前お食事。地震のため毎年来ていた熊本組はいない。友人からのメールでまた大きい地震が来るとのデマのため水や食料品を集めているひとがいたり、家に帰ったら冷蔵庫の扉が開かないように養生されていたり、浴槽に水がいっぱいはられていたり、と。大きい地震が来るとデマが流れた日はなにもなかった。

五月の連休、一日だけ子供と休みが合う日があったので最近地元で話題となっている瀬長島に行く。見事に混んでいる中、なんとかお目当てのものにたどりつき、そのあとお嬢さんは引き潮の海岸で遊ぶ。それを眺めながら、海岸からは那覇空港から離陸する飛行機を眺める。離陸は見えるが着陸が見えない。海岸から道路に上がるとぎりぎり見えた。

引越しはしたが自分の部屋がまだに片付いていない。片付けが終わらない。奥さんと娘の部屋はベッドも組み立て終わりそれぞれの部屋で寝ているがこちらはダイニングに置かれたソファーで一ヶ月以上経っているのに、まだ寝ている。片付けが遅々として進まないと端からは見えるようだが牛歩のごとく進んでいるのを気づいてくれない。夜中に整理片付けをやっていると眠れないと苦情。三枚しか処分できなかったCD。もっと減らすことができると思っていたがCD-R、DVD-Rを忘れていた。それ以外オーディオ用のケーブル類。要らないものがどんどんわいて出てくる。そのうちに梅雨に入ったがしばらくすると雨が降らない暑い日が続く。夜は熱帯夜でエアコン大活躍。

そのうち街は静まりかえった。延々と終わることがないトラックの障害レースみたいに同じようなことが起こる。一年を一周とすると生まれて五十三周。復帰して四十四周、陸上の三千メートル障害と同じでルールは変わることはない。熊本に転校した小学校の焼却炉の前で「沖縄人のくせに」と同級生から言われた。どんな経緯かは忘れたが言われたあと何も言わず黙って無視したことだけは覚えている。


アジアのごはん(78)米粉クッキング

まあ、あれだ。これは身体に悪いことが分かったから食べるのをやめよう、と人に言ったところで、たいがいの人は聴く耳を持たない。ワクチンは有害物質満載だから打つのやめようと言ったところで、抗生物質が、食品添加物が、ジャンクフードが、農薬が、遺伝子組み換えが、合成洗剤が、抗菌殺菌消臭スプレーが‥って韓国の加湿器に入れた殺菌剤による死者は恐ろしい、けど、こういうもののせいとは気付かずどれだけの人が病気になり、死に至っているのかと思うと、もっと恐ろしい。

最近身近なところでのガン患者の数があまりにも多くて、いったいどうなってるの、という毎日。今の日本は世間の一般常識に沿ったフツーの生活をしていると、遅かれ早かれガンになるか、心筋梗塞になるか、脳梗塞になるか、糖尿病か高血圧になり、認知症・アルツハイマーになる。はたまたアレルギーに苦しみ、ウツになり、ひきこもりになり、ADHDやアスペルガーといわれて社会から浮き、働きすぎて疲れ果て突然死、とか。

しかし、まあ、あれだ。これを読んで一人でも、ちょっと今までの生活や医療常識に疑問を感じたりしてくれたらいいかと。フツーの生活とやらでは、合成洗剤・抗菌剤・殺菌剤入りのスプレー、せんたく洗剤、台所洗剤、ウエットティッシュ、シャンプー、お風呂掃除洗剤、歯磨き、洗顔料、ヘアスプレー、化粧品‥を、それはもうヒバリは卒倒しそうなほどみなさん使いまくっているみたいですが、大丈夫ですか?

企業もたとえば消臭スプレーに「柿渋エキス配合」とか「グレープフルーツエキス入り」などと表示して自然さと安全性を強調し、人の目をくらます。そのすぐ後の成分表示に「除菌剤」としか書いてない、これはいったい何だ。化粧品や食品でない洗剤や消臭スプレーなどはすべての成分を詳しく表示する義務がないので、あたかも問題のない成分のように一括して「除菌剤」で終わり。もちろん、韓国で人が死ぬ原因となった除菌剤も「これは使うと危険」などと書かれていたわけではない。

エタノールと本当の自然素材だけのウエットティッシュが欲しくていろいろ探していたが、なかなか見つからない。無印良品のウエットティッシュも成分は少ないが「殺菌剤」の文字が。一応、無印にくわしい成分をメールで聞いてみたら、「お答えできません」との返事。お答えできないようなものは、使えないです。スーパーやコンビニで売っている商品の内容成分表示を見ると、頭が痛くなってくる。

人間の身体というものは実は菌まみれで、その菌に体を守ってもらっている、動かしてもらっている、さらにエネルギーやミネラルも作って供給してもらっている。人間の身体は細菌との深い共生関係によって成り立っている。細菌がいなければ、人間は生きていけない。腸内細菌の重要性については最近研究も進み、知識も広まってきたが、肌にいる常在細菌も重要な存在だ。腸内細菌と同じく善玉菌と悪玉菌がいて、肌の主な常在菌である表皮ブドウ球菌がいわゆる善玉菌である。この菌がバランスよく肌を覆っていれば、あなたの肌はつやつや、しっとりと潤っている。そしてブドウ球菌がしっかりと肌からの病原菌の侵入を阻止してくれるのである。

合成化学物質の抗菌・殺菌・除菌剤は有害な病原菌だけを選んで殺すわけではなく、人間に有用な、大切なパートナーの菌たちも一緒に殺してしまう。それが皮膚のバリアを壊し、腸内細菌のバランスを壊す。こういう成分の含まれた洗剤やスプレー、ウエットティッシュなどを日常的に使うことは、有毒成分を日常的に取り入れるだけでなく、身体の根幹をなす細菌バランスをコツコツと破壊していることなのである。そういう生活の先にあるのは‥。

気が滅入って来たので、料理でもしよう。今日は、いろいろ問題の多い小麦を使わずにグルテンフリーの米粉でお好み焼きとクッキーを焼くよ!

米粉は日本ではこれまで、あまり使われてこなかったが、使ってみるとたいへん使いよい。そして、おいしい食材である。粉もん、を使うたいがいの料理に使える。小麦粉の特徴はグルテンを含み、そのグルテンが粘りを出し、また素材と絡まることでふわふわした食感を作り出す。一方で米粉は、もちもちとした食感やサクサクとした食感を出すのが得意である。とろみもつけられる。こういう特徴を生かすと、これまで小麦粉で作っていたものより、簡単に作れたり、おいしく作れたりするものも多いのだ。

<お好み焼き>
*いつものお好み焼きの材料の小麦を米粉に置き換える、だけ。
え、それだけ? はい。ええと、たとえば米粉の量を少し減らして、じゃがいものすりおろしを加える、またはひよこ豆の粉を加える、ベーキングパウダーを小さじ半分加える、または山芋はすりおろしだけでなく、小さな角切りにしたものを追加する、などするとよりおいしく作れる。米粉タコ焼きもさっぱり味でもちもち。

<米粉クッキー>
*米粉200g(このうち50gをひよこ豆の粉、またはココナツパウダーにするとコクが出る)
*卵1個
*バージンココナツオイル70グラム(苦手な人は精製ココナツオイルか無塩バターで)
*砂糖(ヤシ砂糖とかメープルとかお好みで)50g
*豆乳大匙2ぐらい、かたさの調整で使う
*塩少々
これらを混ぜ合わせ、なんとか固めて、直径3~4センチぐらいの棒状にまとめラップで包んで冷蔵庫で1時間位冷やして切りやすくする。
厚さ1センチ程度に輪切りにして、温めておいたオーブンで170℃、20~25分目安に焼く。米粉はやや低めの温度で長めに焼くのがポイント。
お好みで刻んだクルミ、シナモン、ココアなど入れてバリエーションも楽しめる。
本当においしい。サクサクしていて、口の中でねちねち絡まないので、食べた後味もすっきり。小麦粉のクッキーより断然好みです。また焼こうっと。次は何を入れようかな。

グルテンフリー生活は、「あれも食べられない、これも食べられない」のではなく、新しい食べ方や料理を考えるよい機会と考えると、なかなか楽しい。


すずみ

鳥の声が落ちてきて
ねえさんの人形の目があいた

すずみ というのだと
にいさんの人形が
教えてくれた

島の井の近くにいて 
水のしずくを飛ばしているやつだよ

いつもそこへ遊びに行って
水のしずくはわたしを濡らすのに
その鳥は見たことがない

にいさんの人形の目は
ずっとあいたままだから
わたしに見えないものも みえる
空の色より少し深い色をして

すずみ と
ねえさんの声がした

ねえさんの人形は
まだ話せないので
代わりにねえさんが
言ってやる

二階の窓から
少し 海が見える
島の井のある
耳ヶ崎の海

ねえさんの人形は
そこに流れ着いたばかり
ひっそり ひとりで
誰としれない人の記憶の端(はな)から
すずみが落とした
水のしずくのように

  〜名井島の雛歌から


万華鏡物語(2)そこに置かれる

今日は装丁の打ち合わせ。デザイナーに会いに行く。
編集者Wさんとの待ち合わせは、三省堂本店新刊コーナー。
約束の時間まであと十分、私は棚に並べられた本をただぼんやりと眺めている。

本は好きなのに、正直なところ、本屋は苦手だ。あの、本にかけられた、宣伝文の躍る帯がどうしても好きになれない。一冊ならばさほど気にはならないものを、大量に並べられた途端、帯はこちらに向かって一斉に客引きを仕掛けてくる。どの本も、お客さん、この本、手にとってくださいよ、と、大きな声でわめき出す。実際は、静かな書店の中なのに、なぜだろう、ものすごいノイズを耳にしたように感じてしまうのだ。そして、いつもその押しの強さに私は怯み、伸ばしかけた手を引っ込めてしまう。そして、そっと書棚から離れるのである。ごめんなさいね、ネットで買うことにするわ、と。
今日も結局、眺めているだけだった。片づけの本、金融の本、社会の動き、ドラマ化、映画化、恋愛小説にミステリー・・・。どれに魅かれるわけでもなく、私はWさんをただぼんやりと待っている。今日の待ち合わせは、自分の本を作るため。ここに置かれることを願って作る本のため。

私の本にもきっと帯はかけられる。数か月先、きっと私の本も、書棚の片隅で、ひとりでも多くのひとに手に取ってもらうため、客引きに参加する。いまはまだぴんと来ないけれど、そういうものだと思っている。たぶんそれは努力。本を売るための努力。そこに置かれるための努力。自分に似つかわしくないけれど、自分の本にも似つかわしくないけれど、本を作って売るために要る努力。


ユーロな人たち

昨年の9月、トルコの海岸に溺死死体となって流れついたシリア難民の3歳の男の子の写真は、皮肉なことに、難民たちに希望を与えることになった。

ちょうど僕は、イラクに行く途中のドバイの空港のラウンジに置いてあった新聞でその写真をみたが、悲惨な遺体というよりは、心地よく海岸で眠っている赤ちゃんのようにしか見えなかった。だからこそ、この子のことをいろいろ想像してみることは、容易に受け入れられた。

難民たちは、経済的にもっとも豊かなドイツに行きたいといっている。なぜドイツは扉を開かないのかという世論の圧力におされ、そして、メルケル首相は、人道主義を掲げ、難民の受け入れを表明した。

難民たちにとって、ドイツは、パラダイスのように見えたのだろうか。私の周りにいた難民たちが、さわさわと動き始めたのである。危険なシリアやイラクから難民としてドイツを目指したのではない。一応安全なヨルダンや、北イラクなどに避難していた僕の友人が次々といなくなっていく。シリア難民だけでない。イラン難民であったり、ヤジディ教徒であったり、イラク人、パレスチナ難民などなど。

「別に、命の危険にさらされているわけではない。難民キャンプにいたら、攻撃されるわけでもないし、何とか食っていける。でも、未来がないんだ。特に、子どもたちの教育とか考えたら、今しかないと思った」
そんな考えが多かった。

一人大体40万円くらいを払えばドイツまで連れていってくれるという。口コミでこの人なら大丈夫というブローカーを見つけるのは難しくない。しかし、一家族200万円くらいの金を、難民から徴収するというビジネスも大したものである。

実は先日、シリア難民キャンプでやけどをした家族がいて、自立のためのビジネスモデルとして八百屋をやりたいというので、屋台を作ってあげた。しかし、八百屋を始めたものの、難民たちはお金を払っていかないというのだ。同じように、キャンプ内で雑貨屋をやっている難民に聞いてみても、「お金を払わない難民が多いよ。なので、あんまり儲からない」という。キャンプ内で自立したビジネスを展開するのは難しいなと思っていた。なのに、ヨーロッパといえば、難民からもそれぐらいのお金を出させるのだ。まるで魔法のような言葉。「ユーロ」

ドイツに続き、各国が、「人道的」に難民の受け入れを表明しだした。日本も受け入れるべきだと、感情的に訴える声も聴く。一体、「ユーロ」という言葉に、吸い寄せられてイラクを去っていった友人たちはどうしているんだろう。もう半年もたっているのだが、彼らはちゃんとユーロな人になっているのだろうか?

まず、フェースブックで彼らの居場所を突き止め、訪ねることにした。

世界難民の日(6月20日)にちなみ、6月19日に以下のイベントを開催します。是非お越しください
「難民の日に シリア・イラク・福島 を考える」


ひそひそ星

園子温(その しおん)監督の最新作、「ひそひそ星」を見た。

園子温が自分のプロダクションをつくって、脚本、プロデュース、監督を担当した映画だ。モノクロームのSF映画は、どこか懐かしく、手作りの温かさを感じさせた。宇宙船の内部は、昭和の茶の間のほの暗さだった。見終わったあとに、様々に語り合って飽きない作品だ。

舞台は遠い未来、度重なる事故や災害、戦争などによって人口が極端に減ってしまったころ、人間は宇宙のあちこちに追い立てられ、ほそぼそと生きている。その人間たちからの依頼で、星から星へ、宅配便を届けるアンドロイドの物語だ。

途方もない時間をかけて配達される荷物は、不思議な物ばかりだ。映画フィルムの切れ端、古い麦わら帽子、子どもが写っている写真、たばこの吸い殻......どこが大事なのか他人にはわからないものばかりだが、受け取った人には了解される、送り主との思い出を媒介する記憶のカケラなのだ。

アンドロイドの彼女にも、だんだん「贈り物」という存在が気になってくる。「人間らしさとは何か」ということを考えるキーワードとして、「贈り物」が提示されている。箱に入れてとっておきたい物とは何か、時間や距離を越えて届けたい物とは何か。健気にも思えてくるアンドロイドの仕事ぶりと、宇宙の果ての静けさ、音のないその寂しさが「贈り物」の存在感を一層際立たせている。

映画に身を浸していると、「声」や「風景」もまた、「贈り物」であることが次第にわかってくる。次にこの宇宙船をレンタルする人のために、アンドロイドの彼女がオープンリールのテープに録音する声、宇宙船を運転する人工知能の彼の声(まだあどけなさが残る少年の声なのだ!)、遠い未来のどこかの星として描かれる福島県浪江町の震災後の風景もまた、「贈り物」のように私に届いてくる。

急須で淹れるお茶、雑巾がけ、マッチを擦ってつける火、街角にあるタバコ屋さん......、ひとつひとつ数えあげるように、なつかしい物が登場する。この映画自体、園子温が、未来の人と共有したいと願って大切に箱(映画)にしまった「贈り物」なのだという気がしてくる。


製本かい摘みましては(119)

インドのBOROSIL社が30年以上製造販売している耐熱グラスは、現地でありふれたものとしてカフェでも使われているそうだ。2011年に旅先であったこのグラスの美しさにひかれたお二人が、2年後、日本で VISION GLASS JP を立ち上げた。販売するのに検品を繰り返してメーカーに伝えるなかで、返ってきた " NO PROBLEM "  に戸惑ったそうである。これまで日本の「市場」に出せなかったグラスはおよそ5000個。戸惑いを戸惑いのまま受け止めて、これらを不良品や規格外品としてではなく〈インドと日本の価値観の違いによるはざまで行き場を失ったもの〉として、さまざまな機会を設けて見せている。希望者には同じ値段で販売もする。VISION GLASS  NO PROBLEM プロジェクトという。

そのひとつとして、検品で見つけたあまたある傷や汚れをいくつか分類し、原因を製造工程まで追いつつ、「じゃりじゃり」「エアライン」「流れ星」「水滴」など特徴をあらわす名前をつけて展示している。こうした工程におけるこんな不具合でこの柄が生じてしまう、というパネルに(なあるほど)とうなずきながら、分類されていない「誰か」を探して名前をつけたくなる。こういうことを、商品を売る側、ブランディングする側のひとがやっているのがおもしろい。こちらに語りかけているけれど、なにより自分たちがこの体験をもって〈物の価値に対する自分自身のものさしについて考え〉たいようすが強く感じられる。 

雑誌の不良品についてはどうだろう。実は先週届いた『東京かわら版』6月号に印刷会社の名前でページ半分大の「お詫び」が出ていた。前号に〈製本不良本が発生〉したという。〈外側の欄外情報の文字が欠けている乱丁本が出現しております〉。手元の5月号をめくってみるがこれは大丈夫。たとえちょっと欠けていたって読めればノー・プロブレムなのだ。厳密奇抜をきどるデザインを買うものではないし、むしろ版面ぎりぎりまで一文字でも多く読みたい。もちろんこれは読み手としての感想で、作り手側にいたら決して言えない。いや、ありました、白紙を詫びる編集部が。『面白半分』、筒井康隆さん編集の昭和52年9月号。〈タモリ氏の『ハナモゲラ語の思想』の原稿は、まだ印刷所に到着いたしません。白紙のままでお届けすることを深くお詫び申し上げます。 編集部〉

『東京かわら版』のお詫びの場合、おかげで5月号を改めて読むことができて、鈴本演芸場上席夜の最終出演日が最後の高座となった喜多八師匠の「10・12・14・16・21・鈴上・池中」という予定を見直すことができた。師匠はその日「ぞめき」をかけたと聞いている。吉原で、遊ぶよりもひやかす(ぞめき)のが好きな若旦那が吉原さながらに改築した自宅の2階で一人熱演を繰り広げる噺だ。喜多八師匠の「ぞめき」は一度しか聞いたことがないし実はよく覚えていない。志ん生師匠の音源で聞くと「ひやかす」の語源を話していて、落とし紙として使われたいわゆる浅草紙を作るのに原料の屑紙を水に浸すのを「ひやかす」といい、十分にふやけるまでの間、職人たちが近くの吉原に出かけてはその様子をただ楽しんでいたそうなのだ。ほんとかな。辞書にもあった。東浅草1丁目の交差点に紙洗橋の名があり、その近くの通りに昭和4年に架けられた紙洗橋の橋柱だけが残っている。王子の音無川から隅田川に注いでいた山谷堀が埋め立てられたのは昭和50年頃からだったそうだ。

大正10年、寺田寅彦は新聞に「浅草紙」について書いている。病床から這い出て無我無心にぼんやり日向ぼっこをしながら、縁側に落ちていた浅草紙に混じり入る斑点や繊維や文字や雲母を見つけてひとりごちる。〈「蛉かな」という新聞の俳句欄の一片らしいのが見付かった時は少しおかしくなって来てつい独りで笑った〉〈何の関係もない色々の工場で製造された種々の物品がさまざまの道を通ってある家の紙屑籠で一度集合した後に、また他の家から来た屑と混合して製紙場の槽から流れ出すまでの径路に、どれほどの複雑な世相が纏綿していたか、こう一枚の浅草紙になってしまった今では再びそれをたどって見るようはなかった。私はただ漠然と日常の世界に張り渡された因果の網目の限りもない複雑さを思い浮べるに過ぎなかった〉。寅彦もやっていたのだ。浅草紙・ノー・プロブレム・プロジェクト。


ジャワ人の名前と呼び方

今年の大河ドラマ『真田丸』では、当時の風習に従って、実名(正式名)呼びをできるだけ避けて、仮名(けみょう、通称のこと)で呼びかけている。というわけで、今回はジャワでの人の名前について。

ジャワに留学して最初に警察で外国人登録をしたときに驚いたのが、本名以外に呼び名nama panggilも登録項目に入っていたことだった。ジャワ人には本名とは全然関係のない呼び名の人もいる。私の家の管理人の娘はウィウィという呼び名だったが、本当の名前はアデレードとかそんな感じの名前だった。そのことを、私は結婚式の招待状をもらって初めて知った。また逆に、留学先の大学で、履修要項に載っている教員名が、始めは誰が誰か分からなかったということもある。つまり、普段は誰もその正式な教員名で呼んでいないのだ。教員の中には、ジャワ語で「食べる」という意味の呼び名や擬音語の呼び名など、変な呼び名を持つ人もいた。

その教員名がパスポート名と違う人も中にいた。たとえばある芸大教員は、教員名は洗礼名+個人名の組み合わせだが、パスポート名は個人名+父親の名前の組み合わせだった。ジャワ人には苗字がないので、父親の名前を自分の名前の後につけて名乗ることは普通だが、なぜ教員名(国立大学だったから、公務員番号と対応しているはず)と一致していなくてもよいのか不思議だ。実はインドネシア国民はアイデンティティ・カード(KTP)で身分確認をするのだが、そのKTP名はどうなっていたのだろう...ということも今になって気になる。また、この教員が言うには、パスポート名については出入管理局で名前を自分の名前+父親の名前の2語の組み合わせで登録するように指導されたらしい。名前は2語でというのは、苗字と個人名の組み合わせという国際基準を意識しているのだろうが、パスポート名が名前1語という人も私の知り合いにいる。さらに、この教員はパスポートを切り替える時に、洗礼名+個人名に変更している。パスポート名の付け方に厳格なルールはないのだろうか、本人確認に問題はないのだろうか...と気になってしまう。

ジャワ人は個人名+父親の名前で名乗ると書いたが、女性は結婚すると夫の名前を後ろにつけて名乗る。私の舞踊の師匠の故スリ・スチアティ・ジョコ・スハルジョ女史は、スリ・スチアティが個人名、ジョコ・スハルジョが夫の名前で、ブ・ジョコと一般に呼ばれていた。ブは女性に対する尊称である。その先生が入院したのでお見舞いに行き、病院で看護婦さんに「ブ・ジョコの部屋はどこですか」と聞いたら、「本人の名前は? ブ・ジョコは旦那さんの名前でしょう?」と聞き返されてしまった。そう言われても、私は14年間師事した間に師匠を個人名で呼んだことがなく、また、周囲が個人名で呼ぶのを聞いたこともない。病院では本名だけを使うんだなあと驚いたことを思い出す。

ジャワには2人称の呼称が沢山あり、自分との関係や状況によって使い分ける。大人の女性の場合、一般的なのはイブ(年齢や社会的地位が上の人の場合、ブ・ジョコのブもイブに同じ)かバ(イブほどではなく、より自分と近い場合)だ。私の留学先の芸大の舞踊科はリベラルな雰囲気で、教員たちは生徒にバと呼ばせていたが、より権威主義的な他の芸大ではイブと呼ばせていた。また、イブやバを使わない人たちもいる。私はインドネシアのあるNPO団体の人に、イブやバは社会階層の概念と結びついているので、全員が平等の立場であるべきNPOでは使わないと言われたことがある。彼らの拠点はジャカルタだったのでまだそれが可能なのかもしれないが、ジャワに長くいた私は、名前だけ呼べばよいとする彼らの意見に驚いたものだ。


包んで食べる。

 いつも、居てほしいときに居てくれない。

 昨日、裕作から言われたことを節子は思い返していた。確かにこの一年ほどの間、節子は忙しく働いていて裕作と一緒の時間をほとんど取れていなかった。でも、今日は久しぶりに裕作が夕食を終えた頃に帰宅できた。いつもより少し早めに帰ってこれたことを喜び「ケーキ買ってきたから、一緒に食べよう」と笑顔で話しかけたのだった。それに対する裕作の答えが「いつも、居てほしいときに居てくれない」だった。
 小学三年生にしては大人びた言いようだったことに、節子はどきっとして裕作の顔をまじまじと眺めた。すると裕作は立ち上がり、子供部屋へ入ってしまったのだった。
 まず、落ち着こうと節子は裕作のために作り置きしてあったカレーの残りを温めて少し食べた。お腹が温まると気持ちが落ち着いてきた。同時に、だんだんと裕作の理不尽さに腹が立ってくるのだった。
 一昨年離婚して、私は一人で裕作を育ててきたのだ。節子はそう思いながら、子供部屋のドアをにらみつけた。わずかな養育費はもらっているが、決して充分な金額ではなかった。節子は結婚前に勤めていた出版社でパートとして働かせてもらい、取材記事のリライトや校正の仕事をしていた。しかし、それだけでは食べていけず、近所の居酒屋のランチメニューの仕込みの手伝いもしていた。二つの仕事のかけもちで、正直、節子はかなり疲れる毎日を送っていた。裕作と一緒に夕食をとれる日はほとんどない。
 しかし、それも生活が落ち着くまでの辛抱だと節子は自分に言い聞かせていたし、裕作にもそう話をして聞かせた。もちろん、裕作もわかったと返事はするのだが、そこは子供だ。ときおり寂しそうな顔をしたりもする。
 三月ほど前のことだった。夏の暑い日に風呂上がりの裕作を見て、節子は子供の成長の早さに改めて愕然としたのだった。たった数ヶ月、我が子との暮らしをおざなりにしたと自覚している間に、この子はこんなにも大きく成長したのか。そう思うと、節子は生活のためだと、仕事に精を出していることが罪悪であるかのように思われてしまうのだった。
 節子の視線に気付いた裕作は「なに見てんのよ」とおどけて自分の部屋に逃げ込んだのだが、あれから数ヶ月で、また裕作は大きくなっていた。節子は急に母として、何か大きな間違いを犯しているのではないかという焦燥感にとらわれてしまう。そして、裕作の言う「居てほしい時」がいったいどんな時なのだろうかと考え込んでしまったのだった。
 開けっ放しのベランダの窓から、冷たい風が吹き込んできた。節子は煙草とライターを手にベランダへと出る。子供ができたとわかったときに辞めていた煙草だが、離婚後に再び吸うようになってしまっていた。いまだに裕作の前では吸えず、こうしてベランダで隠れて吸っている。たぶん、裕作は気付いているのだろう。幼稚園の頃から匂いに敏感な子だったから。
 まだ幼稚園の年少だった頃、節子は月に一度は餃子を作っていた。ある日、いつものように餃子を焼いて家族みんなで食べていると、裕作が「いつもの餃子じゃない」と言いだした。いつもと同じ材料で、いつもと同じように作ったのに、といぶかしく思っていると、その日はスーパーでニンニクが売り切れていたことを思いだした。
 たまにはニンニク抜きでもいいかと作ったのだが、夫もそのことに気付かず、節子自身も忘れてしまっていたくらいだった。そのとき、幼稚園の裕作だけが気付いたことに、節子はとても驚いたのだった。
 ふと窓から部屋の中をのぞくと、裕作がこっちを見ていた。節子は慌てて煙草の火を消す。ベランダの窓を開けて、裕作が声をかけてきた。
「いいよ。そんなに慌てて消さなくても」
「吸ってるの、知ってた?」
「うん」
 裕作はそう言うとベランダに出てきた。
「ねえ、居てほしい時って、いつ?」
 節子は笑顔で聞いてみた。
「もういいよ」
 裕作も笑顔で答えた。笑顔で答えた小学三年生を見て、節子は涙を流しそうになった。しばらく、二人は黙ってベランダに立っていた。三階のベランダから見える風景は、それほど美しくもなく、それほど切なくもなく、それほどおもしろくもなかった。それでも、なんとなく節子の気持ちを落ち着かせ、裕作を優しく見つめさせる空間にはなっていた。
「本当にもういいの?」
 節子は聞いた。裕作はうなずいた。うなずく裕作を見て、節子もうなずく。
「ねえ、餃子つくってあげようか」
「久しぶりだね。餃子つくるの」
「ちゃんとニンニク入れてね」
「ニンニクは入っているほうが好きだな」
 なんとなく大人びた答えをしてしまい自分で照れてしまったのか、裕作は節子から視線を外した。
 大きな新しいマンションが建ってしまってから、この部屋のベランダからは、通りの向こうが見渡せなくなった。以前は商店街の灯りが見えていたのに、いまは真向かいの知らない人の部屋の灯りしか見えない。それでも、この灯りの向こう側で、まだ小さなスーパーが煌々と照明をつけて営業を続けているはずだ。
「材料、買いに行こうか」
「いまから?」
 裕作は少し驚いた様子だったが、うれしそうだった。
「まだ、食べれるでしょ?」
「もちろん」
 いい材料があればいいいな、と節子は思った。もし、スーパーでニンニクが売り切れていたら、今日はもう少し先にある大きいほうのスーパーに行ってもいい。ちゃんと材料をそろえて、丁寧に材料を切って、丁寧にこねて、二人で皮に包んで餃子を作ろう。そして、いい火加減で、じっくり焼いて、明日のことなんて気にせずにお腹いっぱい食べよう。
 節子はそんなことを考えながら裕作を玄関へとせかした。(了)


グロッソラリー ―ない ので ある―(20)

 「1月1日:『大学受験の時、俺なんかスッテンテンの浪人生だったにもかかわらず、あちこち遊び回ってたのに、三郎のやつときたら高校2年生になってすぐに入試問題集や参考書を山積みにして、さっそく受験勉強を始めてた。勉強が好きだったんだろうし、そもそも勉強に向いていたんだろうな、ああいう生真面目一本の人間は』」。

勉強中...〆(・ω・o)ヵリヵリ

 「健全な肉体に健全な精神が宿る」という名文句、三島由紀夫によれば、トルコ人の詩を日本人が誤訳したものらしい。正しくは「宿れかし」という願望を示したものだそうだ。悪名高き心身二元論。命題に振り回されて数百年、哲学の成果は様々あれども、虚学ここに極まれりとする開き直りに近い態度は、どんな哲学に基づいているのか。

( ゚ ◇ ゚ ; ) ナルホド

 この文はドイツ語(A・フィッシャー)から仏語(B・ミシェル)へ、仏語から英語(C・レイノルズ)へ、英語からポルトガル語(D・アレクサンドロ)へ、ポルトガル語からイタリア語(E・アンドレア)へ、イタリア語からスペイン語(F・ガルシア)へ、スペイン語から米語(G・ジョージ)へ、米語から日本語(不詳)へ訳された。

( ・∀・)=b グッジョブ

 生老病死。ブッダがライフのフォーのアゴニーとしてチョイスしたものじゃ。四苦、四天使とも呼ぶ。ライフのエッジからエッジまでのエレメンツと言ってもいいわなこれじゃ。アニマルもヒューマンも同じ。ホースに乗ったシープが走るように、究極のテクニックってのはスーパーカリフラジリスティックエクスピリアリドーシャス×7じゃ。

ヘ ( ゚ д ゚ )ノ ナニコレ?

 ダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダミーダ

( _ _ , ) /~~ まいった

 竜二は驚嘆のあまり足を止めざるを得なかった。眼前に立っているのは竜二とそっくりな人間――髪の毛の色、手入れをした眉毛、切れ長の目、筋の通った鼻、薄い唇、そしてそれらの周辺を覆う皮膚の緊張、どれも竜二のものと一致している男性だった。瓜二つとはこのことだ。顔を撫で回していた竜二は思わず呟いた。「これが......鏡か......」。

ヽ(。_゜)ノ へっ?

 う〜ん、あ〜ん、せんしゃるぅ〜......まずい、見ておったか。今のはなしじゃ。今の話じゃ。またやらなきゃならん。循環論法に媚態を示して懐柔すれば、あったこともなかったことになる権謀術数にたけるのか。やや、猛る怪獣じゃ今度は。手っとり早くなんとかマンに変身して戦わにゃならん。サラリーマン。いかん、リーマン予想とはな、

(〃 ^ ∇ ^ )oお疲れさま〜

 人間的成長とは何だろうか。現在実感していることや感じていることを、10代後半の自分と共有している。10代で知っていたとも言える。良くも悪くも思い通りの歴程。点検と注釈のその後。知識や経験は未来派思考とは限らない。誰にも、啓示をする第六感的な山勘的な峠がある。人生は、それがいつ来るか、いつ気づくかにかかっている。

( ' ェ ' )ぇ

 考え事をしようとすると、反省や後悔のみが思い出てくる。結局何も考えられず、鼻くそを食べる一人の小学生になり下がっておる。オメガは鼻じゃないっての。アルファからオメガまで、ゆりかごから墓場までの包括主義者。つまり全一だ。白馬に乗った王子が、京浜東北線で王子から来て言ったんじゃ。神業、つまりつまり神様業ですねとな。

げっ, (・ . ・; ) メガテン

 私をよく知っている人のほうが、JR池袋駅から真東の方向のサンシャインシティにいる。選挙時にかかる莫大な経費も、延びと潤いで超人気の高濃度アルカリイオンローションも、包括的に解析された。アドバイスをするなら、オフィスで座る習慣をがさつな元気にあふれさせ、中や小は自分のサイズに合わせて中間や先っぽにつければ大変身。

アヒャヒャヒャヒャ ヘ(゚∀゚ヘ)(ノ゚∀゚)ノ ヒャヒャヒャヒャ

 安心と不安。世の大勢はこの二元論の間を往来する。不安や危険を求める心情というものもある。危険で納得いかなければ生理的かつ物理的な払底と換言してもいい。素寒貧で危なっかしい情況は、安堵の源になる。底が知れているという以前に、不安視こそ透徹した光である。そうした条件下を追い求めて眠れぬ深夜を凌いできた気がする。

∈-( ^ ∀ ^ )-∋ ソウナノカ

 四十年間聞けなかったけど......僕はママのどこから生まれてきたの?

∑(゚ Д ゚ ; ) イ、イマサラ...

 どうしようもないわたしが生きている。偉大なる人間様の目の前で、おそれ多い世間様の風の中で、畏怖してやまない自然様の真ん中で。短からぬ年月を、生きている。この奇妙な想念。この生臭さ。この申し訳なさ。いったいどこへ生きようか。何を生きられるのか。わたしは本当に生きているのか。誰も答えてはくれない。答えられない。

ヽ( ◎ ∀ ◎; )ノ シンデナイヨ

 「1月1日:『まあ実際、三郎は勉強がよくできた。全国模試なんかでも名前が載ってたからな。載ってたどころか全国で7番とか、とにかくすごかった。驚いたねえあれには。たぶん死んだじいさんに似たんだろうな。下のほうのじいさんな。やっぱりかなり優秀だったみたいで最後は官僚だかなんだかになったっていう話だよ。たぶんだよ』」。

ジイサン(〒Д〒)デス

 地球は宇宙と協定を結んだ、生物マニアである。いつの時代も何かしら飼っている。飽きると太陽と共謀して氷河期を作り、大声で隕石を注文する。そこそこ続いた人の世である。もし人類に倦んでいたら、地球の算段は興味深い。あるいは宇宙協定を破棄され、世紀末的ならぬ地球末的現象、つまり自爆のタイミングを図っているのだろうか。

(=xェx=) モ、モウダメ?

 人間による地球の礼讃。世界で初めて有人宇宙飛行に成功したユーリイ・ガガーリン。この国だけで有名な言葉「地球は青かった」は、地球の美しさを表現した言葉ではない。恐ろしいほどの漆黒の中にぽつんと青い星がある、という具合に闇を強調した言葉だ。人間は自分に関する事柄は無条件に絶賛する。なんとも屈折した性向の持ち主である。

U\(●~▽~●)Уワーイ!

 「1月1日:『そうそう、じいさん。会ったことあるだろ? え、たったそれだけか。まあいいや。じいさんの名前知ってるよな、四郎っていう。いやいや嘘じゃないって。ほんとだって。ほんとだって言ってるだろ! ああごめんごめん。俺、子供いないだろ。会社でもぺーぺーだから、年下の人間をしかったことがないんだよ。ごめんな』」。

\(_ _。)ハンセイシテマス

 大人への反抗の歌は数えるほどしかないのに、「10代の教祖」と呼ばれた尾崎豊。彼は人生や人間に関して、形而上学的な視点で考えていた。だがそのまま詞にしても、ファンには親切ではない。核心を伝えることを重視していた彼は、文学的な技術を排し、飾り気のないピュアな言葉で表現した。稀に見る誠実過ぎるロックンローラーだった。

イエーィ♪♪(((б(*`・´)∂)))♪♪

 イメージが降ってくるのが恐い。着想するのが不吉である。一旦その場から機械的に離れても、すぐ机に戻って制作の病的な義務に追われるからだ。何もせぬままだと、壁の落書きのように脳髄にそれからそれへと刻まれていく。アイデアは登場場所をわきまえない。レオナルドがペンと紙を常備していたのは、全く同じ事情と感想からだろう。

φ(・ ω ・。* ) カキカキ

 八百長ってのはやだね。次郎長みたいな面構えしやがって、やってることは月とスッポンポン。八幡の藪知らずの親戚だわな。どういうことかっていうとだな[...]というわけなんじゃ。べつに共存するために愛し合えって言ってんじゃない。わしが何を感じているかを知ってる人がいたら、わしはその人を憎むだけ。アダジョソステヌートでな。

( '-' ;A エーット,,アノォ..ソノォ...

 自然災害への防災で賑わっている昨今じゃが、企業をいっぺんガラガラポンしなきゃ駄目じゃ。とりわけ歴史ある企業はガサ入れすれば、まずいものがわんさか出てくる。わんさか出たところで、色んな癒着があるので改めてガラガラポン。丁ならシロ、半ならクロ。シロの連中はクロになるまでガラガラポン。これは人間の原罪に由来する行事。

(・へ・;;)うーむ・・・・


面白い情報って

新宿の奥地の勤め先から、埼玉の所沢に赴任しました。

首都圏をブーメラン型に突っ切る通勤は感慨深いものと非常な眠気に襲われるものがあるのですが、そういうことは置いといて、行って早々入居しているビルで大規模な古本市が開かれています。
最近はあまり古い書物探しもしなくなったとは言え、さすがに身近なところでイベントがあるときになるもので、昨日、帰りがけにのぞきに行ってみました。

結果として、およそ2時間ほどかけて会場の中を隅々まで見て回りました。ただ、残念ながらめぼしい本には出会えませんでした。会場は広く、集まっている本は多いのですが、集まっている本が私の欲しいジャンルや探している本や興味にかかる分野ではないのです。残念ながら、興味のない本は大量にあっても面白くない。

最近は古書を探すにしてもネットを使って検索することが多くなってきています。結局、大きな古本市に行って、その傾向を追認した感じでした。

かといって、本が集まった空間が絶対に面白くないわけではありません。ただ、編集されていない空間、編集されていない情報には面白味がないように感じました。たぶん、神保町の専門古書店が自己主張をするような空間なら面白かったのだろうとも思いました。

古書の山を見ながら、実は自分の蔵書を思い浮かべて、自分の蔵書は興味のある人にとって面白い情報となっているのだろうかなどと考えていたのでした。


夜の空 蛙の声

最近、よく、星を見にいく。星の写真を撮るひとについていって、わたしはその傍らで遊んでいる。

このまえは、山に囲まれた田んぼだらけのあぜ道へ。あたりが薄暗くなって、青味がかっていく森を眺めていると、現実の世界と切り離されたような気持ちになる。そよ風も冷たくなっていく。

すっかり暗くなると、山はぼんやり闇のなかに浮かび、空には星がぽつぽつと顔を出しはじめる。明るい星に気を取られている間に、星たちはどんどん姿をあらわす。そんな暗いなかでなにをして遊んでいるかというと、やはり空をながめている。星座を探しておぼえたり、すこし飽きたら蛙の声を聞いたり、みみずを観察したり、道をうろうろ歩いたり、石を拾ったり、遠くを見つめたり、いろいろなことを考えたりする。

詩のようなものも浮かべば、鼻歌もうたうし、たまにいやなことも思い出す。こんな綺麗な場所にきても、考えることでとても忙しい。

それでも、田んぼに映る山と星空には、呆然と見惚れる。ここでつくられたお米は美味しいにちがいない。たくさんの酸素やその土地の、見えない霧のような氣を取り込んで育つ作物は、遠い場所で、誰かの胃袋にはいっていくのだろう。

蛙や虫の声がいっそう大きくなって、あんがい賑やかな夜の道で、田んぼに映った星空を眺める。火星が明るい。このひとときは、わたしの持っている長い時間のなかの、大事なかたまりだ。

街の中を歩いているとき、ふと思う。いま、この瞬間、あの田んぼに映る空はどんな表情をしているか。辺りはどんな情景だろうか。想像する。


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しもた屋の噺(173)

ここ数日、日中、土砂降りと快晴が何度となく入れ替る、それは目まぐるしい日々が続いていて、自転車で学校へ向かうときなど、雨で目の前が見えなくなるほどです。
下水道の水はけが悪いため、豪雨に襲われると道路はすぐ10センチ、15センチの深さの水溜だらけになりますが、ちょっと晴れ間がさすだけで、驚くほど早く道路は乾いて、それまでの光景が嘘のように感じられます。

  ・・・

 5月某日
コローニョ・モンツェーゼの古びた立飲み酒屋で、アルフォンソと話す。「君は随分ドイツ語を勉強していたけれど、ドイツに留学しようとしていたの」。「いや、留学など一度も考えたことはないよ。ただドイツ語の本が読みたかっただけ。世界的ピアニストなんて、柄でもない。自分は地方の田舎で生れ育って、性格もとても地方向きだろう。田舎のピアニストが性に合っているのさ」。
夜半の嵐が去った早朝、パンを購いに家を出ると、玄関前のベンチにずぶ濡れの猫が置いてある。ひょろひょろの小さい身体は既に冷たく、動かない。隣人に話して、このアパートの誰かの猫かどうか、心当たりに連絡を取る。買い物を終えて帰ると、既に猫の姿はなく、猫の陰に沿って濡れているベンチが、猫の死を静かに主張していた。

 5月某日
李白を読む。文字から溢れる色と風景、細やかな人物描写。
息子は「子供と魔法」のリハーサル。数字が子供をいじめる場面の他に、蛙の子供役で舞台を2回走るそうだ。ベルグワルドまで自転車で出かけると、細い用水路から何万という蛙の合唱が溢れてきた。
自転車を漕ぎながら、吉原さんのための新曲を考えている。ずっと頭にあるのは、木板を叩くような音。そして、「柷」と「敔」の音。儒教音楽の影響を受けるのなら、本来は李白の描写とは相容れない。だから、音ばかりが頭をどんどん過ってゆくが、それを書き留めるのは気が引ける。単に音を並べることに、裏切りのような気持。単純な音であるほど、より切実なモチベーションがなければ、嘘をつくような気がしてしまう。音はそれを成立させる文脈を必要としている。

 5月某日
自転車でストラディヴァリウスへ出かける。今月末に出るガスリーニCDの確認作業。快晴の朝8時過ぎ、ミラノ中央を抜け、ロレートからパドヴァ通りを真っ直ぐ北へ向かう。この辺りも所謂外国人街で治安も良くないが、気持ちの良い朝、そんな風情は微塵も感じられない。
「Bicicletta di Cortesia」と書かれた自転車にのんびり乗るアフリカ人が前を走っていて、どこかで見掛けたことあるのを思い出した。数か月前、パドヴァ通裏のアパートのガレージで友人が小さなインスタレーションを開いたとき、彼はその入口に自転車を留めに来た。「Bicicletta di Cortesia」は何だろうと不思議に思って尋ねようとしたが、急いでいて結局それきりになった。
今朝そのアフリカ人と信号で隣り合って、「いかすなあその自転車」と笑顔で話しかけられた時も、「有難う!」としか応えられなかったのは、ストラディヴァリウスがモンツァの手前と遠く、すっかり遅れそうだったから。人に尋ねると、「Bicicletta
di Cortesia」は、「自転車出張直し屋」ということらしい。

 5月某日
拙宅の隣に、去年の暮女の赤ちゃんが生まれた。その赤ん坊の泣き声の合間に、母親があやすわらべ歌が聴こえてくる。いつも同じわらべ歌。急に上行する最後のフレーズに聞き覚えがある。よく耳を澄ますと、「ドレ夫人」だった。「ローマの松」冒頭に使われるあの旋律を、今でも子供をあやすのに歌っているのは初めて聴いたので、偉く感激する。本来は「かごめかごめ」のように、子供たちが輪になって鬼を輪の中に入れて踊りながら歌うものだった。

 5月某日
タクシーの運転手ですら番地が分からず通り過ぎた程の、ただ木々が鬱蒼と茂るばかりの庭園。パレストロの停留所からほど近い「芸術の庭」と呼ばれるこの庭に、ファツィオーリのピアノをそのまま運び込み、カニーノさんとリッチャルダがクルタークのバッハ編曲をリハーサルしている。鳥の声が心地よい。背後から聴こえるパレストロ通りを抜ける車の音が、ふっと途絶えるとき、息を飲むほど美しい無音のなかに、瑞々しいピアノの音が浮き上がる。
それからカニーノさんは、リゲティとバルトークを弾いた。跳ねる音はエネルギーが迸り、小さな音は、慈しみながらそっと弾く。それらは、滑舌よく、抑揚のはっきりした伊語のセンテンスのように響く。
地面に赤い毛布を敷くと、環境に優しい即席観客席になった。そこに座ると、土の匂いと相まって地面からピアノの振動が伝わってくる。聴き手も、寝転んだり胡坐をかいたり、人それぞれ。
息子が加わったクルターク編6手コラール。最後のリタルダンドで3人が顔を見合わせながら弾く。ぴったりと合った瞬間、3人の顔から微笑みがこぼれた。

 5月某日
スカラで「子供と魔法」を観て、夜半家に戻ると、母が古いりんごを砂糖で煮てコンポートを作ってある。熱いコンポートにアイスクリームをかけ溶かしながら食べる。息子は、「数字の場面」では、上から降りてくるはずの3枚の幕が1枚しか降りず立ち位置が分からなくなったのと、子蛙の後を追って出てくる段どりの親蛙が先にでて歌い始めてしまい、子蛙の出番が一つ減ってしまいご機嫌斜め。
今年は日本イタリア交流150周年。国立音楽院のジョヴァンナが、ガリヴァルディ駅裏の「ヴェルディ劇場」で、学生を集めて武満作品を中心に演奏会をするので、そこで話をしてほしいと言われる。プログラムには、武満作品のほか、ストラヴィンスキーの「3つの日本の抒情詩」とかケージの「6つのメロディー」など。
日本とイタリアの交流について話そうと調べてみて、江戸後期、日本が蚕糸を大量にイタリアに輸出していたことを知る。
子供の頃、家に蚕がいた記憶があるが、あれは何故だったのか。家の裏に桑の葉を取りに行ったのも覚えている。
母がミラノを訪れているので、あれはどこから来たのか尋ねたが、バリバリと桑の葉を食べる音が大きかったのと、糸を取るのが難しかったことしか覚えていなかった。
そのほか、日本人がイタリア人に比べて観念的に物事を捉える傾向があるのは、表意文字で思考するからか、とも話す。「山」という言葉を思うとき、我々は無意識に山の形そのものを思い浮かべているけれど、イタリア人が「山=monte」のMの字に、山の形を思い浮かべることはないだろう。
日本人が音楽に感情を込めると、自らの内面に気持ちが向かうけれど、イタリア人は、音符そのものに感情を込めるように見える。感情の込める場所そのものが、我々はずいぶん違う。
それなら韓国やベトナムのように、中世や近代まで表意文字を使っていて、それから表音文字に改めた場合とか、国民性そのものも変化するのか。
言語学では、どの文字も当初は表意文字から始まり、改良し表音文字化してゆくプロセスが普通、と読んだ気がする。あまり難しいことは考えないことにする。

 5月某日
学年末の週末とあって、向いの中学校では、年度末恒例の学校主催パーティー。漸く一日家で落ち着いて仕事が出来ると思いきや、朝からロック・バンドの演奏が続く。少々耳の遠い母に話しかける時は、バンドの音が止んだ隙を狙う。母曰く、「その昔、石井真木さんのお宅の隣が鎮守様で、作曲中お祭りのタイコが鳴りっぱなしだと、もう気が違いそうだとか言ってらしたわね」。
音の洪水の中で、母がもう一言。「なんだか天理教の太鼓みたい」。

 5月某日
米大統領広島訪問のニュースを、イタリアのラジオで聞く。
ミラノ国立音楽院の作曲科作曲賞コンクール審査。各楽器に現代特殊奏法を効果的に混ぜる技術は最早必須なのかも知れないが、こうなると何も特殊奏法を使わない方が、新鮮ではないか。大学生の頃、初めてドナトーニの夏期講習を受けにイタリアに来た時を思い出す。誰もが5連音符6連音符で隅々まで整頓された譜面を書くのが、新鮮でもあり不思議だった。右も左も分からなかったので、こう書かなければいけないのか、とその時は漠然と受け容れたのを思い出す。
審査では同期のハビエルも一緒。彼の娘も劇場の児童合唱で、送迎の時間に鉢合わせになる。肩を並べて国立音楽院で楽譜を眺めるのは、何十年ぶりか。

 5月某日
スカラから通りを一本抜けた、ガレリアの一角に、「スカラ座天井桟敷会」というのがあって、要は「玄人集団」を暗に標榜している。
「天井桟敷会」でどういう訳か、ガスリーニの作品のマラソン演奏会が二日続けて行われたので、リリースされたばかりのCDのプレゼンテーションのため、アルフォンソと一緒に招かれて、録音のエピソードなどについて話す。
我々の後に舞台に上がったジャズ歌手フランチェスカ・オリヴェーリは、長年ガスリーニと演奏していたイタリア最高のジャズ歌手の一人。ただ聞きほれるばかりの圧倒的な存在感と、ジャズでも現代音楽でもない、ガスリーニ音楽の素晴らしさ。こんな風に音楽と一生付き合えたら、どれだけ幸せだったろうか。

5月31日ミラノにて


吹き寄せ控え

風が色とりどりの落ち葉を吹き寄せ 乱れ重なるまま 入れ混ぜておく

ことばも音も 思いつくままに ほどよい隙間と息継ぎで フレーズをつぎたして 流れが途切れず めだたずに景色が変わっていき 前にさかのぼらず 見えないうごきに押されて はこばれてゆき 決った目的地がなくても 思いがけない方向にまがりくねる

考えぬいた課題に答を見つけ 造りあげた思想に沿って 隙なく全体を構成し 分析した要素を振り分けて 見えない構造を仮に立て 順序をつけて書き出していくやりかたが 書き手の自由をしばり 受け取る側の想像力を予想した道筋に誘導しながら 作品の映し出す風景に枠をはめてしまう というようなことをくりかえして何十年も経ったあとで これはもう過ぎたこと 完成したときは そこに欠けていたなにかが よくわからないなりに 予感され 次の一歩は 最初からやり直しとなり そんなことは いつまでつづくのか

新しいひらめきも 使ううちにすりへってくるばかりか 予測されたコースをはじめから辿っていて 新しいと思いこんでくりかえしているだけだったと わかる時が来るのか 来ていないふりをし続けるのか

ひらめきも思いつきも 構成の枠に入れずに放り出しておき 言いさし いいよどみ 言いなおして 言い終わらず 言い切らず

わかったと思ったこと 確信をもったことを言う口調でなく 思っていることは言わない どこからか聞こえてくることを聴いて 耳にとまったかけらを貼り合わせながら それを道具に使って意味や論理を組み上げるのではなく 区切りなおし せいぜい組み替えにとどめる

響きや色を からだのなかの流れに映してみる 上下 前後 右左 内外 遠さ 軽さ 寒さが感じられるか それがどの方向に流れるか 一般化し 抽象化とは反対に 概念もイメージもパターンも からだに流してみて したしみを感じるなら 彩りと韻に変えて記憶し ためしながら すこしずつ変えていく

ツイートの140字の制限のなかで書きとめたメモをたばね 水牛のように のコラムに流し込み 短い音のフレーズを 三味線の旋律型やバロックのmusica poetica のようなイメージ図式にまとめて 即興を書きとめるように 短い曲にする そこでは ことばや音の書きさしの間に付け転じの関係が自ずから生まれ 季節のめぐりが見え隠れするはずだが