人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1983年9月号 通巻51号
         
入力 脇葉敦


カラワンと水牛の旅 高橋悠治
題名のない芝居など スラチャイ・ジャンテシマトン
 1 題名のない芝居
 2 橋
「沖縄人お断り」の看板を見た 国吉真永
水牛楽団のページ
ヘンリーの運勢判断せんべい 藤本和子
 1 スパゲティかぼちゃ
 2 オムライス
 3 ヘンリーの運勢判断せんべい
 4 夢
 5 熱い日のおとむらい
編集後記



カラワンと水牛の旅  高橋悠治


 水牛楽団は九月にタイからカラワン楽団をよんでいっしょにコンサートをする。
 カラワンのうたう「人と水牛」をはじめてきいたのは一九七七年だった。その次の年に水牛楽団が誕生した。それからずっとカラワンのつくった歌を日本でう たってきたし、一九八一年には、バンコクやチェンマイで「人と水牛」をうたってきた。この歌はタイではまだ禁止されていたし、カラワンもまだタイにかえっ てはいなかった。一九八二年にはカラワンのなかでピンとい農民の楽器をひくモンコンをよんで三ヶ月もいっしょにくらし、コンサートをやった。かれがバンコ クへかえってからカラワンが再結成され、最初のコンサートは「人と水牛」ではじまった。カセットできくと、スラチャイの歌声は聴衆の熱狂のなかでうわずっ ていた。
 カラワンのうたいはじめた「生きるための歌」とよばれるたぐいの歌について、カラワンが軍のクーデターに追われて森にのがれていた間に水牛楽団が日本で その歌をうたいつづけたことについて、カラワン再結成後の水牛楽団とのであいについては何回もかいたし、カラワン楽団の歴史についてはウィラサックがかい ている。それらをまとめた本はもう出版されているから、『カラワン楽団の冒険』(晶文社)をよんでくれればいい。本だけでなく、カラワンの歌のカセットも つくった(水牛編集委員会で通信販売)。いまの日本でかれらの歌がひろくうけいれられることはないだろう。そんなに世界はよくはない。それでも、だからな にかをよみとり、歌からタイのまずしい人びとの声をききとることのできる人たちがすこしはいるはずだ。
 バンコクをでた高速道路は村をよこぎって東北にのびてゆく。道路のそばに水田があり、水牛がじっと立っている。高床式の家のまわりをやせたイヌがうろつ いている。ニワトリがかけまわっている。そのとなりにはコンクリートの壁のあたらしい家がある。水のかれた井戸と雨水をためたかめがある。栓をひねっても 水のでない水道がある。サウジアラビアに出かせぎにいっている男たち。バンコクのバーで同郷の娘とであう。かばんをさげたはだしの子どもたち。日かげに じっとすわっているおばあさん。アメリカや日本がはいりこんだタイの村はもとにはもどれない。バンコクはむしあつくて、人があふれていて、排気ガスで頭が いたくなる。
 カラワンは楽器やアンプやスピーカーをつんだマイクロバスででかける。何時間もはしって遠い町の映画館でコンサートをやり、夜通しはしって次の町にゆ く。どこでも知った顔がいるが、収入はあてにならない。しごとのないときはバンコクの友人の家にころがりこんで、ぼんやり時をすごす。カラワンの名のとお り、これは貧民のキャラバンだ。まるであてのない旅のようでいて、魂だけが目ざめている。行先の映画館でいっしょになるタイのほかのバンドは、白いスーツ をきちんと着こなして日本やアメリカ製の中古シンセサイザーなどをつかって、それで歌がはじまるとリズムの間のびしたタイの上品そうな流行音楽をやってい るのに、カラワンときたら、よれよれのTシャツにギター以外はえたいのしれないよせあつめの楽器で、ラオスなまりとドアーズやボブ・ディランがまじったよ うなわけのわからない音楽をやっている異常バンドなのだ。民衆の音楽とか、たたかいの歌といえば想像のつくようなもの、とくに「北」の国ぐにでききなれた あのつっぱったスタイルとはちがうが、タイできくとそれは現実のなかからきこえる人びとの声とかさなってくる。近代文明が人びとを村から追いたてる。どん な善意も思想も体制の変化もこの流れをとめたり、もとにもどすことはできないだろう。だが一方では、これはせいぜい数百年のからさわぎであり、文明が自分 のおもみでつぶれてしまっても、水牛ややせたイヌや、日かげにすわっているおばあさんはそのままのこっているかもしれない、とおもえる。何千年もそこにい て、いくつもの王朝がほろびるのを見てきたタイの農民のことだ。日本やアメリカを見おくるためにそれほどまたなくてもいいだろう。
 とはいっても、カラワンは今年で結成十周年、水牛が五周年だ。両方ともいつまでやっていられるかわからない。バンドがなくならないうちに、いっしょにコ ンサートをするのは前からの約束だった。東京から甲府、長野、松本、名古屋と、ゲストの小室等さんもいれて十人以上のキャラバンを計画するのは、はじめて で、たぶん二度とないことだろう。
 水牛楽団にとっては、五年前にカラワンの歌をきっかけにしごとをはじめたとき、カラワンといっしょに演奏する日を予想することはできなかったが、偶然は 予定されたコースのようにしてやってきた。しかも、ふりかえってみれば、このコースはカラワンの旅とはちがう旅の地図をえがきだしていた。



題名のない芝居など  スラチャイ・ジャンティマトン


1 題名のない芝居

これはカラワン楽団のスラチャイが、解放区での演芸会のときに演出した即興劇のあらすじで、彼によればCPT(タイ共産党)からはげしく批 判された芝居のひとつだという。(訳者=荘司和子)

 舞台は、物語とはまるで関係のない、ホテルの浴室によくかかっているような色あせた緑色の布を背景にしただけのものだ。とはいえ、これが演芸 会のはじめから終わりまで、すべてのだし物の背景となるのだ。三〇メートルほどの建物の前に丸太が並べられて、それが観客席である。舞台はかなり狭い。 坐っている者、立っている者、あわせて一〇〇人余りの人たちが、重なり合うように舞台を半円状に囲んでいる。
 安物の石油ランプがひとつ、ほの暗く全体を照らしだしている。男が一人出て来ると、これから演じることについて、ざっと次のようなことを述べる。
 この芝居には題名がありません。出演者はみな、ほんの十分ばかり前に、出演を依頼されたばかりです。台詞もありません。演出者が、そこで短い指示を出し ますから、それを聴いて即興でやって下さい。
「あなたがたは何も言わなくていい。ぼくが一人でしゃべりますから。さあ、がんばって下さいよ。」

 芝居が始まる……
 足の悪い男が一人、足をひきずるようにして舞台に出てくる。別の者が椅子を持ってきて置く。足の悪い男は、手にチェロを持っていて、舞台の奥のそで近く に坐る。彼は、ゆっくりとした動作で、チェロをキーキー鳴らしはじめる。本当のところ、彼はチェロは弾けないのだ。ただ、息苦しい雰囲気をかもしだすよう な音を即興で弾いているだけだ。
 舞台の上は、まだがらんとしたままだ。観客は、今か、今か、という気持ちになっているところだ。しばし間をおいたところへ、どこにでもいそうな、ありふ れた身なりの若い女が二人、観客席から突然飛び出してくる。一番目の女が、二番目の女に背中を強く突かれて、舞台の中央まで押し出されてきて土の上に倒れ る。彼女は、本能的に危険を察知したようにすぐ立ち上ると、みがまえた。
 刃わたり二十五センチほどの短刀を、彼女はとりだしている。本物だが、錆びている。二番目の女は、用心深く一歩後ずさりしてから、同じような短刀をとり だす。二本の短刀は、戦いを開始した二匹のコブラの頭のように、前後左右に行きつ戻りつする。
 二人の女は向き合っている。見つめ合う視線は、ほとんどまばたきもしない。この猛々しい二羽の闘鶏は、今まさに舞台の中央で、全観客の視線を一点に集め ているところだ。あたり一帯は水をうったように静まりかえっている。チェロのキーキーこするような音だけが、耳ざわりに聴こえている。大きな玉の汗がふき だして、役者の額をぬらした。彼女らは真剣に殺し合おうとしているのだ。
 しばらく間があってから、男が一人ゆっくり出てくる。
「ヒェー……えらいこった。殺し合いだぜ。みんなちょっと見に来いよ。殺し合いが始まってるぜ。そんじょそこらで見られるってェしろもんじゃないぜ」
 彼は一番目の女の方に向きなおると、彼女から視線をそらさず、彼女のまわりを用心深く歩きはじめる。
「てめえ……虎みたいにどう猛な瞳してサ。刺しちまえよ。ひと思いに殺っちまえよな。おまえのおふくろじゃないんだろ。何ぐずぐずしてるんだ」
 と、今度は二番目の女の方をふり向いて、
「ハハン、こっちも冗談じゃないとみえる。こいつぁやっかいだぞ。お前の方が敗けるっていう自信がなくなってきた。あいつの方もたいしたことないな。先に 殺っちまえよ。先に手を出した方が勝負ありだな」
 二人の女は、まだ視線をあわせたままだ。時折り近づいたり、離れたりして、殺しのタイミングをねらっているのだ。
 たとえてみれば、マッチの軸をグルグル回しているようなものだ。マッチの頭と尻が、同一直線上で顔を合わせている。まだ飛びかかる時期に至っていないだ けだ。
「それっ、今だ」男がまたしゃべりだす。「何をためらってるんだ。ここまできたら、おまえがのこれば、あいつが失せる。あいつがのこれば、おまえが失せ る。どっちが消されるしかない。……さあやれよ」
 男は観客の方に向きなおる。
「みなさん、どうです。殺し合いを見に来ませんか。おっそろしく貪欲な目つきですよ。二度と見られるもんじゃない。間もなく真赤な血が流れる。どくどく流 れ出してくる。ここ……ここんところ(自分の身体のその部分を指差しながら)から。そして身体中が真赤に染まる。短刀が肉に突き刺さる……こっちの女か、 それともそっちの女かの」
 男は狂ったように笑いながら、ポケットから一〇〇バーツ紙幣を三、四枚とり出し、観客の頭上でひらひらさせる。
「みなさん、賭けようじゃない。さあ、どっちの女に賭けるか、いくらでも言ってみな。死んだ方に賭けても、生き残った方に賭けても、どっちでもいい。さ あ、急いでよ。もう時間があんまりない」
 男は一番目の女のすぐそばまで近づいて言う。
「これが見えるかい。金だ。おれはおまえに何百バーツも賭けたんだ。おまえはあいつを殺るに違いない。絶対成功しろよ。あいつがやられたら賞金出してやる ぜ」
 二番目の女に近付くと、
「オイ……よく聞いてろよ。おまえにあの女は倒せない。おれが誰に賭けたか分るか? この金を見ろよ。やってみな……おまえから先に手を出してみろよ。白 黒がはっきりするぜ」
 二番目の女は、男を横目でちらりと見やるが、その表情からは何も読めない。
 男はまだ宿敵同士のまわりを行きつ戻りつしている。時折り、危険を感じたかのように、さっとうしろに身を引いたりする。瞳はらんらんとして二人の女を交 互に見すえる。が、時として理解できない、といったいぶかしげな影がよぎる。二人の女は、あい変わらず前進、後退を交互にくりかえしていて、どちらも一向 に手を出さない。立ち止まって考えているようなこともある。
「チキショー……」。男はいまいましげにどなる。「てめえら、何やってるんだ。結局ただの臆病者じゃないか……チェッ」
「見物人をたぶらかしやがって。行こうぜ。帰った、帰った。時間の無駄だ。メス犬どもめ、喰いつかないワ」
 男は出て行くふりをするが、立ち止まってはふり返り、まだ未練があるそぶりをしている。しばし間をおいてから、二人の女は近くまで接近する。と見るや、 男は急いで戻って来る。
「これだ……こうこなくっちゃ。それ、やっちまえ」。男は一番目の女に向かって話している。「おれは、おまえに大枚を賭けてるんだ。がっかりさせてくれる なよ」
 一番目の女が、男の方にちらっと一瞥をくれる。
「それっ、今だ!」と、男はかすれた声で女の耳もとにささやく。「この金が見えるだろ。お前のものになるんだぜ。がっぽりもうけような」
 一番目の女がもう一度、男の方を見る。そしてそのまま目をはなさない。その女の瞳が、突然奇怪な色を帯びてくる。男の方でも、それと気づいて後ずさりを しようとしたやさきのことだ。
 遅かった……。短刀はその男の左胸にぐさりと突きささっている。ただのひと突きだった。ほとんど柄のところまで楽々と肉に食い込んでいる。男は目を白黒 させて、何か言葉にならない言葉を発した。女は鮮血に染まった手で、まだ短刀をつかんでいる。男の身体は突かれたように、前に倒れた。はげしくけいれんし て、ほんのしばらくもがくようにしてからそのまま動かなくなった。手にはまだ、赤い百バーツ紙幣を握りしめたまま。
 二人の女は、血に染まった死体から目をそらすと、再び向き合う。が、瞳には微笑が浮かんでいて、誰の目にも明らかなほど緊張感が失われている。二番目の 女が短刀を捨てる。二人はゆっくりと歩み寄り、親友同士がいま出会ったように抱きあう。それから連れだって幕のかげに去る。
 足の悪い男はまだ坐ってチェロを弾き続けている。チェロの音に、今はじめて気づく者もいる。ほんとうは、彼はずっと弾き続けていたのだ。汗が全身にした たるほどずっと。チェロの音が弱くなったところへ、はじめの男が出てきて、椅子を持って退場。続いて足の悪い男も、足をひきずりながら黙々とそでに消え る。
 最後に残ったのは、つい今しがた刺された男だ。彼も起きあがると足早に立ち去るのだが、舞台前のほんの二、三人が、彼の服のポケットから何かが落ちたの に気づく。
「万年筆が落ちたぞ」と、その中の一人がさけんだ。
 男はふり向いて戻ってくると、乾いた笑いを浮べてペンを拾いあげる。ポケットに再びペンを入れると一言も言わずに退場。誰も話している者はいないし、手 をたたく者もいない。長い行軍の疲れがやっと癒えたところなのだ。ややあって、私語する声がガヤガヤ聞こえはじめる。

     

 その土地はかなり不毛の土地だった。地理的にも、生活面でも、そしてこの種の芸術を解する者のいないことでも。いずれにせよ、今回は今までに も増して議論を呼びそうだ……。


 2 橋

 わたしたちはバンコクから移ってきたばかりだった。ここバンクンティアンは、緑が多くて見るからに涼しげだ。わたしたちが一ヶ月四〇〇バーツ で借りた家も、林の中にあった。早朝には小鳥の鳴声がきこえるし、夜は一晩中涼しい風が入ってくる。ここに来てからわたしは、バンコクのシーロム通りのこ とをすっかり忘れてしまった。シーロムでは人間がわずらわしく、バスはいつも満員だった。
 わたしたちの借りた家は、果樹林を奥深く入ったところにある。舗装した小道にそって入って行くのだ。その横丁の出口のところには、そば屋、ちょっとした 喫茶店、それに雑貨屋など、二、三軒の店屋が並んでいる。そば屋は年とった中国人で、この辺りの人たちは変なシナ人と呼んでいる。彼は一風変っているの だ。コンロの前に立って仕事している時は、ごく当たり前なのだが、歩いている時がおかしいのだ。両方の腕を背中で組んで、まるでぜんまい仕掛の人形のよう に歩く。
 わたしはバンクンティアン運河が好きだ。バンコクの運河のように、うす汚くゴチャゴチャしていないからだ。運河ぞいの家は、まだ古いタイ式の建て方をし ているのが多い。土曜と日曜になると、わたしはたいていこの橋の上に立ってみる。この橋は一九六四年にできた。ちょうど四年経っている。まだどこもいたん でいる様子はない。人間の四年とは大違いだ。四年経つと人間は少なからず変わるものだ。中学生が大学生に、大学生が立派な社会人になっているし、若い娘が 年増になり、未亡人は再婚し、お年寄りはこの世を去ってしまうかもしれない。
 この橋の下を流れているのは、バンクンティアン運河だ。水が上ってくるのはいつなのかと、わたしは気をつけて見ていたのだけれど、いつまでたってもいっ こうに分らない。わたしは、大きな舟や小さな舟が流れに乗ってゆっくり下って行くのを、あきもせずながめた。運河ぞいの商いしてまわる物売り女のこぐ小さ な舟は、たいていが果物を山のように積みあげていて、よくも沈まないものだ。引き舟に引かれていく、何そうかの舟が積んでいるのは、炭やゴザ、それに米の 入った袋だ。運河まわりの定期便の乗合い舟は、西洋人の観光客を乗せて次々やって来る。あらゆる物が、あせらずゆっくりと、それ自身の動きをしているの だ。月をながめている時のように、すがすがしい気持ちがしてくる。
 夜半には舟の汽笛が聞える。わたしのフィーリングの世界に響きわたるように。夜のしじまをつき破るように、きわだって大きな音で。わたしはこの音を聞く のが好きだ。夜仕事する人たちのことを思い出すから。自分も含めて。
 この橋の上に立っていると、わたしはこころが休まる。運河の北の方角には、古いパゴタがひとつ見える。汽車の黒い鉄橋、それから深い緑の樹々に囲まれた 家々が続く。南の方角には、ヤシやびんろう樹、その他の林が続き、運河のふちにそって真赤な花が咲いている。家々は、でこぼこと無秩序に並んでいるとはい え、全体としてながめると、画家が描きだした一幅の絵のようで、美しい。
 子供たちがはだかになって、運河の水の中で遊んでいるのを、わたしは羨望の眼で見る。子供たちは陽気にはしゃいでいて、わたしに子供のころのことを思い 起こさせる。もう一度子供に戻りたい、と思う。子供の世界はきれいで、邪念がない。大人……わたし(!)のように汚れてはいないのだ。
 この橋の上でわたしは実にさまざまなものと出会う。癩病病みの犬が一匹、いつもここで寝ている。うんでいる傷口や、かさぶたになった傷口でいっぱいだ。 もう立ち上ろうともしない。間もなく死んでしまうだろう。この地上で生きていくことに力尽きて。
 それから少しして、わたしはその犬の死骸を見た。けれども、わたしが想像していたように、飢えて死んだのではなかった。橋のたもとのアスファルトの上 に、ペシャンコになった死骸があった。車にひかれたのだ。わたしは目をとじて、想像してみる。あの犬が、やっとのことで起ちあがり、橋の坂を降りはじめた ところへ、一台の車がスピードをあげて走って来る。運転手はその犬のためにブレーキを踏む余裕はなかった。ただ一匹の犬にしかすぎない……ただそれだけの ためには。

 ある土曜日の黄昏どき、雨期の空はもの悲しげに広がっていた。わたしは、いつものようになにげなく、目の前に延びている運河をながめていた。 南の空には、暗い灰色の巨大な雲が、どっかり浮かんでいる。ときおり稲光が走る。とはいえわたしの頭上の空には、雨が降りだす気配はなかった。風が次第に 強く吹いてくる。わたしはあいかわらず立っている。東側の橋のたもとでは、駄菓子売りの女がいつものように屋台を開いている。ときおり車が一台、ほこりを まきあげて橋を渡って通り過ぎていく。わたしが立っているところからは反対側の手すりに、四、五人の若者たちが腰かけている。彼らは、上映中の映画の話に 熱中しているところだ。わたしにとっては、うるさくてわずらわしかったが、そうかといってわたしに彼らを非難する権利があるわけではない。たとえ権利が あったにしても、あえて挑戦したいとは思わなかった。
 数人のグループがしゃべりながら通り過ぎると、すれ違いざまに若い女が一人やって来た。変わった印象を受ける。彼女の着ているものが流行遅れの古めかし いものだったからだ。濃いサングラスをかけている。わたしが立っている橋のへりにそって、ゆっくり歩いて来る。不安定な足どりだ。立っている側の、なかば 奇異な感じと、なかば興味をそそられた感じで、わたしは彼女を見つめた。
 それまで彼女を見かけたことはなかった。年のころは、二十五から三十歳ぐらいだろうか。やせて顔色が悪い。乱れてもつれた髪を、肩まで垂らしている。洗 いざらしのくたびれた、花模様のスカートをはいて、彼女はゆっくりと歩いてくる。白い手で橋のらんかんにつかまりながら。わたしの立っているところから、 二メートル足らずのところまで近づいて来た。わたしは、彼女の瞳から答えを読みとろうとして、のぞきこんだけれど、何も分らなかった。
 わたしが、わざと音をたてると、彼女はそこで立ち止まった。そして橋のらんかんにしっかりつかまる。
「すまないけど、ここは橋の真中辺かしら」と彼女が大きな声を出して訊ねる。
「そうだよ。どうしてさ」わたしは不審になりながら答える。
「わたしもここに立たせてもらうわね」彼女が、あんまり大きな声で話すので気にさわった。
「立ってたらいいじゃない。誰も何とも思やしないから」わたしは無愛想に言うと、運河を見やった。
「この辺は、今ごろは、ずい分変わってしまったんでしょうね。わたし、もうずい分長いこと見てなくて。もう五年以上なるわ」彼女は、独りごちるようにボソ ボソ言った。
 わたしはやおら話してみたくなる。
「この辺は初めてなんでしょ。ぼくもここに来てまだ一ヶ月足らずなんです」
「あ、そうなの……わたしは違うわよ。わたしはずっとここにいるの。あの林の中」と言って、彼女はすでに暗緑色になった林の方を指差した。
 わたしは怪訝な思いで黙ってしまう。
「わたし、目が見えないのよ」彼女が急いで説明する。「もう五年も前から見えないの。因縁なのね」
 泣いているような、かすれた声だった。
 わたしは、ほっとしてため息をつく。
「目が見えないのか。気がつかなかったな。どうりで……」
「そう、見えないの」彼女はくりかえす。
「じゃあ、もう暮れかかってるのに、どうして出て来たの。暗くなっても帰り道が分るの」わたしは、二つのことを、いっぺんに訊いてしまった。
「だいじょうぶ。この道は慣れてるから。暗くても明るくても、わたしには同じことよ。わたし、あの人を待ってるの。あの人は、今日、ここまでわたしに会い に来るって約束したのよ。あたな、彼の姿を見なかった?」
「誰のこと? 見てやしないさ。それにどうやって見わけるのよ」
「ああ、そうだったわね」と彼女が言う。「ごめんなさいね。彼の名前はクラムっていうのよ。彼は地方に行ってしまって。今日、ここで会う約束があるの。彼 が行ってしまってからもう四年以上になるわ。濃いあごひげがあって、色が黒くて大きい人よ。わたしの夫なの」
 ほっと、わたしはため息をつく。
「あの人が来るのが見えたら、急いで教えてちょうだい。お願いね」彼女は頬に笑みを浮べて、こう言うのだ。
 わたしは時計を見た。もう六時をまわっている。空も暗くなりはじめている。電信柱の街灯の光が、ポツン、ポツンと照らしている。若者たちの一団は、二人 だけを残して、それぞれ家に帰ってしまった。彼らは、わたしと目の悪い女の会話に興味を持ちはじめたようだ。
「もう八時ですよ」と、わたしは嘘を言う。「こんな遅くには、彼は来ませんよ。今日は家に帰って、明日また来ればいいでしょ。あんまり遅くなると大変だか ら」
「八時ですって。まあ、大変! それじゃあ今ごろは、父が仕事から帰っているでしょうから、帰らなくっちゃ。どうもありがとう。どうもね」
 彼女は来た道を戻って行った。わたしはまた、ため息をつくと、気がめいって、その場所にそのまま立ちつくしていた。
「あの女は、あなたに何を訊いてたの」二人の若い男は、すっと近づいて来ると、わたしに訊いた。
「別にたいしたこと訊かなかったな。あの女だれなのか、知ってますか」とわたしの方でも質問する。
「目が見えないんだ。シーヌワンは目が見えない」と彼が言う。
「聞きましたよ。五年前から目が見えない。どうしてそうなったの」とわたしはまた訊く。
 一人が窮していると、もう一人がさっと答えた。
「娼婦だった。梅毒で目をやられちゃったのさ。この辺じゃみんな知ってるよ。因縁でしょ……」


「沖縄人お断り」の看板を見た  国吉真永

 なにげなく取りあげた受話器から、耳を疑うニュースがとび込んできた。アクセントで沖縄出身とわかる男性が「赤羽駅前のパブに、沖縄人お断り の看板をかけてある。けしからん。取材したらどうか」さきほど見てきたことを興奮ぎみに話した。“沖縄差別”は、うわさには聞いていたが現場に立ち合った ことはない。所在地を教えてもらい、翌日訪ねた。
「からおけPABU」は京浜東北線赤羽駅南口から、歩いて二分の所にあった。“看板”は、入口自動ドアの右手にあり「お断り・沖縄出身の方はご遠慮下さ い」と書かれていた。文字は、まる味の活字体で長さ約四十センチの白いプラスチック板に印刷してある。板は、接着剤で固定、いやでも目に入る場所。隣り に、同じ経営者の喫茶店があって、そこでパブ店長に会うことができた。取材目的を説明すると「さあ、どうぞ」と椅子をすすめてくれた。
 なぜ、あんな看板を出しているのか、質問した。店長によると、沖縄県出身の若者で飲酒マナーの悪いのが三グループほどいるという。トラブルをひんぱんに 起こし、初めは、入口で彼らを見かけると走っていき、追い返していた。しかし、ときには気付くのが遅れて、追い返す機を失ってしまう。いちいちチェックで きないので、仕方なく看板を出すことにしたのだという。ことし二月のことらしい。
 彼らは、五、六人でグループをつくって店に現れる。店の営業時間は午後六時から午前三時までだが、九時から十時ごろ姿をみせることが多い。何人かは、頭 に手ぬぐいを巻きつけ、ワイシャツをはだけて、ぞうりばきのものもいる。酒に強く、酔うと方言まじりの口論になり、仲間げんかをおっぱじめる。コップや灰 皿が飛び、テーブルはひっくり返されてビールびんが割れる。一度、止めに入った店長の友人は、ウィスキーのびんで顔をなぐられ、今も顔の形が少しゆがんで いるとか。客にケガを負わしたことはないが、口論をたしなめると、からんでくるそうだ。「お客をなぐることはしませんが、暴れたり、カラオケのマイクを一 人占めにして迷惑をかけている。お客さんは楽しく歌って、飲むために来ているので、彼らに雰囲気をぶちこわされては店は敬遠しかねません。店の売り上げが 減ると店長の責任ですからね。彼らに来られては困るのです」と非難した。近くにある二、三のパブも、同じような看板を出し、彼らを締め出していると訴える のだった。「そんなにひどいんですか」と相槌を打ちながら話をすすめる。
 飲酒マナーの悪い一部の沖縄青年を締め出すために、沖縄県民を対象にした文言は沖縄差別ではないか――とただした。店長は「沖縄を差別してはいません よ」と手を振って答えた。グループでやってきて暴れるのは、決まって沖縄出身の若者。一ト月に四回も続き、ノイローゼ気味になったこともある……と。店を 守るために、沖縄の若者グループを排除しなくてはと、そのことばかり考えていたようだ。彼らの名前やグループ名も知らなかったので、“沖縄出身の方”とい う表現にした。いま思うと不適当な文言だが、あのときは、いい知恵もうかばなかった、と説明する。そして「沖縄を差別したりしませんよ。うちは、パブのほ か飲食店関係が四店あり、約五十人の従業員をつかっている。四年前から沖縄の子も採用し、いま、四人います。パブにもウェイトレス一人、調理場で男の子が 一人働いている。沖縄の子たちは、まじめでよくはたらきますよ。お客の中にも沖縄出身は多い。マナーがよければ、歓迎ですよ。私の婚約者も沖縄出身です」 と、沖縄差別否定に“実績”を述べた。
 このとき、心の中であっと思った。店長の婚約者が沖縄出身と知ったからだ。一方、婚約者と同郷の人たちを拒絶するからだ。看板をかかげる真意が図りか ね、いやな気持ちになった。深夜酒場という特殊な所だから、まともに受け止めるのも大人げないかもしれない。しかし、差別や偏見はこうした環境にストレー トに現れやすいともいえる。沖縄県はこれまで、県民も多府県の人から、差別されがちだったといわれる。個人的にも大阪や東京で根拠のない屈辱を受けた。第 二次大戦前のことだが、社員募集などで「ただし、沖縄人朝鮮人を除く」との張り紙もみかけたそうだ。こうした過去があるので、沖縄の人間は、差別には敏感 なのかもしれない。
 記事にまとめて本社(沖縄タイムス)に送稿。パブの店長も実名を書いた。二日後、第二社会面にパブの写真入りで報道された。見落としてしまいそうな地味 な扱いだったが、その後、読者投稿欄に三、四通の投書も掲載されていた。「飲酒マナーの悪い沖縄青年が嫌われるのは当然。といって県民の出入りを禁ずるの は沖縄差別だ」という意見だ。東京支社にも、数人の読者から同パブについての問い合わせの電話が数本きた。
 数日後、店長から電話。「看板は取りはずしたので、見にきて下さい」ということだった。店長は、冷しコーヒーをすすめながら「店にいる沖縄出身の親から 電話がきましてね。店のことが新聞に出ているけど、看板は本当か、というわけですよ。沖縄の家庭に心配かけてはいけないので、早速、はずすことにしまし た。抗議の電話も何本かありましたよ。例のグループも姿を見せなくなったし、効果はあったとみています……」と撤回の弁。
 支社に帰ってから、店長の婚約者A子さんに電話を入れた。あの看板に対する感想を聞いてみたかったからだ。A子さんは「看板の表現に私は反対でした。書 きかえてと何度も文句をつけたのですが、きいてくれなかった。やっと、はずしてくれて胸のつかえがおりました」とホッとした話しぶりだった。
 沖縄の若者グループには、会えなかった。赤羽には、就職している沖縄出身者が二百人前後いるといわれ、彼らもその仲間と思われる。彼らが、なぜ、パブ経 営者に嫌われているか、直接会って確かめたい。それまでは、彼らだけが悪いと決めつける店長の言い分は“話半分”にしておきたい。


水牛楽団のページ


 先月号の2ページにのっているカラワン楽団との「生きるための歌」コンサート日程のうち、松本の会場が変更になりました。九月十九日六時三十分より、護 国神社美須々会館にて。前売り千八百円、当日二千円です。
 カラワンの来日を記念して(!)、本とカセットが出ているのでお知らせしましょう。本は『カラワン楽団の冒険』(晶文社)。昨年水牛通信に連載していた 「カラワン回想録」を中心に一冊にまとめられています。
 カセット「カラワン」は彼らのふるい歌とあたらしい歌をあわせて収録した、水牛楽団制作のいわば海賊版です。「人と水牛」「米のうた」「サムローひきう た」「空はかぎりなし」「カラワン」「雨をまつイネ」が入っていて千二百円、送料二百円です。
 このふたつはコンサートのときにも販売しますから、なるべくそこでおもとめください。カセットは郵送もしています。水牛編集委員会に郵便振替で申しこん でください。
 さて、はなしを水牛楽団にもどそう。
 七月二十九日、全国障害者解放運動連絡会議第八回東京大会のコンサート。暑い一日だった。参加者は朝から分会ごとの活動やデモなどがあって、夜のコン サートのころにはみんな疲れているようにみえた。アウ合奏ではいつも会場の空気がやわらぐ。しかけの簡単さが、簡単とはいえない音をうみだすのを知るの は、だれにだっておどろきだろう。
 八月三日は日教組教育会館支部主催の「戦争体験を語りつぐ集い」に出演。映画「おこりじぞう」と山花郁子さんの話にはさまれて「いぬふぐり」や「祖母の うた」など反戦の色こい歌を三十分ほどうたう。この日もひどく暑くて、人のあつまりはいまひとつ。
 八月十三日、一年ぶりで山谷にゆく。南千住の駅を出ると大きなふみきりがあったのだが、車は線路の下、人間は路線の上という立体交差がきっちりできあ がっていて、風景がかわってしまった。歩道橋の太い柱のかげでハモニカをふいているおじいさんがいる。この日もたいへんに暑かった。それでも日がかげって から外でやるのは気持がいい。一曲目の「水牛楽団のうた」がおわるや、もうアンコールの声がかかって、めずらしくステージの上も下ものってしまう。いつも の大正琴に、アルト大正琴というのを加えて、演歌もうたう。福山敦夫は北島三郎より東海林太郎の歌が似あうみたいだ。人格的にも近いんじゃないかとおもわ せるところがある。ほんとのアンコールには「祖母のうた」をうたった。山形のおばあさんの歌だと紹介する。山形の人がたくさんいたせいで、歌もしぜんに山 形弁になってしまう。さいごに一升ビンを二本もらった。きいてる人たちはほとんど缶ビールかポケットウィスキーをのみながら。ステージの前でおどってる人 もいる。帰り道ではいつものように何人もの人に、ごくろうさん、ありがとうと声をかけられて、この冬もまた来ようとおもってしまうのだった。
 八月十五日に「敗戦記念コンサート」を俳優座に観にいったら、アジア民衆演劇会議にきていてこの夜も踊りをおどったり詩を朗読したタイの人に、どうして 水牛はきょう演奏しないのか、といわれてこまってしまった。
                                 (八巻美恵)



ヘンリーの運勢判断せんべい  藤本和子

1 スパゲティかぼちゃ

「スパゲティ・スクワッシュと書いてあるよ。スパゲティ・スクワッシュてなんだい?」と田川さんがたずねた。去年の夏のこと、ポール・ラドゲイトの夏の青 物店でのことだった。
「ほら、菜食主義の人が多いじゃない、その人たちがこのカボチャで、スパゲティにかけるソースでも作るんでしょ」と、わたしはよせばいいのに、きわめてい い加減に答えた。わたしもスパゲティかぼちゃなんておかしいな、なんだろうとは思ったのだから、ちょっと店の人にでもたずねりゃいいのに、「菜食主義の人 がスパゲティのソースを作るの」なんて、あまりにばかばかしい答をしたのだ。
 そのことが気になっていたのだ。
 田川さんは三日ほどいて、ニューヨークへ行ってしまった。ブルース・スプリングスティーンのインタヴューの約束がとれて、しかもある女の友だちに会える とかで、イサカのいなかにわたしたち二人を置いて大都会にいそいそと足を向けたのだ。だから、もし彼がいまもなお「スパゲティ・スクワッシュ」とは、菜食 主義者のスパゲティのソースの材料だと信じこみ、「アメリカではね、かぼちゃでスパゲティのソースなんか作るんよ、アハッハッ」などと友だちにその知識を 披瀝していたりするんだとしたら、ざまあみろだ。
 その後わかったことだが、スパゲティ・スクワッシュというかぼちゃを真二つに割ると、その中味の繊維がちょうどスパゲティ状になっているのである。蒸し てみると、ほんとに茹でたスパゲティのように、つるつると出てくるので、それをスパゲティみたいに肉料理などのつけ合わせにして、フォークでスパゲティの ように巻いて食べる。知ったかぶりして、嘘をついてしまって、田川さん、ごめんね。


2 オムライス

 毎年六月一日がくると、ポール・ラドゲイトは彼の家の前庭にしつらえた台にたくさんの野菜を並べて八百屋に変身する。自分の ところにも畑をもっていて、きゅうり、なす、トマト、レタス、とうもろこしなどを栽培しているが、なにしろ種まき、草取り、とり入れをぜんぶ一人でやるの だから、そんなに作れない。第一イサカは春がくるのがおそいし、夏がくるのもおそいから、自分のところで作った野菜を売るだけでは商売にならない。そこで 彼は妻と娘を朝の三時に起こし、シラキューズの青物市場へトラックで仕入れに行かせる。自分は十時頃まで寝ている。夜は十時まで店番をしているからだ。と きには、急にニューヨークまでドライブすることを思いたった女子学生が夜中の一時頃やってきて、「ラドゲイトさん、野菜を売ってくださいな」とドンドンと 玄関の扉を叩くこともあるので、たいへんなのだ。
 そのポール・ラドゲイトのところへはじめて行ったとき、わたしが日本人だとすぐわかったらしく、「こんばんは」と日本語でいった。午前十一時だった。つ ぎには、もう日が暮れてから、夕涼みかたがた行ったら、「おはよう」。いちいち八百屋さんの日本語をなおすのもやっかいなので、わたしも「おはよう」と いった。
 すると、すっかり満足して、彼はかつて朝鮮戦争をたたかい、兵士の休暇は日本ですごした、と語った。そこで日本語を少しおぼえた、と。じつは「おはよ う」は朝のあいさつなのですよ、と注意すると、「ああ、さかさまになっちゃった、なにしろ二十五年も昔のことだから」といってハッハッハと笑った。
 ああ、あの日本での休暇こそ、青春のもっともすばらしき思い出、と彼は語り、とりわけ、おいしい日本の食事の話をした。「日本語はほとんど知らなかった から、レストランで食べるのはいつもきめておいたのさ。でも、もう、その食べものの名前が思い出せない。きみは知っているだろうか。ごはんに味をつけて、 それを薄く焼いた玉子で、くるりとくるんで、それをスプーンで食べたのだが……」
「それは、オムライスでしょう」
「おっ、そう、オムライス! オムライスといった。僕はね、オムライスばかり食べましたよ。それしか名前がおぼえられなかったし、それが大好物になってし まって。中毒になったみたいに、オムライスばかり食べた。僕の日本語の知識は、日本人にオムライスの調理法をたずね、それを記録しておくには不充分だった から、ついに誰にも作りかたをきくことができず、残念なことをしたと思ってね」
「あれはね、ごはんにちょっとケチャップなんか加えて調味するんですよ!」と、わたしはついうっかりいってしまった。
「ケチャップだと! とんでもない! にほん人はケチャップのごとき、アメリカ的に堕落した調味料など使いません」とおこられた。
 にほんのオムライスの夢を、このいなかの八百屋にきて打ち破るべき義務がわたしにあるだろうか? 知識と情報の正確さの名において、ラドゲイト氏の二十 五年前の誤解を正すべき義務が? 彼がにほんを訪れることはもうないだろう。またアジアのどこかの戦争にアメリカが出かけて行くことがあっても、彼が行く ことはないだろう。
 オムライスにケチャップなどは入っていない、とわたしと彼は沈黙のうちに合意した。

 ポール・ラドゲイトは薬味用の植物もいく種類か作っている。パセリ、バジリコ、タラゴン、ういきょう、いのんど、はっか、タイムなどを、売り 場になっている場所をかこったビニールの幕の裏の一角に作っていて、いのんどとタラゴンくださいな、とたのむと、その幕の裏にふいと消えて、小さな花束の ようにまとめた薬味の植物を手にしてもどってくる。「お代はいらない。お客にはこれはただであげることにしてる」といつもいう。ただし夏の盛り、そこらの 学生や彼の甥や姪がアルバイトで手伝いにくると、彼らは一束につき三十セント必ず請求する。ポール・ラドゲイトその人から買わないと、「お代はいらない」 とならない。
 彼は何につけても、気前がよいのだ。わたしの亭主が自分の家の庭木のことかなんかで相談して、「日が当たらないので、残念だとは思ったが、楓の大木を伐 り倒したら、隣の家の主人が、まるでマッパダカになったようないやな気持だ、と訴えるので、では、小さな木でも隣との境に植えようかと思うのだけど、何が いいかしら……」というと、ポール・ラドゲイトは、「それにはあんなのがいい」と庭の片隅に生えている木を指さし、「ほしけりゃあげるよ」。
「ただし、自分で抜いてっとくれ。木は大きな穴を掘って抜くのが大仕事、それがいやじゃなければ、あげるよ」というのだったが、間髪を入れず、わたしが亭 主に「そんなこと、とてもわるい。よそさまの家の庭に生えている木など、それ、おいそれと抜いたりしてはいけませんよ。すぐそんな気になるタイプだから ね、あなたは」とクギをさしたので、亭主は軽く口をあけたまま、その木のほうを見ていた。ポール・ラドゲイトは、「そんなこと気にするこたあないよ。かま わないからこそ、あげるっていったんだ。ただし、自分で抜いてっとくれ」
「自分で抜いたって、わるいことはわるいわよ」とわたしはいいはった。
「じゃ、交換条件だ。いいか。あの木をあげるから、そのかわりに、オムライスを作ってほしい。オムライスを二十五年ぶりに食べて、日本のことを思い出した い」

 朝鮮戦争から帰ってきて、イサカに家とわずかな土地を買って野菜を植え、前庭に屋台を出すようなかっこうで八百屋を開くようになるまでの彼は どのようなことをして生活を立てていたのだろうか。ずっとそのようなセルフ・スタイルの夏と秋場だけの青物店をやってきたのではないような気がしてならな い。青物店の主人が知的なことをいうことはありえない、ときめてかかる気は毛頭ない。青物店と知性は矛盾しない。ただ、青物店主になる以前、どこかで、そ れとはまったくちがうことをやっていた人ではないかしら、と思えてならないのだ。
 ポール・ラドゲイトの店は、一昨年までは十一月末の感謝祭までしかやっていなかった。十一月になると、もうすでに寒さは厳しい。でも去年は屋台のまわり 全体に厚手のビニールシートをめぐらし、ビニールシートで屋根もふいて、ついにクリスマスまで頑張った。そうしてビニールシートに包まれた店の中では、大 きな薪ストーブが燃えていた。でもクリスマス以後は気温が零下三十度にもなり、大雪も降るので、とてもだめだった。
 ようやく長い冬が終り、いまイサカは春になった。四月にはまだ雪も降ったが、五月にはそのようなこともなく、水仙やチューリップが咲き出した。もくれん や野生りんごの花も咲いた。急に暑い日が三日あって、ライラックまで咲いてしまった。そうなると、あれほど苛酷な冬がもうここにはいなくなったことが信じ られないのと、花や木々の美しさに心がぼうっとしてしまうのが重なって、わたしは庭をウロウロ歩きまわるばかり。そして、隣の家の奇妙な犬――股関節はな いが「血統は正しい」というボロ毛布をたたんだような姿の「ハイボール」という名の犬の頭など撫ぜてやったりして、一日中家を出たり入ったりしている。 「オランダの栄光」とか「夜の女王」とか、そういうすばらしい名のチューリップも咲いているからだ。球根は去年の秋、わたしが植えた。そして、あと二週間 もすると、あのラドゲイト青物店がふたたび開くのだ。スーパーマーケットのくさった野菜や枯れた青物を買わないですむようになる。土のついたにんじんを買 えるようになるのだ。そしたら、今年はポール・ラドゲイトに、農業と青物店をやる以前に何をしていましたか、とたずねてみよう。


3 ヘンリーの運勢判断せんべい

「ヘンリー、それがわたしの名前」と彼はいって、握手を求める仕草で右手をさしだした。ニューヨークのチャイナタウンの中国料 理店だった。すでに一年前のことである。
 ヘンリーはその料理店のウェイターだった。チャイナタウンのウェイターは香港から着いて間もない若い青年が多いのだが、彼は四十代の中年の中国人ウェイ ターだった。
 メニューのことでちょっと質問すると、彼は「それは食べないほうがいい、あんまりうまくない」といった。そのかわり、こっちにするといい、というような ことをいって、そもそもうまい料理の定義はいつしか彼の人生のことにおよび、「わたしはほんとはウェイターなんかやるのにふさわしい人間じゃないのだ」と いう告白に発展したのだ。
 彼は香港で「弁護士だった」といった。株に手を出し、ついつい熱中し、そして一切合財なくしたのだ、といった。妻はその彼にすっかりうんざりして、「逃 げたんだよ」。でも、娘はちゃんとわたしについてきた、わたしを最後まですてないのだ、といって、会計の金銭登録機の前に腰かけている十四、五歳の娘を指 さした。
「株さえやらなきゃ、ウェイターなんかやる身分になりさがることはなかったんだ」と彼はふたたびいい、「この店は弟が経営しているんだ。弟に使われてしま うことになっちまったのさ。株が悪かった」と結んだ。
 その弟が彼を呼んだ。ヘンリーは台所へ行って、注文し、そしてまたわたしたちのテーブルにもどってきた。
「女なんて冷酷なもんだ。運が傾いたらさっさと逃げるんだからな。そんな女房に未練はない。でも、今は、二番街の小さなアパートに、娘と二人暮しで、ア パートはせまいし、娘がかわいそうだな。みじめな暮しだ。香港じゃ、こんな暮しじゃなかった。ほんとはウェイターなんかする身分じゃないんだ、わたしは。 弁護士だったんだから」
 金銭登録機のところでヘンリーの娘は、ふっくらした色白の顔に丸い眼鏡をかけて、てきぱきと客に釣銭などを渡している。「みじめな暮しだ」と感じている ようにも見えない、元気なティーンエイジャーだ。
 料理が運ばれてきてからも、彼は何度かわたしたちのテーブルにもどってきて、「人生なんてわからない」、「人の運命なんてわからない」、「女は男の金に しかひかれない、運が傾いたら、おさらばよ」、「わたしは一刻も早く香港へ帰れるようになりたい。こんなみじめな……」と繰り返し、わたしたちが食べ終 り、勘定書を受け取ったところで、彼は「ヘンリー、それがわたしの名前」といって手をさしだしたのだった。
「ヘンリー、また会いましょう」といって、四人連れのわたしたちはそれぞれ彼と握手をした。

 一月ほどして、わたしたちはまたその料理店へ行った。店に入ると、ヘンリーの弟、つまり店主が「何人様?」とたずねた。「四人、ですが」と いってわたしは店の中を見まわし、ヘンリーはいるかしらと探した。店の中にはいないようだった。台所かもしれない。テーブルに案内されると、ヘンリーの弟 がメニューを持ってきてくれたので、「ヘンリーはきょうはいないのですか」とたずねた。
「ヘンリー? ヘンリーとは誰のことです?」と彼は、よくわからない、という口調で聞き返した。
「あなたのお兄さんはヘンリーというのではないのですか?」
 もちろん、彼の兄さんはヘンリーではない。弟にとって兄の名はれっきとした中国語の名前だ。兄は中国人同胞以外の者たちに対してのみ、「ヘンリー、それ がわたしの名前」と自己紹介するのだから。
 弟はしばらくわたしをまじまじと見て、それから「ああ」というような表情になって、「ヘンリーはもうウェイターをやめました」と無表情にいった。
「で、いまはどこで何をしておられるのですか、あなたのお兄さんは? 香港へ帰られたのですか?」
「いや、まだニューヨークにいます」
「何か新しい仕事でも見つかったのですか?」
「彼はいまここの地下室でサイドビジネスをやってます」
 店主はヘンリーについてはもうこれ以上話すことはないのだ、という調子で話を打切り台所へ入って行った。(レストランはいいや。うるさいような客の相手 にあきたら、台所へ入ってしまえばいいのだから)
 地下室でやるサイドビジネスって何だろうね、とわたしたちは話し合った。店主は「サイドビジネス」といったけど、サイドビジネスというのは本業があって の副業なのだから、それではヘンリーのこんどの「本業」は何だろうか。地下室の「サイドビジネス」とは、この店にとっての「サイドビジネス」で、もしかし たらヘンリーにとってはそれが「本業」という情況であるのかもしれない。
 しばしの討論のすえ、わたしたちはヘンリーの新しい仕事は食事のあとで必ず出される「フォーチュン・クッキー」の中に入っている「フォーチュン」の文章 を作ることである、と結論した。
「フォーチュン・クッキー」は、なぜか、アメリカの中国料理店でしか出てこないものだが、甘いせんべいがふっくらとした花のように作ってあって、それを割 ると中から一枚の紙片がハラリと出てきて、それに運勢判断が書いてある。パリッとその甘いせんべいを割って、紙片の文句を読むと、たいていのお客は「ほん とうだなあ、正しいよ、この運勢判断のメッセージは」という。紙片には「良い友こそ最高の資産。友を大切にすれば、成功します」とか、「長いあいだのあな たの望み、いよいよかないます。ただし慎重が第一」とか、「毎日、必ず朝がくるごとく、あなたの人生にも必ず日が照るのです」とか、「チャンスを見て取る 能力こそ、成功の決定的要素」などと正しいことが書いてあることからだ。

 その後、わたしは夫とイサカというニューヨーク州北部の人口二万六千という小さな町へ引越した。大学が二つあるきりで、あとは農業と、「イサ カ鉄砲会社」というおそろしい工場がある程度の小さな町である。ある冬の日曜日、久しぶりの上天気になったので、町へ出て行って「遊ぼう」「金を使うのも きょうはありで」ということになったが、いざ出かけたら、雪のあとの泥ですっかり汚れた自動車を「エクソン」のガソリンスタンドで二ドル払って洗車しても らうこと以外に、どうしてもすることが思いつかなかった、というような小さな町なのである。
 そのイサカで、わたしたちは「北京」という中国料理店へ行く。食べては、パリっと運勢判断せんべいを割って紙片を取り出し、「ああ、正しいや」といって 暮らしている。ところで、先週、予定していたわけでもないのに、ふと「北京」へ行くことにして、そしていつもの通り、食べ終わってせんべいを割って、運勢 判断を読むと、これがなかなか難しくて、二度三度読まないと意味がよくわからない。いわく、「退屈な人物は誰も彼をも退屈させ疲れさすものだが、彼自身は 例外である」とか、「一ドルはそれが与える喜びの重さに比例した値打ちしかない」とか。
 これはヘンリーにちがいない。彼にはかくのごとき哲学的なおもむきがあった。マンハッタンのイーストリバーに近いチャイナタウンのあの「金疆」料理店の 地下室で、ヘンリーがこれらの運勢判断せんべいの文句を考えているのだ。「金疆」料理店そのものが地下室であるのだから、その地下室とは、日の光のいっさ い入らぬ地下二階というわけである。ヘンリーの運勢判断せんべいは、運勢判断というより、「ことわざ」である。「ことわざ」とはふつう長い歴史の経験など を通して、人々が集団的に発想し結論した知恵をいうものだが、ヘンリーは日もささぬ地下二階で、独力で「ことわざを製造しているのである。一日いくつ考え たら、それは商売として成り立つのだろうか。サイドビジネスとは呼べない、さびしく創造力のいる仕事である。
 だが、その彼の暗い地下室での哲学的たたかいの結晶は、それぞれ1.5センチ×1.5センチの紙片に印刷されて、花のような形のせんべいの中にひそみ、 アメリカ中の中国料理店に運ばれる。中国料理店が一軒もない都市というのは、広いアメリカの中でもまれだから、マンハッタン島から出発するヘンリーの運勢 判断せんべいは、やがて、アメリカの都市を蜘蛛の巣のようにおおうぞ。「ウェイターをやる身分じゃないのだ」といっていたヘンリーは、そのようにして新し い道をみつけたのだったか。
 それにしても、ヘンリーの最近の作品はさえている。先日のわたしの運勢判断せんべいに入っていた札には、「過日あなたが受け取った運勢判断せんべいの札 にあった言葉を、無視せよ」とあった。


4 夢

 エリ・ヴィーゼルの「今日のあるユダヤ人」を読んで、それから武田百合子さんの「富士日記」を読んで眠ったら、富士で百合子さんとヴィーゼルがなぜか一 緒に暮している夢を見てしまった。夢のことを研究する科学者たちは、夢を見る時間というのは、きわめて短い、ほんの一瞬であるというが、その夢はえんえん と続く長い夢だった。夢の中の百合子さんはなんとなくとてもきちんとした感じがして、わたしは肩身のせまい気持になった。夢の中のヴィーゼルはいつものよ うにユーモラスとしんしんとした悲しみをその目にたたえていて、やはり生きながら幽霊になったような感じがしたが、彼は破れた足袋をはいて、たたみの部屋 をほうきで掃いていた。寝坊して起きてきた私に「きみは音楽はどのような方法で聴くのか」とたずねた。「コンサートとレコードで聴きます」とわたしは答え て雨戸を開けた。わたしはヴィーゼルを傷つけるような言葉をうっかり口にしてしまうのではないかととてもびくびくしながら、そこにいた。


5 熱い日のおとむらい

 二十歳の女性が恋人に拳銃で胸を撃たれて死んだ。撃たれたのは安酒場の前で、救急車で聖ルカ病院に着いたときには、もう息た えていた。二度撃たれ、弾丸は乳房に穴を開けた。彼女はイヴォンヌ・スコットという名で、イヴォンヌを撃ったのは五十歳になる年上の恋人だった。恋人には 妻子がいて、イヴォンヌがその恋人との仲をあまりに真剣に考えはじめたので、男はうるさくなって二発の銃弾を放った、ということだった。イヴォンヌが「あ んたの奥さんに電話して、離婚してほしいというつもりだから」といったので、男はそんな面倒なことはかなわん、といって、バーの前に車を停めて待ち伏せし たということだった。
 イヴォンヌが射殺された話をしてくれたのは、マティ・ラリイという黒人の女性だった。マティ・ラリイはウィスコンシン州ラシーヌのひとで、私が彼女には じめて会ったのは五年ほど前のことになる。マティは白人家庭の掃除をすることを仕事にしている。
 マティがきているときは、すぐわかる。扉を開けて家に入ると、マティの歌うゴスペル・ソングが聞こえる。マティは今年五十歳になった。
 黒人の女性の経験について少し知りたいと考えていたので、私はラシーヌへ行き、何人かの女性にインタヴューさせてもらった。そのとき、マティにも、よ かったら話を聞かせてほしいと頼んだ。マティはいつもラシーヌの黒人の住んでいる区域の犯罪の話をしている。恐ろしいことだと、いつも色々な話をきかせて くれる。健康なからだをもちながら働きもせず、インチキして福祉手当て受取ってる連中はほんとにいやだ。といつもいう。彼女は糖尿病に苦しみながら、働い ている。ビニールの袋に薬をたくさん入れて、持ち歩いている。
 私が話を聞かせてと依頼したとき、マティはなぜか私が黒人街の犯罪の話をしてくれといっているのだと思って、「いいわよ。私のする話が、若い人たちが犯 罪者になるのを防ぐ効果があるかもしれないものね、そのためなら、喜んで話してあげる」といった。私が聞きたいのは、彼女自身の生い立ちと体験なのだが、 といって説明すると、「わかった。それでもいい」といった。
 約束の日の二日前に、イヴォンヌ・スコットが恋人に拳銃で撃たれて死んだ。マティはそのことに大変な衝撃を受けていて、私の顔を見ると、すぐその話をし た。
 そしてその日の午後、教会でお葬式があるから一緒に行こう、といった。「男をあやつることをどこかで習いおぼえた小娘の死は、遺族を当惑させてる。遺族 は私の主人の親戚だから、私は顔を会わせたくないの。いうべき言葉もないものね」。マティは、小娘が男を手玉にとった、そして男が娘を処理した、それはむ ごく恐ろしいことだが、当然の報いでもある、と考えている面があるようだった。
 約束の時間に、私は車を運転して教えてもらった所番地を探していた。あれ、通り越してしまったかな、と思ったとたん、背後でクラクションが鳴るのが聞こ えた。なんだろう、とバックミラーを覗くと、そこにはマティの車が写っていて、マティのサングラスの顔も見えた。ハンドルの向こうで、おまえは通り過ぎた ぞと知らせるジェスチャアをしている。信号のところで、マティは私の左側に車をつけて、「ついてきなさい!」といった。
 それは七月中旬の蒸し暑い日だった。陽は照りつけるというより、重い空気をジリジリと熱して、大気は赤茶けていた。脂肪のような汗は乾くこともなく、膜 のように人々の全身を覆い包んでいた。
 教会の裏手にマティと私は車を止めて、教会の入口に向かって歩き出した。マティがその右腕を私の左腕に鉄のような力をこめて絡らませる。これから目のあ たりにする、あまりにも痛ましいおとむらいの光景から私を少しでもかばおうとしてくれているのか、それとも私にそうやってつかまることで、教会に入って行 く勇気をふるい起こそうとしているのか、わからなかった。おそらくその両方だったのだろう。マティの腕から伝わってくる張りつめた神経の音波が私のからだ に入って行った。私はかすかに震えていた。
 階段を昇って食堂に入ると、食堂の中は参列者で埋まっていた。人々は団扇をハタハタと使っていた。最後部の椅子に腰を下したマティと私に、誰かが二枚の 団扇をくれた。団扇の表には、ジョン・ケネディとロバート・ケネディとマーティン・ルーサー・キング牧師の顔写真が印刷してあって、「自由のためにたたか い斃れた三人のアメリカ人」と書いてあった。裏面には「カスボスキー葬儀社提供」とある。会堂の中、ケネディ兄弟とキング牧師の無数の顔が波となって、動 かぬ重く熱い空気にひたひたと寄せる。
「柩の蓋は閉めてあるのね」とマティが囁いた。若い女性が賛美歌を独唱していた。啜り泣いている。賛美歌を唱う声がひとしきり高まり、会堂の鉛のような熱 気を突き刺すと、鋭い叫び声を上げて、白いドレスの女性が立ち上った。
「イヴォンヌの伯母さんよ」とマティがいった。白いドレスの女性はその両眼を固く閉ざし、左右に揺れていた。若い男たちが数人駆け寄り、団扇を激しく動か し、坐らせた。やがて賛美歌の独唱の声はその豊饒と悲痛を道連れにしてクライマックスに達し、止まった。プログラムにある通り、牧師の説教がはじまると、 先程のイヴォンヌの伯母さんがふたたび叫び声を上げ、続けて大声で語りはじめた。彼女の声は牧師の説教を翔び越えて、直接神に向けられていた。
「このようなことがあってよい筈はありません。なぜ、あなたはこのようなことを許したのです」と。
 牧師はそれを無視して説教を続ける。彼の声とイヴォンヌの伯母さんの声が奇妙な二重唱のように響き続けた。と、ふと、一瞬の沈黙があって、そして伯母さ んの白いドレスの姿が音もなく崩れた。「気絶した」とマティがいった。喉の痛むような声でいった。
 またしても若い男たちが数人駆け寄り、パタパタとさかんに団扇を動かした。やがて白いドレスの失神した肉体は抱き上げられて、教会の外へ運ばれた。間も なく、救急車のサイレンが近づく音が聞こえてきた。
 そのあとにも、何人もの女性が気絶した。牧師が人間の道徳の腐敗と罪と悪について語りはじめると、一人の若い女性が耳を覆い、叫び声を上げた。サイレン のように、叫ぶ声は途切れずに響き渡った。「イヴォンヌの姉さんよ」とマティがいった。玉のような汗を浮かべて、小さく震えていた。
 救急車の音があとからあとから。
 ふつう、教会を出て墓地へ向う前に、参列者は柩のなきがらに最後のお別れをいう。けれども、その日は、遺族の希望により蓋は閉じたままにしておく、と牧 師が告げた。すると、前の方で叫び声がして、「それはだめ!」といった。「イヴォンヌの妹よ」とマティがいった。「あの娘は葬式のために特別に、昨晩刑務 所から出してもらったの。まだ姉さんの姿を見てないの。麻薬で入ってる」
 妹がせがむので牧師はついに負け、それでは近親者にだけ、といって柩の蓋を開けた。姉と対面した妹ははげしく泣いた。「なぜ? なぜ? なぜ?」と泣き 続けた。「もう閉めます」という牧師の声に、葬儀社の者が蓋を閉め、参列者の中には出口に向う者もいた。妹は泣き続けた。無惨な死で姉を喪った過去のすべ ての妹たちの声がそこに集まったかのようなはげしさと底無しの無念を表わして、妹は泣いていた。
 会堂の空気は茶に染まり、燃えるよう。私は自分の眼がつぶれるように錯覚した。紗幕で遮えぎられたような視界で、声をすでに失った褐色の妹が落葉のよう にはらりと、音もなく倒れた。幻覚のように。

 参列者の車に葬儀社の係員が「葬儀」と染めぬいた小さな旗を立てる。その小振りの旗を風に鳴らして、葬列の車たちが墓地に向かう。旗の威力 で、信号が赤でも停まらないでよい。それだけがこの車の行進をはかない凱旋行進のように見せかけている。
 墓地にはすでに穴が穿たれていた。花輪が並べてあった。女たちの失神も続いた。マティが「もう、いやだ」と一言いった。そばにいたマティの女友達が「お 葬式が長すぎるのよ。教会で悲しい歌を歌いすぎたのよ」といった。
 そのあとミルウォーキーに向かうことになっていた私に向かって、マティとその女友達はハイウェイ九四号線に乗るところまで案内してあげようといった。マ ティはマティの車を運転し、その女友達は彼女自身の車を運転し、そのあとを姑から借りた車を運転する私がついて走った。九四号線に乗る入口はずいぶん遠く て、三台つながっている私たちは四十分も一緒だっただろうか。三人の女たちの葬列のようだった。それぞれさまざまな思いを抱えて、それぞれの車を運転しつ つ、連らなって走った。夕暮れが近づいていた。九四号線の入口までくると、彼女ら二人は右手に寄り、緊急駐車線に車を停めて、私が走り過ぎるのを待った。 「アリガトオオオオウー」という意味で、私はクラクションを軽く鳴らした。「ドウイタシマシテエエエエー」という意味で二人も軽く鳴らした。それから私は 「つらいおとむらいでした」という意味で、けたたましく鳴らした。二人も「そう、つらいおとむらいでした」という意味で、けたたましく、しつこく鳴らし た。二人も「そう、つらいおとむらいでした」と、はげしく、けたたましく鳴らした。クローバーの葉の形のランプを走りながら、私はまだ鳴らしていた。会っ たこともない二十歳の女性の、撃ちぬかれた褐色の胸を思い、鳴らし続けた。そのような生の終りかたをどう考えたらよいのかわからず鳴らしていた。それが、 会ったことすらない二十歳の娘に向けた、私自身のおとむらいの歌ででもあるかのように。



編集後記

暑さのためか仕事がおくれ、いまは八月三日の午後五時四十分――カラワンのはじめてのコンサート直前、渋谷ユーロスペースのロビーで後記をかいている。
小生のそばでカラワンのスラチャイとモンコンが、持参したレコード「ブラックスミス」のジャケット(なにも印刷されてないのだ)に、マジックペンで絵をか いている。小室等さんや水牛楽団の連中はメシを食いにいってしまった。呑気な人たちだ。当日券がほしいという客が、もう何人も来ているのに。
アジア民衆演劇会議(AFT)に出席するためタイからやってきたターさんがやってきた。
つづいて田川律さん。かれはAFTのコック長として、八月の三週間、毎日三回、五十人の参加者の食事をつくりつづけたのだ。藤本和子さんのはじめの文章に 出てくる田川さんは、もちろんこの律さんのこと。きょうは売店のオジサン役。きみの多忙の夏、なかなか終らんねえ。
さて、そろそろ六時。開場の時間がせまる。コンサートの成功を!




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