人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1983年11月号 通巻53号
          
入力 舞絹


古屋能子さん追悼号
 略歴――古屋能子
 当世風呂屋風景
   1 長いまつ毛のかの女
   2 ある夜のできごと
   3 制服のはなし
   4 万世一系のはなし
   5 つやちゃん
   6 「金髪」・アイパーの女
   7 真夜中のサロン
   8 つま先きの女
   9 ミョウヤク萬金湯
 水牛楽団のページ
 編集後記



略歴――古屋能子


一九二〇年(大正九年)七月二十九日、山梨県北巨摩郡長坂町の禅宗の名刹、龍岸寺の次女として生まれる。幼児より、農村社会における差別の重構造を見つめ て成長した。

四四年五月、満蒙開拓青少年義勇軍の慰問のため、「五族協和、親善使節」に山梨県代表興亜部長として加わって中国に渡り、朝鮮人部隊と起居を共にするなど の経験を通じて次第に反戦の思想を自らのものにしていく。

敗戦後の一九四五年、哲学者の古屋千有氏(現芝浦工業大学講師)と結婚。二児をもうける。四七年、日本共産党に入党、以後、一貫して反戦平和の立場に立っ て活動することとなる。五一年に党の路線に疑問を抱き離党。

六〇年安保の際は育ち盛りの二人の息子に米をいって茶袋に入れて持たせ、安保反対の運動に飛びこんだという。

六五年以降「べ平連」運動に参加、六八年「新宿ベ平連」を結成、地下鉄の駅などで、ベトナムに医療品を送る「平和の船」へのカンパの募金活動をし、時には 官憲の妨害をはねのけて街頭の活動を続け、「新宿の反戦おばさん」として人びとに親しまれる。

六八年八月十六日、沖縄嘉手納基地で坐り込みを行ない、米軍に逮捕、連行される。その後、しばしば沖縄と往復、沖縄からの帰途、身分証明書の提示(当時は このようなことが要求された)を拒否して上陸を闘う。以来しばしば、沖縄問題の行動と連帯、また出入国管理法に抗議する中国青年の行動に連帯する坐り込み や、ハンストなどを行なう。

七五年には「日韓関係と沖縄問題を考える会」を結成、若い人びととともに学習や実践活動をおこなう。

七七年から「三里塚廃港宣言の会」の世話人としても活躍、付近の団地で三里塚の野菜の販売なども行ない、また、「三里塚管制塔裁判を勝利させる会」の世話 人もつとめる。

一九八〇年十二月「日本はこれでいいのか市民連合」の結成に参加、のち世話人となる。一九八一年以来「戦争への道を許さない女たちの連絡会」においても熱 心に活動をつづける。
 八二年四月以来、一年にわたって、参議院選挙制度改悪の反対運動にも加わる。またこの間、八一年には、朝鮮民民主主義人民共和国への文化使節団「日本市 民八人の会」を結団、団長として同国を訪問した

たえず無私の心で反戦運動を続け、さまざまな市民運動の共同行動や協力が円滑にゆくために、なくてはならない存在として、その私心のない努力は信頼され た。

一九八三年六月十九日、代々木公園で行われた「今こそ中曽根を沈めよう!」の四千人の集会とデモに参加した直後の六月二十二日下血、身体の不調を訴え、二 十四日には藤沢市辻堂の「湘南中央病院」に入院。入院中も周囲に反戦平和を説いてやまなかった。病名は肝硬変による食道静脈瘤破裂。二十七日午後、大量の 吐血があり、同病院の職員、新宿区職労、日市連のみなさんをはじめ、ご子息同僚の方がたの献血をえて、大淵医師の努力で大手術に成功、八月にはたいそう元 気になる。
八月末から大量輸血の後遺症があらわれたが、約一ヵ月でのりきれるものと期待されていた。しかし、九月になってから、元気をなくし、食欲もなく、輸液の点 滴による療養となり、一日中、横臥の生活となる。
十月十五日早朝、喉に啖がつまり、自力で吐きだす力がなく、急性呼吸困難におちいり、大淵医師らが蘇生術をつくされたが、六時三十五分に逝去された。(六 十三歳)
「いつも、妻であり、母であり、人間であって、そうして反戦のために闘った。」これは、古屋さん自身のあらわした一文の中の句だが、まさにそのことを実践 する中で、年配の人びとからも、若い人びとからも、心から敬愛された。

神山茂夫氏との共著『海洋汚染―人類死滅のプログラム』(1973年、三一新書)、本多勝一氏らとの共著『探検と冒険七』〔「わんがうまりや、ウチ ナー」〕(1972年、朝日新聞社刊)などがある。また、『サンデー毎日』書評欄のレギュラーとしても筆をふるったほか、多くの文章を運動の機関紙類に書 き、最近では、「日本はこれでいいのか市民連合」編『8・15を読む・語る』(1982年、第三書館)の中に「日本の敗戦日は8・15ではなく、沖縄の陥 ちた6・23だ」の文、また同『日本はこれでいいのかな?』(1983年、第三書館)の中に「沖縄が安保そのものである」の文が収められている。

古屋能子さんの家族は、夫の古屋千有(ちあり)氏と、子息の古屋公人(きみひと)、文人(ふみひと)氏。

(この文のはじめの部分は、朝日新聞社刊の『現代人物事典』中の加地永都子氏の文から、また後半は、葬儀の際の福富節男氏の故人紹介の言葉からとったもの です)



当世風呂屋風景  古屋能子


 1 長いまつ毛のかの女

最近、新宿の繁華街の一角にある銭湯が廃業した。庶民の瞬時の息ぬきの場が、またまたなくなってしまった。寂しいことである。わたしは毎夜十二時になる と、新宿・歌舞伎町の後背地にある銭湯にいく。

ときに、それよりおくれていくと、入浴をすませたひとりふたりが脱衣場のすみにある長椅子にこしかけていて、たちどころに詰られてしまう。

「なにしてたのよ? おそいじゃないか。ホラ、その上の段の、こっちから二番目の96番に場所がとってあるよ。なかに鰺のすがた焼きをふたついれておいた から食べてよ。うちは板さんの腕がいいから、塩かげんばつぐんよ。じゃあね」という調子である。お互いに名前も、どこに住んでいるのかも知らない。話のよ うすから渋谷の小料理屋か大衆割烹で働いていることだけはわかっている。

あるとき、ながいつけまつ毛をつけたまま、じょうずに顔を洗っている女のひとがとなりにいた。わたしの小さかったころ、そおーっと、からだをたおすと、く り色のながいまつ毛をふせて“ママア”と声をだすフランス人形があった。そんなことを思いだしながら、たぶんわたしは、じぶんのからだを洗う手を休めて見 ていたのだろう。が、そのときだ、クルリとからだを斜めにしてわたしのほうを向いたかの女は「どうしたんだよう、エッ? じろじろひとの顔見やあがって さ、なんだよう、フウン、生いきなツラして、このばっかやろう!」とわたしをどなりつけた。

咄嗟のことに、まごついてしまったわたしは「綺麗だなあって感心して見ていたのよ。まるでお人形さんみたいよ、とっても、ステキよ、ステキだわあッ!」と いうと、こんどはかの女がまごついてしまったらしく、きゅうにしおらしげに小首をかしげて「そうお、わたしきれい、おくさまあ! よかったわ、うれしい わ」と、かわいい声をだした。こうしてその夜からかの女とわたしは、風呂友だちになった。

またあるときのことだ。
「あの、おねえさん、レポートってなんのことですか? ああ、そうですか。わたしもいつまでも若くないし、こんな商売(ホステス)若いうちだけだから、い まねえ、お店へでるまえにお針のお稽古しているの。こんどねぇ、専攻科(着付)へすすむんだけど、レポート二枚ださなければだめだっていうのよ。何をだす のか、何をつくればいいのか、こまっていたのよ」という。わたしがレポートの説明をしていると、いきなり、わたしの手をにぎり「先生ぇ、おねがい、書い てぇ」というのだ。しかたがないので、つぎの日「着物のうつりかわり」というのを書いてかの女にわたして以来、わたしはかの女の「先生」になってしまっ た。銭湯で会うかの女らのわたしの呼び名がおもしろい。ママさん、おばさん、おくさん、おねえさん、先生、ちょっとあの、など、さまざまである。そんなか の女らに新宿の繁華街ですれちがったり、呼びとめられたりする。それは小さなバーの入り口だったり、パチンコ屋の玉売場だったり、喫茶店のレジだったりす る。

ある夜、例によって十二時すぎていくと、まつ毛のかの女が、朋輩らしいひととふたりで、わたしのとなりにきて、背中をながしてくれた。
「こんやねえ、おもろい話きいちゃったの。子どもが生まれると、馬鹿か利巧か、すぐわかるえらいお医者さんがきたの。産婦人科の病院の院長さんよ。うちの ママのレコらしいんだけど(とかの女は親指をたてた)、その先生の病院で、のっぺらぼうが産まれた、っていうのよ。それ、でくのぼうのことでしょう。要す るに馬鹿のことよね。産まれてすぐに利巧か馬鹿かがわかるなんて、すごーくえらいお医者さんよね。だから、どうしてわかるかきいてみたのよ。もしもよ、わ たしに赤ん坊が産まれてよ、すぐそういうことがわかれば、こう(手ぬぐいを絞るようにして)殺っちまえばいいでしょう。わたしたちがそういう話しをすると さあ、ウー先生は、こんなこと他人にいっちゃあいけないよっていうから、“殺人罪”になるからいわないわ、っていうと、“のっぺらぼうが産まれた”ことだ よ、っていうのよ」と身ぶり手ぶり、つけまつ毛をパチパチさせながらたのしそうに話すのをきていて、わたしは背中がぞくぞくっとした。

そこでわたしは、ウー先生のいうのっぺらぼうの赤ん坊とは、目も鼻も口もない、化けもののような赤ん坊のことだろう、という話をした。それから、カネミ油 症(PCB)のことや、原爆症(放射能汚染)のことや、水俣病やイタイイタイ病や明治時代にもあった谷中村の鉱毒のことなど、馬鹿ていねいに、わかりやす く話した。びっくりしたような顔つきで、わたしの口元をみつめていたまつ毛のかの女は、まぶたを引っぱるようにしてつけまつ毛をはずして、かわいい小さな 目をパチパチしながら、いっしょうけんめいきいていた。わたしが、ウー先生は、どこのなんていう病院の院長さんなのか、をたずねた。すると、ふたりは顔を 見合わせて、だまってしまった。「いってはいけないよ」と念をおされたことを思いだしたのだろう。そのつぎの夜のことだ。この女の仲間は四人にふえた。わ たしがいくと、かの女らは申し合わせたように、「わたしたち赤ん坊産まないことにしたの」とか、「すずちゃんは、結婚する彼がいるんだけど、あきらめるん だって……」とみんな真剣な顔つきなのだ。わたしは、かの女らが納得するまで、いろいろな例をあげて、公害の話をする羽目になった。結婚は、あきらめない ほうがいいし、赤ん坊もほしかったら産んだほうがいい、という話をしたり、公害をみんなでなくすようにすることにまで話はすすんだ。それからしばらくし て、ある夜、まつ毛のかの女が「あのう」といいにくそうな顔をしていった。

「あんときの、あののっぺらぼうお話ね、ウー先生酔っていらしたから、ついつまらないこといったけど、あれはみんなウソだから、だれにも、ぜったいにいっ ちゃあいけないって、みんなにご飯ごちそうしてくれたの。それより、ひとつ困ったことができちゃったの。ママが怒っちゃったの。酔ったいきおいでいったウ ソを本気にして、おおさわぎしたりするから、ウー先生、もうお店にこないだろう、っていうの。先生はうちのお店のいちばんのお客さんだからね。わたしたち クビになるかもね。だけど安心しておばさん、わたしたちおばさんのいったことのほうが、ほんとうのことだって、わかっちゃったから……」

まもなくして、かの女らは銭湯に顔をみせなくなった。
わたしは、歌舞伎町をとおるたびに、きょろきょろきょときょとしながら、まつ毛のかの女たちをさがしているのだが。

 2 ある夜のできごと

新宿駅から北へ向かって十数分。歌舞伎町・コマ劇場から五、六分のところにその湯屋は建っている。夜の十二時ごろになると、店をしまったやとわ れママ、ホステス、ウェートレス、お運びさん(座敷まで料理を運ぶが酌をしないひと)、お帳場さんたちが、思い思いの格好でやってくる。つい、二、三か月 まえまでは、夜中の一時ごろになると、混み合って、洗い桶を持ってうろちょろして、じぶんの洗い場所をさがすほどだったが、このごろはそんなこともなく なった。こういう界隈にも不景気風が吹いてきたらしい。「どこかいいくちないかねぇ」とか「わたしィ、ホントに商売替えしたくなったよ」とかいう声がちら りほらりとする。かの女らの大半はひとりものである。一度は結婚したり、同棲したり、男にだまされたりの経験者が多い。概してかの女らはしっかりものだ。 世間で考えているように華やかではないし、週刊誌などが書きたてるほど隠微でもない。たしかに貪欲であったり、いうなれば肉欲の世界でもまれているが、そ ういうなかで生きている人間の強靭さをもっている。週刊誌などに登場するようなひとたちは、大きな店のナンバースリー以内にはいるもので、たいがい浴室つ きのマンションに住んでいたり、旦那もちで、こういう湯屋にはこない。

わたしは、この湯屋のある夜のできごとを書こうとおもう。ある夜、と、ことわって書くことには、それなりの理由がある。それは、毎夜のように、それに似た りよったりのことがあるからだ。この八月二十三日夜十二時半ごろのことだ。

そのとき、松ちゃんはタイルの上にペタリと尻をおろして、足の裏のかたくなったところを、安全カミソリで削っていた。
「あんた、ダメよ、タイルにペタリと尻をおろしちゃあ。いつもいっているでしょう」とわたしは、かの女のとなりに洗い場所をさだめた。かの女はちらっとわ たしを見ると、ひょこんと腰を上げ、ひたとわたしを見た。
「ね、ね、ね、きょうは疲れたでしょう。早くお湯につかってきなよ」とうながす。

わたしはかの女のいうとおりに、いそいで湯にはいる。すると、こんどは、早くでてこいというように、ちかごろ、この時間にはいるひとのあいだに流行ってい る亀の子タワシを持って、手招きしている。
「きょうさあ、あんなかにいたんでしょう? ひどいなあ、おねえさんてば、どうしてあっちにかくすの? デモやってたんでしょう。石川さんて青年のデモ よ。きょうさあ、わが家(といっても木造アパートの一室)の前のみちに昼間のうちから警察のくるまが何台もきてさあ、機動隊がいっぱいきたの。そしたら夕 方から、デモ隊がいっぱいきたのよ。おねえさん、あんなかにいたでしょう」
「わたしィ、行かれなかったのよ」
「おねえさん、いつもいろんなこと話してくれるじゃん。きょうみたいのときには、イのいちばんさきに行ってるとおもっていたさあ。ねえちゃん肩もむのやめ るよお」とかの女の批判は手きびしい。
「じゃあ、こうしようよ。あんたは行かないでいいからさ、お客さんのお相手しながら、さっきわたしに言ったように、きょうさあ、わが家の前にさあって、話 をもちかけるのよ、そうしたらねえ、相手の反応をみながら、この間わたしが貸してあげた本に書いてあったことが、ほんとうだと思ったら、石川一雄さんは、 どう考えても無実の罪よねと、ぽつりぽつりと話すのよ。そしたら、わたしはあんたのぶんを、そとでがんばってくることにするわ」
「そうだねえ、そういう寸法でいこうよ」と、亀の子タワシで、背中を洗ってくれた。最後に熱いタオルを肩にかけてもんでくれ、ポンポンと肩をたたいてくれ た。

かの女があがっていったあとにはいってきた千代子は、「ずるーい、洗ってもらっちゃったんでしょう。もう一回わたし洗うよ、もっとていねいにね」
「よしてよ、そんな、背中のカワむけちゃうよ。そんなことしたら、それに、あのひとにわるいじゃない!」
「あのひとが洋服着て、そとへ出ていってから洗うからいいわよ」
「ほんとにもうたくさん、それよりあなたの洗うから向こう向いた、向いた」
「ねぇ、ちょっときいてちょうだいよ。こんやきたお客が話していたことだけど、あのさあ、政府がさあ、デノミってことをするんだって。そういうことになっ たら、お金なんかいくらあっても役にたたなくなるから、いまのうちにじゃかすか使っちまったほうがとくだっていうの。一万円も、百円の価値になっちまうん だって。わたし、一所懸命働いて損しちゃったわ。わたし、くやしいの。わたしをだました男を見返してやろうと、これまでがんばってきたんだよう。お茶やさ んになるつもりだったのよ。そしたら、ママに玉露のうんとうまいのをあげるつもりだったのに……」ときゅうに絞るような声で泣き出した。

そんなことを話していたときである。湯屋のねえさんが、ズボンをたくしあげて、洗い場に大股ではいってきて、隅っこのほうで、ぽつんと、ひとりでからだを 洗っている白髪のおばあさんに何か大声でどなっている。おばあさんは、下を向いて、いまにも泣き出しそうにして、タイルに頭をすりつけてあやまっているよ うすである。

その時である。まるまる太っているから通称まるちゃんといわれる小料理屋のお運びさんが、からだを横にふりふり脱衣場に出ていった。
「よう、おかみさん、あんた、いいねえちゃんに働いてもらっているねえ、あのばあさんはだよ、息子夫婦のところへ遊びにきたひとさ。嫁に気がねで、洗って もらえなかったパンツの一枚や二枚洗ったって、どうってこたあねえだろうさ。ほら、ようく湯舟のなかみてみい。みんな本物ずばりつけているじゃあないの。 告げ口する馬鹿女もいると思えば、公衆の面前で、あのいなかのばあさんに恥をかかせるねえちゃんもいるってわけかよう。あとで、こっそり、いうって、手も あるでよ」そういって伝法肌のかの女は、ゆうゆうと湯殿へ引き上げてきた。これがその夜の湯屋のひとこまである。

 3 制服のはなし

新宿西大久保職安通りに向かって“ちょいと横丁”を左に数メートルのところにその湯屋はある。
「ちょっちょっと、おねえさん、お茶でも……」と、おんなとみれば、年やすがたにかんけいなく声を掛けてくる男たち(これもまた千差万別、青年から老人ま で、一見りゅうとした身なりの紳士から労務者風の男まで)。
「ねえエ、ちょいとー おにいさあん、いっしょにお食事でもいかがアー」と低音でささやきかける、毛皮もどきのコートにすっぽりと喉仏をかくし、ブーツを 擦り合わせるようにしゃなりしゃなりと歩いているひと。

“ちょいと横丁”とは、わたしがひとに、この通りを説明するときにつかうのだが、金曜日、土曜日の夜の十一時すぎると、この湯屋と、その前に数軒ならんで いるおにぎりや、とんかつや、ラーメンや、焼肉やなどの仄ぐらい店灯以外は、ネオンの灯はばったりと消えてしまう。「いらっしゃいませ」「お気軽にどう ぞ」の看板文字もぜんぶ消えて、真っ暗になる。この種の旅館とかモーテルは、満室になると灯を消すということになっているのだ。

わたしは、いつも夜十二時になると、洗面道具をかかえて、この通りを湯屋へといそぐ。その時刻には、ママさん、お運びさん、お帳場さん、お給仕さん、踊り 子さんなど、夜の商売のひとが多い。

きのう(一月十一日)の夜のことである。いつもわたしの背中を亀の子タワシでこすって、熱いタオルを肩にかけてもんでくれるかの女は、わたしが入り口の戸 を開けてはいっていくと、もう湯上りで、みずみずしい艶っぽい肌をタオルでふいていた。

かの女はわたしを見ると、きゅうに顔をこわばらせて、さも不満そうに「なによう、おそいじゃないの」と尻あがりの声で、なげつけるようにいった。
「そうでもないでしょ。いつもとおんなじくらいの時間よ。ホラ、時計をみてごらん」と、男湯と女湯の境目のところにある時計を見上げた。
「ホント、ホントだ。いまねえ、あんなかで(かの女は下あごをしゃくるように湯どののほうに向けた)ね、あの話でもちきりだったんだよ。ほら、さぁあ、警 官の暴行人殺しジ・ケ・ン、のことよ」と、湯上がりタオルをからだに巻きつけたまま、立て続けにしゃべりはじめた。
「わたしなんかさあ、さっきお店の帰りによ、前のほうをコン棒(警棒のことをかの女はそういった)を片手でグルグル振り回しながら歩いていくのを見て、な んだか、変にこわくなって、あそこんとこの道を(といってもどこの道だかさっぱりわからない)大まわりしてにげてきたのよ。ふつうだったら、あの西大久保 公園の暗いところに、おまわりさんでもいると、ホッとするもんじゃん。ところが今夜だけは、べつだったんだ。それになによ、なぜ、あのコン棒をあんなに振 り回すんだろうねぇ。じぶんらに弱みがあるから、無理矢理おどしつけてんだよねぇ。あたしゃあねぇ、こういうことがあると、世のなかのおまわりは、もっと もっと、ひどくなるような気がしてきたんさあ。虎のなんとかの狐ってゆうこととちがうかねぇ。とにかくさあ、あの優子ちゃんっていう学生さん、かわいそう だよねぇ。腹が立って腹が立って、しょがないのよォ……」と、かの女は、目にいっぱい涙をためて、からだに巻いていたタオルをはずして、顔におしあてて、 「ほんとにくやしいよねえ、あれがさあ、あたしらみたいな、おんなだったら、殺されなかったとおもうのよ。あたしにも、それにちかいようなことあったも の。おねえさん(わたしのこと)ゴメンね。寒いでしょう。はやく風呂にはいっておいでよ。アッ、そういえば、あたし、からだ洗ったかしら、それに、寒く なってしもうたあ。わたし、おねえさんと、もう一回風呂にはいるわ」

それまで、かの女が夢中でしゃべるのを、はれぼったい眠そうな目をしてきいていた湯屋のおねえちゃんが、突然、生き返ったように、ぎょっと目をむいて
「ダメよッ、もう一回はいるんなら、もう一回風呂代をいただきますよ」
「あったりまえよ。ただではいろうなんてさらさらおもってもいないわよ。だけどさあ、いまのおねえさんのひとこと、ひびいたわ。ママ(わたしのこと)早く はいっていらして。わたし、おもてのお好み焼きやでまっているわ」とかの女は、冷えたからだに下着をつけた。

なるほど、なかは、その話でもちきりだった。それぞれおもいおもいの格好で、
「おまわりって、わたし、大きらい、あの制服みると、ぞうっと総毛立ってくるの。わたしらなんか虫けらほどにも考えていないさ。ただで飲んだり食ったりし て、ものもいわないででていくのよ」
「しょっちゅう、戸籍調べにくるおまわり、ものすごく助平なこといって、ジロジロみるのさ、バカにしたような顔して……」
「足もガクガク、あごもガクガクするほどこわいことあったのよ」
「……酔って乱暴しようとしたんだってさ。こっちがひとりじゃなかったから、110番したらパトカーがきてつれていったんだってさ。私服だからおまわりだ か何だかしらなかったのに、つぎの日上司っていうひとがあやまりにきて、口止めに折箱をおいていったそうよ」

この風呂屋談義は当分つづきそうだ。
権威という制服をつけ、警棒を振り回し、ピストルをちらつかせ、ときには、機動隊というすがたで、その銃口は労働者のコメカミをもねらう。こんどのこと は、氷山の一角で、それもあまりにもひどい失策をおかしてきた醜行のほんの一部だろう。警視総監は、しきりに四万人余の警官の権威を、事件のあとの形ばか りのおわびで強調していた。強姦殺人警官を精神病者に仕立て、いっさいの責任のがれをもくろむ動きもすでにある。警官とは何か? 警察の権威とは何か?  こん夜も歌舞伎町をパトロールしていた警官は、なおさらに皮ジャンパーの胸を張って、いっそうひとびとを威嚇するようなすがたをしていた。



 4 万世一系のはなし

「セェンセエ(先生)さんよ、ただいまより、万世一系の、わらわ、オブさんにつかるぞよ!」
マージャンの相手をすることを糧とするかの女が、脂肪ぶとりのふたえのおなかを縦横にゆさぶるようにして、おどけた。なぜ、かの女が万世一系なのかについ て書いておこう。

このところしばらくつづいた、制服警官の女子大生屍姦事件にまつわる、あれやこれやのおしゃべりも、なんとなく下火になったある夜のこと。

事件のあったつぎの夜、「……あれがさあ、あたしらみたいなおんなだったら、殺されなかったかもよ」と、じぶんらが、どんなおんななのか、それに対して警 察とはどういうとこころなのか、制服警官とは……を瞬間的にずばりと言ってのける目をもって、わたしをドキリとさせたあいちゃんは、いつになく渋い顔つき で、鏡のなかのじぶんをじいーっと見つめるようなすがたで、化粧をおとしながら、きこえよがしに、独りごちた。
「なにさ、いい気なもんよ、おとこなんて。“ハマの酒場じゃマユミと呼ばれて、いまはなんとか、昔の名前ででているってぇッ? あっちこっち渡り歩いて、 ほかのおとこにだかれたけれど、そのたんびにあんたのこと思ってたって? そんなおんな知るかよ。そんなの糞くらえ”だって、あたしの顔のぞくのよ。わた しそんなのに見えるかねぇ。あたしゃあ、そんなんじゃないよ。だから、言ってやったのさ。あんたらおとこは、着てもくれないセーターをせっせと編んでるよ うな、おんながいいだろうけど、今どき、そんなの日本じゅう探したって、いやあしないよ、ってさ」と、あいちゃんはかなり酔っているようだ。

すると、となりで、こっそり足袋カバーを洗っていた、ついこのあいだまで、錦糸町のバーにいたが、同僚と何かあって、高円寺のキャバレーにいくようになっ た、ある宗教の信者のすず子が、
「あんたはさあ、どだい、好きそうな顔しているから、そんなこと言われんだよ。とにかく、ここの風呂や下品な話が多いよ」と言った。すず子もかなり酔って いいるらしく呂律がまわらなかった。
「なぜ、こういう話が下品なのよ。あんた、このあいだから、錦糸町は下町で下品なお客が多かったけど、さすが中央線は上品な客が多いとか言ってるけど、お とこなんてみーんなおんなじよ。何さ、きゅうに上品ぶったりしてさあ。どっちみち、あたしらを人間だと思ってやしないんだよ。ところがさ、知らぬがはな、 媚びるふりしてやってるだけよ。じつはさ、りょう妻けん母とやら教育ママさんなんかより、あたしらのほうがずうっとましなんさ。あたしらが主人でおとこら は、みんなただの客ってわけよ」

こんなこと言い合ってはいるが、ふたりはけんかをしているわけではない。いつもこんな調子で、お互いに背中のながし合いをしている。いずれにしろ、かの女 たちの話は多くはぬれごとにきまっている。だが、かの女たちは、じぶんたちのはたらきに誇りさえもっているようだ。というのは、精神的にも肉体的にも、 いっしょうけんめいに生きているからだ。
「あんた、あたしの顔みると、いつも好きそうな顔してなんていうけど、そういう話をもちかけるの、いつもあんたのほうよ。おとこの話をするのが、なぜ下品 なのさ。ホラ、そっちお向き、背中ながしてあげるよ」

そのとき、ちょろりと横やりをいれたのが、万世一系のかの女というわけだ。
「あたしゃあ、ふたばんもてつまんで、一睡もしてないよ。こん夜も帰ってからやるんだけどさあ。なんだようッ、その顔、てつまん×じゃないよ、てつまんだ よ。ゆんべから負けがこんで、ついてないのさ。このままじゃおマンマのくいあげになっちゃうよ。わたしだってマージャンより、ずうーっと男のほうが好き よ。おとこが好きだと下品かねぇ。そんなら、わたしゃ下品のゲのゲでけっこうよ、ねえェ!?」と、わたしの肩を小突いた。

こういう話に、うまくのると、このわたしは、二、三日、セェンセエ、ということになる。
「あのさあ、あなたたち、万世一系って、知ってるでしょう」
「知っておりますよ。天皇陛下のことでしょう」と、改まった口調でいう。
「あのひとは、むかしの名前は、あらひとがみっていわれていたのよ。あらひとがみってね、ほんとうは人間じゃあないんだけれど、かりに人の姿になってこの 世に現れて、日本国をおさめているんだってことだったのよ。戦争に敗けて、きゅうに人間になったってことだけれどさ、でもまた、いつ昔の名前で出てくるか もしれないってところもあるけどさ」
「それが、おとことおんなの下品な話と、どういうきあんけいにあるのさ」
「そりゃあさあ、ほんとうのところは、あなたたちやわたしが、ここにこうしているのとおなじに、あのひとのとうちゃんやかあちゃんが、おとことおんなのす ることやったからなのよ。それがなけりゃあ、万世一系なんて、いばっていられないのよ」
「そんなら、このわたしだって、万世一系ってことね。そんでさあ、あのひとたちも、やっぱりハダカで生まれて、オギャアって、ねこみたいな声だしたのよ ね。いうなれば、キセン(貴賎)の差なんて、ぜーんぜんないってわけ……」

それいらい、かの女は「万世一系」におなりにあそばしたというわけなのだ。かの女のさいきんの口ぐせは、
「てんのうのおくさんの選挙、やんないかなあ、そしたら、わたしそのおカミ(神)さんに立候補してやるんだけどなあ。当選したらぞくぞくと万世一系をつ くってやるよ。あのかた、いかにも、あのほう、お強そうだから。そうなると、日本じゅうのひとがみんな、わたしを見て、上品の上の顔して、えらいお神だっ て、あがめるよ。それまでは、マージャン、マージャン……」
「そうね、だけど、それ、よしたほうがいいわよ。動物園のオリの中のライオンみたいなものよ。つまり、見世物ってことよ。いまだって、あのひとたち、見世 物の一種よ」
「そうかなあ。そうだ、そうだ、それにきまってる」と、かの女は、おもむろに、顔をひきしめて、さも確信ありげに、なんども、なんども、うなずいた。



 5 つやちゃん

おもてのショー・ウインドーのなかに、おすし、かつどん、スパゲッティ、フルーツみつまめ、ビール、お銚子、コカコーラ、アイスクリーム、コーヒー…… と、何でも陳列してある大衆食堂のその店は、夜十一時にしまう。かの女はいそいであとかたづけをすると、その足で、まっすぐにふろやへとむかう。わたしが ゆくと、きまりきったことのように、あがり湯をからだにかけている。
「ごめんなさい、いそがしくて、いそがしすぎて、おねえさんの背中ながしてあげられないのよ」と、いつもかならずおなじことをいう。微笑したように白い歯 がのぞくのだけれど、ほとんどなんの感情もしめさない、ひややかな目をしていうのだ。

ときたま、わたしのほうが、さきになったりして、はいってくるかの女を、ちらっと、鏡のなかで、おたがいの存在がわかったりすると、かの女は、一瞬かすか になんとなくうろたえるような表情をするが、すぐにまたもとの表情にもどすと、そしらぬふりをして、わたしとおなじならびの洗い場所をきめる。背中合わせ のところなどになると、ちょっと顔を上げたとたんに、鏡のなかでばったり顔が合ってしまうからだ。わたしも、かの女のきたことなどまったく気づかないよう なふりをして、なるべく顔を合わせないように、下を向いて、かだらをあらう。

そんなとき、どちらも知り合いのだれかから「こんばんは」と声をかけられたりすると、いまはじめて、おたがいが気づいたように、「あら、いまいらっした の」という。すると、かの女は、「ごめんなさい、ぜんぜん気がつかなかったわ、ほんとは、あしたの朝はやいのよ、背中ながすのこんどにしてね」と、ほんと うにすまなそうな顔をする。

そんなかの女でも、じぶんの手ぬぐいに石けんをつけて、わざわざ出向いて、いそがしくてとか、あしたの朝はやいからともいわずに、せっせと背中をながして くれることもある。このさき、なにかのときに、じぶんがとくをすることがあるかもしれない、とおもう相手には、そのひとがいると気づくと、ほかのだれかに そのひとの背中をながされては、たいへんなことになるとでもおもうのか、じぶんのからだなど、どっちでもいいようなようすでながしたりする。少しぼけーっ と見える、ふろやのおねえさんにも、ときどき、店のお客さんからもらってきたようなものを、あげたりしているのを見かける。

たまたま、おもてで会ったりすると、かなり遠くのほうから、にこにこしながら近づいてきて「まあ! ほんとに! いつもいいものおめしになって、いいもの ばかり持っていらして、うらやましい!」と、目をみはるようなふりをする。かの女の見分けからいくと、わたしは、ひょっとしたら、何かのときに、という部 類にはいるのだろうか。

こう書いていると、なにか、ひじょうに冷たい女のようにきこえるが、何かの拍子に笑いだすと、笑いがとまらなくなって、へたりこんでしまう。かの女の源氏 名はつやちゃん。わたしがかの女を知ったのは、もう、七、八年もまえだ。その頃は、いつも小さなビンにオリーブ油を入れてきて、からだに満遍なくぬってい た。

かの女は、すぐれて色が白い。だからというわけではないが、瞳が少し茶色がかって見える。背丈がひくく、ふっくらと肉づきがいいので、ちょっと見は若そう だが、四十歳をだいぶすぎているようだ。いちどもみごもったことのないかの女の乳房は、さきがほんのりとももいろで、かっこうよくふくらみ、たいへん魅力 がある。顔もちょっと下ぶくれて、ひきしまったかたちの受けぐちで、かすかに動くていどに、白い歯をみせて、静かにものをいう。おんなのわたしがみても、 若い頃は、さぞかわいらしい美人だったろうなあとおもう。

たしか、おととしの夏の頃だったとおもうが、「ある夜、つやちゃんがねえ、担架にのせられて、救急車で病院にはこばれて、いっちゃたのよ」ということをき いた。その頃は、いまの大衆食堂ではなく、割烹料理の店ではたらいていた。わたしは、その店の店長を知っていたので、なんとなく気になり、いちど、つや ちゃんのようすをそれとなくたずねたことがあった。「つやちゃん? そんなひとはうちにはいなかったねえ。ああ、あのひとのことかなあ。あれは、あや子っ ていうひとだがね。いま病気で××病院にはいっているってことだけど、うちは、もうとっくにやめてねえ。うちにいた板さんと夫婦だったがねえ。その板とい うのが、これでねぇ(ひとさしゆびで頬っぺたをななめになでた、やくざのことだろう)、あやさんもたいへんだったようだよ」といった。

二、三か月後に、ふろやで会ったときには、すっかり元気になっていて、その頃は、ひとの顔さえ見ると「すみません、おせわになりました。すみません」とく りかえしていた。それから間もなく、まえの店と、ものの百メートルとはなれていない、いまの店ではたらくようになった。夫の板前さんもおなじ店ではたらい ている。

そのつやちゃんが、このごろ、おもいもかけぬことをいいだした。あの三月二十六日の「成田空港」の管制塔が反対派の人たちに占拠された二、三日後、ぱった りと、湯ぶねのなかで顔を合わせた、というより、わたしが湯ぶねにつかっていると、はいってきたのだ。それも真っ正面につかって「おねえさん、だいじょう ぶだったのね。三里塚ってきくと、おねえさん、だいじょうぶだったのかなあって、わたし、しんぱいで、夜も眠れないの」と、いかにも心配そうにいう。その 顔は、いつもの、ひとの顔をうかがいながらものをいうようすとちがうのだ。わたしは、おふろやさんでいろいろなひとたち、だれとでもどんなことでも話す。 何かきかれると、知っていることなら、なんでもこたえるし、そのことなら、わたしはこうおもっているのよ、とか、こうおもうわ、などという。ロッキード汚 職問題のときもそうだったし、制服警官の女子大生暴行殺人事件のときなどは、それぞれまちまち意見もわかれたり、だいぶおふろやのなかで話題になった。け れども、つやちゃんとはいままで、ついぞ、そういうことは話したことがなかった。きっと、いつの間にか、下を向いて、からだをあらいながら、きくともな く、きいていたのかもしれない。

かんがえてみれば、「成田空港」のことについては、かなりながいあいだ話題になっていた。「あんな学生たち、みんな殺っちまえばいいのに」なんていう、乱 暴な意見もあったし、「あの学生たち、ただ反対のための反対だけで、なんでもかんでも反対するけど、大学をでれば、真っ先に飛行機を利用するひとたちじゃ ないの」というようなことをいう日本共産党びいきのひともいた。わたしは、できるだけ話しのなかにはいっていっては、「わたしはこうおもうのよ」をくりか えしていた。

つやちゃんは、そのとき、ほんとうに真剣なおももちで、大きく目をひらいて真っすぐにわたしをみながら、いつものなでるような声でなく、はっきりと「テレ ビで見ていたのよ。わたし、おねえさんのいうこと、よくわかるの。わたしも百姓の子だからね。ほんとに、ほんとに、たいへんだったわねえ。ケガをしたひと もいっぱいあったね」という。ふろからあがって、帰りぎわに、下駄ばこのところで、みどり色と赤色のしまの買物袋のなかに、手を入れて、ガマぐちをとりだ して、「少しだけど、わたし、びんぼうだから、すみませんね」と、百円玉を三つわたしの掌に入れて、「カ・ン・パっていうんでしょ」といった。

おとといの夜のこと、かの女は、もうふろからあがって、ふろやの前でまっていた。
「わたしね。きのう、たいへんなことがあったの。うれしいんだか、かなしいんだか、わらっていいのか、泣いていいのか、わからなくなってしまったの」とい いながら、目にあふれる涙をためている。
「どうしてまた、そんな……」というと、「それがねぇ」というなり、かの女はとうとうがまんできなくなったらしく、両手を目にあてると、声も出さずに、な がく泣いた。
「わたしね、二十八年ぶりに弟に会ったのよ。住民登録がどうしても必要になってね。うちのひとがお勤めを変えたところがねえ、それがなければ駄目だって、 いわれたのよ。だけどさ、じつはね、わたしたち、いままで、住民票もなければ、選挙権もない、住所不定だったの。うちのひともやっとまじめになったし、ふ たりの籍いっしょにすることにしたの」と、かの女は、またもや両手を目にあてた。

「わたし、じぶんの生まれたところのところ番地も忘れてしまっていたの。それでも一所けんめい考えて、手紙をだしたの。そのなかに、店の電話番号を書いて おいたのよ。そしたら、きのう、弟だと、なのるひとから電話があってさ。名前きいたら、ミチオって名前いったのよ。そのときまで、わたし、弟の名前も忘れ ていたの。はじめ、新大久保の駅で、会おう、ということにしたけど、駅なんかより、コマ劇場の前のところがわかりいい、といったの。わたしは、こういう色 の洋服を着て、こういう買物袋を持って、コマ劇場の正面に立っているっていったのよ。弟も、ぼくは、こんなこんなような顔つきで、せえは一メートル八十セ ンチぐらいで、ネクタイはこういう柄で、なんて、いっていたけど、わたしが、うちをでてきたときは、まだ小学校へもあがっていなかったものね。三時って約 束だったけど、二時ごろから、コマ劇場の前に立っていたわ。劇場の切符売場の時計が三時になったとき、どうしようかと、足がすくみそうだった。そうした ら、革のカバンを持った立派な男のひとが、わたしのほうを、ジロジロとながめていてね、わたしのほうへにじりよってくるのよ。わたし、こわくなって、にげ だそうとしたの。そしたら、そのひとが、『姉さん! 姉さんでしょう! ぼくミチオです』っていうのよ。わたし、そのときまですっかり忘れていたけど、ネ クタイ見たら、電話でいったのと、おなじ色と柄だったのね。わたし、からだの力がぬけて、地べたへすわっちゃったの。弟はわたしの手を引っぱって『姉さ ん、さあ、しっかりして、住民登録に必要な書類もってきましたよ』って、封筒をわたしてくれたのよ。『姉さん、よかったですね。元気そうですね。ぼくたち (妹がふたり)は、姉さんは、もう、とっくのむかしに死んじゃったとおもっていました。姉さんの手紙おやじ宛になっていたけれど、おやじは、三年前になく なりましたが、そのおやじも、おふくろも、姉さんは、きっと、北海道か、どこかで生きているよ、といって、この二十八年間、朝晩かかさず、姉さんに陰膳を すえていましたよ。義兄さんもいっしょにいちどあそびにきてください。おふくろもよろこびますよ。あと一年でおふくろも八十ですからね』って、わたしの手 をにぎるのよ。まだ、見たこともないうちのひとのこと、義兄さん、っていうのよ。そいで、きのう、一日じゅうは、夢のなかにいるようで、ぼやーとしていて なにも考えられなかったけど、きょうになってから、やっと、あれはほんとうのことだってわかってきたの。そしたら、やたら泪がでてきて、きょう一日じゅう 泣いてばっかりなの。だれにも、こんなこと、いえないけど、おねえさんなら、わかってもらえるような気がして……。そのうちに、わたしの、いままでのこ と、みんな、話そうとおもっているの。きいてくださいね。弟も立派になったのよ。役所づとめだって、官吏だって、いってたけど、課長しているから、わたし のような姉がいると、迷惑かかるから、秘密にしといてね。『姉さんが、うちをでていった頃は、ほんとうに、貧乏で、ごはんも食べられないことがあったっ て、死んだおやじがよくいっていたけど、いまは家もたてかえたし、姉さん、おふくろが生きているうちに、きっときてください』ってわかれたの」

ふろやの前で、かの女の話しをきいているうちに、おもわぬ時間がたって、ふろやのおばさんが箒とちり取りを持って、おもてにでてきた。あわてるわたしの手 に、百円玉をふたつ、にぎらせて「いつかのおまけ」と、かの女は、いとも明るく、手をふって帰っていった。

わたしは、もう時間だから、だめだ、というのをやっとおねがいして、おふろにはいらせてもらったが、湯ぶねのなかにつかって、番頭さんが洗い場を、大きな たわしでゴシゴシ洗うのをながめながら、からだもあらわずに、しまいぶろからあがった。



 6 「金髪」・アイパーの女

そのとき、風呂にはいっていたひとたちは、いっせいにしゃべるのを、笑うのをやめた。

湯ぶねにつかっている女は、毛の根元から「金髪」のアイパーの頭を湯の中に突っ込んでゆすいだ。かと思うとプールか海で泳いでおかにあがるときのように、 顔を両手でぶるるっとやって湯からあがった。風呂屋の備えつけのプラスチックの洗い桶の中からブラウスのようなものを引っ張りだして、からだを洗ったり、 顔をふいている。洗い桶の中には、まだ何か得体の知れない肌色のものがはいっている(あとで、これはブラジャーとパンツだとわかった)。

この風呂屋と風呂屋周辺は、ふつうの常識ではちょっと考えられもしないことが、日常茶飯事のように起こる。だから少々のことではみんなおどろかない。だ が、この夜のことは、まったく想像を超えていた。なぜ、きゅうにシーンと黙ってしまったのか、わたしを含めて、深夜の一時すぎに風呂にはいっているひとた ちには、ピーンとくるものがあるからだ。

仕切りの向こう側(男湯)から聞こえてくるすべての音が気にかかるのだ。何か話している声のようす、聞こえてくる口笛、唸るような唄声。ほんとうは、だれ もかれも、見て見ぬふりをして、女の一部始終に目をこらしている。下を向いたり上を見たりしながら、からだを洗っているが、同じところをなん度も洗ったり している。こういうときには、話し声や笑い声はぜったいに禁物だ。思わぬとばっちりにまき込まれるかもしれないからだ。

いつもなら、風呂からあがったひととき、風呂屋のおかみさんやおねえさん、だれやかやと世間ばなしをしたり、牛乳一本ください、とお金を番台に持っていっ て、備えつけの冷蔵庫から自分で取り出したりするひとたちも「おねえさん、牛乳……」と、離れたところから、はっきりとわかるように大声でいう。わたしは 何も見なかったし知ってもいないし、告げ口もしなかった、という証拠になるからだ。こういうときに、番台のおかみさんは、「あの……お客さんがいっていた んだけど、あなたは……」といういい方で注意することがあるのをみんな知っている。番台からながめていて全部わかっている、とはけっしていわないのだ。

じつは、こういうことで、私もひどい目に遭ったことがある。ある晩のこと、風呂あがりで、いい気分で歩いていると、旅館の塀の陰から出てきた女が、いきな り、私の胸ぐらをぎゅうっと掴んだ。しかも、後ろに背の高いお兄いさんふうの男が立っている。そして、わたしの手首をもって力いっぱい捻り上げ「おい、テ メエー、風呂屋のババアに、告げ口したのはテメエだろう。おかげで、あたしゃあ、風呂を断わられたよ。エッ? テメエー」とやられた。咄嗟のことにびっく りして「なんのことだか、わかんないけど、ごめんなさいね」とあやまった。「テメエー、また、そんなことすると、ただでは、すまないよ」という。私の手首 は、かなりながいあいだ、紫色になっていたことがある。その時、私といっしょにいたふとっちょのA子は、「わたしは何もいわないよ。ひとのことつげ口する なんて……ねぇ」とその女に同情するようなふりをして、あいそをふりまいた。つぎの晩、A子は、その女の背中をせっせと流していた。しばらくたったある 晩、その女がまた、だれかを待ち伏せしているらしく、後ろに男も立っている。私は足が棒のようになった。女は私のほうへ真っすぐ近よってきた。私はもう動 けなくなった。すると、「いつかのこと、申し訳ありませんでした。犯人があがったんですよ。あん時、あんたといっしょにいた奴、どうも、くさいと思った よ。わたしゃあ、ひとのこといわない主義さ、とか、さかんにおべんちゃらやるからよ。あんたが、ごめんなさい、なんてあやまるもんだから、ついまちがっ ちゃって……」といった。

こういう界隈にいる女たちは、時々空いばりしたり、おべんちゃらもいう、ひともたぶらかしたりする。どんなに常識はずれのことをしても、必ず自分の正当性 を主張する。自分はむかしもいまも、だれよりも美人で、ひと一倍頭がいいと思っていたりする。たよりになるのは、自分だけだということも知っているし、だ から、だれにも負けまい、負けまい、負けたらおしまい(何がおしまいになるかはわからないのだが)だ、負けないためには、ひとさまは、どうだってかまやし ないと思っているようにみえる。とはいっても、そうとばかりいえないのがかの女たちである。その日その日を生き地獄のなかで生きているかの女たちは、とき には人の目をくらませたりはするが、こうやって生きることが手っとりばやくじぶんを守ることだということを身につけただけのことで、根はやさしく、涙もろ い。もっとも人間らしく、ありのままのじぶんをさらけだしているだけのことである。わたしはこういうかの女たちがすきである。

さて話が大部横にそれてしまったが、洗濯をしていた女のことだ。女は悪びれたふうもなく、洗ったものを肩のところへ差し上げるような格好であがってきた。 見ると、色白でとてもかわいい。まだ二十歳まえだろう。

風呂屋のかみさんが、例の調子で「ほかのお客さんがいってたけど、洗濯なんかしては、困りますよ」といつもより語気を強めていった。女は「洗濯なんかしま せん」という。「でも、そこに持っているものは……」とおかみさん。女は、何もきこえていないような顔つきをしている。そこへ番頭さんがきて「このバカヤ ロー、洗濯なんか、しやあがって、早くでていけ」とどなった。

女は、洗ったばかりのショートパンツとブラジャーをつけた。からだを洗っていた長袖の縞のブラウスも着た。ブラウスは裾が長くて、ちょうど尻がかくれる。
「あたし洗たくしたんじゃないよ。手ぬぐいがわりにしただけじゃない」とひとりごとのようにつぶやきながら出ていった。それから二、三日後のことだ。風呂 屋の脱衣場は、その女の話でいっぱいだ。ゆうべはタオルを持ってはいったけれど、二時半すぎても出ていかないので、パトカーを呼んで連れていかれたとい う。

その時、女は「こんな暑い晩は、風呂場ではだかでいるのが、いちばんだもの」といったということだ。
「またこん夜もいるじゃないの」と、洗い場のほうを見ながら、だれかがいった。すると、おかみさんとおねえさんが口をそろえて、「わるいことしました、と 手をついて、あやまってこられれば、こちらにとっては、みんな同じお客さんだからねぇ」といった。そしておねえさんが、親指をたてて「これもおとなしい、 りっぱなひとよ」と、とってつけたようにつけ足した。女のほうを見て、話しても、笑っても、こわくないとわかると、みんなおおっぴらなものだ。かえりに下 駄箱の前で、二、三人の女たちが、親指と人差指を丸めて「これ、これ、これよ」とひそひそ話しながら、にーっと笑ったのが印象的だったが、ふと、パトカー とお兄いさんとのつながりは、どうだろうか、と思った。



 7 真夜中のサロン

「おや、こん夜はずいぶん早いのねえ、もうあがるのお」
「べつにー、早かないですよ、おたくさんがおそいんですよ」
「ああ、そういえばそうかもね、店じまいごろに、お客さんがどおーっときたんで、洗いものがたいへんだったんだわァ」

とくべつな女(ひと)や事件(こと)ではなく、毎夜、風呂屋の板の間や洗い場で交わされるような、日常のやりとについて書こう。

女1(甘党の店で働いている。四十四、五歳、独身)「あれ、あんたずいぶん高級らしい石けん使ってんのね。ちょっと見せてよ。ワァーす ごいじゃん、アメリカ製ってあるよ」
女2(マッサージを業とする。肩幅がいかつく小ぶとり、綿入れの半てんがよく似合う農家のおかみさんふう。四季のつけものは必ずつく る。四十がらみ、独身)「そうですのよ、あたくしねえ、日本のものなんて使ったことござあませんのよ」と、きゅうに気どって、からだにシナをつくって、相 手ほのうに、しずかに向きなおって、にいっと笑う。
女1「それにしちゃあ、あんまり……」
女2「あんたァ、わたしに、いいがかりをつけようってんのね。よかったら、おもてにでてもいいんだよ」と肩をいからす。
女1「いいよ、やろうじゃないの」
女3(万世一系のマージャン師)「いいぞいいぞ! お立ち会い、行司はおいらが引き受けた。よう、そこにカミソリがあるよ、なるべく二 枚刃のほうがききめがあるよ」
女2「まあ、ゆっくり湯につかって、のんびりといこうよ。ほら、背中をこちらにお向け、舶来品できれいにしてやるよ。お互いにこの世の 垢は、よくおとしておいたほうがいいからね」 
女1「けちけちしないでたっぷりつけてよく洗っておくれよ」
女4(浅草の高級割烹で働いているという五十前後の和服がよく似合うひと。独身)「あァあ、うまあい! 酔い醒めの水がのみたいばっか りに、毎ばん酒のんでんだよお」と、石けん箱のふたに水をうけて、たてつづけに、三、四杯ごくんごくんと、のどをならしてあおり、よろめいた。
女5(渋谷、道玄坂の大衆料理屋で給仕をしている。四十四歳、独身。童顔でぽちゃぽちゃしている。妹の娘が国立大学へいっているのが何 よりのじまん。たいへんな話ずき。けっしてひとをそらさないのが特徴。女2と大の仲よし)「どのくらいのんだの」
女4「そうね、ちょっと一本ってとこ」
女5「そう、あんがいよわいのねぇ」
女4「あんたあ、まちがえないでよ。わたしの一本っていうのはねぇ、お銚子一本じゃあないのよ。一升びん一本のことよ」
女1「ウヘェ!」とこわいものでも見るような大仰なしぐさで、からだをふるわせるようにして、ひざをついて、あとじさりする。
女5「お酒は、男より女のほうがつよいのよ。あんたは、甘いものばかりたべているから、わかんないのよ、甘党も辛党もあって、世の中、 うまくできてんのよ、ね」
女3「ちょっと背中ながしてよ。タワシでごしごし、まな板を洗うように洗ってよわたしは、お上品はいやだよ。」
「いいよ、ごしごしとね。向こう向いて」
女3「そう、そう、そこをもう少し強く。やかんの底じゃあないよ。そこんとこがいちばん、感じる、ウーッ」と、腰をくねらす。
女6(バーのホステス。下ぶくれの器量よし。関西弁まじりのハスキーな声で話す。大学の国文科を卒業している。酔うと人の背中を流して 回るくせがある。妻子ある小さな工場の経営者が月に二回とまりに来る。お料理もうまいが、ケーキをつくるのが得意)「いいかげんにしないと、ぶつよ」
女3「いいじゃあないの。せっかくいい気ぶんになっているっていうのによ、みずをさす気かい。いっとくけどね、そこに二枚刃がちゃんと あるんだよ」
女6「ちょうどいいじゃないの、じゃあ、おもてで待ってるよ」

と、いったような、たあいないやりとりがきりもなくつづく。

私が万世一系さん(女3)の背中をながし終えると、女6は、私の脇へわり込んで来て、私の背中の垢すりをはじめた。そしていつになく細い声で「どうして、 あんな奴の背中ながしてやるのさ。なぜ、ヤーダヨ、っていわないの。バカだね。あの女、男のパンツはいてさ。ほら見てみい、あの格好をさあ。自分の足をお かあさんとやらに、くっつけてさあ、まるで赤ン坊の頭でも洗うように、やさしくもみもみして洗ってやってんじゃないか。それでも、自分のレズの相手に遠慮 して、背中も洗ってもらえないんだよ、でもさあ、よくひとはみてるよね。このひとなら、ぜったいにいやだって言わないってひとに背中だすんだよ。なんかき みがわるいわ。わたしなんか、そっぽを向いているから、何も言ってこないよ」と、嘲笑するような顔で、とげをふくめて言った。

万世一系さんは、まえにも書いたように、マージャンをなりわいとしている。かの女はいつも、おかあさんというひとといっしょに来る。おかあさんは五十近い 年ごろである。二十数年まえに夫を亡くした。それいらい、再婚しないでいる。そのとき三歳だった一人娘は成人して、一部上場会社の事務をとっている。万世 一系さんはその娘がうまれるまえからおかあさんの家のお手つだいをしていたということだ。万世一系さんは、ガラッパチだが、おかあさんはしとやかで、たい へんに美しいひとだ。おんなの私がこういうことをいうと、いやらしくなるので、細かい描写については省くことにするが、とても子供を産んだことがあるひと とはみえない肢体の持ち主だ。それより何より、いたについた作法をこころえた風呂へはいる所作、かざらないことば、美しい女、とはこういうひとのことをう のだろう。

こうして、じつに種々さまざまの女たちが出はいりする。それぞれにかってなことを言い合ったりはするが、それぞれにそれなりにこころえていて、他人の領分 のなかへはぜったいにはいってこない。



 8 つま先きの女

盥と金盥の中間ぐらいの大きさといっても、近ごろのひとには、さて、どのくらいの大きさか見当もつかないだろう。直径三十〜四十センチくらいを想像すれば いい。形は円いのも四角いのもある……という大きさのプラスチック製の洗面桶を最低ふたつ重ね合わせて持参する。上になったほうの桶には、石けん(身体 (ボディー)用と美顔用)、タオル、垢すり、軽石、化粧おとしクリーム、櫛、マッサージ用クリーム、化粧水(身体(ボディー)用と美顔用)、ときにはパッ ク(漂白用かシワのばし用)がはいっている。ほかに取り替え用の下着類、大きな厚手の湯上りタオル、新聞紙などを風呂敷につつんで風呂屋の暖簾をくぐる。 まずサンダルを下駄箱に入れた途端にかの女らはホステスさんや仲居さんとはべつのせかいのひととなる。あるいはしいてなるようにするのかもしれない。ここ でいうかの女らとは、ふつう主婦といわれるひとたちのことだ。たとえばかの女らにだれかが「ご職業は?」ときいたとする。かの女らは「主婦です」とたちど ころにこたえるだろう。夜働いていないひとたちで、たがいをオクサマと呼び合い、夫を主人またはおとうさんという。

この主婦専業のひとたちもいくつかに分類される。夫が香具師であっても、マルチ商法をしていても、接客業であっても、ホステスや仲居については「水商売の 女たちは……」といって別人種のようにいう。だから水商売のひとたちのおしゃべりパーティには参加しない。この種の主婦に共通しているのは、いつもおどお どしていて、まわりを気にしているように見えることだ。なかには、午後三時に風呂屋のシャッターがあがるのを待ちかまえて立っているひともいる。このひと たちのたいがいは、木造の二間続きのアパートに住んでいる。

もうひとつの型は、マンションも郊外の建売住宅もほど遠い夢だが、公団住宅の空家ならなんとかねぇ、とせっせと申込みをしているようなサラリーマン(タク シーの運転手さんもそのなかにはいる)のオクサマたちである。幼児から小学生ぐらいの子もちが多い。この主婦たちも殆ど昼間のうちに風呂屋へといそぐ。子 どもたちは、まるでハンで押したように、そろばん塾、学習塾、バレー・ピアノ・エレクトーン教室などへいっている。

もうひとつ、前二者またはホステス・仲居さんに部屋を貸している家主の主婦たちがいる。この型の主婦は、じぶんたちは日も当らない一階の一隅に住み、ほか は貸している。アパート業か貸間業のオクサマである。うち風呂もあるようだ。というのは「髪洗いだけは、ふんだんにお湯が使える銭湯がいちばんですわ ねぇ、オクサマあ」というからである。

さて主婦たちの多くは、下駄箱のところへくるとべつのせかいのひとになる。まず、足のひらで床(風呂場ではタイル)を歩かない。子どもがバレー教室へいっ ているせいかしら、つま先きで歩く。ふしぎにそのあとに続く子どももその母親をまねる。ロッカーを開いてのぞき込んで手でなでまわす(なぜ手なのか)。そ こに風呂敷包みから取り出した新聞紙を敷く、その上に脱いだ衣類を載せる、その上に湯上りタオルと着替えを置く、されにその上に風呂敷をかぶせてクルリと まとめる。

そこでいよいよ風呂場へと、つま先きで足を運ぶ。何もはいっていないほうの洗面桶を蛇口の下に置いて、たいへん汚いものでも触れるかのように、親指一本で 蛇口を押える。桶にはなみなみと湯が注がれる。じぶんがいま押えていた蛇口にその湯をかける。こんどはどうどうと手のひらで蛇口を押える。もう一方の手に 持っているいろいろなものがはいっている洗面桶を置くところへ、その湯をかける。同じところに二、三杯かけるのだが、そのたびにたったいまじぶんが押して いた蛇口にも必ず一杯かける。押しては蛇口にかけ、押しては桶を置くところにかけ……ということを二、三回くり返す。また押して蛇口にかけて、また押して やっとじぶんのからだという順序である。子ども連れはつぎに子どもだが、その逆の場合もある。じぶんたちだけはあくまでもキレイだということなのか、たっ たの一、二杯で下半身をちょっと洗う程度である。キレイずきのオクサマはなんと、どこのだれがはいったのかもしれない湯につかるために、つま先きで歩をす すめる。こういうオクサマにかぎって、おそろいでぬるい湯がすきで、やたらに水を出す。

どこの風呂屋でもおおかたそうであろうが、湯舟はふたつに分かれている。仕切りのところで湯のなかでつながっているが、一方は深くて小さくて湯が熱い(こ のほうから熱湯がでている)。もう一方は浅くて広い。子どもがはいれるようにしてあるのだろう。こちらはあまりあつくない。オクサマは深くてあついほうが すきである。といっても水をざあざあ出しっぱなしで、肩まで湯のなかにつかりながら水をだしてうめる。ぬるい湯がすきなら、浅くて大きい湯舟のほうへおは いりになればいいのにと、だれもがそう思っている。だが、白目をチラッチラッと向けるだけである。日ごろの鉄火肌もなぜかオクサマやつま先き族には弱い。 ことによったら、そのなかにじぶんも住まわしていただいている大家さんでもいるのかもしれない。じぶんもいつの日かあんなふうにひと前で、ふるまってみた いと思っているのかもしれない。

なるほど、うち風呂よりふんだんにお湯が使えるせいか、かの女らは持参の洗面おけで、湯を何十杯とかけてから上がっていく。だがそれほどキレイずきのかの 女らは、平気でパタリとタイルの上へ尻をつけて坐っていたり、出入口のところにある水虫の菌の絶好の温床の足ふきでは、踵までこすりつけてよくふく。キレ イずきなるがゆえだろうか。出入口は手を使わないで足を器用に動かしてあけたてする。

さて、ロッカーに敷いてあった新聞紙を引っぱり出して床の上にひろげていくと、踵をおろして足のひら全体で立つ。厚手の湯上がりのタオルでからだをつつん でから、片方の足をパサッと上げて大きく股を開いてお尻をふく。すぐ目の前にひとがいてもいなくても下着から衣類すべて、身に着けるまえに、両手で両端を 持ってパサッパサッと何を振り落とすのかキレイにはらってから着ける。かの女らは、そうすることで夜の商売の女とじぶんを区別しているのだろうか。そうい うかの女らを、あわれむような顔つきでじいーっと視ているホステスもいるのだが……。



 9 ミョウヤク萬金湯

正月そうそうからつまづいてころんで肋骨にヒビがはいったり、風邪をひいたり、あげくのはてに中耳炎になったりで、風呂屋をながくごぶさたしてしまった。 なん日か経ってようやく「長湯をしないこと、髪は洗わないように……」ということで医者の許可がおりた。

しばらくぶりにあう風呂屋なかまのかの女らはどんな顔をするだろうか。うごきのはげしいかの女らのせかいのことだから、このなん日かのあいだに、どこかへ いってしまったひともいるかもしれない。その日その日をいそがしく精いっぱいに働いているかの女らが、たかが風呂屋だけのつきあいのひとりが、しばらく風 呂を休んだからといって、どうってことないかもしれないのに、なんとなくかの女らのことが気にかかって、その日はたいへんながい日だった。

案のじょう、番台のおかみさんは、風呂代を受けとりながら、チラッと顔を見ただけで何もいわない。二十数年のあいだこの風呂屋にかよいつづけた。いま番台 にすわっているおかみさんになってからでも、もう十何年になる。お世辞にも「どうしました?」ぐらいのことはいいそうなものなのになんておもうのは、いま の世のなか、この界隈にはとおらないことなのだろう。とおもう。

わたしはなるべく風呂場のほうは気にしないように、見ないようにして着ているものを脱いだ。スルスルッと入口を開けてはいっていくと、いっせいに、わ あっ、と異様な声をあげられて、おったまげて笑い顔もつくれない。肌の白いの、あさ黒いの、下っ腹のでたの、ちびっこくてまるいの、からだじゅう石けんだ らけの、髪の洗いかけの、顔を真っ白くパックしたの。湯気がもうもうとたちこめているうえに、まさに度肝をぬかれ、乱視のわたしには、だれがだれだか定か ではないが、「よう! 死んだんでなかったの」「ゆうれいでないの」「ずうずうしくまだ生きてたの」「ホラ! そこのまん中の場所よ」「そこ寒いからこっ ちにしなよ」「そんなとこより、わっちのそばへおいでよ」てんでにいろんなことをいいながら洗い桶に湯を入れてくれたり、肩から湯をかけてくれる。
「あんたァ、きゅうにこなくなったから心配したよ。あんたんとこのアパートのひとにきいたらさあ、マスクして新大久保の通り歩いていたってゆうから、風邪 でもひいたんだとおもったけどさあ、こんどからさあ、風邪ひくまえに、ちゃんとみんなにことわってからひいてよ、ね」というN子ちゃん。

ウソかほんとうか、そんなこといわれると、なんだか涙がでそうになってくる。ちびっこくてまんまるいA子さんが、「さあさこっちの手からさきにアカおとし よ」とうでをひっぱる。「風呂葬でもしようかと思っていたのによう、おしいことでした。ほーらあ、つぎはそっち、右足だよ。なによう、上品ぶってさあ、そ んなとこあわててかくしてさあ。ここにいるひとみんなひとつずつもっているんだからめずらしくもないし、とりゃあしないよう」などといいながら、太ももの 内側まで洗ってくれる。「ちょっと、ちょっと、みなさあん! このアカ見てください! ボロボロ、おもいでボロボロ……。アカがボロボロ、ただいまからア カを流しますから、ここから下のひとは気いつけてお尻をあげてくださあい」なんということだろう。この風呂屋へはじめてきたひともいるだろうし、知らない 顔がいっせいにこちらを見る。ゲラゲラ、クスクス、ウァハハハ、なかには、おなかをかかえてわらいくずれているひともいる。

「そんなにアカを取っちゃうと、また風邪をひくかもよ。A子ちゃんもいいかげんにしてあしたのおたのしみにしておきよ」と、おふじさんがくちをはさむ。
「そうしようかあ、そういえばこのひとの相棒ちゃんのEちゃんがいないねえ。Eちゃんのぶんを残しておこうかあ。あのこ、あんたがこなくてさびしがって、 あっちやこっちあたりちらして、けんかばかりしていたわよ。そいでみんなにソッポむかれてさあ(きゅうに耳元へ口をよせて)あのひとあのときさあ、タンポ ンの糸はっきりぶら下げてはいるものだから、いままではみんな黙っていたのに、あんまりいわないでもいいことまでいって、突っかかったりするから、いろん なこというひとがいるからさあ、あんたがいうとあのひと、いうこときくからあしたの晩にでもあったら、いってあげなよ」という。かの女はそれをいいたくて しょうがなかったらしい。
「せいたかノッポのタカちゃんがどこかで、あんたの中耳炎のこときいてさあ、中国のおみやげにもらったっていうカンポウのミョウヤク萬金湯をお風呂屋のネ エちゃんに、あんたがきたら渡すようにあずけてあるわよ。帰りにもらっていけばあ。あっ! タカちゃんがはいってきたわよう。耳のうしろへぬるクスリのこ と、よくきいていったらいいわ」とマッサージのおフジさんがいう。
「もう、そろそろ、よっくあったまってあがったほうがいいわよ。しばらくぶりにはいってあんまり長湯すると、またぶりかえすわよ」と、なにからなにまでさ しずをするAちゃん。書きだしたらキリがない。

その夜のこと、そこにあつまった六人ときめたことひとつ。
「あんたたち、湯島じゃ、うめといっしょにさくらが咲きだしたらしいわよ。上野にもちらほらだってうちのお客さんいってたわよ。みんなでお花見に行こう よ。夜働いている身でとっても夜ざくらってワケにはいかないけど、昼間ならなんとかやりくりつくだろう。千鳥が淵ってとこがちょうどいいわよ。Eちゃんも さそって行こうよ」というわけで、ぜんぶが賛成して、いいだしっぺのA子が缶ビール、わたしがおにぎり、タカちゃんがくだもの、漬物じょうずのEちゃんが お新香ということにして、下見はわたしとEちゃんにきまった。

なんて、なんて、みんないいひとたちだろう。わたしは何をいってもそらぞらしいのであんまりしゃべらなかった。わたしがそんなときどんなにうれしいか、ど んなにことばをつくしてみても、このひとたちにはとうていわかってもらえないとしみじみと思った。


水牛楽団のぺージ


カラワン楽団が去り、水牛楽団は五周年(いまのメンバーになってから三周年)で、曲り角に立っている。

タイの「生きるための歌」、なかでもカラワン楽団の歌からはじまり、チリの「新しい歌」、ポーランドの「禁じられた歌」、韓国の地下抵抗歌をとりあげて連 帯や支援の市民運動とむすびついてやってきたこの道は、これ以上すすめないところまできてしまった。もちろん、いままでたどった道すじがまちがっていたと いうのではないが、たとえばアジアにかかわっている、その自分の姿を見つめる時がやってきたのだ。日本の社会を見ようとしてアジアや第三世界によりどころ をもとめた時期から逆転したようにみえるかもしれないが、逆方向にねじれただけでおなじラセンにはちがいない。自分の姿を見つめるといっても、内省や自己 分析ではない。アルキメデスのことばのように、テコの足場はいつでも外側にある。

近頃は水牛楽団が演奏しても座がシラけることもなくなった。くりかえしうたっていれば、それなりにうまくなっている。けっこうだが、楽団としては危機でも ある。もともとが、だれでもできそうにおもえることをやっているから、それになれてしまえば、だらしないかんじしかのこらない。

カラワン楽団と旅行していて、あらためて、かれらは自分たちの歌しかうたっていない、とおもう。メロディーはほとんど借りものなのに、ドアーズだろうが、 タイの少数民族の歌だろうが、スラチャイのことばがつくと、カラワンの音楽になってしまう。水牛楽団がとりあげたたくさんの歌のなかで、自分たちのものに なったのは、何とすくないことか。「今日は会えない」や「フジムラ・ストア」「うばわれし野に春はくるか」など、わずか数曲。そのほかは、何回やっても他 人の歌にとどまっている。いまあげた歌も、なぜそれらの歌が身についたのか、よくわからない。

カラワンをきいて、もう一つおもったのは、かれらの歌のほとんどが、たった一つのイサーンの音階、たった一つのラムウォンのリズムしかもっていないこと だ。それはかならずタイ人の心にひびいてくる音とリズムなのだ。水牛楽団の、素朴なようでくふうをこらしたアレンジ、ずれているだけにしかきこえない複雑 なリズムは、このような力をもてない。

では、水牛楽団の予感し、そこへかえってゆく音楽、すべてのはじまりでありおわりでもある音楽はどこにかくれているのか。

その姿は、すぐそこに見えている。東北アジアから北まわりにアンデス山中までつづく弧と、東南アジアから島づたいに北と南にわかれてひろがる扇の変差する 空間に、ゆめの時であるとともに日常の生活である時間に、竹や芦や木や石にきざみつけられている音、くりかえしが変化であるような不均等な一拍のリズム、 すき間のある音階、集団でつくりだす音楽のかたちと、ひとりだけでする音楽のかたち。だが、見えてはいても、そこにたどりつくことはできない。

もっているものをすてることによって根にいたることはできないのだ。禁欲によってではなく、自由によってだけ。だが、だれが自由に耐えられるのか。すくな くとも、いまの水牛楽団のできることではない。直接なにかをめざすのではなく、別なことをしながら、軌道をはずれて、いわばうしろむきに吹きよせられるこ とはできるかもしれない。それなら、きりのないかんがえにふけるのはやめて、ほかの人たちが何をしているのか、見てあるくことにしよう。水牛楽団のしごと のなかにとじこもっていても、先はしれている。

カラワンとの旅行のあと、十月と十一月は、だいたいひまだった。

十月二十九日には、ユーロスペースの主催で「ポーランドの夢」と題するコンサートを二回やった。ひさしぶりに水木陽子さんといっしょに、オルドンカのシャ ンソンや、「禁じられた歌」、それにアンナ・ブリュクナルのレパートリーもくわえて。ピアノを左に、ケーナ・ハルモニウム・ドイラを右において、二つのち がうスタイルのアレンジを配布して、楽器の数をへらし、最小限のアレンジにもどしてやると、演奏は自由になる。リズムはゆれうごき、楽譜からはなれて、即 興が息づきはじめる。

十一月はほとんど休みだった。その間に十二月三日に横浜でやるあたらしい作品「高い塔の歌」の練習をする。如月小春さんのかいてくれた五十の会話を如月さ んもいっしょに六人に分配し、その間に歌二曲、楽器演奏八曲をはさむ。如月さんの以前の作品のなかにある詩に作曲した歌以外は、それぞれが楽器をえらび、 即興するソロに、竹の打楽器でかんたんなリズムをつけるだけ。会話の方は、家庭や町でテレビで一度はきいたようなやりとりのコレクションだが、都市のなか にちらばることばと竹のひびきは、実際にはそんなに違和感がない。

一月末には、小室さんとタイにいって、カラワンの企画するユニセフ・コンサートに参加する。

(高橋悠治)



編集後記

古屋さんといっしょに新宿の町をあるいていると、いろんな人に声をかけられるのだった。コーヒー屋のマスター、デパートの店員、むかしのPTA仲間、お風 呂友だち、それにパチンコ友だちや、新宿区役所ではたらく青年たち、などなど。古屋さんは新宿ベ平連の代表だったこともあるのだし、ずっと新宿でくらして いたから、知り合いが多いのはあたり前だが、そのつき合いかたはあまりあたり前にはみえなかった。

戸山ハイツに引越すまでは、お風呂屋へ行く前によく電話がかかってきた。それが古屋さんの電話タイムだった。運動のなかにも権力のうばいあいがあり、女の 運動のなかにも男社会の理論や体質がそっくりあること、古屋さんがもっとも問題にしたことだ。お風呂屋で毎晩あう人たちに通じるようにならなけりゃ、運動 もダメだよ、といってお風呂友だちにはどんな人がいるかをしゃべる古屋さんの電話ごしの声は、彼女たちとつき合うのをたのしんでいる。

お通夜も告別式も、古屋さんにおわかれしに来た人たちで、式場はいっぱいになった。知らない人がたくさんくるんだよ、おふくろはどういうつきあいをしてた のかねえ、と古屋公人さんがつぶやいていた。

ここに載せたお風呂屋のはなしは、やがて新宿書房から出版されることになっている。これが連載されていたころからの愛読者として、また古屋さん自身、もっ とも愛着をもっていた作品であることをきいてもいたので、新宿書房と御遺族におねがいして掲載させていただいた。快諾してくださった新宿書房の村山さん、 古屋公人さん、どうもありがとう。

 編集後記の後記

ものごとは予定通りいかないのが常のようで、遠く水牛楽団コンサートにやってきた羽昨から原稿を送ることになりました。今夜は雪になると天気予報は告げて います。

古屋のオバチャンをしのぶ編集後記、なんとなくコレで終わってしまった。足りないところは東京のほうで書き足しておいてください。ヨロシクオネガイシマ ス。




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