人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1984年3月号 通巻56号
        
入力 浅野佳代


焚火  高銀 金慶植訳 
“わてらのまつり”やよっといで  金野広美
『軍艦島の歴史』 赤峰美鈴
水牛楽団のページ
演技をめぐるセッション――ダリオ・フォとフランチャ・ラーメによる  小島希里
編集後記



焚火  高銀 金慶植訳


夜はちょうど、巨きな独立だ
この夜が、まことの夜が、帰ってくれば
われらいとしの兄弟、姉妹の顔ごとに
松のまきで燃やす、焚火の明りで彩る喜びだ
疲れた足で、そのまま寄りすがり
はじめて、すべてが人の世となる
ひと言、ふた言、闇のなかで、つぶやき
兄弟仲間の、偏屈な奴も、お前も
胸を開いて、焚火にあたり
あの闇夜の女の、ときめきのように、決心すべきだ
たとえわれらは、わが山野にいるとしても
われら五千万、それぞれは、重き荷を背負って生きねばならない
それもつらいと思わず、凛々と生きねば
松の木のまきが、燃えつきたら
櫟のまきが、燃えつきたら のまきでもくべて、火を強くし
その熱い胸に遠き村の幼な子眠れるだろう
夜が更けると、鳥も啼きやむ
しかし明日も、あさっても、われらの仕事はあまりにも大きく、終ることを知らない
われらの仕事、われらのいとしの兄弟の顔ごとに
いまさらのように、息づまるほどの、いとしさで、刻まれる
こんな深い夜にも、美しさがあり、歴史がある
こんな寒い夜にも、真理が幼な子のように戯れている
だまって、そのままいられようか、そのまま奪われ、踏みにじられてばかりいられようか
わが山野、かけがえのない、われらのたったひとつのあるじ
わが国土、千里万里その何処を探りあるいても、ひとにぎりの土さえ
愛する人の生きた、ひとみの墓
われらみな、寒さを解かし、寒さまでも、われらのもの
きっと必ず、その日、独立の日は帰ってくるのだ
ときには、両手をひろげ、火にかざす、手の扇に
東方の、燦らんたる、陽の光を受けるためにいくだろう
われらの朝で抱く世界、その果てまでいくだろう
ひとしずくの露を貴う、草の葉露のように、いや新穀の実る平野のように
いざいこう、兄弟よ、姉妹よ


“わてらのまつり”やよっといで  金野広美



昨年の秋、大阪で行われた大阪築城四〇〇年祭は、企業と行政が多額の金を出し、多くの人々を動員して、はなばなしく打ち上げられた。しかし、結局は企業イ メージを押しつけるだけのPRでしかなかったし大阪の英雄であったはずの太閣秀吉の罪状を明らかにしてしまうだけの結果しか残さずに終わったが、この四〇 〇年祭に対抗するかのように、世界帆船まつりの行われた同じ港区で、本当の大阪の“わてらのまつり”が昨年九月二十三日にひらかれた。

それは「港合同・港地協・大芸労・勤サ協交流秋まつり」で、今年で五回目を数えている。そもそもの発端は五年前、“全金の星”と言われた田中機械に「中庭 を借して下さい。私たちの文化祭をしたいのです」とまるで押しかけ女房さながらに、誰の紹介状も持たず、私達大阪勤労者サークル協議会が申し出たことから 始まった。

その頃田中機械は、資本の組合つぶしのための偽装倒産、それに抗して、職場を守るための工場のロックアウト、資本の側の労働者排除のための機動隊導入や、 やくざのいやがらせ等があったにもかかわらず、自主生産への道を歩みだし、かなり緊張していた頃だった。だからどこの馬の骨かわからぬ連中に中庭を借すな ど、相当の勇気を要したであろうが、交渉にあたった女性のしなやかさに信頼をおかれたのか、とにかくどうぞということになり、当日は大きなやかんにお茶ま で用意して下さった。

一回目はこのように変な集団のやる変な芝居やら歌やら落語やら漫才やらをただ見ているだけだった人たちも、二回目には港合同と勤サ協で実行委員会をつく り、演歌か民謡の踊りならやってもいいと名乗りがあげられた。三回目は大阪芸能労働組合といってナイトクラブのバンドマン達の労働組合が一緒にやることに なり、のど自慢大会のバックをひきうけてくれることになった。それに総評の港区の地区協議会の人達も一緒にやることになり演目も見物の層もグンと広がっ た。四回目ともなると、場所も田中機械の中庭から、もう少し多くの人々が見られるようにと二〇〇名位が入れる沖縄会館という屋内ホールになり、マイクの設 備等は勤サ協がやったが、あとの進行はすべてみなとの人たちでまかなってしまうというハッスルぶりだった。出し物も豊富になり、歌、踊り、詩吟、皿まわ し、声帯模写、落語、エレキバンドの演奏と多種多芸ぶりを発揮して「劇団みなと」の旗揚げまでやってしまった。そして五回目の昨年は、港区民ホールに三〇 〇名の参加という盛大な秋まつりにまでなった。

はじめの頃は「出し物を何かやって下さい」と言ってもなかなか出てこず、「演歌だといつもカラオケで歌っているのではないですか」とみずを向けても「わし らはカラオケを置いてある店なんかよう行かんよっていつも風呂でエコーきかして歌うとるねん。せやからま、さしずめフロオケやなーハハハ」と言われ、ああ なる程とそのシャレッ気に感心してしまった。でもそこで引き下がれないので、「じゃあそのフロオケを一曲私達が伴奏しますから」と一生懸命誘ったものだっ た。そんな人々が今では、フルバンドをバックに堂々と演歌をとてもうまく歌うのにはびっくりしてしまう。でもよく見ていると、なかにはマイクを持つ手が小 きざみに震えている人もいたりなんかするのだが……。また今や秋まつりの名物にもなった田中機械のエレキバンドのベースマンは頭をみると四〇才はとうに過 ぎている感じで、いつも一見無表情に見えつつもいい顔をして演奏するのだ。固い身体をゆすりつつ足で拍子をとるのだが、なぜか曲のテンポと合っていなかっ たりなんかして、とても楽しい演奏だ。

昌一金属のおばあちゃん達はいつも揃いの浴衣であでやかな群舞を踊る。赤いたすきがキリッときまってとても凛々しい。

矢賀製作所のおばちゃんの、ひょっとこ・おかめの面をつけての「闘争かぞえ歌」はなんともユーモラスな身ぶりで歌い踊られ、会場の笑いを誘った。こういう のを見ていると女がやる闘いは実に楽天的でしなやかだとつくづく思う。
「港のもんは労働運動やったらようわかっとるけど、みんな芸なしやよってのう」としぶっていたことなど、このような多芸ぶりをみているとウソのようだ。

こんな秋まつりのなかでの劇団みなとの昨年の創作劇「天保山の夜泣き男」に初めて私は主人公の妻の役で出演依頼があり一緒に出た。この芝居は、実際にあっ た話で、細川鉄工所の組合結成時の資本の弾圧と、それに屈せず闘った労働者たち、そして彼らを支えた地域共闘が描かれている話なのだが、その練習が実にお もしろいのだ。みんな芝居など経験のない人たちの寄りだから、練習はまず一升ビンをドンと机の中央に置いてから始まる。台本は田中機械の沢田さんが書い た。事前に細川闘争を芝居にするなどと知れると細川の委員長に中止させられるというので、練習も極秘に進められた。

まず本読みなのだが、配役分だけ人数が集まらない。「当日までにはなんとかするわいな」という沢田さんに促されての本読みだ。一回目はみんなおっかなびっ くりで、つまり、つまり読む。二回目はアドリブがポンポン出てきて台本通りに稽古は進まない。ああでもないこうでもないといいつつ、なんとか進む。そして 二度読んだら、もう稽古は終り。次は秋まつりの前日に一度立ち稽古をやるだけだと聞いてまたびっくり。でもみんな忙しくて集まれないというのだから仕方が ない。別れぎわ沢田さんは「みんなセリフ覚えて来てや」と叫んでいた。さて二回目の稽古の日、せりふを覚えて来た人は誰もおらず、結局またアドリブを連発 しながらの立ち稽古だ。ガードマンと労組員のぶつかる場面では本当に真剣にやるのだから怖い。「何かわしに恨みもっとんのとちゃうか」などと言い合いなが ら「あの時はもっとこうやったで」なんて話も飛び出しながらの稽古だ。まさにそれは自発的ワークショップさながらだ。みんなにとって台本は、まずはいるが 結局は不要なものであり、一緒に身体を動かすなかでお互いにいろいろなコミュニケーションをする。そしてそのなかからさまざまな事実が浮かび上がってくる 寸法になっているのだ。私の役どころはくじけそうになる委員長を励ます妻の役なのだが、その中のせりふの一節に「うん惚れた同志やないの」というくだりが あり、それを言ったとたん相手の委員長役の中村さんは照れるし、回りはヤンヤヤンヤの喝采で、大いに盛りあがってしまった。こっちもついおもしろくなっ て、悪ノリして思い入れたっぷりにやり出したりすると、もうまるで大衆演劇さながらの雰囲気だ。これでおひねりでも飛んでくると「もうやめられない!」と なるのだが、残念ながら練習なので「まあ飲みいな」ということでこの日はおしまい。

いよいよ次の日の本番。使ったことも見たこともないミキシングルームに入り、ナレーターからテープまわし、進行まで一人でやった沢田さん。慣れないことで マイクの声は割れて、何を言っているのかさっぱりわからず、おまけに説明が長すぎたり、テープ操作がうまくいかなかったり、かなり重要な一場面が全部とん でしまったりで、出来はさんざんで、みんながっかり。だけど、こんな出来、不出来にこだわらないのが、みなとの人達で、今年は去年に比べれば、本番前に誰 も酒を飲まずシラフで舞台にあがれたことは進歩だったとか、今度はもう慣れない機械に頼るのはやめようということで総括とあいなりました。それに加えて来 年からは勤サ協と台本段階から一緒に作っていこうということにもなった。「火だけつけといて、おらんようになったらあかんがな」とも言われてしまった。決 してそういうわけではないのだが、みなとの人たちの未知数の可能性に少々圧倒されていたのも事実だ。口では「アカン、アカン」といいながらどんどん広がり と深まりをみせるみなとの人たちのまつりづくりに比べ、自らの弱さに身を小さくしていたのでした。しかしこれからは、みなとの人たちの在り様に励まされた ことをエネルギーにして頑張ります。

今や、みなとに恒例化し定着した秋まつりが、さまざまな人々の共同作業を通して、闘う者の文化のるつぼになれば、その時こそ真の労働者階級の文化形成がで きるのでしょう。その時まで、みんなと地道に、“わてらのまつり”を創り続けようと思っています。


『軍艦島の歴史』(あるいは民族座別について考える) 赤峰美鈴


端島(軍艦島)は、長崎港より海上に約十九km、対岸野母半島より西に約四・五kmに在り、島の大きさ約六・三ha、東西〇・一六km、南北〇・四八km の南北に細長い小さな島であった。私たち六年二組の三十六人が、通称軍艦島と呼ばれていたこの島について考え始めたのは、あるテレビ宣伝がきっかけであっ た。いや、きっかけというよりはむしろ宣伝に挑んでいったというべきかもしれない。事の起こりはこうだ。私の学級には、四人の在日朝鮮人児童がいた。

そのうちの一人趙は、渡来人について話していた時間、「先生、俺は帰化してへんし名前がもうひとつあるんや。」といった。在日朝鮮人に本名があるというこ とが、私たちの学級で話された最初がこの日だった。私にとっても、学級の仲間にとっても、朝鮮人としての趙に出会ったのは、やはりこの日が最初だった。歴 史学習の中で、日朝関係史に出会ったのは、やはりこの日が最初だった。歴史学習の中で、日朝関係史について、事実を明らかにしながら学んでいかなければな らないと、私が考え始めたのもこの日が最初だった。ただし、私の中では、近代史と限定してのことだった。夏が過ぎ、秋が来て、十一月。歴史学習は、近代に 入っていた。明治期の労働者の実態について考える具体的な例として、私は炭坑労働を選んだ。とりあげたものは、官営払い下げ工場のひとつ、長崎県高島炭坑 で、一八八一年三菱合資会社の岩崎弥太郎所有となっていた。当時の労働の実情と惨状を知るために、雑誌『日本人』に載った一部を印刷して学習に使った。子 どもたちは、納屋制度という搾取形態と、無残に殺されていった坑夫たちの扱われ方に、強く印象を持ってくれた。十一月のこの日、私は在日朝鮮人である金山 さんを訪ねた。日朝関係史を学ぶにあたって、すこしでも在日の経緯について話を伺っておかねばと思った。

植民地下の朝鮮の様子も知りたいと思っていた。金山さんは、自分たちよりも兵役で朝鮮にいた佐賀出身の山崎さんの方が、当時を語ってくれるだろうと私に山 崎さんを紹介した。強制連行の話に至った時、彼は長崎の炭坑を口にした。朝鮮人強制連行、そして強制労働その現場が九州の炭坑、特にひどかったのは、離島 の炭坑であったこと。更にはそれが高島炭坑、軍艦島であったことなど、明らかに語ってくれた。明治期の納屋制度という労働形態から戦争下の朝鮮人強制労働 という圧制の時間の流れが、一気に私の中で駆けめぐった。私は翌日、みんなに山崎さんの語ってくれた事を伝えた。山崎さんの話は、私たちを、葬り去られた 歴史の事実について調べ直していくこと、朝鮮人強制連行・強制労働について考えていくこと、更には労働者支配構造のしくみについて考えていくこと、現在の 在日朝鮮人差別問題を考えていくと共に、私たちの生き方について考えていくことまでも、連れ込んだ。山崎さんの話はこうだ。「軍艦島は煙草一本で島のぐる りを廻れるほど狭く、木がない裸の島である。高いコンクリートの建物がそびえ、戦争中は一万人といわれた朝鮮人労働者が詰め込まれて働かされていた。食事 は、粟、こうりゃん、とうきびなどの雑穀の浮いたもの。見える対岸の半島に脱出しようと海に飛び込んだ人もいる。脱出者を見つけるかの如く、夜の海を照ら すサーチライト。後年、無数の人骨が島から掘り出されたこと」この話をきいていたみんなが、ざわめいた。
「あれや」「テレビの宣伝のやつや」ときこえる。上気した私の顔と向きあって、同じく興奮していた何人かの顔がいた。テレビの宣伝に“軍艦島”が使われて いるという話に、私も気がついた。どんな宣伝か尋ねる。みんなは、思い出す限り映像と文句についてしゃべる。私は黒板に宣伝文句を書きあげていった。ぶつ 切れだが、私たちが考えるには充分だった。

……島は宝島だった。人々がむらがった。せっせと掘った。一年十年三十年……迷路のような階段を……人々がいなくなった。暮らしがなくなった。資源と共に 消えた島。私たちも今、資源のない島日本に住んでいる。……「ひどい宣伝やなあ」「どこやこんな宣伝しとんの」「あれが宝島か」「なんかこわそうな声でわ ざとらしい」「あんな、人々が群がったいうとるけど、つれてこられたんやん」「そうや、人々がいなくなったかて同じや。石炭がなくなったし、勝手にまたよ そへ堀りに行ってしもうたみたいやんか」「ええようにだましとるなあ」私たちは、次々に意見を出しあった。島は宝島だったの一言に、私たちは激しい怒りを おぼえた。怒りは、宣伝の主に向かった。みんな関西電力と言い切る。エネルギー危機や、省エネをうたった宣伝があらゆる媒体を通して流されていた折、この 軍艦島に取材したエネルギー危機らしきものの吹聴を、電力会社と断じてみても不思議はなかった。後になってこの宣伝の制作者は、社団法人公共広告機構と判 明するのだが、その時はすでに私たちの疑問点を集約した質問状が関西電力へ送られていた。間違いに気づいて、私たちは出直しをした。当の主、公共広告機構 に軍艦島に関する質問状を改めて送った。返答は簡略だった。閉山当時の概略を語る一枚の社報と、朝日グラフ記者が、閉山後の島をレポートした記事をコピー したものが二枚。何れも、私たちが質問した労働者の実態については書かれていなかった。自分たちで調べよう。何から始めればいい。とにかく人に語ってみよ う。探していると、何かにぶつかる。人にも、資料にも。木村は、テレビ宣伝をカセットに吹き込んできた。みんなで聴いた。何度も聴いた。宣伝はこうだ。 ―――「島は宝島だった。石炭が発見されて人々が群がった。人々が働いた。島は町になった。四千人もの暮らしがあった。迷路のような島の階段を子どもたち は走りまわった。せっせと掘った。一年、十年、三十年、戦争もあった。そして八十余年、石炭を掘り尽くした時、人々がいなくなった。暮らしがなくなった。 資源と共に消えた島、私たちも今、資源のない島、日本に住んでいる」――社団法人公共広告機構――

それから約四ヶ月。卒業前まで私たちは軍艦島に関わる全てを追い続けた。私たちの出発を支えてくれたのが、長崎総合科学大学勤務の片寄俊秀さんから送付さ れた調査資料だった。片寄さんは一九七四年(当時、長崎造船大学勤務)、「軍艦島の生活環境」と題した論文を、『住宅』誌に発表しておられた。以後、私た ちは、論文を少しずつ読み進めながら、更に資料を探していった。何本かのフィルムも入手してみた。『受難の記録――過去を忘れない――』。11PM制作 『日帝36年の歴史』『ある手紙の問いかけ』『壁と呼ばれた少年』である。軍艦島について調べていく事が、現在の在日朝鮮人差別問題を孕んでくるに至っ て、私たちは、今何をと考えるようになった。川岸はこう言った。〈朝鮮人差別のことについてずっと考えてきたんやけど、思うねん。被爆者の人かてそうや。 ぼくら何ができるんやろ。何をしたらいいんやろう〉他も続いた。〈差別が残酷やってこともよういうやん。けどなあ、それもその時だけで、そのことがおわる と忘れてしもうて、また今までと同じようにしてるやん。だから残酷やってことも後まで続いていかへんねん。そんな事多いと思うねん〉確か志保理だと思う。 樫は〈俺は、なんか今ずっと心を離れへんねん。ずっと思ってる〉〈だから、そう思うことだけはできるんや。けど後どうしたらいいかって考えていかなあかん のや〉と、川岸はまた言った。こんな発言を受けて、三十六人の気持ちは、ひとつになっていった。集団で学び語り合うことの充実感を身体いっぱいで受けとめ るようになった。私たちのフィルムを見ての感想文、討論のあらましを、私は通信として家庭に送り続けた。親たちも意見を通信に届けてくれた。学ぶことで視 えてきたこと、自分たちを駆り立てていった心の動きを追うこと、何を学ぶのか、どう学ぶのかを考え始めたこと、これらが、私たちにひとつの提案をさせた。 歴史の闇に埋もれていた事実を、再現化するということではなく、過去を問うことに現在を生きていることの意味を問いたい。そのための行為として、軍艦島の 歴史を脚本化し、自分たちで演じてみようと。多くの同級生、親たち、教職員に問いかけてみよう。悩んだ。なぜ軍艦島の歴史を舞台で演じるのか。演じること で何をうみだしていくのか。果たして劇がどう受けとめられるのかと。けれども、ひとつの事を探求することは、ひとつのことだけでなく、更に広い思考を与え てくれることを感じ取った私たちは、具体的な問題を知りながら考えていく方が、より現実性を持った実現される社会の存在の様を描くことができるであろうと みるようになってきていた。民族差別により自分の命を断った林君のことについて考えていた時の話はこうだ。

「やっぱり林君のクラスだけの問題じゃないで。他のクラスもやし、学校に問題もあるんや」「歴史を知るいうても、朝鮮を支配してたんやってことだけ知って もあかんで」「そうや、朝鮮は自分らよりも弱かったんやと思うたらなあ」「逆の歴史勉強してもつまらん」「やっぱりみんなに知ってもらわなあかん」三月十 二日、教職員、六年生、六年の親たちの前で、私たちは『軍艦島の歴史』を上演した。脚本は、片寄さんの論文、フィルムなどを参考にして、八班に分かれて作 製した。以下が、その脚本です。

    脚本 『軍艦島の歴史』


舞台に全員登場、片膝を立てて下を向く。
テレビの宣伝が流れる。

島は宝島だった。石炭が発見されて人々が群がった。人々が働いた。島は町になった。四千人もの暮らしがあった。迷路のような島の階段を子どもた ちは走りまわった。せっせと掘った。一年、十年、三十年、戦争もあった。そして八十余年、石炭を掘り尽くした時、人々がいなくなった。暮らしがなくなっ た。資源と共に消えた島。私たちも今、資源のない島、日本に住んでいる。

六〜八名がグループで立ちあがりモノローグを繰り返す

A 島は宝島だった。
A' 島は誰にとって宝島だったのか。
B 人々が群がった、人々が動いた。
B' 群がった人はだれ、動いた人はだれなのか。
C せっせと掘った。一年、十年、三十年、戦争もあった。
C' 一年、十年、三十年、戦争の時、石炭を掘る男たちはいたのか。戦争の時さえも掘り続けたのは何のためだったのか。
D 資源と共に消えた島。
D' 島は資源と共に消えたのか。忘れ去られたのか。その八十余年の歴史も消えたのか。消されたのか。忘れられたのか。忘れ去られたの か。

波の音、舞台に二人が労働者の姿で現れる。二人が交互に台詞をいう

軍艦島は長崎から西南に約十九km、野母半島からは西に約四・五kmのところにある、三菱が買い取った小さな島です。そこでは多くの朝鮮人や日 本人、中国人捕虜が強制労働で働かされた。
島の大きさは周囲一・二kmで総面積は約六千三百平方mです。まわりはだいたいがコンクリートの壁で固めてあって、島にはたくさんのアパートが建ちなら び、遠くからみると軍艦のようにみえるところから、いつからともなく軍艦島と呼ばれるようになった。

   明治時代(納屋制度)

畑で夫婦と男の子が仕事をしている。一人の男が夫婦に近づく

納屋頭 ちょっとそこのお方、いい話があるんですけどねえ。私とこの会社の社員がちょっと足りなくてねえ探してあるいているんで すが、うちの会社に入ってくれませんか。いい銭になりますよ。飯がいっぱい食えるし、労働時間も畑で働くよりは短くて済みまさあねえ。家族が心配っていう ならこっちへも連れて来てもいいですがねえ。むこうの納屋の設備もいいし、ちゃんとした暮らしができますぜ。仕事だって力さえありゃすぐにおぼえられま す。

夜、先ほどの家族の部屋。話しあっている

 わりといい銭になるそうだし、力さえありゃすぐに働けるってことだ。一年ばかしいって働きゃ、すこしは暮らしも楽になるだろ う。小作料もたまってることだし。
 父ちゃん、父ちゃん。どこへ働きにいくんだ。ねえ、どこへいくんだ。おれもいっしょにいく。ねえ母ちゃん、父ちゃんと一緒に俺たち もいこうよ。
 父ちゃんはね、おまえや母ちゃんのために遠くまで働きにいってくるんだよ。一年だけしんぼうしておくれ。そうすれば父ちゃんがどっ さり銭を持って帰ってくるんだから。
 そうなんだ。おまえももうすぐ学校だ。父ちゃんは、おまえをきちんと学校へいかせてやりたい。今うちにはその銭すらないんだ。
 徴兵で、おまえの兄ちゃんは兵隊にとられちまった。母ちゃんは父ちゃんが銭の取れる島へいくのがこの際一番いいと思うんだよ。
 なんでうちは小作人の身分なんだ。小作人でなかったらもっとましな暮らしができるんだろう。父ちゃんも遠い島まで働きにいかなくて いいんだろう。

母は父の出発の用意をする

 じゃあ、ほかの人に仕事を取られんうちに。さあ。
 ああ、じゃあいってくる。元気でなあ。おれが帰ってくるまで母ちゃんを助けてがんばるんだぞ。たんとみやげを持って帰ってくるぞ。

子はうなずく、母はまえかけで涙をふく

 父ちゃん、父ちゃん。

父、外で待っていた納屋頭と闇へ消える

軍艦島

各地から島へきた労働者が車座になっている

納屋頭1 さあ旅の疲れもあることだろう。こっちで飲んでゆっくりしてくれや。どうだ。うまい食事が出るだろう。あんたたちには うんと働いてもらわなならんとなあ。
納屋頭2 銭が入ったらいつでも帰りたい時に帰ったらいいし、一日でもそうとうな銭になるぞ。風呂もあるし、畳はゆったりしてるし、こ んないい仕事はそうめったにあるもんでないぞ。早く家に銭を送ってやるんだな。

労働者たち酒の酔いでねむりこむ。納屋頭たちはほくそえむ

労働者の証言

舞台前方に三人の労働者がすわる。後方で労働者たちが働かされている

証言1 島に着いた日に酒とごちそうをふるまったのも、だまされていることをごまかすためのものだったのです。その夜の食事代は すべて自分払いだったのです。つまり、借金となっていったのです。ほかに、ワラジ、ふとん、食事、ろうそく、シャベルとすべての物が、金を払わなければな らなかったのです。雪ダルマ式に借金が増えていきました。今思うと、よく生きて帰れたと思います。
証言2 あのコレラ騒動の時は目をおおうばかりでした。病気になるとすぐに浜につれていかれ、生きたまま鉄板の上で焼き殺されていきま した。医者なんてみせてもらえませんでした。三分の一の炭坑夫が殺されていきました。
証言3 あまり苦しいので家へ帰してくれといったら棒でぶんなぐられました。そして「家のもんが銭を持ってきておまえの借金を払ったら 帰してやる」って笑うんです。これじゃなんのために働きにきたのかわかりません。銭がもうかるってだまされてつれてこられたんですよ。

証言者たち、倒れていた坑夫をつれていく

十五年戦争(植民地下の朝鮮)

爆音、空襲警報のサイレンの音がする
朝鮮人労働者が番号をつけてこられる
オム・チョンソクの「春」が流れる
朝鮮人三名が舞台前方にすわる

朝鮮人1 私は川で洗濯していました。男の私がなぜ川で洗濯をするかというと、私の妻が病弱だったからです。だから私が川で洗濯 をしていました。そして洗濯がおわったので帰ろうとすると、いきなり役人がきて、「こいつ、こい。」とどなりつけたんです。妻が待っているからだめだとい うと、なぐり、けり、川につき落とされました。もう無茶苦茶でした。手をくくられ、ひっぱられていました。私は家にいる妻と子のことが気になり、いっしょ に連れていきたいといいました。役人は早く連れてこいというのでその役人と一緒に家の前まできました。でも、病弱な妻が港まで歩けるわけがない。私は 「やっぱり一人でいい。」っていうと、またぶんなぐられました。気がつくともう船の中でした。後はどこへいくのやらそれすらわかりません。
港につくと、たくさんの仲間と一緒に並べられ、番号をつけさせられ、それが名前になりました。私たちは番号で区切られて多くの炭坑へ送りこまれました。私 が連れてこられたのが軍艦島でした。
朝鮮人2 私は家で食事をしていました。そしたら五、六人の木刀を持った役人がいきなり土足で家に入ってきたんです。私の手をひっぱ り、トラックに乗れというらしいのです。私が抵抗すると棒でなぐられました。子どもは泣いて私を離そうとはせず、妻は役人にすがってたのんでいました。で も子どもも突き放して、まるで私を引きずるように、トラックへ連れこみました。私は岩手県の鉱山へ連れていかれ働かされました。
朝鮮人3 私が畑仕事をしていると村に一台のトラックが入ってきました。畑にはほかにも多くの村のものが働いていました。やがてトラッ クからバラバラと多くの役人が降りてきて私たち男をめがけて走ってくるのです。私たちはくわを投げ捨て逃げました。つかまれば日本へ連れていかれるのだと わかっていましたから。でもだめでした。一人を三人がかりで追うのです。村の入口にも役人がいて出口をふさいでいました。ひどいものでした。私は樺太の炭 坑で働かされていましたが、ある日勝手に船に乗せられ長崎の軍艦島まで連れてこられました。

軍艦島での強制労働

疲れきった労働者が折り重なって眠っている
朝鮮人労働者が舞台前にすわる

朝鮮人1 戦争中は特にひどかったですよ。毎日毎日休む暇もなく一日二交代の十二時間労働をさせられていました。炭坑の入口には 銃を持った憲兵が見張っていて、私たちを監視していました。島の出入口にもいつも憲兵がいて同じように見張っていました。
朝鮮人2 食うものもひどいものでした。麦がういたもの。ひどい時には塩水になっぱがぶちこんであるものもありました。トウモロコシが わずかにういているかゆをすすって働いていました。もう腹がへって腹がへって、よく働けたものだと思います。
朝鮮人3 ひどい生活に耐えるよりは死んでもいいと思った仲間は、海に逃げこんで泳いで向こう岸まで渡ろうとさえしました。夜はサーチ ライトがつきっぱなしで島のまわりの海を照らしている。時折銃の音も聞こえました。海に飛び込んだ仲間はみんな殺されてしまいましたよ。うまく向こう岸に ついたとしても見張り番にみつかってまた島へ連れ戻されました。私たちはまっ黒でしたからね。どうしても逃げられないんです。

夜、逃げ出した朝鮮人が納屋頭につれもどされ、棒でなぐられている

朝鮮人労働者たち 「オモニにあいたいよう。オモニー、オモニー、ウリ、チョソン」
朝鮮人4 あの頃の寝る所はひどいもんでした。朝鮮から連れてこられた人は、一人がねるという広さに二、三人がつめこまれていました。 そして他にも中国人の捕虜たちは私たちとは別に囲いのある所に閉じこめられていました。私たちの寝る場所は高い家の一番下で、陽なんて全くあたらない地下 室のような所でした。

日本人の証言

日本人二名、兵隊と並んで舞台に現われ、前方にすわる。後には、銃を持った兵隊が立っている

日本人1 強制連行が始まったのは……ある日、炭坑会社が労働者がいないので植民地の朝鮮から労働者を募集してくれというので、 朝鮮にある日本の役所から私たちが朝鮮の人々を募集しに出かけたのです。しかし日本へいけばひどい労働をさせられていたので、やがてだれもこなくなりまし た。そのうち、強制連行になりました。トラックに人々をつめこみ連れていきました。全く人間のすることじゃあありませんでした。
日本人2 あの当時は役所の命令で、どうしても労働者として朝鮮の人々が必要だから決められた人数だけ集めてこいと強くいわれていまし た。それで朝鮮人を連行しました。わたしは朝鮮で巡査をしていましたので、朝鮮人の強制連行を行い戦地にはいきませんでした。私たちはたった一人の朝鮮人 を三人で追いかけました。なぐりかかったりして連れてきました。朝鮮の人々を無理やり連れてくるというのも、戦争中の国の政策でした。朝鮮人を日本につれ てきたものの、どうされるかまでは考えてもみませんでした。今、私はこのことを語らなければならないと思っています。

エピローグ

波の音、舞台に二人が労働者の姿で現れる。二人が交互に台詞をいう

島はいまだれもいない。
島のことを知る人は数少ない。
島のまわりは青い海。 
島の上には 照りつける太陽。
だが、人々は暗いトンネルの中で苦しめられていた。 
青い海は渡ることのできない波の壁。
島は安らぎのない緑なき島だった。

六〜八名がグループで舞台に走り出る。台詞を交互にいう

弱い者と
強い者
支配者と
支配された人々
納屋頭と小頭
炭坑夫も坑内夫と坑外夫で扱いもちがっていた。
納屋頭は思う存分炭坑夫たちをなぐりつけただろう。
労務係は、朝鮮人、中国労働者たちをなぐり、殺し、
いためつけただろう。
炭坑夫たちは団結できなかったのだろうか。
いやちがう。炭坑夫たちは団結しただろう。
しかし、その団結をうわまわる力の支配でみんなつぶされていったのだろう。
島は炭坑夫たちの島ではなかった。生きて帰れぬ地獄島だったのではないだろうか。

全員、片膝を立て下を向く
再びテレビの宣伝が流れる

島は宝島だった。石炭が発見されて人々が群がった。人々が働いた。島は町になった。四千人もの暮らしがあった。迷路のような島の階段を子どもた ちは走りまわった。せっせと掘った。一年、十年、三十年、戦争もあった。そして八十余年。石炭を掘り尽くした時、人々がいなくなった。暮らしがなくなっ た。資源と共に消えた島。私たちも今、資源のない島、日本に住んでいる。

六〜八名がグループで立ちあがりモノローグを繰り返す。ビートルズ『ザ・ロング・ワインディングロード』 が流れる

A 島は宝島だった。
A' 島は誰にとって宝島だったのか。
B 人々が群がった、人々が動いた。
B' 群がった人はだれ、動いた人はだれなのか。
C せっせと掘った。一年、十年、三十年、戦争もあった。
C' 一年、十年、三十年、戦争の時、石炭を掘る男たちはいたのか。戦争の時さえも掘り続けたのは何のためだったのか。
D 資源と共に消えた島
D' 島は資源と共に消えたのか。忘れ去られたのか。その八十余年の歴史も消えたのか。消されたのか。忘れられたのか。忘れ去られたの か。

『ザ・ロング・ワインディングロード』が流れる中、全員は顔を上げ正面を見つめる

(了) 

反響は様々だった。私たちはそれらをじっと受けとめた。また先が開けた。これからも問い続けなければならないことと、はっきりそう感じた。


水牛楽団のページ

去年カラワンをよんだときその取材にやってきたマティチョン新聞の記者スニットから、ほんとうに連絡がきて、ユニセフのコンサートによばれた。 マティチョンが主催するもので、スニットはどうもその係であるらしい。

日本からは予定どおり小室等さんと水牛楽団がよばれることになり、去年のうちから行くの行かないの、どうのこうのとさわいでいたが、世話役のわたしが送ら れてきた飛行機の切符を手にしたのは、出発予定の前日のことだった。あちらとこちらでは時間の流れかたがちがうのである。と何度めかの確認をして気持をお ちつける。予定どおり出発できることになったんだもの。

一月二十四日、京王プラザに集合して、団体旅行ははじまった。水牛楽団の五人、小室さん、彼のマネージャーの上田さん、キーボードの川崎さん(彼は血迷っ て自費で参加したのである)、計八人。

二時間ほどおくれて(なんでもおくれるのだ!)バンコクに着くと、ライトをパッとつけて撮影している一行がいる。だれか有名人とのりあわせたのかとおもっ たら、これがユニセフとマティチョンの人たちで撮影対象はわれら八人であった。

マイクロバスで送られた宿舎はハイヤット・セントラル・プラザというおどろくべき高級ホテルで、これも協賛団体のひとつなのだ。タイというよりハワイに来 た感じだね、というのが小室さんの第一印象。

コンサート会場はタマサート大学講堂といわれていたが、いつの間にかホテルのとなりのハイヤット・コンベンション・ホールにかわっていった。

コンサートの前は公式スケジュールがきちんときめられていて、チュラロンコン大学の女子学生が十人ぐらいエスコートについてくれた。ユニセフの事務所でコ ンサートの主旨をきく。クロントイのスラムに行って子どもたちとあう。何日か前に火事があった。マティチョンの編集長のうつくしい家でパーティ。詩人ナオ ワラットも来ていて、彼が子どもたちをあつめてやっている楽団の演奏もあった。キアウという十二歳の女の子がキムをひいて、バンドマスターである。彼女と わたしは気が合った。格調高いことで有名なエラワンホテルで、ユニセフ主催のレセプション。コンサートはチャリティなので、出演料は出ない。そのかわり (?)感謝メダルをひとりひとりもらった。

会場練習もステージの仕込みがおくれて、待つこと半日以上。ステージどころか建物自体がまだ建築中で、トンカチやっている。日本人はみな絶望的気分におち いった。上田さんは、あのステージじゃきょうは絶対ムリだよ、と断定したが、不思議にも半日だけのおくれで完成したのである。たしかに時間の流れかたがち がうのだ。

コンサートは一月二十八日三時から。主催者のあいさつのあとが水牛楽団。水牛のように、祖母のうた、フジムラストア、ボクハソンケイスル、都市。はじめか ら三千五百人の会場は満員である。チェンマイの医学生のバンド。高橋悠治のピアノ。シンガポールのハモニカおじさんホー・チョン・ウイン。子どもたちの寸 劇や演奏。タイの人気女性歌手ナダー。オーストリアから前日の深夜着いたヴィエナ・アート・オーケストラ。小室等さんと川崎さん(小室さんは「おねえちゃ ん」をタイ語でうたい客席をわかせていた。でも緊張してたみたい)。そしてカラワン。ロッケストラというロックバンドと共演で、ヒットメドレーのほかに、 メイド・イン・ジャパン、ヒロシマ、トーキョーなどの新作もうたった。ロックのようなカラワンはあまり評判がよくなかった。スラチャイはあいかわらず大胆 かつナイーブで、これまでとちがったことをすれば、かならず評判はわるいさ、だけど心配しなくていいんだよ、テストしてるんだから、という。おしまいに出 演者全員がステージに出て蛍の光をうたって幕。もう十二時近いが、お客はほとんど帰らなかった。スラチャイによれば、こういう規模でコンサートができるの はタイがちいさいからだそうだ。人びとは口コミであつまる。そういう意味では日本は大きくなりすぎて、もうこういうコンサートはできないだろうともいっ た。

そうだ、このコンサートはカラワンの最後のコンサートだともいわれたが、それぞれまだ活動は続けるようだ。

次の日パタヤの沖にうかぶサク島であそんで(これもスケジュールのうち)あわただしく帰ってきた。カラワンの四人が空港まできてくれた。こうしてみんなそ ろって顔をあわせるチャンスはもう二度とこないような気がした。

タイに行ってる間に新カセット「フジムラ・ストア」は製作がすすんでいて、ついに完成した。おかしなカセットだから、ぜひきいてみてください。ほとんどが オリジナル曲だということは、これがわが楽団のひとつの到達点だといえるかもしれない。二千三百円。

三月三日、四日は久しぶりの自主コンサート「高い塔の歌」。如月小春さんといっしょに。如月さんたちの楽団、如月小春とDOLLも出ます。

そのあとコンサート活動をすこしの間休みます。秋ごろにはうごきだす予定ではあります。

(八巻美恵)



演技をめぐるセッション――ダリオ・フォとフランチャ・ラーメによる  小島希里


セッション1・一九八三年四月二十八日――ダリオ・フォの演劇ワークショップ、一九八三年四月二十八日、五月五日、十二日、十九日、ロンドンのリバーサイ ド・スタジオにて――

ダリオ・フォ――議論、つまり対話を始めるために、演劇において僕が重要だと考えている二、三の事柄について話してみることにし ようか。

演劇という作業の裏側には、本来、思想的なモメントがある。ここでいう、思想的な、とは、なぜ特定の方法で人は動くのかをつかむ、ということだ。その身振 りのスタイル、発声の仕方等の背後には何があるのか。さらに、他のではなくその題目を、なぜ上演することにするのか、そして、なぜ自然主義的にではなく叙 事的なスタイルで上演するのかをつかむことなんだ。

役者がこういった理解を深めていくうえで、僕が重要だと考えている事柄のうちの一つに、身振り、呼吸法、声の使い方、そしてそのトーンや音質に対する認識 に関する問題があげられる。

こういった問題の研究に生涯を費やしたロシアの学者がいるんだよ。この人は、スタニスラフスキーの親友だったんだけど、自分の全研究を首尾よく一文にまと めて、次の様にいってるんだ。「人々の身振り、つまり表現のスタイルは、どうやって生きのびようとしているのか、すなわち、生きるための職業によって決定 される。」どんな共同体も、生きのびるのに必要な労働によって、その動作の方法が規定されているんだ。一つの共同体の身振りは、そこの人々がどんな労働に 従事しているのか、によって決ってくる。

たとえば、シシリーには、独特の歌と踊りがあって、タランテの一種なんだけど、歌はこんな風。(と歌う)

記録映画でこういう歌と踊りを観たことがあるんじゃないか? 踊りの振りを実際にしてみると、古代ギリシャがぼんやりと思い起こさせられると同時に、少々 アラビアの影響も感じられる。特に、ある動作は、このスタイルの踊りではきまってみられるんだけど。こんな風に(動作を示す)……まるで綱を引いているみ たいなんだ。加えて、シンコペーションの要素があるよね。まず、引っぱって、それから、身体を前に動かす。戻る時は、頭をさっと後ろに引く。素敵だろう。 それから、身体を前に動かす。戻る時は、頭をさっと後ろに引く。素敵だろう。大英博物館には、ほとんど同じ姿勢をした古代ギリシャ舞踊の描画があるんだ。

変ったことといえば、この踊りが鋼製造人(コルダリ)に直接由来しているということだ。シラクサでは、約20年前まで、次の様な方法でロープを作ってい た。細い撚りを束ねて太くして、船等で使えるように編んだんだ。シラクサには、ほら穴や洞窟、つまり天然の納屋がたくさんあったので、そこが格好の屋根付 きの仕事場となっていたんだ。ほら穴の片側に五人、反対側に五人の男女。それぞれの手には、ロープが一本づつ。そのロープを編むのが仕事だから、片側の五 人が頭を下げると、反対側の五人がロープを持ったまま頭の上を飛びこし、向きを変えて、ロープを引っぱる。かがむ、飛びこす、回る、引っぱる、かがむ、飛 びこす、回る、ひっぱる……。時間やリズムを一定に保つために、中央には太鼓が置かれていて、働きながら歌を歌って、いつ動くのかの合図を送りあったん だ。(前と同じ詩を、強弱や呼吸のパターンを示しながら、歌う)

こういった踊り、リズムのとらえ方が、民衆舞踊のリズムとスタイルに映しだされているね。

次の例も、リズムとタイミングの区切り方の変わったもので、いわゆる「カンツォーネ・ディ・ヴォーガ」(ゴンドラの唄)。こぎ方が、ここでは上下。船頭 は、二人組とか三人組とかになって船の上に立つ。(さおを水の中へおろし、船を押し進め、さおを引っぱりあげ、もとの姿勢にもどる動作を示す)動きはこん な風に、いち、にい、さん。この方法で船をこぐと、調子を合わせて唄を歌うこともできるよ。(強弱と息つぎの調子をあわせて歌う)

ギリシアのザンテ島で地中海全域から、まじめな民俗音楽のグループや研究グループが集まって開いた会議に僕が出た時のことを話したい。驚いたことに、各国 の参加者がそれぞれの民俗舞踊を披露する時、――トルコ人、テサリやパイソウスから来たギリシア人、それからアラブ人、アフリカ人、スペイン人……ともか く皆が、労働の姿をみせてから、踊り始めたのだった。たとえば、テサリから来たグループは、踊る前に、パントマイムの一種をしてみせた。乗りならされてい ない馬をつかみ、おどし、そして乗っかろうとする、こんな風に……(馬をならす格好をしてみせる)。ともかくすごい。日常のくりかえしのなかから、踊りそ れ自体はだんだん生れていったんだよ。この地方では皆が馬を飼っているので、馬の頭をつけた人間というキャラクターは誰にでも知られているんだ。

同じ様に、アルジェリアのグループは、ツルが空に飛びたつシーンを見せた。アルジェリア地方に住む人たちにとって、ツルは、活気にあふれた日々を意味す る。ツルが飛び去ると、収穫の時期も終り、雨期が始まる。人生の終り……季節の終り、人生の終り、と言えるだろうね。自分たちの生活様式と特別な関係にあ るツルという鳥の立場になってみることで、自分たちの関係をとらえ直している。

記憶を心に留めておく――皆さんがそうしているのかどうかは、知らないが、ほとんど本能的に、誰もが石の感触より木の感触を好んでいる。たとえば、動作を する時には、片手より両手を使いたいよね。歩いていると、前かがみか、過度にそっくり返るかのどちらかになりやすい。マイムの巨匠といわれるデュクロワ は、まるまる一時間も、様々な歩きを演じた。歩き方をその都度変化させて、あちらこちらを歩いた。歩き方の源は腹、下腹、つまり我々の命の源である場所に ある、というのが彼の意見。たとえば、歩く時、足を前に出すのではなくて、前方に倒れていく、その動作を続けざまにしている人たちがいる。(実演する)も ちろん、僕は大げさにやっているんだけど、道を歩いているのを見ていると、随分と奇妙な仕方で歩いている人がたくさんいる。若い人たちだってそうだ。ユト ランドでは、前かがみに歩いている人をいっぱい見たし。そっくり返って歩く人もいれば、どこも動かさないで歩こうと必死になっている人もいる! 背中に一 トンもするんだか、余分に重い物を運んでいるんだか、そんな風に歩く人もいる。びっくりする様な速度で、腕をぐるぐる動かしているので、驚異的な速さで前 進しているようにみえても、実際は足はほとんど動いていないって人もいるね。その反対に、骨盤を動かそうとしない人の場合、足は軽く前に出されているの で、それ以外の動きはみられない。上半身を動かさずに、骨盤だけを動かすって人もいるしね。(以上すべての歩きを実演する)

明らかに、いくらでも続けられる……でも、ここで僕がいいたいのは、今まで話してきた動作には、何らかの共通点があるってことだ。自分の歩き方を意識する ことは、自分の出身、性格、性質、地位、さらに精神的・肉体的なコンディションを発見する第一歩なのだ。人の歩き方も、毎日変化する。必ずしも、僕たちは そのことを自覚してはいないのだけれども。どんな天気か、日は照っているのか、恋をしているのか、危険はのりこえたのか等々によって変化する。だから、幸 せな時の歩き方はこんな風(とやってみせる)気分のよくない一日だったなら……(とみせる)

さて、舞台の上にいると、役者は自分がどう動いているのかが、大変観察しづらい。まず気にするのは、声はどう届いているか……どう発声しようか……そし て、ともかく科白を忘れたら大変だ!

たとえば、シェイクスピアのハムレット。仮面を着けた役者のヘキュバの演技を指して、ハムレットは、観客席をむく。伝統的、古典的な方法でこのシーンを演 ずるならば、舞台装置がおかれる。猛烈にくさい芝居。(ハムレット第二幕二場「あの男にとってヘキュバが何だ? ヘキュバにとってあの男がなんだ……」か ら演じる)

僕はちょっとだけ演技過剰にやったけど、そんなにものすごくはないよね。この部分をこんな風に演ずるのを、山というほど観たことがある。観客に近づいて、 カメラの様に観客をなめまわし、注目を集める(役者たち曰く)というのがそのテクニック。さらに、声は、ある時は高く、ある時は低く、そして、幾度も休止 する。休止、休止の連続、聞いたこともないほどの休止の数。観客曰く、「いい役者にちがいない……たくさん休止するから」

しかし、ちょっと考え直してみようじゃないか? この演技をするハムレットとは誰なのか? 彼は「王」である。王としての不安にかられた王。普通の人は彼 みたいには苦悶しない。彼は深く絶望している。非常に崇高な精神の持ち主にのみふさわしい、絶対的な絶望。自分の下にいる人々すべての運命は彼にある。

ハムレットのこの部分を初めて演った役者は、四十歳ぐらいだったっていうことを思い出してほしい。十六世紀中頃では、四十歳ってことはもう老人ということ だ。それに、ものの本によれば、その役者っていうのが、太り気味で、動きものろい。では、少しこの部分をつき離して、叙事詩的に演じる――現実主義の手法 (自然主義ではない)を用いる――とどうなるか。(現実主義と自然主義との違いに注目してほしい。自然主義はニューヨークのアクターズ・スタジオにまで浸 透したスタイル。身体をかいたり、鼻をほじくったり、神経質に顔をびくびくさせたりしなければ、「演じて」いないことになる。それが自然主義。)
(違った方法で、ハムレットを演じる)

フランチャ・ラーメ――ダリオ、問題はあなたがコメディアンだってことよね。悲劇を演じていても、観客は笑うのよ! これは、おもしろ おかしい作品じゃない、まじめなのよ!

ダリオ・フォ――ああ、そう……あのね、僕は風刺してる訳じゃないんだよ、それなのに観客は笑うんだ。えーと、つまり……これが喜劇役 者の悲劇。この芝居が冗談抜きでどんな風に演じられるべきかを、みせようとしていたのに、皆がそっちで笑うんだからね! よし、わかった、後で別の例を引 いて、この問題に戻ってくることにしよう。

ところで、気分を一新して、少しリラックスしたところで、興味をもっていることに対して質問をして、僕を刺激してくれないかな。

質問――京劇をどう思いますか。

ダリオ・フォ――北京で京劇を観た。それと、京劇の役者さん達のために、僕らが作品を上演して、彼らも自分たちの仕事ぶりを見せてくれ た。ところが、彼らの演じてくれた作品を僕たちはあまりに気にいらなかったんだ。「古い」京劇と中国解放闘争に関する物語との寄せ集めで、演技のスタイル と全くあわないもんだからね。全面的に誤った動作のスタイルで、役者が動いていた。適当でない要素がスタイルにもちこまれていたんだよ。けれども、何年か 前、ローマで古い京劇をみたんだけど、それは、僕が今までみた中でも極上の演劇だといえるね。創意、狂気、動きや踊りの芸のものすごい技がそこにはあっ た。

質問――演劇史上、衣裳の形式が動き方に大きく影響を与えたとお考えですか。

ダリオ・フォ――そう思うよ。衣裳は、照明、空間、効果音、音楽など、演劇をつくるものすべてに影響を与える。僕が衣裳をつけないこと にしているということも、同じ様に、影響力があるね。フランチャと僕は、最低限の衣裳で演ずる方が好きなんだ。衣裳をつけてでたこともたくさんあるんだけ どね―バカげた衣裳や突飛な物、仮面なんかも効果音や舞台効果を使って幾度か着たよ。でも、最小限の小道具を使って、裸のまま舞台に立つと、役者は工夫す ることをさらに強いられるんだ、ということに気がついたんだ。特に、場面の状況を設定してまとめあげることが、強いられる、(設定については、後で話すか ら、覚えていてほしい)

質問――自然主義と現実主義の違いとは何だと思いますか。

ダリオ・フォ――どんなものでもそうだが、自然主義といっても様々だ。色々な方法で、自然主義は表現される。ちょうど、現実主義に色ん な形式があるのと同じように、ね。たとえば、映画の現実主義はイタリアの伝統であり、全く違った現実主義がドイツ人によって培われてきた、という具合だか ら。一般的にいって、自然主義は、異常なまでに、状況を過度に詳しく再現する傾向にある。詳細を再生して、誇張して演じるんだ。一方、現実主義は、より満 足な形式に現実をつくり直す試みだ。

質問――現実主義の方が古い形式なのですか。

ダリオ・フォ――いや、どっちが古いかという問題じゃないんだよ。どんな時代にも(古代ギリシアにまでさかのぼっても)、自然主義の傾 向を示す時期があって、それが、とても情熱的な現実主義へと移行しているんだよね。たとえば、ローマもそうだ。ローマの肖像は自然主義的だよね。彫刻だ と、様々な種類の大理石を使い、色を塗り、静脈までも再現している。しかし、――その後、全体の大きな仕組みを理解しまとめあげる時代が訪れたのだった。 この経過は、映画、演劇、造形芸術等にも、確かに、あてはまる。

それから、叙事詩というスタイルがある。叙事詩は現実主義から派生している。役者の意識的な異化がその特徴だ。自分が演じていることに批判的になる。情報 を伝え、何かを試すことに留まらず、観客に選択をさせるのだ。その作品を読むのに必要なデーターを観客に提供しようとするんだよ。

さて、今、叙事詩というスタイルについて話している訳だけれど、ブレヒトは機械的な表現形式を自分で生みださざるをえなかった。なぜか?―彼も言っている 通り―戻るべき民衆的な伝統がなかったからなんだ。当時ドイツには、周辺的でかつ好事家のみのための大衆性しか表現されていなかった等とブレヒトは説明す る。そこで、彼は第三人称の技法を生みだしたんだ。役者は、自分を二つに分けて、こう言わなくちゃいけない。「私は私ではなく、彼である。今喋っているの は彼。あなたについて三人称で喋っている。」つまり、いつでも、「これは彼だ、と彼は言う」と言って話し始めるんだね。人称を転換して、「明日私は家に帰 ります」と言う代わりに、「明日家に帰ると彼が言った」と言うわけさ。今喋っているのは別の誰かで、その誰かが他の人がしたり言ったりすることを伝えてい るんだ、ということを役者は頭にたたきこまなくちゃならないね。この方法は、心理的な負担が大変大きいよね……本当にドイツ的なスタイルだよ! けれど、 はっきりした理由が、裏にはある。

つまり、当時のドイツの演技法は、どんな種類の演劇でも、ものすごく「力がこもった」スタイルで、大変不評をかっていたんだね。皆、自分のパートを歌おう とするんだよ(歌ってみせる)。観客には、劇の筋は伝わらず、その筋の歌声だけが響いていた。そこで、均衡を保つため、つまり自然らしさを回復するため に、ブレヒトはこの技法を創り出したんだ。

イタリアは、幸運なことに、様々な貴重な(しかも現在も生きている)演劇の伝統に恵まれている。イタリアには、今でも民衆演劇が存在しているよ。民衆演劇 には、歌いあげるスタイル(カント)はなくて、物事は直接語られ述べられるんだ。喋る時、演じたり議論したりする時、声の高さはいつも同じだよね。歌った りしないよ。僕には、こういった民衆演劇の伝統が息づいていて、それは、自分が受けてきた演劇訓練の一部でもあり、鏡でもあるんだ。けれど、イタリアに は、おかまいなしに歌う役者が何百人もいて、言ったりしたりすることが全部「自然主義的」なんだっていうことも忘れないで欲しいね。大げさで、力の入りす ぎた、新古典主義的自然主義さ。

質問――フランチャさんがさっき言っていましたが、喜劇役者なので、まじめにとられにくいそうですね。だとすると、ダリオ・フォさんの 様な喜劇役者はどうやって、まじめな場面でまじめに受取ってもらえるんでしょうか?

ダリオ・フォ――この問いを解く鍵は、設定にあるんだよね。僕もシリアスで劇的な作品を上演することがあるよ。状況が劇的に設定されて いると、観客は僕のことをシリアスで劇的な役者だとみるんだよ。たとえば、フランチャは、喜劇役者として知られているよね。僕達二人一緒にでるある作品で は、彼女は完全に悲劇的な役をつとめるんだよ。ここ(リバーサイド)でも、そういった作品の一つを演じるだろうと思うよ。レイプされたことのある女性につ いての話なんだ。他にももう一つそういった作品があって、僕も気に入っているやつなんだけど、フランチャが大部分書いたんだよ。ある母親がテレビをみてい る時に、息子がテロリストだということを発見するっていう劇なんだ。もちろん、こういった設定は、観客を笑わせようとしているわけじゃあない――こっけい だったり、ばかげているようにとられる要素があるにしても、ね。……むしろ、設定のなかでは、それも悲劇的にみえるんだよ。

グロテスクな表現に対する手がかりは、悲劇にあるよね。ところが、反対に、悲劇を演じるもっともよい方法っていうのは、ぎりぎりまでグロテスクにするって いうことなんだ。では、フランチャに前に出てきて、「母」から少し演ってもらうことにしよう。

フランチャ・ラーメ――ごめんなさい、っていうのはね……一ヶ月もこの芝居をやってないのよ。ともかく、女たちの本当の証言をもとに書 かれた芝居なの。テロ行為のためにイタリアがおかれている劇的な状況を皆に知ってもらい、さらに観客の人々に、誰でもが――私たちは誰でも――テロリスト の息子を持つことがありえる、っていうことをみて欲しいのよ。この脚本でむずかしいのは、大部分、(今日は、そのほんの一部だけを上演するんだけど)意見 が大声で話されるってことよね。ちょっとびっこになっちゃうかもしれないね……今朝、足首のギブスをはずしたもんだから。じゃあ、ちょっと演ってみましょ うか。(「母」の一部分を演ずる)

――注目して、って言ってるだけじゃあないのよ。想像して欲しいの、特にね。ちょっと考えてみて……想像してみてよ……家で、テレビのニュースを横目でみ ながら、夕飯を食べているところを。写真がうつり、殺人の後、テロリストがつかまったとの声が聞こえる。名前……名字……冷酷な犯人……写真がうつり、心 臓がとまる。まさか! あなたが知っている人、それもかなりの顔見知り、隣りの息子かも。あなたの息子。あなたの育てた息子。ありえないって? ばかげて いる? 何故? 息子なんかいない? じゃあ――兄弟、姉妹。さあ、考えてみて。彼なのよ……彼女なのよ……テロリストは――(拍手)

この芝居はとっても長くてね――これが三十五分も続くの――今、演ったのは、始まりの部分だけどね。

(ダリオ・フォへの質問が続く)

質問――コメディア・デラルテとの関連で……演劇の伝統……政治的な分析について知りたいんですが。(英訳者註――テープでは質問がき ちんとききとれない)

ダリオ・フォ――コメディア・デラルテのなかには、民衆の伝統と結びついたものがあって、僕もとり入れてきたんだよ。

まず、コメディア・デラルテに関して言うと、コメディアに対する大きな誤解が、特に外国の役者の側にあるね。ヨーロッパ中の大学の教師――イタリアも含め て――でもそうだよ。何故か? コメディア・デラルテを一つのものとしていえば、カリッシーミ家とジェローソ家(「やきもち」劇団)それで全部なんだよ ね。大きい家だけなんだからね……アンドリーニ家とか。こういう家族は、ヨーロッパの重要な宮廷に仕えていた劇団なんだ。たとえば、フェラーラ公爵やロ ア・ソレイユつまりルイ十四世(彼の父、そのまた父)なんかにね。当時、どれだけ彼らがもてはやされていたかを示す話があるんだ。

ジェローソ家、つまりジェローソ劇団は、フェラーラ公爵に仕えていたんだ。今でいえば、大企業に資金をだしてもらっているサッカー・チームみたいなもんだ ね。フィアットが経営しているユベントスみたいにさ。ともかく、フランスの王がある時、彼らに、娘の結婚式で芝居をするように命じた。当時ユグノーと戦っ ていたフランシス一世だよ。十日前に、ユグノーを千人も捕まえて、投獄したばかりだった。ジェローシ家の一団が、リオンから式にむかう途中、ユグノーが彼 らを捕まえて、即座に王宛てに手紙を書いた。曰く、「ジェローシ家の人々を返してほしいのなら、そちらにいる捕虜千人を解放せよ」はたして、王は千人のユ グノーを全員解放したんだよ! もしジェローシ家の公演ぬきで結婚式をすれば、王にとっては大変な不名誉だからね。コメディアの芸人たちのなかには、文化 的社会的なレベルで重要な役割を担っていた人々がいたんだ、ということをこの話は示しているよ。

問題は、こういった劇団が演じていたコメディアは概して保守的で、徹底的に反動的な内容だったという点だよ。(自分で作品をみて、確かめてみるといいよ) ――ところが、コメディア・デラルテには、全く別の喜劇役者の伝統があって、彼らもプロだけれど、宮廷や貴族社会には登場しなかったが、居酒屋や街角、 ずっと下層の場所に出没していたんだ。彼らの作品がまとめられたり、出版されたりしたことがないのは、単なる偶然じゃあないね。目録が作られたこともな い。研究されたこともない。

コメディア・デラルテを研究しようと思うんなら、その基盤としてどういう政治的・文化的方向を選択しようとしているのか、決めなくちゃならない。たとえ ば、もっとも偉大なコメディアの作家――模範といってもいいだろうね――は、ルツァンテだけれど、彼は何世紀もの間、研究されなかったんだ。70年前に やっと、復活の日の目を見たんだからね。それでも、彼はイタリアでもっとも偉大な演劇人であり、ヨーロッパでもシェイクスピアと並ぶ重要な劇作家の一人だ と思う。

質問――「喜劇的宗教劇」の脚本は、どの程度が、伝承によるもので、どの程度ダリオさんの創案によるのですか。

ダリオ・フォ――まず、テキストが実際にあるんだということを言っておかなきゃいけないね。口承されたものを書き写したのだろうね。 「歌」から派生したものが大部分で、役者のせりふから派生したんではないんだ。非演劇的なんだがストーリー、物語りとして語られるものもあるね。ほんのひ と握りの専門研究家にしか知られていない重要な作者が何人かいて、彼らは、知られたら危険だから、知られていない。彼らのことが知られると、文化の構造全 体、文化の機構全体を揺るがすことになるからなんだ。そこで、ただ黙殺されるというわけだよ。

こういった作品すべての基本的な意味には、ベールをかぶせて、隠してしまうというのが世の常だ。こういう煙のまき方の古典的な例は、マタツォーネ・ダ・カ リナーノだよ。マタツォーネは、ロンバルディーア出身の十三世紀の作家。問題の作品は、マタツォーネのモノローグなんだ。(ところで、この名前は大馬鹿っ ていう意味)。農民がでてきて、自分のことを人間だと思っている農民がいる、とさげすんだ口調で説明する。本当は、と農民は続ける。農民は人間ではな い……人間にみえているだけなのだ。そして、次の様に「農民の起源」という話をする。

ある時、男が神に会いに行った。「ご覧ください、もうこれ以上仕事が続けられません。七世代たったら、私の状態を楽にしてこの苦しみから解放してくださる と、約束したじゃありませんか」と、彼は言った。そこで、神は「オーケイ、お前の身代りを創ってやろう」と言って、手をのばしてアダムのあばら骨をもう一 本とろうとした。アダムは、「おやめください……けっこうです……もう一本とられているのですから……けっこうです……また一本とられたら、内蔵が出てき てしまいます。」と言った。「よし」と神は言うと、通りがかったロバを見て、指を三本たてて合図をした。すると、ロバは妊娠してしまった。

九ヶ月後、ロバはスゴい屁をした。そこから、農民がでてきた……クソに全身まみれて! その瞬間、空が裂けて、雨が滝のように、雷とともに降ってきて、農 民の身体を洗った。

そこで神は天使を呼び、言った。「ズボンを一本彼にやれ。だが、前はボタンなしで、開けといてくれ。そうすれば、小便をする時にボタンをはずす時間を無駄 にしなくてすむからな。百姓は働かなきゃいかんのだ、一日中な。」

ここでマタツォーネは、農民がいかに使われ取り扱われるべきかを述べたルールのリストをみせるんだ。――このルールは、何世紀ものあいだ、支配者、地主が 農民たちに対して使ってきたものそのものなんだ。

この作品は全く研究の対象とされていない――が、イタリア文学の起源の一部であるわけだ。その上、イタリアの大学でたまに取りあげられるような場合でも、 誤って上演されるんだよ。一般の民衆が自分の生活状況について語った作品としてではなく、台頭しつつあるブルジョアジーについての作品として、上演される んだから。

質問――イタリアとギリシアにおける労働の身振りという点から、演劇の起源について話してくださいましたが、他の国でもあてはまります か?

ダリオ・フォ――明らかに、現代の文化は、身振りをする(ゼスチュアリタ)能力を破壊する傾向にあるよね。今の身振りは、身体をいかに 機械に合わせるかによって決まっている。どう運転するか、どうパチンコやテレビ・ゲームをするか、さらに流れ作業の機械が、僕たちの身振りを支配してるん だ。機械の型に従わざるをえないために、各々が気がつかないところで、身振りはどんどん機械化されているよね。ベルトコンベアを労働者の前からはずして彼 のやっている動作を真似してみると、まるでキチガイだよ。……(やってみせる)狂気だよね。

もう一つ知ってほしいのは、こういった身振りは、ダンスにいくと――若い人が夜、踊りにいくじゃないか――でてくるってことだね。イタリアでは、近頃人気 のある踊りのスタイルは、ローマではなく、ミラノやトリノといった工業都市から生まれてるんだけれど、このことは単なる偶然じゃあないんだよ。「バンバ ン」では――これはそういった踊りをする場所のことなんだが――ものすごいやかましい音がするんだ。こんな風に躍ってるよ。(やってみせる)まだ、工場の なかにいるみたいだろう? 流れ作業についている時と全く同じだけやかましくないと、躍れないんだよ!

それから、流れ作業で出る音が機械化されていくにつれ、ダンスの音楽が機械化されていっているというのも偶然の一致ではないよね。ロック・ミュージックの サウンドと、こういう最近のディスコのスタイルとは全然共通するところがないよ。ディスコのサウンドとリズムは、いつも同じなんだから。トウン・チ・トウ ン・チ・トウン・トウン。音色が一定なんだよ。心の底から酔わせてしまう、陶酔させるんだよね。想像力の入りこむ余地がないんだよ。ドラムの代りに、無表 情な録音技術が使われているんだ。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ等々でもそうだよ。

何が言いたいかというと、自分たちの歴史、自分たちの起源の中から、別の様式、別の概念を創り出す義務が僕たちにはあるっていうことなんだ。文化や運動、 行動を今のような方法でとらえることを鼻持ちならないと思い、風刺するという単純なことだけでも、重要な政治行為なんだよ。

質問――おっしゃるように録音された音楽は、アフリカの部族が演奏する音楽に大変類似していると思いますが、どう思いますか。人間の声 を使って作られたサウンドとずい分似ていますよね。

ダリオ・フォ――確かに似ているが、同じじゃないよね。アフリカの音楽は、共和的な関係のなかから生まれたんだから。それに、アフリカ の部族のリズムには、遅くなったり速くなったりのずれがあるよね。太鼓には音程がある……、パン・トゥン・ティ・トゥン・ダン(太鼓の音とリズムをやって みせる)機械は、こんなことできないよ! 機械は、ブーン・トゥン・ブーン・トゥン・ブーン・トゥン。一定で変化なし。狂気だよ。



編集後記

三月三、四日。お馴染のユーロ・スペースでコンサート。例の如く“会場整理係”。この「あそこがあいています」「すみませんが、あと五センチほど(つめて 下さい)」の係がなせか“人気”で、このコンサートの数日前去年水牛楽団と共演した石井かほるさんのコンサートでも頼まれてしまった。

三日は、小雨。ぎりぎりに来た五、六歳の女のコふたりと、生後半年ぐらいの赤ちゃんを連れたお母さんは、前の白く長い座布団の上。女のコふたりは開演と同 時に、透明なプラスティックの容器に入ったトリのソボロ弁当を、まるで遠足に行って、春の日さんさんの土堤で弁当開げてるみたいな、悠々たる物腰で食べは じめた。一曲は悠治のピアノ、ソロの「カラワン」だっただけに、その対照は見事。しばらくして連れ合いらしい男性も来て“お揃い”。あとで聞いたらふたり の女のコは友だち同志だったとか。

今回初演のDOLLの「ことばあそび・こえあそび」の動作が、まわりで“流行”。チラシ印刷のあとでメンバひとりふえた。常田景子、クリスマス・イヴ生れ のAB型。

「水牛通信」も間もなく五周年。今年から少し変えようと、編集会議を聞いたりしていたが、次号からいよいよ、“すっかり変身”しようとしている。具体的な 内容は見てのお楽しみ、なのだが、「集団で私有する」(高橋悠治)方針で、毎月ひとり二ページ、計十五人の人が、それぞれのジャンルで、何をしたかこれか ら何をしたいか、について克明に報告するスタイルをとる。十五人のメンバーについては、何人かを固定、何人かはその都度入れ替る予定だが、現在予定されて いるのは、「ブタ草日記」(竹内晶子)「ぼくが作った本」(平野甲賀)「ここで、こんな音楽を」(西沢幸彦)「料理がすべて」(田川律)「ぼくのスター日 記」(坂本龍一)など。毎号、読者のページも用意するので、ふるって投稿してほしい。二ページで、原稿用紙約五枚(四百字詰)内容は自由だが、意見ではな くて、事実についての報告、たとえば、ガードマンをしている人の一ヶ月の日記とか、看護婦の病院観察記とか。書く人の現場が生き生きとほうふつできるもの を期待する。しめ切りは毎月十五日必着。誌面の体裁もこのさい少し変えたり、と思っている。 (田川)




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