人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1987年2月号 通巻91号
        
入力 桝井孝則


ショートな初 体験ぼくも逮捕されたその一 R・リケット
く じゃくのくしゃみ 木島始
任意の一日 山川枯草木
フィリピン・民衆の生と民主化への運動 高頭祥八
水牛通信一〇〇号記念コンサートのおしらせ
BOOK INN閉店記 津野海太郎
料理がすべて 田川律
可不可(その一) 高橋悠治
走る・その12 デイヴィッド・グッドマン
編集後記



ショートな初体験ぼくも逮捕された(その一) R・リケット


去年の十二月号の『水牛通信』に載った横堀さんの話を笑いながら、とてもおもしろく読んだ。「犯罪」そのものよりも、彼の「権力への独特の反感」の方に目 を向けるのは、さすが日本の警察・検事だな、と思った。というのは、実は、さる十二月十八日、ぼくも生まれてはじめて逮捕されたからだ。「指紋押捺拒否」 の容疑で、やはり二泊三日、渋谷署のお世話になり、横堀さんと同じ臭いメシを食わされた(実際にはお茶も食事も拒否したが)。ただ違うところは、ぼくは逮 捕を予期して、しらふで迎えた。それは友人Pさんが行言う「一指、大罪」を覚悟していたからだ。

つかまる前後の事情をひとことで言うと、本当に大変な年末だった。すでに、詩人金明植さんを初めとして四人の永住権をもたぬビザ切れの拒否者は不法残留状 態となり、国外追放を強いられていた。そして、十一月上旬から、警察が全国で任意呼び出し状をかつてない急速なペースで、延べ百五十人ほどへ手渡した。

それから、十七日、二十日、強制退去処分、任意出頭状の大量送付などに対しての抗議集会で、十人がパクられた。丸の内警察はそのうち、在日中国人を含めて 三人の家を家宅捜索し、二人を起訴した(その一人は七十日間の拘留に耐えて、釈放されたばかりだが、もう一人はまだ東京拘置所にいる)。十二月に入ると、 警察は大阪、東京で、自治体を強制捜査で脅迫して、住民票に等しい拒否者の「原票」の写しを手に入れて、六人の拒否者を相次いで逮捕した。

警察・法務省の弾圧に対して七人の仲間は十二月十八日付で「私たちは指紋押捺拒否した“確定”的な逮捕予定者です」という傑作文『逮捕予定者宣言』を出し た。その中に、「私たちの“指紋押捺拒否”は私たちの三十年(*)の“怒り”である。私たちの“恨”である。そして、自由への願望である。私たちは、私た ちの“拒否の闘い”を、人として誇るに足る行為であり、思想であると確信している。来るべき私たちの“逮捕”は、私たちにとって、光栄である」と書いてあ る。

しかし、逮捕を予期していても、逮捕への対応はいろいろありうるだろう。例えば――、
その1  犯人が高層ビルの七階の部屋に閉じこもっている。一中隊の機動隊がビルを包囲して、非常線を張っている。公安警察の特別部隊が部屋のドアをたたきつぶし て、中へ突入した途端に、犯人が窓から飛び下りてしまう。下に大勢寄り集まった近所の人々の一人は「あの人はいったい何をしたのか?」とあぜんとした声で 聞く。隣のおばあさんは、こう答える。――「あれは、指紋押捺を拒否した人だよ」(朝鮮人Oさんのシナリオ)
その2 犯人が高層ビルの七階からエレベーターで下りた途端に下のロビーで待機している五人の私服が彼に近寄って来る。「ちょっと、お話しがあるから、一 緒に警察署へいきましょう」と年とった温厚そうな刑事が控えめに言う。「逮捕ですか?」に対して「そうです」と答える。「じゃ、ちゃんと手錠をかけてくだ さい」との犯人の要求に、警官がこまった顔をして「マアマア、お宅は紳士だろう」とさとす。犯人が静かに連行されて行く。

2はアメリカ人のぼくのシナリオだが、くやしいことに、実際に、初体験はそのとおり始まった。より大きな期待をしていたのに、結局、龍頭蛇尾に終わってし まった。けれども龍頭と蛇尾との間には、ちょっとした小喜劇がいくつか演じられた。第一幕は「指ごっこ」と呼ぼう。

国際化時代が正に到来した。その証左は警察でさえその風潮にあわせていることだろう。拘留手続きの時に、警官の通訳がつけられた。彼はニューヨークに一年 ほど滞在した経験の持主で英語はペラペラだった。ただ、彼が一番警察の役にたったのは指紋採取の時だった。

さすが『逮捕予定者宣言』はその辺りを的確に予言していた。「私たちは、逮捕され連行されたのち、何人もの警察官たちに、手足を押さえつけられ、指をねじ 曲げられて、十指指紋を暴力的に採られることになるだろう」

最近、逮捕されそうな拒否者の間では、警察署でくりひろげられる「指先の攻防戦」が最大の関心事となっているが、ぼくは指相撲はもちろん、レスリングもだ めで、年もとってきたから激しい運動は苦手。だから「さあ、指紋だ」と言われた時、ぎょっとした。それにしても、どうにか勇気を少しふりしぼって「でも、 ぼくはイヤです」と小さな声で言った。それだけじゃ心配なので、両手をポケットにつっこんで、ひじ掛けいすに体を押しつけた。その恰好で、座ったまま、警 察に理を説こうとした。

どっちみち、ぼくはこれまで何をしても、現場に指紋を残さないように十分注意してきた。だから「今さら採ったって捜査の役に立たないぞ」と思ったが、どう も、この論理は効目がなさそうだ。指紋是非に関する大論争を三十分ほどやったが、結局、法解釈の相違に終わってしまった。

その時点で、「絶対に採らせるんだ」……「イヤダ」……「どうしても」……「イヤ」というキュートなやりとりのあとで、五、六人に押さえつけられて三十分 の間、汗をたらしながら懸命に「人さし指の踊り」を警官とおどった。踊りが始まると、ぼくの味方になったはずの通訳の警官は少しは実力を見せるためか、ぼ くの後ろにそっと回って息が苦しくなるぐらい人ののどを締めたのだ。

腕がすぐポケットからずるずると引っ張り出されて、ぼくの好きなぼろぼろズボンの縫目はビリビリ裂けてしまった。でっぷりしたお相撲さん風警官の戦士が テーブルの上にひっぱりだされたぼくの腕の上に正座したのには参った。その時「もういい、オレは何でもするから」と言おうと思ったが、どうも、実際に出て きたのは「何でも言うから指先だけは勘弁してくれ」なさけない話だ。

その後、ぼくが押さえられても、腕がマヒしても、左手の指先は自ら早いペースで躍り出た。五人の警官はそれにあわせるために全力を上げたが、足並みがそろ わなくなったみたい。最終的に、よろめいて倒れそうになるところで、ぼくは左手の人さし指の指紋を賞品として取って、相手はあきらめた。「皆様! どうも ごくろうさまでした。ただいまの時間、本日の“日米指相撲国際大会”は終わります」という感じだった。

釈放されてから間もなくわかってきたことだけれども、ぼくが逮捕された時に、その担当警部補は渋谷区の区民部長に電話をして、「丁寧にやりますから、心配 はいりません」というボス交が行われたようだ。渋谷警察は、確かに「丁寧」だった。ズボンは裂け、指一本はよごれてねんざしていたが、それでもぼくの場合 はまだいい方だった。

大阪の中国人女性Xさんの場合は、警官が最初の日、「キミの好きな指紋を採ってやるから」と言いながら、指一本分しか採れなかったので、次の日に残りの九 本の指紋を強制的に採取した。また、十一月五日に尼崎で逮捕された金成日さんの場合には、五人の警官が議論なしに彼を押さえつけて、四つんばいにしてか ら、アルミとプラスティックで作ったSM小道具のような強制具に、腕をはりつけにして、十指指紋を採った。同じ在日外国人でも、やはり自分が特別扱いだっ たことが、後から振り返ってみると、にがい思いとして残る。

「たかが指紋、されど指紋」確かにそうだ。参政権をはじめとして市民権のない在日外国人は「人間の自由を主張する、ひとつの証し、ひとつの表現として…… “拒否”と叫び、“外登法を改正せよ”と要求してきた」(『宣言』)けれど、指先の小さな自由を求めただけで、再入国禁止、国外追放、拘留、起訴などを覚 悟しなければならない。が、それでもいい。差別せず、されず、人間らしく暮らしていきたいというのが拒否者の願望であり、権利である。たかが一本の指先、 されど権力が揺らぐ。(つづく)

(*注・外国人登録法は一九五二年に制定された)

 次回もドラマはつづき、漫才も登場します。



くじゃくのくしゃみ  木島始


はたけいちめんに
くじゃくをうえて
かねもうけしたよ


とりたちのあしは
じめんにうまり
ばたつくつばさ


こっぴどいや
こんちきしょう
コックワックー


あさひるばんと
はたけじゅうに
とりのなきごえ


コックワックー
こっぱみじんに
ころしてくれえ


けたたましさ
せかいいち
くじゃくばたけ


きらびやかさ
せかいいち
くじゃくばたけ


なにがなんでも
みみにせんして
もうけやごりっぱ



任意の一日  山川枯草木

十一号を拝見して、そういうことなら、ひとつ。思えば、ずい分楽しく読ませていただいた。知り学ぶことも多かった。マスコミとではなく日本とつ ながっているという気分はかなりよい。

さて、夏がどのあたりにあるか、近づいているらしい。何週間も前から夏時間ははじまっている。時計の針をある日午前2時だかに一時間すすめる、というやつ である。今年から三週間長くなった由。たしか始まりが二週間ほど早かった。これで日本との時差は二時間。こちらが早い。夕暮れがますますながくなる。

暑い日が突然きて、突然去る。六ケ月前か後かにずらして季節調整すると、まだ日本の五月のおわりである。そのような一日、午後七時、柔道衣のマタを無断着 用し、印度木綿の半袖にうでを通して、メルボルン映画祭短編小委のあつまりにでかける。今年度の「反省会」。よかった、まあまあ、わるかった、を丸でかこ む質問表を配ることをしない。かなり雑然とはなす。

作品の選考について。基準についてでない。メルボルン映画祭(六月)は、短編にコンクール(グランプリと最優秀ドキュメンタリ賞)がある。招待の他は送ら れてきたものを投票で選ぶ。今年、日本からは「はじけ鳳仙花――わが築豊、わが朝鮮」(監督土本典昭、音楽高橋悠治)、「アントニー・ガウディ」(監督勅 使河原宏、音楽武満徹)が招待。結局「ガウディ」は長編の方に組み込まれ、その他応募作はなし。選考映写会にでてるく人の数は一定しない。五人から十人。 ABCDEに分けて札を入れる。今年は、Aが一つ入っただけでも上映する方式だった。いろんな人が委員会にあつまっている。中国電影輸出輸入公司国外業務 部、元上海下放青年馬さんもいる、これはいろいろな考えを受け入れるやり方である。ただ作品が多すぎるという批判もあったらしい。耳の上の毛がのびかけて きたところにつるをのせて怪人二十面相のメガネをかけ、ポスト構造主義で映画を見ようとしているデビーパンクねえちゃんが、Aか非Aかを投票すればいいと いうので、自同律の不快を覚え、CかDかをきめることが選考会出席の快楽の過半をしめる、と声をあげねばならない。結局一応Aは二つ以上。

その他、いろいろあったらしいが、暮れゆく窓の外をみている。夜の仕事(!)をしていたころ、日の暮れ方をみることができないので、大した損失だと思って いた。今でも他にすることがあって、こうして、このような機会にしみじみユーカリの木の幹にうすれてゆく光をみているわけである。実に貴重な時間だ。

来年一月末に選考会をはじめることをきめ、何となく終わって、スー・スチュアートにきいてみる。この人が修士論文を書いている大島渚の「絞死刑」を一緒に ビデオでみたとき、自分の学生で韓国から国際関係論をしにきている人がいるからとアンドルー・ペリーが呼んでくれたチュクンさんが用事があるからと途中で 出て行ったけど、あれから会って話きいてみた? いいえ。

外はほぼ暮れきった。パーク通りを通って帰る。料理用のシェリーがまだ残っているはずである。

 * メルボルン映画祭短編映画コンクール申し込み用紙は、

   Melbourne Film Festival
   41 A'Beckett St.,
   Melbourne, Vic., 3000.
   Australia
   Tel. 03-663-1395

にあります。
長さが六十分を超えると対象にはなりません。英文字幕でねがいます。その点につき問題があるようでしたら、日本フィルムライブラリー協議会のシミズアキラ さんに御相談ください。

(編集部・この原稿は昨年末にオーストラリアから送られてきたものなので、文中「今年」とあるのは「昨年」の こと、したがって「来年」とは「今年」のことです)


フィリピン・民衆の生と民主化への運動  高頭祥八


マニラ・一九八五年五月

赤旗が林立するボニファシオ広場の上空、青く澄み渡った真夏のマニラの空に溶け込むように黄色くKMU(五月一日運動)と染め抜かれた、真っ赤 な旗が上がっていた。

市内、近郊の各方面からデモ行進をして、ここに集まった五万人の労働者の間から、ピリピーノのインターナショナルの歌声が沸き上がった。まだマルコスが健 在を誇っていた一九八五年五月一日、ラボール・デーと呼ばれるフィリピンのメーデーの日である。壇上には昨年一一月に虐殺された、オラリアKMU議長の姿 もあった。

わたしの所属する、日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議(JAALA)では、十一年前から、「第三世界とわれわれ」をテーマとして、第三世界 の美術家たちと、作品を通じて交流する展覧会を開いているが、一九八四年の展覧会には、前年のアキノ暗殺事件以来、マルコス退陣と民主化要求で激動する フィリピンから、二人の画家と作品を招いた。そのとき「インターナショナルはフィリピンではまだ歌えない歌だ」と彼らがいっていたその歌がそれから八ケ月 たった今日、マニラの空に大きな合唱となってこだましている。

わたしをフィリピンに招いてくれたCAFPA(前進するフィリピン民衆のための美術委員会)による国際美術展は、この年の四月、マニラに隣接するケソン市 で開かれた。この展覧会には、国内、国外から寄せられた、数多くの作品が展示されたが、この展覧会でフィリピンの民主化と、国際的隷属関係からの、民族 的、文化的独立ということで、作品の多くも、国際的新植民地主義による、フィリピン民衆への抑圧と搾取、独裁政治による社会的不平等と不正、そしてそれに 苦しむ民衆の姿が主要なテーマとなっていた。またおびただしい数の島からなるこの群島で、それぞれ独自の文化を持って生活している、多様なフィリピン民衆 のアイデンディティーの追求も、彼らの運動の主要なテーマである。

彼らは自分たちの作品を「社会的リアリズム」と呼んでいるが、その表現はきわめて多様で、リアリズム、表現主義、シュールリアリズム、ポップアートまで、 巾広い様式が含まれていて、技術的水準も高い。

これらの作品の背景となっているフィリピン社会は、独裁政権による富の偏在、膨大な対外債務、生産性の低下、急激な人口増による雇用問題の悪化など、きび しい経済状況は、高度のインフレとなって庶民の生活を圧迫していて、わたしがいた四月から五月にかけても、銀行、タクシー、ジープニー、ホテル、工場な ど、たくさんの企業のストライキが目についたし、マニラ湾の汚濁に抗議する湾岸漁民の集会や、広範な文化人を集めたCAP(憂慮するフィリピン芸術家)に よる、国立フィリピン文化センター(CCP)のボイコット集会が各所で開かれ、新聞には連日のように、ミンダナオ、北部ルソン、サマールなどでNPA(新 人民軍)と政府軍の戦闘が報道されていた。

元マニラタイムスの編集者で、暫定休戦協定のNDF(民族民主戦線)交渉団代表になったオカンポが、留置されていた刑務所から、プレスクラブの式典に出席 して、そこから脱走したのもこの頃のことである。

また五月はじめには、バヤン(愛国者同盟)と呼ばれる、労働組合、農民団体、学生、少数民族、市民団体など、今までにない広範な階層を組織した、フィリピ ン最大の反マルコス政治勢力が結成されて、社会変革に向けて激しく動く民衆のエネルギーは、まさに地殻構造の、急激な変化を感じさせるものがあった。

CAFPAの展覧会には、ミンダナオとネグロスから参加したグループの中の、二人の画家に注目させられた。二人の作品はそれぞれ、ミンダナオとネグロスに おいて現実に起こっている、日常的な恐怖をテーマにしたもので、ミンダナオの画家の絵は「ダバオ・道端のアトラクション」と題されていて、迷彩服を着てタ バコをくわえ自動小銃をかまえた男が、屈辱と恐怖で顔を引きつらせた一人の男の頭に足をかけ、まわりには、笑いながらピストルを持った男たちが立っている という絵である。またネグロスの画家の絵は「サカダ」という題で、サカダは砂糖きび農園の季節労働者のことだが、砂糖きびの葉の上に四人の男が担ぐ蓋を開 けた棺桶、その棺桶に重い砂糖きびの束を背負って一人登っていく、孤独なサカダをプリミティブに描いていて、どこか無気味な感じのする不思議な絵である。 二つの絵の表現は、ともに平面的でナイーブだが、それが新しい表現方法となって目を引きつける。

ネグロスの砂糖きび労働者の貧困と窮乏は、断片的に聞いていたが、この「サカダ」という絵を見ているわたしに、展覧会主催者の一人が「ネグロスの砂糖きび 労働者の生活はひどい、いつ何が起きてもおかしくない状態だ」といった。


ネグロス・苦い砂糖の島

ネグロスは、フィリピン中部のビサヤ諸島の一つで、フィリピン四位の島である。面積一万二六〇〇平方キロメートル、人口約二九〇万人。ココナツ を主産業とする東州、ネグロス・オリエンタル(州都ドゥマゲッティ)と、砂糖産業に生活を依存する西州、ネグロス・オキシデンタル(州都バコロド)に分か れるが、世界六位の砂糖輸出国であるフィリピンの、全砂糖生産料の七〇%がこの島で生産され、「シュガーランド」と呼ばれている。西州の人口は約二一五万 人で、その七五%に当たる人たちが、砂糖産業で生活している。島の中央を南東に山脈が走り、最高峰はカンラオン火山、二四六五メートル。

マニラから一昼夜、船でネグロスに着いたわたしが、バコロドの街で真っ先に見たのは、静かなデモ行進だった。

真夏の白昼、白っぽいバコロドの道を、そのデモは青い旗とプラカードを立てて黙って歩いていた。先頭の人は大統領マルコスの肖像を胸に掲げて、シュプレヒ コールも無く、歌声も無く、デモは通っていった。あとに続いて行進する人たちの服装は貧しい。着古したTシャツや作業衣にサンダル、破れたビニールの帽 子、白い布を頭に巻いた人、木の葉をかざして真夏の炎熱を防いでいる人もいる。女も混じって隊列は続く。人を乗せたトラックが通り、水牛に引かせた荷車も 通っていた。道端に立ち止まった人たちも黙ってこのデモを見送っている。

彼らは北のアシェンダから来たサカダたちだ、ということだったが、行進する彼らの姿は、マニラの労働者たちの熱気にあふれるデモとはあまりにも対照的で、 植民地時代の経済構造がそのまま残っているというネグロスで、社会の底辺を形作っている、貧しい砂糖きび労働者の姿を垣間見た感じだった。

ネグロスの面積は四国の約70%、緑の豊かな美しい土地である。砂糖きびの単作農業が、耕地全体の60%を占める西州は、海岸まで広がるカンラオン火山、 マンダランガン、シライなどの山裾に、広大な砂糖きび畑が広がっている。その規模は、わたしの想像を遥かに越えるもので、バコロドから自動車で、南へ行っ ても、北へ行っても砂糖きび畑は延々と続く。

ネグロスでは十九世紀後半から、砂糖きび農園の開発がすすみ、隣接するパナイ島から仕事を求めて移住してきた人びとによって、開拓が進められてきた。以来 100年、スペイン統治時代の遺風をそのまま残す封建的主従関係と、極度に安い労働賃金の上に砂糖産業は築かれていった。大農園はスペイン時代そのままア シェンダ、大農園主はアシェンデロと呼ばれ、アシェンダに移住する労働者をドゥマーン、収穫期などに雇われる季節労働者をサカダと呼ぶ。そして215万人 の0.5%にすぎないアシェンデロとその家族が、土地の五三%を所有し、収入の60%を手にしているといわれ、土地を持たない、アシェンダや製糖工場で働 く、砂糖労働者とその家族は一六一万人にものぼる。

何世代にもわたって続いた、封建的主従関係を色濃く残すアシェンダでは、ドゥマーンは家族とともに農園の中に住む。ニッパやしの葉と竹と、わずかな木で建 てられた貧しい小さな家は、アシェンデロから与えられたものだ。賃金は請負制の出来高払いだから、一年のうち六ヵ月の農閑期には収入が無い。アシェンデロ から米を借り、最低の生活必需品もアシェンデロの経営する店からツケで買う。この借金は次の農繁期の収入から現金で返し、蓄えの出来ないままに、また仕事 の無い季節を迎える。これは生涯切れることのない、長い長い鎖だ。この鎖とアシェンデロの家父長的恩情主義が、労働者をアシェンダに従属させ、彼らの貧苦 のあえぎを隠していた。

しかし年を追って深まるフィリピン経済の悪化と、市場価格が生産コストの四分の一以下という、一九八四年末から国際砂糖価格の大暴落は、砂糖の単作農業に 頼るネグロスを直撃して、アシェンデロは栽培中止か、大幅な生産縮小に追い込まれ、30万人の労働者が仕事を失い、ただでさえ貧しい彼らを、その家族とと もに、いっきょに死と直面する飢餓の淵に追い込んだのである。

マルコス時代、政府は5000万ペソの緊急貸付をおこなったが、この救援貸付金は、農園主の手を通っていく途中で消えてしまったという。フィリピンの砂糖 産業は、大農園主で駐日大使だったマルコスの友人、ベネディクトを委員長とする、フィリピン砂糖委員会が支配してきた。彼らは巨額の利益を産むために、封 建的な社会構造を温存して、貧困の労働者を作ってきた。

フィリピンは本来豊かな国である。ネグロスも例外ではない。バコロド市内のリベルタ、セントラルなどのマーケットをはじめ、市内の商店には、あらゆる食料 品、衣料品、雑貨が豊富に並んでいる。しかしあまりの貧しさから、この豊富な食べ物を口にすることもできずに、餓死していく子どもたちがいる。ネグロスで はどの砂糖労働者の家庭でも、低い栄養から何かの病気で、少なくとも一人は幼児を死亡させているというが、一昨年の飢餓のために死んだ子どもは1000人 を越えた。そしてなお14万人が栄養失調で、危険な状態にあるという。

この年の九月二〇日、ネグロス北部の町エスカランテの市民ホール前の広場には、窮迫した砂糖労働者とその家族を中心に、5000人の人たちが食料の配給を 求めて集まっていた。この群集に向かって市民ホールの屋上から、政府軍の機関銃が火を噴いた。銃弾は、逃げまどう人びとを追って、女性、子供を含む二七人 が殺されたといわれる。

「俺の友人には山へ入った者もいる」バコロドで知り合った若者の一人がいった。山へ入る、それはNPAに参加することを意味している。この年のネグロスの NPAはまだ、南部と山間部を中心に活動しているようだ。


バコロドふたたび

一九八六年一〇月、バコロドの空港はマニラから来る家族、友人を迎える人びとで賑わっていた。わたしには二度目のバコロドである。

その間にフィリピンではマルコス政権が倒され、アキノ新政権が誕生した。PAN(人民党)が創設され、オラリアが議長になった。CAPがボイコットを呼び かけていた、フィリピン文化センターは開放されて、マニラの街は、文化的には自由な雰囲気が強かった。「人民党創設のときは、文化センターが赤旗で埋まっ た」とマニラの友人は話していたし、イメルダが銀行に投資させて作ったモパ・コレクション・ギャラリーは、フィリピン・アート・ミュージアムと名前を変え て、さまざまな立場の美術家による、国際平和年にちなんだ「平和のための美術家たち」の展覧会が開かれていた。しかし新政権後もインフレは進み、新しい社 会政策の実現は遅々としている。

バコロドの状況は、前の年よりもっと悪くなっていた。街にはシャッターを下ろした商店や企業が目につく。街全体に活気が無く、マーケットの買物客も少ない ように感じられる。竹や砂糖きびで作った民芸品も、品質が落ちて少なくなっていた。

仕事の無くなったアシェンダや、製糖工場から解雇された労働者が、バコロドに移住してきて、スラムの人口が急増している。その数は5万とも10万ともいわ れているが、バコロドに来ても彼らに仕事は無い。七人の子供を抱え、一日十三ペソでセメント運びをする男。日当は25ペソだが、仕事は月に七日しか無い、 九人家族を養う臨時大工。つれあいに死なれ六人の子供を抱えて、月200ペソで洗濯に通う四〇代の寡婦。竹で作った三メートル四方くらいの粗末な小屋に、 たくさんの幼い子供たちと住む彼らに、政府からの援助はまだ何もない。(1ペソは約8円、いちばん安い米が1キロ約6ペソである)

バコロドのスラムで会った人たちには、ネグロス南部のアシェンダから、移ってきた人が多かった。最も過酷な状況にあるアシェンダ労働者の家族や子供たち に、食糧の配給や環境改善の緊急援助をおこなっている、現地のNGO団体、CDREネグロス(市民災害復旧センター)のスタッフの説明でも、南部のアシェ ンダの状況がいちばん逼迫しているという。


砂糖労働者からの自立

ますます厳しくなる状況の中で、窮迫する砂糖労働者の生活を組織しているNFSW(全国砂糖労働者同盟)は、バコロドの本部を中心に、緊急を要 する労働者と、その家族への食糧の配布、政府に対する労働者用の農地解放の要求、さらに栽培を中止した農地を借り受けて、砂糖労働者が自活のための作物を 作る、ファーム・ロット・プロジェクトの実施など、さまざまな活動をしている。ファーム・ロット・プロジェクトは、自活作物の栽培を通じて農業技術を身に つけ、砂糖労働者の自立を計ろうというもので、すでに各地に3000ヘクタールの土地を借りて、米、野菜、とうもろこしの栽培が進められ、豚、山羊の飼育 もおこなわれているという。

砂糖きび労働者から、協同組合を基盤にした自立する農民へ、ここのプロジェクトには、彼らの将来への夢が託されている。しかし今年結成十六年を迎える NFSWの歴史は、テロと弾圧にさらされた歴史でもある。一昨年ネグロスでは、二七人の組合、学生運動家が、拷問の跡も生々しい惨殺体となって発見され、 八人が行方不明になっているといわれ、昨年二月のアキノ政権に変ってからも、二人の組合活動家が惨殺されている。

フィリピンの一〇月は雨期の終りの月だが、カンラオン火山は低い雲に隠されていた。バコロドから東へ、山裾の町ムルシア近郊のアシェンダ。アシェンダへ行 く道では、道端のココやしの葉が風に揺らいでいる。この辺りの砂糖きびの収穫は来年で、畑の砂糖きびはまだ若い。草むらに繋がれた水牛のむこうに広がる畑 では、ドゥマーンたちが家族総出で陸稲の刈り入れに働いていた。一七才のときからここで働いているという、ドゥマーンの一人が話してくれる。

「このアシェンダは133ヘクタール、あとは米を作っている。ここには54家族の労働者が住んでいて、子供は367人、俺のところは夫婦と子供5人で、一 日に食べる米は三キロだが、今日の収入は15ペソだから米代にも足りない。仕事の無いときは、近くの川でとった小魚の干物だけの日もある」

稲を束ねながらしゃべり合う、女たちのイロンゴ、束ねた稲を頭にのせて運ぶ男たち。米の収穫が終わると、次の砂糖きびの刈り入れまで、収入の無い農閑期が 始まる。もうアシェンダには頼ることのできない、窮乏の生活だが、NFSWに加入しているというこの労働者たちには、ビサヤンの陽気さがあふれていて、ど の顔にも暗さがなかった。

西に日の傾いたアシェンダからの帰り道、ムルシアの町の警察署の屋上に、木を組んだ見張りのやぐらが見えた。同じやぐらはバコロドの警察の屋上にもあっ た。以前来たときには無かったものだ。

「エスカランテの虐殺のあと、ネグロスのNPAは急速に勢力を伸ばして、今はほとんど全島がその影響下にある」と話す男がいた。


ナショナル・デモクラシーへの運動

底辺で暮らす人たちからは、政権は変ったがわれわれの生活は変らない、という声が聞こえてくる。民主化のために活動している人たちは、いつか反 対側からの巻き返しがあるだろうと語る。事実、一時自由だった表現の分野に、最近また、さまざまな圧力がかかって来ていると聞く。ネグロスに象徴される、 植民地時代以来の、小作農民の日常的な貧しさと飢えは、根本的な土地改革が実行されなければ、解決にはならないだろう。

揺れ動く社会情勢の中で、フィリピンでは今年二月に、憲法制定の国民投票がおこなわれる。この憲法が民衆の希望と一致するものであるかどうか。憲法を自分 たちのための、民主的なものにする、ナショナル・デモクラシーの運動が、ACPC(アジア民衆文化協議会)によって組織され、リサール州民衆組織連合と提 携して、昨年九月から一〇月にかけて、マニラに隣接するリサール州の各地で、公演活動を開始した。若い舞台活動家やミュージシャンたちが、中心になってお こなわれた「民衆文化キャラバン」の運動である。

フィリピンの象徴である三色旗をまとった女性の人形と、機材を積んだトラックを先頭に、若者たちを乗せた六、七台のジープニーが後に続く。民衆文化キャラ バンはマニラをあとに、野を走り山を越えて、いくつもの町を訪れた。

キャラバンの通る町や村では、人びとが家からとび出してくる。若者たちは徐行する車から下りてビラを配る。キャラバンを迎える人々の目は、大部分が好意的 だ。目的の町に着くと、迎える地元の人たちも加わって、呼び込みのパレードが始まる。町の子供たちの自転車隊や、ドラマーたちがパレードの先頭に立って、 雰囲気を盛り上げていた。夕方から始まる公演の行われるところは、町の広場の野外舞台だ。舞台には地元のバンドや劇団も参加して、夜遅くまで賑やかに、歌 や芝居が繰りひろげられる。その間に地元の人たちとのミーティング。舞台が終わると民家や学校に泊まって、翌朝、朝食を食べると次の目的地に向かって出発 という、かなりハードなスケジュールだったが、フィリピンの若者たちは実によく働いていた。

舞台での出し物には、地主や資本家による、封建的抑圧に苦しむ農民や労働者が、団結して新しい社会を作っていくという、定型化した芝居も目についたが、 キャラバンの最初の町、カインタで上演されたPETA(フィリピン教育演劇協会)の「パナタ・サ・カラヤーン」は、マルコス独裁から二月革命へ、高揚する 民衆の夢と新政権の矛盾と、社会の不安と混乱、そして本当の自由を求めて闘いつづける民衆たち、という芝居で、ブレヒトを感じさせる構成はさすがに面白 く、PETAの芝居を初めて見るわたしにとっても、刺激的な体験だった。またMASA(労働者演劇グループ)が演じたフィリピン創世の物語――。まだこの 世の中が、空と海だけのカオスの世界だった頃、飛んできた一羽の白い大きな鳥。鳥は果てしない飛翔に疲れたが、一面の海には休むところが無かった。そこで 鳥は空の神と海の神に喧嘩をしかけた。海の神は怒って海水を吹き上げ、空の神は岩を投げ落とした。この争いの結果、海にはたくさんの島ができて、鳥は休む ことができた。そのたくさんの島々と、白い大きな鳥から生まれた二人の子供がフィリピンの祖先である、という、フォークロアから構成された芝居も、面白い 舞台になっていたし、この話の中にはフィリピンの人たちがよくいう、彼らのアイデンティティーの問題も含まれている。

どこの町の広場も、たくさんの人たちが集まって熱心に見ていたが、内向している地方民衆の政治意識を民衆文化キャラバンがどこまで引き出すことができる か、熱心に働く若者たちを見ていると、この運動の成果は、この国の将来に向けての、一つの布石になるかも知れないと思う。

一〇月の初めのサラス共産党議長の逮捕、一一月に起きたオラリア人民党議長の暗殺、エンリレ国防相の解任、それと引き換えにされたサンチェス労相の罷免、 NPAと政府軍の六〇日間暫定戦、二月二日の憲法制定国民投票、五月の国会選挙と、フィリピンの情勢は目まぐるしく動いているが、社会のひずみの中で、貧 しく、苦しみながら生活している人たち、権力の不正を暴き、民主主義を要求して独裁政権を倒した民衆たち、自由と民主化のために熱心に活動しているたくさ んの人たち、そして民衆を基盤にして、社会と密着しながら、したたかにおこなわれている文化活動などを見ると、われわれのまわりの文化状況というものが、 いかに軽々しく虚ろなものであるか、アジアにありながら、アジアから遠く離れている日本の心、というものを考えさせられるのである。彼らの努力が実を結ん で、フィリピンに、自由で民主的な社会ができることを、願わずにはいられない。



BOOK INN閉店記  津野海太郎


デイヴィッドは走る。津野は歩く。荻窪から中野まで、反対方向でいえば吉祥寺ぐらいまでだったら、たいていは電車にのらずに、本や雑誌を読みながら歩いて 行く。本を読みながら歩くのは小学生のときからの習慣だから、そうとうの速歩である。たまに電柱にぶつかることもあるけど。

吉祥寺に行くのは、主として飲食の快楽のためである。したがって、帰りは電車かタクシーになる。

中野には週に一度、中野区立図書館にDCを借りに行く。この時は帰路も歩く。中野サンプラザ裏から早稲田通りに出て、高円寺をすぎ、中杉通りを阿佐ヶ谷駅 方面に左折する。そのまま青梅街道に出て荻窪に戻る場合と、ごちゃごちゃ入り組んだ天沼の迷路を、曲り角ごとに途方にくれながら戻ってくる場合とが半々く らい。読書兼用の歩道だから、なかなか道がおぼえられないのである。

きょうはどっちのコースにするかを決める前に、かならず中杉通りの途中にあるBOOK INNに寄る。

店主の笠原さんと世間話をしながら本をえらび、「じゃあね」と外に出て、しばらく歩くうちに、どちらかのコースをえらぶかが自然と決まっている。すなわ ち、週に一度、私の中央線上り方向の散歩にとって、BOOK INNは欠かすことのできない大切な中継点であった。その中継点が、突然、消えてなくなった。困ったぞ、私は――という嘆きが、じつは、いま書きはじめた この文章のライト・モチーフなのだ。これから私は、なにを目あてに散歩をつづければいいのか?

昨年十一月の終りごろ、その日も「じゃあね」とBOOK INNを出ようとしたら、笠原さんが「あのう」と声をかけてよこした。
「いままで黙ってて申しわけないんですえど、今年いっぱいで店を閉めることにしたんです」
「ええっ、どうして?」
「はア、ちょっと腎臓をわるくしたもんですから……」
「うーん。そうかア!」
「あとですね、このままだと、子どもたちとも、まったくつきあってやれないんですよね」

一九八一年七月にBOOK INN開店――それから五年間については、以前、笠原さんへのインタビューを、「本屋さんの昼下がり」という題で、『水牛通信』一九八七年二月号にのせた ことがある。

水牛――で、一人だと、ここに坐っちゃうと、一日中、もう外に出られなくなっちゃうわけでしょう?
笠原――ええ。だから銀行いったり郵便物だしたりとかの雑用は午前中に処理して……。
水牛――じゃあ、仕入れは?
笠原――それも午前中。でも、午前中だと辛うじてしかできないんで、火曜日に集中してやるんです。神田村に行って、ちょっと真剣にまわると六時間かかりま すね、往復入れて。
水牛――だったら、実質的には休みなしじゃないですか?
笠原――そうです。そうすると家族と接触する時間がなくなっちゃいますから、仕入れのあと御茶の水とか新宿で待ちあわせして、夕飯くったりとかしてかえっ てくるんです。悲惨な生活ですよね。

一人でやってる店だから、朝から夜中まで、一日の休みもなく働かなければならない。マンガも雑誌も小説も実用書もおこうとしない、そのくせ『水 牛通信』はおいてある――といった極端に好みのきつい店だから、まともな商売になるわけがない。このインタビューをしたときも、私は、「おいおい、笠原さ んよ、こんなことしてたら体をこわしちゃうぞ」と思った。そう口にだしていったりもした。それが、案の定、そうなってしまったのである。

十二月三十一日まで店をやって、一月いっぱいかかって後始末をすませ、しばらく療養。そのあと静岡県島田市に引っ越す。とくに新しい仕事のあてがあるわけ ではないが、島田にはいい保育園があるので……。

笠原さんは三十歳。もうすぐ三十一歳になる。小学校三年の男の子と、三歳の女の子のふたごがいる。これまでは仕事一本槍で、その子たちとろくにつきあって やれなかった。だから、これからしばらくのあいだは子ども本意の生活をする。いい保育園がある土地に居を移して、仕事は、一家四人が食っていけるだけのも のをそこでさがせばいい。どうやら、かれはそう思いさだめてしまったらしいのだ。

かねてからBOOK INNの評判は耳にしていたが、実際に通いはじめたのは三年ほど前からである。

阿佐ヶ谷駅から中杉通りを北に数分――と聞いていたのに、どこまで行っても、それらしい店がない。途中であきらめて引き返したことが二度あって、やっと三 度目にたどりついた。しかし、そのときは店には入らなかった。こじんまりしたガラス張りの店がなんとなく気どりすぎみたいな印象で正直いって、ちょっと反 感をもってしまったのだ。

なのに、ふと気がついてみると、いつのまにかBOOK INNに足を踏み入れ、おだやかな――最初は気どって見えた若い店主とも親しく口をきくようになっていた。

たぶん笠原さんから連絡をもらって、毎月、『水牛通信』を配達するようになったのが直接のきっかけだったのだろう。いちど入ってしまえば、笠原さんは晶文 社の本や私自身の本までも、たいへん結構な扱いでお店に並べてくれていたわけで、それを見て私の反感はウタカタのごとく消滅した。他愛のない話である。

とすると、最初、なぜ私は笠原さんの店に反感をもったのか?

考えうる理由は一つ――本屋さんにしては、BOOK INNが、あまりにもきれいすぎたせである。商品としての本というのは、あつかいにくいしろものである。ちょっとでも気をぬくと、すぐに汚れ、破れ、棚や 平台がゴチャゴチャに乱れてしまう。常時、六〇〇〇冊をこえる新刊書をきれいに管理しつづけるというのは、なみなみならぬ難事業なのだ。

水牛――このお店、すごくきれいだよね。棚の感じが、日本の本も案外きれいだなと思わされるほどなんだけど、きれいにしておくコツがあるん ですか?
笠原――いやア、お客がすくないからじゃないかな。大書店とは、手にとる人の数がちがいますから。それにうちは一冊しかおいてないものが多いですから、お 客さまが帰ったあと、髪の毛がついてたりとか、オビが破れてたりとかはないように気をつけてます。

笠原さんがいっていることは、本屋さんにとっての常識にすぎない。ただ、その常識をBOOK INN程度にきちんと押さえている本屋の数は、きわめて少ない。いつ行っても本がピカピカ光って見えるような書店、「へえ、日本の本って、こんなにきれい だったの」と感心させてくれるような書店は、実際、「全国でいくつ」とかぞえられるほどしか存在しないのである。

その結果、あたりまえのことをやっているにすぎない笠原さんの店が、かえって異常なものみたいに、どこか気どりすぎてるように見えてしまう。私でさえ、は じめはそう感じたのだもの、それを商売として成立させ、それによって一家の暮らしを立てていくというのは、なかなか困難なしごとであったにちがいない。

一月三十日の夜、BOOK INN閉店の残念会をやった。
会場は中杉通りをはさんで、ちょうどBOOK INNの向かい側にあるBANANA FISHというスナック。五十人をこえるお客さんや出版関係の人たちがあつまって、笠原さん一家をかこんだ。子どもたちが可愛かった。はじめに、私は発起 人を代表して、以下のような挨拶をした。

「数日前、ひさしぶりに銀座のクールという古いバーに行きました。マスターの古川さんは、もう七十ちかいのかな、当代屈指の名バーテンダーであ るといわれています。
古川さんは午後四時にカウンターに入ると、あとは十一時の閉店まで、そこから一歩も外に出ません。つまり、その間、かれはトイレに行かないのです。行かな いですむように自分の体をコントロールしているのです。私は笠原さんのことを思いだしました。かねがね私は、たった一人で店にいて、笠原さん、いったいい つトイレに行ってるんだろう?――とふしぎに思っていたのです。
手がすくと、古川さんは、いつも乾いた布でキュッキュッとグラスを磨いています。
おびただしい数のボトルやグラスが、一つ残らず、いつもピカピカに光り輝いています。それを眺めながら酒を飲む。どこで飲んでもおなじはずの酒が、特にう まく感じられます。ふたたび私は笠原さんのことを思いだしました。笠原さんも、いつも本を磨いていました。BOOK INNでは、いつも乾いた布で本を磨くキュッキュッという音が聞こえていた。なんだかそんな気がしてなりません。
私はBOOK INNは名店だったと思います。すくなくともクール級の名店になる可能性をもった店だったと思います。
笠原さんは古川さん同様、おだやかな、しかし頑固な職人気質の持ち主です。こんど笠原さんがお店をたたまなければならなかったのは、それはそれで残念なこ とにちがいありませんが、まだ笠原さんは若いのです。古川さんの年齢になるまでには、かなりの時間があります。いずれ機会をみて、また名店の可能性にア タックしてみてください。なにも本屋じゃなくったっていいんですから。たのしみにしてます」





料理がすべて  田川律


〈病人自らの全快祝い〉
ふつう全快祝いといえば、まわりの人が病気だった人にいろいろしてあげるもの。ところが、どうやらぼくの場合は、そうではないらしい。十二月十九日に退院 してくるやいなや、待ってましたとばかり、あちこちから料理を作れという注文がやってきた。手始めはそろそろ今頃出ている筈の「田川律〔台所〕術――なに が男の料理だ!――」(晶文社)のためのもの。本文中に入れる写真のために、料理をしなくてはならなくなった。しかも編集部の注文は、病み上がりに見えて はならない、というのだから。ま、辛いこちらは、入院中からどこが病人という顔をしてたから。それでも一応は「すき刈る」という名の便利なバリカンを使っ て、例のごとく髪を短くカットしてその日にそなえる。
「お客は美女三人」というわけで、田園調布の「パテ屋」の林のり子さん、絵描きでこの本に素敵なイラストを書いてくれた柳生まち子さん、そして本誌の事実 上の編集長、八巻美恵さん。もともとこの本を作ろうといってくれたのは、ほかならぬ海ちゃんだから、かれが食べたい物をと思ったのだが、まち子さんが「ど うせならレシピの中で、難しそうなのを」ということで、「トリの丸焼き」を作ることにした。そしていつもながらここでその作り方が出てくるのだが、そちら は是非この本を見てください。(なんか宣伝ぽいなあスミマセン。)

〈ハムと大根のサラダ〉
さらに一月四日、今度は大阪でまた料理人をやらされた。ここ数年いつも正月に大学の同窓生たちが集まっているのだが、それがいつか「ぼくの料理を食べる 会」みたいになってしまったのだ。今年は何にしようか、と悩んだが、なんのことはない、またまた「トリの丸焼き」を作ってしまった。ホントは「丸煮」にし たかったのだが、予め作る暇がなかったので、食べてくれる人が三、四人ならともかく、十五人もいるので、いきなりまったく始めての物を作るのはオソロシ かったので止めにしたのだ。「丸煮」というのは、美恵さんが教えてくれた物で、トリの中にモチ米と刻んだナツメと朝鮮人参を詰めて、そのままお湯の中に入 れて塩味で煮るだけというもの。極めて簡単そうなのだが、やっぱり一回は作ってみないと心配だ。
ところが、思わぬところに伏兵がいた。うちでやった時は、トリが小さかったので「拾ってきたオーブン」でも四十五分でちゃんと焼けたのが、今度はなんと一 羽が二キロ以上もあったから、一時間焼いてもまだ火が通らないのだ。その上、二羽目は予め電子レンジを使って三十分も調理したのに、その後でオーブンに入 れて強火で二十分焼いて、それでも火が通らない部分があったのだ。「トリの奴め、あんまり簡単に度々作るから、いけずしやがった」という心境になった。
サラダはちょうどこの頃テレビで、貝柱と大根とカイワレをマヨネーズであえるのを、宣伝でやっていたので、貝柱のかわりにハムを使って作った。こちらは大 変好評であった。

〈カスタード・クリームの失敗〉
それより一週間ほど前、暮も押し詰まった頃に、大塚まさじのうちで、やっぱり「全快祝い」をやらされた。こちらは大塚ちゃんの希望でチゲ鍋を作った。それ はまあうまいこといったのだが、それから数日後のこと、かれの所へ遊びに行ったら、大塚ちゃんが「ほならクレープでも作りまひょか」と言い出した。これは かれの得意のレパートリイのひとつなのだが、「それならぼくはカスタード作ったるわ」と言ったのが失敗の始まり。その少し前に、女友だちの一人から「カス タードなんか簡単よ。砂糖と牛乳とカタクリ粉をまぜて、それに卵の黄味を入れて火にかけたらいいの」と聞いていて「そやなあ」と感心していたので、早速 チャンス到来と張り切って台所にたった。ところがボウルに砂糖とカタクリ粉を入れ、卵の黄味を落として、さあ次は牛乳や、という段になって、かれが「しも た、牛乳なかったわ」と言いだした。「ココナッツ・ミルクやったらあかんかな」と、どうみても開けてからもうだいぶ日にちの経っている缶を出してくる。 「そら、クレープの方はそれでもいいやろうけどカスタードは無理やで」とぼく。幸いすぐ傍らにぼくの親友のイラストレイター沢田としきくんがいたので、か れの所へ借りに行こうと出掛けたら、近くの店が開いていて、その問題はあっさり解決した。帰ってみると件のボウルの中の物は、固まってしまっている。それ でも牛乳を加えてかきまぜて、なんとかもわれをなくし火に掛けた。
「さあこれでおいしいカスタードができるぞ」と心は早くもシュークリームの中のカスタードへと飛んでいた。
「まぜ続けてんとあかん」と必死にまぜていると、突然固まり出した。
それもきわめて急速に固まってしまい、不透明な団子みたいなものができてしまった。「カタクリ粉が多すぎてん」と、再び挑戦したが、今度は柔らか過ぎるモ ノができただけ。「適当」だけではうまくできないものがあると、思い知らされた。それから数日経って、くだんの友人にこの話をしたところ、「ごめん、カタ クリ粉でなくて、薄力粉だった」だった。

〈用心深さのきわみ〉
新年に大阪で母に病気が直ったことを事後報告しようと電話したら「悪いけどうちへきてくれへん」と強く頼まれた。身体でも悪いのではないかと心配になって 訪れたら「べつにそんなんやないね。いちいちこれ持って歩くのが大変やさかいな」とビニール袋を指指す。例の醤油や酢の小瓶が入った袋だが、どうやらそこ に「とろろ昆布」から「チリメンジャコ」まで入れてある。ようするに、家にある食料品全部を肌身離さず持って歩くようにしたらしい。「こら、大変や」ぼく の母だけがこんなに用心深いのか、世の中の一人暮らしのお年寄りは皆そうなのか。

〈鰤と蟹と数の子〉
金沢から相次いで鰤と蟹を送って貰った。鰤は「もっきりや」という友人がやってる店で出しているミニコミ紙に原稿を書いたお礼。そのすぐ後で今度は帯広か ら数の子を送って貰った。こちらは「ふるさと十勝」に書いている原稿のお礼。もう十年も前、新潟の新発田に住んでいる友だちが「出演料の代わりに米で払 う、というのに賛同して出てくれる人はいてないだろうか」と相談を受けたことがある。この時は結局そういう人はいなかったが、どうやら今、ぼくがそれをし てるみたい。
「因果は廻る……」かな。
鰤は照り焼きと塩焼きにして、せっせと食べたが、数の子はまだ冷蔵庫の中に眠っている。蟹はもちろんとうの昔に「朝ご飯」に食べてしまった。

〈娘たちよ!〉
こんなタイトルの歌があったような気もするが、この話は全然それとは関係がない。こどものいないぼくには、よそさまのこどもは、誰もが自分のこどもみたい に思えたりする。時には自分より若い人は全てこどもに見えたりして。そう考えると、扶養家族のなんと多いことか。やっと一歳になったイラストレイターの双 子のこどもから、そろそろ四十になろうという友人まで北海道から沖縄まで、何十人どころか何百人もいそう。つい先日も大学の同窓生から「ちょっと相談があ るんやけど」といわれた。何かと思ったら「十七歳になるうちの娘が歌手になりたいいうて、歌をうとてたら、プロダクションから誘われてんけど、どうしたら ええやろ」という。同窓生のかの女はかつてぼくの生家にほど近い大阪の緑橋で薬局をやっている家の一人娘。漢方の胃腸薬「翁丸」を三百年も作っている老 舗。現在は大阪国際空港の近くでまだ健在な両親と店をやっているのだが、いつのまにか五人の母。
ハード・ロックをうたっている娘は高校の二年生。つい先日、近くのプロダクションからスカウトされたとかで、母親つまりぼくの同級生(厳密には二年ほど下 だけど)から「なんとかしてほしい」と相談された。「なんとか、といわれてもなあ」というのが本音だけど、とりあえず、そこがどんなプロダクションか、大 阪の友人たちに聞いたりして、そこへ入るのだけは思い止まった。だけど本人は高校を卒業したら歌を続けるつもりらしいし、親はせめて大学には入って欲しい というし、なかなか大変だ。

〈牡蛎とじゃが芋のお好み焼き〉
さすが大阪、と思わされたのが、ここ二回ほど出掛けて、ともかく「お好み焼き」と縁が深かったこと。「すじねぎ」というのもしらなかったのだが、これはス ジ肉を柔らかく煮たものとネギを使った「お好み焼き」で、これがなかなかのもの。北の太融寺の一角の店で食べたが、これは簡単にその作り方を盗めそうにな かった。刻んだネギを山のように使い、それと「煮込み」と呼ばれる、スジとで作るが「企業秘密」はこの両者を挟む、溶いた粉にあるようだ。卵をたっぷり 使っていることぐらいはわかるけど、初めに下に敷くヤツと、ネギとスジをのせたあとでもういちど上からかけるヤツが微妙にちがうものなのだ。こういう時に は、あっさり諦めてそのおいしさだけに専念したほうがかしこい。
牡蛎一個で卵十個分の栄養があると教えてくれたのは、厚岸のキンちゃんだ。本人が牡蛎専門の漁師だから、この言葉は割引きして考えなくてはならないかもし れないが、もともと牡蛎は大好物。大阪の猪飼野のお好み焼き屋「桃太郎」で覚えた「牡蛎とじゃが芋」のお好み焼きを、神戸近辺で二日続けて作ってしまっ た。
用意するもの。新鮮な牡蛎、じゃが芋、長薯に小麦粉、だし汁に卵、紅生姜に干しエビ。長薯をすりおろし、粉と卵とだし汁にまぜ会わせ、そこへ紅生姜と干し エビを加える。じゃが芋は輪切りにして、さっとゆでる。鉄板に油を引き、まず牡蛎と芋をざっと焼いて、そこへ、このいろいろまぜたものを、たっぷり加えて 焼く。焼き上がったら、ソースとマヨネーズを塗って、好みでかつお節と青海苔をふりかけて食べる。それぞれの材料の分配は、作る人の好みで適当にすればい い。


可不可(その一)  高橋悠治


入口から階段をあがって、長い暗い廊下を通る。柱の陰からだれかが見ているようだ。見ないふりをして通りすぎる。だって、だれもいないんだか ら。

つきあたりに暗い観音開きの扉。その向こうにうす暗い大広間。その奥は、仕切りなしにひとつのへやにつづく。というより、どこからか光がぼんやり差しこん でいて、その光のとどく範囲でだけ、もうひとつのへやが、こちら側にはみだしてきてしまったのだろう。ベッドがひとつ。幅広い階段。(こんなものがへやの まんなかにあるなんて――あるような気がしているだけなんだ、きっと。あがったところでなにもない。おりてきたってなにもない。へやにはいってきたひと は、そんなものはないようにふるまっている。それじゃ、やっぱりないんだ。それでも、しっかりそこに根をおろしている、この階段。非公認の存在。)

片隅に椅子と机。机の上にノートブック、ペンとインク。(インクが切れたら、物語もおしまいだ。)

窓がひとつ。カーテンをあければ、暗い小路を見おろせる。暗い街灯の下を通りかかる、帰宅を急ぐ独身者に、待ち伏せていた犯罪者がナイフをひらめかして、 おそいかかる。なぜって、もう帰る家はどこにもないからさ。それでも帰宅しようというのは、どこかまちがっていはしないか?

ベッドにねている男がひとり。その前に立っている男がひとり。背をむけて、机の前に坐っている男がひとり。なにか書いている。(だって、書いていなければ 物語はなく、物語がなければこのへやもなく、これを読んでいるきみだっていないんだから。)

歌がきこえてくる。そうそう、歌い手を忘れていた。歌い手は、ちいさなバンドをしたがえて、はじめからそこにいた。(そこってどこさ? さあ、どこだろ う。このへやのなかに、いくつかの楽器をおいたステージをいれるわけにはいかないしね。といって、歌がまったく無関係にあるとは言えないだろう。なぜっ て、歌がなければ、物語は物語ではないただの灰色の毎日にもどってしまい、そうなればこのへやも、ほかの何百万のへやと見わけがつかないただの穴倉同然、 そうなれば、光も消えて書くこともできなくなり、そうなれば、それを読むはずのきみだっていなくなってしまうんだから。しかたがない。それじゃ、歌い手は 最初からそこにいた。そことは、このへやのなかに、どこかからはみだしてきた別な空間、としておこう。)

はじめの歌――
インディアンになりたいな
ほら もうなった
ななめにうかんで
からだをふるわせ
ちきゅうもふるえてる
はくしゃをなげすて
(ないんだもの)
たずなをなげすて
(それもなかった)
大草原もみえなくなった
うまのたてがみもない
くびもない

片足で立って、うかびあがろうと、もがきながら、からだをふるわせているのは、ベッドのそばの男。この歌は男のあたまのなかで鳴っていたんだ。

すると、ねていた男が突然毛布をけとばして、ベッドの上に立ちあがる。ナイトシャツのすそを乱して、片足ずつぴょんぴょんけりあげ、ベッドの前の男に人差 指をつきつけて左右に振りうごかし、ころげおちそうなほど身をかがめ、またまっすぐ伸びあがって、あたまの上で両腕を振りまわす。

何か必死に言っているのに、ことばがきこえてこない。そこで、こんどは机の前で書いている男が立ちあがる。ベッドの男のあたまのなかでぶんぶんうなってい ることばを、手話通訳のように、区切って発音する。だって、このことばは、いま机の上のノートブックに書いたばかりなんだから。

「あかあさんは死んじゃった。ともだちは遠いロシアで、古新聞みたいに黄色くなっている。おとうさんは毛布でぐるぐるまき。こどもだと思っていたが、おま えは悪魔みたいな人間だな。さあ、判決だ。溺死による死刑!」

ベッドの男が何事もなかったかのように、すばやく毛布にくるまるのと、ベッドの前の男が走りだすのとは、ほとんど同時だった。だけど、走りだして、どこへ 行くのさ? だって、ここはへやのなかなんだからね。

階段をかけあがり、かけおり、あいたドアのところで――そうそう、忘れていた。このへやには、たったひとつドアがあって、と言っても枠だけで、扉はない。 だから、このドアはいつもあいている、とも言えるし、しまっている、と言ってもいいのだ。――ドアのところで女中とぶつかって、ひっくりかえす。

「かみさま」と、女中は言って、前掛けで顔をかくした。

あいたドアから走りだし、と言っても行くところはなないから、結局また、あいたドアから走りこみ、階段をかけあがり、――

(つづく)


走る・その12  デイヴィッド・グッドマン


結晶の朝。昨夜三〇センチほどの雪が降って、外界は白く、まぶしく、やわらかになった。除雪は夜もすがら続けられたが、住宅街はまだそのまま雪に埋もれて いる。

靴の紐を結びながら、ぼくは走る計画を立てた。歩道はまったく通行できない状態になっている。したがって車道を走るより仕方がない。住宅街を走るのは、羽 布団の上を走るようなもので、足は雪にしずみ、左右にすべり、ちっとも速度はでないだろう。幹線道路は除雪されてはいるだろうが、両側に雪が積み上げられ ていて、道はそれだけ狭まっている。やってくる自動車に轢かれないように気をつけなければならない。

ストッキングキャップをかぶって、手袋を二重にはめた。これで完全武装だ。ドアを開けて外に立つと、雪はスネのなかほどまでとどく。これじゃ話にならない が、道路へ出れば、なんとかなりそうだ。除雪はまだだが、轍がある。轍をたどっていけば、なんとか走れそう。

といっても、轍は細くとも真っ直ぐな畦道のようにはついてはいない。複雑に交差したり、途切れたりしている。それでも、轍をたどっていけば辛うじて走るこ とができる。だが、轍があっても、雪の世を走るのはたいへんだ。ないよりいいが、うまくいくという保証にはならない。

       *

医者は、ぼくの膝に跨がって股を広げているカイの短いチンチンを引っぱって伸ばし、表面麻酔をした亀頭の下をちくりと針で刺した。血が出ない。 また刺した。カイは机の上におかれた飴をじっと見つめて、黙っている。三回目にやっと一滴の血が出た。

「見えますか? 見えますね?」とカイのチンチンにあらわれた、たった一滴の血を示して医者はいった。
「見えます、見えました!」とぼくたちを囲み、カイのチンチンを注目している三人の男たちは口々にいった。
「おめでとう! おめでとう!」
「しかし、えらいね。ちっとも泣かないじゃないか」
「ほんとだよ。このあいだ海兵隊員の割礼にも立ち会ったんだけど。でっかい男でね。真っ青になって、失神しちまったよ」
「いや、たいしたもんだよ、ほんとに。たったの三歳半だろう?感心した」

カイは男たちににこりと笑った。褒美の飴をなめている。
「さ、今度は泳ぎにいこう。お母さんとお姉さん呼んでいいよ」司祭をつとめているラビはカイにこういった。カイはぼくの膝からとびおりて、ズボンを引っ張 り上げつつ、廊下で待っているお母さんたちを呼びにいった。

全員で東京のユダヤ教会の三階から地下室に下りていった。そこに「ミクロヴァ」という、雨水を溜めた禊専用の沐浴場があるからだ。

カイとぼくはタイルばりのロッカー室に入って服を脱いだ。ぼくは水着をつけた。カイは一糸まとわぬ姿だ。ロッカー室から出てくると、和子がぼくたちをビデ オで捉えようとしていた、慣れないカメラを床に向けたり、天井に向けたりして。ヤエルは泳ぎにいける弟を羨んでいる様子だった。

「ちょうどいい具合に温まってる。きっといい気持ちだよ」とラビは、ぼくに抱かれて、浴槽への二メートルほどの長く、けわしい階段をおりていくカイにいっ た。

「三回お湯に沈ませるんです。お湯に下ろしてから、手を放してくださいね。一瞬でいいから。そうしないと濡れない箇所が残ってしまうかもしれない。浸礼で は水がからだのすべての部分にふれることが必要ですからね。いいですね? 頭まで沈ませるんですよ」ラビはぼくに指示した。

ぼくは「わかりました。いいかい、カイ? いきますよ。一、ニの三!」とカイのすべすべしたからだを湯につけた。ラビの指示どおり、ほんの一瞬、ぼくは彼 のからだをささえていた両手を放したが、即座に掬いあげた。びっくりして咳こんでいるカイをしっかり胸に抱き締めて、咳がとまっるのを待ってから、もう一 度沈ませた。そしていま一度。

「我らを生かしめ、我らを守り、また我らをしてこの時に至らしめ給いし宇宙の王、主なる我らの神、あなたは賛むべきかな」全員声を揃えて、感謝と悦びの祈 祷を唱えた。 「カイ・グッドマンくん、これであなたはユダヤ人になった。おめでとう!」

(つづく)



編集後記

今月から木島始さんの連載がはじまりました。絵も木島さんです。
今年はわらっておわることができるように、台本のつもりで「可不可」を連載する。
今月の逮捕された人リケットさんは、原稿の校正にバイクでかけつけただけでなく、その後も版下ができる最後の瞬間まで数回にわたる電話でこまかい修正を指 示するのだった。しかし、本号の発行がいつもながらおくれたのは、もちろん他の人びとの責任なのだ。
3月5日(木)6時半、新宿モーツァルトサロンで、「国について歌についてコンサート」がひらかれる。出演は林光、三宅榛名、山住正己、斉藤晴彦、巻上公 一。千五百円。問い合わせは、Tel 265・2171志沢まで。
3月8日(日)2時は、本郷のバリオホールで守田正義さんの作品のコンサート。戦前プロレタリア音楽活動で知られた「里子にやられたおけい」の作曲者・今 年82歳の守田さんはますます元気で、平和をうたった新作歌曲もある。出演は佐山真知子、高橋悠治ほか。二千円。問い合わせはTel 0488・86・6411黒沢まで。
3月3日(火)7時には、おなじバリオホールで自分のコンサートをする。「夜の時間」第2回。ゲストは吉原すみれと高橋鮎生。三宅榛名の打楽器とピアノの 曲「東へすすむ」、高橋鮎生のピアノ曲「絵のなかの姿」など。
自分で書いたのは「朝のまがりかどまがれ」の打楽器とピアノ版だけ。このタイトルは長谷川四郎さんの詩からとった。と、コンサートのお知らせばかりになり ました。(高橋)




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