人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1987年6月号 通巻95号
        
入力 桝井孝則


外国人登録制度を裁く――公判に臨んでの所信  R・リケット
マイ・ホビー・その(1)  高橋茅香子
ぬきがきうた(その二)  木島始
任意の一日  山川枯草木
佐渡の旅日記  鎌田慧
律とまち子のふぁっしょん読本4
可不可(その四)  高橋悠治
走る・その十五  デイヴィッド・グッドマン
編集後記



外国人登録制度を裁く――公判に臨んでの所信  R・リケット


私を含め日本に定住する[在日韓国・朝鮮人の多く]は、日本で生きていかざるをえない、歴史的な背景を負っています。私もまた、今後とも日本で生活する意 志を有しています。………私たち………の生活は、法よりもさらに深く、現実の社会と歴史とに根をおろしているからです。 鄭宏溶(在日韓国人押捺拒否者)


私は日本国に問わざるを得ません。偽[満洲]で中国人たちが銃剣とともに[常時]持たされた………指紋付きの居住証と、私たちに強制している指紋、あるい は外国人登録証と、一体どこが違うと言うのでしょうか。
何の歴史的総括もされないまま、この指紋を認めることは、妄想を認めることであり、私たち中国人にとってはかつての屈辱の歴史を認めることであり、私自身 にとっては、中国人としての誇りを持って生きることを根底から否定することに他ならないのです。 徐翠珍(中国人拒否者)


法律を守れと言われるが、その法律は一体誰が作るのか? 南アフリカでは、黒人の生存権と就労権を認めない法律を制定したのは、白人である。アメリカで は、夫に自分の妻を強姦する権利を与える法律を制定したのは、男たちである。………今日、世界の人々が人権や性の違いによって差別され、反目しあっている 余裕はもうない。その正反対が真実とならなければならない。世界の全てのいのちの存続は、このことにかかっている。 アメリカ人の女性拒否者


日本人は、サンフランシスコ講和条約が発効した一九五二年四月二十八日を、第二次大戦後日本が独立を取り戻した日として記憶しています。アメリカ人から見 ると、この日は対日占領が終わった日です。しかし、在日韓国・朝鮮人、中国人は、同じ一九五二年四月二十八日を、日本政府によって自分たちが一方的に「外 国人」と見なされ、それまで認められていた「日本国民」としての限られた市民的諸権利を、一片の通達によって奪い去られた日、として記憶しています。

この日はまた、日本政府が、「外国人」に指紋押捺と外国人登録証の常時携帯を義務付ける外国人登録法を施行した日でもありました。(ただし、施行直後に外 登法にたいする広範な抵抗運動が起こったため、押捺制度の実施は一九五五年にずれこみました)

永住資格をもつ外国人の圧倒的多数は、自らの選択によって日本で暮らしているわけではない、韓国・朝鮮人と中国人です。今日、その約80%は日本人で生ま れ育った世代によって占められていますが、この人々は納税義務は負わされているのに、選挙権をはじめとする政治的・社会的権利を十分に与えられていないの みか、特定の犯罪を犯せば国外追放に処せられてしまいます。

このように、「永住」資格は、権利として認められているわけではなく、国家のお情けによる「恩恵」として与えられているに過ぎません。しかも、一九五二年 四月二十八日以前に生まれた在日韓国・朝鮮人、中国人は、無期限の在留を認められていますが、その人々の子供や孫の場合は、このような「恩恵」は与えられ ず、三年ごとに在留許可を更新しなければなりません。在日韓国・朝鮮人、中国人の日本における法的位置は、世代が下がるにつれて弱くなります。

一九四九年の終りに、当時の吉田茂首相は、対日占領軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍にあてた書簡の中で、在日朝鮮人は御しがたく、犯罪分子だらけであ り、共産主義の同調者であるから、全員朝鮮半島に送り返して欲しい、と要請しましたが、朝鮮人と中国人は、帰国するか、さもなければ帰化して日本社会に同 化すべきである、というのが当時の日本政府の方針でした。どちらにも応じることを拒んだ人々は、警察と出入国管理局の厳しい監視下に置かれることになりま した。そして、監視のための手段として制定されたのが外登法です。

一九八五年以来、指紋押捺反対運動が盛り上がる中、外登法の下で在日韓国・朝鮮人、中国人が受けている制度化・組織化された差別を問いなおそうとする社会 的気運が高まりはじめました。事実、韓宗碩さん、ロン・フジヨシさんなどの裁判をつうじて、外登法が一九五二年、日本に永住するアジア人の管理強化と、こ れらの人々の帰化および日本社会への同化を押し進めることを目的として、制定されたものだということが明らかにされました。

外登法、出入国管理法、国籍法はいずれも、韓国・朝鮮人、中国人に、社会的平等と民族的アイデンティティの両方を享受することを認めず、どちらか一方を選 択するよう強制しています。

指紋制度は、こうした合法化された差別制度の象徴にほかなりません。押捺という、それ自体としては単純な行為の背景に歴史的・社会的意味が潜んでいること を知るに至った私が、もし押捺に応じてしまうならば、自分としては不承不承のことだとはいえ、実質的には、日本国家が維持し、再生産している差別の構造を 容認することになり、私自身および他の在日外国人の社会的人格をおしとめる一つのプロセスに加担することになってしまう、と考えました。すでに私は、一九 八〇年の来日直後に指紋を採られた際にも、不快感を覚えました。私が日本人でないというだけの理由で、日本国家によって下等な人間と見なされることに憤慨 しました。しかし、外国人を潜在的な敵と見なしている指紋制度にして個人的な反感を抱くことと、あえて法律を犯して押捺を拒否することは、別の事柄です。 私は、一九八〇年の登録の時には、指紋を押捺しました。

大半の外国人は、外登法を不快に思っていても、日本での法的な地位が弱いため、やむなくこの法律に従っているのが実状です。しかし、その一方で一九八五年 の時点ですでに、敢えてリスクを冒してこの制度にノーを表明する外国人も、数多く現れていました。日本に生まれ育った永住資格を持つ外国人でさえも、選挙 権を与えられていないという状況の中では、この法律によって直接影響を受ける外国人にとって、この法律の下で制度化された人種差別に異議をとなえ、その抜 本的な改革を求め、人間の尊厳を守るためには、この法律を犯すことがとりうる唯一の方法だと思われました。

私は二つの悪しき選択肢のうち比較的まだましだと考えた市民的不服従を選びとりました。こうして一九八五年三月、私は、一九八〇年から現在までに指紋押捺 を拒否したり、保留することによって――自らの指先によって――外登法への反対票を投じてきた、一四〇〇〇人の在日外国人に加わりました。

私は、一九八六年十二月半ば、全国各地の警察が指紋押捺拒否者にたいしてとった強硬措置によって逮捕された五人の拒否者の一人です。逮捕・拘留された拒否 者としては、一九八〇年に指紋押捺反対運動がはじまって以来、私が二十人目になります。私たち五人の逮捕は、それぞれの居住地の地方自治体が、警察への告 発を拒否していたにもかかわらず、行われました。また、自治体が外国人登録の原標照会の要請を拒否していたにもかかわらず、警察は、強制捜査令状を振りか ざして強引に原標照会に応じさせました。

渋谷署での二泊三日の拘留の後、私は、外国人登録法違反で起訴され、今年一月罰金三万円也の支払いを命じられました。十一月の非暴力デモにたいする厳しい 規則、十一月に行われた拒否者にたいする大量の呼びだし、そして私たちの逮捕は、いずれも、指紋押捺反対運動の意気を殺ぐこと、そして拒否者を脅迫して、 恐怖のあまり押捺に応じるか、さもなければ逮捕されて警察で屈辱的な取り調べを受け、罰金を課せられるか、の選択を強要することを狙ったものです。この 「掃討」作戦は、今年はじめに予定されていた外登法改悪案の国会上程への準備作戦として行われました。

私も、逮捕前に二度にわたって任意出頭を求められましたが、人権にかかわる事柄に警察が高圧的に介入することへの抗議の気持から、出頭に応じることを拒否 しました。しかし、逮捕後、東京地検での取り調べの際には、略式起訴による罰金の支払いに同意してしまいました。正式の裁判に持ち込んでも、時間がかかる うえに、労力、金銭的な費用も膨大なものとなるし、どっちみち結果が「有罪」と出ることは十分に予想される、と考えたからです。
 しかし、釈放されてから、私はこの判断が間違いであることに気付きました。略式起訴に応じるのは、一種の降伏であり、押捺制度と外登法にたいする私なり の抵抗を放棄してしまうことなのだ、と。

さらに、一月半ば、政府の外登法改正案が国会に提出されたことも、私に再考を促しました。この「改正」案は、16歳以上の外国人については最初の登録時 に、16歳未満の外国人子弟の場合は16歳に達した時に、指紋を漏れなく「きちんと」採ること、拒否者に対する罰則処置を厳しくすること、総合事務を担う 自治体の裁量権を大幅に縮小して、在日外国人を入管局と法務省の直接管理下に置くこと、などを骨子としています。そして、現行制度が在留更新のたびに指紋 押捺を義務付けているのにたいして、押捺が一回限りになることが、「改正」のセールス・ポイントとされています。しかし、登録証のIDカード化とコン ピュータを用いる指紋の検査・照合、個人データの集中管理と一体になったこのような「改正」によって、外登法の管理機能・融合化機能は今まで以上に強まり ます。

現行の外登法の特徴となっている国粋主義・拝外主義的な体質を改めるどころか、それを正当化し強めようとする「改正」案は、在日外国人の人権拡大にとっ て、大きな後退であります。政府がこのような「改正」を提出したということは、日本国憲法や、日本も批准している国際人権規約が高らかにうたっている、諸 国民・諸民族間の平和、抑圧と偏狭から自由といった理想の実現から、政府がますます遠ざかろうとしていることを意味すると思います。正式裁判を行うこと は、このような外登法「改正」への抗議手段としての意味を持つはずだ、と私は思うようになりました。

以上のような理由から、私は、三万円の罰金の支払いを拒否し、法廷で自分の主張を開陳する道を選びました。

一九五〇年代末から一九六〇年代にかけてアメリカ合州国で育った白人のアメリカ人として、私は、自分の祖国の歴史が、少数民族にたいする白人の暴力に血塗 られたものであることに痛みを感じています。少年期から青年期にかけての社会意識の形成過程では、私は、社会的正義と人権の尊重を求める黒人、アメリカの 先住民族、アジア系アメリカ人、女性の闘いから、少なからぬ影響を受けました。同世代人である当時の多くのアメリカの若者たちと同様に、私は、人種差別、 性差別、経済的搾取、政治的抑圧にたいするこうした闘いに共鳴するようになりました。

マーティン・ルーサー・キング師の「悪への非協力」という呼びかけに答えて、人種・民族的背景を異にする様々な人々が、アメリカ国内の人種主義にたいして だけでなく、国外、とりわけ一九六五年から一九七五年までのインドシナへのアメリカの軍事侵略への抵抗に立ちあがりました。多くの白人は、こうした闘い が、アメリカの階級的・人種的・性的抑圧の遺産から自らを解放するための鍵だということを発見しました。

この闘いは、人種の違いや国境を超える、普遍性をもっています。私は一九六六年から一九六九年まで留学生として日本に滞在した際に、そのことを学びまし た。多くの学生、労働者、一般市民が、日本政府によるアメリカのベトナム侵略への加担にたいして、反対の声をあげました。何万人もの人々が、負傷、逮捕、 投獄、さらには死さえも賭して、戦争協力に反対しました。

在日外国人を含め、日本で社会的平等を求めている様々な人々の闘いも、こうした全世界的な抵抗運動の一部をなしています。このような抵抗を行うことは、実 定法や、社会的習慣に優先する、人間としての基本的権利、譲ることのできない権利であります。それは、地上のどこであれ、搾取や人間性をおとしめる処遇に たいして人々が抱く嫌悪の気持ちの中に、そしてまた平和に生きたい、自由に自己を発現したい、他者から公正に扱われたい、という人々の共通の願いの中に、 刻印されている権利です。

現行の外国人登録制度は、日本人の社会認識を歪めています。それは、日本に住む全ての人々の人間的な成長の可能性を狭め、日本文化を痩せ細らせます。私の 指紋押捺拒否は、在日外国人だけでなく日本人にもかかわる、こうした非人間化へのプロセスへの拒否でもありました。

しかし、私が指紋拒否を続けることにした動機の一端は、今なお在日韓国・朝鮮人、中国人が服従を強いられている政治的・イデオロギー的支配のシステムの形 成過程で、私自身の国が担った役割を知ったことにあります。アメリカ人の知人の中には、私がなぜ指紋を拒否したのか理解できない人もいます。その人たちに してみれば、指紋押捺は、個人的にちょっぴり迷惑なことであり、奇異ではあるけれど、行政手続きとして耐えがたいというほどではない、というわけです。指 紋押捺は、「韓国・朝鮮人の問題」であり、アメリカ人には関係がない、と彼らは言います。しかし、歴史的に照らしてみたとき、本当にアメリカ人には関係な い、と断定できるのでしょうか。


一九四五年から一九五二年にかけて、アメリカの占領当局=GHQは、一九五二年以降の在日韓国・朝鮮人、中国人の地位を規定することになった法的・政治的 な枠組みを作りました。ポツダム協定をうけて、一九四五年、朝鮮人、中国人は解放(された)人民である、との規定が打ちだされました。占領初期におけるア メリカの在日朝鮮人政策は、1. 可能なかぎり多くの在日朝鮮人を本国に送還すること、2. 日本にとどまり、しかも占領政策に反抵抗的でない者については、「社会的、経済的、政治的差別」から保護すると同時に、……かつて日本人が行ったよう に……占領軍のための石炭増産や、道路・鉄道建設用の低廉な労働者として利用すること、を骨子としていました。

一九四七、四八年以降の冷戦の激化にともなって、占領政策の重点は、在日朝鮮人、中国人を保護し利用することから、彼らの民族的・政治的自由を制限するこ とへと変わりました。これよりも先、すでに一九四六年に大阪府警はGHQの協力をえて、外国人(朝鮮人)に、日本の当局への登録と、写真および指紋付きの 登録証の携帯を義務付ける布告を起草しました。また同じ年、GHQは、日本のマスコミが、ヒステリックな反朝鮮人キャンペーンを展開するのを容認しまし た。

一九四七年五月、GHQの提案になる外国人登録令が制定され、登録目的のために在日朝鮮人、中国人は外国人として分類されました。翌一九四八年四月、 GHQは、在日朝鮮人の民族教育の権利を否定、日本側当局による朝鮮人学校の閉鎖にたいして起こった朝鮮人の抵抗運動を弾圧するため、神戸市に非常事態を 布きました。

ついで一九四九年には、名古屋のGHQ法律担当の責任者が、日本政府に外国人(在日朝鮮人)の指紋を採るようにと提案しました。法務省は九月、朝鮮人だけ に指紋押捺を強制するのは「望ましくない」との理由で、この提案を却下しました。同じ九月、GHQは、主要な朝鮮人団体四つの解散を命じ、大多数の在日朝 鮮人から政治運動の権利を奪いました。その後、一九五〇年六月二十五日の朝鮮戦争勃発とともに、GHQと日本政府の反朝鮮人政策は一層エスカレートしてゆ きます。

朝鮮戦争が勃発する直前の一九五〇年四月、のちに国務次官となったジョン・フォスター・ダレスが対日講和条約担当の国務省顧問に就任しました。当初、ダレ スとアメリカ代表団は、韓国政府を連合国の一員として講和条約の調印国に加える方針を打ちだしました。当時の吉田茂首相は、在日朝鮮人が連合国の地位を与 えられるようなことになれば、「日本国内で深刻な社会問題が生じるだろう」と言ってこの方針に強硬に反対しました。

「大部分の在日朝鮮人は共産主義者」だとする吉田の言い分は、直ちにダレスによって受け入れられ、韓国を条約調印国に加える構想は消えました。因みに、ダ レスは日本について一九五六年六月六日にしたためた最初のメモランダムの中で、次のように言っています。「………日本人が中国人や韓国人やロシア人にたい して抱いている人種的社会的優越感を利用し、自由世界の一員となれば、共産圏諸国よりも優秀なグループと対等の仲間になれるのだと彼らに確信させることが 可能だろう」

こうして、アメリカは、一九五二年以降における在日韓国人の処遇問題を、日韓両国の二国間交渉に委ねてしまいこれからの人々が日本で生活する基本的権利を 保証するために何らの措置も講じませんでした。むしろ逆に、日韓予備会談の在日韓国人法的地位委員会一九五一年十一月三十日の会合の席上、日本側代表が、 アメリカの要請があったので、外国人登録令を改正して、外国人登録には指紋を採るようにしたい、という意向を韓国側に伝えていることから伺えるように、ア メリカは外登法と指紋制度の制定に向けてかなりの影響力を行使したものと思われます。
(この点についての立証は、私の裁判の大きな争点の一つとなります。史料的な裏付けへのご協力をいただければ幸いです)こうしてアメリカの支配者の人種 的・文化的優位性は、日本の支配者の民族的優越感と結びつき、在日韓国・朝鮮人、中国人の運命を決定することになりました。


「国際化」の掛け声と裏腹に、政府は在日外国人にたいする態度――つまり、下等な人間として扱われることに耐え、日本に帰化し、民族的なアイデンティティ を捨ててしまうか、それが嫌なら「自分の国に帰れ」という態度を一向に改めようとしていません。「平和」を口にしているにもかかわらず、政府は、相変わら ず在日外国人を国家にとっての潜在的な敵と見なしています。

政府は「民主主義」を標ぼうしていますが、日本人向けの憲法解釈と外国人向けの憲法解釈を使い分けています。法や制度や制定の運用にあたって、それによっ て最も影響を受け直接の当事者が決定に参加し、その意見を反映しうることが、「民主主義」基本だと言われます。在日外国人が日本の法律や制度一般について 発言権をもつべきだ、などと主張するつもりはありません。しかし、外登法の前身である外国人登録令が、在日朝鮮人の強い抵抗を無視して強引に制定されて以 来、外登法と指紋制度の直接の当事者である在日外国人は、この法と制度への発言権を、ひとかけらも認められてきませんでした。このようなことが、「民主主 義」の下で許されてよいのでしょうか。



マイ・ホビー・その(1)  高橋茅香子


娘の美礼、十四歳。生まれて以来、私と二人暮し。だから親だけでなく近所の方たちや学校の先生、祖父母、友人に育てられた部分が多い。「いいお嬢さんです ね」とひとはいう。私は娘に「やっぱり母親がいいから」という。娘は「子供がいいと母親が得する」という。この際ぜひ、私だって少しはかんがえて育てたと いう記録を残したい。一年にひとつくらい、これを教えたぞということがあってもいい。もちろん教えたからといって、そうはならなかったこともあるし、娘を みていて私が教えたつもりになっていることもある。

一歳・食べたくなかったら残してかまわない。
食べることは楽しみでなくては。まして自分で選んだのではないものを全部食べなさいと強制されては、赤ちゃんもかわいそう。おなかがすけば、食べる。た だ、娘は無理に食べさせられた覚えがあるという。そうなのだ。あるとき突如として、これでは栄養が偏る、などという恐怖にかられて、お願い、食べて、など と口走ることもあった。

二歳・赤ちゃんことばは使わない。
口がうまくまわらない子供のいうことはかわいくても、大人が「おんもであんよ」などということはない。「そとであるく」と初めから教える。その方が楽だ し。

三歳・話しかけられたら、自分で返事をする。
子供をつれて歩いていると、声をかけられる。「ママといっしょでいいわねえ。どこへ行くのかなあ」良いお母さんはたいてい子供の声と口調で答える。「お手 紙出しにいくのね」「さむくないでちゅか?」「ちゃむくないわねえ」私は良いお母さんではないから、子供の代行はつとめない。

四歳・嘘をつかない。
嘘をつかない方が生きやすい。大人ももちろん嘘をつかない、と信じさせなくてはならないけれども。私は娘にほとんど嘘をついてはいないと思う。その方が気 楽でいられる。少なくとも基本的な事柄についてはごまかしていない。ごまかさない、という姿勢は説得力をもつ。たとえば初めて歯医者にいったときのよう に。「口の中がガーッという音でいっぱいになるの。そして少し痛いかもしれない。でもそれは歯の痛いのが逃げていくしるしなんだからね」これ、ごまかしか な。

五歳・外国人を特別な人たちだと思わない。
言葉が違うからといって心配しないで、日本語で話せばいい。メキシコ人が家に遊びにきたとき、娘が一時間ほど近所を案内してまわった。日本語とスペイン語 で話していたはずなのに、大人同士が英語で話すよりも沢山のことが互いに分かったようだった。

六歳・模様のあるものはひとつ以上身につけない。
その頃は漫画やテレビのいわゆるキャラクターものがあらゆるところにはびこっていた。運動靴ですら漫画のついていないのを探すのは大変だった。それに巻き 込まれず、チェックのスカートをはいたら、ブラウスも靴下も帽子も無地にすることにした。でも子供はたいてい友達が持っているような漫画つきのものが欲し くてたまらない。初めて買ったキャラクターものは、パティー・アンド・ジミーの肩かけバッグだった。そのときの天にも上る嬉しさを娘は今でも忘れないとい う。でもそれを持つのも、着るものに模様がないときだけ。
今、彼女は複雑な模様をうまく組み合わせ、ブローチなどをジャラジャラつけて、無地という基本を自力で脱出しているところだ。

七歳・てれるのはみっともない。
盆踊りのときなど、てれて人の目を意識し、くにゃくにゃ踊るのはみっともない。恥ずかしくても一生懸命がまんしなさい。てれてにやにやするのは美しくな い。
これは、表に出すまいとこらえてもこぼれでる羞恥心をいいなあと思う大人の計算かもしれない。シャイな部分がない人間なんておそろしいだけだと思いつつ、 過剰なてれはやはり美しくない。

八歳・学校は休んでもいい。
学校にいやいや行くことはない。学校に行くより大切なことや、もっと役に立つことがある場合も、休んでかまわない。たとえばおばあちゃんが病気になったか ら看病するとか、外国に行くチャンスがあるとか。
こう教えているにもかかわらず、娘は小学校六年間と中学校の今までただの一日も休んでいない。これはどうしたことだろう。こうなると意地になって休むまい としている。この春休みにシャンペーンのグッドマン家にお世話になっていたのだが、帰るのが新学期最初の日の夕方になってしまった。娘は私に成田まで制服 を持ってこさせ、午後五時すぎに生徒など誰もいない学校へ直接かけつけて、「遅刻してすみません」とあいさつし、休みではなくしてしまった。

九歳・人と比較して幸せだとか不幸だとかいわない。
こういうまともなことも教えるのです。娘はもともと分かっていたようだけれども。この年インドネシアに遊びにいった。観光客をのせたバスがどこかに止まる と、そのつどインドネシアの子供たちがわっと駆け寄ってくる。四、五歳から十歳くらい。手にもった物を必死で売ろうとする。同行していた大人が娘にいっ た。「あの子たちに比べたら美礼ちゃんは幸せね」「幸せは比べられないんじゃない? あたしも家が貧乏になったら、あんなふうにやりたいな」娘は憧れの目 で、そのエネルギーに満ちあふれた子供たちを見つめていた。

十歳・人の好意は素直に受ける。
娘が生まれてこの年まで、私たちは江東区の団地の十四階に住んでいた。この団地の中の保育園や学童保育などというところで娘は育てられた。だから昼間はほ とんどいない私よりずっと知り合いが多く、日曜日などいっしょに歩いているとよく私の知らない大人からも声をかけられた。娘の人望のおかげか、私が夕方あ るいは夜、のこのこと帰ってくると、近所から電話がかかってくる。「てんぷら揚げたんだけど、どう?」「煮物があるの、いかが?」もちろん、いただかなく ては。こうして私たち親子は生き延びてきたのです。

十一歳・家族でもプライバシーには立ち入らない。
この年私たちは江戸川区にできたまったく新しい街に越した。街そのものが新しいのだから、家々も学校も図書館も全部新しい。毎日が新しい経験だった。住ま いも2DKから3LDKというのになって、私と娘はそれぞれ部屋をもち、自分ひとりの空間が確立された。以来、無断でお互いの部屋には決してはいらない。 かばんの中とか手紙も決して見ない。だからけっこう中が良い。

十二歳・嘘をつくことも必要。
四歳で教えたことを進歩させて。潔癖を好むこの年齢は、むしろ嘘を許さない。でも優しさは嘘をつく勇気がなくてはもてないこともある。

十三歳・好きな人には好きということ。
そして手編みのマフラーを贈って、娘には素敵な恋人ができました。
同じように、したいことがあったらそう意思表示するように。いつでも願いがかなうわけではないけれど、人に知ってもらわなければ、何も起こらない。美術の 修復家になりたい、といつもいっていたから、『ニューヨーカー』に載ったその道の人の記事を送ってくれる人がいたり、美術館の人の話がきけたのだから。

十四歳・勉強するのもいいんじゃないかな。
これはつまり今のこと。高校受験というのをひかえているのに、彼女は相変わらず忙しい。本を読んだり、おしゃれをしたり、ロックを聴いたり。剣道にピアノ に茶道にリコーダーと、練習に終われることもいっぱい。そのうえ学級委員長で、なんとかの実行委員で、と学校の行事があるごとに獅子奮迅。そして家に帰れ ば買物、料理と頼られている。そのどれも捨てさせたくないのだけれど、勉強しているのをあまりみたことがない。
いっそ高校にいかなくても、たとえば料理と外国語を三つくらいやって二十歳になる、なんてとてもいいと思うけれど、他人から可能性を限定されずに自分の選 択の幅を広げておくためには、うん、今は勉強もいいと思う。


七月に美礼は十五歳になる。教えることもなくなって、これからは語り合う方が多くなるだろう。
仕事をしながら子供を育てるのは大変ではないか、とよく聞かれる。大変ではない。ホビーなのだから。
ホンデュラスにもうひとり、形だけの養女がいる。九歳になるネリー。経済的な援助だけなのだけれど、半年ごとに送ってくれる写真で成長を楽しみにしてい る。父親が交通事故で亡くなったときから私の養女になった。母親と五人の兄妹でわずかな土地を耕し、牛を飼って暮らしていたのだが、この間の手紙では、母 親が再婚して出ていったので、兄妹で祖母に引き取られたという。「算数が好き」と鉛筆で一生懸命書いたスペイン語はしっかりしている。クレヨンで描いた絵 には小鳥がたくさん飛んでいて、木々の緑が鮮やかだ。
あまり関心のなかったホンデュラスの政情が最近はとくに気になる。ネリーがいつも食べているというトルティーヤをわが家でも時々やくようになった。

ホビーはそれ自体が楽しいだけでなく、生活をどんどんふくらませてくれる。人生、マイ・ホビー。


ぬきがきうた(その二)  木島始

  岳父を弔う

なじんだ証しか
消えた親しい呼吸
呼ばぬのに喋るのだ
幻らしく落着いて

  山下菊二さんの名にちなんだ弔詩

威丈高な紋章だけの菊に
人々が平伏すことないよう
闘いつづけた画家は逝った
ほんものの菊が真盛りのなか
(「新日本文学」から)

  橋本福夫さんを弔う

もすこしつきあえんかね……
との一言 沈黙が磁石 ゆれる針
教えとこうか 湧き水のありか
とひょっこり足を登らせだしたひと
(「群像」から)

  長谷川四郎さんを弔う

のっそり図体から千鳥さえずる
行こうよ飲もうよ芝居やろうよ
ととても応じきれない誘いを
ずっと天空から届けてくるひと
(「詩学」から)

  うらかた藤波与兵衛さん十三回忌に

サエカエル
ハレブタイ
ササエシハ
カノヒトゾ

トツクニニ
シマグニニ
オシマレル
マレナヒト


任意の一日  山川枯草木



ここではあのようにして夏があり、三月三日が秋の三日目である。

出発から路面電車でリッチモンドにまわる。ビクトリア通りのベトナム中国食品店でトーフを買う。たくさんあるけれど、行きつけのところができてしまう。増 えてもいるらしい。買うものもきまっている。トーフ半打、といっても一つのかたまりで、日本の一丁より大きいかもしれない。ちょっとうすいけれど広い、そ れを二つ買って、モヤシ一袋、中国野菜、名前は知らない、黄色い花が咲いていることがあるの一把。油アゲ、といっても一口モナカ位の大きさと厚み、なかは 空気、一打。干エビ一袋(タイ産)。何にもいわないのにどうして分かるのだろう、お金を払うとき、英語で額をいわれる。こちらも英語しかしゃべれない。こ んど豆乳でも買ってみようかしら。

通りを渡って、タイガーカフェに入る。こちら側にはベトナムの店がほとんどない。トルコ人の経営で、なつかしい、小さなガラスのコップに入ったミルクを入 れないお茶をのませてくれる。タイガーとトルコとは何の関係もない。オーストラリア式フットボールのリッチモンドチームがタイガースというのだ。女っ気が なく、昼間っからひげの濃い男たちがトランプなんかしているので入りづらいけれど、二度目である。車のカギを落として、ここで応援を待っていたことがあ る。壁にケマルアタチュルクの肖像がかかっていて、ケマルアタチュルク、と日本語でいうと、ケマルアタチュルクとトルコ語でいうらしい。「チャイ」とペル シャ語で注文しても通じるはずだった。ローマ字のトルコ語で、チャイと黒板の値段表にあったから。でもあぶないな。シャミセンのことをサシミと覚えている 人がいたっけ。サシミをひくっていうから、サシミねえ、まだ聞いたことないなあっていったんだけど。

通りの見えるテーブルに腰かけ、タバコをとり出す。前の日のむしあつい夕方、パブでビールを二杯のんだあと自動販売機が目に入り、買ってみたのである。お 金を入れてもボタンを押してもでてこない。「でないよ」とバーメイド(というのだ)のジーパンはいたねえちゃんにいうと、「お金きっちり入れた?」「うう ん」なかなかうるさい機械なんだ。おつり出してまで売らないのである。両替えしてもらって無事、ごく久しぶりにタバコのけむりがのどに入ってきた。わるい いたずらだ。さっきからもう帰りたいと思っていたのに、ますます帰る気を失う。どうしたってもう一杯のまなくてはならない。

レッドヘッドというマッチで火をつける。このタバコ一本の軽さはじつに好ましい。松落葉を踏んでいる気がする。けむりが通る隙間があるせいだろうか。それ とも、なろうとする灰の重さなのだろうか。何も考えない。しかし火がかすかにふるえる手のうちにあるという感じはわるいものではないし、ものが灰になって ゆく時間とからだが接していることも何かを教えてくれそうな気がする。それにこのけむりが出てゆく脱落感。なんだろう。目をみはること以外何もできない。 風がきて、店の中央を占める玉突き台の角にぶらさがるチョーク(というのだろう)とひもがゆれる。チェホフの「煙草の害について」にはいったい何が書いて あるのだろうか。

チャイのスプーンには二つの角砂糖がのり、それをコップに入れてかきまわし、スプーンを皿におき、コップを手にするが、やはりどこかトルコ人とは手つきが ちがうのだろう、見られていたらはずかしいと思う。それでも茶はなくなり、二杯目をたのむ。タバコはもう何本目か。おじさんは「一番いいのいれたから」と もってきてくれる。

男たちはトランプをし、タバコを吸いながらそれを見、じゅずをつまぐりながら豪州のとトルコのと二つ旗のついたトルコ語の新聞を読む。

坐ったちょうど肩のあたりの壁に沿って、長細い板がずっとねじでとめてある。装飾なのだろうか。レンガのなかのねじを考えるとちょっとたまらない気がし て、まだペンキをぬっていないその厚い板をなでてみるが、しっかりうごかない。そうであるべきだ。何色に塗るの? ときいてみたいがよしにする。

気もちが悪くなってきた。汗もでてきた。テーブルの下の向こうの椅子に足をのせてみるが、大便意をもよおしてきた。高校三年の九月一日、学校から帰る途中 倉内均と上野広小路の喫茶店に入り、夏の休みではじめて両切りピースを吸った倉内はハイライトを注文した。二人で何本か吸って、といってもこちらはふかし ていただけで、火の消し方が妙にうまいとほめられ、倉内はさきが長くて赤い三角錘になるほど吸って、きもちがわるいといいだした。外へ出ておさまったけれ ど、あいつもあの時はもよおしていたのかと同情する。

ここはやはり出るしかないとトイレをきくと、傾いた日のいっぱいあたる北向きのコンクリートの裏庭に男女でたっている。そこから出て手を洗う。蛇口と洗面 台の白い陶器は外の壁につけられ、水はペダルを踏むと出る。外で手を洗うのも気持よいが、手をつかわずに水が出せるのはもっと気持がよい。そのペダルがど こにつながっているのかまた細くよく曲がって長いのだ。

中へ入ると、みんなで西瓜をきっていて、おひとつ、とすすめられるが、結構ですから。タバコの害についてはよく分かった。飲みのこしでわるいんだけど、タ バコを進呈すると気持よく受けとってくれた。帰ることにする。(メルボルン)

メルボルン映画祭短編映画コンクールについてはまえに書いた文章では、選考とコンクール審査の関係がはっ きりしませんでした。選考というのは映画祭で上映する作品を選ぶことで、コンクールの審査は映画祭の会期中に、何人かの審査員が行います。
賞についても、グランプリと最優秀ドキュメンタリ賞だけしかあげませんでしたが、その他にフィクション(ただし三十分以内)、実験映画、アニメイション、 学生映画、佳作の各賞があり、それぞれ賞金が出ます。
ただ、締切りは三月十六日。来年もよろしく。
会期は六月五日〜十四日。お近くにおいでの節はぜひお寄りください。



佐渡の旅日記  鎌田慧


5月9日 十四時十分の新幹線で新潟へ。A誌のT氏が同行。十八時、ホテルのロビーで五十嵐文夫さんと会う。故青地晨さんの高弟である。十四、五年まえ、 新潟水俣病の取材にきたときに泊めてもらったのが最初。その後、柏崎原発取材の途中で何度か泊めてもらっている。減反に反対する福島潟闘争と三里塚を結び つけるために、前田俊彦さんと一緒にきても泊めてもらった。何カ所かで酒を御馳走になって、市郊外、寺尾の新居へ。

5月10日 目覚めると水の音。中庭が石を配した池で、岩から落ちる水は砂丘を伝わってきた湧き水とか。地元の銘酒××の原料が、惜しげもなく流れている ゼイタクさである。煙草を買いがてら海岸に出てみたが、佐渡は雲につつまれてみえず。十六時、ジェットフォイルで、いよいよ佐渡、両津港へ。この船は呑み こんだ流れを噴射して海面を飛ぶように走る。一時間で到着。岸壁にはボーイスカウトやら婦人団体が出迎えている。二階の席に、皇太子の弟夫妻が同乗してい たのである。

バスで佐和田へ。佐渡はひょうたんが押しつぶされたような形をしている島だが、そのくびれたところが両津湾で、佐和田は反対側の真野湾に面している。車窓 からの眺めは山高く田んぼがひらけ、島の大きさを感じさせる。田んぼの中のビジネスホテルに一泊。久しぶりにカエルの大合唱をきく。

5月11日 早朝四時に目覚める。よく考えてみるとこの町に泊まる理由はなにもなかったのだ。朝はやくバスで相川町にむかう。ここが目的地なのだ。

町役場に顔をだして『佐渡金銀山史話』『概観佐渡』などを借り、『佐渡相川の歴史』(資料集十)を購入。水替人足と流人の記録である。午後から相川郷土博 物館で資料捜しとコピー。

5月12日 郷土博物館で知り合った三浦啓作さんが迎えにきて下さる。NTTの職員で、もうじき定年退職とか。郷土史の研究家である。Tさんとは旅館で別 れ、三浦さんの運転で、まずゴールデン佐渡へ。三菱金属は縮小され、一部は佐渡金山として残され、一部は観光会社となった。ゴールデン佐渡は、坑道を観光 資源として利用しているのだが、江戸時代の「大工」(坑夫)たちはロボット仕掛けで、手を動かし暗い声をあげる。かつての奴隷労働が、いま観光客相手の見 世物になっているのが不思議である。現在の労働者の姿は、昔との混同を防ぐため公開されていない。

佐渡にきて、わたしははじめてまだ金が掘りつづけられているのを知った。江戸時代からつづいてきた金掘りたちのロマンを残してほしい、という鉱山長の言葉 には実感がこもっていた。見果てぬ夢、というべきか。花田清輝の『ものみな歌で終る』も、この相川町の金山が舞台だった。

夕方、末田年雄さん(70)と会う。一九四〇年にストライキが準備されたが鎮圧され、指導者は警察署で虐殺された、との証言をひきだす。

5月13日 朝七時四十分。三浦さんがクルマで迎えにくる。佐渡金山の見学に出発。八時、サイレンが山峡にこだまする。たった十六人の労働者がキャップラ ンプをつけて、トロッコ(人車)で坑内へ。坑道の巾はトロッコの分だけ。小人の国の探検のようである。

坑道の上部に、ひとがひとりもぐりこめるほどのタヌキ穴が無数にある。江戸時代の坑夫たちの苦悶の跡である。その下に千切れたトロッコの線路がみえる。明 治時代の坑道である。それをみながら現代を歩く。江戸、明治、現代が交叉する奇妙なタイムトンネルの世界である。

坑道の先端にある切羽で、二人の青年が丸太で支柱をはっていた。坑道を安定させたあと、鑿岩機で孔をあけハッパをかける。江戸と明治と現代を一挙に吹きと ばして、トン当り三〜四グラムの金が採取される。

エレベーターで昇り、上部坑道を歩いていると、古い洞があった。覗きこむと、羽音をたかめてコウモリが飛び交っていた。無宿人たちもみたコウモリだろう か。

夕方、旅館に帰ると、玄関におばあさんが坐っていた。「お帰りを待っていた」といわれてしまった。泊めてもらうといわずにとびだしたので、彼女は夕食の支 度をしたらいいのかどうか迷っていたらしい。十一歳で北海道は小樽に渡って女中奉公。亭主に死別して佐渡に帰ってきた。窓から通路をみおろすと、七九歳の つるさんが買物かごをさげて魚を買いに出かけるのがみえた。

夜、赤焼きの窯元・四代目を訪問。素材の土は金山特有のもので、独特の赤があらわれる。坑内の闇の黒と無宿人たちの血の赤が陶器に発色するのではないか、 と質問したが、それは否定された。

5月14日 朝、三浦さんが迎えにくる。次の日も。地元出身者でないものに、手際よくひとに会えたのは、一面識もなかった三浦さんのお陰である。






律とまち子のふぁっしょん読本4
文・田川律 え・柳生まち子


最近相次いで「鉛筆」がテレビで話題になった。たまたまその一部を見たのだが、一つは鉛筆工場の製造工程をルポしたもの。そのすぐ後、今度は「子供たちの 筆箱から鉛筆が消える」というもの。二つの番組が同じテレビ局だったかは、忘れてしまったが、もしこの順序が逆だったら「あ、これは売れなくなっている鉛 筆の宣伝か」と思ったに違いない。

たしかに、子供たちの筆箱から鉛筆がどんどんなくなっているようで、筆記用具としては鉛筆しか考えられないぼくなんかには結構ショックだった。鉛筆の代わ りに人気を得ているのは、シャープペンシルなのだ。

これは意外だった。ぼくなんか、これまでずっと、シャープについて、良い思い出が一つもないから。文具売場で、万年筆とシャープがセットになっているのを 見ても、頭から「どうせシャープのほうは使わないし」と思ってしまう。あの細い芯はすぐに折れてしまうし、その度にいちいち取り替えなくてはならないし、 ぼくがガッコに行ってた時代にはシャープのほうが鉛筆より圧倒的に「割高」だった。

たった一度だけ、ステットラーの太いシャープをかなり愛用していた時期があったが、それも全体からみれば、ほんの短い時期だった。「物書き」になった当初 は、万年筆派だった。

文房具における「アメリカ」はパーカー万年筆で、あの楕円形の羽のついた矢が貫いてあるマークは、最高級品のイメージを与えていた。百貨店の文房具売場で 「いつかあれを使えるような身分になりたい」と憧れていた。また当時の輸入物はこれしかなかった。そのうち、ペリカンやモンブランが出回るようになって 「アメリカ」の価値も下落していった。「日本語を書くのはパーカーよりもモンブランのほうが書きやすい」とかいったりして。

ぼくはといえば、すぐに「鉛筆派」になった。ひとつには、新聞社での仕事が増えたせいもある。ここではいつも3Bの鉛筆だ。なるほど使ってみると滑りが良 いし、ぼくのように「一筆書き」みたいにさらさらと書く人に、ぴったりの鉛筆だ。ぼくの仕事では、翻訳がまとまった仕事で、それを思い出すと、最初のジャ ニスの伝記は万年筆だが、あとは最新のブランドステッターの『砂漠の天使』まで、全部鉛筆それも新聞社の3Bのヤツでやった。

一番いろんな文房具のお世話になったのは、高校時代だ。工業高校にいたから「製図」があったので、T型定規や鳥口は必需品。なにしろ「昭和」も二十年代な かば、線を引くのは、いちいち墨を刷っていた時代。墨汁というのがあったが、硯で刷る墨に比べて「滲みやすそう」で、歓迎されなかった。線の太さもいちい ち鳥口のネジを廻して調節してた。何事もおおまかな傾向のあるぼくには、これはいつも苦手だった。今あんなんつこてる人いんねやろか?

人によって、使っている物が、実にさまざまなのが、手帳と電話帳。ぼくもいろんなものを使った。みんな一長一短。手帳はここ五、六年、ダーク・ダックスの 事務所が作っているのを愛用している。二週間単位のもので、薄いのがいい。電話帳のほうは、ヨーガンレールの和綴じの物が丈夫なので、ポロポロになった今 も使い続けている。


可不可(その四)  高橋悠治


ユダヤ人の少女はつづける。「だから、そのおかげでずいぶん得してるのよ、捨てるつもりはないわ。ところで、ここにずっといられるの?」

「きみのためならね」と、男はゆっくり言う。二人は恋人たちのようにぴったりくっついて。「そうしてくださる? あなたにずっと憧れてたのよ。ここにいる のもそんなにわるくはないわ、そう思えないかもしれないけれど。それに二人なら、まわりも気にならないでしょう」

二人はしばらく黙って歩く。組みあわせた腕をほどいて、いまや抱きあっている。地下室はひろい。道は長い。暗いが、闇ではなく、黄昏のようで、二人のまわ りはちいさい環をえがいて、それよりもいくらか明るい。

突然、「ねえ、わたしの棺桶見せてあげる」びっくりして、「まさかきみ、死んではいないんだろうね」「いいえ、でも本当のところは、ここは知らない場所な の。あなたがいらして、よかった。あなたなら、すぐに全部わかるでしょう。いまだってもう、わたしよりはわかっているかもね。ともかく、わたしのお棺 よ」(なんだ、ベッドだと思っていたよ。きれいな枕。)少女は横たわり、指をあげて、じっと見つめる目で誘いかける。男は彼女の頭巾をとり、髪をそっとな でる。「ねえ、まだいっしょにいるわけにはいかないんだ。だれかに話をしないと、いっしょに行ってくれる?」「話さなければいけないの? ここでは何の義 務もないのよ」「ぼくはここの者じゃない」「ここから出られると思ってるのね」「もちろん」「じゃ、時間をむだにしない方がいいわ」と、彼女は言って、枕 の下をさぐり、一枚のシャツをとりだす。「これはわたしの経かたびら」と男にさしだしながら。「でも、わたしは着ないの」


机の男「すこししずかになった。これが必要だったんだ。すこししずかになると、すぐにしずかすぎてしまう。自分を本当に感じるのは、耐えられないほど不幸 な時だけなのか。おおいにあり得ることだ」

(てがみを書きながら)「恋人たち、天使たち、どこに漂っているのか、何も知らず、ぼくのこの世の手にはとらえようもなく……」ドアをたたく音。死刑執行 人だ。「もういいかな?」囚人はとびあがり、また坐り、前の方をじっと見つめるか、顔を手のなかに埋める。返事がないので、死刑執行人は木のベッドの上で 道具箱を開けて、短剣を選びだし、刃をしらべる。もう暗いので、小さな携帯用ランプをだして、照らす。囚人はそっとそれをのぞき見るが、おびえて目をそら す。しばらくして、死刑執行人「さあ、こちらはもういいよ」

「もういいって」と。囚人はとびあがり、死刑執行人をまともに見すえて「おれを殺したりしないだろう? ベッドに寝かして刺し殺すなんて? 人間じゃない か。死刑台の上で助手や裁判官の立ち会いのもとならともかく、こんな独房のなかで、人間がほかの人間を」死刑執行人は道具箱を見下ろしてだまっているの で、いくらかおちついて「そんなことはできないよ」それでも相手はだまっているので、「できないからこそ、こんなへんな裁判のやりかたが採用されたんだ。 かたちは守るにしても、死刑はおこなわれない。おれはほかの監獄に移されて、そこに長いこといるかもしれないが、処刑はされないだろう」死刑執行人は新し い短剣を木綿入りのカバーからだしながら言う。「おとぎばなしなら、こどもを捨ててこいと言われた召使が、そうしないで、靴屋に見習いにだすこともある さ。そんなことを考えているんだな。だけど、それはおとぎばなしだ。こっちはおとぎばなしじゃないんだよ」

机の男「ぼくがここに書いたことを、だれも読まないだろう。だれも助けに来ないだろう。ぼくを助けるように通報されたって、どの家のドアも閉まっている、 窓もみんな閉まっている、みんなベッドにはいって、頭からふとんをかぶっている。それも当然だ。だれもぼくのことを知らない、知っていてもどこにいるかわ からない、どこにいるかわかってもそこに行きつくまで待っているかどうかわからない、どうして助けていいかわからないんだ。ぼくを助けたいと思うのこそが 病気なんだから、治るまで寝ていなければならないのさ」

ベッドに自分から横になり、「嘆くのは無意味だ。その答えは、刺すような頭痛しかない。質問はなぜ無意味なのか。嘆くということは、質問をして、答えが来 るまで待つことだ。だが質問は、それが生まれるなかでそれ自体の答えとならなかったとしたら、決して答えられない」頭から毛布をかぶって、しずかになる。


ヴァイオリンの音がきこえてくる。三人の下宿人たちは足音をしのばせてドアのところに行き、そこに折り重なって立ったまま、きき耳を立てる。それに気づい て、ヴァイオリンが鳴りやむ。三人は折り重なったまま、手でていねいに招きいれる。譜面台と楽譜を人にもたせ、自分はヴァイオリンをさげた妹がでてくる。 演奏の準備をして、部屋のまん中でひきはじめる。調子のはずれたおなじフレーズのくりかえし。

最初は譜面台のすれすれに折り重なって立ったまま、楽譜をのぞきこむようにしていた三人は、だんだんに壁のところまでさがって、いらいらしながら待ってい る。

ベッドの上の毛布のかたまりは、だれも気づかぬうちに、床にすべりおり、しばらく様子をうかがってから、ゆっくり頭を左右に降りうごかし、のびちぢみをく りかえしながら前進してくる。そして、妹のすぐうしろまで這いよると、毛布をふりおとさないようにしながら、妹の首すじにむかって鎌首をもたげる。

下宿人の一人が気づいて、指さす。ヴァイオリンが鳴りやむ。毛布のかたまりはゆっくりくずれおちて、しずかになる。

もう一人がすすみでて、(もうこれは下宿人ではない)「一言でいい。願うだけでいい。空気をうごかすだけでいい。まだ生きているしるし、待っているしるし だけでいい。いや、願いはいらない。息づかいだけ。息づかいもいらない。身がまえだけ。身がまえもいらない。思うだけ。思うこともない。ただ、しずかに眠 れ」


その間に全部がかたづけられて、一番はじめの状態にもどっている。ベッドにねている男がひとり。その前に立っている男がひとり。(背をむけて、と書いた が、たぶんこちらをむいていたほうがいいかもしれない)机の前に坐っている男がひとり。なにか書いている。

 机の男は書きながら読む――
ぼくのあこがれは昔
ぼくのあこがれは今
ぼくのあこがれは未来
それらすべてをもってぼくは死ぬ
道端の番小屋のなかで
垂直のひつぎのなか
それは以前から国有財産だったものだ
ぼくの人生は
それを破壊しないように自制することで消耗してしまったよ


ベッドの前に立っている男が話しかける。「まだ断食してるのか。いったいいつになったら止めるんだ?」すると、ベッドのなかからささやくような返事、「か んべんしてくださいよ、みなさん」「いいよ」と、立っている男は額に指をあてて、断食芸人の病状を示す。「かんべんしてやろうじゃないか」「断食に感心し てもらいたいと、ずっと思ってきたんだが」「もちろん感心しているんだよ」と、調子をあわせる。「ところが、感心するようなことじゃないんだ」「そうか、 それじゃ感心するのはよそう。どうして感心してはいけないんだい?」「断食するしかないんだ。それしかできなんだ。」「おどろいたね。じゃ、どうしてそれ しかできなんだい?」「それは」と、頭をすこしもちあげ、口をとがらして、相手がききもらさないように、かたむけた耳にむかって言う。「うまいと思う食べ 物が見つからなかったからなんだ。見つかっていれば、こんな目立つことをしないで、みんなとおなじに腹いっぱい食べていられたのに」

特にそれを誇るでもなく、だが、断食をつづけるかたい決意のままで、目はもう何も見ていない。


 最後の歌――
七つの海のそのむこう
七つの砂漠のまたむこう
七つの山の七つ目の
上にそびえる城があり
それから…………


「さあ、かたずけよう」と、ベッドの前の男が言う。なれた手さばきで、毛布や枕が空中にとびかい、たちまちベッドがととのえられる。それだけではなく、机 の上も整頓され、楽器はケースにしまわれ、楽譜はかたづけられて、すべては思いがけなく、だが断固として終わってしまう。



走る・その十五  デイヴィッド・グッドマン


重体。昏睡状態。九三歳の祖母は死に瀕していた。うちから四〇〇キロほど北に離れた故郷のラシーヌ市に駆けつけた。

着いてみると、おばあちゃんは意識不明のまま、小さくなって、ベッドに寝ていた。「おばあちゃん、ぼくだよ」とよんでも、返事がない。目は半分開いてい て、青い虹彩が見える。「おばあちゃん、ぼくだよ」

入れ歯が口に入っていないので、横臥しているおばあちゃんの頬は深く窪んでいる。肌は白く、半透明。まるで磁器のようだ。

ベッドにすわってみる。滑り落ちそうになる。よく、ま、五〇年間ちかくも大男のおじいちゃんと二人でこんな狭いやわからいベッドに寝たもんだ、と感心して しまう。

椅子を持ってくる。おばあちゃんの額を撫でる。髪の毛がうすくて、額が広く、でっぱっている感じ。あたたかい。消えつつある命の炎はまだ燃えている。

手を握る。「おばあちゃん、ぼくだよ。聞こえれば、手を握りかえしてちょうだい。」無抵抗な手。細い腕。皮膚がたるんで、骨の形がはっきりみえている腕。

時々おばあちゃんはうなる、「ワワ、ワワ。」ウォーターを乞うているのか、寝惚けているのかわからないが、水を注射器にいれて、二、三滴口内に注ぐ。おば あちゃんはむせて、いやそうな顔をするが、やっとのことで、呑む。

居間で待っていたヤエルを呼ぶ。
「ひいおばあちゃんにはね、もう会えないかもしれない。わかる? きょうきたのは、お別れをするためだよ」
「もう目さめないの?」
「うん、たぶんね」
ヤエルは涙ぐんだ。冷えびえしたおばあちゃんの手を握り、ベッドにのぼり、無意識のおばあちゃんの顔に接吻した。「さよなら、ひいおばあちゃん……」
「じゃあ、カイもよんどいで」
「おい、カイの番だよ!」ヤエルの声は爆音のように響く。

おもちゃの車を片手に持ったカイはおばあちゃんを見つめて、「ひゃくさいまでいきるとおもってたのカイは。じゃあ、さいなら」と、車をいじりながら部屋を 去る。

それから三、四回ぼくはおばあちゃんの家を訪ねた。二脚の椅子を並べて、おだやかなおばあちゃんの顔をみながら、彼女の思い出話を和子とした。

     *

おばあちゃんが息をひきとったのは、ぼくたちが駆けつけてから五日めの火曜日の夕方六時十五分であった。イスラエルからとんで帰ってきたぼくの 弟が六時に着いた。おばあちゃんの死体はまだあたたかかったそうだ。すぐ下の弟は八時ごろ、インドネシアから到着した。

お葬式は木曜日の朝、シナゴーグの講堂でおこなわれた。日曜学校の劇などのために使われる舞台の前に、二つの大きな花束に挟まれて、鉛色の金属製の棺がお いてあった。ぼくは母に頼まれて、棺の前に立ち、ラビの代わりに弔辞をのべた。一八九三年に生まれた祖母の生い立ち、結婚、子供、型通りの話だった。一九 四四年の夏、二人の息子の死をしらされた祖母――七月サイパンで死んだ長男デイヴィッド、八月にナチスに射殺された次男のノーマン。そして終戦後まもなく 生まれた孫のデイヴィッド、ノーマン、アンドルー。おばあちゃんはそれから孫のために生きてきたようなものだ、などと話した。

弔辞が終わると、弟たちをふくめた六人の男たちが柩を霊柩車に乗せて、ぼくたちは墓地に向かった。ヘッドライトを点けた葬送の長い行列が霊柩車につづい て、墓地へゆっくりとすすんでいった。

墓地はもう掘ってあった。短い祈祷が唱えられ、柩はゆっくり、いかにもゆっくりと穴に下ろされた。ぼくたちは一人ずつ、ひとにぎりの土をひろって柩の上に なげた。ヤエルも、深い墓穴の中を覗き込んで、土をなげた。

     *

冷たい春雨が降りしきる金曜日の朝、ぼくは心底疲れていたが、走った。疲れていたのは、おばあちゃんが亡くなったからだけではない。大学の第二 学期が終わって、日本の原爆文学とユダヤ人の手になるホロコスト文学を教材とした「ヒロシマ・ナガサキと生存の文学」という講座をおえたところでもあった からだ。十五週間、週に三回、およそ十五人の学生とともに、われわれの時代を特徴づける大惨事を直視しつづけてきた。不条理な死、無意味な死、無名の死。 おびただしいグロテスクな死。

それにくらべて、おばあちゃんのは、いかにも健康な、自然な死だった。それを見届けることができてよかった。子供たちにそれを見せることができて、ほんと うによかった。



編集後記

外国人登録制度を裁くリケットさんの裁判第一回公判は、7月6日午後1時15分から、東京地裁第526法廷で開かれる予定です。
また先月お知らせした「ロバート裁判の会」(外国人管理体制における日米共同責任を追求する会)の規約のようなものは以下の通りです。
●「ロバート裁判の会」は外登法による外国人管理体制を法廷の場で追及していきます。
●趣旨に賛同される方は、誰でも会員なれます。
●会費は年会費三千円です。賛助会員は賛助会員一口一万円です。
●連絡先・東京都渋谷区宇田川15-2 山手マンション203 住民ひろば内 Tel464・8840 郵便振替口座 東京7・143823
なお今月号に掲載したわれらが「被告人」の所信は全体の約三分のニにあたりますので、残りもつづいて掲載する予定です。
高橋茅香子さんの名前をはじめて知ったのは「女たちの同時代 北米黒人女性作家選」のなかの一冊、アリス・ウォーカーの『メリディアン』の訳者としてでし た。去年また高橋さんの名前を見たのは、クローディア・ケイト編『黒人として女として作家として』という14人の黒人女性作家のインタビュー集の訳者とし てでした。「翻訳とは共感だとおもいます」とあとがきにあります。
7月20日高橋悠治の「自由時間」第2回。ゲストは藤本和子さん。築地本願寺ブディストホールで7時から。千五百円。Tel461・3172(八巻)




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