音の静寂静寂の音(2000)
高橋悠治

1  いまここに立つ


池の水面にさかさまに映る木々の影
水がゆれると影は散らばり砕ける
影は水面を染めている
影が水をうごかすことはない

眼を挙げる
池のほとりに立つ木々は眼に映る光のもよう
眼がうごけば光は移る
木々の影は水の夢
木々はこの眼を透してなにものかが観ている夢
この眼も夢の眼が観ている眼の夢 

今年の秋のはじめは
ポーランドのいなかの古い貴族の館ですごした
さまざまな土地からあつまった25人の作曲家とのワークショップ
遠いヨーロッパの片隅で
韓国の音楽家と伝統音楽の問題を語りあい
現代音楽に触れたことのないベラルーシの若者が
教会の合唱隊とともにつくった歌の純粋な響に打たれ
ケニアの人の生活に根づいた音楽観に共鳴する

東京に暮していて 音楽を語ることはない
こんなにたくさんの音楽家がいて
音楽することに何の意味があるのか
だれも知らない
それとも言いたくないのか

かつてはみんなが貧しかった時代があった
そのとき音楽することにはたしかに意味があった
それは何だったのか
かつての仲間たちが功績をたたえられ
賞をやりとりしむなしい誉めことばに囲まれて
慣れた手つきで次々に手繰り出す音楽の
なにものも究めず学ぼうともしない姿勢
没落する経済と老化する社会の現実をよそに
国家支配の小道具である近代オーケストラと
資本主義の繁栄のしるしであるグランドオペラに魅入られて

若い音楽家たちとなら
いっしょに音楽することができると思ったのも
幻想に過ぎなかった
若いのは外見だけでほとんどは
いまなおヨーロッパの規範に追随して技術をみがき
洗練されたうつろな響を
特殊奏法やめずらしい音色や道化芝居でかざりたてて
利益と地位だけが目当てのものたちばかりだった
いまコンサート会場に音楽はない
きそいあう技術や書法や確信にみちた態度
持てるものがもっと持ちたいという欲望
そのための神経症的な努力

音は生まれず
音は滅びない
始まりも終わりもない音楽
音楽を創ることはできない
音楽は身の周りにあるもの
隠れてあるなにものかが顕す響の痕
顕れた音は隠れた音がそれ自身に還る響

すべての音はいま過ぎ去った音
音がきこえたとき
いまはない
ここはない
いまここに立っているのはこの身体ではない
この心ではない

どれほど長くいっしょにいても
人は人を理解しない
ひとりひとりの道が出会うことはない
それなのに密やかな音楽がそこに行き交う
人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽
その音楽はこの身体に覆われ密やかに息づいている
なにものかがこの身体を透して音楽している

郊外の小さな食堂の二階で
生きるための歌をうたうタイの仲間たちと再会した
人びとのために革命をめざしたが
行くほどに道は遠くなるばかりと言いながらも
20年前とおなじ楽器で
歌に添って音をさぐりながらすすむ
これは音楽の道
かぼそくたよりなく
これでいいのだろうかと思いつつすすむ
これは思いやりの技術
努力は得ることではなく手放すこと
思想にも方法にも経験にもまどわされず
この身体を透して音楽するなにものかを信頼して
耐えて耐えて
日々に世界に向かってひらかれてゆく

(Ex Musica 創刊準備号)


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