音の静寂静寂の音(2000)
高橋悠治

2  慈悲の音か音の慈悲か


雨期のダラムサラで
ダライラマ法王と音楽の話をした
音楽は文化に属する
だがブッダの教えは心の訓練で
それはつまり瞑想だ
ブッダの頃は
修行に音楽はなかった
長く引き延ばした声で経文を歌うのは
よいこととは言えない
教えより声の美しさに心が向いてしまうから
教えが他の土地に伝えられ
その土地の文化によって表現されたとき
音楽も礼拝や儀式につかわれるようになった
チベットや中国で
また日本でも

音楽によって
慈悲や平和と非暴力のメッセージを伝えるのはひとつのやりかただ
と法王は言われた
他方では
音楽はひとを戦いに 駆り立て
民族主義に引き込むこともある
音楽は人びとの感じ方に影響をあたえることができる
だから
あなたには責任があります
と法王は言われた
とりわけ若い人たちに対しては

慈悲の音とは
音の慈悲とおなじだろうか
音楽を心の寺とすることができるか
智慧によって静まった心に
音楽は顕れるだろうか
どこからともなく音は顕れ
どこともしれず消えてゆく
消えてゆく音を追う耳はめざめ
よく気をつけて音をよびさます手は繊細になる
それもつかのま
つくりだされた音楽そのもののリズムにより
メロディーにより
技術の洗練により
心は眠りこみ
あるいは逸らされる

音楽はやはり文化を越えない
音楽とは世間にとどまり
人びとの場のなかでだけ意味をもつもの
だが一方で音楽自体が
消えてゆく一つの音に気づくための装置
とも言える

音楽は音の影にすぎない


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