音の静寂静寂の音(2000)
高橋悠治

4.20世紀の終わりに



ルイジ・ノーノが言うには
ヴェネチアの黄昏は 海上からせまる霧とともに
サンマルコの鐘の音が 空からも海からも
そして大地の下からも渦をまいてこだまする
これが自分の音楽の源なのだ

と言いながらも
作曲家はスコアを手に
ホールのまんなかに座り
ステージやバルコニーに配置された楽器群が
指示通りの時間で響きをうけつぎ
ただしい回転運動を実現しているか たしかめようとする

作曲家の座とは 音楽の玉座か
貴族が食事のあいだ宮廷音楽家たちは
カツラをつけ 上品な手つきで
食欲増進する音楽をやっていたものだ その昔
フランス革命で
王や貴族の頭が 籠のなかに転がり落ちた後
作曲家は 神のような高みから
音響の設計図片手に 百人もの演奏家と
燕尾服の工場支配人に命令する身分にでもなったのか
どこにもない空間に どこにもない時間
どこにもない響きをもとめて

ヨーロッパ の伝統は 音楽に精神的価値を認めている
と 細川俊夫が言っている
精神は天をめざして舞い上がったが
取り残された音楽の身体は ハーモニーの泥沼にはまったままだ
飼い慣らされたオーケストラの脱色された響きが
コンサートホールの閉ざされた扉の内側で荒れ狂おうと
印象にのこるのは音量だけだ
量と力と速度
産業資本主義と民族国家の時代
戦争と革命の20世紀の終わりに
ハーモニーで水増しされた凡庸さが
消費文化をおおっている

ハーモニー 調和とは
対立と競争の実体をおおいかくす平等主義
平均化された音を 関係によって差別化する構造
音はもう音ではない 構成要素 記号にすぎない
アリストテレス以来の 自他の区別にもとづく論理が
地球を国境線で分割しているあいだは
ヨーロッパ中心主義もなくならない

近代国家はオーケストラを必要とする
オリンピックで日の丸があがるとき
オーケストラがなかったら
だれが君が代を演奏するのだ
アジアを威嚇する
あの大太鼓のどろどろも

オーケストラだけではなく
指揮者 楽譜 作曲家も 国家マシンの一部
この制度をそのままに
ユートピアを夢見ても
灰色のオーケストラの音が呼び起こすのは
北の みたされることのない欠乏の論理

音はあらわれつづける
すべての音がすべての音とかかわる この
あらわれのなかで
音にからみついている よけいなもの
技術 エクリチュール 方法論 美学
をすてて
音楽をものほしげにしている すべてのくふう
音律論 和声学 ベースライン リズムパターン 楽器法
にこだわらず
音楽家をしばっている装置や制度
伝統 オーケストラ コンサート 作品
からはなれて
森でなくてもいい
都市のまんなかでも
とぎれることのない車の音
冷蔵庫のうなり コンピュータのファン
呼び交わすカラス けんかするネコ
通り過ぎる話し声
できるだけたくさんの音に 耳をひらき
名づけ分類することなしに
身体をさらしていると
やがてあらわれてくるだろう
耳のなかでざわめく神経の 高い持続音
鼓動のこだま 息の気配も

身体をとりまく音も
生きている身体の経験そのものである音も
皮膚の境界をこえて
あいまいにゆれうごく ひとつのオーケストラをつくる
この振動のなかから
ききなれないうたがきこえてくる
としたら
そこでは きくこととつくることがひとつで
楽器に触れる手は そのままで
楽器に押しつけられた耳である

なぜなら いまあらわれたこの音も
冷蔵庫やカラス 車の音とおなじように
神経の 沈黙の音を透かしてきこえてくる
この現実と別なもの ではないからだ
きこえる世界にこたえる このかすかな響きは
なにかを語り なにかをあらわすのではなく
音のあらわれそのものだ

(ExMusica2号)
 


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