1 声
遠い響 ここからすべてがはじまる
聴くともなく 遠い響が聞こえる
途切れない響に包まれている感覚がある
どこになにかが聞こえるとき 聞こえるという この感じはどこにあるのだろう
からだのなかをくまなくさがしても みつからない
科学は耳のはたらきを分析している
耳が音をとらえるのはわかる
では 音がしているのに聞こえないことがあるのは なぜだろう息の出入りは鼻のさきで感じられる
冬の朝は そこに白いもやが見えることがある
それが息だろうか
息に対応する ある見える感じにすぎないのではないか
そんなに冷たくなければ それは見えない
鼻先に感じているのは 息が入るときの冷たい感じ 息が出るときのかすかな暖かさ
それは息そのものではなく 息によって引きおこされた別な現象ではないだろうか
それによって 息が通っていることを知る
でも 息を直接感じることはあるのか ないのか息をとめるには 意志がいる
息をするのは 命令しなくてもできる
からだがかってに換気する それを息と呼んでいるのだろうか
呼吸のコントロールは 意志の力をあつめなければできない
その力が一瞬でもゆるめば 息はとまることなく じぶんのリズムで呼吸しはじめる
それを観察していると こちらにあるからだに息が向こうから入ってくる というよりは 息が向こうにあるからだに入りこみ それをつかまえようとするからだからのがれて 出てくる ように感じられる
息はわれわれの側にあり からだはその前にたちふさがる 穴のあいた不透明な壁である
息がこの壁を押しうごかしている鼻先に息を感じるのはだれだろう
もしこのからだがわれわれ自身であって それが息をじぶんの意志で取り込んでいるのなら からだが息を感じる と言えるかもしれない
でも われわれは息であって その息がからだの鼻先を感じるのだ ということもできる
荘子は 真人は踵で呼吸すると言った
踵に注意を向ければ そのときたしかに息はそこにある
背中が痛むとき 痛むところに息を通す
するとしめつけられていた筋がゆるんで 下がってくる
この場合 息は かたまった筋をほぐす手であり ほぐれたからだを吊り下げる糸であり そのプロセスをみまもる意識でもある
からだは中空の管であり 糸に吊られた木偶である
でもこの糸は 頭上に固定されてはいない
そのような支点は からだのなかはもちろんのこと からだの外のどこにもにもない
息という糸は それ自体を吊している息はからだを世話する 息はからだをうごかす はこんでいく
息がなければ からだは立っていられない
でも息のなくなったからだがどうなるのかは わからない
そこにころがっているからだを見ることができるのは 他人だけ
人がまだ若くて 思うままにうごきまわれると思っているあいだは からだはなく じぶんだけがあるように思われる
からだが言うことをきかなくなってくるときはじめて からだはじぶんでなく じぶんはからだでないことがわかる
思うようにうごかない からだが そこに立ちふさがっている
からだは このように ある
でも じぶんはもうどこにもいない息が入る 息が出る 息が出て消えていく どこへ
息を追っていくと それがだんだんかすかになり 消えたところでほうりだされる
空間がひらける その空間はほとんど音とは言えないほどの ざわめく響にみたされている気をつけてほとんど音にならない響
樹からはなれた実
途切れないしらべのなかの
森の深いしずけさ
とマンデリシュタームは書いた
人のいない森で木の実が落ちる
音はするか しないかだれにも聞こえなかった音は 音とは言えない
でも 人がいてもいなくても 木の実は落ちる 落ちれば音がする
音はする しかしそれは音ではない
いや 音とは言えず 音でないとも言えないこの四通りの答のどれでもないとすれば どうする
音が聞こえる そこには人はいない なぜなら 人がいる というのは外側から見ていることで 音が聞こえるのは 内部空間だから
人も 樹も森も 絵にすることができる
でも この響 それを包む途切れないしらべには かたちがない
響はそっとすべりこみ 気づかれないように消える
途切れないしらべには リズムの区切りや 記憶されたかたちがまたあらわれることはない 変化そのものとして とらえどころがない
実から樹へ森へとひろがっていく空間は きっかけとしてのかすかな響とそれを包むざわめきをたとえる 仮のイメージにすぎない
息に注意を向けていた意識が その対象を突然見失ったとき そこにひらける めざめた
光 対象も主体もないかがやき
草原の小動物が気配を感じて後ろ足で立つ そのとき草の海から急にひきはなされた展望
聞こえる というのは そうした存在の不安 それにもかかわらず自分の足で立ち あやういバランスをたもちながら ひたすら遠くに耳をこらす そんな状態
はるかな響の海 かすかに感じられる呼吸 音もなく脈打つ鼓動 そこには内も外もない
こどもの頃 寝ていると川の音がきこえた
鼓動とまざりあい 呼吸はゆるやかになって 眠りにひきこまれる
ギリシャ人のともだちは パリでは海の音がきこえないから眠れない と言った
もう川の音はしない 高速道路を夜っぴて走る車の音だけ
でも この音がなければ眠れないだろう
ふたたびマンデリシュターム 黒海の辺に追放されたオヴィディウスを偲んで海もホメーロスも すべては愛にうごかされる
でもだれにたずねようか ほらホメーロスはだまっている
黒い海は雄弁にざわめき
重くとどろきながら枕辺にせまる人が眠る夜 詩人はひとりめざめる
このとどろき このざわめき それは眠っていた心をゆりおこすもの
でも まだことばはない この途切れないしらべのなかでは
実が樹からためらいがちに離れ落ち 不本意ながら立てたわずかな音が このはてしない変化にひとつの傷をつけるまでは
このとき 世界はことばになる花ひらき世界起こる
蓮の花が夜明けの光をうけて 夜の空気を吐き出しながらひらく その吐息のかすかな音
あるいは道元諸仏諸祖は道得(だうて)なり このゆへに仏祖の仏祖を選するにはかならず道得也未 (だうてやみ)」と問取するなりこの問取こゝろにても問取す身にても 問取す 撞杖払 子(しゅじょうほっす)にても問取す露柱灯籠(ろしゅとうろう)にても問取するなり 仏祖にあらざれば問取なし道得なしそのところなきが ゆへに
すなわち
めざめた人はいたるところでことばである
ことばがことばをえらび よびかわす
ことばはあるか それともまだかと問いかける声
杖もはたきも 柱も灯籠も 声をあげる
ことばとは ひらかれた問いであり
めざめた心こそ 問いの空間なのだ
それは問うことによって さらにひらきつづける花は世界である 実は森である 鳥の声は空のひろがりである と言ったところで 花や実や鳥を思うままにあやつることはできない
まして世界をじぶんのものとすることもなく だから詩のことばは表現ではない
それは問うもののいない問い わからないという理解のしかたひたすらきくこと なにかをきこうとせずに
なぜなら われわれの日常は外の物事を追いかけることに費やされている
見ることが中心にあり 他の感覚は視覚化されている
目が特定のものに焦点をあて そのまわりから切り離してよく見ようとすると
空間感覚は失われ 見られたものは奥行きのない平たい映像となる
画家がするように ものではなく それを縁取る空間を見ようとすれば もののへりに微かな光の糸髪があらわれる 後光に包まれるように
そして ものはいまや空間のなかに位置を占め 浮き上がって見える
と同時に それが物自体という神秘を内に隠して永遠に実在するのではなく 仮の姿としてそこにあらわれている 空間の結び目にすぎないことも実感される
画家がカンバスから退きながら全体の構図を見ようとしたり 競技者が目の焦点をやわらげる いわゆるソフトフォーカスによって あらゆる方向から来る攻撃 にそなえるように 特定のものを見るのではなく 視野全体に気を配ること できるだけたくさん見ようとすることは 目が内側に向いている時と変わらない
心の内側で起こることを見ようとすると 瞳は一瞬散乱する
ところが 視野の端でうごくものがあれば わずかなうごきでもおのずから目に入ってくる ということは 目が特定のものに気をとられていないからだろう
このように きくときも 目立つ音を追うのではなく 響の前後だけでなく それを包む静寂をきこうとする 耳に入るすべてをきこうとする とおいかすかな 響をきこうとする あるいは逆に からだの内側に耳をそばだてる こういったさまざまな戦術によって 響く空間の全体が姿をあらわす
それは多様な音の粒子が おたがいのかかわりのなかであらわれては消える とらえどころのないひろがり 実体もなく時間もない空間
それを前にしては あらゆる表現は不可能だ
これが原初の 鳴り響く沈黙
十字架の聖ヨハネのうたった 密やかな音楽 響く孤独それに対して 沈黙の音ともよばれる現象がある
まわりの響がしずまった一瞬 耳のなかで持続する高い音だ
それに気づくと 音はしだいに大きくなり 他の音はそれを通してきこえてくるようになる
耳鳴りに似ているが 病的な現象ではなく だれにもあることだ
ジョン・ケージは 大学の無響室のなかで低い音と高い音をきいたことを 何度も書いている
そこでは低い音は心臓の鼓動 高い音は神経系の振動だった と説明されている
物音がしずまった夜更けに 耳が昼間聴いた音を呼び出してひとりたのしんでいる と書いたのは折口信夫だったか
この音は 瞑想者たちにも知られていた
呼吸に集中するときの支えのひとつとして この音を意識することがあげられている
この沈黙の音のヴェールを透かしてすべての音がおのずから入ってくる
生理学では 内耳にある 振動を伝える繊毛群が 外部からの刺激の一部を反転して送り返すことが知られている
大蝙蝠のソナーほどではないにせよ 人間の耳も発信する マイクロフォンであるとともにスピーカでもあるまわりの響が一瞬しずまるというのは 恐ろしい体験だ
人間がきくということは 何をきくというよりさきに からだの垂直軸と空間のバランスを保証するものとしてある
耳のなかの三半規管は そのことの物質的対応と考えていいだろう
立つという不安定な姿勢をとりながら世界に向かい合っている人間は ふだん意識していなくても 響の海に浮かんでいる
それとの関係がなにかのはずみで一瞬途切れることがある
すると 世界はまるでちがう姿 理解を越えたものとしてあらわれる
狂気の直前にあらわれる世界の沈黙も そういうものかもしれない
しかし とりかえしのつかない精神の転落をふせぐ装置がある
天使のささやき といわれるもの 沈黙のなかで きこえたと思うことばでないことば
沈黙の音のように持続する変化ではなく 一瞬のひらめきのように耳元をすぎる風だ歌い手が 修行のために滝の前でうたうことは 韓半島の歌物語パンソリの歌手やチベットオペラといわれるアチェハモの歌手の場合にあったことだ
喉から血が出て声がつぶれても 滝の音を通してじぶんの声がきこえるまで うたいつづける
すると パンソリのしわがれた声 あるいはハモの突き刺すような甲高い声が生まれる
このかぎりでは 大きな声 力ある声をつくる方法のように思われるが 別な見方をすることもできる
滝は 途切れない音の幕だ
その前に立てば どこにも隙がなく 音がからだに入りこんできて すべての思いを追いはらい からだの重さ 不透明な物質感さえ消し去って ついにはからだは透明な薄膜としか感じられなくなる
だが 絶え間なく落ちる水の布が 無数の水滴で織り上げられているように とどろく音の幕も ルクレティウスのいうクリナメンとして わずかな偏りをもつ 音の粒子がぶつかりあい飛び散る場であり からだに入りこんでくる響のなかに やがて隙間がひとりでに浮き出してくる
隙間をくりかえし垣間見るところにリズムが生まれる
音の粒子のもう一つの面である音の波が見えてくる
そのとき その波 そのリズムに応えて 声があらわれる
一枚の縫い目のない布であった滝の音が いまや穴だらけの希薄なレースになって翻る
その隙間に 隙間だらけの滝の声そのものをもって入りこむ
それはもう じぶんの声ではない じぶんを消し去った からだとこころの空白をくぐって 滝に向かって送り返される 滝の声だ
内側が空洞であるものだけが響く
からだ自体を共鳴器として 滝の音を写す
ロウソクからロウソクへ炎が移されるように そして写され移された炎が おたがいを映すように
世界に深く入りこむのと 世界がからだ深く入ってくること 外側の響が内側のものであることは おなじだ
こうして滝の前の歌い手は 声を獲得する
その声は 滝の音と大きさ強さをきそう粗雑な声ではなく 外側からどんな音が襲いかかってきても それを内側の声に変えて聴きつづけられる という声の芯だ
ちいさな声かもしれないが よく透る声響のまわりの沈黙 鳴り響く沈黙 沈黙の音 天使のささやき クリナメン
それぞれにちがうがおなじことでもある さまざまなきっかけを通して 声はあらわれる
声は問いである その前にある世界はことばである
このことばは まだ言語ではない
マンデリシュタームの木の実は ざわめきを断ち切る
ほとんど聞こえない
ほとんど見えないカーペットのほつれ そのもようの完結しない一点
編んだ籠の一箇所の編み残し 魂の出入り口と言われる頭蓋の隙間のように
ささやかな不完全さにあらわれる そのきっかけ存在の夜にめざめている詩人だけが その一瞬の深淵を感じとる
だからことばは おのずから生まれる 向こうからやってくる
言語がまずあり 意味が決められている単語を組み合わせ あやつって造り上げる詩なるもの ではない
詩と同時に生まれることばでなくては 詩は世界に向かい合っていない
ゲーテの原言語よりも 原植物に近い 言語にならないことば
滝の前の歌い手は じっさいには習い覚えた歌の一節をうたっているだけだ
それは歌い手の内部ではじける滝の音の粒子である移された炎を 覆い隠している殻 残り火に内部から照らされる消し炭の白い灰
そのように ことばにひそむうごき ことばという殻の外から察知される内部の空洞
うちはほらほら とはすぶすぶ
と出雲の鼠が言った
声にしてはじめてわかる ことばの内側の風景
声は全体であり ことばは部分にすぎない
声はことばのためにあるのではない ことばが声のためにある
声がそれ自体を顕すなかで ひとつひとつのことばは それぞれの場におさまっていく
これが問いの空間だ
すでに固定された言語の存在を前提として それによる詩を分析してみても 言霊や神謡のような神秘化におちいるだけだ
ことばはたえずあらわれ また消える
さまざまなひとびとがくらし 多様なことばが行き交っていた古代アジアに 単一の言語世界のなかでの詩の起源をもとめるのは 現代の国家や国語を支配している政治思想の投影ではないだろうか
ことばについてことばをかさねることの限界 詩論が語源論に還元される机上の論理 ハイデガー デリダ
耕されたものを意味する文化は 土地にしばられている
地域や種族の無意識の論理によらず いつでも どこでもあらわれる身体 呼吸 感覚や記憶や意志のはたらきをみつめ 文化に左右されるそれらの内容を見る のではなく それらの顕れをさらに 主体も客体もない関係の戯れに解体していく それはことばによる思考ではない からだと意識をつかいながらも それら をのりこえていく行であり その行が声のない声になって あるいは声の殻の下の葉脈になって ことばに残像を結ぶ それが詩ではないだろうか
こうして人間は解体されるが 知的に再綜合するために要素に分析されるのではなく プロセスの網のなかに消滅していきながら きらめく現実の姿を顕す
それはブッダの古代では 神々の王インドラの宮殿の屋根にかけられた宝石の網 それぞれの宝石がすべての宝石の影を映し その宝石がすべての宝石に影を落とすインドラジャーラにもたとえられる
すべては すべてにかかわっている2 文字
白内障で片目を失明したことがある
それはある夕方 街角で起こった
突然幕が下りるように 視野の端が欠け落ち 見えていた風景が生気を失った
片目を手で覆うと 闇だった
失聴の経験はないが ある朝起きたとき 異様にしずかで ひとびとが影絵のようにうごいていた という失聴者の陥った状態は わかるような気がする
ひとが生きてうごいている世界からガラス窓でへだてられている という感じ
からだが麻痺したのでもなく 手足をうごかせるのに そのうごきには意味もなく 夢のなかでもがいているようで 世界をさえぎる一歩がどうしても踏み出せない
映画音楽を作曲するために用意された撮影済みのラッシュと呼ばれる粗編集された断片を見る作業がある
しごとなのに 色の付いた無音の映像をじっと見ていると 瞼が垂れ下がってくる
そのように 音のない世界は 現実のかたさ 物質的抵抗がなく 気力をなくさせる
夢ならさめるときがくるが 失聴の世界は瞼のない魚の夢のように 見えることから逃れられない
逆に日々の生活のなかで これは夢だ とくりかえしじぶんにいいきかせる チベット仏教の技法がある
この夢のなかで眠れば 夢のなかの夢では 手をみつめることによって それが夢であることを確認し 手のうごきを現実のものとすることができるようになる と言われている声がなくても 世界はことばを発しつづける
声のないことばは かすかなうごきとなって からだにあらわれる
ことばを思うとき 思わず喉がうごいているのに気づくときがある
古代インドでは たしか思考は頭ではなく 喉に位置すると思われていたはずだ
行く 来るというような 動作に関することばを思うと 腕のあたり あるいは背のどこかに かすかなうごきが感じられる
そのうごきが線になり その軌跡が文字になる
いま先端科学は 脳の断面に起こる電位変化を追跡しながら ことばのはたらきをさぐろうとする
でも 科学は新しい文字をつくることを考えてはいないだろう
せいぜい 脳内のパルスの流れを既成の言語に翻訳することか
でも それは単純なことを複雑にするだけだ
古代の合理主義は すべてをこのからだの範囲内で観察し からだによって理解し からだによって実現する甲骨文があった
骨に彫りつける交錯する線
世界のエネルギーのうごきを知るための卜占に つかわれた
書かれた結果としてのかたちから意味をよみとるのではなく
文字を彫るという行為 そのプロセスから世界をよむ
それを彫る手のリズムと時間のなかに 世界の変化は顕れている
文字を彫るということは 世界を気づかうことだ漢字は 中国語の発音とは関係がない
中国語とよばれるものがまだ存在せず 各地域言語だけがあったときも
漢字は雅言として それらのあいだにあった
雅言は夏言 あるいは賈言 交易言語
漢文を 他のことば たとえば日本語としてよむこともできる
漢字はことばではない
漢字をよむのは ことばとしてよむのではなく 文字の名を呼んでいるだけ
それは記号ではない
花という字は 草が化してできる
それを書く手が 草から花への変身を 書きながら通過する
さまざまの書体があり ことなる書き順があり それぞれにちがう手は ちがう花を書く
骨に彫り 金属に刻み 尖った棒の先で羊の皮や樹皮を掻き取り あるいは木片 竹片 絹布 そして紙に 筆で顔料を擦りつける こうして書き残された文字文字は文字ではない 文字を書くプロセスだ
外からは見えないエネルギーの流れが 手を通してその軌跡を残す 粒子の軌跡を霧箱が可視化するように
粒子の軌跡はいつもおなじではないが おなじ粒子の軌跡には一定の特徴があるように 文字にあらわれる特徴 あるいは文字をまさにその文字としている条件に考えをめぐらせれば その条件は 文字によらない 別な表現を通じて実現することもできるものだ とわかってくる
花という文字は それを踊ることもできる
すべての文字は 人間の姿勢や動作でもありうる
花は 花になっていく人間古代アジアの身体技法 さまざまな動物の姿勢やうごきをじっと観察すること そこで見えたものをじぶんのからだに引き写して ぞれらの動物になること 虎 鹿 猿 蛇 鳥など
ここからヨーガも太極拳もはじまった
体術から武術 舞踊 演劇が分岐してくる
そのように たったひとつの文字に凝縮された流れを もう一度ことばの流れとしてときほごすとき 変身はもどき たとえのレベルで そっと触れられる
メタモルフォーシスからメタファーへ論語第一章学而
子曰学而時習之不亦説乎
これを
先生は言われた まなびながら 時に応じてやってみる たのしいじゃあないか
とよむのは 記号としてのことばの解読
口をうごかし声にするのは 昔の素読 いまは目で文字を追うだけの黙読
それで伝えられるのはひとつの思想 知的な理解文字を書きながら これを身につけるとはどういうことか
子 生成するもの
曰 内からひらかれるもの
学 さしだす手とうけとめる手のあいだに うけわたされるものがあり ひとつの屋根の下に育つものがある
而 やわらかくつながりながら
時 太陽がすぎていく
習 羽と羽をかさね またはくりかえし羽ばたき
之 足先をすすめる
不 口をとじてふくらませる
亦 両腕を下からささえ
説 ことばのとどこおりは ほどかれる
乎 胸からのぼる息が解放されるこれが文字によってまなぶということ 文字をならうということ
それぞれの文字にはことなる運動の型がある 文字を組み合わせてなめらかな文章を編むのではなく 文字のつながりを切り離し 孤立した文字がそれぞれ内蔵する運動をじゅうぶんに展開しながら それらが同時に出現する場を設定する
からだの統一を一度断ち切って 多方向へ分裂する複合体としてとらえ それらの相互作用の変化する局面を観察する
それは全身をつかっての運動であり 時間をかけた修練であり それがからだにしみこんでいけば からだも息も そして心もひらかれ らくになっていくユダヤ教のある伝承では 世界の創造にさきだって文字があった と言われる 聖書の最初にある文書 創造記の最初の文字はヘブライ語アルファベットの第二字だから
世界のはじまりは闇だった 光があらわれ 創造の第一日は終わる
ここでも 文字の起源は内側のうごきにある
神はただよう息であり かすかに感じるそよ風であり それが内側からうごきだし 外に光をもたらすところまでが 創造の第一段階ということか声は消えるが 文字は残る
すでに書かれてしまったものとなった文字は かたちとなった記憶 約束となった意志
解釈の門は閉ざされた
記憶は いつもは忘れていてもいいこと 思いだしたくないことだ
忘れていたことを思いだす そしていつの間にかまた忘れている それが記憶だ
約束は それ以上の変更を許さないから 約束である
約束はすでにされているから 意志をそれ以上はたらかせる必要はない
文字にしてしまうと からだのうごきは そこで停止する上に見たように 孔子の語録である論語は 子曰という文字ではじまる これを 先生は言われた という意味によみとるのは解釈
子は 髪がのびるように 幼かった智慧が成長することであり 曰は 内側のその智慧が外にあらわれることだ それは声にかかわっている
声がうしなわれたとき それは文字となって伝えられるが 文字を書き写しながら からだで共鳴するという知もまたうしなわれれば 文字は記号となり そこにない意味をさししめすだけのものになる仏教経典は このようにききました 漢訳で如是我聞 ということばではじまる
もともと 教えは声だった
ブッダの説法をきいているうちに生の苦しみから解放される智慧を体得する ということがたくさんのひとびとに起こった それをパーリ語でサーヴァカ 漢訳で声聞といった
声は 聴くからだに浸透し 意識をうごかして 観察の智慧をよびさます その結果 意識はからだとそのなかで明滅する意識自体を透視できるようになる そのような意識を持続することができるものを アラハンとよぶ これはやさしいことではない
意識している限り 意識されている智慧は記憶にならない だから経験も存在しない
しかし ふと忘れてしまうと からだは不透明になり 智慧は経験されたこと 過去に起こったことの記憶になり それをふたたび呼び起こしても すでに こうある現実と こうあらねばならぬ理念とに分裂している
ブッダの死後 その声は 語句のくりかえしでつよめられた暗誦で伝承された
声がことばになってしまったとき それは文字に書かれた
書かれたことばが意味をしめす記号になり その解釈がわかれるとき 教えはまもられるべきもの 宗教になる
法といわれる あるがままのありかたは あるべきもの まもるべきもの 戒律になる
意味は不在の智慧であり 不在の智慧はたやすく智慧の不在に転化する
論理はことばの影 思想は意味の影 影は影を生み 増殖し ますます現実から離れていく
数える指が数字になり 数という概念が生まれ それが実体であるかのように操作され 数学という抽象の塔をきずくようにアテネの街をさまよいながら智慧をもとめたソクラテスの言動 世界の動乱を庭園に避けて共同生活したエピクロスのてがみ 自然哲学は世界と心身に通底するもの ことばはまだ日々のくらしのなかに生きていた
膨大なことばの蓄積 そこにことばをもつもの とりわけ文字になったことばをもつものの権力がはたらく
言うべきことをもつものが言うのは 権利と言われ 表現の自由と言われるが それは ことばから排除されたものたち 声をうばわれたものたちがいることを前提としていることに 言うものは気づいていない
これはこれである という同一律 これはこれでないものではない という矛盾律 これかこれでないかどちらかだ という排中律 論理の根本には 選別と囲い込み 差別と排除がある
だからすべての思想は 一方的なもの 相対的なもの 論があれば反論がある そしてその両方とも やがてのりこえられる
答がある問いは ほんとうの問いではない詩についていくら考えても 詩にはならない 書かれた詩は すでに詩の痕跡
このプロセスを逆転すること 文字を書きながら意味から記号をとりだし さらにことばから声にさかのぼり そこから心身の共鳴へ めぐる息の空間へと出ていく3 音
古代の詩人は歌い手だった
いまも アジアやアフリカに 即興詩人 吟遊詩人 叙事詩の歌い手がいる
歌は 世界の響からききとったものを声に写す
途切れない響の相はメロディーとして 変化する群の相はリズムとして そして乱反射する智慧の光は 音色であることばとして
古代の音楽論は 詩の音韻論だった
中国での樂記 ギリシャのアリストクセノスからペルシャやインドの理論家にいたるまで 声の抑揚や韻律を論じている
たとえば空海の声字実相義五大皆有響
十界具言語
六塵悉文字
法身是実相五つの元素にみな響あり
十の世界にことば具わる
六つの対象はことごとく文字
あるがままこそ教えの身歌がことばになったとき 文字が生まれた
書き文字は メロディーを手の運動に置きかえる
メロディーはまた 声調言語の場合は あたまのかすかなうごきと結びついた声の上下として再生する
文字が痕跡になり 運動や時間とはかかわらないで済む記号になったとき メロディーはうしなわれ それが指ししめす意味からは リズムがうしなわれる
ことばから抛り出された要素があつまって 音楽になる
詩も音楽も 世界にたいして閉じている対象化し 実体化したことばや音は 主体によって操作される
そこに技術が介入する
楽器が 世界の響をききだすための装置ではなく 手や声が外部に実体化したもの 主体の延長であり 表現の道具となったとき 技術は自立し 専門化する
専門化の蔭には やはり選別と排除の権力構造が見えるさあ ここまで書いてきて これがいったいどういうことになるのか
文化のシステムは ここにあり 国家 民族 言語 経済の交錯する境界のなかに押し込められている
われわれは 資本主義の恩恵のもとで生きているのだから 貧困の文化をとなえるのは もうひとつのぜいたくにすぎない
歌を復元するこころみ 文化の根源にさかのぼろうとする意図は ナショナリズムでなければ 異文化収奪に終わるだろう
エストニア生まれの作曲家アルヴォ・ピャールトがロシア正教の司祭に音楽をもって奉仕したいと申し出た という話をきいたことがある
司祭は言った その必要はない 典礼の音楽はすでにある生きることのたとえによくつかわれる 皿を洗うという例がある
よごれた皿を洗わないわけにはいかない
洗ってしまっても なにかをなしとげたわけではない
皿はまたよごれ また洗わなければならなくなる
皿洗いのアルバイトをして生計を立てていたとしても 皿洗いのために生きているとは言いにくい
では 生きるために皿を洗っているのだろうか
そう言い切るにも ためらいがあるだろう
皿を洗うのは とりたてて言うほどのたいしたことではない そして生きることも
目的は皿を洗うこと 手段は皿を洗うこと つまり目標もなければ方法もない
でも 時間をかけ ていねいに洗えば 皿はきれいになる
そのように 詩も音楽も その時になれば 向こうからやってくる
われわれにできるのは よけいな自意識なしに やってくるそれにまかせること
呼吸についてよく言われるように
長いこと会わなかった友人を迎えるようにうけいれ 帰っていく親類を見送るように送り出す
こうして息にはじまり 息に還る
人間は 吹きさらしの木偶(21世紀 文学の創造6「声と身体の場所」,岩波書店)
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