草月アートセンターの頃
高橋悠治


一九六〇年まで モダン・ジャズから
 勅使河原宏さんの記録映画『ホゼイ・トーレス』の音楽録音があったのは、一九五九年九月のある日、武満徹の音楽のピアノ・パートに雇われて草月会館に 行った。その夜は台風で電車が止まった。草月会館の隣にあった旅館にいっしょに泊まることになったのが、武満さんとことばを交わした最初だった。それまで おなじ鎌倉にいて、おたがい顔は知っていたが、話をしたことはなかった。
 その翌年にはじまった草月会館のジャズのシリーズには毎回行っていた。もともとジャズはできないくせに、モダン・ジャズにあこがれていて、テナー・サッ クスの宮沢昭の出ていた六本木竜土町の「コスモ」クラブ、八木正生の出ていた麻布の「ゴールデン・ゲート」に入り浸っていた。朝までいて、八木さんの家に 泊めてもらったこともある。めいわくなファンだった。
 六〇年九月に東京現代音楽祭があった。そこでボー・ニルソンの『クヴァンティテーテン(量)』というピアノ曲を弾いて、現代音楽のピアニストということ になった。ステージに赤いシャツを着て出たことも話題になった。みんな燕尾服を着る時代だったから。草月の作曲家集団のコンサート・シリーズもその年には じまったので、アートセンターにも出入りするようになったのだと思う。
 その頃までは、新しい音楽についての情報はすくなかった。秋山邦晴が東京交響楽団の雑誌に書いていた紹介記事がすべてだった。楽譜も出版されていなかっ たし、ほとんど手に入らなかった。コピー機もなかったから、シェーンベルクの『ピエロ・リュネール』も、ブーレーズの『マルトー・サン・メートル』も、だ れかの持っている唯一の楽譜を手で写すよりなかった。ジョン・ケージの名前と易を立てて音楽をつくるらしいとはきいても、じっさいの作品はどこにもない。 そうなると自分でそのようなものを作ってしまうよりなかった。モダン・ジャズではレコードしかなく、アメリカのミュージシャンとの交流もなかったから、み んな自分の好きなスタイルをレコードからコピーしてやっていた。それと似たようなものかもしれない。あるいは、ソ連時代の現代音楽の作曲家が、乏しい情報 から西欧の最先端のスタイルらしきものを自己流で作っていた、そういうこととも共通するのかもしれない。

六一年 ピアノ・リサイタルなど
 それが草月アートセンターができた頃から変わってきた。六一年四月に東京で「世界音楽会議」のようなものがあった。それはニコラス・ナボコフという作曲 家、有名な小説家の従兄弟で、文化自由会議という、いわば反共組織を主催していた人の企画だったから、作曲家集団のなかでも反対する人たちもいた。それで も、それにあわせて草月会館で作曲家集団グループ展をやった。そこではできたばかりの武満徹の『ピアノ・ディスタンス』を弾いたと思う。そこにも来ていた ヤニス・クセナキスによる自作とフランスの作曲家の作品を中心にしたテープ・コンサートが次に草月会館であり、クセナキスの音楽にはつよく惹きつけられ た。
 六一年十月には草月会館でピアノ・リサイタルをやった。武満徹の『ピアノ・ディスタンス』、佐藤慶次郎の『カリグラフィー』、ラモンテ・ヤングの『習 作』などが前半で、後半がケージの『ウィンター・ミュージック』、これは順不同の二十枚の楽譜を一枚五分と決めて全部弾いたので、それだけで一時間四十分 かかったことになる。その五分間も、ほとんど沈黙というページもあった。客席は出入り自由にしたので、ロビーでしゃべりながら、終わるのを待っていた人た ちもいたが、途中で帰った人はあまりいなかったと思う。その頃はみんな新しいことに興味をもっていた。
 その翌月十一月には一柳慧の個展があったし、その前月九月には「グループ音楽」のコンサートもあった。一柳慧はその年の夏にアメリカから帰ったばかり だった。ケージに影響されていて、それでもアクションの集中性にはケージとちがう感性があった。ものの感じ方とテンポがまったく他の人とちがっていて、そ の頃はふしぎな人だった。グループ音楽では、その頃もいまもだが、小杉武久の個性に惹かれていた。グループと直接の交流はあまりなかったと思う。かれらの 拠点であった芸大の一室で、即興バトルのようなことをやった記憶はある。
 
六二年 ケージ
 その翌年六二年二月に、ピアノ・リサイタルの二回目、クセナキスの『ヘルマ』の初演、武満徹と杉浦幸平の『コロナ』を一柳慧と二台ピアノで初演、自分でも和田誠に頼んで『エクスタシス』という図形楽譜の本を作ってもらったのをやはり二台ピアノで演奏した。
 クセナキスには前の夏に委嘱してあった。かれはちょうどアリストテレス論理学の原理を音の選択に応用する理論を考えていたところで、ピアノ曲の構想は あったらしい。集合論や論理演算をつかって、ピアノの鍵盤からつかう音を選んでいく方法は、その後クセナキスが音階やリズムの形成と変形につかうことに なった選択法の最初の例となった。結果として生まれた『ヘルマ』は、フランスでは演奏不可能といわれた難曲で、それを練習するためには、全体や目標を設定 しないで、細部をくりかえし弾きながら、それらが自然とつながって全体を形成していくやりかたをとることにした。その経験は、あとで演奏に限らず、あらゆ ることに応用できることになる。
 あとから他の人に聞いた話では、『ヘルマ』はクセナキスにとって最初の個人的委嘱だった。かれは、パリの音楽界では孤立していた。五万円という、信じら れないような委嘱料だったが、それもこちらは一度には払えず、二年分割払いにしてもらった。あの頃はみんな貧しかった。それだから、友情はなによりたいせ つだった。
 武満徹と杉浦幸平の『コロナ』は切れ目の入った五色の紙に時間を示す円環と、そのまわりに太陽のコロナのように配置された音符があって、紙の組み合わせ 角度を変えると音楽も変わる。色彩、円環、音形の装飾性、間、自然現象への関心、どれを採っても、それらが、その頃の武満の音楽だった。
 オノ・ヨーコの個展があったのも、六二年五月だった。暗闇のステージでみんながそれぞれちがうことをやっている状況を、ぼんやり覚えている。このイベン トはいつまでもつづき、最後は出演者がステージに並んで、客席のだれかをじっと見つめる、見つめられた人が耐えられなくなって帰るまで見つめつづける、全 員が帰るまでそれをやっていたが、一人本をよんで眼を上げなかったブラジルのアーティストがいたために、この会は夜中過ぎても終わることができなかった。 ついに守衛が会館を閉め、全員を追い出した。
 その年十月には、ジョン・ケージとデヴィッド・テュードアがやってきた。
東京でのコンサートやラジオでの録音、札幌でのコンサートに参加して、いっしょに『ウィンター・ミュージック』を演奏したり、一柳慧慧の「サッポロ」で は、ステージで自転車に乗って楽譜を交換してまわったことを思いだす。札幌では武満、一柳、小杉、オノ、小林健次の他に小沢征爾も出演していた。

六三年以後
 その次の年に作曲家集団に対して演奏家集団「ニュー・ディレクション」を作って二回コンサートをやったところでドイツへ行ってしまったから、その後のこ とは知らない。「ニュー・ディレクション」は秋山邦晴のアイディアもあって、その頃新しい音楽を演奏していた人たちを集め、指揮者がいなかったから芥川也 寸志に頼んで、ブーレーズやカーゲルを演奏し、またフルクサスのジョージ・ブレクトの『ドリップ・イベント』をやったこともある。これは小さなカードに書 かれた指示にしたがって、容器を準備し、水を滴らせるという単純な行為だけをする。こういうものも例外としてあったが、主としてコンサート用のアンサンブ ルの音楽を演奏していたから、もっと実験的なことは他の場でやられていたのだろう。
 あの頃は、さまざまな新しいうごきがあり、いままでのジャンルをこわすようなかたちで人々が交流していた。草月アートセンターができて、そこに場を提供 し、それらのうごきをまとめて、目に見えるかたちにした。あの数年間は、短い期間にたくさんのことが起こった。異質のエネルギーが集中する場があり、みん な若くて貧しかった。それぞれのジャンルが固定し、人々が散って、自分の仕事の成果を防衛するようになると、場は消滅するよりしかたがなかったのだろう。 一九六九年日本にしばらく帰っていたとき、草月アートセンターに寄ってみたら、ちょうどシネマテークの会場が占拠されて、いつ終わるともしれない抗議集会 の最中だった。こうして六〇年代の芸術運動は終わった。

(「輝け60年代」草月アートセンターの全記録)



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