尹伊桑(ユン・イサン)の場合

高橋悠治

ある日、ユンさんが言った。韓国では、村の読書人も世の不正を見過ごせないで、書を捨てて民衆のために立ち上がる 伝統がある。平和がもどると、なにごともなかったように書斎の生活に帰る。わたしも一段落ついたら交響曲やオペラをつくりたい、高橋さんもそうしたらい い。そういう在郷の文人を、たしかソンビ(志士)と呼ぶと思うが、ユンさんにはそういうところがあった。1981年、光州での民衆蜂起の1周年にコンサー トがあり、日本にあった韓国の反政府組織にたのまれて、尹伊桑の「範例−−光州よ永遠に」という交響曲の日本初演を指揮したときのことだ。
コンサートに先立って政治集会があり、ユンさんは在欧組織の議長としてそこにいた。活動家たちには、ユンさんの音楽はむずかしかったらしい。だが、その曲のエネルギーと激情だけはよく伝わったようだ。
1967年、尹伊桑が韓国情報部にベルリンからソウルに拉致された事件は知られている。その時は国際的な抗議と西ドイツ政府の介入で釈放され、ドイツの市 民権をとり、ベルリンの音楽大学教授になった。もっと以前、朝鮮が日本の植民地だったときは、抵抗運動に加わって日本で投獄され、拷問されたこともあっ た。わるい政治のために生活や仕事を破壊されれば、抵抗しないわけにはいかない。
「作曲家は、自分の生きている世界に無関心ではいられない。人間の苦しみ、抑圧、不正、すべてがわたしの思いのなかに顕れる。苦痛があるところ、不正があるところ、わたしは音楽を通じて言いたいことがある。1983年、尹伊桑」
政治は世界を一つの方向に向けようとする。その過程で、政治運動はたえず分裂する。ユンさんは政治の場で同志たちと論争するよりは、書斎に帰って、一曲の交響曲を書きたかっただろう。数年後に、政治活動から身を引いて、作曲に専念するという記事を読んだ記憶がある。
尹伊桑は5曲の交響曲、4つのオペラ、いろいろな楽器のための協奏曲を多数書いた。それらは、しだいに調和と平和にみちたものへと変わっていった、と言わ れている。それらをそんなにたくさん聞いているわけではないが、印象にきざまれているのは、深い哀しみの翳りをもった音楽だ。それは個人的な思い出と切り 離すことができない偏った見方かもしれないが。
ドイツで西洋音楽の技法をつかいながら朝鮮のうねり曲がる音を表そうとしたのは、民族性や個性を強調するよりは、相互理解の道をさがすため。複雑な装飾に 囲まれた「主要音」は、楽器から楽器へと受けつがれ、ゆったりと途絶えない流れが生まれる。そこに打ち込まれ音色としての和音、あるいはそれをさらに彩る 震え唸る音群が、音楽をせき止め、あるいは押し流す。対立する「主要音」のドラマが最終的には至高の一点に収斂することもあれば、努力もむなしく、そこに 届かないままに終わることもある。
東西文化の架け橋となりたいと願いながらも、ユンさんはベルリンで長い一生を終えた。20世紀のこの時期、東洋人は一方的に西洋の理解を求めてきた。はた して西洋の作曲家は、東洋人に人間として歩み寄ったことがあっただろうか。東洋哲学を神秘化したり、異国情緒の骨董趣味にふける以上の理解が、どのくらい あるだろう。尹伊桑の音楽が現代のドイツ音楽にどれほどの痕跡を残したことか。そして次世代の東アジアの作曲家にとって、かれの音楽はどう見えているだろ う。
尹伊桑は生前は、韓国でもアカと呼ばれ、帰国することもできなかった。南北分断国家の和解のシンボルとして38度線上でコンサートをひらく夢も実現しな かった。いまの韓国の作曲家にとって、尹伊桑はどのような存在なのだろう。ピョンヤンには尹伊桑音楽研究所があったはずだが、そこで学んだことを作品に生 かした作曲家は北にいるのだろうか。
ユンさんにはじめて会ったのは1964年、西ベルリンで、当時の西ベルリンは、東ドイツに囲まれた陸の孤島、落葉と雪と犬と老人たちの町だった。そこで暮 らす外国人は、すくなかった。芸術家仲間でも、ユンさんははるかに年長で、でも生活は貧乏な留学生のようだった。インスタント・コーヒー数粒をお湯に溶か して中国茶をイメージしながら飲むこと、台所でモヤシを育てること、韓国語の新聞をよみながら、不幸な国ですよ、とつぶやいていたことなど、日常のこまご ましたことを覚えている。朝鮮の宮廷音楽のテープも聴かせてくれたが、おなじ唐楽をとりいれながら、日本の雅楽とはまったくちがうのにおどろいた。ユンさ んはいくらか古風で威厳のある日本語を話し、朝鮮語もわからず、朝鮮文化も知らなかった日本の音楽家にも寛大でしんせつだった。

(静岡音楽館AOIニュースレター)



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