詩人ブレヒトと作曲家たち         高橋悠治


1 ベルトルト・ブレヒト(1898–1956)


ブレヒトの演劇のなかで、歌は物語の展開を中断し、観客を感情的共感から距離を取った状況の観察に連れ戻すために使われる。深刻な場面でも非現実的な明るさと活気のあるリズムで物語にちょっと皮肉なコメントを入れ、これは芝居であることを思い出させたり、この状況もいつまでも変わらないものではないと予感させる働きもあるだろう。歌は演劇の一部というよりは、前後から切り離されてそれ自体で完結しているようだ。ありふれたメロディーの断片やリズム・パターンのコレクションから必要に応じて取り出され、組み替えられる。このやりかたは、口承文化の特徴でもあり、コラージュやモンタージュのような20世紀的な技法にも通じるところがある。

ブレヒトは、詩を書きはじめた16歳の頃から詩人ヴィヨンやランボー、劇作家ゲオルク・ビュヒナー(1813-1837)やフランク・ヴェーデキント(1864-1918)の反抗の身振りに惹かれていた。歌われるための詩の場合には、事件や社会風刺を単純なメロディーの反復にのせた物語詩バラッドや殺人をうたうモリタート、民謡をモデルにし、20世紀初めにフランスから流れ込んだシャンソンや文学寄席でのギター弾き語り、第1次世界大戦後にアメリカから入ってきたシンコペーションのリズムやセンチメンタルな歌詞も批判的に取り入れた。こうして作り上げた歌のスタイルは、19世紀ドイツの芸術歌曲「リート」に対して「ソング」と名づけられる。

ブレヒトはヴェーデキントのように、ギターの弾き語りで自作の詩をうたっていた。「死んだ兵士のバラッド』や「バール」の劇中歌だけでなく、「三文オペラ」や「マハゴニー」にもブレヒト作曲のメロディーが残っている。ブレヒトの詩の最初の作曲家はブレヒト自身だった。


2 クルト・ワイル (1900-1950)


 1921年から1924年までフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)に師事し、1920年代後半から劇場音楽の作曲家になる。歌芝居「マハゴニー」(1927)がブレヒトとの最初のしごとで、次の『三文オペラ』(1928)の成功で有名になる。ジャズ的な小オーケストラの刻むリズムとほろ苦い和声にのった、覚えやすいメロディーに意外な転調でひねりを利かせたスタイルは、第1次世界大戦後の、表面の賑わいと深い不安の時代の表現だった。

 戦後10年を記念する『ベルリン・レクイエム』(1928)は新しいメディアだったラジオのためのカンタータだった。そのなかの『水死したむすめの バラード』と『墓碑銘1919』は虐殺されたローザ・ルクセンブルクへの追悼だったが、歌詞は検閲を考慮して差し替えられた。1933年亡命し、その後のブレヒトによる作品は、パリで初演された歌付バレー『七つの大罪』(1933)、ソング『ナナの歌』(1939)、『兵士の妻は何をもらった?』(1943)がある。

 ワイルの音楽がブレヒトの「ソング」を独自の音楽ジャンルとして仕上げ、後の作曲家たちのモデルとなった。


3 ハンス・アイスラー(1898-1962)


 1919年から1924年までアルノルト・シェーンベルク(1874-1951)に師事し、新音楽の担い手だったが、1920年代後半からは労働者合唱運動にかかわり、そこからブレヒトとの仕事もはじまった。『処置』(1930)や『母』(1931)のような政治的・教育的合唱劇に見られるように、ワイルの音楽より禁欲的・構成的で、ブレヒトとは反ナチズム統一戦線のための闘争歌もあり、たえず前進し、駆り立てるリズムと短調の短いフレーズで組み立てられたメロディーの、簡潔で張りつめたスタイルが印象的だ。

 その後の戦争や亡命の時代にブレヒトと運命をともにしながら、劇音楽のための協働よりは、小さい歌曲やカンタータのほうに今なお演奏される曲が多い。12音技法による亡命者の悲歌や、シューベルトやブラームスの伝統につながる芸術歌曲のスタイルでも、何気ない日常の表現に深い感情が込められるている。 


4 その他の作曲家たち


 パウル・デッサウ (1894-1979) はオペラ劇場でヴァイオリンを弾き、指揮し、作曲していた。1938年亡命中にパリでブレヒトの「第三帝国の恐怖と悲惨』の部分上演の音楽を担当し、1942年ニューヨークではじめてブレヒト本人に会ってから、その後の劇音楽の主要な協力者になった。ベルリナー・アンサンブルの『肝っ玉おっ母とその子供たち』 (1949) 、『プンティラ旦那と下男マッティ』(1950) 『コーカサスの白墨の輪』 (1954) の音楽を担当し、その他ブレヒトの詩によるたくさんの歌を書いた。刺のある重い和音をともなう民謡調の単純でひかえめなメロディーは、当時の東ドイツでの政治的困難から距離を取った、遠い国や過去を主題とする寓話的演劇にふさわしかったのだろう。

 以上の3人の協力者の他にも、ブレヒトの詩に作曲した人たちは多い。カール・オルフ (1895-1982) にも1930年代にブレヒトの詩によるカンタータや教育作品がある。その頃のパウル・ヒンデミット (1895-1963) との教育劇の試みは、作曲家との意見の不一致から失敗したが、1950年代の東ベルリンでは、ルードルフ・ヴァグナー=レゲニー (1903-1969) は古風な語法と単調なリズムを使い、クルト・シュヴァーエン (1909-2007) は大道芸人のバラッドのスタイルで、ブレヒトの求める、ことばを伝えるための簡素な音楽を提供した。

 ブレヒト劇が各国で上演される時、ソングもその国のことばで新しく作曲されることが多い。日本では林光 (1931-2012) がブレヒトの詩だけでなく、さまざまなテクストによる「ソング」を作曲した。これらの「ソング」は、ブレヒトやその協力者の時代、かつてのワイマール共和国の賑わいと不安とはちがう、日本の戦後民主主義の軽さと明るさと人間への信頼から生まれた、拡張されたジャンルと言えるかもしれない。


 最後に、この̧CDのために作曲したドイツ語の「四つの愛の歌』(2013) は、メロディーだけ1970年代に作ったが、 ヴァイオリン曲に転用した III の『七つのバラがやぶにさく』(1979)  以外は楽譜を紛失したので、今回あらためて作曲し、ピアノ・パートを付けた。ブレヒトの詩は1950年、人間と愛の回復の夢が微笑んでいた第2次大戦後のドイツの「失われた時」に生まれた民謡風の連作だった。これらの詩にはデッサウの歌とギターのための作曲 (1951) がすでにあるが、時代も変わり、歌も変わる。