巣穴、塔、小舟 (磯崎新建築論月報2)
高橋悠治
ふと眼がひらくと上方に光が漂っている。空間になじんでくると、部屋の輪郭が浮かび上がる。身体が目覚めると、もう建築の内側に囚われている。これを書いている「いま」「ここ」は壁に囲まれていて、隣にある空間も見える。肌着のようにまとっていて、感じかた考えかたに翳を落としているのに外からは見えない見栄えのしない住居建築の空間、カフカの書いた巣穴のような動物的な感触と気配の空間。世界の半歩外で保護されている安心感と、窓がなければ外から迫る危険もわからず、窓があればその外に貼りつく眼がありはしないかと、いずれにしても不安な都市生活の仮の宿にすぎない、ありあわせの建築の内側で、始まりも終わりもない日常の闇を生きていながら、身体を浸している建築空間は意識されることもなく、疑われることもない前提として、建築についての論議を裏側から染めているのではないか、と言いたくなる。
穴または窓のない避難所である住居にはかたちがないが、芸術作品としての「建築」にはかたち以外の何があるのだろう。「建築」は彼方に輝く都市の写真にすぎず、入り込むことのできない外観の、生きられたことのない表層は、記号や象徴の引用だけでなく、建築論の抽象化されたことばの網目に覆われていく。
建築に遠くから近づき、すぐそばまで来ると、どうしても仰ぎ見ることになる。内側に生きる動物にとって住居はまず包む壁、洞窟、地下に通じる穴のように感じられ、見るものではなく、触って安心するもの、危険をさぐるためにそっと外に突き出ている聞き耳だというのに、外側から近づく建築は、閉じた戸とこちらを見下ろす窓があり、壁の連続体が遮り、その内側に屋根とそれを支える柱という垂直の枠がある。宮殿、教会、寺院、劇場から監獄まで共通するこの枠組が、建築家を使用人として何千年も拘束してきた見えない政治の徴ではないだろうか。
連続と転換の連句的位相空間が動線の軌跡に標識を置いていく。理論から生まれた概念を表象し象徴する「かたち」の分析や分類ではなくて、「かたち」や「ことば」を「孵化」寸前に殻をつけたまま転身させるのは「世界」からくるベクトルで、エピクロス派のクリナメン、ウィトゲンシュタインの「事実―場合」、アルチュセールの偶然の唯物論も、ちがうことばを使いながら感じているらしいのは、根拠もなくどこからか落ちかかる予知できない逸脱で、その全体を「世界」と呼べば、「もの」ではなく「こと」、ことばや行為の彼方にあり、行間や沈黙を通して垣間見る対称性の破れを、たとえば建築のなかでどのように指さすのかを、「製作中の作品」で問いながらゆっくりうごいていくことになるだろう。自分の軌跡と標識に絶えずもどりながらそこから分岐する別な道をさがすのは、安定と停滞を崩しながら歩み去ることで、歩みは未知の地点に落ちること、風まかせに種子を飛ばすこと、それは反歴史、反方法とも言えるかもしれない。反歴史は歴史を知ることが前提で、反方法は方法を次々に試しながら捨てていく。「作品」はプロセスの最終段階や結果よりは、中間のどこかでの静止画像とみなせるだろう。恣意的なものとはいえない厳密性をもっていても一時的な「見え」なので、作家論は次の作品によって廃棄される運命にあるのだろう。
1960年前後に出発した「前衛」芸術運動を徒弟時代に経験し、啓蒙主義の進歩や普遍の概念、構造主義的静力学が限界に来てしまった1968年あたりから自立した活動がはじまった同世代から見ても、直線の論理はなく、思想や方法をあつかってもそれらに根拠をもとめず、即興とイヴェントを一方に、他方には制度や権力を斜めに見ながら、「これでもなくあれでもない」曲がりくねった軌跡は、試行錯誤よりむしろ戦略的選択と言ってもいいだろう。それでも音楽と建築の困難度はくらべものにならない。音楽では個人の創意による共同作業がせいぜいだが、建築は設計アトリエの生存活動で、建築家はスポークスマンでありセールスマンでもあるように見える。ゲバラ Tシャツとマオスーツの差かもしれない。音楽作品はほとんどが一回性のイベントとして浪費され消滅するが、建築は耐用年数が長い。権力の自己顕示や資本投資の形象化でもある建築を、ひそかに異議申立てに使うのは成功確率が低いアクロバットのように思われる。「廃墟」も「解体」もアフガニスタンやイラクの現実の前に色褪せる。荒廃が繁栄であるような災害資本主義には、解体の費用まで想定済みの耐用年限付建築作品はすでに取り込まれているのではないだろうか。アナーキーが回収されて新自由主義になり、元トロツキストがネオコンに変身する時代の後、さらにフクシマ後には、どんな戦略がありうるだろう。冷戦後のナショナリズム紛争の時代にやっと追いついた日本国家の「領土問題は存在しない」というようなシニカルな反歴史主義に対して、「起源のもどき」論はじゅうぶんだろうか。
9.11の後のデリダのように、ほんとうの危機の後では文明回帰して解体を再構築と言い換えるような言説を眼にすると、対抗戦術が次々に取り込まれていくのを知りながら、それでも次の一手を考える芸術家はシニカルに振る舞うこともできない。シニシズムさえ国家が先取りしている。「社会がより全体的になれば、それに応じて精神も物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる」とアドルノが言う。アウシュヴィッツ以後に生きるという市民社会の冷酷さのなかで、メランコリーの翳のなかに憩えるのもほんのひととき。小舟は岸辺から離れて漂っていく。