A Composer's Travel Journal by Hyo-shin Na



A Composer's Travel Journal by Hyo-shin Na




ヒョーシン・ナの「作曲家の旅日誌」(1−12)


作曲家の旅日誌(1)「音楽の場所」

作曲家の旅日誌(2)「新たなるミューズ」

作曲家の旅日誌(3)「変奏曲」

作曲家の旅日誌(4)「ブランクーシのスタジオ」

作曲家の旅日誌(5)「伝統」

作曲家の旅日誌(6)「全羅道」

作曲家の旅日誌(7)「精神火」

作曲家の旅日誌(8)「ピアノ音楽」

作曲家の旅日誌(9)「フラグメンタル・スタディ」

作曲家の旅日誌(10)「家に帰る」

作曲家の旅日誌(11)「六〇年周期」

作曲家の旅日誌(12)「スリーピング・ミューズ・スタディ」




作曲家の旅日誌(1)「音楽の場所」




  一九八三年、雨つづきの秋の午後、ジョン・ケージが私の卒業したニューヨークのマンハッタン音楽学校にレクチャーをするためにやってきた。ケージは韓国からニューヨークに帰ってきたばかりで、ケージがいった二つのことに強い印象を受けた。一つは韓国人が彼をビジネスマンと勘ちがいしたこと。もう一つは、韓国の伝統的な音楽家が西洋の和声で書いた新しい音楽をきいた、彼の驚きだった。レクチャーが終わって、ブロードウェイの地下鉄に向かう(一つの傘を分けあった)ケージとマース・カニングハムにつづき、電車に消えていく彼らを見送った。私はケージがいったことをしばらく考え、立ちつくした。

 二年後、コロラドのボールダー。最初にカルチャー・ショックを引き起こしたのは友好的な人々や絵に描いたような町などではなく、博士論文のために読んでいたピエール・ブレーズのエッセーだった。東洋の文化が「死した」文化という彼のコメントは、音楽にたいする私の考えを一変させた。私はピアノを演奏し、作曲し、ヨーロッパ音楽をヨーロッパの流儀で勉強して育った。これまで、人生の二十三年を過ごした国からアメリカに移ったことを一度も後悔したことはなかった。それは私が「死した文明」を離れたからだろうか?

  一九八一年ソウル、大学生だった私は伝統音楽の歴史と記譜法を少し勉強したが、これは実際に乗ることのない、身分証がわりの運転免許のようなものだった。ボールダーに住んで韓国の民俗音楽や宮廷音楽をききはじめた。まるで忘れてしまったたことばのちょっとした言い回しを思いだそうとする学生のようだったが、それでも用語を知っているものに置き換えていった。サンフランシスコに引っ越して、分析や知識の障害なしに、直に体験するために伝統楽器を習いだした。私は自分の脱教育をはじめた。

  しばらくして韓国の音楽に魅惑された。私は韓国の音楽を学ぶ努力をする一方で、ヨーロッパ音楽を消し去った。だが求めたわけでもなく私の音楽の声は矛盾し、解体してしまった。唯一、友人が暖かいことばをかけてくれた場所に音楽があった。それが韓国だった。ほかのアジアの音楽にも偶然出会った。またヨーロッパ音楽を消し去ることができないことも分かった。人や動物、植物、虫などで混みあった場所のように、すべては不均衡に共存し、バランスを揺れ動ごいている。開かれた心をもつアメリカ人 の作曲家レクチャーとヨーロッパの作曲家の主張にたいする私の初々しい反応がここに私を運んできたのだ。





作曲家の旅日誌(2)「新たなるミューズ(詩女神)」




 二〇〇一年に書いた二つの作品にミューズという表題をつけた。それは「シンボルスカのミューズ」と「アフマートワのミューズ」だ。「シンボルスカのミューズ」は二つの伝統楽器、テグムとピリのために書いたもので、ポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの「二度はない」という詩と関係している。詩は次のようにはじまる。「けっして二度起こることはない。つまり、われわれがここに何気なくやってきて、何もできずに去っていく悲しい現実だけがある」。この曲で音素材はくり返されるたびに、いつも別のものとなる。「けっして二度起こることはない」ことから、曲を演奏しているあいだ、素材のおおくは演奏者に決定の余地をのこしている。二人の音楽家は互いにダイナミクスやテンポの変化をききつづけるが、一人の奏者の変化にもう一人が答える必要はない。また奏者の身振りから音が生じるように、二人は手首にペルーの緋状の種入りさや(おそらくチャフチャス 訳者注)を付ける。

 最近の私の音楽は音楽家同士の関わりに興味を反映させている。互いをきき、反応するかしないか、つまり演奏者がどうやって演奏するかを決めることで音楽に献身する。それは紙の上に書く作曲家とおなじように献身するのだ。

 作曲家のなかには極端にむずかしい音楽を書く人がいるが、そういう作曲家は演奏者を召使いに変えてしまう。しかもうまく演奏することにけっして満足できない召使いだ。私は彼らがうまく演奏でき、しかもやる度に違ったふうに演奏できる、余白のたくさんある曲が書けると思っている。だが最終的に鳴り響く音楽がそのやり方にあわなかったとしても案じることはない。漢字を書いていると(最近、中国語を勉強したはじめたところだ)、おなじ文字は書くたびにわずかだが違って見える。すぐれた楽器奏者が、生涯演奏することで楽器を学びつづけるということを思い起こさなければいけないし、作曲家としてこの人たちから学ぶ必要がある。

 作曲家には音楽を細部まで書き込むが人いる。だがあまりにも細かく書き込みすぎて演奏家を身動きできないようにし、音楽への献身を制限してしまう。こうした音楽はたいてい演奏が難しく、場合によって演奏家はあらかじめ録音された正確な拍子(これはクリック・トラックと呼ばれる)を鳴らすヘッドフォンをしなければならない。さらに、演奏者の最も重要な仕事はほかの演奏者たちからきこえてくるものを無視することだ。それゆえ、彼らはクリック・トラックに従って自分のパートを演奏することができる。ときには指揮者も周囲の音に乱されずに正確な拍子を振るために、クリック・クラックのヘッドフォンをかけることもある。一度、コンサートで指揮者のヘッドフォンにクリック・クラックを送るコンピューターが故障する場面に遭遇した。指揮者とそほかの音楽家たちは、コンピューターがまたいつ鳴りだして指揮者にはじまりの合図を送るかわからず、曲の準備を凍りついたように待たなければならなかったのだ!

 曲を演奏するのに、演奏者が指揮者の拍子に合わせなければいけない状況は好ましくない。というのも彼らは、いつ、どうやって演奏するかを語る「指導者」の指示を受けながら指揮者に従う。だがそこに互いをきくことを必要とする音楽家はいない。また、この指揮者はコンピューターやクリック・クラックや作曲家から指示を受けてもいる。細い部分は基本的に一人の人物、つまり作曲家によって決定される。音楽家はただ機械の一部となる。

 だが実際に私たちは機械の一部ではない。さらに楽器は機械でも機械の一部でもない。それゆえ音楽家に、互いにききあいながら細かいテンポやダイナミクス(演奏者のために決定していない)に応える私の音楽を勧めたい。「シンボルスカのミューズ」で演奏家が互いにきくことに誘うが、要するにそれは演奏者自身のミューズをきくことでもある。互いに演奏者がききながら、もはや彼らのあいだでテンポやダイナミクスのような事柄に関して一致する必要はないのだ。

 「アフマートワのミューズ」は西洋、韓国両方の楽器、すなわちフルート/アルト・フルート、テグム、オーボエ、ピリと二十五絃カヤグムを使う。曲はアンナ・アフマートワの詩「ミューズ」を読んだあとに作曲した。ここで音楽家たちは、忙しく拍子や小節を数えるかわりに、柔軟なやり方で互いに調整し、ほかの演奏者をきくことで音の長さやダイナミクスを決めていく。最初のリハーサルで私に詰め寄ってきた一人の演奏者がいった。「どうすればいいか教えてください!」

 この曲を書いたとき、西洋と東洋の楽器の区別をとくに考えていなかった。それは別の弦楽四重奏や木管五重奏を書いているようなもので、それぞれの楽器を本来あるように扱ったまでだ。ピリとオーボエの音を混ぜあわせようとは考えなかったし、カヤグムの音と木管楽器のグループにバランスを与えようともしなかった。また演奏者に楽器の性格を変えることを強要しないし、すべての音を混ぜあわせるために、音を大きくしたり、ソフトにしたり、明るくしたり、ぼんやりさせたりすることもない。楽器がほかの楽器と比較して、エキゾチックということはあり得ない。それらは世界に住む人々のようにすべてちがい、すべておなじだ。世界は坩堝ではないのだ。


 ミューズ
                アンナ・アフマートワ

 夜、彼女を待っていると
 人生は立ち往生して身動きが取れないように思えた。
 名誉とは、若さとは、自由とはなにか、
 手に粗末な笛もった親愛なる客とくらべる。
 そして彼女は入ってくる。ヴェールを脱ぎ捨て、
 私をじっと見つめる。
 彼女にきいた。「ダンテに地獄篇を口授したのはあなたですか?」
 「ええ、私よ」、彼女は答えた。


 先週(二〇〇二年四月十九日)この二曲は、サンフランシスコで現代音楽アンサンブル・コリアとシティ・ウィンドによって初演された。






作曲家の旅日誌(3)「変奏曲」




 午後、一九九〇年に書いたピアノのための「変奏曲」をきくために、ニューヨーク旅行の荷造りをしながら、曲が私の心に形をなした日々を思い返した。私は一九八二年にほんの二、三年滞在するつもりで、大学院生としてアメリカにやってきた。しばらくこの国に残る難しい決心をしたとき、音楽上の大きな問題に取り組んでいた。それは韓国とヨーロッパ音楽にたいする私の関わり方で、作曲家として自分自身の声を発見することだった。伝統的な韓国音楽をたくさん聴き、西洋音楽から離れる道を発見した。だが伝統音楽とそれまで書いていた西洋の「新しい」音楽との距離はあまりに大きく、どうやってあるものから別のものを手に入れるかわからなかった。

 あの数年、先生の教えに従おうと努めていた。だが彼らの教えや考えから離れる時期だった。博士課程資格試験に合格し、あとは学位論文を書くだけだった。学部長からその過程の間際に形式的な作曲のレッスンを免除できるときいたが、これはレッスンに行くことができない生徒に限られていた。それには町に通いで通学することが条件だった。受けたくない作曲のレッスンを免除してもらうために、筋の通る意見をもって五日間学部長のオフィスに並んだ。週末、まだキャンパスでやっていけるにもかかわらず、彼は免除を承諾する証書をつくってくれた。

 そう、私は一人ぼっちだった。自由や幸福どころか、道に迷ったと感じた。それは先生が気に入る何かにすぎず、書いたすべてを拒絶する自分がいた。結局、何も書くことができなくなっていた! 「変奏曲」を書くのに二年かかったが、それは十二分の長さしかない。もちろん変奏曲に主題が不可欠なことは知っていた。だからこそ主題を書かくことを避け、代わりに二つの音、つまり一つの音程を書いた。通常、主題ははっきりわかる変奏によって「展開」される。だが展開しない決心をし、五つの大きなセクションで、その音程にもとづいて連続する変奏を書いた。曲中、十二の音高すべてではなく、五つの音だけを使った。アジアの五音音階(五音:ド[ハ]・レ[ト]・ミ[ホ]・ソ[ト]・ラ[イ])と西洋の五度圏(五音あるいは五つの調の関係:ハ[長調]・ト[長調]・ニ[長調]・イ[長調]・ホ[長調])の関連を偶然発見した。曲のテクスチャーはとても薄く、和声を形づくる十分な音の重なりを欠いている。韓国音楽のほとんと絶えることのない装飾をきき、曲をがっちりと固定しないで鳴らす多くの装飾音を書いた。私はピアノを和声楽器としてではなく、旋律楽器として鳴らそうとした。時々、中音域を省いて、高・低音域だけでとても速い音楽を書いた。するとピアノはマリンバのように鳴り響いた。

 同じころ自分のテーゼを書きはじめた。クラシック音楽の世界はありふれた日常からあまりにもかけ離れている。それゆえ社会における作曲家の役割について書く決心をした。今でも私は政治的な音楽を書くことに関心がない(やってみたが、居心地が悪く、満足がいかなかった)。いまでも興味があるのは、まわりにいる人たちに関わりがあり、彼らに楽しんで理解してもらえるような音楽をつくることだ。芸術家の空想世界に漂っていたり、ほかの作曲家だけに理解できるような音楽を書くことはできない。私は作曲家で、長い時間、音楽を書いている。戦争を生みだす政治家や、商業的で、物質主義的な市場操作する世界の目標を支持することはできない。世界が混乱にあるとき、家にじっとしてラブ・ソングを書くことなどできない。大きな声で抗議したり、暴力行為にかわって、私は静かに、ゆっくりと捉えがたい音楽を書く。「変奏曲」を書いたとき、作曲に夢中になった。私は遠く離れた山々で演奏される音楽のように(先入観のないやり方で)曲を想像したりもした。

 一九八八年にコロラドからサンフランシスコへの引っ越しで、三日間山と砂漠をドライヴした。私は曲を思いめぐらし、そしてききはじめた。二年後の一九九〇年六月に「変奏曲」は初演された。明日(二〇〇二年四月)、私はその曲をきくためにニューヨークに飛び立っている。

 午後、ニューヨークへの旅支度をしていると電話が鳴った。サクラメントのあるジャーナリストが、終えたばかりの「ブランクーシのスタジオ」という新作について質問してきた。一般的な質問を終えて、彼女は影響を与えた作曲家について知ろうとした。私は影響を重視することに関心がないと念を押しながら、三人の名前(ケージ、ナンカロウ、フェルドマン)を挙げて質問に答えた。ドイツの作曲家、アーノルド・シェーンベルクは自分が発明した音の体系が、ドイツ音楽の優位を一〇〇年間保証すると信じていた。彼の音楽はとても美しい。でも彼の影響やまねをする作曲家に興味はない。アメリカの作曲家クリスチャン・ウォルフは書いた。「影響とは力と支配の行使を暗示する」。

 おおくの若い韓国の作曲家は、その音楽があまりに「韓国的」であるために、人々に「われわれの韓国」音楽の意義を知らしめる、という。かれらにいいたい。できる限り学ぶことはいいことだが、そこから離れて進まなければいけないと。かれらがどこへ向うべきかを尋ねたとき、私は答えることができなかった。伝統楽器を勉強し、その音楽と演奏が私を変えた。音楽が先生だった。よい先生は生徒が歩んできた場所から別の場所に歩き去らなければいけないことを知っている。

 いつもコンサートで、聴衆が私の音楽を好きなってくれればと思っている。だが同時に驚きをどうすることもできないし、ジョン・ケージはそれが何かを考えていた。詩人のヨシフ・ブロツキーは、芸術が同時代や後からやってくる人々の満足に関わるべきではなく、それより前にいた人々に満足してもらわなければいけないと書いた。




作曲家の旅日誌(4)「ブランクーシのスタジオ」




 いつも台所のちいさなテーブルで仕事をする。大きな机や私の楽器(カヤグム、コムンゴ、アジェン、チャンゴ、ピアノ)、たくさんの本、レコードのある部屋もある。この部屋で仕事をすることもあるが、そんなとき私は机ではなく床の上でやる。雨の日はサンルームで仕事をする。天井のガラスを打つ雨の音が好きだ。三つの部屋は二つのドアでつながっている。

 ルーマニアの彫刻家、コンスタンチン・ブランクーシはパリに四部屋のスタジオをもっていた。部屋は彫刻であふれ、二、三の基本的な形、すなわち楕円、球形、円柱が多様なテーマで統合されている。彼は彫刻を支えるプラットフォームをつくり、描かれた大きなモノクロ・キャンヴァスの前にそれらを置いた。部屋には壁に吊された道具や日々の生活で使うステッキ、ギター、写真、ゴルフ・セットも含まれていた。

 「ブランクーシのスタジオ」という曲のために、彼のスタジオ(スタジオは今もパリのポンピドー・センター近くにある)にある物の配置を音楽に移し変えた。思いがけなく彫刻や物に出会うように、部屋を歩くようなやり方で演奏され、きける音楽が書きたかった。物の配置が立つ場所によっていかに変るかに気づくだろう。私はスタジオ内の空気や空間すら音楽に込めようとした。

 この曲はいつも演奏されるまで、どのように響くか誰にも分からない。曲中七人の演奏者のだれもがやりたいときに演奏できる一つの旋律がある。進行する旋律に加え、演奏者それぞれのパートを書いたが、この六つのパートだけは−できるかぎり違った演奏の組みあわせで−任意で一度だけ演奏される。楽器のチューニングから曲のはじまりに中断はなく、演奏者のだれかがチューニングを終えた時点から音楽をはじめることができる。残った人は準備ができたら加わる。それゆえ曲は日常と演奏の時間にいかなる区別なくはじまる。私でさえ演奏されるまえにどう鳴り響くかまったく分からない。明日、曲を委嘱したグループ、ミュージック・ナウのリハーサルと初演に立ち会うためにサクラメントに行く。

 演奏家はリハーサルでどうしてもたくさん質問する。「ブランクーシのスタジオ」のような曲を練習するとき、私は質問に答えるかわりに、何をすべきかを話す。特殊なこの曲で、そのパートの状況と可能性を理解してほしい。もちろんクラシックの音楽家が目の前のぺージから理解したものを正しく演奏し、指揮者の拍子に正確に動く人たちであることは承知している。一番いいのは、彼らがそれまできいたことのない音をきき、最後のリハーサルでやるのとは違ったやり方で演奏できるよう、ふさわしい気持ちで曲に望めるようにすることだ。ブランクーシはいった。むずかしいのは仕事ではなく、むしろ仕事をする状況を保つことだと。

 いろいろなことが起こるのがリハーサルだ。多くの心が同時に、しかも別々に働いている。物事は誤解をまねく。音楽家は音楽を注意深くきき、そして新しい何かが起こり、物事はちがって理解される。何より音楽に没頭すると、期待しないものをきいて驚く。それなら、われわれはブランクーシのつぎの言葉の可能性を理解するかもしれない。宗教と哲学を取り除いたなら、世界を救うことのできる一つが芸術だ。芸術とは難破したあとの板切れであり、それはだれかを救う。




作曲家の旅日誌(5)「伝統」




 仕方なくコンピューターを買って二年が経つ。先週、はじめてウィルスによる不具合が生じて、コンピューターが生活に不可欠なものだと実感した。辞書が伝統について書いていることや、学者の定義がどんなものかは知らない。でもわれわれのコンピューターとの関わりは、良かれ悪しかれ、新しい伝統となるように思える。私は伝統を空気みたいなものだと考えている。正確にいえば、子供にとっての両親のようなもの。人の最初の言語は伝統、成長過程に食べる食事も伝統、儀式を行う方法もまた伝統だ。われわれは友人を選ぶが、両親や呼吸するものを選ぶことはできない。人は宗教と哲学を選ぶことができるが、伝統は選べない。韓国で伝統音楽は多くの人々に忘れられている。これは世界のほかの地域と同じだが、しかし私は知っていることだけを書くつもりだ。

 わずかだがこれまで私が韓国の伝統音楽を学んできたのは、歴史でも理論でもなく、楽器を演奏することだった。演奏経験はまだとても浅い。とくに自分の「音楽の世界」に、伝統音楽から発見・吸収したものをはっきりと表現しようとしたとき、心に期す多くのことがあった。まずはじめに宮廷音楽の響きについてこんな風に考えた。全体のダナミクスがほとんど変動しない音楽の長いライン。とくに長いリズム・パターンのゆったりした音楽で、はじまりと終わりがほとんど感じられない。演奏者同士の厳密な同調がない。多くの人はおなじラインを演奏するが、ほとんどが微妙にちがったライン。楽器はユニゾンで演奏されるが、装飾やヴィブラートはそれぞれ別々に置く。合奏では独奏ラインの層を思わせる。ソロのラインは明らかに多くの楽器の色彩のなかにきこえる。声の音楽はとても装飾的で、いつもメリスマ的。前進しつづけるのではなく、ためらいの音をふくむ躊躇の感覚。あるいは躊躇もなく、進みつづけることもない短いくり返しと簡素な音型。展開の感覚のない長い楽節。楽節間に変わり目はない。多くはゆっくりした音楽。音楽は簡素にはじまり、大きな身振りなく終わる。打楽器のまばらな打ち込み。木管(ピリ)の明確な旋律線は、不鮮明な線(激しく装飾するカヤグム)に拡散した背光に囲まれて浮かび上がる。一つの楽器グループがもう一つのグループを影で覆う。速さの異なる音楽が同時に響く。前のフレーズが終わるまえに、新しいフレーズがはじまる。大合奏では指揮者なしで演奏される。演奏家は一体感をもって演奏する。ゆっくりと気だるく演奏される装飾。各演奏者個人の装飾。個人的な装飾をもつそれぞれの音。長い豊かな音楽はわずかの音で作られている。ゆっくりした音楽の長いパッセージは、それより少しゆっくりした加速のない別の音楽の長いパッセージとなる。

  むかし韓国で伝統的な音楽家に習っていたとき、私は先生が時間にルーズなことに驚いた。先生の家に行くと、先生はそこにいないこともあるし、きめられていた時間より遅れて姿を見せたりする。レッスンを待つあいだ生徒はグループになって練習する。だれも先生のいないことを心配しない。また二、三人のときは、他人の演奏に気も止めず、個人練習をする。どうして自分がやっていることに集中していると思うのだろう? たまに先生があらわれて、一時間ないしは二時間の長いレッスンをすることもあるし、まったくしないこともある。レッスン中、先生と一緒に演奏するが、けっして説明しない。だか先生と演奏していてうまくいっていると感じても、一人だと自信が挫かれてしまう。レッスンが終わって、私はたまに食事で残ったり、いつもの通りみんなと一緒に帰ったりする。

  韓国人の生徒はレッスン中に話をしない。アメリカ人の先生がアジアの生徒を、ただ従うだけでうまくなると思い、自分で考えたりしないから研究報告が書けない(彼らはそう考えている)と、話し合っているのをきいた。彼らは分かっていない。どうして韓国人の生徒がクラス・レッスンのあいだ、ただきくだけで話をしないかを。何か質問があったとしても、私ならすぐにきいたりはしない。私は沈黙することで、その答えが先生がすでにいったことのなかにあることを学んだ。もちろん、東洋人や西洋人の先生のなかには良い先生、悪い先生がいる。生徒に答えをもたない先生はいるが、あのアメリカ人の教師にはとうてい理解できないだろう。

一九九九年の夏の二ヶ月、韓国の伝統的な合奏団のリハーサルを毎日きいて過ごして、気づいた。年をとった人のなかに、とても保守的で、誇らしげに愛国的な音楽家がいると思えば、若い奏者のなかにはリハーサルの最中にこっそり携帯電話かけていたりする。伝統の放棄ではないし、単純な伝統のくり返しでもない。

 時々、人生と音楽が似ている点について考える。韓国の民俗音楽は人々、土地、天候、国の特定の地域言語の産物であり、まっすぐ赤裸々に響く。それは好きな格言を思い起こさせる。「偽りの物語はあるが、偽りの歌はない」。韓国の宮廷音楽に美しく響かせる努力はいらない。たくさんの人が共に同じ旋律を演奏するのが宮廷音楽の特徴と考えていい。それは多くの人が正確にあわせることを気にしたり、和声的にあわせる人たちのように、だれにも支配されることがない。

 毎日家で「新しい」音楽を書く。でも韓国に行くと伝統音楽を勉強する。二、三日後、韓国の全羅道に行くためにサンフランシスコを出発する。伝統的な歌い手の家に一ヶ月滞在し、彼女に歌のレッスンを受け、それからその地域の音楽家と会って新しいプロジェクトの調査をするつもりだ。




作曲家の旅日誌(6)「全羅道」




 昨日、朝五時三〇分頃インチョン空港に到着した。ラップトップ・コンピューターのアダプターが必要だったので、私は店が開くのを待ちながら、数時間ソウルの町をうろついた。都市の物はとても西洋化されているが、万事がこじんまりして静かなことに気づいた。丸みを帯びているが、さほど壮観な景色でもない丘、狭く、ちいさな小石を引き詰めた曲がりくねった小川、人工物だけでなく、自然もまたひっそりとここに生きている。若いカップルが経営するちいさな街角の店を見つけた。彼らはあらゆる電子機器を売り、修理する。代金を払ったとき、女性が財布の内ポケットにお札を入れるようしつこくいった。彼女は私が何気なく外ポケットにお札を入れたことが信じられなかったのだ。たった今、はじめて会っただけでも、韓国人は個人的な事柄に関わろうとするのだ!

 全羅道で全州行きのバスに乗り、町の住宅地の一角にパンソリの先生の家を見つけた。正直、地方ではなく、この場所に彼女が住んでいることに少し失望した。彼女の居間に入ると、テレビがついてることに気づき、ショウで歌う女性が数年前に習ったアジェン奏者の母親だったと分かって驚いた。私たちは簡単に挨拶を交わし、テレビを見るために静かに座った。

 全州で行われている全国的なプク(鼓)・コンテストの放送だった。もう一人の生徒が加わった。しばらくして先生は、不意にこの生徒にレッスンの時間になったと伝えた。私は座り、その様子を見ききしながら、心は好きなにわか雨に、そして崩れるように想像のベットをさまよっていた。もう一人の生徒。そう、私は長い搭乗にバス旅行、くわえて家までの徒歩でほんとうに疲れきっていたのだ。それから先生は私の知っているパンソリのレパートリー「春香歌」から「愛の歌」の旋律を歌いはじめた。彼女が私を呼んで、つづけて歌うよういったことにびっくりした。説明もせず、彼女は私が正しく真似ることができないとどなった。やるべきことを分析する時間すら与えず、もう一度歌うよう命じた。それゆえ私は間違った音を、正確にできるまで何度も歌いつづけた。彼女は何もいわなかった。私たちはただつづけた。

 小雨の今朝早く、彼女は、いっしょに散歩するよういった。長いあいだ静かに歩いた。それから角を一周すると、彼女は昨日の歌の出だしをうたいはじめ、後につづくよういった。

 ほとんど二十四時間先生の家にいる。三回のレッスンを受け、ほかの生徒の六回のレッスンを終わりまで見る。友人の葬式から帰ったあとで彼女が歌うのををきいた。これが彼女なりの哀悼か習慣なのかは分からない。レッスンが終わっても彼女が教えてくれたものだけを練習した。ナムドの音楽(南の伝統音楽)に満ち足りたこの一ヶ月が私の音楽を変えてくれると確信している。

 人生の半分を韓国で過ごし、半分をアメリカ(現時点で)で過ごした。韓国で暮らしていたとき、アメリカ文化に惹かれ、今それを経験したことに満足している。ジョン・ケージやコンロン・ナンカロウ、アグネス・マーティンのようなアメリカ人を知るには役に立つ。私はアメリカに住んでいるあいだにアジアの音楽を発見し、アメリカ文化を単に「普遍的」で優れたものとするのではなく、個人的かつ批評的な方法でヨーロッパの文化を判断する力を身につけた。

 最近、韓国をたくさん旅行し、芸術とは関係のないこの文化の一面を発見した。アメリカでは都市や町、大きなものちいさなもの、東と西、すべてとてもよく似ている−同じスーパーマーケット、おなじファーストフードチェーン店やコーヒーショップ。わずかなものを除いて、まるで一度期に、しかも同一人物に建てられたかのようだ。これに反して韓国では表面的上とてもよく似て見える人々のなかに多様性がある。各地域には独自の方言(私がパンソリの先生がいったことをすべて理解できるとは限らない)や調理法、音楽がある。今日、韓国のほとんどの音楽が西洋文化という主流の大河に飲み込まれようとしていることに苛立ちを感じる。その激しい流れを避けることはむずかしい。

 この二十年、韓国へ何度ももどった。はじめは韓国の生活や文化を思いだすためにやって来た。最近帰ってみて、その文化から離れるためにさらに学ぶ必要を感じている。いつも韓国の伝統音楽の別の流れに浸るためにもどる。大河は行きたい大きな都市へと連れていく。私は見知らぬ町や忘れられた村に連れて行ってくれる、曲がりくねったちいさな小川に身をまかせたい。




作曲家の旅日誌(7)「精神火」




 明日、チョンジュを出発し、八時間に及ぶパンソリのコンサートをききくために数日ソウルに戻る。九日間パンソリの世界に浸っていたが、さらにパンソリが沈黙から到来するのをきく。だが私はパンソリ歌手になろうなどとは夢にも思っていないし、歌を学ぶことで伝統音楽を保存したり、保護することなど望んでもいない。宮廷音楽、民俗音楽、伝統音楽、新しい音楽について考え、また「教育のある」人、「教育のない」人、生と死についても考えている。

 十巻からなるチェ・ミュンヒの「精神火」を再読している。というのもこの小説にもとづいて二〇〇三年から二〇〇四年のシーズンにソウルで上演予定のオペラを書くためだ。アンサンブルは十二人の混声合唱、一人のパンソリ歌手、七人の楽器奏者− テグム/タンソ/ハーモニカ、ピリ/センファン/ハーモニカ、ヘグム、サンジョ・アジェン/宮廷アジェン、サンジョ・カヤグム/宮廷カヤグム、サンジョ・コムンゴ/宮廷コムンゴと打楽器で、この七人は歌もうたう。

 最初の仕事はリブレットを書くことだ。オペラは八〇分ほどの長さだが、まとまった小説から選んだ出来事をどのように編成するか、これは簡単なことではない。私はその本から十二のシーンを選んで音楽を書くつもりだ。これらのシーンはナレーションを使うような伝統的な劇場趣味に結びつけたりしたくない。そのため新しい結びつきを模索しており、少なくとも部分的に、きき手の想像力にゆだねられなければならない。たんに年代を追うように一連の出来事を提示したくはないし、またどんな象徴主義に訴えかけたくもない。私は風景とライティングによる最小限のセット・アップでこれらのシーンを描いてみたい。

 チェが十七年をかけて完成させた小説は、ヤンバン(両班)の一族の幾世代に渡る三人の ジョンブ(長男の嫁)の生涯を追っている。ヤンバンは李朝の時代にもっとも高い身分を与えられ、三人の女性は日本の侵略(一九一〇−一九四五)や西洋文化と価値の導入の歳月を通して、そのような家族の伝統を保とうとしている。チェはヤンバンだけでなく、下層社会に置彼たチョンミンについても書いている。憤り、挫折、憎しみは二つの社会の隠され、禁じられた関係から生まれ、異世代のうつりゆく野心が小説の主題となっている。若い世代の多くが西洋や日本に強く惹彼ている。ヤンバンは人間的なもろさや社会の動乱にもかかわらず、彼らの社会的な威厳と地位を保とうと尽くす。チョンミンは教養なく、孤立した存在として登場するが、だが人間として自由に振る舞うことができるのだ。

 この小説を最初に読んだとき、何気なくその一部をパンソリのスタイルで歌っていることに気がついた。パンソリのリズム・パターン、強勢、イントネーションは全羅道の方言と密接結びつき、パンソリはこの地域の人々に直接語りかける。昨日、私は年一回、一日かけて行われる国主催のパンソリ・コンテストを最後まできいた。だれ一人として静かに、礼儀正しく椅子に座っている聴衆はいない。誰もがホールの周りを歩き、大きな声で話し、ひざや椅子の肘掛けで伝統的なリズムを鳴らしていた。パンソリを勇気づけ、興奮させるために、演奏家にかけるたくさんのかけ声があり、またなかにはホールでタバコをすっている人もいる! 西洋やソウル、京都のコンサートとはまったく違う。

 伝統とは何か? 社会的な地位とは何か? 社会のなかで芸術家のあるべき場所はどこか? 社会の異なるグループに通じ合うものとは何か? いつ、どうやって共有できる場所に向かうことができるか? 分かりきったことだが、私が著名な伝統音楽家の一員となることなどできないし、自分が「韓国」の作曲家からおおきな隔たりがあるなどとは思っていない。実際、伝統音楽との交流を通して、ますます伝統音楽から自由になったと感じている。

 二、三日前、友人の母親の葬儀から戻った。われわれは世界中を旅しながら音楽を生み、演奏する。そして旅の終わりに沈黙を見いだす。




作曲家の旅日誌(8)「ピアノ音楽」




  一九九六年に一連のピアノ曲に着手した。どれもさほどの長さはなく、それらは特定の着想に焦点を当てている。私はこれらの曲を作曲することで自己の音楽・作曲上の意識を発展、拡張させようとした。そう、それらはある意味で、エチュードであり、結果としてピアニストと作曲家の両者にとっての「スタディ(探求)」でもある。

 「ピアノ・スタディ1」(一九九七)を書くことで、音の二つのラインが層のようになるやり方に関心を払った。和声と対位法を避けながら、響きの透明性を失うことなく音の層を結びつけようとした。もし異なるラインに共通の音があった場合、その音を維持し、第三の層が生じることに注目した。ピアニストの挑戦は連続する手の交差と並置だった。

 一九九九年に「レイン・スタディ」を書いたが、それは韓国の旋律「サンヨンブル(三念仏)」に基づいている。歌の歌詞は「沈みゆく太陽は明日また昇る。終わりゆく人生は再び巡ることはない」というものだ。「レイン・スタディ」は、「ピアノ・スタディ1」と同じ一つのアイディアから生まれたが、より複雑な層を扱う。私はページの上にこの複雑さを記述する最もいい方法が「特別な」記譜法を使うことだと思い至った。そこでピアニストは個々の音を拍子によって数えるのではなく、グラフィカルな表示に対応して、音の間(ま)と流れの関係によって決定する。

 「ピアノ・スタディ2」(二〇〇二)は、ウィーンのシェーンベルク・センターでのコンサートのために書いた。シェーンベルクの作品十九のピアノ曲の音高とテクスチャーを使いながら、私は同時に演奏する手のために、おなじ旋律だが微妙に変化する形で書いた。この曲は特別な記譜法を使い、「レイン・スタディ」の前半部分と同様に、ピアニストがダイナミクスを決める。それゆえ特定のピアニストによる演奏でさえ違ったものとなり、別のピアニストの手で曲はまったく違った風に響くだろう。

 「ピアノ・スタディ3」(二〇〇二)はロサンジェルス協会ピアノ・スフィアによって委嘱された。ピアニストのズーザン・スヴチェックは私の音楽に興味をもち、だから彼女のためにピアノ曲を書いた。それはマーカン・ コヴコナと名付けられた少女の容姿と性格を綴ったシンプルなノルウェーの旋律にもとづく変奏曲だ。こうした旋律は、その歌が彼女のことだと知っていない限り、ほのめかされる人物を知らされることなく歌われる。私はその歌のもつ簡潔さ、率直さや誠実さに魅了され、それを使って染み渡るような音楽を書こうとした。ズーザンはパサデナで曲の初演を行い、テジョンとソウルで演奏するために、今夜韓国に到着する。

 昨日、 忠清道のコンジュにある民衆演劇ミュージアムに行った。仮面のコレクションやクッ(シャーマンの儀式)の展示、それに農具のコレクションが陳列されていた。芸術家ではない普通の人々が、芸術形式としてではなく、困難な生活に欠かせないものとして、韓国のカミョングック(仮面劇)やインヒョングック(人形劇)を演じていたのだ。

 私はパンソリの先生(いかなる教育も受けていない)と哲学や宗教、音楽について議論したりしない。彼女がたくさんの人たちと実践し、演じ、伝えるそのやり方だけを観察する。私は音楽家やその他の芸術家のコミュニティで生きる人たちの音楽と、町の共有地で日々の労働のあとで演じられる伝統音楽や劇のちがいに驚きを感じる。そこには水槽で泳ぐちいさな魚と大海原で泳ぐ魚ほどの差がある。

 音楽をきいた後、いろいろな人が話してくれることから学ぶ。かれらはきいたりはしない。というのも自分が音楽をつくるのに何が変えられるかを知るためではなく、かれらがいうことに耳を傾けたい。かれらが私の音楽をきくように、私はかれらにきいていみたい。

 シンプルだが、それでいて直接訴えかけるような、そしてインヒョングックやカミョングックを理解できるすべての人と通じ合うようなピアノ音楽を書く方法をさがしている。同時に新しい響き、ピアノを演奏する新しい方法、そしてピアニストと作曲家との新しい関係にも興味がある。韓国人は伝統音楽という国の宝を保存しようとしているように思うが、もしこれが自然科学の学者のコレクションのように動物や昆虫を採取することだとすれば驚きだ。伝統を保とうとすることは指で流れをせき止めるか、あるいはともするとアボガドの種を握り潰すようなものだ。




作曲家の旅日誌(9)「フラグメンタル・スタディ(断片の探求)」




 これまでずっと素材を展開しない音楽を書いているが、そこには伝統的な意味で盛りあがりやクライマックスといっものはない。切れ目ない安定した音の変化、新しい種類の連続性にとても興味がある。今年のはじめにこうしたアイディアを結びつけた、韓国の伝統的な管弦楽とカヤグム独奏のための「フラグメンタル・スタディ」を書いた。「フラグメンタル・スタディ」(二〇〇二)で、独奏カヤグムはときに一個人であり、一種の音楽のナレーターであり、またオーケストラの一部ともなる。曲は来週初演の予定で、これは韓国にいるあいだに出席する自分の音楽を含む最後のコンサートとなる。「フラグメンタル・スタディ」の最初のアイディアは、一世紀に書彼たペトロニウスの著作「サテリコン」に基づくフェリー二の映画版から生まれた。オリジナル・テキストは断片だけが残こされており、フェリー二はこれらを連続的なものとして提示する。「フラグメンタル・スタディ」はソウル伝統オーケストラによって委嘱され、私は表面上、韓国の伝統とは無関係な三つを素材として使った。すなわち、ムンミョゼアック(文廟祭礼:宮廷音楽)にフンタリョン(興打令)とユッザベキ(ともに韓国の南道の音楽)。これらのどれも似ても似つかない三つの伝統的な曲の断片は、日々の生活事象の発生と似たやり方で曲にあらわれている。人生は日々の積み重ねからなり、それらは予期しない切れ切れの出来事を含みながら、大部分が型にはまっている。私は西洋音楽を書く方法といかに対比できるかを考え、そこで部分から全体への発展的な関係を形づくるために論理的に曲を構成した。

 十一月の終わりに大学時代の古い友人たちとソウルを旅行した。私たちが何年も前に共に過ごしたことを話していたとき、それぞれ独特な方法でおなじ出来事を思い出すことをおもしろく思った。われわれは別のことを覚えている! もし私たちが時間に色あせた古代の絵を見るなら、それがまさに絵がかれた時のようなものと思うことができる。私たちはもはや存在しない失われたある部分を想像するのかもしれない。絵を見る行為のなかに連続性を補っているのだ。

 二日後、ソウルで「フラグメンタル・スタディ」を稽古する。オーケストラは大きいが、曲は指揮者なしで演奏される。リハーサルで、演奏者はあたえられた自由(と責任)にたいして居心地が悪そうだった。彼らはすべてを決定する指揮者がいることに慣れきってしまっている。(そうした状況でオーケストラの指揮者が居心地が悪く感じるのは共通したことでもある)。それゆえ私はかれらが道を見つけ、またかれらのあいだで調整できるよう勇気づけようとした。

 韓国で、伝統的なオーケストラはコンサートのために増幅される。楽器それぞれに増幅器をつけ、音楽家が監修するのではなく、オーディオ・エンジニアが個々のレヴェルを決定する。「完全にバランスされた」響きがこんな堕落したやり方で生みだされるとは!

 全羅道での滞在が三分の二以上が過ぎて、私はタル(パンソリ唱歌の最も複雑で変化に富んだ装飾の形式)を経験しており、レコードで手軽にきくのではなく、それを知る最高の人から直接歌を学んでいる。私は自分の場所(作曲)で専門家だと考えるが、別の場所で初心者となる。このことは専門の場所で自分自身をくり返すことをことを防いでくれる。

 私は「初心」という本のなかで鈴木俊隆がいったことを思う。「初心には多くの可能性がある。しかし経験者の心にはあまりない。」




作曲家の旅日誌(10)「家に帰る」




 韓国の約一月にわたる長期滞在を終え、サンフランシスコに戻ろうとしている今、経験したことを振り返っている。パンソリの先生の家で二四日間過ごし、コンジュの民衆芝居の記念館を訪問し、自分の音楽をふくめて二度コンサートのためにソウルに戻った。また仏教の死の祭礼とシャーマンの儀式に行き、友人の母親の葬式にも行った。真のアメリカ人でもなく、明確に韓国人としてでもなく、今回はほとんど外国人として韓国を旅した。

今、振り返りながらこれを書いているが、この約四週間について私の考えの多くが検討を余儀なくされた。私の歌のレッスンは、最初興味深く魅力的なものだった。そうしたことを経るうちに、先生が教えることに退屈するようになり、彼女の教えのうわべだけとしか思えないものに、私はだんだんもどかしさを感じるようになった。たぶん、短期間に学べることに、どうしても限界があることをお互いが分かっていたのだ。私が尋ねるどんなことにも先生が無視することも分かった。彼女が歌についてまったく説明できないことも明白だし、昔、先生に教えられたことをくり返すだけなのも明白だった。これはパンソリの先生から生徒という口伝の本質であり、すなわち、その三つの要素、ソリ(歌)、アニリ(語り)、バリム(身体的的な動き)はひとりの人から次の人へ、そして行為から行為へと厳密に模倣されなければならない。

 一九九九年、江陵端午(カンヌン・ダノ)祝祭に招待された。だからこの旅でまた韓国に行き、あらゆるものが商業的になっていることに驚いた。見るものすべてが「ワールド・カップ」一色だった。若いころは韓国の開彼たマーケットやフェスティヴァルを楽しんでいた。だが僧侶が携帯電話ではなし、死の厳粛な儀式のあいだ、地元の政治家が大声で次期の選挙活動をしているのに気づいたとき、今度ばかりは居心地の悪さをどうすることもできなかった。この種の営利主義が韓国人の生活のあらゆる側面を冒し、浸透するのを避けられるだろうか? われわれがそうかもしれないし、今日、無意識に許容していることが、明日の現実としてすぐに受け入れられると悟ったなら、いかに注意しなければいけいか!

 二十年前、韓国からアメリカにきたとき、私は訪問者で、一〇〇パーセント韓国人だった。十年前に永住を決心してから、私は韓国とアメリカという二重の世界を生きている。年を経るにしたがって、私の世界の二つのあいだの境界をより容易に渡れるよになり、時々、境界自体がまったく流動的なものになる。ときに韓国人とアメリカ人が溶け合うようにさえ思える。

 私はアメリカに住む韓国人が、ここでの生活のために置き忘れてきた韓国を保ち続けようとしていることに注目する。問題はアメリカが韓国なのではなく、韓国自体が移動するということだ。人のいない土地のなか、孤立した住人として欺いた自分を発見するのは簡単だ。もし不愉快でないなら、韓国のマーケットでくり返し起きているおもしろい例がある。私がそこで一人で買う場合、IDを示さなくても自分の小切手を切ることができる。なぜなら私が「韓国人」だからだ。しかし私がアメリカ人の夫と買いものをするとき、彼らはおなじ小切手を受け入れてはくれない。それは彼が「外国人」だからだ。

 一ヶ月のあいだ一音符も書いていない。音楽は頭を通ってやってくるが、いまようやく書くべき時がきた。私にとって、家とは常に仕事のできる場所なのだ。




作曲家の旅日誌(11)「六〇年周期」




 ロサンジェルスから東に六〇マイル、カリフォルニアの川沿い。韓国から戻って一週間もたたず、カリフォルニアの音楽教師の総会にピアニストの夫に同伴した。彼はピアノ・コンクールをきくためにここにきたが、コンクールは専門学校から大学までの若いピアニストが演奏する独奏とコンチェルトが含まれている。私は、ファイナリストの先生たちのなかにアジア系アメリカ人が一人だというのに、このコンクールの八人のファイナリスト、北カリフォルニアの四人、南カリフォルニアの四人がアジア系アメリカ人だということに興味をもった。世界中にはたくさんの音楽コンクールがあり、この一ヶ月、韓国とカリフォルニアでたくさん見てきた。

 こうしたコンクールが、学生にとっていどんな価値があるかは分からない。コンクールのために準備する若い音楽家のほとんどがすぐれた「コンクール作品」の技術的な面に焦点をあて、それを速く大きな音で、さらに誰よりも(アクロバットのような)華々しいやり方で演奏することを学ぶ。すぐれた「コンクール作品」とは、きき手にとってゆっくりでも、難しくもないもので、それゆえ熱狂的で成功をおさめた優勝者は決して経験できない音楽の世界がある。経験から音楽が人生のたくさんあるなかの一つの道だということを学んだ。ゴールに達することは人生の目的でも手段でもない。音楽とは日々勤勉に働く人々におおくの幸福を与えることのできる行為(と娯楽)の一つの形だ。たくさんの音楽を学ぶことで、学ぶ喜びを発見し、世界の美を理解するようになり、忍耐と安らぎを学ぶ。また一人であることも学ぶのだ。

 全羅道のパンソリの先生の家で四週間の長い滞在するあいだに、たくさんの若いパンソリの生徒に出会った。外からの訪問者として、私がある距離をもっていることはしかたないが、その何人かと個人的に話す機会があった。私は特定の家で特定の人々と心を通わせることについて考えざるを得ないし、そこには夢にも思わない世界が存在する。たぶん次のプロジェクト(のひとつ)についていろいろ考えていたから、そんな風に考えたのだろう。曲は「六〇年周期」というタイトルで、西洋の弦楽オーケストラ、二つの打楽器、コムンゴ独奏のために書く。コムンゴは六弦のツィターに似た韓国の楽器で、竹の棒で叩いて演奏される。コムンゴの巨匠ホ・ユンジョンは、五月一八日、サン・ヨゼのル・プチ・トリアノンで聖ヨゼ室内オーケストラと曲を演奏するために韓国からやってくる。

 「六〇年周期」はおよそ三〇分の長さになり、その構造は中国文化で「六〇年周期」と呼ばれる一〇の性質と十二の動物の集まりとが対応する。この一〇の性質は十干と呼ばれる。

大樹(木)
木灌(木)
太陽の光熱(火)
提燈(火)
丘陵の丘(土)
田畑の土(土)
鋼金(金)
柔金(金)
海洋(水)
小流の水(水)

 これらは五つの基本的な要素(木、火、土、金、水)を含み、十二の動物を一組とし、それは十二支と呼ばれる。つまり

子(ね)
丑(うし)
寅(とら)
卯(う)
辰(たつ)
巳(み)
午(うま)
未(ひつじ)
申(さる)
酉(とり)
戌(いぬ)
亥(い)

 干と支の完全なサイクル、それぞれのペアは一年を持続し、六〇年にちなんで形づくられる。すなわち、人生として考えられる時間の長さだ。

 伝統的な韓国の楽器コムンゴはフレットと移動する琴柱の両方をもっている。楽器が生みだす響きは弦の長さ(ギターやヴァイオリンのように)とユニークな演奏技法によって決まる。演奏家は一度、指の位置によって弦の長さを固定し、弦は特定の高さを決定するために一方方向に押さなければならない。この演奏技法はユッアン−ホブ(文字通り、強く抑えて演奏する奏法)と呼ばれ、韓国の伝統音楽にだけ存在する。というのも、コムンゴは竹の棒で叩いて演奏することで、爪や弓ではじくほかの弦楽器以上に打楽器的な響きをもっているのだ。六つの弦のうち二つだけが旋律を演奏するために使われ、残りはドーロンを生みだすために使われる。




作曲家の旅日誌(12)「スリーピング・ミューズ・スタディ」




 二、三ヶ月たって、ニューヨークに住むピアニストのスティーヴ・カントールが二〇〇二年の十一月一〇日にニューヨークで演奏する「ナイト・ミュージック」のプログラムに入れる曲を書くよう私に注文してきた。結果として、「スリーピング・ミューズ・スタディ」と名付けた曲を書いており、それは一九九六年以来つづけているピアノ・シリーズの五作目となる。

 タイトルはブランクーシの彫刻「スリーピング・ミューズ」からきており、それは卵形で、非対称の目をつむった傾き加減の頭部だ。彫刻の捉えがたい形から、ブランクーシの大理石にたいする敬意を感じることができる。私は曲の二つのヴァージョン、すなわち「スリーピング・ミューズ1」と「スリーピング・ミューズ2」を書こうと思っている。最初のヴァージョンをはじめたのは全羅道を離れる二週間前で、それから四週間の空白のあと、その曲に再び取りかかったとき、それまでやっていたことを思いだすことがきでなかった! 今、もう一度はじめからやっている。ピアニストは腕に種入りのさやのブレスレットをつけ、音楽の微妙な線をすばやい動きで演奏する。水平的な動きは水平的な動きよりも種入りさやを大きく鳴らすだろう。こうした状況は曲におおくの異なる可能性をもたらす。二つ目のヴァージョンはブレスレットなしで演奏する。私は二度おなじ曲を書いたことになる。一つは打楽器的な響きをもち、もう一つはピアノの音だけだ。「スリーピング・ミューズ」を書きながら、「クラップの最後のテープ」からサミュエル・ベケットのこんなことばを思いだした。「真夜中すぎ。こんな静けさははじめてだ。地球上に生物がいなくなり…たぶん俺の最良の時代は過ぎ去った…だがそんな時代をよいとは思わない。」

 これは私がサンフランシスコの韓国タイムズのために書く十二回シリーズの最後である。最後の十二週目の旅日誌となり、(想像のなかで)いまだ未知の音を探す作曲家がつづき、(仕事部屋で)可能な音を発見し、そして(世界で)音が鳴るのをきく。幾週間たったいま、私の心とスタジオのなかの音楽の異なる形を発見し、それから、ニューヨークのノミ劇場に、スティーヴン・カントーの演奏(彼のヴァージョン)をきくために飛ぶだろう。彼らが要求するのなら、新しい曲の初演で演奏家を手助けしたい。そのあと、曲はそれ自身の命をもつ。それはたとえ正しい果樹園に根づくことだとしても、果物を食べることを知らずにリンゴの木を描くようなものだ。

「スリーピング・ミューズ・スタディ」の仕事に加えて、八〇分の長さのオペラ・プロジェクトのために「精神火」の全十巻をまだ再読している。二つの大オーケストラ作品(三〇分の長さと十五分の長さの曲)のための草稿を作っている。これらの作品は二〇〇三年に初演される。

 日々の歩みのなかで、あちこちいそがしく動き回る人を見ていると、時々、生きている世界からとても遠く感じることがある。自分の心が紙の上に書きつけた活気のある音楽を静めてしまう。作曲家として現実と想像の世界を区別する必要はない。だがヴァイオリン奏者がある音の組み合わせたいして適切な手の位置をしらなければ、それは問題だ。作曲家が誤った手の位置を想像したなら、それは新たな音の探求のはじまりであり、実践的なやり方で音を実現する道を探ることである。

 私の最初の「スリーピング・ミューズ・スタディ」は、仏陀の慈悲深い顔のように、穏やかで平和な音楽になるはずだった。だが今、仏陀の慈悲深い顔について語れるかわからない。たぶん、私自身がこの慈悲を探しているという錯覚だろう。作曲家は曲が生まれるまで、いろいろなやり方で最初のアイディアを追求しなければならない。一九九九年に書いた「風はゆくあてもなく」(カヤグム独奏のための)は、ズビグニェフ・ヘルベルトの詩「旅」と平行するものと考えている。詩は七連からなり、その最初は次のようなものである。

しばらく旅にでるなら

目的もなく手探りで道をさまよい

それから 地球のでこぼこを 目だけでなく

触れることで 学ぶ

そう あなたは皮膚で世界と向き合うのだ

伝統的なカヤグム奏者は、ほかの奏者とはちがい、ときどき琴柱がわずかに固定の位置から動いてしまうことで生じる音高の微妙なずれを修正するために、演奏の途中に楽器を調律しなおす。つまりこの曲で、演奏者は弾いているあいだ、調律することを控え、両側の琴柱の弦をはずすことが求められる(伝統では右側だけをはずす)。結果として、曲の終わりに至ってカヤグム(とても儚い楽器だ)の調律ははじまりとはまったく違ったものとなる。このことは音楽作品をつくるプロセスで自然なことに思えるし、まさに生をいきる道でもある。二、三週間後、私は「スリーピアング・ミューズ・スタディ」についてさらに知ることになるだろう。旅はこれからもつづく。

(三橋圭介訳)


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