2011年3月 目次
犬狼詩集 管啓次郎
クウェート解放20周年 佐藤真紀
噴火後のムラピ山からカリ・チョデまで 冨岡三智
ピンネシリ メルティン くぼたのぞみ
ハイド――翠ぬ宝77 フージー・キール
しもた屋之噺(111) 杉山洋一
間接ドッペルゲンガー。 植松眞人
夢への切符 璃葉
二月、セミが鳴く 仲宗根浩
既視感 大野晋
『清冽』を読む 若松恵子
オトメンと指を差されて(33) 大久保ゆう
製本かい摘みましては(64) 四釜裕子
1年ぶりのペルーと初めて行ったイタリア 笹久保伸
掠れ書き10(『カフカノート』の作曲) 高橋悠治
犬狼詩 集 管啓次郎
25
きっと明日おれはきみに会うと思う
きっと昨日きみはおれを見かけたと思う
きっと明日おれは声をかけるだろう
きっと昨日きみは名を呼ばれた気がしただろう
きっと明日おれはきみの名が書けるようになる
きっと昨日きみは花火のような音を立てて
手紙をくしゃくしゃに丸めて捨てた
それからやっとおれたちの歴史がはじまる
おれたちはひと粒の葡萄をふたりで砂に埋める
おれたちはムクドリの群れよりもおしゃべりでやかましい
おれたちはダゲレオタイプのために四分間のキスをする
おれたちは時々カマルグまで出かけて塩で歯を磨く
おれたちはハープシコードや雨音には悩まない
おれたちはライオンのたてがみをもつ兎が大好きだ
そんなすべての愚かさにきみがにっこり笑ったとき
おれにとっては日付がまた「明日」に変わる
26
小学生のころ小さく折りたたんで
抽き出しのすみに入れてあったキャラメルの包み紙を
二十数年後のいま初めてひろげてみた
そこに文字が書かれている
すっかりうすれた文字はLIFE
ぼくはあっけにとられ、それから笑い出した
あるとき、たぶん九歳のころ
この単語をいたるところに記してまわった
筆箱にLIFE 下敷きにLIFE
犬の首輪にLIFE 木の幹にLIFE
拾った丸い石にLIFE 野球のミットにLIFE
それがぼくの神の名、魔法の言葉
自分の人生がこれからどんな経路をたどるかなど
何ひとつ思わないまま
生命を信頼し、生命を招こうとしていたのだろうか
あらゆる事物を横断する秘密としての生命
クウェート解放20周年 佐藤真紀
2月25日は、クェート建国50周年、2月26日は、湾岸戦争終結、つまり、クェート解放20周年ということで、区切りのいい年だ。本来なら、日本のメ ディアも特集を組んだりするはずなのだが、チェニジアから始まった民主化の波がエジプト、リビア、バーレーン、イエメンと勢いを振るっており、クウェート の記事は、日本では全く報道されていない。
2月25日は、イラク全土で「怒りの金曜日」と称して各地でデモをやるという情報も入ってきたので、イラクからクウェートに避難し、記念式典を取材してみ た。
アルビルからバーレーンで乗りついでクウェートにつく。街中が、クウェートの国旗色の電飾できれい。一方、イラクは、電気がなくて、生活の不便さを現政権 にぶつけて、デモに参加している。この電気がイラクにあれば! この差はなんだろう。
まず、湾岸戦争メモリアル・ミュージアムに行く。ここの展示、ジオラマが面白い。プラモデルの展示に、効果音や、照明をかぶせて湾岸戦争の始まりから終わ りまで、ナレーション付きで解説してくれる。昔作ってそのままになっているのだろう。ローテクだが、味がある。そして、多国籍軍の貢献を展示するコー ナー。日本は、130億ドルを拠出したことと、自衛隊がペルシャ湾の機雷除去を行った写真が飾ってあるが、あまり目だたない。「日本はお金は出すが、血を 流さない」と批判され外務省はトラウマになったといわれているが、展示を見る限り、立派に「軍隊」を派遣した国として扱われている。要は、日本の宣伝のへ たくそさにある。しつこく130億円出しましたと言い続ければいいのに、今回の記念式典にも日本からの要人は来ない。
続いてイギリス。今回当時首相だった、ジョン・メージャーも式典に参加。エリザベス女王の写真も入り口に飾ってあり、存在感をアピール。しかし、アメリ カ。一番貢献したのに、今ひとつ目立たない。多国籍軍の国旗の展示コーナーには、アメリカの国旗が外れてなくなっている。単に落ちてそのままにしておいた のかもしれないが、アメリカの要人が見たら怒るに違いない。なぜか、バングラディッシュの展示コーナーが、面積もひろく、目立つ。日本と同じように、戦後 処理として、バングラ人が地雷や劣化ウラン弾の除去を行ったと書いてある。軍服も飾ってあった。
今回、20周年ということで、2003年以降のイラク戦争の展示を新しく加えたという。なんと、そこにはサダム・フセインの銅像の首が飾ってあった。アメ リカ軍が引き倒したサダムの銅像から首を切り落としてプレゼントしてくれたという。こんなところに飾られていたとは。それだけでも見にくる価値はあると思 うのだが、このメモリアル・ミュージアム、観客がいない! もったいない。
外では、クウェート軍の鼓笛隊が演奏していた。しかし、彼らはバングラディッシュ人だという。鼓笛隊だけでなく約5000人が出稼ぎでクウェート軍で働い ているというのだ。クウェートにとって、今では、アメリカ軍よりもバングラ軍が頼りになるというわけか? 同じイスラムだし。クウェートの人口の三分の二 が実は外国人労働者。特にバングラディッシュやインド人が多く、我々外国人が、街中でクウェート人と会話することなどめったにない。しかし、労働の質は優 れている。なぜなら、文句を言ったらビザが取り上げられ本国にかえされてしまう。一ヶ月、200から300ドル程度しかもらえないが、この国の底辺を支え ている。彼らが稼ぐ金は、本国では、大金であり決して貧困層には入らない。他のアラブ諸国のように、貧困が問題となってデモに発展することもないだろう。 優れたシステムだ。
翌日、市民のデモがあるというので、タクシーを拾う。やはり、バングラ人。英語がなまっていてよくわからない。おまけに、ふっかけてくる。
「高い」
「何を言う。ここは危険だから、早く金を払ってくれ」
「危険だって? デモといってもみんな楽しそうに旗を振っている」
「ここは、危険だ。早く、金を払ってくれ」
もめていると銃を持ったクウェートの子どもたちがやってきて、運転手の顔面めがけて発砲した。2リットルくらいの水を蓄える事が出来る水鉄砲だ。イラク戦 争から20年とはいえ、クウェート人の多くにとっては、単なるお祝い事に過ぎず、散々はしゃいだ後は、休暇をとって海外に遊びに行ってしまう人も多いとい う。湾岸戦争のときも、ほとんどサウジに逃げてしまっていた。やっぱりこの国は、バングラ人が支えている。
噴火後のムラピ山からカリ・チョデまで 冨岡三智
2月13日から22日まで、インドネシア、ジョグジャカルタ市のカリ・チョデ(チョデ川、カリは川の意味)流域で行われていたAPI リージョナル・プロジェクトというのに参加していた。このプロジェクトは、日本財団がアジア5カ国に支給しているAPIフェローシップを受給した人たちが 5カ国それぞれで作り上げるプロジェクトで、「人と生態系のバランスに対するコミュニティ・ベースのイニシアチブ」が共通テーマになり、とくに「水」が キーワードになっている。このプロジェクトが企画されたときには想定外だったのだが、ジョグジャカルタでは昨年11月にムラピ山が噴火し、さらにその火山 泥流が雨期で増水した川に流れ込んで洪水が起こり…という状態になったので、チョデ川流域の汚染問題の視察という当初の予定以外に、被災地としての実態も 視察することになった。
同じジャワ島の古都と言っても、私が以前留学していたソロとジョグジャはいろんな面で違う。ジョグジャでは南北の軸線が非常に重視される。北端のムラピ山 と南のパラントゥリティス海岸を結んだ南北の軸線の真中にジョグジャカルタ王宮があり、さらにその線上に、インドネシアで最初の総合大学・ガジャマダも、 マリオボロ通りの起点になるトゥグ(記念碑)もある。そのムラピ山の裾野を水源とする川のうち3つがジョグジャ市内を通っていて、中でもカリ・チョデはこ の南北の軸に沿って、つまり都市の心臓部を貫通して流れているので、特に重要な川なのだと地元の人は言う。ソロ王家の場合は、南北軸ではなくて四方位を重 視する。ソロでもムラピ山にはその四神の1人が棲むと見なされているけれど、ソロではムラピ山は西の山になっている(ソロはジョグジャより東にあるか ら)。さらに、ソロを代表するソロ川(ブンガワン・ソロ)は、ソロ市を囲むように流れていて、ソロにはジョグジャのような強力な軸線がない、という気がす る。
このプロジェクトでは、1日、午前中にムラピ山に行ってカリ・チョデの水源(ただしその辺りではカリ・ボヨン=ボヨン川と呼ぶ、ムラピ山頂から6kmくら いの地点)を見、火山泥流で壊滅したカリ・クニン国立公園で植林をし、昼からパラントゥリティスに行くという日があった。ただし、私自身は別の用事があっ て、パラントゥリティスには行っていない。
市内のカリ・チョデ流域でも、火山泥流で川床が1.5mも上昇したと言う。ここ上流では、火山泥流の奔流に地面や岩肌が削られた跡がくっきりと見え、泥流 に当たって一気に炭化した木片が見つかり、明らかに山の石とは違う感触の石がごろごろ転がっている。間近に煙を吐くムラピ山が見える。三途の川というのを 少し連想する。削られた崖の上の端っこに、ぎりぎり建っている家が、下から見える。今、泥流が押し寄せたら、あの家も崩落し、私たちも一気に呑み込まれて しまうのだろう…。APIスタッフの1人が、「日本でなら、この状態ではまだ立入禁止にすると思うけれど…」と言う。確かにそうだ。
川の水源とは言っても、この辺りでは水は地下を流れているので見えないという。けれど、どんどん先へ進んでいくと、地面を這うように水がチロチロと流れて 来る。さらにさかのぼると、水が何か所からか湧き出している所に行き当たる。この辺りでは足首がつかるくらいまでの水量があって、湧き出す水流の強さに、 小石がコロコロとリズミカルに音を立てながら流されていくのが見える。ささやくような、軽やかな音。ここまで、犬も歩かないのではないかと思われるような 狭くて急な道を歩いてきて、へとへとになっていたけれど、この音が聞けただけでも来た甲斐があった。バリ島で見られる、風でときどきカラカラと音を立てる アンクルンに少し似ている気もするし、風葬された人骨が風に吹かれたらこんな音を立てるのかな、とも思わせる音だった。
〜〜〜
と、ここまで書いてきて、時間切れになりました。話はまだ上流なので、中流のカリ・チョデ流域の話の続きはまた来月に…。
ピンネシリ メルティン くぼたのぞみ
くらい地平線のはるかむこうに
おぼつかない光が射して
雪原に
おそい薄明が訪れるころ
目の奥に伏して眠る
ピンネシリが解けていく
ピンネシリが男の山
と聞いたのはつい最近のことで
それで謎がいくつも解けた
ふりつもる北の幻想は
身も凍る雪解け水になって流れくだり
あこがれる
やよいの空の横雲のしたで
恥じらいと
無骨さに
身の置きどころなく立ちすくみ
あたたかい潮に遊ばれた南の夢想と
もじもじとことばを交わすが
裏を知らないモノクロの
プロヴァンシャル・ライフのことばたちは
クチクラ樹木の常緑の
こまやかな花に飾られることはなく
いつまでも素っ気ない二色のままで
ノスタルジアだけが
不在のかけらとなって
きみを刺す
それでも ほら
謎が解けて
メルティン メルティン
ピンネシリが解けていく
歌うように ピンネシリ
メリリー メルティン
たたら踏む雲
まだ赤い空
ハイド――翠ぬ宝77 フージー・キール
言えるところにまではたしかに登攀する哲学や、ひとりよがり。(〈そうだ、私はヘンリ・ジキルの姿で床についたのだが、眼を醒ましてみるとエドワード・ハイドになっていたのである〉(スティーヴンスン)。「まれび と」は、西脇のなかで「幻影の人」になる。セーヌ川に浮いて、詩人は屍体となって詩を書く。だれがそれを実証する、流れる水に沈みながら、十八歳の精神が ことばをなくしたからっぽのからだで書く。そんなすべてが幻影であり、悪夢から帰還する、床に眼を醒ます、だれも知らないハイド。)
きみに訊く、尋ねる、それならと、リズムを私は問う。
性の歴史の数ページ、置き去りにしたままの詩。
そんな一篇、一篇で終わる。 そう思われた日に終わる。
きみの誕生日はいつで、かさならないことばの行き先で、
切っ先を立てて、なぜ草むらに屍体を投げる、夢のなかで。
幻影の人の理性の狡智が大海に沈む、雄大な落日。 もう一つの
夢もまた終わる、きみが地上の詩人であることにはかなわなくて。
しもた屋之噺 (111) 杉山洋一
先週までの小春日和が嘘のように厳寒の冬が戻ってきて、慌てて弱めていた暖房を元に戻しました。先ほどまで滞在していた中部イタリアの地方都市では、昨夜 など粉雪が舞ったほどです。寒さは相変わらずですが、今日は青空も戻り、ミラノに戻る急行列車にゆられて、原稿を書き始めました。南国らしい明るい午後の 日差しは目に眩しいほどで、アドリア海の海岸を這うように、列車が疾走してゆきます。風が強く、うねるような高い波が岩を積み重ねた防波堤を呑み込み海岸 まで白い飛沫を上げていて、傍らに乗合わせた日に焼けた無口な男たちも、思わず身を乗り出して波頭を眺めていました。
列車に飛び乗る直前まで、実はこの街の私立音楽院の経営陣と、学校を罷めると言い張る85歳の学長を慰留していました。彼は家人のピアノの恩師でもありま す。不況で国の文化予算は大幅に削減され、期待していたアブルッツォ州の文化予算も、ラクイラ地震の復興にあてがわれ、学長を初め多くの教師の給与は2年 間分も滞っていました。学校は毎月7000ユーロもの賃借料も長く滞納している状態で、学校経営に係わるパトロン一家が手弁当で働けど、経営は一向に回復 しませんでした。より安価な場所へ移転出来ないのかと尋ねると、現在国立音楽院卒業資格の申請中で、学校の設計図も提出してあり、移転もままならないとの ことでした。
学長がアッカルドやナタリア・グッドマンを招いても生徒数が増えないのは宣伝不足だと声を荒げると、学校には満足な広告をするお金さえ残っていないと、長 年共に学校を支えてきた経営陣は寂しそうに応えてくれました。先日も別件でローマからイタリアの文化予算削減への抗議書を送ってくれと直々に連絡があっ て、手紙を認めたところでしたが、不況に追い討ちをかけるように不安定な中東、北アフリカからの難民問題を抱え、文化予算は言わずもがな、イタリアの経済 状況は予断を許しません。20年来経営に携わってきた老婦人は、少し涙ぐみながら厳しい顔を学長に向け「あなたを、皆心から愛しているわ。どうか考え直し て、としかわたしには言えないけれど」。小さく華奢な老婦人の姿と凛とした立ち振る舞いは誇りの高さを表していて、耳慣れない南部訛りは新鮮にすら響きま した。白いカーテンからは昼過ぎの明るい光が差し込んでいて、やり場のない怒りと感激の入雑じった、すっかり紅潮した学長の顔を浮び上がらせていました。
イタリアでは卒業試験に学外の試験官を含める規則があって、この学校から何度か審査を頼まれたことがあります。今回も今朝まで数日間に亘ってディプロマ試 験の審査をしていましたが、親ほども年齢の違う他の試験官と同席していると、興味深い逸話が沢山聞けて全く飽きることはありません。試験の最中の試験官と 言えば、生徒と一緒に机の上で音を立てて指を動かしているか、無為なルバートがある毎に舌打ちをして机を叩いて拍を取り出すか小声で会話をしているかで、 平均律のフーガで学生が暗譜に詰まると、不機嫌そうに大声で続きを歌って助け舟を出したりします。計2時間のリサイタルプログラム、30分以上のフーガと エチュード、協奏曲全曲を課された受験者は厳しい条件の中、皆よく集中力を切らずに頑張るものだと感嘆するばかりです。
そうしてホールの一番後ろの席で受験者の演奏を聞きながら、カルロ・ゼッキの指揮でシューマンの協奏曲を弾いた時に、ゼッキから3楽章の例の箇所でオーケ ストラの一拍前に入る左手を弱く弾きオーケストラと合わせ易くして欲しいと頼まれた話や、彼らが学生の時分にはピアノだけ勉強する生徒など皆無で、誰しも 作曲や他の楽器を習得していた話、自分はチェロを6年間弾いていてオーケストラに参加していた話や、15、6歳の頃にオーケストレーションは誰にどう習っ たかなど、往年の教育がいかに厳格で教師がどれ程優れていたかを話してくれました。
「当時は平均律の楽譜の何調のどこと言うだけで、どの頁の何段目の何小節目で音がどうかと全て諳んじていた、その位でなければ平均律は頭に入らない。教育 者とはそういうものだった。だからこそ尊敬を一身に集められたのさ」。自らの不勉強に恥ずかしさで消入りそうになりながら、ふと同時に長く音楽院で作曲を 教えバッハの対位法に通暁していたドナトーニが頭を過ぎりました。80年代にはここでドナトーニも教鞭を取っていました。
「今のピアニストは頭を使わない。耳と指だけで暗譜していて一音間違えると破綻してしまう。楽譜から学ばないのさ。昔は構造や和声の把握など全てを駆使し て音楽を理解していたのが、何時しかピアニストは楽器にしがみ付くようになった。だからわざわざ近現代作品を暗譜で演奏させるのさ。声部が入り組んでいて 音色を弾分けられるようになるのと、読譜と暗譜の訓練に最良なのさ」。今回もカーターのソナタとアイブスの1番のソナタを暗譜で見事に弾ききったアメリカ 人の学生がいました。
鍵盤を上から叩かずに鍵盤の中で押しこむ発音の仕方や、ヴィブラートの独特のペダルなど、ピアノを弾かない人間には説明されても理解がむつかしいのです が、何より楽譜に忠実に弾くこと、早いパッセージを指で引き倒さず全ての音が聴こえる速度で弾き、音に陰影をつけて均等に鳴らさないこと、書かれていない ルバートは一切受け付けないこと、構造を堅固に作って音色を多層的に響かせるところなど、エミリオの指揮のクラスで教わった内容と全く同じでした。イタリ ア音楽史には後期古典派からロマン派が欠落しているので、以前のバロック的音楽観が現在まで残ったのかも知れないし、自ら持って生まれた享楽的で開放的な 音楽性と調和を図るべく、無意識に禁欲的な音楽教育の礎が築かれたのかも知れません。国立音楽院での和声や対位法はバッハスタイルのみ用いられ、フランス の和声課題は全く範疇になかったのが、留学してきた当時は不思議で仕方なかったことを思い出しますが、確かにレッスンで観念的な指示を受けた記憶も殆どあ りません。具体的なテンポや音色など、音楽の基礎のみに関して厳しく習ったことは、後に自らの力で音楽を深めてゆく上で大きな助けになっています。どこを 見ても遺跡だらけのイタリアの教育は因襲的でどこか古臭い程だけれど、時代に流されない強さを持っていたのかも知れない。世界中が物凄い勢いで変化する現 在、その価値を測る指針は目の前には見当たりません。
書かれたリズム通りに左手が消えてゆくスクリャービンの「幻想ソナタ」や、独特の少し乾いたペダルで和音の変化が浮立って見える「水の戯れ」、一音ずつ アーティキュレーションをつぶさに眺めてゆくような感覚に陥る「映像」など、日本では接する機会のない演奏を前に、不覚にもマニエリスムの触感を思い出し たのは、些か的外だったかも知れませんが、伝統の重さは心に食い込むようでした。
最後まで確約の言葉を発さなかった学長は、紅く染まった顔を少し綻ばせ、「連絡するから心配するな」と言い残し、覚束ない足取りで運転手の待つ自家用車に 乗り込みました。寒風に思わず襟を立て駅に向かって歩いていると、ちょうど2本目の辻の手前で、彼の車が静かに追い越してゆきました。
(2月28日ミラノにて)
間接ドッペル ゲンガー。 植松眞人
大阪関空行きANA832便である。座席は26F、搭乗口は6番。日付は1月の2日。落語「代書」に出てくる松本留五郎風にいうなら「いちげつのふつか」 だ。新年明けて二日目に羽田から関空へ向かう全日空の搭乗券の半券がいま、僕の手元にある。
そこには、当然のように僕の名前がカタカナ表記で印字されている。が、しかし、僕はそんな飛行機に乗った覚えもなければ、搭乗券を購入した覚えもないの だ。
僕の名前は驚くほど珍しい名前ではない。かといって、初対面の人に「ああ、同じ名前の人知ってます」と言われるほどの名前でもない。僕自身、同じ名字の人 に面と向かってあったことはない。そんな名前がカタカナ表記で印字されているのだから、この搭乗券が僕が使用したものだと誰かが思っても仕方がないこと だ。
だけど、不思議なのは、この同姓同名のチケットが僕が住んでいる町の僕がよく行く小さなクリニックの小さな看板の上にひょいと置かれていて、しかも、その タテヨコが10センチにも満たない地味な青い紙片をうちの息子がたまたま見つけたということだ。
だって、考えれば考えるほど、なにかおかしい。自分が住んでいる生活圏に同姓同名の人がいるっていことも、それなりに珍しい偶然かもしれないが、それ以上 に、その名前が書かれた小さな紙切れを同姓同名である僕の息子がたまたま見つけて、自宅に持ち帰り「父ちゃん、飛行機に乗った?」と何やら意味深な笑顔で 聞いてくるなんて、やっぱりおかしい。探偵小説やサスペンス映画の冒頭で、同じことをやったら、ラッシュの段階でプロデューサーから「偶然にもほどがあ る」とか「やりすぎ」とか「ご都合主義だ」とか言われてしまうはずだ。
息子がさも嬉しそうな顔をして「父ちゃんが大阪に行った証拠や」と言いつつ件の搭乗券の半券を見せ、家族みんなで「ほんまは一人で大阪行ってたんちゃう の?」とか「浮気や浮気や」とか「近くに同姓同名の人がいるのか、気持ちわる!」などと言い合うような喧噪が終わると、残るのはやはり、なぜ? という疑 問。
なぜ、この半券は僕たち家族がよく利用するクリニックの看板の上に置かれていたのか。なぜ、その半券をうちの息子が見つけたのか。そこになんの意味もな い、と言ってしまうと人生は味気ない。きっと何か意味があるのだろう。僕の将来に関わることなのか、それとも過去に何か関わりがあったことなのか、そのあ たりはわからないが、きっと何か意味があるのだろう。
そんなことを考えていて、ふと思い至ったのは、ドッペルゲンガー。自分とそっくりの人物と出会ってしまうと死んでしまう、というあれだ。間接キスならぬ、 間接ドッペルゲンガーではないのか、と思ったりもするのだが、間接キスならキスしたことにはならぬ。そう考えれば、息子経由で間一髪、危機を脱したと言え ないこともない。
ということで、僕と同じ名前が書かれた小さな搭乗券の半券がいまどこにあるのかというと……。なぜだか、まだ、お守りのように僕の手帳に挟まれているので す。
夢への切符 璃葉
風がごうごうと吹く窓の外を見て、
怒っているようだ、と思いながら
煌々と輝く部屋の電気を消した。
カーテンの隙間から、真っ暗な部屋の中に
こっそりと夜の光が入り込む。
布団に潜り込み
暗闇を見つめていると
時々、外を走っている車のライトが次々と、
小さい菱形のような形に姿を変えて天井を駆けていく。
なんだか光の競争のようだ。
ぼんやり、それを追いかけていると
いつの間にか夢の中で、
光を探して三千里、という話が出来上がっていて、
真っ黒な月と星の下で旅をしている私がいた。
二月、セ ミが鳴く 仲宗根浩
二月の終わり、最高気温二十五度。帰るため仕事場の駐車場に向かう途中、セミが一匹鳴いていた。長く地中にいたのに耐え切れなくなったのか。
旧正月の午後、実家の仏壇にご挨拶。その後、仕事に行く途中広島カープの沢村賞投手、前田健太がランニングしているところに遭遇。後ろから追う テレビカメラ。暑い旧正月、半袖で仕事をする。こっちの桜は満開。
一月の末にあったお嬢様の学芸会で、携帯電話のカメラ使えないことに気付く。年末は使えていたのに。いろいろやってもだめ。後日、職場に携帯電 話ショップで働いていたひとがいたので色々対処法を教えてくれたがそれでもだめ。内部も見て一言「修理ですね。でも水没や部品の折れがないから無料です よ。」と言ってくれた。休みの日にショップに行き修理となり代替機を渡された。渡された機種は同じメーカーだが大きさも微妙に違う。数日戸惑う。千五百円 くらいしか携帯にお金を使っていないから頻繁に手にしてるわけじゃないけど。一週間したら修理から戻ったが、設定は一からやり直す。設定まではバックアッ プしてくれないことを初めて知った。
次はパソコン。壊れたマック用の外付けのマルチドライブがほったらかされている。DVDを認識しなくなったデスクトップにこれを入れてみよう、 と試みる。まず外付けのドライブを分解して配線を確認したら簡単に入れ替えできることがわかると、夜中にごちゃごちゃと作業する。ちゃんと動く。これで DVD−RAMも使えるようになった。八年くらい前に買ったマシンなのでいまだハードディスクは40GBのまま。これをSATAのドライブが搭載可能か調 べる。搭載可能であっても起動ディスクとして使えるかどうか。BIOSの設定をいろいろ見るとちゃんとあった。これで安いSATAのハードディスクを使え る。今どきのものは一世代前の規格だと値段が高くなっている。デジタルの世界は頻繁に新しい媒体にデータを移していないと、何かあったときに使えなくな る。DATがいい例だ。ノートパソコンなぞやめてスマートフォンにキーボードの方が楽じゃないか。小金持ちになったらそうしてやる。
二月のもうひとつの仏壇行事、旧の一月十六日。今年は仕事に行く前に三ヶ所まわる。昔の話をしたり親や兄弟の近況を聞いたり聞かれたり。あの世 の正月も無事済んだ。
しかしかなりに惰眠を貪った一ヶ月だった。やらなくていけないことはあるけど怠け者はなるべく寸前まで動かない。どうしても睡魔には勝てない。 少しだけあれこれ計画を頭の中でたてて、今年初めて扇風機、スイッチ・オン。近所の通りは黄色いいっぺーの花が咲き始めた。
既視感 大野晋
引越しの次の日、メーターの取り外しの立ち会いのために家に戻った。
荷物を全て運び出したがらんとした家の中で、ふと、どこかで見たことのあるような気がした。その感覚の源がどこにあるのかを考えながら、業者の来るのを待 つ。そう、確かに同じ風景を見たことがある。
今から40年以上前。この家が立って一年も経たずに父が亡くなった。当時はまだ、周りに家も少なく、収入源もなくなったことで、幼い私はまだ新しい私の家 を出ていかなくてはならなかった。まだ見ぬ将来への不安。もう二度と帰って来られないかもしれないという思いで、引っ越し荷物を運び出したがらんとした家 の中で、今と同じ思いの私がいた。そう。あのときと一緒だ。
業者を待ちながら最後の家の写真を撮ったが、一枚も家の中の写真を写すことはできなかった。そして、次の日。家はなくなった。
『清冽』を読 む 若松恵子
子どものための読み聞かせについて雑談をしていた折に、大人だって物語を読んでもらうのはうれしいものだよねという話になった。そして、以前、読み聞かせ の企画の事務局で会場に居て、母親のためにと、茨木のり子の詩を朗読してくれた人が居たのを思い出した。その詩がとても心に染みたという思い出話しをした ところ、雑談の相手が、茨木のり子の評伝が新刊で出たということを教えてくれた。早速書店で探し、表紙の茨木さんの笑顔にぴったりな『清冽』(後藤正治著 /中央公論新社)という題名の本を手に入れて読んだ。
私にとって茨木のり子は、ずいぶん長い間「自分の感受性くらい」の印象しかない人だったが、『歳月』を読んで以来、その人生が気になる存在で あった。後藤氏の評伝は、茨木が言葉を大事にした人であったことを充分踏まえた丁寧な労作で、気持ちよく読むことができた。茨木の人生のいくつかの節目 を、関わった人をクローズアップしながら、詩を引用しつつ紹介していく。
原石にカットを入れることで宝石として輝かせるように、様々な切り口によって茨木が描き出されることによって、ひとつの強い輝きを見せてくれた という印象を持った。様々な面が語られるのだけれど、どのエピソードも、茨木の魅力を同じように語っている。
私が感じた彼女の輝きとは、評伝のなかの言葉からひろうと「無頼」ということになる。何かに倚り掛かって生きようとはしなかったということ、戦 時中も自由を失わなかった金子光晴に心魅かれていたということ、曇りの無い目でたくさんの詩を読み、優れた詩の紹介者であったということ。一貫して茨木は 自分自身であろうとしていた。どこまでも自由に。何ものにもだまされずに。そして「自分」という位置から世の中を見、意味を結晶化させようとしていた。
茨木が石垣りんの作品の魅力に触れて「その体験をみずからの暮らしの周辺のなかで、たえず組み立てたり、ほぐしたりしながら或る日動かしがたく 結晶化させたものだからだ」と述べた文章が引用されている。この文はそのまま茨木の詩の魅力にもあてはまるものだ。私も暮らしながら、遠く起こった事件の 意味を考えている。“動かしがたい意味”が結晶化されているのを見るからこそ、詩を読んで心が揺さぶられる。そして、「暮らしの周辺のなかで、たえず組み 立てたり、ほぐしたり」しながら考える手法というものに女性性をとても感じ、その点にもとても共感を覚える。
茨木の詩を読むことは、子育て中の慌ただしい暮らしのなかに、しばし静かな時間をもたらしてくれるはずだ。
オトメンと指 を差されて(33) 大久保ゆう
よくモノをいただきます。むしろいただきモノによって生かされていると言っても過言ではありません。私の部屋と日常はだいたいがいただきモノか中古で購入 したものか借りてきたものか、といった感じで。いただきモノについては、だいたい次のように分類できます。
1.お菓子
2.お茶
3.まめまめしいもの
お菓子については言うまでもありませんが、甘いものの話をいたるところでちょこちょこしゃべっていたら(「ちょこちょこ」とは「たびたび」を表 す方言でチョコレートのことではありません)、ことあるごとに、いやむしろことないごとにいろんなお菓子をいただけるようになりました。洋菓子・和菓子を 問わず幅広くいただけるので、仕事場のお菓子ボックスはおもちゃ箱のようにいつもあふれております。とりわけこの時期は増えて、チョコレートのお酒なんか もあったりなんかして、食べきるのにだいたい数ヶ月かかったりします。
たぶんこの時期の私に甘いものをやっておけばこの一年おとなしく言うことを聞いてくれるだろうとか思われてるのでしょうが、まさしくその通りな ので何の反論のしようもないというかむしろ喜んでなんでも致しますよ、甘いものくださるのであれば。お菓子をくれる人は私にとってはいい人です間違いな く。学生時代の7年間ずっと同じバイトをやりつづけられたのは、その職場にスイーツタイム(午後3時になるとお菓子がもらえる)があったからにほかならな いからでしょう。
そんな感じでいただいたモノを毎日しょこらしょこらと食べるのですが(「しょこらしょこら」は「もぐもぐ」を表す言葉でチョコレートのことでは ありません)、お菓子につきものと言えばお茶ですよね。これも日本茶に中国茶に紅茶にフレーバーティーに、はたまたタンポポコーヒーなどなど、いろんなお 茶をいただきます。どれもおそらくは海外おみやげとおぼしきもので、いろんな外国語が記されており、そういったタイ語やらヒンディー語やら中国語やらを辞 書片手に読んでいくのが息抜きのひとつでもあります。(そういえばお菓子は東欧・北欧の言葉も多いかも。仏伊もあるなあ。)
しかしお茶の葉はいただいてからすぐに使わないため、しばらく経ってから飲んで「!」と思ってもたいていの場合、誰からどういただいたのか忘れ てしまっていて、二度と同じものを手に入れられないようになっております。一期一会。お茶との出会いは一度きりなので大切にしましょう、と、ひこにゃんの ご主人の子孫もおっしゃっていることですし。
というふうに、いろんなお茶をここあここあと飲みつつ(「ここあここあ」は品よく何かを飲むことを表すといいなという妄想でチョコレートのこと ではありません)、まめまめしく日々を過ごすわけですが、そういった生活に必要な実用的なものもいろいろとゆずっていただいたりするのです。今の仕事場で すと、冷蔵庫とか電子レンジとか仕事机とか本棚とか椅子とかあれとかこれとか。仕事を始めるにあたっての初期投資はいただきモノによってものすごく少なく 済んだのでした。
もちろんいただいてばっかりではなくて、お金がないので同じような立派な贈り物はなかなかできないのですが、お住まいが近くの人には手作りのも のであったり安くても自分のお気に入りのものであったりを差し上げて、遠くにお住まいの方はなかなかそういう機会もないので、こつこつと頑張っていること などを示すなどして、いつかは何倍にもご恩をお返しできるといいなあと日々思いつつ生きている次第です。
ぺけぺけ(「ぺけぺけ」は当連載でも何度か出てきている執筆擬音です)、しょこらしょこら、ここあここあ。
いつもありがとうございます。
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